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「百姓」は百姓であったのか?
~江戸時代の「年貢」は重かったのか(2)
「百姓」は「すべての人民」を指すことば!
私たちは「百姓」というと、瞬間的に、「百姓」=「農民」という脳内変換がおこなわれる。しかし、それは正しいとはいえない。
本来、百姓とは「百の姓(かばね)を持つ人々」という意味で、「百」という数字は「すべて」というニュアンスを持つ。したがって「百姓」とは「すべての人民」という意味であり、律令制が確立する中で皇族と官人貴族、奴婢が脱落し、中世には有力武士なども「百姓」から離脱していった。しかし、戦国時代においても、大部分の武士も商人も職人もすべて「百姓」であった。こうした認識は、江戸時代後期の知識人にも共有されていた。
そもそも、兵農分離以前の戦国期では、農民が農閑期に具足をつけ槍などを持って戦争に行くというのが普通だったし、手工業の職人も農村に住んでいた。身分は渾然一体として存在し、その境界は流動的であった。低い生産力のなか、いかに生き延びるかが課題であった。
「百姓」は秀吉政権で「再定義」された
秀吉政権のもとで急速に進んだ兵農分離によって、武士として生きることを決断した人々が城下町に集住し、百姓から離脱した。それを望まないものは百姓として農村に残ることを決断する。その象徴が刀狩りである。百姓として生きることは武器を手放すであった。
ただし「刀狩令」は象徴的な法令であり、多くの武器が農村に残されていた。しかし「百姓」として生きることを選んだ人たちはその武器を百姓一揆などで用いることはなかった。刀や銃はもちろん竹槍すら、基本的には用いられない。
さらに、中世の「百姓」の解体が進む。近世になって、大名の居城と城下町の整備が進んだ。城下町は、大名領行政の中心であり、最大の消費地であり、保護政策もあった。このため、農村などに住んでいた商人や職人の多くも、ここに移り住む。城下町で土地と屋敷を得て生きることを選んだ人々は「町人」となり、残ったものが「百姓」身分を形成する。
また、それ以前の歴史的背景の下に、周辺の共同体との交流が少なく、雑業に従事していた人たちのなかから、おもに皮革生産や行刑役などを担わされてきた人々も「かわた」身分などとして分離・固定される。こうして、中世の「百姓」から武士や町人、さらに「かわた」などの身分が分離され、近世「百姓」身分が生まれる。
農村に残ることになった多くの人民が近世の「百姓」身分として把握された。秀吉政権は、かれらを「農業専一の民」、人々に食料供給の「役」を担う身分と定義した。「石高制」を導入し、経済の根本に「米作」をおいたことで、近世「百姓」は「米をつくり、米で年貢を納める百姓」という現在に至るイメージが定着する。
「農村に住み、食料を提供する『役』」を担う身分
このように兵農分離以後の百姓身分とは、「町」(=城下町等)以外の農村に住み、「年貢」などを通じて「米」など食料を供給して社会を安定させる「役」を担う身分、こうした役割を期待されて把握された身分として「上から」定義された。
しかし、よく考えると、この定義には無理がある。それまでの「百姓」は、「家」ごとに、あるいは個人で、いろいろな仕事や「役」をこなしてきた人々である。それを米作中心の「農耕専一の民」と「定義」することには無理がある。実際の「百姓」は多くが正・副業をもつ兼業農家であり、林業や水産業などを主(ときには専業)とする人々も存在した。農村に住みながらも、商業や手工業、サービス業などに一定の時間と労力を費やすもの、城下町の郊外の「村」から「町」へ「出勤」するもの、城下町以外の「町」(「在郷町」)で商業や手工業やサービス業に従事する人、こうした人々もすべて「百姓」であった。
逆の場合もある。城下町などの町場で農業を行う「農人」は「町人」身分に位置づけられる。さらに、農村や都市近郊に住み、農業を営んでいても「皮革生産」や「行刑」などを担う人々は「百姓」として認められず、農村に住んでいても「僧侶」は「百姓」ではない。
このような「百姓」を、領主は主として「米」で本年貢(「本途物成」)を納める身分として位置づけた。その結果、年貢捕捉率でいえば、「米」は高いが、他の作物や収益源については非常に低くなる。「米」を年貢としてとるかわりに「麦」・雑穀といった裏作、さらには内職などの収入源の多くを百姓の生活維持用に残したともいえる。
ついでにいえば、こうした位置づけは、農民のみならず商工業者も含めた位置づけでもあった。社会を維持するための負担は米作農民に担わせ、商工業者などの貢献はあまり期待していなかった。ところが、貨幣経済が発展し商工業が発展するとこの財政面の矛盾が広がる。斜陽産業である「米作」に頼り、躍進する商品生産や商工業にはなかなか手がつけられなかったのだ。
厳密な意味の「百姓」は「百姓」家の「家長」のみ
身分はとらえ方に応じて、いろいろな捉え方ができる。
もっとも厳密にいえば、「百姓」とは、年貢納入と「村」政に責任を持つ「家」共同体の「家長」として「村」と領主から認められたものに与えられる身分である。それ(狭義の「百姓」など)以外の家族は正式には「百姓○○の嫁」「倅」「隠居」という身分である。分家しても、先の条件を満たせば晴れて「百姓」と認められる。寡婦は「百姓○○後家」という身分とされ、「家の長」という意味もあって、制約はあるものの「百姓」に準じた身分とされた。
ついでにいえば「町人」も同様である。土地と屋敷を持ち、「町(ちょう)」政に責任をもつ家族・経営共同体の長のみが町人であり、その家族は百姓と同様である。さらに、そのもとで働く奉公人は奉公人(「番頭」「手代」「徒弟」「丁稚」など)という身分であり、「町人」の持つ借家に住んだり,仕事をするものは「店借(たながり)」「店子(たなこ)」「地借」(ちがり)」などといった身分である。
農村において土地を持たず村の会議に参加する資格のない「水呑」身分が正式には「百姓」でないように、都市に住む奉公人や雑業に従事するひとびとも正式には「町人」ではない。ただ農村の多数派が「百姓」家族なのに対し、都市の場合は「町人」家族は少数派である。
米作に従事する「農耕専一の民」というフィクション
すでに見たように、近世「百姓」とは、いろいろな仕事にかかわっている人々に「おもに米作によって食糧を供給する」というフィクションをおしつけたものである。
米作を主としながら趣味でつくったものを自家用に使い残りを販売し、たまにバイトをするというにはとどまらない。
帰農した武士たちは、広い土地をもちつづけ、そこを隷属民や周辺住民に耕作させ、小作にだす。酒造や製薬などの手工業や金融業などを営むこともある。かれらも「百姓」である。大工や鍛冶などの職人の仕事をメインにするもの、わずかな耕地しかもたず漁業や林業を本業とするものも「百姓」である。網元や山持ちも「百姓」なら、網子やマタギなどの多くも「百姓」である。広義の「百姓」とはさまざまな営みによって食料生産を担う役割を持った人々の総称ともいえる。
「村」のなかには、土地を持たず「村」の寄合に参加できない「水呑」や「無高」、わずかな土地しか持たない「小前」も含んでいる。彼らは土地を借り小作人として働いたり、村内・外の百姓の仕事を手伝ったり、村仕事を代行するなど、いろいろな「賃労働」に従事した。史料上現れにくい他の「職業」に従事したものも多かったと思われる。結果として、「村」には、検地帳に記された持高だけではとうてい経営上成り立たないはずの人々が多数住んでいた。それでも過剰な人口は町場への奉公や出稼ぎなどの形で放出された。
時代が経ち、農業の仕事が高度化すると、賃労働への依存する人々の労働圏は広がり、専門化もすすむ。富山の薬売りなどの行商人の多くは百姓であり、杜氏(とうじ)とそれに率いられた酒造労働者として酒造業を支えたのも多くは「百姓」である。立場が固定化された「村」のあり方や低賃金を嫌って、都市へ一時的・長期的に移るものも増えていく。人口増加が頭打ちになり、人口流出がすすむことで農村部での賃金も上昇していく。
なお、都市への進出は、出稼ぎなどの賃労働への従事や「人減らし」の性格を持つ「奉公」などだけではない。地方での蓄財を背景に都市にブルジョワジーとして乗り込んだり、「村」を嫌い「都会にあこがれた」ものなど、これも多様であった。
さらに、時が経つにつれて、農村部でありながら街道沿いなどでは、商業や手工業、サービス業をメインとする「百姓」が住み着いて「町場」を形成する「村」も生まれる。こうした「村」では、大きな仕事をしている「小前」「無高」さらには「水呑」が登場する。
身分制が「溶解」しつつあった江戸末期
十九世紀に入ると江戸・京・大坂など大都市の人口減がみられる。これまでは、経済の停滞と見られてきた現象である。
しかし、精査すると、在郷町といわれる農村部の中小都市の人口増が大都市の減少分以上を吸収したことがわかってきた。農村から流出した人口が大都市から地方都市に向かい、その地で商工業やサービス業などに従事したのである。かれらの身分も「百姓」である。「農・工・商」という身分秩序は「溶解」しつつあった。
各大名家など領主の財政難によって武士身分も「溶解」しつつあった。武士たちの「内職」「バイト」はもちろんのこと、娘や次三男などは商家や富裕農などに嫁や養子として送り出された。最下級武士はリストラされ、「武士」の仕事は「外注」されはじめる。江戸では各大名家を対象とする「『労働者』派遣業者」が生まれ、参勤交代の江戸入りや江戸城登城は「派遣業者」を通じて集められた「バイト」によってまかなわれた。井伊直弼が桜田門外で襲われたとき「バイト」の「武士」たちは一目散に逃れた。逆に、戊辰戦争で勇敢に戦った幕府陸軍の兵士は彼らが担っていた。みごとな入れ墨がある戦死者もいた。
逆に、武士になることをめざした「百姓」「町人」たちは、献金などの代償として、あるいは武士の家の養子となり「株」を得るなどの形で「武士」となった。幕末で重要な役割は、こうした「武士」によって担われていた。ここでも身分制は「溶解」しつつあった。
領主たちはどのように課税したのか
こうした事態を招いた背景は、成立時にすでに存在していた百姓の実態と「農耕専一」「稲作」中心を前提とした課税制度のあいだの矛盾がある。
近世においては、水田など検地された土地から米で取り立てる本年貢(「本途物成」)が税制の基準であり、それ以外の税収はあまり重視されていなかった。
山林原野や湖沼河海など検地を行わない土地からの収益に対して「運上」や「冥加金」など「小物成(こものなり)」の課税もあったが、きわめて低率であった。こうした負担は関係するものたちで分担され、米や貨幣で納められた。
漁業や林業などの専業に近い村々では、検地が行われず土地面積が定められていなかったが「野高・山高・海高」が定められ、畑地や屋敷地のような換算にもとづいて定められた村高で年貢を納めるところもあった。畑が多い地域などでは米納でなく、現物納の所もあった。商業や加工業などに従事する者に対しては「浮役」という営業税が課されるようになっていくが、本途物成や小物成が毎年課されるのに対し不定期・臨時的であり、その額も流動的であった。
江戸後期には貨幣で納める「石代納」(石高で納めるべき米を貨幣に換算して納入する)や「金納」などが増加、幕末の天保期に米納の割合は四割にまで落ち込んでいく。
「百姓」の多様性を見ず「米」をつくる「農耕専一の民」というフィクションのもとに組み立てられた近世社会の課税に問題が隠れていた。時代が進み、農業の多様化・多角化にとどまらず、経済全体の第二次・第三次産業化がすすむなかで問題は一層深刻化した。
領主側の「場当たり」的な対策
これにより、社会の発展に対応できない幕府や大名家といった領主側の困窮が強まる。
その対策のおおくは場当たり的であった。そこでとられた「半知」「借知」といった武士への俸禄の引き下げやリストラが武士身分を「溶解」させたのは先に見た通りだ。さらに、新たな事態を背景にともなう専売制など重商主義的手法は、多くの場合百姓側の激しい反発を買った。
こうして領主側はさらなる場当たり策にでる。貨幣鋳造権を持つ幕府は貨幣改鋳という手法を用い、諸大名家は大坂などの金融資本からの多額の借金と「藩札」(「地域通貨」)発行で運転資金を得る。
幕末には、領内の有力ブルジョワジーなどへの「御用金」という臨時課税(借用)が多用される。ある面では、近代的徴税における「所得税」「法人税」を「御用金」という形をとっていた面もある。
なお、幕末期の「藩政改革」に成功した雄藩は金融業者に債務放棄・期間延長を迫るという強硬な手法と専売制の強化などを用いる。なお、この手法は、明治以降、国家的規模でとられる。幕藩体制下の領主たちの「つけ」と幕末維新の「つけ」は、明治初期、東京や大阪・京都などのブルジョワジーに債務放棄を強いる形で解消される。彼らの犠牲によって、近代日本の財政が動きはじめる。江戸期に払っていなかった「法人税」を一挙に支払わされたといういい方もできるのかも知れない。
「村」が処理した年貢やトラブルと「地方税」
近世の課税について考える際、もっとも重要なシステムが「村請制」である。
百姓たちの負担は、村ごとに合算され、村役人によって個々の百姓から徴収され、村役人の責任で納入させられるとのシステムである。年貢に関わる矛盾は、「村」内外のトラブルとともに「村」によって処理された。はるか昔に定められた村高に応じて課される本途物成と、原則がないまま課税されるそれ以外の負担は、村請制という枠の中で処理された。個々の百姓からの徴税に当たるものは村役人であり、「村」内の百姓たちの意識が高まるにつれて、「実態として課税の平等」に近づくなんらかの「村のルール」が生まれた可能性がある。
江戸後期の財政危機は、別の形をとっての百姓らへの負担増となった。幕藩体制下では河川・用水や道路改修といったインフラ整備の多くが「仁政」という建前で領主が負うべきものであった。財政危機はインフラ整備費用の削減を招き、事業主体は「村」「町」といった自治組織、百姓・町人へと移行してきた。これによって村費・町費の増加を招く。現在風にいえば「地方税」が増加したともいえる。インフラ整備は個々の「村」では担いきれず、より規模の大きな自治組織を必要とした。とくに、所領が入り組んだ関東などでは所領関係を超えた自治組織も生まれる。
このように、封建領主のなすべき「役」が実施されないなか、自らの生産と生活にかかわるコストを自分たちの近い部署で担う近代的な租税の原理が動き始めていた。
実態にそぐわない「税制」と百姓
「農耕専業」「米作中心」とみなされてきた百姓たちだが、実際は村内・外の多様な収入源と村請制を前提とする互助機能で、生活と経営を維持していた。しかし、江戸後期になり、市場経済の進展、資本主義化の進展は、百姓の賃労働者化を加速し、その一部は高い賃金を求め流動性を増していく。主要産業が農業ではない「村」も次第に増加していく。百姓のなかから農民の要素が薄まりつつあった。
資本主義の影響が農村部に浸透していくにもかかわらず、そうした事態に適合できる課税の仕組みを準備できないまま、近世社会がつづく。都市や「農村」での商工業の進展という結果が発生するが、他方で旧来の「百姓」のあり方の固執する封建領主階級の困窮をも引き起こす。
江戸期全体を通じて、米にかかる本年貢(「本途物成」)以外の課税のルールは整備されないまま、見て見ぬふりがつづく。ときには臨時課税をもともないつつ、矛盾は村請制をとる「村」に丸投げされる。財政が厳しくなり「御用金」という形の臨時課税への依存も高まる。たしかに、専売制の導入や「藩」営企業などによって収益を確保しようとした有力大名家も存在した。こうした手法は、多くの場合、百姓の強い反発を招くため、踏み切れないことも多い。こうして、多くの地域において百姓たちは、生産力上昇の恩恵を獲得する余地を広げていった。
百姓の生活全体の中で「年貢」を捉えること
農業生産力の上昇をうらづけようと、稲作の単位面積あたりの収穫高の変化を調べようとした。しかし都合のよい研究はなかなか見つからない。その背景には、検地が長らく行われなかったことがあるし、年貢徴収の丸投げもあるだろうし。年貢増徴や各種租税の引き上げにつながることを恐れた隠蔽工作など様々な形をとった百姓側からの抵抗もあっただろう。
しかし、同時に百姓の収入源はもともと多彩であり、時代を経るにつれてさらに多様化する。
利益を得にくい稲作改良への意欲は低下し、利益の得やすい裏作や他の収入源へ目が移っていったと考えられないか。畿内などでは、利益の多い作物や第二次・第三次産業で得た資金で、価格の下がった米を買い、年貢として納める方が経済合理性に沿った行動となっていたとされる。特産物生産が広がりを見せ、農村工業も発展すると、米作は主要産業の座から降りはじめていた。年貢徴収も米作の改良への意欲をそぐ。
こうした情勢の中、「米」に主力をおいた幕藩体制の財政のあり方は、多様な「百姓」たちの懐をつかめなくなっていた。「百姓の貧しさ・豊かさ」はその経営全体のなかで考えるべきで、石高に占める年貢の割合のみで百姓の苦しさを説くことは当を得ていない。
百姓たちにとって、米作は、近世当初から自らの生産の一部を占めるにすぎなかったし、時代が下るにしたがってその割合はさらに低下する。百姓の生活に占める年貢の割合は、かつて考えられていたほど決定的なものではないし、時代とともにその持つ意味も低下していたのである。
江戸時代の百姓像をみなおす
1:江戸時代の年貢は重かったのか?
2:「百姓」は百姓であったのか?
3:稲作にかかわる数字と仕事
「百姓成立」※この内容をより詳細に論じています
1:近世「百姓」の成立と「百姓成立」
2:「村」と「稼ぎ」~「村人」を支えたもの
3:幕末・維新期における「百姓成立」
その他、次のようなページもあります
1:江戸期の社会~身分制度と農民
2:近世末期の自生的「近代」を考える
3:幕藩体制と「国民」の萌芽的形成