2_「オールジャパン」をめざす抗争(幕末の政治過程)

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2_「オールジャパン」をめざす抗争(幕末の政治過程)~日本近代史のとらえかた(2)

 <目次・リンク>

  1. はじめに~近代日本をどう捉えるのか
  2. 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
  3. 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
  4. 「開発独裁」政権としての維新政府
  5. 「明治憲法体制」の矛盾と展開
  6. 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
  7. 戦時体制下の「革命」と戦後社会
  8. 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望

尊王攘夷運動の発生~「屈辱」感の広がり

ペリー来航をきっかけに生まれた「屈辱」感は萌芽的な「国民」意識を背景に身分を超えて広く共有された。「世界」=主権国家体制が強要する「屈辱的な『日本』像」を認めること自体、つらく受け入れがたいものであったため、現実的判断でそれを受け入れた幕府を糾弾し、自分たちが空想してきた「万世一系の皇国として日本」という「自画像」を守ろうとする勢力が生まれた。ここに尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が形成される。
ただ、この運動をすすめた人々が、この「自画像」をどれだけ信じていたかは別問題である。狂信的に信じるものがいる反面、「屈辱」的な「日本像」のほうが現実であることを頭では理解していたものも多かった。もっとも強硬派として自他共に認められていた徳川斉昭も軍事力で列強に対抗できないことは理解しており、多くの大名たちも幕府の対応をほぼ認めていた。しかし攘夷論者は「屈辱」というナショナリスティックな感情を重視した。問題は「屈辱」的な形でおしつけられたことであり、「朝廷の勅許を得ていない」点であった。幕府側の責任者である阿部正弘(あべまさひろ)や交渉に当たった岩瀬忠震(いわせただなり)らが、現実の世界認識を背景に理性的・現実的判断に基づいた判断をしたのとは好対照である。
攘夷運動は、しだいに「破約攘夷(はやくじょうい)」=条約改正へと集約していく。ただ攘夷を主張する勢力が「不平等」の焦点である「領事裁判権」や「協定関税」の存在を理解していたかは別問題である。そもそも「修好通商条約」のもつ意味がどれだけ共有されていたのか、されていたとしてもごく少数ではないか。問題は条文でなく、感情と手続きであった。「屈辱」にケジメがつけば開国も問題がないと考えたものも存在し、のちの「航海遠略(こうかいえんりゃく)論」にみられるように「開港には反対だが日本が出て貿易をするのはよい」との虫のよい考えを持つ攘夷論者は朝廷を中心に多かった。「万世一系の神国」であるはずが夷狄(いてき)である欧米人から「半未開国」として扱われ、国際的な主権国家体制=「万国公法(ばんこくこうほう)」体制に包摂されたことが、国内のさまざまなレベルの人々に強い「屈辱」感を感じさせた。そして「屈辱」を唯々諾々と受け入れたようにみえた幕府への感情的な反発、これが幕末の混乱の大きなエネルギーとなった。

幕府は無能で弱腰な外交を展開したのか

弱腰と批判されがちの幕府であるが列強の要求を唯々諾々と受け入れたわけではない。アヘン戦争以来のアジアの同時代史は、外国船打払令のような強硬策が成り立たないこと、それを追求すれば悲惨な結果を導くことを示していた。外交に責任を持つ幕府としては現実的対応しかありえなかった。その条件の下で幕府の交渉団はかれらなりの「国益」の維持をはかった。ペリーの論理矛盾をついて「国書」に記載されていない「通商」条約締結を拒否したし、ハリスとの交渉でも外国人の国内旅行の自由や内地雑居をもとめる強硬な要求を拒否しつづけた。関税自主権の喪失と批判される協定関税ではあるが、調印当初はそれに見合うだけの高率の関税率を課していた。
こうした努力は当時(現在でさえ)あまり認められなかった。幕府による国外情報の独占が人々の世界認識をゆがめていたからである。こうして生まれた世界認識の歪みが、「屈辱」感とあいまって、幕府の外交は事大主義的弱腰外交であるという「神話」をうみ出した。交渉に当たった岩瀬らは厳しい条件の中、精一杯の努力をしていた。

阿部正弘政権の挙国一致政策

少し時期を戻し、幕府を中心とした対応を見ていくことにする。
ペリーの強硬な姿勢をうけて、阿部正弘ら当時の幕府指導部は「大政委任」という論理だけでは対処しがたいとかんがえ、多くの人々をなんらかの形で国政に参加させることで、挙国一致=オールジャパン体制を作ろうとした。これによって危機に対処しようと考えたのである。阿部は、台場建設など防御態勢を取り、人材登用などをすすめる一方、情報を公開し、ひろく意見集約を求めた。さもなければ幕府の対応への支持が得らず、『屈辱』を受け入れられないことがわかっていた。

ペリー来航に始まる主権国家体制との本格的遭遇は、日本に主権国家としての対処をせまっていた。早急に幕藩体制下の日本を主権国家に近づけなければならなかったのである。そのためには幅広い支持が必要であった。筆頭老中の阿部正弘は、朝廷へも事情を報告するとともに、朝廷に人脈をもち、自他共に尊王攘夷派の中心と認められていた水戸「藩」の徳川斉昭(なりあき)を政権に参加させた。さらに外様・親藩の有力大名の協力も取り付け、すべての大名、身分等にかかわらない人々からも意見を求めた。交渉の主体として、主権国家としての体裁をつくるには、幕府独裁では通用せず、おおくの人々の「参加」が必要だと考えたのである。
阿部は開国に批判的な勢力に配慮し、その参加ももとめつつ、アメリカ側との交渉をすすめた。通商要求は「国書」にないと拒否、和親条約は「遭難者を救助するとともに二港を開港して燃料や食糧補給の便をはかる『恩恵』である」という小「中華」的論理で、薪水給与令の延長線上に位置づけた。したがって、正面切って和親条約に反対したものは少なかった。
しかし、和親条約をこえ、欧米側が通商開始をもとめることは世界史の必然であった。和親条約の認識のずれを利用して来日した総領事ハリスはこうした事情を説き、通商条約締結を求める。

堀田正睦政権と「一橋派」=列藩同盟論の登場

阿部のあとをついだ堀田正睦(ほったまさよし)政権も阿部の路線を引き継いだ。しかし徳川斉昭が政権を離脱するなど「参加」の実態がとりにくく、条件がいっそう厳しくなるなかで通商条約交渉に臨むこととなる。
国際社会へのリアルな認識をもつ開明派官僚の川瀬忠震や井上清直(いのうえきよなお)らにとって、開国・開港による主権国家体制への参加は、屈辱的であっても国家としてやむをえざる選択であり、拒否はあり得なかった。こうした認識は、薩摩(さつま)・島津斉彬(しまづなりあきら)や越前(えちぜん)・松平慶永(まつだいらよしなが)らにも共有されていた。かれらが課題と考えたのは、開国に伴う諸問題に一致して対応できる体制を築くことであった。どのようにして、どのようなオールジャパンを構築するかという幕末政局の最大の課題が、よりリアルなものとして提起される。
松平慶永のブレイン橋本左内(はしもとさない)は、島津斉彬や松平慶永、鍋島直正(なべしまなおまさ)といった雄藩藩主らの合議体(「雄藩連合」)を中核に、岩瀬のような能吏や知識人など幕府内外の人材を「儒者」として採用し、政治を運営することによって政治にかかわる「参加」をすすめようという公議政体論につながる構想をこの時期に記している。
島津斉彬や松平慶永らは幕府創業以来ともいえる「オールジャパン」をめざす改革が必要と考え、それを実行できる逸材として一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(徳川斉昭の子で天皇家の血を引く)将軍のあとつぎにしようと工作した。ここに親藩・外様、開明派官僚連合である一橋(ひとつばし)派が形成され、擁立工作がはじめられた。橋本左内や薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)らが京に派遣され、朝廷の推挙による継嗣決定という方針のもと運動が進められた。こうした動きの中の背景には、実際の政治から疎外されてきた薩摩・越前といった親藩・外様の雄藩の政権参加を実現するとの狙いも潜んでいた。

「条約勅許」の失敗と孝明天皇

交渉を通じて老中・堀田正睦らは通商条約も締結やむなしと判断した。しかし、条約による影響の深刻さが予測でき、反対論・慎重論も根強いなか、コンセンサスを得ることはさらに困難となっていた。そこで堀田や川瀬は天皇が「条約勅許」をすれば、尊王意識の強い斉昭ら攘夷論者・条約締結に反対・消極的な大名も沈黙すると考えた。天皇の権威に依存してオールジャパン体制をつくり通商条約を締結するやりかたである。しかし、こうした手法は、「大政委任」論に反するものである。
孝明天皇はこれに反発した。天皇自身、「鎖国」という「祖法」を「屈辱」的な形で放棄することは「皇祖皇宗」に恥じると考え、さらには幕府が関白らと自分の意思を聞かないまま話を進めるやり方にも反発した。天皇を勇気づけたのが、条約勅許反対の意志を示した下級公家の列参であった。これに自信を得た天皇は、幕府が国内のコンセンサスを図るという責務を果たしていないと指摘、幕府がまず「オールジャパン」の実態をつくるべきでありそれを怠ったまま、政治的判断を自分に求めたことは審議不十分であるとして判断を保留、再度、大名間の意見の一致をもとめた。堀田の判断が大名らの一致、オールジャパンに基づくものといえるのかというもっともな疑問であった。

「幕府専制」論の復活と尊王攘夷派の成立~井伊直弼政権の成立

天皇による条約勅許の保留は、一般には「天皇が条約を認めなかった」として受け止められた。尊王攘夷論は勢いづき、幕府も分裂、混乱を広げることになる。
堀田の朝廷工作失敗を受けて、幕府内でクーデタともいえる政変が発生した。譜代大名のリーダー井伊直弼(いいなおすけ)が突如、大老に就任、井伊は次期将軍を紀州家当主の徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))に決定、勅許なしの通商条約調印も許可した。
尊王家でもあった井伊は天皇の命じたとおり有力大名のコンセンサスを得るつもりであったが、緊急事態という岩瀬らの進言をうけ、勅許なしの条約調印を認めた。井伊からすれば、幕府は征夷大将軍として大政を委任されている以上、外交を含む国家の重要事項を決定する権限がある。外様・親藩といった諸大名や朝廷の意見を聞いたり、承認を得ることは不要であるどころか、彼らを増長させる危険な行為であり、幕府のルールに反するとの思いもあった。「オールジャパン」をもとめるやり方は幕府の方針に反すると考えたのである。将軍継嗣についても血統で選ぶのがルールであり、一橋慶喜を将軍継嗣とすることはこれに反するし、過激攘夷論者である斉昭や有力外様大名である島津斉彬に政治介入の機会を与えることは許しがたいと考えた。
このように、井伊は、一橋派がめざす幕藩体制の変革、参加型のオールジャパンの方向性を拒否し、阿部以前の論理と方法で条約締結をおこなった。それで対応可能だと考えていた。

「幕府専制論」の崩壊~安政の大獄と桜田門外の変

井伊の手法は天皇を激怒させた。その天皇の行動が問題をさらに混乱させる。天皇が、幕府のやり方への疑問と大名間のコンセンサスを求める勅書を、攘夷派の中心水戸家にあたえたからである(「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」)。
朝廷が幕府を飛び越えて大名と結びつくことは大政を委任された将軍が日本の政治を取り仕切るという原則を否定のする危険な行動であった。「幕府のあるべき統治」を脅かすと考えた井伊は、ここに反対派の大弾圧=安政の大獄(あんせいのたいごく)にのりだす。大獄は、朝廷を中心にオールジャパンで難局に臨むという阿部以来のやりかたを拒否し、従来通り「幕府」が内政・外交を独占的に対応するという立場を示すものであった。
こうしたやり方は、「幕府には任せられない、天皇こそが挙国一致の要となる」との尊王論の声をいっそう高め、天皇が希望する「鎖国」を断行すべきという尊王攘夷(そんのうじょうい)論へと発展するきっかけとなった。また多くの上級公家が処罰されたことは朝廷の機能低下をすすめ、逆に天皇個人の意思や感情が政治に反映しやすくした。こうして天皇の威をかりた中下層公家らの発言権を増していく。
また幕政改革をめざす一橋派=「列藩同盟派」を弾圧し、さらに岩瀬をはじめとする有能な幕臣を処罰したことで、幕府は柔軟性を失い、最終的にはその力を低下させた。
安政の大獄という「暴力」は、井伊暗殺事件(桜田門外の変(さくらだもんがいのへん))という新たな「暴力」を生みだし、暴力・テロの連鎖が始まる。政治目標を達成するためにはテロ=暴力に訴えても「正義」であるという主張は明治以降、昭和に至るまで続く悪しき伝統を産み出した。

「公武合体」論の登場~安藤信正政権と朝廷の権威拡大

安政の大獄の反作用として発生した井伊の暗殺=桜田門外の変は、幕府がすべてを決定することが当然であるという形式的な「大政委任論」(「幕府専制」)がもはや通用しないことを示した。さらに関係者である水戸・彦根両家を処罰できなかったことは幕府の統治能力の減退を示した。
こうした混乱の中、政権を担った筆頭老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)は、将軍家茂と天皇の妹である皇女和宮(かずのみや)の政略結婚によって、天皇と幕府による共治の体制を構築し、「朝廷に信頼される幕府」として統治の正統性を回復しようとする「公武合体(こうぶがったい)」論をすすめた。朝廷の後見をえることで「大政委任」の実態をとりもどせると考えたのである。
しかし現実は逆方向に動く。天皇・朝廷はこの結婚を交換条件として破約攘夷を幕府に認めさせる。こうした経過を通じて人々は朝廷が幕府より上位にあることと考えるようになる。坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)によって安藤が失脚すると、幕府の統治能力はいっそう低下、幕府は天皇=朝廷の協力なしに、全国統治が貫徹できない状態となる。

天皇中心の政局へ~雄藩の介入と幕藩体制の弛緩

幕府の威信が低下するなか、天皇=朝廷に接近することで自藩の存在感を誇示し改革の担い手となろうとしたのが薩摩・長州両大名家である。この両家は桜田門外の変以降の混乱に乗じ、天皇を助けて公武合体を推進すると称して朝廷と幕府との間の斡旋を進める。
最初に動いたのは長州である。長州は藩論としての「航海遠略」策を提示、いったん朝廷・幕府双方に受け入れさせることに成功、有力大名家が国政に介入できることを示した。(しかし長州「藩」内の反発をうけ挫折する。)
つづいて薩摩「藩」主の父・島津久光(しまづひさみつ)は、朝廷守護を口実に武装した兵を京都に進めて幕政改革案を朝廷に進言、朝廷の勅使に随行する形で江戸にいき、軍事力と朝廷の権威をテコに幕政改革(文久改革)を強要した。
こうした出来事のなか、日本の「主権者」は天皇であり幕府はそれにしたがわねばならなこと、天皇の権威があれば外様でも「無官」でも、軍を動かして国政に関与できることを明らかしていった。幕府の権威低下は明らかであった。
天皇の権威拡大と雄藩の影響力拡大を背景に、政局の中心は江戸から京都へと移る。幕府はもはや天皇の許可なしに行動することは困難となり、天皇が幕府を通さず諸大名などに命令することも可能となった。こうして大政奉還以前の、1862~63年段階で「主権者は天皇」という状態が実質化し、徳川家=幕府は天皇の下で政権を担当する実務機関へと変質していった。
諸大名家は天皇と結ぶことで、独立性をたかめ、幕府を軽視しはじめる。各大名家・領は「天皇の藩屏(はんぺい)」としての半独立国=「藩」という性格を強め、大名は「藩主」、家臣は半独立国の武士=「藩士」と自称、京都「藩」邸の整備・拡張をすすめ、「天皇を守るため」と称して「藩兵」が送りこまれる。
一般の武士も、○○家中の家臣(「藩士」)であることよりも、天皇の家臣であるという自己認識を強め、大名家の命令を相対化し、ついには天皇のためと称し「藩」から離れるものも出始める。逆に、大名家を天皇に奉仕すべきものとして道具化しようという動きも生まれる。多くの人々が朝廷を守護すると称して京都に集まる。
天皇への求心力の高まりを受けて「一君万民」という考えが広がり、公儀秩序(天皇→将軍→大名・旗本・・・)の中で動いてきた幕藩制的身分秩序は空洞化し、その秩序から諸大名家、個々の武士、一部の百姓・町人などが離脱していくという遠心力が高まる。こうして新しい秩序=「国民国家」的枠組への流れが強まる。それは「公儀」権力の形式的な頂点に立っていた天皇と結びつくことで進んでいく。

尊王攘夷運動の激化

幕藩体制からの遠心力と朝廷への求心力が結びついてすすむなか、幕府は天皇の権威をかりる公武合体政策でしか諸大名を引きつけることができなくなりつつあった。
天皇や朝廷との密接な意思疎通をすすめるため、まずは文久の改革で将軍の代理人(「将軍後見職」)となった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)が、ついで執拗な要請に抗しきれず将軍家茂自身も京都にのぼる。将軍は、宮中で公家たちの下座に座り、巡幸においては天皇の先導をつとめるという屈辱も味わう。「幕府・将軍の権威は天皇あってのもの」との名目は視覚化されることで認識され、幕府が「大政委任論」にもとづいて全国の諸大名などに命令するという統治は過去のものとなった。
しかし朝廷も多くの問題を抱えていた。安政の大獄と尊王攘夷派のテロにより、幕府の意を受け関白や武家伝奏(ぶけてんそう)が朝廷をコントロールするというシステムが崩壊したからである。これにより孝明天皇の「個人」的意向が朝廷の決定に影響を与えやすくする。天皇は、攘夷実行と朝廷の権限拡大を求めつつも、大政委任論に基づく幕府の統治も維持すべきという矛盾しがちな志向をもっていた。それが政局を混乱させる。
前者の方向を推し進めたのが、新設された国事御用掛(こくじごようがかり)を掌握した三条実美(さんじょうさねとみ)ら急進派公家である。三条らは破約攘夷をもとめる天皇の意向をもとに、久坂玄瑞(くさかげんずい)や武市瑞山(たけちずいざん)ら長州・土佐などの急進派勢力とむすんで幕府にせまり、文久三年五月十日を期しての破約攘夷を約束させる。久坂らは安政の大獄にかかわった幕府の関係者らへのテロ行為を激化させ、親幕府派・公武合体派の公家らの動きを封じた。そして五月十日には長州「藩」は関門海峡を航行中の外国船を砲撃するにいたる。対外危機をバネに改革を進めようとしたのである。尊王攘夷派のヘゲモニーの下、政局は過激化の一途をたどっていった。

八月十八日の政変~一会桑政権の成立と列藩同盟の否定

このような長州・尊攘派公家らの急進的な動きは孝明天皇自身によって破綻させられる。天皇が望んだのは、自分の意志をくみつつ将軍=幕府が幕藩体制を基礎に全国を統治するという形式をとった「大政委任論」の実施であり、そのような「公武合体」であり、幕府が主導しての「破約攘夷」実行であった。「破約攘夷」も、暴力的に外国船を打ち払うのではなく、交渉によって「屈辱」的な現行の通商条約を破棄し、対等な内容の条約を結び直すという、のちの「条約改正」にあたるものであり、そうすることで「屈辱」をはらしうると考えていた。「鎖国」体制への復帰が不可能であることは天皇自身も認識していた。
文久三年八月十八日の政変は、こうした天皇の意を受け、幕府の威信回復・秩序回復をめざし会津・松平容保(まつだいらかたもり)らが、雄藩連合をめざす薩摩と協力し、強硬な攘夷論で朝廷をリードしていた三条ら七名の急進派公家を罷免、長州などの尊王攘夷派勢力を朝廷から一掃したものであった。
この政変によって京都の状勢は一変する。京都における公武合体派のヘゲモニーが確立、天皇と一橋慶喜・松平容保ら在京の幕府勢力(一会桑(いっかいそう)政権)との信頼関係の上に政治が進められる。この政権は、主権者としての天皇の意図をくみつつ、行政執行権力としての幕府が政治を運営する形式をとった。
八月十八日政変をうけ、朝廷は雄藩の有力諸侯に朝議参与を命じ、雄藩連合の方向をめざした。しかし参与(さんよ)会議では、国内体制の整備(雄藩連合構想の実現)を主張する松平慶永(まつだいらよしなが)や島津久光(しまづひさみつ)らにたいし、慶喜は幕府主導で天皇の望む「破約攘夷(のち横浜鎖港)を実施すべきだ」と強硬に主張、雄藩連合を挫折させた。慶喜は、参与会議が実質的な雄藩連合となることで薩摩などの勢力の伸長がすすむことを嫌ったのである。
一会桑政権が天皇を自陣営に引き込み幕府の威信を再建する方向は、天皇のもとで将軍を含む雄藩連合を樹立し挙国一致=オールジャパン体制樹立をめざす薩摩の島津久光や越前の松平慶永らとの対立するものであった。
かつて雄藩連合派(一橋派)の象徴であった一橋慶喜は、天皇の信任のもとでの幕府専制へとハンドルを切り始めており、かつての支持者(旧一橋派)との距離が開きはじめていた。天皇の信頼を勝ち得た慶喜は「庶政委任(しょせいいにん)」の勅を得ることで天皇との協調にもとづく「大政委任」を再確認することに成功、「幕府専制」の方向に政治の流れを引き戻すことに成功した。

日本版アロー戦争としての薩英戦争と下関戦争

1864年、一会桑政権と雄藩連合派の対立を好機と捉えた長州が勢力回復をめざして京都をめざすと、一会桑政権と薩摩など雄藩連合派は一時的な同盟を復活し、これを破った。(禁門の変(きんもんのへん)。敗れた長州は「朝敵」として朝廷=幕府から討伐の対象とされることになる。
前年、慶喜が参与会議で「破約攘夷」を主張したことは、江戸に拠点を置き、列強と対応する開明派幕閣・官僚の反発をよびおこした。列強の反発を買い、民族的危機を生じかねない内容であったからである。他方、開国以前の「幕府専制」への復帰をめざす守旧派勢力にとって、慶喜の天皇に対する姿勢は軟弱なものとも見えた。江戸ではこうした二つの勢力が、京都の一会桑政権と緊張状態の中で手を結んでいる状態であった。
「破約攘夷」の確約は新たな問題を生み出しつつあった。幕府は「破約攘夷」交渉の一環として「横浜鎖港」をめざした。そのため列強の反対でいったん撤回した五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)を復活して横浜での貿易を抑制、鎖港を実質化させようとした。
このことは、欧米列強とくにイギリスの反発を買う。順調に伸びている有望な日本市場の貿易を妨害することは許しがたいことだった。イギリス公使らは、本国や海軍自身の反対にもかかわらず、軍事力行使による局面の打開を画策する。強硬な攘夷派に打撃を与えることで「破約攘夷」「横浜鎖港」などの方針を打ち砕こうと考えたのである。格好のターゲットとされたのが外国船に砲撃を加えた攘夷派の拠点である長州であった。
イギリスは、すでにイギリス人殺傷事件(生麦(なまむぎ)事件)に対し犯人引き渡しに応じない薩摩との間で1863年薩英戦争を起こしていた。もうひとつの攘夷派の拠点長州を屈服させることで、「横浜鎖港」などに固執し兵庫開港などに応じない幕府、さらには最大の攘夷派である天皇を屈服させる示威行為という性格を持たせようとしたのである。こうして下関戦争(「四国艦隊の下関砲撃事件」)が起こった。日米修好通商条約で定められた高関税を引き下げさせることも隠れた目的であった。二つの「対外戦争」は自由貿易の障害を軍事力行使で打破しようとしたものであり、清におけるアロー戦争と類似した性格があったともいえる。

列強の「摂海侵入」と条約勅許

薩摩・長州との戦闘とその後の経過は、イギリスに対日外交における新たな選択肢を与えることとなった。オールジャパンを構築できない「日本」外交の弱点に乗ずる手段を手に入れたともいえる。こうして列強とくにイギリスの態度に変化が生まれる。「日本の主権者は幕府ではなく天皇」との見解が示され、「主権者である天皇との直接交渉をめざす」として幕府を追い詰める手法が用いられるようになる。
1865年9月、兵庫開港交渉が進展しないことにいらだつ各国艦隊は大阪湾に侵入、天皇との直接交渉による条約勅許と兵庫開港をめざす。これに対し慶喜は脅迫まがいの交渉で通商条約の勅許を引き出すことに成功、修好通商条約が正式に批准された。(ただし兵庫開港は拒否される)翌年5月には下関戦争の補償として、協定関税率の引き下げにも応じる(関税約書)。日本国内の対立にたくみにつけ込んだ列強側の勝利であった。
なお、この間、独断で兵庫開港を承認した老中が朝廷により事実上罷免されたことに反発した将軍家茂が将軍辞職の上奏を行って大坂から江戸に戻ろうとして、慶喜に説得される事態も発生した。

第一次長州戦争をめぐる列藩同盟派と一会桑政権の対立

1864年、禁門の変を受けて実施された第一次長州戦争は、幕府が朝廷の命令をうけて朝敵・長州を屈服させることで、朝廷と幕府の一体性を誇示し、幕府の権威の回復を示す絶好の機会であった。しかし幕府には軍事的裏付けが不足していた。幕府が依存したのは当時最強の軍事力を持つ薩摩、御三家筆頭の尾張、さらに家門の筆頭の越前といういずれも雄藩連合派の諸大名家であった。こうした諸大名家も当初は厳罰論に立っていたが、幕臣・勝海舟(かつかいしゅう)の意見をいれ、寛大論に変わっていた。厳罰論で長州の勢力がそがれることは、幕府復権=「幕府専制」の方向が強化されることであり、雄藩連合の可能性を遠ざけるものであった。また戦闘の長期化は日本全体の国力低下につながり、民族的危機を増すことでもあったからである。
こうして実質的な戦闘が行われないまま、責任者の切腹・処刑、降伏の受け入れという寛容な条件で第一次長州戦争は終結、征討軍は解散する。(そのころ長州では再度政変が発生しつつあったのだが)。その結果、朝廷の意を受けて長州を屈服させ、幕府の威信を強めるという慶喜のねらいは失敗に終わる。雄藩連合派の軍事力に依存せざる得なかった点に、一会桑政権側の弱点が露呈していた。

「薩長連合」の成立

このような展開は慶喜にとっては許しがたいことであった。慶喜は、長州処分のための再度の征長を強く主張する。このことは長州は屈服したと考える列藩連合派の不信任を意味するものである。薩摩は幕府・一会桑政権のもとで「幕府専制」の方向が強化されることに反発を強め、軍事行動も視野に入れはじめる。そうした場合、パートナーとしての実力を持つ藩は長州しかありえなかった。
他方、長州も孤立状態に置かれ、再度の征長が予測される中、急速な富国強兵が求められていた。さまざまなやりとりの後、1866年1月、薩摩が幕府による長州戦争の実施を牽制するという内容の薩長盟約(同盟)が成立する。長州は表面上は「恭順」の姿勢を見せつつ、薩摩名義で欧米から最新の艦船や兵器を買いそろえ、軍制改革をすすめ、幕府との戦いを着々と準備していた。京都では、大久保利通(おおくぼとしみち)ら薩摩のリーダーは半ば公然と長州支援の運動をすすめるようになっていく。

第二次長州戦争=「非義の勅命は勅命にあらず」

権威を失った幕府が、再び全国政権としての権威を回復するには軍事力で征夷大将軍としての威信をみせつけるしかなかった。幕府の実質的な指導者となっていた慶喜は朝廷工作をすすめ、薩摩の大久保らの妨害をはねのけ「長州征伐」の勅許を得る。これに対して、大久保は「非義の勅命は勅命にあらず」とまで言い放つ。最強の軍事力を持つ薩摩は参戦要求を断固拒否、長州と藩境を接する芸州・浅野家も、第一次長州戦争に参加した尾張や越前なども参加を拒否した。幕府の命令はもとより、勅命すら従う必要がない、従わなくてもよいという空気が生まれはじめていた。大久保にとっては、幕府の言いなりになる天皇・朝廷の命令はもはや聞く必要のないものであった。逆に言えば、自派に有利な手段=「玉(ぎょく)」として天皇を扱えばよいという流れができたことが注目される。
1866年6月幕府は第二次長州戦争を強行する。兵力面では圧倒的に不利な長州ではあったが、最新鋭の武器と軍事技術で整備され、郷土防衛戦争という状況をアピールすることで強い戦闘意欲を引き出していた。これにたいし、幕府側は、戦闘意欲に欠け、新旧の武器を併存させて戦国時代以来のやり方でたたかうというもので、幕府軍は長州軍の前につぎつぎと敗れた。とくに北九州戦線では幕府側の拠点小倉城すら奪われるにいたる。
長州戦争に伴う膨大な戦費はひとびとの生活を直撃した。全国で打ちこわしや世直し一揆が頻発し、参加者の中には公然と幕府批判を行うものも現れた。幕府は一般民衆からも見捨てられつつあった。
1866年7月に将軍家茂が病死したことを名目に第二次長州戦争は中止され、幕府の権威はさらに低下した。

松平慶永の「大政奉還」建白と孝明天皇の死

こうした事態に、列藩同盟をもとめる越前の松平慶永は新たな将軍と考えられていた慶喜に「政権を天皇に返還(大政奉還(たいせいほうかん)すべき」との建白を行う。慶喜はいったん了承したが、すぐ撤回する。
慶喜は、徳川宗家をつぐが、将軍には諸大名の推薦をうけて就任しようとの工作をおこなうがわずかな推薦しか得られない。慶喜の不人気は明らかであった。にもかかわらず、慶応二年十二月(1867年1月)、慶喜は将軍に就任する。慶喜の主要な後援者は孝明天皇のみであった。しかしその天皇も同月、急死する。
慶応三年、家茂・孝明天皇の死を受けて、薩摩・島津久光、越前・松平慶永、土佐・山内豊信(やまうちとよしげ)、宇和島・伊達宗城(だてむねなり)の四人入京、慶喜を加えた五者による諸侯会議が開催され、列藩同盟に基づくあたらしい政治の仕組みづくりがめざされた。議題は兵庫開港と長州処分の二点、諸侯たちが長州の復権を認めることによる国内再統合(「オールジャパンの復活」)を強く主張したにもかかわらず、慶喜はお得意の弁舌で諸侯を圧倒、幕府主導の兵庫開港のみを強引に決定、長州処分は事実上の先送りとなる。反発した諸侯らは次々と帰国、処分解除を先延ばしにされた長州の不満も高まった。こうして列藩同盟による政治改革は再び慶喜の手で葬られた。
慶喜が幕府中心の政治に固執し、列藩同盟=公議政体論に消極的である以上、幕府を中心とする日本全体を代表しうる統一国家建設(自藩の意見を反映しうる国家でもあるが)は不可能との認識が薩摩・長州中心に高まる。武力行使も本格的に検討されはじめる。

慶応の軍制改革の進展と武力行使の模索

薩摩・長州には、急がねばならない事情もあった。
慶喜の強硬姿勢の背景には幕府の軍政改革が急速にすすんでいたことがある。フランス士官の指導の下、最新兵器と戦術思想にもとづく強力な幕府陸軍が創出されつつあり、横須賀造船所の建設も急ピッチですすんでいた。さらに幕府は、世界最新鋭の軍艦を購入、それが日本に向かっていた。海軍力はすでに幕府に有利となっていたし、さらに差が開こうとしていた。
陸軍については、薩摩や長州側が装備と指導者の力量、戦術と実戦体験など有利な面はあったが、その優位も危うくなりつつあった。自信を取り戻した幕閣の中からは、長州だけでなく薩摩をも軍事力で屈服させるべきとの声も生まれてきた。
薩摩・長州からすれば、軍事力によって決着をつけるチャンスを逃してはならない思いも高まる。とくに朝敵との認定を解除されなかった長州では危機感が高まる。時期が遅れれば不利になる。西郷や大久保、木戸らはこのように考えるようになっていく。

薩土盟約=新政府構想の本格化

この段階で薩摩などはどのような政権構想を考えていたのか。薩摩は軍事力の行使に精力が注がれ、のちの維新政権につながる政権構想は出てきておらず、列藩連合構想のままというのが近年の説である。
有力諸侯による上院と、一般藩士らも加えた下院の二院制による国家運営、こうした案は、阿部・堀田政権時代の橋本左内以来、何人もの論者が検討していた。西郷の考えもこうしたものであったと考えられる。さらに、福沢諭吉(ふくざわゆきち)が出版した「西洋事情」は、新たな政体を検討する共通基盤を提供した。慶応三年五月、信州上田藩士で薩摩藩の軍事顧問でもあった西洋兵学者赤松小三郎(あかまつこさぶろう)は将軍を中心とする二院制の政体の献策を慶喜・慶永・久光に対して行う。六月には坂本龍馬(さかもとりょうま)も後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に「船中八策(せんちゅうはっさく)」という改革案を示したといわれるが、その存在が疑う論者も多い。
こうした流れを受けて出された薩摩などの「公的」な政体構想が六月の「薩土盟約(さつどいめいやく)」である。将軍がその職を辞して「大政委任」を返上して大名の列に参加し(「大政奉還」)、天皇のもとにおかれた議事堂を中心に政治を運営することをめざす。議事堂は公家や元将軍を含む大名らによる上院と、その他庶民に至るものからなる下院の二院制に基づいて国政を運営するというものである。土佐がこれにもとづく案を慶喜に建白し、拒否された場合には武力行使をも辞さないというのが「薩土盟約」であった。
土佐・山内豊信が慶喜に提出した大政奉還の建白はこの合意を背景としたものであった。土佐は大政奉還に、薩摩は否定されたときの武力行使への土佐の参加に、それぞれ重点を置いていた。さらにこの盟約には芸州など有力大名家も参加する。しかし「盟約」における武力による威嚇とみえる表現が土佐の最高実力者山内豊信に拒絶されたため、盟約はいったん解消される。
ともあれこの段階においても、もし徳川家が一諸侯として列藩連合に参加し、他の藩との協議をおこなうという姿勢をみせるのあれば、その議長として認めることは薩摩としても許容する姿勢であったことは確かである。

大政奉還と薩摩

武力行使を視野に入れる薩長などの動きを察した慶喜は新たな一手をうってくる。当然拒否すると考えられた土佐の建白を受け入れ、慶応三年十月十四日(1867年11月9日)大政奉還を朝廷に建白したのである。これにより、徳川将軍家による「大政委任」は終了し、形式的に徳川幕府は終焉を迎える。諸大名家も幕府との主従関係は消滅し、諸大名家は天皇の下にある地方政権=「藩」という位置づけとなる。
慶喜の読みの通り、朝廷は将軍辞職への回答を保留し、新たな大政委任(「庶政委任(しょせいいにん)」)の動きもみせる。内部に武力行使に協力的なグループを抱える土佐も慶喜を支持する姿勢を見せる。あらたな政治形態を実現すべく、慶喜は洋学者西周(にしあまね)らに命じて検討をはじめさせる。政局は慶喜中心に動き始めた。
これに対し薩摩は戦略の立て直しを迫られる。処分取り消しを保留されている長州、さらには芸州なども引き入れての軍事力行使による打開を求めようとしたのである。大久保・西郷隆盛(さいごうたかもり)・小松帯刀(こまつたてわき)という薩摩の在京指導部三人は「討幕の密勅(とうばくのみっちょう)」という偽文書を携え鹿児島にもどる。そして久光らを説得、軍を率いての上洛をめざす。
鹿児島で大久保は欧州経験の長い寺島宗則(てらしまむねのり)から幕藩体制(「封建制」)の維持は困難であり、版籍奉還(はんせきほうかん)から廃藩置県(はいはんちけん)につながる流れは必然であるといった中央集権性をめざす考えを聞いている。そして寺島は大久保らとともに上京する。他方、体調不良で鹿児島に残った小松は、土佐の後藤と連携を取りながら、政体論(「議事堂」のあり方)の研究をすすめる。薩摩でも、あらたな政体への模索が本格化し始めた。

王政復古クーデタと列藩同盟派の巻き返し

薩摩は、軍隊を率いて入京すると朝廷工作を本格化、宮廷クーデタによる事態の転換をはかる。宮廷クーデターの中心は一貫して天皇中心の政治をめざしてきた公家の岩倉具視(いわくらともみ)であった。
大久保と岩倉は、朝廷中心の政権において徳川氏=慶喜の力をいかに削ぐか、自分たちのヘゲモニーをいかに獲得するかを検討する。大政奉還によって将軍への「大政委任」が白紙になった以上、「天皇の命令」は「国家の命令」との意味合いを持つ。岩倉グループはこの点をつく。天皇個人を確保(「『玉(ぎょく)』を握る」)し、その権威で変革を進めようとしたのである。
そのためには「天皇親政」の実現が重要である。将軍のみならず摂政関白を廃止したことにはこうした意味が含まれる。孝明天皇の死は、天皇を『玉』として用いることを可能にしていた。睦仁天皇は岩倉グループの一員・中山忠能の孫でもあった。
こうして慶応三年十二月九日(1868年1月3日)決行されたのが、王政復古のクーデタである。将軍職などが廃止され、天皇親政が宣言された。慶喜は新政権の名簿から除かれた。しかしクーデタに参加した五家のうち慶喜排除を意図していたのは薩摩と芸州のみであり、後者も薩長のような強い意志を持っていたわけでない。他の三家、尾張・越前・土佐は大政奉還を歓迎し、慶喜が天皇新政府の中心に座ることを当然と考えていた。こうした諸家は朝廷(実際は岩倉)の命令をうけ、躊躇しつつクーデタに参加していた。他方、薩摩の盟友長州は、クーデタの直前、ようやく入京を認められた状態であった。
新政府の分裂状態はその日のうちに表面化する。夕刻から開かれた小御所会議での「将軍の力を削ぎ財政基盤を確立するため旧将軍家に『辞官納地(じかんのうち)』」をもとめる」との提案は、山内豊信ら雄藩連合派の激しい抵抗で宙に浮く。これ以降、松平慶永らの粘り強い巻き返し工作によって「辞官納地」は骨抜きとされ、慶喜の政権参加も実現することが決まる。慶喜が政権に参加すると、前将軍の威光と旧幕府の組織・官僚制度、財源、軍事力(それは急速に近代化されつつある)、そして慶喜自身の能力によって、新政府のリーダーの地位を得ることは明らかであり、クーデタ以前の状態に戻ることが予測された。頼りの岩倉すら動揺し、大久保・西郷ら薩長のヘゲモニーは失われつつあった。かれらにとって頼りになるのは強力で統制のとれた薩長の軍事力しかなかった。慶応三年は、このような状態で暮れる。

鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争~新政府の勝利と諸藩の屈服

こうした情勢を一挙に変えたのが慶応四年一月三日(1968年1月28日)にはじまる鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いである。薩摩の挑発に乗せられて軍事行動をおこした旧幕府側は戦闘に敗れ、さらには「朝敵」という屈辱的なレッテルを貼られる。旧幕府は統治の正統性を失うのみか征伐の対象ともなる。新政府の勝利をみた中部以西(越後を除く)の諸藩は新政府への服従を誓い、対旧幕府戦争に参戦する。
新政府は、列強との信頼関係構築にも成功した。列強と行進中の岡山・池田家との間の起こった神戸事件の解決に乗り出した伊藤博文らは、官僚的で慎重な幕府の姿勢とは異なり強い当事者能力をもって即断即決の対応を行う。「卑屈な交渉」との評もあるが、担当した伊藤らが新政府中枢部と同じ方向性をもって交渉にあたったことが列強との信頼感をつくりあげた。
鳥羽伏見の戦いとこれにつづく戊辰(ぼしん)戦争は、諸大名家と新政府の関係を劇的に変化させた。戦争は旧来の秩序を一挙に破壊した。各大名家は「官軍」に参加して旧幕府軍と戦うか、旧幕府側について「賊軍」となるかの二者択一を迫られる。尾張では親幕府派への過酷な粛清も実行される。「官軍」への参戦を決めた諸藩は、政府軍の規格にもとづく近代的装備での軍役を命じられ、槍や弓の参加も、従者を連れてくることも拒否された。「軍人としての武士」のあり方が否定され、「一兵士」としての参加を求められたのである。

諸藩の崩壊過程の進行と版籍奉還

戊辰戦争の参戦は諸藩の財政危機を致命的とした。またこの戦争をきっかけに「藩」政には戊辰戦争に参加した下級武士らが参入、次々と出される政府の政策を受容した。こうして「藩」の主体性は失われ、旧幕領をもとにした直轄地「府」「県」とならぶ「地方機関」としての「藩」(「藩」はこのとき公的な名称となる)の性格を強めた。こうして府藩県体制が成立する。家老・執政などの職制は廃止され、新政府の定められた職制に統一された。各大名家=「藩」は新政府への屈服する。
こうした流れは翌年の版籍奉還(はんせきほうかん)で加速される。「藩」は正式に国家の土地・人民を監督する「地方機関」として位置づけられ、「地方官僚」である旧「藩」主=「知藩事」が中央政府の命令をうけて「地方行政」を進める。公的な地方機関としての「藩」の成立が、皮肉にも幕藩体制の一方の極で大名のもとの「半独立国」であった「藩」の解体を促進した。

(小括)幕藩体制の崩壊と「オールジャパンをめぐる抗争」としての幕末政局

すでにみたように、19世紀にはいるころ幕藩体制はすでに弛緩し、「賞味期限切れ」の状態となっていた。
連帯責任制と相互扶助にもとづく「村」共同体の弛緩は、それに年貢の徴収や治安維持などの機能の多くを依存していた非国持中小大名など弱小領主の基盤を破壊し、「藩」の維持を困難にした。財政難は、大都市の大商人の借金と領内の商人らへの臨時課税、藩札・貨幣密造など領民への負担転嫁によってまかなわれたが、多くは返済されることはなかった。負債はもはや返済不能レベルに達していた。
武士が「平和の維持」という身分的「役」を果たさず、農民が「百姓」として年貢を「米」納するという「役」も実態から遊離し、都市民はこれまでの「役」と違う形の臨時課税を徴収される。「役」にもとづく身分秩序も崩壊しつつあった。
幕末の混乱と戊辰戦争、これにつづく混乱は、幕藩体制を破綻させた。版籍奉還後には「廃藩」を申し出る藩が相次いだ。幕藩体制の解体と中央集権化=「廃藩置県」は、寺島が指摘したように不可避であった。
幕末の抗争は、ペリー艦隊の来航による開国と、日米修好通商条約に始まる開港、すなわち「主権国家体制」と世界資本主義(「世界=経済」)への本格的包摂という状況の下、いかにこの事態に対応するか、対応しうる体制をつくるかをめぐる争いであった。「大政委任」の立場に立って、幕府専制体制に固執し反対派弾圧をすすめた井伊直弼が殺害された桜田門外の変以降、天皇主権を前提に「挙国一致」=オールジャパン体制を構築する点ではほぼ一致する。
しかし、天皇権力を利用することで従来の執行権力としての地位を保持し、自らのヘゲモニーの下で改革を進めようとする幕府側(とくに一会桑政権)と、将軍は大名と同じ立場となるように力関係を組み替えることで天皇のもとに権限を集中し諸外国に対応できる挙国一致=オールジャパン体制を築こうとする長州や薩摩をはじめとする勢力が対立した。こうした主張の背景には、幕政から排除されていた外様・親藩などの雄「藩」、中下級公家、さらには下級武士・豪農商らによる地位向上をめざす動きが隠れていたことは言うまでもない。
両者の間には、幕府を中心としつつ、他の勢力の政治参加を勧めるべきという松平慶永に代表される改革派大名たちが、当初から幅広く存在しており、政体論ではこの立場がリードしていた。
薩摩藩も長くこの立場で動いていた。しかし、自らの権限の維持に固執し、高圧的な姿勢をとりつづける幕府=慶喜らの姿勢が変わらない以上、実質的な変革はあり得ないという認識にかわっていく。そして大政奉還によって慶喜が改革派の立場に移り、自らのヘゲモニー下に近代化改革を進めようとすると、軍事力の行使を覚悟しつつ、クーデターの挙に出る。さらにこれが無効になりかけるなか、挑発行為によって戊辰戦争に持ち込んだのである。
慶応三年末から翌年正月段階で「天皇の信任」を得て執行権力の中心に潜り込んだ岩倉や大久保・木戸にも明確な国家イメージがあったとは思えない。はっきりしていたことは自分たちが中心になって旧幕府とのたたかいをすすめること、その過程を通じて諸藩を屈服させ協力を取り付けること、外国との良好な関係を築くこと、こういった内容でしかなかった。この段階では、慶永らの唱える公議政体論で通用すると考えていたかもしれない。五ヵ条の誓文はこうした空気を反映している。
しかし、事態はそれを許さなかった。幕府の崩壊は全国的執行権力が崩壊したことでもあった。さらに戊辰戦争は諸「藩」の体力を奪い、維持困難な状態にしていた。身分制的秩序も弛緩していた。こうした状態を「公議政体」で対応することは不可能であった。「公議政体」論は幕藩体制というすでに賞味期限の切れた体制に依存したものであり、内外の情勢はより強力な執行権力と「革命」的な諸政策を求めていた。
大久保や木戸、岩倉らの前には幕末の抗争を経て獲得した最大の武器があった。「天皇の信任」という武器が。かれらはこれによって執行権力の独占を図った。その権力をもとに「革命」的ともいえる諸政策を進めていく。政治参加という「オールジャパン」は保留とされ、富国強兵をめざす強力な中央集権体制、「上からの『国民』」形成」に人々を包摂する、いわば「包摂のオールジャパン」が目指される。
混迷をつづけた幕末政局の最大の結果は、「天皇の信任」を名目にした薩長の中・下級武士出身の「革命」指導者のもとに権力を集中され、執行権力の独占を可能にしたことであったのかもしれない。そして、彼らとその後継者は執行権力を独占しつづける。それは明治憲法体制の成立後も、敗戦時さらには敗戦後まで受け継がれていく。
幕末の政局では、つねに「挙国一致」(=オールジャパン体制)が叫ばれた。その内容は、時期・立場・論者によってまちまちであった。将軍あるいは天皇を中心とした大名に限定されたもの(列藩同盟)。二院制的な形式をとり武士階級代表の参加も考えたもの(公議政体論)、さらに草莽(そうもう)とよばれる豪農や豪商の参加もイメージしたものなども生まれる。公議政体論が大名と大名家のもとにいる武士の代表という「間接民主制」のようなものをイメージしていたのに対し、草莽蹶起(そうもうけっき)論では自覚した草莽による「直接民主制」流のとらえ方となる。こうしたものが挙国一致という名の下に渾然一体となって存在していた。
ただ、五ヵ条の誓文と同日に出された「五榜(ごぼう)の掲示」の存在が示すように、この時期の「参加のオールジャパン」に一般民衆は想定されていない。
「参加のオールジャパン」をめざす動きは、変革のスピードに対処できず、廃藩置県と身分制解体で基盤を失うなかでいったん挫折する。その後、維新官僚と呼ばれるかつての薩長の中・下級武士出身者らを指導者とした開発独裁政権のもと、急進的な改革がすすめられ、ひとびとは上からの国民国家のなかに「包摂」されていく。人びとは「国民」(「臣民」)としての義務は求められながら、その権利は認められない。「参加のオールジャパン」なしで「包摂のオールジャパン」のみが本格化する。
しかし、明治国家が、近代的な国民国家をめざす以上、その権力の「正統性」と「正当性」を確保するためにはなんらかの形で被治者の合意を得る必要がある。あらたな「参加のオールジャパン」をどのように構想するか。権力維持、失われた権力回復にもこの理念は復活する。さらに、この理念は新たに権力参加にも、さらにその範囲を民衆の側にも広げるためにも用いられる。
「包摂のオールジャパン」の急激な展開と「参加のオールジャパン」排除と、新たな「参加のオールジャパン」の模索、こうした流れがこれ以降、展開されていく。

つづく

<目次・リンク>

  1. はじめに~近代日本をどう捉えるのか
  2. 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
  3. 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
  4. 「開発独裁」政権としての維新政府
  5. 「明治憲法体制」の矛盾と展開
  6. 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
  7. 戦時体制下の「革命」と戦後社会
  8. 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望
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