江戸時代の「年貢」は重かったのか?

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江戸時代の「年貢」は、本当に重かったのか?  ~江戸時代の「百姓」像を見直す(1)~

苛斂誅求で苦しい生活を強いられた「百姓」?

私の小学校・中学校のころまでの歴史のお話や教科書の記述での江戸時代の「百姓」・農民のイメージは次のようなものだった。

年貢納入の様子(帝国書院「図録日本史総覧」P153)

「江戸時代の「百姓」・農民は武士の苛斂誅求の下に置かれていた。収穫高の5割、ひどいところでは6~7割などというところもあった。『百姓は、生かさぬよう、殺さぬよう』(本佐録)とか、『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど 出るものなり』(神尾春央)といわれた。」といわれた。
漫画でいえば白土三平の「カムイ伝」の世界であった。
近年になって、こうしたいい方は減ったものの、どこかでこうした江戸時代の「百姓」・農民への感覚が隠れているように思われる。こうしたいい方は妥当であろうか。
いくつかの事実を確認しながら考えていきたい。

出発点としての「太閤検地」

出発点となるのは、やはりまず「太閤検地」からである。

帝国書院「図録日本史総覧」P142

豊臣秀吉が山崎の合戦直後に開始した「太閤検地」では、日本全国で田・畑・屋敷地の土地、一枚一枚を調べあげ、所在地、耕作者、面積、土地の予定収量(「石盛」)、そしてそれぞれの土地の予定収量を「米」で表した「石高」などを明らかにした。さらに「村」ごとに集計され(「村高」)、それに基づく年貢が「村」ごと命じられるようにし、原則として年貢を「米」で納入させるようにした。
この年貢によって武士たちの生活を維持し、大名などの領主の「格」などを定め、準備しなければならない「軍役」(それは参勤交代の規模に直結する)なども定めらた。こうして、「石高制」が近世社会の基礎を作った。
そして、江戸時代になっても「検地」は実施される。
したがって年貢を考える以上、「検地」について再検討が必要となる。

全国規模の検地は何回行われたのか?

江戸時代、全国的な規模の検地は、何回行われたのであろうか?答は0回、一度も行われなかった。
たしかに、慶長の検地、延宝の検地、元禄の検地などが行われたが、いずれも、その規模は限定的であった。
過酷な検地として知られる「慶長の検地」の対象も、「幕領」と関ヶ原のたたかいの結果、改易となったり、減封、転封となったりした大名領に限定されており、全国的とはいえない。その後の検地も「幕領」(天領)中心であり、18世紀になると新田の関係に限定されていく。特定の大名領でも実施される。
つまり、全国的規模の検地は、豊臣秀吉の時代の天正の石直し(いわゆる「太閤検地」)のみであった。それ以来、300年近く、江戸時代の石高制は秀吉時代の調査と、そのときの基準を前提に維持されてきた。そしてそれによって年貢が賦課されてきたのである。
このことは、次の新たな疑問を生み出す。
秀吉以来に続く300年近くの江戸時代の生産高の上昇をどれだけ把握できていたのか。

新田開発がすすんだが…

太閤検地が行われた16世紀後半から、徳川政権が確立していく17世紀というのは、日本史上、もっとも新田開発が進んだ時期である。教科書によると、田畑は二倍近くに増えたと記されている。こういう風に記録に残っているということは、ある程度、新たに開墾された土地が領主によって把握されたことを示している。

<新田開発の進行>

この時期に増えた田畑(「新田」)についてみていこう。
まず、中世・戦国時代以前の田んぼはどこにあったのか?
われわれは、田んぼといえば、ひろい沖積平野に広がった広大な田んぼを連想し、そういった田んぼが「上田」で、現在問題となっている中山間地の田んぼは「無理をして開拓した」生産性の低い田んぼと見なしがちである。

新田開発と石高の増加(帝国書院「図録日本史総覧」P162)

しかし考えてみよう。大阪平野や濃尾平野、新潟平野といった沖積平野は、洪水によって土砂が積もって海が埋まってできた土地であり、勝手気ままに流路を変える大河川の氾濫原である。こうした場所に田んぼを開くには、頑丈な堤防を築く必要があった。だから、ここに田んぼをつくるのは、大変だし、失敗するリスクが高かった。
したがって、この時期の田んぼはちょろちょろした川の水を引き込みやすい、主に中山間地が中心であった。中世荘園の多くが山中にあるのは、こうした理由による。沖積平野に新田を開いても、数年ごとにおそう洪水の被害に対して百姓だけでは無力であった。

<「大開発」の時代>

戦国時代は「富国強兵」の時代である。戦国大名は、少しでも生産力を上げることで、経済力で田の国を圧倒しようとした。こうした話で思い出すのは、武田信玄による「信玄堤」である。戦国大名たちは、用水路を整備し、堤防をつくることで、これまで使えなかった土地を水田に変えていく作業をおこなったのである。水を得にくい扇状地や台地に用水路を引いた

新田開発の実際(山川出版社「詳説日本史図説」P

さらに、大河川に堤防をつくって、平坦で肥沃な沖積平野に「新田」を開発する。各地に散在していた湖沼を埋め立て、新たな「新田」を開く。これが16世紀から17世紀の「大開発」の時代である。
こうした作業に、直接、間接に領主がかかわっていた以上、こうした土地は開発と同時に検地が行われることになる。他方、その耕地に入植した百姓にとっても、優遇策が実施され、土地耕作者としての「保有」権を認められたので、検地の実施には肯定的であった。こうした時代が16世紀~17世紀にかけてすすみ、耕地は2倍近くに広がり、年貢も増収となった

<いつの間にか?広がっていた田畑>

ただ、「新田」開発はこうした大規模なものばかりであったのだろうか。
また、すべての新田で、きちんとした検地が行われたかは別である。新田の開発のもう一つの方向は、村や個々の百姓の手によって入会地や原野などを「ちまちま」と開発していく流れである。村の耕地が「いつの間にか広がっていた」などという場合は、把握が困難となってきたことが予測しうる。

検地による村高の増加は、村全体の年貢増につながることであり、それを避けようという動機も生まれる。検地が、個別農民にとっては土地保有権確認の要素をもったとしても、村としては年貢上昇につながり、迷惑な話でもある。江戸後期には、領主権の弱い地域では、領主によって土地保有が確認されていない土地が広がっていた。そして、幕末には、検地を受けていない土地の売買や質入れが大問題となったという記録もでてくる。その問題は、領主との間でなく、売買関係者の間で発生する。土地所有(保有)権がはっきりしないものを売買するのであるから。
こうして、年貢徴収の基礎となる「村高」自体が、実際の「村高」とずれることが発生した

「石高」は現状を把握していたのか。

まず、収穫予定高と年貢、村高の計算式について示したい。

<「石高」の計算式>

農地には、日当たりがよく地味が肥えているなど多くの収穫が予定される土地がある一方、石ころが多く日当たりが悪い、さらに水の供給ができないなどあまり収穫が期待できない土地もある。そこで、太閤検地では、たくさん収穫がとれそうな土地を「上田」、だめな土地を「下田」「下下田」などという評価を行い、それぞれ1反(=10畝=300歩)あたり上田からは1.5石、中田からは1.3石、下田からは1.1石、そして下下田からは0.9石の収穫がとれるという風に考えた。(石盛)

年貢米の計算方法(山川出版社「詳説日本史図説」)

村にある土地は、水田に向かない畑地もあれば、屋敷地(ここで野菜なども作っているのだが)もある。そこで、畑と屋敷地は、上畠と屋敷地1.1石、中畠9斗 下畠7斗 の米のとれる土地として石盛した。この「石盛」は1反(約10アール)あたりでとれる予定量であるから、実際の田・畑・屋敷地の広さにこの「石盛」を乗じれば、一枚ごとの予定収穫高が推計でき、次の式が成立する。

土地の広さ(反)×「石盛」(土地の等級による定数=石)
              =「石高」(収穫予定高(石))

<「村高」の計算式>

この石高に、それに年貢の掛け率、たとえば「五公五民」なら、年貢賦課率は、収穫予定高(石高)の50%となり、それが領主の取り分=「年貢」となり、のこり50%が百姓の取り分となる。「六公四民」なら年貢率60%となる。
計算式にすると次の形となる。

収穫予定高(石)×年貢率=年貢高(石)

たとえば、上田6畝(180歩)の土地があるとすれば、0.6反×1.5石=0.9石の収穫があると推計され、その土地の石高は0.9石(9斗)とされる。
五公五民(免五分)なら、半分の0.45石(4斗5升)が年貢高として納めることが命じられる。
これを百姓家の保有する田・畑・屋敷地、一枚ごとに計算・積算し、一戸ごとの年貢高が定められる。

<下田が上田に変わったときはどうなる?>

しかし、ここに一つの条件、たとえば用水の供給が困難だった田んぼに用水路ができればどうか、堤防で水がつきやすかった水田でのリスクが下がれば、下田は一挙に上田へと変化する。こうした、田地の変化をどれだけ領主たちは把握できたであろうか。
のちにみるように村請制の建前から、「百姓の世界」への領主の介入が困難であった以上、村の土地の実面積や実収量などの把握は困難で、年貢にかかわる改革を実施するには、多くの場合領主側と百姓側の相互諒解が必要であった

年貢は「村」ごとに納められた(村請制)

年貢は、百姓一戸ごとに納めるのではなく、村ごとに納めた。先ほどの計算式は、実際には、村全体の石高(「村高」)が集計され、また村に賦課される合計の年貢額が決定され、村役人に通知され、それにもとづき村役人が各百姓の年貢高を計算し、納入させ、最終的には全額を納入するシステムとなっていた。(村請制)

○○村の村高=村人Aの土地の石高+Bの石高+・・・・
○○村の年貢負担高=村人Aの年貢負担額+Bの年貢+・・・

こういう計算式も成り立つ。

○○村の村高=村の上田の全面積×1.5+中田の…×1.2+・・・
○○村の年貢負担高=上記、村高×0.5(「五公五民」の場合)

実際にはこうした計算で出された村全体の年貢高を、村役人が各戸に割り当てる
割り当てる方法について、原則として領主は口を出さない。領主とすれば、年貢が皆済されれば文句ないのだから。

「村」のルールと「内済」

「村請制」は、あらたな慣習を生んでいく。

領主からすれば年貢さえしっかり払ってくれれば、村の細々とした出来事は問題視されないということである。
示した村高に基づいて、年貢が村の「百姓」たちにどのように割り当てされようと、実際に村でどのような作物を作っていようと、年貢が皆済されてさえいれば、重要視されないのである。
さらには治安維持に対しても、村内で対応しうるものについては村内で対応し、「内済」ですます傾向も強まる。
村の中では、村の再生産(「百姓成立」)を維持するために、用水や入会地管理などにかかわる村法が整備され、「村八分」などの強制手段も存在していた。
領主側からすれば、村内の秩序を揺るがすような余計な禁令などを出して、年貢収入に影響を出す方がよほど大変な問題だった。
かれらが問題視するのは、まず年貢皆済が困難になった際の対応であり、そうした事態に対し村役人のみで対応不可能になったときである。
つぎには、村役人の不正や慣習的な利益構造への不満が高まり、村の秩序維持が困難となった場合(「村方騒動」)である。こうした場合には、領主が介入し、村役人の威信を担保したり、逆にその交代を指示したりした。「入札」(選挙)による村役人の選出とその承認というケースも生まれた。

年貢の取り方・「検見法」「定免法」

さきに「石高」(そして、「年貢高」)は、耕地の広さに「石盛」を掛けて導き出した。

検見法と定免法(帝国書院「図録日本史総覧」p180)

しかし、土地の反当収穫予定量である「石盛」の基準は妥当だったのであろうか。実は、この数字は高めに定められていた。太閤検地の時期において、この数字はかなり高かったと思われる。にもかかわらず、このような数字で決められたのにはある条件があった。
農業は自然相手の仕事だから、豊作もあれば不作もある、台風や大水などもある。したがって、その年の作柄を確認するために、米がどれだけとれたのか、それを玄米にしたときの量はどうか、といった内容を毎年調査した。これを「検見」(けみ)という。
奉行が一方的にやったように思われがちだが、実際には、武士たちが、一定の広さ(一坪)の田んぼの収穫を行い、どれだけの籾・玄米がとれるかを村の住民立ち会いの下に調査し、収穫高が、上記「石盛」に満たないときは「石盛」の水準(掛け率)を引き下げたり、天災などで使用不能になった耕地などの収穫高を減免するシステムがあった。なお、豊作だからといって、増やすことはしない。(「畝引検見法」)
なお、この調査の際、村できるだけ収穫が悪かったように報告してもらうため、「お役人」様たちへの接待攻勢が繰り広げられた。そのための出費は村の大きな負担となった。しかし、あまりに態度が悪い「お役人」様にたいしては、しっぺ返しを食わせる手段も村人たちは持っていた。
ともあれ、高く見積もって、どんどん減免していくのが太閤検地段階のやりかたで、予定収穫高「石盛」に満たないことは「想定内」であった。その後、担当収穫高がたかまるにつれて、想定内の「石盛」に近づき、そしてそれを超えていく。そして、この原理が維持され続けたため、村・百姓の手に残る収穫は、生産力の増加とともに増えていった。

18世紀前期の享保年間ごろになると、検見の実施にかかる手間を削減するため、数年間の年貢高を平均して納めさせる定免(じょうめん)法」)が広範な地域で導入される。
これを契機に年貢増が図られ、年貢高が最高潮に達した。この時期の苛斂誅求がもっとも激しく、一揆も頻発した、というのが通説である。しかし年貢高が固定したため、百姓の手による新田開発が進み、収穫が実際にふえたことが年貢増につながったとの説もある。
その後、いったん定免法を採用したものの、それをやめて再び検見制を復活、それと合わせて実態に合わない「石盛」をキャンセルし実生産高に近づけて年貢を賦課しようという有毛検見(ありげけみ)法」を採用するところもあった。定免法をやめたこと、年貢増徴につながることもあったことから、一揆が発生したこともある。

幕領の総石高と年貢収納高(山川出版社「詳説日本史図説」)

こうした村・百姓側から動きもあって、年貢は固定化の傾向を強めた。幕末頃の年貢率は30~40%程度といわれている。農民の手に残った米は、領主⇒商人のラインで販売される「蔵米」と並行して百姓⇒商人の流れで出荷され、「納屋物」として流通された。米価の低下などを背景に酒造業が地方にも広がっていった。

田んぼでは米だけを作っていたのか。

水田の場合、年貢は「米」にかかっている。しかし、田んぼでは米ばかりを作っているのではない。

教科書では、鎌倉時代や室町時代の経済のところで、「二毛作、さらには三毛作も普及してきた」との記事がある。当然、江戸時代には二毛作が、西日本を中心に広がっていた。ならば、米作りが終わったあとの水田で栽培されている作物(裏作)の年貢はどうなっているのか。結論からいえば、年貢はかからなかった。武士の論理からしても「表作の米は年貢のためのもの」「裏作の麦などは百姓の生活を維持するためのもの」とされていた。
郷土料理にうどんなど小麦の料理が多いのも、こうした事実を反映している。麦が第二主食という地位を占めたからである。
さらに、家計が厳しくなったときだけでなく、米価が上がり高収入が見込めるとき、「百姓」らは自己消費用の「米」を販売にまわし「麦」などで生活をするという例もあった。生活が苦しかったからという論点もあれば、その方が儲かったからという論点も存在する。

「年貢」は本当に重かったのか?

おもに検地と年貢納入を中心に話を進めてきた。
農民の生活は、最初に記したほど苛斂誅求の下に置かれていたのではなさそうだということが見えてきたように思う。
しかし、百姓の生活にはまだまだ秘密が隠れている。
たとえば、裏作の話をした。これを聞いて、日本海側などに住む人から疑問が出されそうである。自分たちの地域では、田畑は冬場、雪におおわれている。裏作は基本的に不可能だ。では、裏作可能地域の裏作の分はどのように保障されたのか。すぐ頭に浮かぶのが、出稼ぎ。機織りなどの内職。しかし江戸時代、人間の移動、しかも季節的移動がそんなに簡単にできたのか。
また江戸中期頃から、特産物ができたとか、貨幣経済の流行などの話が教科書などに出てくる。こうした話と、今回の話との整合性は。
さらに、農業生産力が上昇したというのだが、いったい米はどれくらいとれるようになったのかという話もできていない。

さらにつづけて、こうした話を考えながら、江戸時代の「百姓」の生活について見ていきたい。

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