朝鮮の植民地化(「韓国併合」)

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朝鮮の植民地化(「韓国併合」)

※2022年8月31日アップの新稿。以前のものは右のリンク(韓国の植民地化)より

日露戦争下の韓国~日韓議定書と第一次日韓協定

日露戦争における日本の最大の目的は朝鮮半島の支配でした後方兵站基地としての朝鮮半島も重要でした。
日本の軍事行動は朝鮮半島で開始されました。
開戦の前日2月7日の釜山の電信施設襲撃と海軍の鎮海湾占領にはじまり、戦争自体も旅順港奇襲攻撃と同時に敢行された仁川港のロシア艦隊攻撃ではじまり、ついで陸軍第一軍の仁川上陸へと続きます。

日露開戦の危機を感じた韓国政府は、前年8月両国に中立化を打診1904年1月には世界に対し中立宣言を発します。ロシアは興味を示しましたが、日本は無視します。
にもかかわらず、日本は中立を犯して韓国に攻め込む。日露戦争は中立を宣言した韓国への一方的な侵攻で始まりました。
日本軍の仁川上陸は韓国政府の威嚇でもありました。日本軍は2月9日には漢城府(ソウル)に入城、韓国政府はその圧力に屈服、2月23日日韓議定書を締結しました。
日韓両国は開戦前から議定書(「密約」)締結に向けた検討を進めていました。しかし実際に締結されたものは、検討されたものとは大きく異なっていました。
議定書は、韓国政府は日本の『施政の改善』を受け入れ、かわりに日本は韓国皇室の『安全康寧』をはかり『独立及び領土保全』を保障、第三国の侵害や内乱から韓国の皇室と領土を保全するその目的を達するため『日本の行動を容易ならしむる為め十分便宜を与ふる』と記されていました
簡単に言えば、韓国の「独立と領土保全」を名目に、日本からの内政干渉要求をうけいれ、日本(軍)の行動に「便宜」を与えるというものであり、日本軍が『軍略上必要な地点を臨機収容する』ことへの全面協力を約束させられました
その結果、①電信・通信機関の占拠、②膨大な鉄道敷設権と軍用地の強制収容、③軍用役夫の強制徴用などがおこなわれ、韓国全土は、日露戦争を遂行するための兵站基地にされたのです。
さらに日本政府は「政事上・軍事上において保護の実権を収め、経済上においても利権の発展を図る」として、8月22日第一次日韓協約をも強要します。この結果、日本政府が推薦した財政顧問・目賀田種太郎と外交顧問・スティーブンス(米人)が韓国政府に配置され、警察や教育・法律など各分野の要職にも日本人が配置されました。韓国政府に、日本流の行政手法が導入されたのです。

韓国駐箚軍も増強されました。(9000人⇒28000人)
進駐してきた日本軍およびかれらとともにやってきた日本人が多くの問題を引き起しました。韓国人の土地が軍用地や鉄道敷設地としてわずかな金額で「収容」され、「役夫」として周辺の民衆が無償で動員されました。一進会に属する民衆のように積極的に協力したものもいましたが、大部分は無償の強制労働でした。

軍用鉄道を破壊したために処刑された金聖三たち

さらに日本人業者や人夫・商人たちは、軍に必要以上の広さの土地を「収容」させ、その一部の払い下げをうけたり、自分たちの個人目的で役夫を使役しました。さらに住民への暴力・暴行事件も頻発しました。
韓国側も反発、抵抗運動が広がりを見せました。
これにたいし、日本軍は一方的な規則である軍律を制定、それに反した民衆をみせしめとして処刑するなど、抑圧体制が形成していきました。植民地下で全国化された武断政治が先駆的にすすめられていました

ポーツマス条約~当事者無視の取り決め

1905年3月の奉天会戦、日本軍はロシア側の戦略的撤退で惨勝ともいうべき勝利を拾います。しかしもはや立ち直る余力も残らない勝利でした。日本はなんとしても戦争を終結しなければならなくなります。ロシアも革命運動の激化に悩み、戦争終結をのぞみます。
さらに日本を支持するイギリスやアメリカも、ロシアとの関係が深いフランスやドイツも、戦争の継続は東アジアにおける力関係に悪影響をあたえると危惧し始めました
1905年5月末の日本海海戦は絶好の機会となりました。日本はただちにアメリカに仲介を依頼、世界は講和に向け動き始めました。
日本外交も本格化します。4月8日の閣議で朝鮮を保護国化する方針を決めた日本は講和の準備と並行しながら列強との交渉をすすめていました。7月にはフィリピン統治への支持と引き換えにアメリカと桂=タフト協定)、8月の第二回日英同盟締結仮想敵国をドイツとし対象をインドまで広げる、こうして米英両国に朝鮮保護国化を承認させました。フランスやドイツもこれ以上のロシアの失態を望んでいませんでした。日清戦争の失態を繰り返さないよう根回しを怠りませんでした。
 こうしてポーツマス会議が開催されます。勝利したとはいいきれない日本代表団の第一の目標は、韓国における日本の指導・監督権を承認させ、保護国化をロシアに了承させることでした。ロシアは「韓国の言い分も聞く」との一節をつけ加えようとしますが、強い主張もできず議事録にとどめることで妥協しました。
「保護国化を韓国政府に認めさせる」こと、ロシアにいわれるまでもなく日本政府の最大の課題でした。
この難題」、韓国に保護国化を強要する役割を担ったのが伊藤博文でした。

第二次日韓協約~外交権を奪う

1905年10月27日、閣議は韓国にたいする保護権確立の実施を決定、英米独仏にも連絡するとともに、特派大使・伊藤博文の派遣を決定しました。
韓国にはまだ2万3千人もの軍隊が、とくに4000人以上が漢城(ソウル)の町に残っていました。伊藤のやり方は軍隊の力を背景とした威嚇でした。

当時の王宮であった慶雲宮、純宗が即位、昌徳宮に移ると、高宗は徳寿宮と名を変えたこの宮殿に取り残される。

11月17日、日本軍は朝から王宮前や目抜き通りなどで「演習」と称した示威行動をはじめます。また兵士が市内各所に配置されました。
この日、御前会議が開かれたものの夜となっても決着しません。
そこに伊藤がやってきました。高宗は体調不良を理由に会議にでることを拒みますが、「政府大臣をして商議妥協を遂げしめよ」といってしまいました。
再開された会議に、伊藤や軍司令官も乗りこみます。伊藤は消極的な韓圭卨かん けいせつハン・ギュソル参政(首相)から進行役を奪い取り一人一人の大臣に態度決定を迫ります。外相は反対だが、皇帝にしたがうといってしまったため「反対とはいえない」と強引に判定されました。あいまいな発言は「賛成と見なす」と判定、賛成多数であると宣言しました。

しかし、韓参政は結果を皇帝に伝えることを拒み辞意を漏らし退室します。
このとき、伊藤が「あまりだだをこねるようなら殺ってしまえ」と大きな声でささやいたといわれます。ただ史料の信憑性には疑義があります
その後、会議では協定案の内容についてのすりあわせが行われ、皇帝の意見などもとりいれる形で成文がつくられ、日本側全権林公使と韓国の朴斉純ぼくせいじゅん外相の署名・捺印で、第二次日韓協定が成立したとされます。
なお、韓国の外部相の公印は、日本公使官員が外部省から奪うようにしてもってきたともいわれています。
なおこの場で「賛成」をした大臣は「五賊」と呼ばれ、現在に至るまで「国賊」として扱われつづけます。

第二次日韓協約は合法か、無効か
現在の韓国や北朝鮮において、この協約は「当該国の代表者に対する行為又は脅迫による強制の結果行われ」たもので、当時の国際法からみても無効であり、この協定を前提とする韓国併合条約なども無効であると考えています。
それに対し、日本政府は問題は多いものの有効であるとの態度をとっています。このため、1965年に締結された日韓基本条約は「すべての条約および協定はもはや無効であることが確認される」というあいまいな扱いで現在に至っており、北朝鮮との間は手つかず状態です。

保護国化された韓国と統監府

第二次日韓協約の結果、韓国の外交権は日本に奪われ、国際的にも保護国扱いとなりました。漢城に合った各国公使館は閉鎖され、韓国にかかわる外交案件は東京の日本外務省で扱われるようになりました。
韓国には統監府という天皇直属の監督機関が置かれ、内政に次々と介入、実質的な植民地支配がはじまります。初代韓国統監には伊藤が就任しました
なお、日韓両国間で帰属が問題となっている竹島が正式に日本領に編入されたのもこの年、1905年です。「こんな時期に日本領に編入したといっても、韓国が文句を言えるはずがないじゃないか」というのが韓国側の見解です。

韓国官民の抵抗~義兵運動と愛国啓蒙運動

これにたいし韓国の人々は強く抗議しました。
元政府高官らは高宗あてに反対の建白書を提出、容れられないと知ると抗議の自殺をします。殉死する人々も相次ぎました。高宗はかれらに「忠」の文字を与えることでその意志を伝えようとしました。

崔益鉉(1833―1906)大院君の親政以来、一貫して「衛正斥邪派」の立場から政府への批判的姿勢をくずさなかった。対馬の送られるときの写真

義兵運動も高まります。「衛正斥邪派」の中心として開化政策をすすめる政府に厳しい批判を繰り返してきた硬骨の老儒家・崔益鉉さい えきげん チェイッキョンは、日本に「韓国の自主・独立を明言しながら今回のような態度をとったことを謝罪せよ」との問罰状をたたきつけ、義兵を組織し立ち上がりました。しかし鎮圧にきたのが韓国軍と知ると、皇帝の軍とは戦えないとして投降、最後の流刑地・対馬で食を絶ち憤死しました。
漢城など都市部では、言論と出版活動、さらに教育の普及によって、愛国心の涵養をすすめる愛国啓蒙運動が広がりを見せ、英人ベッセルが創刊した『大韓毎日申報』を先頭に各新聞も批判的な記事を掲載しつづけました。

ハーグ密使事件~高宗のたたかい

伊藤と軍隊の圧力の前に屈服した高宗ですが、諦めていません。
高宗が頼りにしたのは国際世論です。「国際正義」に訴え、介入を求めつづけます。とくに期待したのはアメリカでした。しかし米大統領は会見を拒み、国務長官も冷淡な態度に終始します。
しかし高宗は屈しません。かれが注目したのがオランダ・ハーグで開催された万国平和会議でした。高宗はこの会議に代表を派遣、会議の場で日本の国際法違反を訴えれば国権回復が実現できると考えました
密使たちは日本側の目をかいくぐりハーグに向かいました。各国代表に高宗の委任状を提出、会議への参加を求めますが、韓国の外交権は日本にあり、高宗の委任状は無効であるとして参加は認められませんでした
やむなく密使たちはオランダのジャーナリストが主宰する会議で韓国のおかれた状況を訴え、さらに会場の外でアピール文を配布、日本の非を訴えました。
なお代表の一人は現地ハーグで客死、抗議の自殺ではないかともいわれました。

皇帝の退位と第三次日韓協約

皇帝の退位

こうした出来事をを知った伊藤は、本国政府に「局面一変の好機」との電文をおくり、当時の西園寺内閣は「①皇帝の譲位、②皇帝・政府の決定には統監の副署が必要③統監に副王・摂政を与える④大臣・次官に日本人を充てる」との方針を決定、元老たちは躊躇しつつ、最終的には現地の伊藤に任せることになりました。

高宗(左)と純宗(右) 飲み物に毒物を入れられた事件の結果、純宗には心身に障害が残っていた。

伊藤は強硬でした。自ら高宗に面会する一方、李完用り かんよう、イ・ワニョン首相ら皇帝の説得を行わせます。高宗は激怒、拒否しようとしますが、状況の厳しさを知り「皇太子を皇帝の代理とする」と譲歩しました。しかし伊藤には通じません。高宗は太皇帝という称号を与えられ、側近の大臣たちは逮捕されます。皇帝・新皇帝とも不在の譲位式が挙行され、各国領事の新皇帝への謁見が促されます。そして高宗を元の宮殿に残したまま、新皇帝の純宗が新宮殿に移り、皇太弟となった幼い高宗の子、英王李垠り ぎん、イウンの日本への留学も決まります。
高宗のまわりから人影が消え、過去の人とされました。1907年7月のことでした
しかし、高宗への民衆の思いはつづきます。譲位の報を聞いた漢城の住民たちは国民決死隊を結成、内閣を弾劾する演説会を開催、軍隊の一部は脱走して銃撃戦を繰り広げます。譲位式の日には漢城や平壌の商店が店を閉じ、大集会が行われ、首相李完用らの家が焼き打ちにあいました。

高宗の死と三一運動

高宗が死亡したのは韓国併合後の1919年のことです。残された最愛のこども李垠と日本の皇族の梨本宮方子との結婚が決まり、結婚式直前のことでした。人々のあいだに、結婚に反対し毒殺されたのだとの噂が広がり、三一運動のきっかけにもなりました。

三・一独立運動のきっかけの一つは高宗の死であった。

戦い続けた高宗への思いは、やはり深いものがありました。
 ただ、その思いが純宗や李垠ら韓国王室に引き継がれることはなく、王室への思慕は高宗の死をきっかけに急速に消えます。
三一運動をきっかけに成立する臨時政府は(憲法上、現在の韓国政府の出発点として位置づけられています)は、大韓「帝」国臨時政府でなく、大韓「民」国臨時政府でした。

第三次日韓協定~名目のみの国家に

高宗の退位後、日本は李完用内閣との間で第三次日韓協約を締結します。これによって韓国側に保留されていた内政権も奪われます。
法令の制定や官吏の任免さえも、統監の同意が必要となりました。日本から大量の日本人が官吏としてのりこんできます。大審院長をはじめとする裁判官・検事、各省次官など重要ポストも日本人が奪い、日本人の次官が政策を決定する次官政治となります。執行するのも日本人官吏でした。
そして韓国併合後には、韓国/朝鮮人たちは行政の中枢から排除されていきました。
1909年段階で、日本人官吏は5370人(韓国人6837人)日本人警察官2136人(韓国人は3252人)となり、この段階で植民地時代がはじまっていたことがわかります。

外交権のみならず内政権も奪われ、韓国政府にはもはやなんらの権限も残っていない状態となりました。しかし併合論者も含め、まだ植民地化を選択しませんでした。

抗日義兵闘争の高まりと鎮圧

韓国軍の解散が1907年8月以降、すすめられました
韓国軍8426人が儀仗兵をのぞき解散を命じられたのです。
これに抗議し、兵士たちが武器庫を襲い、数時間におよび日本軍との銃撃戦をくりひろげ、生き残った兵士たちは民衆にかくまわれて逃走、義兵に合流しました。地方でも、兵士の反乱や脱走があいつぎ、その多くが義兵に合流、義兵運動は最高潮を迎えました。
この時期の義兵運動の特徴は、儒者・両班中心の義兵にとどまらず、軍隊解散をうけての兵士が加わり、さらに多くの民衆も支持・参加したことです。平民出身のリーダー(「義兵将」)も生まれ、果敢なゲリラ戦を展開しました。
だからといって、儒者・両班らとの良好な協力体制がつくれたとはいえませんが。

抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」より

ここに外国人新聞記者マッケンジーが撮影した有名な写真があります。ここには10代前半としか見えない少年が写っています。ここからも義兵運動が国民的な運動へと発展したことが見えてきます。
しかし、義兵たちの武器は火縄銃など旧式なものであり、日露戦争を戦った日本軍とは比べものになりませんでした。戦闘は一方的な虐殺という性格を帯びました。

日本側の記録によると1906年から1911年の6年間に1852回の戦闘があり、義兵側は死者17779人負傷者3706人捕虜2139人であり、参加した義兵は141818人となっています。しかし、趙景達はこれでも隠蔽がある、対ゲリラ戦のなかで行われた焦土作戦で殺害された一般農民が含まれていないなど、実際の犠牲者数は甲午農民戦争に匹敵する規模(趙の推計では5万人以上が死亡)であった可能性が高いと推定しています。
なお日本側の戦死者は136人、戦傷者277人です。

日本軍は火力で義兵たちを圧倒する一方、東学農民戦争で行ったローラー作戦をさらに徹底、義兵たちを追い詰めていきました。義兵に協力した村に対しては連坐制と称し、容赦のない虐殺・焼夷作戦を実施しました。
日本軍は憲兵警察という形で各地に駐屯していき、韓国人協力者を憲兵補助員としてやとい、その知識と影響力を用い追い詰めました。
義兵の一部は国境を越えて中国東北部やロシア領へと逃れ、抗日パルチザンとして抵抗をつづけました
国内での抵抗を続けた部隊もいましたが、追い詰められるなかで、富豪や地方官を襲撃するなど匪賊化したものも現れ、韓国人同士の争いも激化しました。

愛国啓蒙運動と「開化派」の苦悩

植民地化の危機が迫る中、漢城(ソウル)など都市部で広がりをみせていたのが愛国啓蒙運動です。
日露戦争下に設立された大韓自強会は、教育振興や殖産興業をすすめ国権回復のための実力養成を図ろうと主張、啓蒙運動を活発化させます。それをうけさまざまな団体が結成され、全国各地で私立学校設立運動も活発化しました。

大韓毎日申報 併合後、総督府に買収され、御用紙「毎日申報」という武断政治期唯一の朝鮮語紙となる。

マスメディアも活発化、英人ベッセルが創刊した『大韓毎日申報』は治外法権を盾に軍律によって政治的な記事を取り締まろうとする日本側を翻弄しました。他の新聞も慎重な姿勢をとりつつ日本への批判的な記事を掲載しつづけました。

開化派」と明治日本
しかし国権回復のための実力養成をはかるという愛国啓蒙運動の姿勢には、日本側に利用されやすい性格ももっていました。
この運動は朝鮮の近代化・文明化をめざす「開化派」の伝統を受け継いでおり、それこそが自国を救う道だと考えていました。
彼らにとっては、義兵運動は「義名暴行」「絶対的非識」とみえていました。また当時の社会ダーウィニズムの弱肉強食という考えの影響もあり、弱小国は強国の支配下におかれても仕方ないという意識がありました。趙景達は「帝国主義を批判しつつ、他方では帝国主義化の文明化に期待」する傾向ももっていたと指摘します。
以前から開化派のなかには、一向に進まない文明化の現状を嫌い、伝統的な朝鮮/韓国の価値観に固執する勢力に反発、日本などの力と「文明」に期待する傾向がありました
韓国植民地をすすめる中心となった李完用は韓国の国民国家化をめざした独立協会の指導者でしたし、日韓合邦論を展開し韓国併合を助ける一進会はみずからを愛国啓蒙運動の一環として位置づけていました。愛国啓蒙運動の中心大韓自強会の後継者である大韓協会にも伊藤が唱える「自治」への期待があり、一時は一進会と提携する動きもみせました。
愛国啓蒙運動も、こうした「開化派」の伝統のもとにありました。
この点については別稿での展開を予定しています。

伊藤の自治植民地構想と巡幸

伊藤が韓国の将来をどのように考えていたかについては、議論が分かれています。

伊藤博文と皇太子李垠 (1907頃)伊藤は日本に留学することになった李垠の後見人となった。

だ完全に植民地化すれば多額の費用がかかり、問題も多いと考えており、皇帝の権威で「忠君」意識に働きかけ、日本への協力を引き出そうと考えました
保護国のままでよく植民地化までは考えていなかったという説と、皇帝を何らかの形で残し自治議会も設置するといった自治植民地をめざしていたとの説などがあります。
ともあれ、実際の植民地化とは異なるありかたをめざすものであったことは確かであり、日本の指導者のなかにもさまざまな構想があったこと、急進的併合論と漸進的併合論が併存してきたこともわかってきました。
1909年初頭、伊藤は皇帝・純宗をつれ、韓国各地を巡幸します。
明治天皇が全国を巡幸することで、全国の民衆の意識を天皇制に組み込んだとの成功体験があったのでしょう。皇帝への崇拝と日本の援助で韓国を開発し、繁栄を実現する。反日運動も沈静化し、韓国国民の支持も得られる、そのように考えていたと考えられています。各地で提灯行列など奉迎行事も準備させました。
しかし結果は惨憺たる失敗でした。純宗が日本に連れ去られるとの噂が広がり、漢城の路上には痛哭する人物が行く手を塞ぎ、釜山では純宗が乗る軍艦を韓国人たちが乗った大量の船がとりかこみ「純宗を日本に連れさるなら投身する」と騒ぎました。伊藤の演説は激怒した観衆によって妨害され、多くの町で奉祝の日本国旗が拒否されました。
韓国のひとびとは、伊藤を、日本を拒否しました。

完全植民地化方針へ~伊藤路線の挫折

この巡幸は伊藤の意欲を一気に低下させました。

韓国服を着た伊藤(後列中央)と伊藤夫人(前列左から二人目)

伊藤は、韓国統監辞任の意向を伝え帰国しました。
その伊藤のもとを、首相桂太郎と外相小村寿太郎が訪問します。韓国完全併合案への同意を得るためでした。
桂と小村の心配をよそに伊藤は即座に同意、二人は拍子抜けしたといいます。
1909年6月、伊藤は韓国統監を正式に辞任、7月桂内閣は「韓国併合に関する件」を閣議決定、適当な時期に韓国併合を行うことを決定しました
残務処理のため、伊藤は再び訪韓、法部と軍部を廃止することで自治植民地構想を完全に放棄しました。
そして新統監・曾根荒助のもと、9月から「南韓大討伐作戦」とよばれる徹底的な義兵討伐作戦が開始され義兵運動は鎮圧されていきます
巡幸の失敗と義兵の激しい抵抗、韓国の人々の強い思いが微温的な構想を打ち砕きました。
伊藤は思ったのでしょう。
やはり軍事力を前面に出したやり方しかないと

伊藤博文暗殺事件~愛国者?テロリスト?

追い詰められた義兵たちのなかからテロという手段に向かったものがいました。こうして発生したのが伊藤博文暗殺事件です。

伊藤暗殺を報じた山梨日日新聞

1909年11月、伊藤はロシア外相との会談のため降り立った中国東北部・ハルピン駅で狙撃されました。ほぼ即死状態だったといいます。
犯人は韓国の民族主義者で義兵運動のリーダー安重根あん じゅうこん、アン・ジュングン。裕福な両班の家の出身のキリスト教徒で、東学農民戦争では農民軍とたたかったことを誇りにする武人タイプの人物でした。当初は愛国啓蒙運動に参加、企業家をめざしましたが、一転、職業的民族運動家をめざし義兵運動に参加しました。義兵の戦闘行為として伊藤をねらったと主張しました。

安重根(1879-1910)裕福な両班の出身。キリスト教徒でもあった。

伊藤暗殺を知った日本では、当初は怒りが渦巻きます。しかし、安が法廷にあっても、死を覚悟し堂々とした態度をくずさないこと、その愛国心などに感銘を受ける人もあらわれ、憂国の志士と考える人々も現れました。
安は獄中で『東洋平和論』を執筆していましたが、処刑によって未完に終わりました。
安は、日本では、明治憲法を制定し、千円札の肖像ももなった偉人伊藤博文を暗殺したテロリストです。他方、韓国・北朝鮮では国を奪った悪人・伊藤を殺害した英雄であり、ソウルには安重根記念館が立てられています。
歴史は立場を変えると全く別の姿が見えてきます。

「韓国併合」への道

伊藤の死をきっかけに、一進会が動きました。
1909年12月、一進会はいまこそ日本と韓国が合邦すべきとの声明を発表、さらに皇帝・首相、および韓国統監に同様の請願を提出しました。
彼らは、日韓両国が一定の主体性をもちつつ連邦国家を形成することで、自らの自治を維持できる、その最後のチャンスであると考えたのです。

李容九りようきゅうイヨング(1868-1912)親日団体一進会の指導者であり、東学の一派侍天教の教祖。日本との合併が韓国民衆の解放につながると考えていた。

しかし、結果は裏目に出ました。友好関係にあった大韓協会が反対するなど批判の動きが広がり、主導権を奪われることに危機感を感じた李完用首相も反対を表明、完全植民地化をめざす日本も請願を拒否したため、一進会と日韓合邦論は力を失いました。
そのころ、義兵たちの主力をおって、日本軍が東北部・間島地方へむかったため、この地を領有する清が強く反発、これをきっかけに満州中立化をめざすアメリカなどの介入をまねくとの危惧が生まれました。
こうしたなか、この際、他国の介入の口実を作らないようにしるには韓国を完全植民地化すべきだとの声が急速にたかまりました。
完全植民地化への過程がはじまります。
最初は列強への根回しでした。イギリスには朝鮮での関税の現状維持をロシアとは東北部の「特殊利益」を認め合う第二次日露協約の締結で、それぞれ韓国の併合への承認を得るました。
病弱の第二代統監・曾根荒助にかわり陸軍大将で陸軍大臣の寺内正毅が第三代統監に就任、準備委員会が設置され、実施細案が詰めらます。
韓国国内では韓国政府から警察権を奪いとられ、日本軍による憲兵警察制度が導入されました
朝鮮の植民地化をどのように呼ぶのかとの議論がおこり、対等な印象の強い「合併」との用語や、完全な植民地化といった印象を与える用語も避けました。そこで「合併」という文字を上下を反転させ、上下関係をはっきりしつつ合併のニュアンスも残す「併合」という言葉が用いられたのです。

「韓国併合」~植民地化の完成

最後の課題は、江華島条約以来、日本が一貫して主張してきた建前=「ウソ」のあと始末です。
日本は、朝鮮/韓国の独立を守ると言い続けてきました。いわば国際公約です。植民地化は公約違反になります。これをいかにクリアするか、そこで用いられたのが「韓国が日本に合併をお願いした」という形式でした。

李完用(1856-1926)親米派・親露派から,日露戦争後親日派に転向。1910年「韓国併合に関する条約」を締結。「五賊」の筆頭とされる

1910(明治43)年8月16日寺内は、首相の李完用を呼びつけ、日本に併合を願うという依頼をさせようとします。
李完用がつけた要望は、国称としての「韓」の維持と、皇帝一族を日本の皇族同様に扱い尊称を与えることでした。韓国政府にのこっていた希望はこれだけだったのです。
にもかかわらず、寺内は前者を拒否し、後者のみ認めました。

条約案の第一条は「韓国皇帝は韓国全部に関する一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲与す」とし、第二条で「日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し且つ全然韓国を日本帝国に併合することを承認す」となっています。
韓国がお願いし、日本がそれを受諾したという形式のきわめて欺瞞的な内容です。
40年後、アメリカは同様のレトリックでポツダム宣言のしばりを無効化しました。日本がアメリカに防衛を依頼したとの形式で締結された日米安全保障条約、韓国の立場を日本、日本の立場をアメリカとすれば、きわめて似ていることがわかります。

韓国併合を報じた新聞記事

なお第三・四条では韓国の皇帝一家と皇族の処遇、第五条では功績のあるものの処遇、第六・七条では親日的な韓国人への保護や処遇が記されます。

8月18日、この条約の承認をめぐり、韓国政府の閣議が開催されます。反対したのは学部大臣ひとりでした。李完用首相は御前会議に彼が出席できないよう仕向けました。
22日、御前会議の席上で反対したのは甲午改革の中心人物で、ようやく流刑を解かれた金允植きん いんしょく、キム・ユンシクひとり、他のものは沈黙という承諾でした。
こうして純宗が裁可し、韓国併合条約が締結されました
韓国/朝鮮は国を奪われ、日本の植民地となります

条約締結の事実は一週間の間、秘密とされます。その間、美本政府は各国に伝達しました。
さらに日本軍は各地から憲兵を呼び集め、全体の約83%にあたる7582人が韓国に集まります。危険人物とみなされたものは拘禁され、演説会や集会も一切禁止されました。新聞・雑誌には厳密な言論統制が実施されるました。
そうして、8月29日、韓国併合、植民地化が公表されました。

韓国と日本

趙景達「近代朝鮮と日本」(2012)今回最も多く参照させていただきました。

朝鮮/韓国の人々は新聞でその事実を知ります。
趙景達は、憲兵の厳戒態勢のなか、韓国の人々は、諦めを持って受け入れるしかなかったといいます。
すでに乙巳保護条約と第三次日韓協約の締結によって朝鮮は日本に合体したも同然であった。また義兵活動も息の根をほとんど止められていた。民衆は暴力に翻弄され、生活はあまりの困苦に打ちひしがれていた民衆は、自身の流転の運命に呆然とするばかりであった。韓国併合条約の締結は、朝鮮社会にとって、それまでの条約に比べれば、実はさほどショックなことではなかった。(『近代朝鮮と日本』)

朝鮮貴族令が出され李完用ら「功績」があったものが華族に準じる身分を与えられ、両班儒生約1万人には敬老金が、模範的な孝子には褒賞が、大赦が実施され、未納の税は免除され、地税も減免、補助金などもだされるなど、植民地化をバラ色に描こうとした演出がなされました。
他方、朝鮮全土には憲兵警察網が張り巡らされ、軍隊の力で朝鮮を統治する武断政治がすでに始まっていました

日本国内は、祝賀ムードに酔いしれていました。

韓国併合をよろこぶ新聞広告(口中清涼剤)

祝い酒が振る舞われ、花電車が行き交い、バンザイバンザイの声が響き渡りました。
初代朝鮮総督となった寺内正毅は宴席で「小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と露骨な歌を詠み、自分を秀吉の時代の英雄に重ねました。
他方、詩人・石川啄木は「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く」と日本のやり方にショックを隠そうとはしませんでした。

こうして、朝鮮/韓国の人々がいう「日帝35年」が始まり、朝鮮/韓国民衆は植民地支配のもとに呻吟する状態におかれました。
また、朝鮮支配はまず陸軍二個師団増設問題という国内問題へ波及、朝鮮における特権的地位は陸軍の横暴を加速させました。
植民地支配の毒は、早くも日本・朝鮮/韓国、二つの民族を蝕みはじめました。

主な参考文献

趙景達『近代朝鮮と日本』
趙景達編『近代日朝関係史』
海野福寿『韓国併合』『日清日露戦争』
森山茂徳『日韓併合』『近代日韓関係史の研究』
和田春樹『日露戦争(上)(下)』
小川原宏幸『伊藤博文の韓国併合構想と朝鮮社会』

追記:

これは2022年8月31日に、新たに書き直したもので、以前のものは次のリンク韓国の植民地化)から見ることができます。

リンク:朝鮮近代史を学ぶ

朝鮮王国の歴史、とくに王国後期の歴史に興味のある方はこちらもご覧ください。<6>は「授業中継」の内容です。

1:朝鮮王国の中で
2:大院君の政治と朝鮮の開国
3:開化派の苦悩と壬午軍乱と甲申事変
4:東学農民戦争と日清戦争の発生
5:甲午・乙未改革と開化派の敗北
<6:日露戦争への道(1)朝鮮王国とロシア

 

   

 

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