桂園時代から原敬内閣へ(1)桂園時代

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桂園時代から原敬内閣へ
~新しい時代の政治を求めて~

Ⅰ、はじめに~新しい時代の政治を求めて

日露戦争を中心にして、明治時代を可能性に満ちた明るい時代として描き出した司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、日本海海戦を描ききると、そそくさと作品の幕をおろします。それ以後は書くに値しないとでもいうように。
このあとに司馬が嫌悪する「悪しき昭和」が姿を見せ、「坂の上の雲」に向かって困難に立ち向かった愛すべき楽天主義が終わります。
日露戦争の勝利は、日本を「世界の一等国」「文明国の一員」としました。それは、条約改正の大枠での実現と相まって、ペリー来航以来の国家目標が喪失したことでもありました。
そして人びとが「坂の上」でみたものは、期待していたような豊かな世界ではありません。それは傷つき帰国する兵士たちの姿であり、戦争とともにおわるはずの重税や生活苦がそのままつづくことでした。命と財産を差し出したにもかかわらず「国民」の声がとどかない政治はそのままでした。
あの戦争はいったいなんだったのか」という声が、澎湃ほうはいとして湧きおこってきたのは当然でした。
不満は、まずポーツマス講和条約反対運動(日比谷焼き討ち事件)として現れました。賠償金も、これといった領土獲得もないことに民衆は激怒、暴動が発生、東京では戒厳令もだされました。
この出来事は好戦的・排外主義的な性格をもつものでした。民衆までもが帝国主義に巻き込まれたことを示すものでした。しかし、同時に政府は戦争で苦しんだ自分たちの意見を聞く義務があるという「国民」としての自覚にもとづく民主主義的な性格をもあわせもっていました。
こうした意味で、講和条約反対運動は大正デモクラシーの出発点であったといわれています。

日露戦後の社会

歴史家成田龍一氏は
「大正デモクラシーとは、その出発点においては、「帝国」に成り上がった明治日本が、従来の構造では対応できなくなったことに由来して起こる運動の総体となっている。」さらに「さまざまな階層によって、旧来の社会構造と秩序に対抗して展開された運動であった。」(「大正デモクラシー」)と指摘しています。

日露戦争は「坂の上の雲」をめざした「明治日本」を終わらせました。
また日露戦争をはさむこの時期は産業革命が本格化する時代でもありました。日本は、農民が圧倒的というシンプルな社会構造から都市を中心にさまざまな階級・階層が併存する社会となりました。この多様な人々が「国民」を自称し、互いに「国民」諸君と呼びかけました。こうして「「国民」が跛行的に、つまり不完全な形で形成されながら、藩閥に叛旗を翻す事態」(成田)が始まったのです。
産業革命のなかで、「政商」は財閥へと成長、その社会的影響力をいっそう拡大しました。都市人口が急増、食料や物価、住宅・生活環境などの都市問題も深刻化します。商店主などの旧中間層(「旦那衆」)俸給生活者などの新中間層が増加、独自の要求をだしはじめます。しかし、急増しつつある労働者階級はまだ未発達で、一方では「職工」として「雑業層」の一部として都市貧民として位置づけられ、紡績工場や製糸工場で酷使される女子労働者は「女工」とよばれていました。
講和反対運動は、こうした多様なひとびとが存在する都市で発生しました。
農村では地方名望家とよばれる人々による地方支配が定着しはじめました。かれらの多くは地主でしたが、単なる地主にとどまりませんでした。小作料など農業収入を元手に、農業以外に進出しはじめます。それによって、かれらの関心は地租軽減から地方におけるインフラ整備・開発(鉄道・道路・港湾)などへと移り始めます。また地方社会・政界の担い手として地域のあり方にも責任を感じていました。
これにたいし、圧倒的多数を占める一般農民(自作農・小作農)の要求はこうした名望家支配のなかに埋没していました。

「国民」として語り・語られたのはこのような多様なひとびとでした。にもかかわらず、「国民」としてその要求を政治に反映できたのは地主を中心とする地方名望家と、1900年の改正での独自選挙区が設定された都市名望家たちだけでした。
このように「国民」としてもちあげられながら「国民」としての権利を与えられない膨大な人びとが存在していました。
明治末年から大正期の政治は、政府主導、官僚中心の強権的・権威主義的な政治にたいして、このような多彩な人々を背景とする多彩な国民運動が高揚し、議会・政党を基盤とする政治へと移行しようとする時代でした。まさに大正デモクラシーが生まれ出ようとしていました。

Ⅱ、桂園時代~二大勢力の妥協と暗闘の時代~

(1)桂園時代(1901~13)

桂園時代とは、陸軍大将・長州閥の桂太郎と、公家出身で立憲政友会総裁・西園寺公望が交互に首相になった時代です桂園時代とは二人の姓から漢字を一字ずつとって呼ばれた名前です。
政党と閥族のそれぞれが、協力と対立をくりかえしながら、政治を運営していったのがこの時代です。
なお、桂太郎は元老・山県有朋の忠実な子分でいいなりであったと考えられてきましたが、実際はそうともいえないことも判ってきました。

(2)明治憲法と初期議会

このような時代が生まれた背景には、明治憲法からくる特別な事情があります。明治憲法は維新以来の支配者たちが、自らの権力の維持を図ること、具体的には民権派が政権を奪い取ることを防ぐことに重点を置いて、制度設計がなされていました。
さまざまな国家機関・装置は天皇に直属する形式をとりつつ、生身の「天皇」は政治の表面にたつことを巧妙に避けるよう設計されていました。その結果、国家権力は多元的・分散的性格をもとようになりました
しかし憲法制定の中心であった伊藤博文はあえて立憲主義の原則を取り入れました。自分たちの首を絞めることも承知で。
具体的には、議会に立法権さらに予算審議権も与えたことです。この結果、議会とくに衆議院は政府提出の予算案を否決し前年度予算執行に追い込むことが可能になりました。この権限を背景に「民力休養」(=地租の引き下げ)を実現し影響力を拡大したい政党が、憲法以前からの独断専行をつづけたい政府と激突しました。
こうして初期議会は、民党による予算案否決・内閣不信任と、政府による衆議院解散がくりかえされました。さらに条約改正をめぐる対立とも結びつきます。日清戦争が発生した理由はこうした議会内の対立でもありました。

日清戦争はナショナリズムを高揚させます。政党は政府に協力し多くの決議が満場一致で採択され、増税案なども承認されます。
こうした政府と政党の協力関係は日清戦後もつづきました。米価上昇が実質的に地租引下げにつながり、主要な有権者である地主たちの要望は、地租軽減よりも鉄道実現などに移っていきました。増税を認めても、鉄道が開通する方を望む声が高まります。要望実現のために、政党は与党となることを望み、閣内に仲間を送り込もうとし始めました
政府と政党の結びつきが強まっていく中で誕生した政党が立憲政友会でした。

(3)立憲政友会

1900年、憲法起草の中心となった元老筆頭の伊藤博文は、政治の円滑な運営のためには、議会の支持が必要だとして、新党結成に乗り出します。
これにたいし、政府との結びつきを強めようとしていた憲政党(旧自由党)は自ら解党、新党参加を決めました。こうして、立憲政友会が誕生しました。
そこには、星亨や松田正久ら旧自由党系の代議士と、原敬ら伊藤系の官僚たちが参加しました。そして政党内閣としての第四次伊藤内閣が実現します。
これに対し、政党への敵意をもつ藩閥政治家や官僚らは強く反発、保守派の元老・山県有朋のもとに結集、軍部・官僚・貴族院・枢密院などに圧倒的な影響力を持つ山県派が形成されました。以後、藩閥など閥族勢力主流派は山県の名を冠して呼ばれることになります。
さて伊藤内閣は山県派の抵抗と党内対立ですぐに崩壊、代わったのは長州出身の陸軍大将桂太郎でした。桂は山県の後継者の地位を固めていきました。
他方、1902年の選挙では、政友会が圧勝、衆議院の議席の多数を獲得します。こうして、内閣は閥族代表の桂、議会は政友会という桂園時代の基本形が生まれました。(以後、政友会は1915年まで常に院内多数派を維持しつづけます)
桂は、伊藤が政友会総裁であることを嫌い、明治天皇の力を借りて伊藤に総裁の座を辞職させることに成功します。1903年のことです。枢密院議長となった伊藤にかわり二代目の総裁となったのが西園寺公望でした。名門貴族の西園寺は、戊辰戦争で討幕派として活動、のちにフランス留学中に親交を持っていた中江兆民と自由民権運動に乗り出そうとした経験も持っていました。伊藤はこの西園寺を後継者としたのです。以後、政友会は総裁西園寺のもと、党務に精通した原敬、さらに人望のあつい党人派・松田正久の三人を中心に運営されます。

(4)桂園時代の開始

日露戦争は第一次桂内閣のときおこりました。
陸軍大将でもある桂は、日露戦争において大勝を期待できないことを熟知しており、ある段階で講和に踏み切らざるを得ないことは既定の方針でした。
こうした桂を悩ませたのは講和への国民の過大な期待でした。講和において国民が期待するような成果をあげることは不可能であり、国民からの強い反発をうけることもわかっていました。それはそれで仕方がないと理解していたのでしょう。
ただ、問題はその次です。議会第一党の政友会がこれにどのような姿勢で臨むかという点です。もし政友会が国民の講和反対の国民運動とむすび倒閣の方針を出せば、政権維持はおろか、日本全体が大混乱に陥ることは明らかでした。
そこで、桂は政友会のキーマンである原敬と会うことにしました。
両者は1904年12月以来、7回にわたり会談を行い、一つの結論に達します。その内容は、桂は戦争の後始末が終わった段階で辞職、後継首班に政友会総裁の西園寺を推挙するということです。ただし条件がつきます。西園寺は政友会の総裁ではなく有力華族として組閣、政党内閣とは位置づけないこと。次年度の政策・予算は桂内閣が立案し新内閣が承認すること、さらに元老のひもつきといえるような人物は入閣させない、これが条件でした。
この合意をうけ、政友会は日比谷焼き打ち事件などの講和反対運動に際し沈黙をまもりました。
桂も約束を守りました。1906年1月、桂は元老会議にはかることなく西園寺に内閣を禅譲しました。しかも政友会からの入閣者は原と松田の二人だけ、逆に桂・山県系の人物が多く入閣しました。さらに、1906年度予算は桂内閣がつくり、政府方針も桂のものを継承しました。多くの批判をうける予算案も、政友会総裁を首班とあおぐ内閣である以上、大きな困難もなく、衆議院を通過させました。こうして桂の影響力は第一次西園寺内閣の下でも維持されました。

(5)桂園時代~妥協と暗闘

桂園時代は、藩閥・官僚勢力とおもに地主勢力を基盤とする政友会が、妥協と暗闘をくり返しながら、互いの利益実現を図った時代です。
政友会がめざしたのは、
①鉄道設置などの公共事業実施によって、選挙権を持つ地主(地方名望家)たちの利害を重視する積極財政をすすめる。
衆議院での多数派獲得を絶対条件とし、西園寺首相ないし桂との妥協により万年与党状態を維持する。
このようにまとめることが出来ます。
他方、軍部・官僚・貴族院・枢密院を権力基盤とする桂や山県派も、議会の承認を得るためには衆議院の多数を獲得している政友会と妥協せざるをえなかったのです。
しかし、政策も支持基盤も異なる以上、両者はさまざまな場面で衝突します。最も大きかったのが深刻化する不況下での予算の優先順位です。とくに軍部が求める軍備拡張要求の扱いが大きな論点となりました。さらに社会主義勢力への対応でも対立しました。
政友会は郡制の廃止など山県派の勢力基盤を削ごうとしたのに対し、桂も政友会の分裂をねらった政策を打ち出したり、「一視同仁」を説いて非政友会勢力と結びつこうとしました。
桂園時代とは妥協と暗闘の時代でした。

(7)「二大勢力」時代

桂園時代下の勢力関係をもうすこし丁寧に見ていきましょう。

桂自身は山県離れをしつつありましたが、やはり桂を支える最大の基盤は山県閥です。
山県は陸軍や長州閥内務省・司法省などの官僚に強い影響力を持ち、貴族院にも勅撰議員として山県派の官僚を送り込んでいました。しかし、衆議院では中央倶楽部という御用政党をもつものの多数を占める政友会の前では弱小勢力でしかありませんでした。
かれらがめざすは、行政・官僚主導の旧来型、能率重視・国家利益を強調する政治であり、ともすれば個別利害の優先でばらまきに陥りがちな、議会(衆議院)の勢力拡大、とくに政党政治を嫌っていました。
これにたいし、西園寺の支持勢力は衆議院の多数派立憲政友会であり、その選出母体である地主ら地方名望家でした。かれらは財産(直接国税額)にもとづく制限選挙で選出され、鉄道建設など地方名望家にとって有利な政策を求めました。そのために積極財政、悪くいえば国家予算のばらまきを期待していました。そして、藩閥・軍閥といった閥族政治に反対し、議会の多数派による政党政治の実現をめざしています
他方、原が古河鉱業の副社長であったことからもわかるように、財閥や資本家と結びつきのある議員も多く、地主の利害に傾きがちな政党のありかたへの反発も存在し、政策面での対立も目立ってきました。それを原が強いリーダーシップと軍隊的な規律で抑え込みました。その分、政友会内部でも不満が鬱積していたのですが。
中間的な勢力もありました。同じ閥族であっても海軍・薩摩閥は、陸軍・長州閥を背景とした桂=山県らには反発をもっていました。官僚の中でも伊藤(・井上馨)派の官僚もいました。いったん政友会に参加したものの、伊藤が政友会から離れたのを見て、離れた官僚たちもいました。
衆議院には、かつての立憲改進党の流れを引く憲政本党(のち国民党)もありました。かれらは、産業革命のなかで力を得てきた資本家や都市中間層との結びつきをつよめていました。しかし、選挙制度の影響もあり、さらに野党であることから少数派であることを余儀なくされていました。さらに党内には桂与党になることをめざすグループと、政友会と手を組み、民衆とも協働して政府と対抗していこうという犬養毅らの勢力が、抗争をつづけていました。(ただし原たち政友会指導層は協力をこばみつづけます)
また議会の外には、大衆暴動を繰り返す民衆(一般農民・都市下層民など)がおり、それを扇動するジャーナリストもいました。

(8)国民の締め付け~戊申詔書

産業革命に伴う都市化の進展と、日露戦争の勝利は、それまで明治社会を明らかに変質させ、人々の意識を変化させました。
「いえ」を中心とした社会や国家のありかた、立身出世といった価値観などを疑う個人主義・自由主義的価値観がひろがり、人間の尊厳を重視とする考え方が広がりました。科学的な研究がすすむ一方で、「近代」「文明」への疑問も生まれました。そして、これまで国家によって創出されてきた「国民」が、今度は「国家」のあり方を問い始めます。「国家」そのものを問いかける、社会主義や無政府主義も力をもちはじめました
ある意味では、近代が日本に根付きはじめたといえるのかもしれません。
こうした情勢は、旧支配層にとってゆゆしき事態でした。大逆事件(1910)や、歴史的見地からの国定教科書記述への攻撃である南北朝正閏論(1911)などにおけるヒステリックな対応に様子をみることができます。
こうした事件は1908~11年の第二次桂内閣時代に集中しています。さらにその背景には批判が天皇制に及ぶことを恐れた明治天皇自身の不安感も反映しています。
1908年、社会主義対策の不十分さを攻撃されて退陣した第一次西園寺内閣にかわって成立したこの内閣が天皇に出してもらったのが戊申詔書です。ここでは、価値観の多様化に対して、国内で心を一つにして、忠実にその業務を励み、勤勉倹約によって財産を治めて、信義を守り、心身の緩むことのないように互いをいさめあっていかなければならないといった趣旨の、古色蒼然たる新たな国家道徳目標が、天皇の名で提示されました。いわば「教育勅語」の国民版ともいうものでした。
一生懸命働き、倹約に努めよ」との勅語の趣旨は内務官僚によって「各地方は、国家には頼らず、自助の精神でがんばれ」という風に読み込まれました。こうしてすすめられたのが、地方改良事業です。

(9)地方改良政策と在郷軍人会

維新以降、政府は近世の「町」「村」を合併し、一定の規模を持った行政区画としての市町村を編成しました。しかし実際には江戸時代から引きついできたものも多く、町村といっても形だけという側面が強かったのです。こうしたあり方を戊申詔書を利用して再編成し直そうとしたのが地方改良事業でした
従来の「若者組」などは悪習として否定され、公的な「青年団」などに再編成されます。米穀検査や蚕種統一など品質向上と生産増加が奨励され、現在の農業協同組合につながるような「産業組合」が結成され、相互金融と共同購入、共同栽培もすすめられました。

南方熊楠(1867~1941)生物学者・民俗学者。和歌山の生まれ。独学で動植物を研究、帰国後は田辺市で粘菌の採集や民俗学の研究に没頭した。奇行の人として知られる。

地方改良運動は、内務官僚が主導し地方の「自助」努力をもとめました。それは、財政緊縮が求められる中、地方の負担による地方改良をもとめるものでした。
こうした一環として、三重県や和歌山県などで一挙にすすめられたのが「一村一社」運動です。行政の提唱により集落の鎮守を廃止して「村一社」に統合、廃止された「鎮守」の森を財源に充てようというものでした。これに対し、世界的な研究者で奇行でも有名な南方熊楠みなかたくまくすが激烈な反対運動を繰り広げたことは有名です。
また、軍部は大量に増加した予備役・後備役(いったん軍務をはなれそれぞれの職業に従事するが、訓練に参加し、必要に応じ召集で軍務にもどる義務をもった軍人)を各行政区レベルで組織しました。これが在郷軍人会です。かれらは「むら」社会での高い権威を得て名望家による村支配に風穴をあけました。しかし他方では村に軍隊の論理を持ち込むことで、「村の軍隊化」=草の根の軍国主義をも浸透させました。
こうして、大正デモクラシーと総称される民主主義的な風潮のひろがりと並行する形で、草の根軍国主義・草の根保守も根を広げていくきっかけがつくられました

(10)『情意投合』~政治における「時代閉塞」

石川啄木「時代閉塞の現状」副題は「強権、純粋自然主義の最後および明日の考察」。明治43年(1910)発表。自然主義文学への反論として執筆されたが、社会主義への関心を綴る。この文章は日比嘉高による「超訳」

1911年1月の帝国議会開催中、大逆事件・韓国併合などの難局に直面していた桂首相は、政友会代議士全員を宴席に招待、その場で政友会の協力への謝意を示し、総裁の西園寺もそれに応えました。二人はこうした政府と政友会の関係を「情意投合」と表現します。
その後、大逆事件・韓国併合・南北正閏論など意見が分かれる議題でも、政友会は桂内閣を援助・協力、安定した国会運営が維持されました。
こうして「情意投合」ということばは、官僚閥と政友会が協力し永久に政権を掌握することをめざす宣言とうけとめられました。そしてその裏では、政権の禅譲の準備が再び桂と原の間ですすめられていました。
新しい時代がす到来しているにもかかわらず、古いリーダー(元老・藩閥勢力)が、議会の多数派を背景に権力基盤の拡大をはかる政友会と結び、権力を掌握しつづける状態がつづくかに見えました。
この前年、文学者・石川啄木が「時代閉塞の現状」という評論を書き、当時の文学状況を「時代閉塞」と描きました。こうした事態が、政治でも発生しているかにみえる時代でした。
しかし、啄木が時代をこのように認識していたこと自体、すでに人びとが変革の必要性を強く感じていたことの証しでしょう。そして、翌年、明治天皇が死亡するのと軌を一にするかのように、社会は一挙に動き出します。

<つづく>

<桂園時代から原内閣へ~新しい時代の政治を求めて>

1:桂園時代
2:大正政変と第一次大戦
3:原敬内閣

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