日本近代史をどうとらえるのか ~まとめと展望

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日本近代史をどう見るか
  ~全体の総括的まとめと展望

<目次・リンク>

  1. はじめに~近代日本をどう捉えるのか
  2. 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
  3. 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
  4. 「開発独裁」政権としての維新政府
  5. 「明治憲法体制」の矛盾と展開
  6. 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
  7. 戦時体制下の「革命」と戦後社会
  8. 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望

プレ国民国家としての近世日本

近世の幕藩体制は、将軍と天皇を頂点とする公儀体制という小「帝国」的な構造をもつプレ国民国家の性格を持っていた。資本主義国家のメルクマールの一つとされる貨幣鋳造権や度量衡の統一は江戸幕府以前、豊臣政権下ですでに成立していたし、江戸期は経済面でのインフラの多くを幕府が統一的に掌握していた。支配層の間では参勤交代と江戸など主要都市の大名屋敷の存在を背景に大名家の枠を超えた交流が可能であった。蝦夷地や琉球王国も含めた全国規模での流通・交易網が整備され、時期が下ると流通・交易網は諸大名家領内部・農村市場にまで浸透、地域的な交易圏が形成され、国民経済市場が生まれつつあった。このことは、国民教育の普及を準備したし、出版の隆盛は文化や学術の全国化を促し、言語・文化・芸術などの共通化も基盤も準備されていた。前代から全国的規模で信者を獲得してきた仏教教団は幕府の命をうけ全国組織を整備、伊勢信仰や富士信仰をはじめとする民間信仰も全国規模での広がりを持ち、旅行ブームが幅広い階層の間で流行した。諸身分は天皇を頂点とした家元的支配でもむすびつけていた。
のちに「藩」ということばで表現される諸大名領は、半独立国的性格の強い大名領とともに、幕領・大名旗本領や寺社領などが錯綜し多くを「村」共同体の自治に依存する非領国地域も広く、単純に封建的な地方分権社会としてはとらえることのできない社会であった。こうした地域では領主を超えた行政も整備されていく。
経済的・社会的・文化的な面での「交通」が活発化するなか、知識人や武家のみならず農村指導部や多くの町人の間に「日本人」という国民意識を生みだし、プレ国民国家ともいうべき事態が生まれつつあった。

主権国家体制への包摂と攘夷運動

開国・開港によって、日本は主権国家体制へ組み込まれ、世界資本主義の洗礼をあびた。世界資本主義への包摂は、日本経済を大きく揺さぶり、経済的・社会的混乱を引き起こした。そのショックの大きさこそ、日本ですでに新たな経済システムが準備されていることの反証でもあった。全国の物資は横浜港など集まり、国内市場は経済法則に従って世界経済と結合する形で改編された。貿易額は欧米諸国の予想を上回って急速に発展し、植民地化による「開発」はもちろん、「内地開放」すら不要であった。したがって列強諸国、とくにイギリスの対日政策の基本は自由貿易となる。
幕末社会の成熟とプレ国民国家の形成は、ペリー来航に始まる主権国家体制への強制的な包摂の動きを「屈辱感」というナショナリズムでうけとめ、攘夷運動をまきおこす基盤でもあった。しかし、「屈辱」感をばねに広がりをみせた「攘夷」は、幕末の動乱をへて感情的な反発をこえて「条約破棄・再条約締結」へ、さらには欧米諸国の圧倒的な軍事力や科学技術を受け入れて開国和親による条約改正をめざす方向へと変容をとげていく。

「公議政体論」とその挫折

ナショナリズムは「近代国家」を模索する動きをも作り出す。
そうしたなかで、幕府や有力大名をはじめとして挙国一致体制(「オールジャパン」)への模索が始まる。幕末の政局は、天皇を中心とする点(「尊王」)では一致しつつも、具体的なあり方、近代化の主導権をめぐり激しい抗争を引き起こした。
紆余曲折ののち、大政奉還・王政復古を経て、薩摩・長州出身者を中心に、いったん公議政体論にもとづくオールジャパン体制が生まれる。同時にこの指導者たちは幕末の政局のなかで、天皇を「玉」として手中に収め、自分たちの意思を「天皇の意思」として打ち出すことの意味も学んでいた。これを最大限生かすことでこれ以後の混乱を乗り切っていく。
かれらが幕末以来めざしていた公議政体が成立したとはいうものの、それは崩壊しつつある幕藩体制を前提としたものであり、新たな時代をすすめる上であまりに非能率的であり、さらに自分たちが主導して改革をすすめるには使いづらいものであった。緊迫する内外情勢を公議政体論で乗り切ることは不可能と考えたかれらによって、公議政体論にもとづくオールジャパンは切り捨てられる。

「天皇の信任」にもとづく開発独裁政権の成立

新政府が成立すると、幕末の「破約攘夷」は「条約改正」という形で再定義され、その実現のために「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」を進めなければならないと考えられた。その実現には強力な執行権力と革命的な諸政策実施が必要であった。こうして成立したのが「天皇の信任」の名の下、少壮の維新官僚に権力を集中する開発独裁政権=維新政府であった。「玉」としての天皇の信任が彼らの最大の武器であった。この政府のもとに「上からの近代化」をすすめられ、公議政体論=「政治のオールジャパン」の基盤は版籍奉還と廃藩置県を代表とする政策の中で解体される。

「包摂のナショナリズム」と「参加のナショナリズム」

「上からの近代化」は、国境で区切られた領域を定めることで「日本」という主権国家の範囲を定義し、区切られた領域内の人民を兵役や教育などを通して「国民化」するという包摂的な「オールジャパン」をめざすものでもあった。この「国民」に政治的な主体性をもとめることは不要であり、兵役や労働といった国家の義務に従事することを期待される「臣民」としての「国民」であった。封建的領主支配と身分制の下に置かれていた人民を「臣民」化する「包摂のオールジャパン」がすすんだ。
「参加のオールジャパン」の主張は自由民権運動の中で復活する。文明開化によって、自由主義や民主主義、人権思想といった欧米的な思想が流入、欧米思想は「正統性」の根拠が曖昧なまま強圧的な政策をおしすすめる「藩閥政府」に対抗するかっこうの武器でもあった。とくに国会開設の要求はかつての公議政体論につながり、五箇条の誓文にもつながる要求として正当なものと考えられた。当初、この運動は士族反乱と同根であったが、しだいに農村指導層やブルジョワの政治参加要求とむすびつきを深めた。それは、客体としての国民=「臣民」ではなく、主体的な「国民」をめざす性格を持っていた。
しかし、主体的な「国民」をめざす以上、「藩閥政府」と批判する政府がおしすすめる富国強兵などの一連の改革は、主権国家体制・世界資本主義への対応というナショナルな面からは否定しがたい「正当性」をもっていた。したがって、その要求は、欧米的価値に従った批判となり、政府が国会開設の方向を打ち出すとナショナリズムの立場から政府の弱腰を攻撃する傾向を強めることになる。

明治憲法体制の成立

政府の側から見ても、憲法制定・国会開設は不可避の課題であった。不平士族や農民の激しい抵抗とたたかいつつ富国強兵・殖産興業・文明開化といった一連の改革をすすめてきた時代がおわると、政府は自由民権運動とたたかいつつ帝国大学などで学んだ官僚を支配に組み込むことで権限を維持しつづけた。自らが政治の主導権を握りつつ国会を開設する、そのふたつをどのように両立させるか、立憲主義という世界基準に合致しつつ議会の影響力を減じたいという矛盾した課題の前に、伊藤ら指導者は悩み続ける。なお、国会開設には民権運動の側に取り込まれがちな地主・ブルジョワジーを自らの権力基盤として取り込むことも含意していた。
こうした課題への解決策として伊藤がヨーロッパで学んできたのが、議会からも君主からも執行権力を独立させるというやり方であった。天皇を直接的な政治の場から切り離し権力の「奥の院」として祭り上げる一方、これまで通り「天皇の信任」の名の下に執行権力を独立させ、「国民」代表の性格を持つ国会(衆議院)は「天皇の協賛」機関にとどめる。さらに国家機関・装置間のネットワークをつくらず、各機関・装置を天皇に直結した。そして「天皇」の名の下に、伊藤や山県・黒田といった薩長出身の政治家が「元老」として統括する、こうしたやり方であった。しかし、元老がいなくなると、各機関が独走をはじめるというシステム的な欠陥があった。

地主・ブルジョアジーの「参加」

開催された帝国議会、とくに衆議院は、権限も弱く、参政権も限定されるなど、不十分なものであった。しかし、国家権力の一部に「国民」代表が参加したことの意味も大きく、地主やブルジョワジーの一部と、独裁的に権力を行使してきた執行権力の間での調整が必要となった。この政策調停をめぐって発生したのが初期議会での激しい対立であり、日清戦争はその解決策でもあった。日清戦争によるナショナリズムの高揚、隈板内閣、伊藤による民権派の組織化(「立憲政友会」)、日露戦争という流れのなかで、執行権力と地主・ブルジョワの接近がすすみ、明治国家は天皇の信任だけでなく、地主・ブルジョワの支持のなかに権力の基盤をおくようになる。
人々を「臣民」と位置づけた明治憲法施行と帝国議会は地主やブルジョワジーの一部を主体的な「国民」として国家に包摂するものでもあった。しかし、こうした包摂から取り残され、「客分」意識をもちつつ、「お上」には逆らえないという意識のなかで「臣民」として生活する多くの民衆が村落や都市に大量に存在したことも押さえておく必要があるだろう。

主体的な「国民」をめざす動き

明治の二つの戦争を経ることで日本は帝国主義列強の一角へのぼりつめ、条約改正も実現する。このことは、攘夷運動に始まる「屈辱感」をばねにした「列強へ追いつけ追い越せ」という目標が一応のゴールを迎えたことを意味した。
しかしそこにあったものは「栄光のゴール」ではなかった。帝国主義間の激しい対立であり、植民地の人々の反発でもあった。
日露戦争の莫大な犠牲や資本主義の矛盾は、新たな日本のありかたを巡る意見の相違を生んだ。排外主義の性格の強い日比谷焼き討ち事件は、他方で大衆運動の再開をも意味していた。人々は新たな政治参加をもとめはじめた。
人々は自らは国家の「客体」ではなく、より主体的に日本を自分の国としてとらえる「国民」となろうとしはじめる。国家に作り上げられてきた「包摂のオールジャパン」=「臣民」による「国民国家」ではなく、主体的な「国民」を構成員とする「国民国家」(「参加のオールジャパン」)をめざす動きが生まれる。民本主義思想とそれに導かれた普通選挙運動は、国民の手に届かない「日本」を国民に支えられた国家に変えようとする運動でもあった。中間層を中心に、主体的に選び取られた近代的な「国民」意識が高まり、それが戦後民主主義へとつながる動きを生み出してくる。

政党政治とその挫折

大正期にはいると、元老が次々と死亡し、国家機関・装置間の調整が失われていった。こうした調整もないまま、個々の機関・装置が主観的な判断とセクショナリズムによって動くようになりはじめる。
これにたいする、最も妥当な解は、責任内閣制にもとづく政党政治であり、普通選挙制度の導入=選挙資格拡大によって、国家の基盤をより拡大し、参加型のオールジャパンを推し進めることであった。
戦前の政党政治の頂点ともいえる浜口内閣は、疑似責任内閣制の権威を背景に、軍を含む国家統合をめざす方向性を有していた。しかし、この「責任内閣制」は元老西園寺公望の推薦によるものであり、浜口の権力基盤も西園寺の推薦以外には議会、それも衆議院でしかなかった。にもかかわらず、浜口内閣は、大正以来の大衆運動を背景に生じつつあった近代的な「国民」意識をも取り込むことに成功しかけた。しかし軍部や議会内反対派の反発をうけ、浜口は命を奪われる。そしてその直後、十五年戦争が始まる。

明治国家の破滅

その後、「天皇の信任」という正統性も、「国民の支持」という正当性も不十分な軍部が、圧倒的な暴力、不況を背景とするポピュリズムの高まり、さらには維新政府以来の執行権力優越と明治憲法下での国家諸機関間の相互監視・ネットワークの欠落などを背景に台頭、破滅に向けて突き進む。
維新政府以来の「天皇の信任」のみに正統性の根拠をもとめるという政治のあり方は、統帥大権を口実とした軍部の暴走へとつきすすむ。「天皇の信任」を正統化の根拠とし、「国民」の主体性の承認を拒み「臣民」であることを求めつづけた国家は、執行権力の分裂とセクショナリズムの暴走、無責任体制を生み出し、誰一人として勝利する展望もないまま世界五〇カ国を相手とした戦争に踏み切る。戦局が劣勢になると責任逃れをくりかえす。こうした状態を終わらせたのは、伊藤がつくった何層にもおよぶガードのなかに置かれていた生身の天皇であった。その決断でしかありえなかった。

戦時体制下の「革命」と敗戦という「革命」

他方、「戦争」の魔力、「聖戦遂行」「国家総動員」という呪文は、ついに訪れた全面的な「万国対峙」のなかで、再び「革命」を引き起こす。「呪文」は執行権力に「革命」的権限を与えた。強力な統制経済が導入され、米穀配給制度によって寄生地主制の根が絶ちきられ、統制経済によって財閥も力を失い、女性や労働者の地位向上など国民の平準化がすすみ、「福祉国家」的なシステムも導入される。所得税・法人税、源泉徴収という戦後の税制も姿を見せる。「聖戦遂行」というスローガンと軍部・ファシズム勢力という暴力の前に明治維新以来のシステムが次々と破壊された。「聖戦遂行」にとって合理的なシステムは「現代国家」にとって合理的なシステムであった。
敗戦はさらなる「革命」を引き起こした。軍国主義を許さない世界の人々の願いと、冷戦へと移っていくアメリカの世界戦略、双方に規定されたアメリカ占領軍が日本の国家主権を掌握する。これと、間接占領という状態を利用して戦前の体制を維持しつづけようとする人々、戦争への反省をもとに民主主義を定着させようとする大衆運動、それに戦時下で進められた諸政策が絡み合い交錯する形で戦後の日本の姿ができあがる。

戦後日本、そして現在。

執行権力の独立と専制という維新政府以来のありかたを戦後日本は払拭し得たのであろうか、真の意味の「参加のオールジャパン」を確立し、国民は政治の主体となれたのであろうか。性急な近代化の中で保留されたり、拒否されたりした「近代」、とくに自由と民主主義は実現できたのであろうか。

その答えは、Yesでもあり、Noでもある。

戦前、日本を戦争に巻き込んだ勢力は戦後も生き延び、冷戦構造の中、アメリカとの癒着・従属という道を選ぶことで、権力を維持しつづける。
敗戦後、かれらが主導する形で、「戦争の借りは経済で」とばかり、経済成長がすすむ。そこで強調されたのが「万国対峙」の再来ともいえる「おいつけ追い越せ」のスローガンであり、その手法は家族主義や恩顧主義といった「前近代的要素」に依存した日本型経営であり、誘導したのが官僚主導の開発主義的手法であった。戦時体制下に再び強力な力を獲得した開発独裁的官僚群は、皮肉にもアメリカ占領軍と結びつく形でアメリカ主導の戦後世界資本主義や冷戦構造と適合的なシステムを作り上げ、「奇跡」と称される高度経済成長を実現した。
ただし、この成長は戦争中は本土決戦までの時間稼ぎ、「捨て石」として利用し、さらに戦後は日本から分離して「基地の島」として置き去りにし、さらには反対闘争によっておけなくなった本土の米軍基地を新たに押しつけられた沖縄の犠牲に立っていたこと。かつて植民地化として統治した朝鮮半島での悲惨な戦争、ベトナム戦争など冷戦下のアジアの犠牲の上に立ったものであることも見ておく必要がある。

現在、世界に広がりつつある新自由主義の潮流は「勝ち組」を礼賛し弱者を切り捨てる。弱者の生命線ともいえる生活保護などの福祉政策が攻撃され、従業員の生命や健康に責任を負わないブラック企業が蔓延する。
出生率や若年労働力の減少が「日本の課題」といいながら、人々の多くを不安定雇用に放置し、長時間労働への道を拡大する。保育所などの整備も怠る。学生に多額の借金を背負わせる。
国民の中にさまざまな分断線が引かれている。現在の政治や社会に批判的なものに「売国」といった罵倒を浴びせかけ、政治の革新、現在の「平和」を維持したいというささやかな願いを実現しようとする「参加の民主主義」さえも「迷惑」「お花畑」といったことばで冷笑する。
そして憲法に定められた国会開催の要求が無視され、民主主義を多数決民主主義と読み替えることで強行採決によってすべてを決定すればよい、少数者の意見は聞く必要がないとして国民の声を無視し、参加の幅を狭める動きが顕著となっている。こうして、「参加のオールジャパン」が排除され、執行権力専制への道が進んでいる。それはかつて誤りを犯した道である。

他方、自由と民主主義を求め、実質化しようという運動は、戦後になって花開き、日本国憲法の制定とあいまって広がりを見せた。平和運動や消費者運動、女性解放、原水爆禁止や公害反対など多様な民衆運動が多様な形で展開された。「参加のオールジャパン」をめざす「運動としての民主主義」が、国民の声を政治に社会に届けつづけ、改憲による再軍備をはじめとする戦前への回帰を阻止し、政治の民主化をすすめた。こうした取り組みが日本国憲法を実質化した。
現代においても、ヘイトスピーチを繰り返す人たちに立ち向かう人たち、不当な米軍基地拡張に反対する人々、戦争法案に反対するため連日国会前に詰めかけて抗議するひとたち、さまざまな人たちが政治を自分たち手に取り戻そうとしている。「参加のオールジャパン」というナショナリズムの限界を超えて、貧困や紛争といった世界の諸問題に立ち向かう人がいる。
私たちは「世界に惨禍を与えた主要なアクター」となったとともに、そのことで私たち自身も多くの傷をうけた。しかし、こうした体験の中、平和を求めた世界の人々の力を借りて新しい力を手に入れた。日本国憲法である。それに依拠し、その可能性を拡大することで、戦前を乗り越えてきた。わたしたちはそこに希望を見いだせるのではないか。

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  1. はじめに~近代日本をどう捉えるのか
  2. 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
  3. 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
  4. 「開発独裁」政権としての維新政府
  5. 「明治憲法体制」の矛盾と展開
  6. 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
  7. 戦時体制下の「革命」と戦後社会
  8. 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望
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