5_権力中枢の「空洞化」と政党内閣

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権力中枢の「空洞化」と政党内閣
~日本近代史のとらえかた(5)

<目次・リンク>

  1. はじめに~近代日本をどう捉えるのか
  2. 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
  3. 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
  4. 「開発独裁」政権としての維新政府
  5. 「明治憲法体制」の矛盾と展開
  6. 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
  7. 戦時体制下の「革命」と戦後社会
  8. 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望

開発独裁政権の運命と日本

20世紀後半の第二次世界大戦後、韓国や東南アジアなど世界各地で生まれた開発独裁政権は、1987年6月革命の韓国を手はじめに1990年代のアジア通貨危機にかけて次々と倒れ、民主化がすすんでいく。開発独裁政権は、国際関係の緊張(この時期は植民地支配からの独立と東西冷戦であるが)を背景に、一定の生産力段階で成立するものであるが、人権や民主主義といった価値を犠牲として開発を図るものである以上、冷戦構造の終結といった国際関係の変化と、開発の成果としての生産力の上昇、国民の生活水準の向上といった条件の中で崩壊せざるを得ない宿命をもっていた。

では、こうした開発独裁政権のモデルとなった19世紀後期の維新政権(明治政府)はどうか。
主権国家体制に「半未開国」として組み込まれた「屈辱」をバネに成立した維新政府は、「条約改正」(「破約攘夷」が姿を変えたもの)実現のため「富国強兵」「文明開化」を国家目標にすえ、それを実現するため「天皇の意向」を正面に打す開発独裁的な執行権力専制体制を打ち立てた。
たしかに開発独裁システムは「絶大な効果」を発揮し、日本は急速な「近代化」に成功する。しかし実現されつつある「近代」は欧米のそれとは大きく様相を異にし、20世紀後半の朴政権やスハルト政権が達成したそれに酷似していたことはいうまでもない。戦後の開発独裁政権がそうであったように、1880年代後半の日本でも急速な経済発展(産業革命が本格化)が実現し、生産力も劇的に成長する。
こうした生産力の拡大は「人権の尊重」や「民主化」への志向といった要求も拡大させる。こうした要求に対応すべく、明治政府は政治体制のマイナーチェンジをめざす。つまり「天皇の信任」を正統化の根拠とする執行権力専制という基本は維持しつつ、憲法制定、法典の整備、国会開設といった「立憲君主国」風のアレンジをおこなう。
それがマイナーチェンジであったのか、本格的な変更であったのかはさておき、そのことによって政府と議会(衆議院)=政党との間の間での緊張が生じた。この緊張が緩和され、両者が歩み寄る最も大きな要因は日清戦争の発生にともなうナショナリズムの高揚のためであるが、政党にとっては政府と協力すればその力を借りて支持者の要望を実現でき、得票しいては次回の当選にもつながるということを議員たちは理解しはじめていた。政府の側からみれば、選挙によってしめされたブルジョワ・地主らの利益を実現することで、こういった階級の中に政府支持層を拡大できるのである。こうして議会=選挙をつうじて経済的支配階級を権力基盤に組み込むという回路が生まれた。
こうした過程を、戦後の開発独裁政権の「民主化」と同様としてとらえることもできるし、単に開発独裁を「いちじくの葉」で覆い隠した「外見的立憲制」にすぎないとの議論も可能である。ともあれ維新政府にはじまる開発独裁的な政権は階級的基盤を得ることで、開発独裁の性格を弱めたことは確かであろう。
こうした変化と並行しながら、1894年には幕末以来の悲願「条約改正」(かつての「破約攘夷」)の大筋での実現、日清戦争による植民地を獲得、日露戦争での大国ロシアに対する勝利、1910年には韓国を植民地とすることで、「主権国家体制」=「先進国の一員」となっただけでなく、「帝国主義国」=「大国の一角」に座をおいた。

開発独裁は払拭できたのか?

この時点で「開発独裁」の性格は払拭されるべきであったのであろう。20世紀後半との対比で考えれば、「革命」が発生し民主化のプロセスがすすむ場面である。しかし開発独裁が人類の目標たる「人権の確保と民主主義の拡大」に反するとして国際的非難を浴びる20世紀末とは異なり、20世紀初頭、弱肉強食の帝国主義時代において「開発独裁」の手法は「有効」であった。経済発展がすすむことは、国際関係は一掃の緊張をもたらしていたから。
とはいえ、国内での経済発展がすすみ、国際関係も明らかに変わった以上、「民主化」のプロセスが本格化することも明らかであった。それは日本も、大国(「帝国主義国」)にふさわしい政治のあり方でなけらばならない(「外に帝国、内に民主」)というナショナリズムの論理ともむすびながら進んでいく。いわゆる「大正デモクラシー」である。
開発独裁から引き継いだ執行権力の巨大な権限とそれを法的に支える帝国憲法は「天皇機関説」にみられるような民主的・立憲主義的な「解釈改憲」によってよみかえられ、行使される。しかし、それはあくまでも「密教」としての理解であり、「顕教」としての帝国憲法は、天皇中心の絶対主義的国家、「神権国家」という形を維持し続ける。こうした「顕教」としての理解によって維新政府以来の執行権力の権限は法・制度上に維持されつづけ、非民主的・非立憲主義的勢力はそれを利用して権力を維持しようとうする。政党勢力は、こうした勢力と対峙し抑制しようとする役割をもつが、他方で権力の分け前をもとめ対決をさけ妥協をくりかえし、ついには軍部などとの結びつきもつよめる。そして「民主化」の力が衰えると、軍部や右翼は「顕教」的な原理主義を高唱し、国家諸機関・装置は制御能力を失い暴走する。
こうしたようすを、20世紀初頭の日本のようすから見ていく。

条約改正と日露戦争~国家目標の「達成」と混迷

すでにみたように条約改正の達成と日露戦争の勝利は、産業革命の本格化と相まって、日本の近代の大きな画期となった。これまでのような強引な「近代化」がもはや不必要となったはずなのだから。
他方、民衆のなかからは、日露戦争で得たものが国民の「犠牲」や「負担」と釣り合うものであったのかとの疑問が生じた。さらに戦後にもひきつづく重税は日本全体を沈滞した空気とした。ポーツマス条約締結反対の日比谷焼き打ち事件をきっかけに、東京の町では「細民」とよばれた貧困層の暴動が相次ぎ、米騒動につながる大衆運動の高揚を生み出す。労働者の組織化もみられ、労働運動が世間の注目を浴びる。足尾鉱毒事件をきっかけに、公害問題が世間の注目をあびる。
若きインテリの間では自殺の流行がみられ、社会主義への関心も高まった。資本主義の発展は都市中間層の増加につながり、新旧の中間層による運動も活発する。ジャーナリズムも影響力をまし、三浦銕太郎(みうらてつたろう)や石橋湛山(いしばしたんざん)らは「小国家主義」「植民地放棄論」などをとなえる。こうした発言も一定の市民権を得て受容される空気も醸成されつつあった。
列強の抑圧(「屈辱」)からの自立をめざすというこれまでの大義名分は失われ、富国強兵というスローガンも色あせ、政府への求心力は失われつつあった。「坂の上の雲」をめざした「明治の精神」は明らかに時代遅れとなった。
国民統合のためには新たな国家目標が必要であった。

新たな「上からの再統合」の動き

日露戦後の桂園時代において、政友会総裁の西園寺公望と実質的な指導者・原敬は伊藤流の政党政治をすすめることでブルジョワ・地主の政治参加を促進することで新たな統合をすすめた。他方、国家目標の喪失のなか、閥族代表ともいえる桂太郎は「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」をだし新たな国家目標の設定と国民意識の高揚を図り、地方名望家や在郷軍人会などを軸に天皇のもとでの再統合を加速させようとし、さらにあらたな「敵」社会主義者への大弾圧事件=「大逆事件」を引き起こす。
国家目標も、「破約攘夷」の流れをうけつぐ「万国対峙」から、帝国主義的国際秩序のなかで大国として生きようとする「万国対峙」へと変わっていた。こうした目標の追求が執行権力の専制を生き延びさせる。しかし執行権力専制は執行権力内部の分裂がすすむなか、それぞれのセクショナリズムとも結びついて、近代日本のゆがみを促進することとなる。とくにそのゆがみを代表する存在であったのが陸海軍、「軍部」であった。

軍部の独立化

日清・日露という二つの戦争の勝利は、元老を頂点とする横断的・包括的な執行権力内部からの「鬼子」を生み出しつつあった。
維新政権は、戊辰戦争という暴力をきっかけに生まれ、「下からの正統性」の欠落は国家の「暴力」で埋められた。そのため国家の「暴力装置」の中心である軍隊は早くから整備される。実は、「富国強兵」ではなく「強兵富国」であったとの指摘もある。
執行機関内部でも軍隊は高い独立性のもとに置かれた。とくに、1978年の竹橋事件は、軍隊内部にも民権運動の影響が及んでいると知った軍の実力者山県有朋に危機感を抱かせた。山県は「軍人勅諭」を布告して、それにより天皇を最高司令官「大元帥」として位置づけ、軍隊はそれに直属するものとして、他の諸機関などの介入を許さない統帥大権の体制(「軍人勅諭」体制)を築きあげた。明治憲法制定に際してもこの体制を既成事実化して組み込ませた。
このように軍隊は、他の国家機関・執行機関からの独立性を高めていく。しかし、当初は山県や大山といった軍人もかねる藩閥政治家=元老が人間的なつながりによって軍部の独立性を抑制していた。しかしそれはあくまでも、「人」的なつながりによる抑制でしかなかった。
二つの戦争の勝利は、軍人たちに「自分たちの『血と汗』が日本を守り、新たな領土を加えた」という自負を与えた。さらに新たな領土は自分たちが手にいれた「獲物」であり、軍が主導権を得て統治すべきとの意識を持つものもいた。台湾での軍による稚拙な統治が激しい抵抗運動を引き起こし、双方に多くの犠牲者を出す。

日露戦争後、幕末以来の武士出身の軍人たちが次々と現役を退く。それにかわって軍中枢はしだいに陸軍大学校・海軍兵学校などで専門教育をうけてた軍事エリートが占めるようになる。軍事こそが国家のもっとも重要な事業であり、軍備拡張や排他的勢力圏確保などを強く要求する傾向が高まった。「国家」「国民」をトータルに考えるのではなく軍の要求を第一におく傾向が強かった。
さらにこれまで軍を牛耳ってきた「政治家」としての山県らへも反発する。日露戦争後、「満州」撤退をめぐる陸軍と伊藤らとの対立は元老すら容易に軍を抑えきれないことを示す。
また植民地は軍の管轄下にあるかのような意識も生まれた。実際に統帥権との関わりもあって、その統治の多くは軍人に任され、軍部の政治関与を加速させる背景ともなる。
こうして軍部の独立性が強化され、他者の介入を拒むなかで、自己の論理・利益のみを主張し、組織防衛には非常に神経質である一方、内部には極端にルーズなモンスターが姿を見せつつあった。大正政変に至る二個師団増設問題は軍部のモンスター化を示すものであった。
しかしこの時期、モンスターに立ち向かう勢力も育っていた。第一次護憲運動は、成長しつつある政党が大衆運動と結ぶことで、軍部の論理を押しとどめる。問題はこうした大衆運動をもとに「参加のオールジャパン」を更に実質的なできるのか、維新以来の開発独裁の枠組みをくずし力関係を組み替えていけるのかが課題であった。

「明治の終わり」と権力の「空洞」

1909年伊藤が暗殺され、1912年には有能な「政治家」でもあった明治天皇が死亡、第二世代の元老たちも高齢化し、つぎつぎと死亡、桂など第三世代の政治家たちも後を追う。一方で、軍部の独立化がすすむ。執行権力を担う官僚の間でも、これまで通りの専制的な権限を維持しようとするグループと、政党との結びつきを強めようとするグループに分裂、後者は政党との融合をすすめる。
権力間の調整を担ってきた元老らの老齢化・死亡によって、国家権力~内閣・軍部・宮中・外交など~を横断して権力を行使することの困難さを一挙に増大させていった。権力の中枢部に空洞が生じつつあった。議会に対する執行権力の優勢は維持されているのだが、執行権力全体をコントロールしマネージメントできなくなりつつあったのだ。近代日本を作り上げてきたというカリスマ性を持たない政治家たちに元老たちの代わりを期待することは無理であった。明治憲法体制の構造的欠陥が露呈しはじめる。

可能性としての原敬内閣

本来なら国民代表としての正統性をもとにした議院内閣制による政党政治こそがこうした欠陥を補いえたのであろう。伊藤が立憲政友会をつくろうとしたねらいもそこにあったのであろう。さらに、第一次護憲運動で窮地に立った桂太郎さえも政党(立憲同志会)設立に動き、山県を怒らせる。政党の支持なしには政治が運営できないことを閥族政治の代表で山県の愛弟子であった桂までもが理解する。国会、そこに代表される諸政党の協力なしで政府を運営することは非常に困難となっていった。桂内閣の後を継いだ山本権兵衛も大隈重信も政党の協力なしの政権運営は困難であった、寺内非立憲内閣は非常に不安定な政権となる。
こうして政党との協力を強く拒否しつづけた山県もこうした動きに抗しきれず、原敬政友会内閣の成立を認める。原は巧みに山県との信頼関係を築く。強力な原内閣の出現は議院内閣制にもとづく国家統合の可能性が強めた。政友会・原の手法はおなじみの利益誘導による得票拡大であったし、党利党略にもとづく選挙制度改革であった。自分たちの支持基盤である小地主・自作農上層にまで選挙権を拡大したが、普通選挙は時期尚早としてこれを拒否することで山県らとの利益の調整を図った。そして、逆に普通選挙を実施しないことを争点に総選挙にのぞむことで大勝を得る。この議席数をもとにより有力な政策を進めるはずであった。しかし利益誘導の政治はその副作用ともいえる汚職の蔓延をまねいた。また戦後恐慌による経済の不振は社会不安を拡大させる一方で積極財政を実施を困難とした。こうしたなかで原が暗殺される。その後は高橋是清が引き継ぐが、軍部攻撃をすすめるかれにたいし山県らは批判的であり、他方のリーダーである加藤高明は大隈時代の二一箇条要求をめぐる強硬策によってやはり評判が悪かった。こうした旧勢力・執行権力との強いつながりをもつ有力政治家がいないことにより議院内閣制の流れは挫折する。

担い手亡き開発独裁~元老政治終焉のなかで

山県は皇太子妃入内問題(「宮中某重大事件」)で力を失い、失意のうちに死亡する。山県の死は維新政府以来の開発独裁の流れを引く政治の終了を意味していた。おくれて追加された西園寺をのぞき元老はいなくなり、首相指名をのぞき、元老の調整機能は失われていく。このことは執行権力の中枢に大きな空洞が生じたことを意味する。制御機能を失った国家諸機関の間では、国家全体のなかで政策をすすめるよりも各機関・装置のセクショナリズムが重視される傾向が出る。自組織・派閥の論理や利害が国家の利害として打ち出されるようになる。
その中心が民間右翼などにもつながりをもつ巨大な暴力装置、軍隊であったことは言うまでもない。軍部は組織の利権拡大・予算獲得を自己目的化し、仮想敵を設定しその脅威を宣伝する。自らの論理に固執し、批判を嫌い、ついには自らの利益のために暴力行使すらちらつかせる。
調整機能を欠き、セクショナリズムが幅をきかせた諸機関の利害は、国家的な見地からの調整が不十分のまま政治の舞台に持ち込まれ、やはり利益誘導に走りがちな政党をも巻き込んで合従連衡をくりかえす。しかし、しだいに声の大きく暴力を背景に脅迫的動きもみせる軍部のまえに萎縮し始める。

社会運動の高まりと政党政治、国民国家定着へ

こうした権力中枢の空洞は、正統性を有した国家意思で埋められるべきものであった。実際には元老に準じた「天皇の側近」がそれを担うことになったが、巨大化しつつある軍部の前には力不足であった。
本来なら、こうした役割は普通選挙にもとづく国民の意思による選挙によって「聖別」化された政党政治・議院内閣制であるべきだったのであろう。実際、経済・社会構造の変化を背景とした政治・社会運動に支えられた普通選挙運動、政党政治・議院内閣制をめざす運動は、上からのナショナリズムによりつくられた明治の「国民国家」を国民の参加意識を背景とした内実のある「国民国家」へと変えようとする「国民」の意思を示していた。そしてこうした大衆運動の高まりのなか、一九二五年の護憲三派内閣のもとでの男子普通選挙法が制定される。しかし、普通選挙への懸念から、治安維持法があわせて制定されたことは、注意してもしたりないことはない。
さらに本格的政党政治とはいうものの、実際は最後の元老西園寺公望の推薦によって正統化されるというこれまでの執行権力専制の手法を踏まえたものであり、そうした手順を踏むしか政党政治・議院内閣制の否定をめざした明治憲法下では実現しなかった。したがって議院内閣制にもとづく「政党政治」に似たものではあるが、厳密には議院内閣制とはいえないものであった。さらに軍部大臣や外務大臣・大蔵大臣といった主要な閣僚も政党外から選ばれるなど、総理大臣の権限は閣内ですら貫徹できなかった。いうまでもなく枢密院などの諸機関、宮中、各官庁の官僚の掌握はさらに困難であった。軍関係者の多くが統帥権をタテに、その指揮に従おうとしなかったことはいまでもない。1927年の金融恐慌における第一次若槻内閣と枢密院との対立は執行権力を掌握しきれない総理大臣の姿を示した。
普通選挙による国民の圧倒的支持を得ることでこうした執行権力内の空洞を政党内閣の側から埋めようとしたのが1929年成立の浜口雄幸民政党内閣である。浜口は軍縮条約をめぐる一連の過程で、海軍大臣の事務代行を担い、さらには議会の多数を背景に枢密院をも屈服させるなど、軍部をも含めた執行権力全体の把握をめざす動きを示した。だからこそ、軍部をはじめとする多くが激しく反発したのである。しかも世界恐慌の発生、さらに金解禁という経済学の未熟さゆえの失政がかれの足を引っ張る。そうして起こったのが統帥権干犯問題であり、浜口狙撃事件であった。

国家権力の崩壊と「生身の天皇」

1931年の浜口の辞職につづく柳条湖事件=満州事変の発生によって日本は国家としての一体性を失っていく。軍部、さらにその一部に過ぎない「関東軍」の暴走は、軍に追随するマスコミによってあおられ、それが不況に苦しむ民衆の支持として伝えられる。治安維持法と特高警察・憲兵などはこうした動きに批判的な声を上げることを困難にしていた。軍部や対外侵略の動きに疑問を持ったり、反対したりする声が圧殺されることで、いっそう軍部、とくに関東軍などの行動を支持する声が強調された。こうして、軍とそれに追従する勢力が力を増し、内閣や多くの政府機関内にも支持者が勢力をましていくなか、追認し、協力するしかない状態となる。
このように執行権力の一部が暴走し、それに疑問を持ち不安に思う人たちも沈黙しはじめ、暴走を制御できないまま、事実上支持せざるを得なくなる。こうして日本は日中全面戦争へ突入、陸軍中央すら停戦工作を進められない状態となっていき、最終的にはだれ一人勝算を持てないアジア太平洋戦争へと突き進んでいく。

戦争という「暴力」のなか、国家は、多くの人々は、自分や家族の生命、財産、自由、人間の尊厳などあらゆるものを差し出すことを求められる。にもかかわらず、国家への「参加」は否定する。
事態収拾の権限を失っていた政府・内閣はもちろんのこと、軍部も組織防衛と責任を負いたくないとの本能の前に事態を収拾できなくなっていた。こうした事態が「奥の院」に隠れていた「生身の天皇」を引き出した。天皇の前に軍と政治の首脳を座らせる御前会議にしか、国家の統合を維持する手段はなくなっており、すわっている「天皇の信任」を受けた人々さえもが事態を収拾できなかった。それは生身の裕仁天皇によって担われざるを得なかった。

「聖戦遂行」下の「革命」の発生

国家権力が制御不能状態におちいっていたにもかかわらず、執行権力の一部は、戦争への流れ「戦時体制の樹立」という至上命題を掲げることで活性化する。
維新政府は世界の脅威を声高に叫ぶことで国民を駆り立てた。1931年の満州事変にはじまる十五年戦争の開始、とりわけ日中戦争下にはじまる本格的な戦時体制はこの脅威が現実となったことを示す。この脅威の中、「聖戦遂行」「国家総動員」という呪文は軍部と同時に、執行権力とりわけ経済官僚ら巨大な権限を与えた。官僚たちは軍部と結んでこの「呪文」をとなえることで、維新官僚さながらの「革命」的な政策を推し進める。この「呪文」の前には地主も財閥ブルジョワジーも、華族も政党も、反発を感じつつも沈黙せざるを得ない。軍部すらも一目置かざるを得ない。こうして明治維新以来、時代遅れとなったシステム、寄生地主制も財閥中心の資本主義も次々と破壊されていく。かれらは軍部の影に隠れながら日本経済全体を運営しうるような巨大な権限を獲得する。「聖戦遂行」というスローガンの下、「総力戦体制」によってつくり出されたシステムとあらたな力を得た官僚の一群が、さらに巨大な「暴力」を背景に登場したアメリカ占領軍と結びつくことで、戦後の日本の姿をつくりあげていく。

小括・「天皇の信任」と「天皇の決断」

明治維新において、幕府を倒した薩長の中下級武士を主体とする武士の一群は「天皇の信任」を唯一の正統化の原理として自分たちの権力を集中し執行権力を独占した。かれらは「藩閥政府」との批判を受けつつ、欧米に学んだ知識人を官僚として組み込み、かれらにも開発独裁的な権限を分与することで執行権力としての自律性を確保、明治憲法体制のなかでの権力維持も可能とした。
他方、民権運動の流れを引く民党は国会開設とともに国会(衆議院)に席を得、「国民代表」との正統性を主張して執行権力と激しく対立した。そして、産業革命の進展、日清・日露両戦争という出来事をへて両者の調整がつき、議会=政党=地主・ブルジョワ階級と執行権力の相互依存的関係が生まれる。

日露戦争後の国家目標の喪失と混迷、明治天皇や元老たちの死、軍部の発言力拡大のなかで、執行権力は国家を統一的に運営する能力を急速に低下させる。国家は統一性を失い、執行機関はセクショナリズムを強め、分裂の度合いを高める。
他方、経済発展を背景に国民の中からは政治参加=「国民国家」の実質化を求める声がたかまる。こうした運動の高まりの中、調整の機能は政党政治に託されかけるが、それは政党同士の対立や軍部などの暴力の前に挫折する。統帥大権という「天皇の信任」を声高に叫ぶ軍部も、現場の行動を掌握できないにもかかわらず組織防衛本能を優先させ、事態はさらに悪化させる。
一部のものに権力を集中することで機動的な対応を出来るようにつくられたシステムであったが、その中心にだれもおらず、そこに自分以外のものが座ることを自らの権限への脅威と考えることで、このシステムは機能不全に陥る。
機能不全に陥っているにもかかわらず、組織防衛を優先する軍部などは反対派にさらなる「暴力」を加える。人々の間から議論が姿を消し、軍とその追従者の威勢だけのよい、しかし空虚な言葉のみが世間を覆う。人々は口を閉ざす。多くのものがそのあり方に疑問に感じているにもかかわらず、異を唱えることはできなくなる。既成事実に流され、「どうしようもなかった」との無責任な言葉を発しながら、無謀な戦争に突入、自滅の道を歩む。そして戦争の進行の中、すべての国家機関・諸装置が制御を失い、もはや国家の体をなしていない状態のなか、事態を収拾しうる立場にいたのは生身の天皇でしかなかった。天皇の「聖断」で戦争は終わる。天皇による「玉音放送」と戦争中止命令しかこの事態を収拾できなかった。

人々が沈黙を余儀なくされているなか、「聖戦遂行」「国家総動員」という声高に叫ばれるスローガンを利用し「革命」がはじまっていた。地主制や財閥資本主義を弱体化させ、日本を「福祉国家」に変えていこうとする「革命」が。
惨めな敗戦はこれまでの虚偽に満ちた「聖戦」という呼び方を、「侵略戦争」「無謀な戦争」というまっとうな呼び方へと修正する。ところが「聖戦遂行」目的ではじまった「革命」は新たな事態の中で更に推進される。アメリカ占領軍という新たな「暴力」を保護者として得ることで。占領軍の影響下に、開発独裁のDNAを受け継いだ官僚たちが、その手法をも受け継ぎながら、戦後体制づくりに邁進する。

(つづく)

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