桂園時代から原敬内閣へ(2)大正政変と第一次大戦

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桂園時代から原敬内閣へ
~新しい時代の政治を求めて~

Ⅲ、大正政変とシーメンス事件
~民衆運動の政治への登場~

(0)「明治」の終焉と「大正」のはじまり

1912年7月、明治天皇は発病、半月ほどの闘病ののち死亡します。糖尿病からくる尿毒症でした。ただちに嘉仁親王が天皇に即位、元号は大正と定められます。「明治」の終焉は、葬儀の日の、乃木希典夫妻の自死ともあいまって、人々に一つの時代の終わりと新たな時代の到来を感じさせました。

(1)明治末年の社会

改元時の内閣は第二次西園寺公望内閣でした。
この時期、日本財政は追い詰められた状態にありました。

少し前、1907(明治40)年度の歳出を見てみましょう。
歳出全体ににしめる国債費が29%と非常に多く、日露戦争(さらには鉄道国有化も)の後始末が財政を圧迫していました。さらに軍事費支出が33%と歳出全体の1/3を占め、植民地経費も3.3%を占めています。
こうして歳出のうちの約60%が戦争やこれに関係したものだということがわかります。
また政友会が主張する鉄道の拡張など積極財政にかかわるインフラ整備などが合計13%です。
現在のわれわれから見て不思議なのは、福祉や医療といった国民生活にかかわる民生予算はこの表から見ることができず、産業育成にかかわる奨励金も2%にとどまっていることです。
日露戦争が終わったにもかかわらず、軍事費は全体の1/3を占め、国債費とともに財政全体を圧迫しており、国民生活に関わる支出はわずかでした。

こうした財政事情は、国民にさらなる負担を強いるものでした。
人々は、日露戦争の終結によって税負担も軽減されるとおもっていました。しかし右のグラフに見られるように税負担はさらに増加します。
詳細に見ていくといくつかの点にも気がつきます。まずこの時期の歳入元は酒税など間接税中心であったことです。また条約改正に伴って関税収入が増加していることがわかります。さらに日露戦争をはさんで歳入に占める地租の割合が大幅に減少、代わりに所得税や営業税などの割合が拡大、歳入の面からもこの時期の産業構造の変化を伺うことができます。
こうした変化は、農業・農民への課税から都市・民衆への課税とまとめることが出来るでしょう。とくに都市住民の不満を高まり、三悪税反対運動なども広がりをみせました。
第二次西園寺内閣の時期、不況は深刻化していきます。これに対し、内閣内では緊縮財政を主張する西園寺総理や山本蔵相と、国債発行による積極財政を主張する原内相の対立が顕在化しつつありました。
しかし、それ以上に問題だったのは、二個師団増設をもとめる陸軍の主張でした。

(2)帝国国防方針と二個師団増設問題

日清・日露戦争を通しての勢力を拡大してきた軍部は、1907年あらたな軍事方針を設定しました。それが「帝国国防方針」です。
陸軍はロシア、海軍はアメリカを仮想敵として、陸軍はこの時点の16個師団から25個師団への拡大、海軍は戦艦八隻巡洋艦八隻保有の八八艦隊の保有をめざすという大軍備拡張方針がつくられました。
このような国家の将来にかかわる方針ですが、それは天皇の統帥大権除くするとして、主に参謀本部(陸軍)と海軍軍令部の協議で制定されました。その必要部分が内閣に示されたのは天皇の裁可を得たのちでした。内閣は軍部が決めた方針に従って、財政措置を求められたのです。

西園寺と軍部を描いた当時の風刺画
東京書籍「日本史A」p96

これをうけた当時の第一次西園寺内閣は、陸軍に対しては2個師団増設のみを認めました。
しかし不十分と考えた陸軍はその後もさらなる増設を要求、1912年になると朝鮮併合と満州問題の緊張を口実に朝鮮への2個師団増設を強く要求します。しかし、第二次西園寺内閣は財政難を理由にこれを拒否しました。
しかし、今回の陸軍は強硬でした。陸軍大臣上原勇作は直接天皇に辞職を申し出、海軍は後任の陸軍大臣推薦を拒みます。こうして、第二次西園寺内閣は崩壊します。
この背景にあったのは、西園寺が首相という仕事をいやがっていたという個人的事情が大きかったと言われます。そうした意味で、二個師団増設問題は渡りに船であったともいえます。これ以後、西園寺は何度も重要な場面で首相に推挙されますが、ことごとく断り続けます。

これをみた、メディアはこれは憲政にたいする陸軍・長州・山県閥の横暴、「陸軍による内閣毒殺」であると激高、閥族批判が一挙にたかまりました。こうして、「閥族打破・憲政擁護」というスローガンのもと、第一次護憲運動が始まります。

(3)第三次桂内閣の成立と桂の天皇利用

第二次西園寺内閣崩壊のなか、首相選定はひさしぶりに元老の手にもどります。しかし候補者は次々と辞退、首相選びは難航しました

桂太郎(1848-1913) 山口県生まれ、1900年第1次桂内閣を組織。元老の機嫌をとり、立憲政友会とは妥協して難局を切り抜け、その巧妙さは「ニコポン主義」(相手を懐柔するの意)と評された

前首相・桂太郎は、明治天皇の死亡を欧州旅行中に知り、ただちに帰国しました。帰国した桂に山県らがあたえた役割は、内大臣(兼侍従長)として新天皇を教育・補佐するという役割でした。嘉仁天皇(死後、大正天皇)が好印象をもっている桂が最適と考えられたのです。実際には首相としての実績をもとに独自路線をめざしつつある桂を抑えようとした山県ら元老の思惑もあったといわれます。
桂を宮中に押し込めた元老でしたが、人材難の中、やはり桂しかないとの結論に達しました。
このことは桂自身の願いでもありました。二個師団増設問題の強硬姿勢もかげにも桂の策謀があったといわれます。桂は新しい政権において、桂園時代とは異なる試みを考えていました。

大正天皇
大正天皇(1879‐1926)生誕まもなく髄膜炎を患い、その後健康を取り戻したが、即位式も健康が優れず、1921年皇太子裕仁を摂政に任じた。

桂にとっての難問は、いかに「宮中」から抜け出すかでした。元老たちの推挙と天皇による組閣命令がこれを可能にしました。
桂が用いたのは天皇を利用することでした。こうして内大臣を辞した桂ですが、今度は海軍が大臣を出そうとしません。そこで桂は天皇から前海軍大臣の斎藤実に「留任せよ」との命令をだしてもらいます。
桂の天皇利用は、師団増設問題での陸軍の横暴とともに国民の強い怒りを呼び起こしました。
桂は生身の天皇を表に立てることが天皇制を危うくするとの伊藤の深慮遠謀を理解しようとしませんでした。その無神経さが、天皇個人の資質と相まって、大正デモクラシーの幅を広げた面もあったのでしょう。

(4)第一次護憲運動=大正政変

こうした動きは、護憲運動という火に油を注ぐ結果となります。新聞や雑誌は大々的に報道し、実業界などからも批判が相次ぎます。
12月19日には国民党の犬養毅政友会の尾崎行雄らを先頭に憲政擁護大会が開催され、憲政擁護の声は大都市から地方へと広がっていきました。
当初、原敬ら政友会の主流派は慎重でした。原の頭には桂園時代の復活が選択肢にあったと思われます。
しかし桂は桂園体制の解体にむけて、強気な態度を見せます。新党結成を呼びかけたのです。自分が呼びかければ、多数の人々が自分のもとに集まると考えていたのでしょう。しかし、実際集まったのは予想をはるかに下回る数でした。

尾崎行雄の「玉座演説」

他方、桂が新党結成に舵を切ったことで政友会指導部も桂とたたかうことを決意します。こうして内閣不信任案が提出されました。提出理由の演壇に立った政友会の尾崎行雄は、桂の天皇利用を「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒さんとする」と指弾しました。
かつて「日本が仮に共和制であったら」と発言、「不敬」とみなされて大臣の地位を追われた尾崎のこのような発言が、今回は喝采をあびました。天皇に対する人々の考えもかわりつつありました。
この間、「閥族打破・憲政擁護」の声はさらにひろがり、2月1日には大阪で2~3万人が参加する野外集会が、2月5日には全国で数万人規模の大集会がつぎつぎと開催されます。国会周辺にも連日多くの人びとが詰めかけました。
こうした情勢にたいし、桂はまたも姑息な手段をとります。再び天皇を利用したのです政友会総裁で上流公家でもある西園寺に「前天皇の諒闇中は云々……」との「詔勅」を出し、政友会をおさえこもうとしたのです
政友会紛糾しましたが、ついには天皇の命令に逆らう形で、不信任案に望む方針を決めました。
なお、詔勅に逆った形となった西園寺は政友会総裁から事実上引退しました。
不信任案に賛成する議員たちは胸に白いバラの花をつけ、民衆は喝采をうけて、議事堂に向かました。国民運動と議員が一体となった瞬間でした。
桂はなおも抵抗しようとします。衆議院を解散しようとしたのです。これに対し、衆議院議長であった政友会の大岡育造が国会を取り巻く民衆を指さしながら説得します。「もしそのようなことをしたら、国会を包囲した国民が黙っていない、収拾がつかなくなる」と。
この日の朝には、海軍閥・薩摩閥の代表ともいえる山本権兵衛がやってきて、桂を面罵しました。
四面楚歌状態となった桂はついに総辞職を決断、それを前提として議会を停止しました。

新聞社を襲撃する民衆

しかし、議会の停止という事態は事情を知らぬ民衆を激高させました。
民衆は暴徒化、各所で警官と衝突、国民・都・やまと・二六などの政府系の新聞社や、警察署・交番を焼き打ちし、ついには軍隊出動にいたります。暴動は大阪、神戸、広島、京都など各地に波及、日比谷焼き打ち事件の再現となりました。
こうして第三次桂内閣は53日間という短期間で崩壊します。こうして第一次護憲運動は民衆の力で内閣を崩壊させるという日本史上まれな事件となりました。この過程を大正政変ともいいます。
この結果、藩閥・軍閥など明治の政治をリードしてきた勢力は力を落としました。さらに詔勅を乱発した天皇も権威を低下しました。このことは、天皇は国家の機関の一つであるという天皇機関説を実感として印象づける結果となりました。

(5)桂新党=立憲同志会の創設

第三次桂内閣を今ひとつ日本史に重要な遺産を残しました。戦前の政党政治を彩る二大政党の一つ、憲政会→立憲民政党への流れが生まれたのです。政党政治の担い手となる政治家とともに。
桂太郎自身、妥協と暗闘という桂園体制にいきづまりを感じていたのでしょう。桂は「情意投合」を拒否、新党結成に活路を見いだそうとしました。政友会に宣戦布告をしたのです。
その結果、桂与党で桂=山県派のボス大浦兼武が率いる中央倶楽部が全員参加、野党・国民党からも与党入りをめざす大石正巳・河野広中ら改革派グループが所属議員の約半数を引き連れて参加、後藤新平をはじめ、加藤高明・若槻礼次郎・浜口雄幸といった桂系官僚も参加しました。
他方、最大にライバル原敬には勝てませんでした。最大政党・政友会の切崩しに失敗します。さらに桂派の牙城とされた貴族院でも当面の不参加をきめたため、議会多数派を形成するとの野望は潰えました。こうして、政友会と並び上回る政党結成に失敗、傷心のうちに内閣総辞職を決めました。

明治大正期の政党の変遷

首相辞任後、桂の胃がんが判明、8月に死亡してしまいます。
残された桂新党は、12月加藤高明を総理に立憲同志会という形で発足します。(これに反発した後藤らは離れていきます)
そして山本権兵衛内閣においては、ジーメンス事件追及の先頭に立ち、倒閣を実現しました。
そして第二次大隈重信内閣では与党の中心となり、党首の加藤は副総理格・外相として入閣します。
さらに1915年の総選挙で大勝、政友会を破り待望の第一党となりました。
そして、1916年、大隈与党を吸収合併するかたちで憲政会(のち立憲民政党)を結成し、二大政党の一方の雄となりました。
憲政会は、農村・地主の影響が強い政友会とはことなり、1882年大隈重信が結成した立憲改進党の伝統を流れをうけつぎ、都市・ブルジョワジーの支持がつよい政党でした。こうした性格は、普通選挙法で都市有権者が増加したことを追い風に、政友会をしのぐようになっていきます。

(5)山本権兵衛内閣(1913~14)

山本権兵衛(1852-1933)鹿児島出身。海軍大将
海軍の改革を進め、日清・日露戦争での作戦を統括。海相を歴任、1913年首相となるがシーメンス事件で辞職。海軍閥・薩摩閥の中心。

第三次桂内閣の崩壊後、首相に推薦されたのは、海軍大将で、薩摩出身の山本権兵衛でした。
山本内閣発足に当たり政友会は大きな選択を迫られます。護憲運動の立場からすれば、山本内閣はあきらかに「閥族」内閣であり打倒すべき存在です。しかし政・官界の影響力が弱い海軍閥・薩摩閥を背景とする以上、政友会に援助を求めることは明らかでした。政友会の影響力拡大をめざす原敬らにとっては好機到来といえました
名実ともに政友会のリーダーとなりつつあった原が選んだのは後者の道、山本内閣への協力でした。これに反対した尾崎行雄らは政友会を離れていきました。
原は山本に政友会を高く売りつけようとしました。首相・陸海軍大臣・外務大臣をのぞく閣僚全員の政友会入党をもとめたのです。これをうけ蔵相となった高橋是清らも入閣とともに入党しました。原自身も内務大臣として入閣、政友会内閣という性格を強めました
山本内閣のもとではいくつかの重要な政策がおこなわれます。
一つ目は軍部大臣現役武官制の廃止です。現役を引退した軍人(政党員であっても可能)が陸海軍大臣につくことが可能となり、軍部の意に沿わない軍部大臣を選任することも可能となりました。軍部大臣を推薦しないことで倒閣させるというやり方も不可能となりました。
とはいえ、結局、現役武官以外が軍部大臣に就任したことはありませんでしたが。
二つ目は文官任用令の改正です。各省次官や警視総監などの高級官僚を、外部から任用することが可能となり、議員や党員を就けることが可能となりました。
三つ目は行政整理の実施です。国家組織の肥大化が歳出面で大きな負担になっているとの実業界から批判をうけいれ、合計5300人の大幅な定員減を実現しました。
四つめは軍備拡張の凍結です。歳入不足と西園寺内閣での二個師団増設問題への反発を配慮したもので、第三次桂内閣で決定したものでした。それが山本内閣の功績とされました。あくまでも凍結であり、翌年には再び課題となることがわかっていました。
このように山本内閣は、ある意味で第一次護憲運動で示された民意をうけいれる政治がすすめられたといえます
他方、閥族内閣の弊害も生まれました。敗れた形になった、陸軍閥・長州閥の恨みをかったのです。その怒りは政友会に向けられました。長州閥の伊藤が結党した政友会が薩摩に寝返ったととられたのです。とくに、結党時以来資金面でも政友会を支えていた長州出身の井上馨は激怒、政友会を打ち倒す機会をうかがうようになりました。山県とはよい関係を作り始めた原ですが、かつては頻繁に訪れる仲であった井上との関係修復はかなわなかったといいます。

(6)シーメンス事件

1914年、外電がドイツ・ジーメンス社の贈賄事件に海軍高官が関与しているとの報道が流されました。
野党・立憲同志会などが国会でこれを追及するなか、次に戦艦建造にかかわってイギリスビッカーズ社からも多額の贈賄があったとの疑惑も明らかになってきました。
野党の追及は、当然長く海軍の最高実力者であった山本首相の責任追及へと進んでいきました。

ジーメンス事件を追及するために集まってきた民衆。

国民が再び動き始めます。尾崎・犬養らを中心に国民大会が開催され、議会内外で政府の責任追及の動きが高まりました。
しかし与党政友会はこうした民意を無視します。
政友会は、多数を背景に海軍の大拡張案を含む予算を通過させ、その成立を図りました。
ところが予想外の事態が発生します。貴族院が予算案から海軍拡張にかかわる部分を削除したのです。その結果、両院協議会が開催されますが調整がつかず最終的には予算不成立となりました。その結果山本内閣は総辞職を余儀なくされました
非立憲の中心とされてきた貴族院が院外の国民と結ぶ形で内閣を倒したのです。
こうして、国民運動が二つの内閣を倒しました。民衆が政治を動かしていることが明らかになったのです。
同時にシーメンス事件は輿論と議会のズレも明らかにしました。とくに衆議院が本当に国民の声を代表しているのかという疑問です。財産による制限選挙という選挙法のもつ問題でした。
国民の意志を議会に正確に反映させるためには財産等の制限をなくした普通選挙制度が必要であるとの声が高まってきたのです
こうした声を、理論的に裏付けたのが、吉野作造の民本主義論であり、美濃部達吉による「天皇機関説」でした。

Ⅳ、第一次世界大戦の中で
~大隈・寺内内閣と外交~

(1)第二次大隈内閣と第一次世界大戦

山本内閣に代わった第二次大隈政権は不思議な政権です。

まず、立憲改進党の創設者で政党政治家の草分け大隈重信が、立憲同志会などを率いた政党内閣の性格をもっています
第三次桂内閣・第一次山本内閣という二つの「閥族」内閣が国民運動によって崩壊したなか、元老たちが選んだのは、国民に人気があるベテラン政治家大隈でした。こうした面からみれば国民運動の成果によって成立した政党内閣であり、「超然内閣を拒否した護憲運動の勝利」と捉えうるものでした。大隈は、薩長出身でなく、キャリア面でも元老とわたりあえる人物であると考えられました。たしかにかれは元老に忖度することはありませんでした。
その大隈に元老たちが期待したのは、自分たちを裏切った「政友会退治」であり、今ひとつは対外硬の大隈に軍部の悲願である二個師団増設など軍拡を実現させることでした。
こうした仕事を国民に人気がある大隈にやらせようとしたのです。
実際、藩閥・軍閥とは一定の距離をもつ「民衆政治家」大隈の登場は国民の圧倒的な支持を得ました。
しかし、旧立憲改進党系を与党とする政党内閣とみられがちな第二次大隈内閣ですが、よくみればその顔ぶれは短命に終わった第三次桂内閣と重なる部分が多く、内務大臣には山県閥大浦兼武がついていました。

(2)第一次世界大戦の発生

1914年7月、ボスニアで発生したオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)をきっかけに、8月ついに第一次世界大戦へと発展します。
これを受け、イギリスは極東を航海するイギリスの輸送船の護衛を依頼してきました。
大隈内閣は、これをきっかけに大戦への参戦をはかります。これによって西太平洋とくに中国での勢力拡大がすすむと考えたからです。大隈内閣は元老らにはかることなく、対独宣戦の方針を決定、元老へは事後連絡で済ましました。

加藤高明(1860-1926) 愛知生まれ、岩崎弥太郎の娘婿。官界をへて政界に転じ,第4次伊藤内閣外相。立憲同志会の結党に参加。のち総理大臣として普通選挙法・治安維持法を制定させる。

しかし、これといった対立関係にないドイツと戦端を開くことに疑問を唱える声も多く、内閣だけで一方的に参戦を決めたことには批判の声が上がりました。山県らは、大隈内閣、とくに対外強硬論をおしすすめる加藤外相に対しつよい不信感をもつようになりました
大隈内閣の姿勢に驚いたのはイギリスも同様でした。日本参戦で極東情勢が変化することを恐れたのです。しかし加藤は「同盟の情誼」であるとして宣戦に踏み切りました。
日本は1914年8月23日、ドイツに宣戦を布告、中国におけるドイツの租借地・膠州湾(中心地・青島)を攻撃、11月に占領、さらに山東省のドイツ利権を手にいれるべく、鉄道にそって中国山東省の内陸部にも侵入しました。また海軍はドイツ領の太平洋上の島々(南洋群島)を占領しました。

(3)二十一か条要求

膠州湾を占領し、山東省へ進出した日本は、これをてこに中国との間の懸案事項の解決に乗り出します。
当時の日中間の最大の懸案事項はポーツマス条約で日本が獲得した二つの利権の返還期限でした。日本は清との条約で、ロシアが得た権利の残余期間のみ引き継ぐことを認められていました。それによると、関東州(旅順・大連)は1923まで、満鉄の営業は1939年までとなります。
しかし、急速にナショナリズムが高まってきた中国では、期限延長は困難で、即時返還の要求の声が高まっていたのです。こうしたなか、なんとか期限を延長したいと考えていた日本にとって、第一次大戦は懸案解決の好機と考えたのです。
ドイツから獲得した山東省利権自身、期限延長の交渉カードであったとの指摘もあります。またヨーロッパ戦局の深刻化が極東からの関心の低下につながるとの考えもありました。
こうしたなかで、大隈=加藤内閣が中国・袁世凱政権につきつけたのが「対華二十一か条要求」でした。

対華二十一か条要求

その内容は、さまざまな部署から提出された雑多な懸案事項を網羅したものでした。
中心が「満州利権」の期限延長を中心とする満州・蒙古の既得権益であったことはいうまでもありません。さらに第一次大戦で占領した山東省におけるドイツ利権の継承なども含まれます。
さらに問題となったのが中国政府に日本人の政治財政軍事顧問を置く警察に日本人を採用するといったおよそ対等の国家に対する内容とは思えない内政干渉、保護国化をめざしているとさえみえる第5号の7条分でした。日本はこの部分は秘密条項とすることを要求していました。
このような火事場泥棒ともいえる要求は中国側を怒らました。中国政府は秘密条項とした第5号を世界に公表、その不当さを訴えかけます。中国国内でも激しい排日運動が発生しました。
これにたいし、英仏は不快感は示したものの、同盟国である日本への宥和的態度をとらざるを得ませんでした。アメリカも、当初の4号分については、同様の態度をとりました。しかし、第5号の内容を知るとアメリカは態度を一変、中国側への理解を示し、日本への強硬姿勢を取り始めます
ちなみに加藤率いる外務省は、厳しい要求を突きつけておいて、交渉の中で妥協をし、最終的におとしどころである満州などの既得権の確保などに結びつけようとしたといわれますが、それは全く裏目に出てしまいました。
しかし、大隈内閣は、5月中国に対し最後通牒をだし、第五号をのぞく内容の受諾を要求、中国・袁政権はやむなく受諾しました。
中国側はこれに強く反発、最後通牒を受けた日と受諾した日を「国恥記念日」としました。こうして日本は、イギリスに代わって中国人にとって「最大の敵」と見なされ始めたのです。
日本製品のボイコットなどの排日運動はこの出来事が出発点となります。
大隈=加藤内閣の対中強硬論は体外硬派のナショナリズムを刺激し、大隈はポピュリスト的な人気をいっそう高めました。
他方、対英米協調を重視しつつ、最終的な対決という事態を想定し、中国との関係を重視すべきと考えてきた山県らの元老は、このような大隈=加藤の手法に反発を感じていました。

(4)「政友会退治」と大隈内閣退陣

1915年、大隈は二個師団増設など軍拡に政友会が反対したことを口実に衆議院解散に打って出ます。選挙は立憲同志会をはじめとする大隈派の圧勝でした
それは、一方では大隈のポピュリストとしての人気によるものでしたが、他方では井上馨らの資金をもととする大規模な選挙干渉の結果でもありました。
こうして立憲同志会を中心とする大隈派が衆議院の多数派を獲得、元老たちが大隈に託した「政友会退治」が実現しました。
さらに大戦景気を背景とする税収増を背景に懸案の二個師団増設など軍拡も実現しました
こうして元老たちが大隈に託した使命は終了します。
こうなってくると国民の支持を背景に、自らも元老であるとして独断専行に走りがちな大隈は邪魔な存在となってきます。

大隈退陣
 政友会退治と二個師団増設・海軍増強という役割を果たした大隈は、元老・山県派らによって追い出された。
北澤楽天の戯画。上から双眼鏡で見ているのは寺内正毅か。

こうしたなか、大浦内相を中心とする選挙干渉が激しい批判にさらされるようになります。この結果、大浦はもちろん、加藤や若槻礼次郎などの有力大臣も辞職、大隈内閣は一気に求心力を失います。
こうして元老たちは、大隈の退陣を強く求めます。しかし、大隈は自分の後継に加藤を就けるべく粘りつづけ、最終的には加藤を後継につける要望とともに辞職しました。しかし元老のひんしゅくを買った加藤を首相にすることはありませんでした。
かわりに政権についたのは長州出身の陸軍大将寺内正毅でした。

(5)寺内正毅内閣(1916~18)

寺内正毅(1852-1919)
山口県出身 軍人,政治家。
明治35-44年陸相をつとめ,43年初代朝鮮総督をかねる。大正5年元帥となり超然内閣を組織するが,シベリア出兵による米騒動などで総辞職した。

寺内は、陸軍大臣や朝鮮総督を歴任するなど長く山県閥の中心として、桂の後継者と見なされてきました。
しかし大正政変以後の山県閥の勢力後退につれて精彩を失いつつありました。
このような寺内が、大隈内閣を引き継ぐ形で首相となったのです。二大政党時代がはじまりつつある時期、「挙国一致」を唱え政党との間で一定の距離をおく超然内閣を組織した寺内内閣は、時代遅れの印象は否めませんでした。
これにたいし、政権獲得の意欲を増した政友会・原敬は是々非々の態度で臨みます。与党にもどることをめざしつつも、国民の評判の悪いこの内閣に肩入れしすぎることは不利だと考えたのです。その裏で、原は山県との結びつきを強め、山県は原に親近感を感じ始めていました。ただ政友会の政治家であることを除いて
寺内は前内閣の外交における独断専行への反省から、臨時外交調査会を開催、外交における挙国一致をめざします。政友会の原や国民党の犬養も参加、原は協調主義的な外交を打ち出すことで存在感を強めました。原の存在感はいっそう増してきました。
二十一か条要求で悪化した対中国および対米政策をどのようにすすめるかが寺内内閣の課題でした。寺内は前内閣のような力ずくの露骨な政策は避けるかわりに、大戦景気によって潤沢となった「カネ」の力での影響力拡大をはかります。袁世凱政権を引き継いだ段祺瑞政権に非公式で多額の借款西原借款を供与し、親日政権の維持をはかったのです。
この工作は結果的に失敗に終わり、資金の多くは回収できないままとなりました。
他方、二十一か条要求によって関係が悪化したアメリカとの関係改善については、アメリカの大戦参戦が近づくなか、妥協を図ろうという動きがすすみます。その結果、日本がアメリカの「門戸開放」の原則を承認し、アメリカは日本が「満蒙」における特殊権益を承認するという、ある意味矛盾した内容を含む石井ランシング協定が結ばれました。

(6)シベリア出兵と寺内内閣の崩壊

寺内内閣の最大の課題がシベリア出兵でした。
三国協商の一角であるロシアは日露戦争の傷が癒えない状態で第一次大戦に参戦します。しかし一気にドイツ側に攻め込まれ劣勢となります。
他の国々でナショナリズムがたかまり好戦的風潮が高くなるのに比して、ロシアでは戦争反対の声が強まり、1917年、ついにロシア革命が発生、11月には即時戦争停止を唱えるソヴィエト政権が成立しました。
これにたいし、英仏などの協商国は、ロシアの戦争継続と反革命勢力への支援、さらにはロシア領内に取り残されたチェコスロバキア軍の救出などを名目に革命干渉戦争を開始、日本にも協力を求めてきました。
これをうけ陸軍や外務省では、列強に協力し、出兵すべきとの意見が広がります。勢力圏をロシアの勢力圏である満州北部からシベリアに拡大する絶好の機会であること、さらには天皇制とはあいいれない存在であるソビエト政権を打倒すると考えたからです。
多くのメディアも出兵を促します。ところが最大の購読者を誇る大阪朝日新聞は出兵に強く反対、これまでとは異なった様相も生まれました。
また臨時外交調査会では、原敬や牧野伸顕らが他国との足並みがそろっていないこと、軍需品の補給・軍資の調達などへの懸念もあるとして強く反対、山県も危惧の意を示しました。

こうした懸念の中、1918年8月、アメリカ出兵が限定的なシベリア出兵の実施を決定、日本にも出兵を求めてくると、ついに寺内内閣は出兵を決定します。しかしその規模は協調出兵の枠を超えた大規模なものとなります。
しかし、理由もはっきりしない出兵に対し、国民の支持はあまり見られませんでした。さらに戦争の開始が米不足につながるという思惑から米価が急騰、全国で米騒動が発生、充分な対策を準備してこなかった寺内内閣に批判が集中しました。
こうした中、健康状態が悪化したこともあって、9月寺内は内閣を総辞職、原敬内閣が成立します。
アメリカとの協調出兵であったはずのシベリア出兵ですが、陸軍は大量の軍隊を派遣、沿海州にとどまらず、バイカル湖以東の内陸部にも軍隊が派遣、その規模は、最大時には7万3000人にも及びます。しかし、厳寒の地での戦況は惨憺たるもので、各地でソビエト側の反撃をうけ、苦戦を余儀なくされます。アメリカ・イギリスなどが撤兵したにもかかわらず、戦闘を続けたため、孤立し撤退さえも困難な状態となりました。
国内では戦争反対の声が高まり、他の国々からもシベリアを占領しているのではないかとの非難の声があがります。
こうして大軍と10億円もの戦費を投じたにもかかわらず、3000人の死者をのこし、手痛い敗北におわりました。なお、このあとも陸軍はニコラエフスクで発生した日本人虐殺事件の責任を問うという形で1925年まで北樺太を占領します。

なお、この敗北で面目を失った陸軍は、このリベンジを考え続けることになります。

<つづく>

<桂園時代から原内閣へ~新しい時代の政治を求めて>

1:桂園時代
2:大正政変と第一次大戦
3:原敬内閣

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