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恒藤恭「世界民の愉悦と悲哀」について
「世界史の愉悦と悲哀」について
恒藤恭の「世界民の愉悦と悲哀」(以下、「世界民」論文)をテキスト化して、ネット上にアップした。
この論文は、1921(大正10)年「改造」六月号で発表され、翌1922(大正11)年出版された「國際法及び國際問題」(弘文堂書房)にほぼ原型のまま再録された。さらに、戦後の1946(昭和21)年には生活社から出版された「日本叢書」に「世界民の立場から」と改題、一部を削除した形で出版された。
しかし、学術論文と体裁を異にしていたことから学界で注目されることは少なかったが、大阪市立大学史編纂の中で、広川禎秀氏によって、恒藤の思想の出発点を示すと評価され、注目されるようになった。私自身、聴講している大学で、恒藤を紹介され、本論文のコピーを入手、その内容に魅了された。
国家への帰属が様々な形で強要され、「愛国心」なることばが暴力的に用いられる現在こそ、この論文は読まれる価値があると考えた。
テキストの閲覧について
「國際法及び國際問題」は国立国会図書館デジタルコレクションで一般公開されており、ネット上で閲覧が可能である。
また、「改造」初出本を底本にテキスト化したものを、本ホームページ上に2形式で保存しておくこととする。
「世界民」恒藤恭
この論文での、若き恒藤のことばは輝いている。文学者をめざした恒藤の面目躍如というにとどまらない。
日露戰争の報道などを通じてナショナリズムの渦に巻き込まれた山陰の一少年が、小説家をめざす研鑽、反対する父との確執、キリスト者との対話、入院、記者生活、一高での芥川龍之介らとの交流と「古典」(恒藤の一高時代のストイックな生活と学びを芥川が「恒藤恭氏」の中で描いている。恒藤「学生時代の菊池寛」もとともに青空文庫に所収)との出会う。こうした道筋を通しての学びと思索、それは「国家」との格闘でもあったが、そのなかで得た「世界民」としての確信、それがこの論文を輝かせている。
「日本国民」であることである以上、日本(そして天皇)に忠誠を尽くすことが当然とされた時代に 「私が日本国民とされたということは、私の生まれた日にたまたま冷たい小雨が降っていたというようなことと同じで、私にとってなんの必然性もない。」といいきり、「どこの国家の籍であるかと言ふことは、彼にとっては第n次の問題であって、決して第一次、第二次の問題ではない」と述べるまでには、恒藤の格闘と世界民への模索が隠されていた。
「緩やかな御詠歌のうたごゑに聞き恍れては、ひたすらに弥陀の慈悲にすがって凡夫のあさましい悩みから解脱するみちを教えた聖僧を、祖先の中に見出すことをいともとうとし」とし、
他方でトルストイの小説、レンブラントの絵画、ベートーベンの音楽、インドの宗教的瞑想をも同じように愛する。
「自分の属する国で生まれたものたると、他の国々で生まれたものたるとを問わず、一切の価値ある文化内容を正しく深く味解して、自己の生活経験を豊かにしやうと努力する」と世界民・恒藤は説く。
「戰爭は人類の犯し得る最大の罪惡だ!」といいきり、「人類を殺戮することが、国家を愛することとなるならば、愛国心とは最も恥づべき不徳ではあるまいか?」「大規模の殺人事業によって正義が製造され、人道が製造されると言ひ得るならば、同じ論理に基いて、姦通から貞操が生まれ、詐僞から友情が生まれると主張し得ぬ筈はない。」と、「愛国心」や「戰争における正義」に立ち向かう。
「世界民」としての権利と義務
この論文が書かれたころは、天皇中心の明治憲法下におかれ、国内に居住する者にとどまらず、植民地の人々すらが天皇の「臣民」とされていた。その時代に「私は生まれ落ちると同時に『日本国民』とされた」と「臣民」としての自己を否定し「世界民」として自己規定し、国のためにたたかって死ぬという正義を否定し、戰争を「大規模な殺人事業」といいきったのだ。
恒藤は、世界民としての権利と義務を自らに課している。「一切の人間は世界民の友だちであり、同胞である」以上、自分たち世界民は「一切の権力にたいしてすべての人類の自由と幸福とを確保せむことを要求し得る権利、一切の権力をしてすべての人類の自由と幸福とのために作用せしめるやう努力すべき義務」が生じるとしたのである。
恒藤は「世界民」としての権利と義務において、平和な世界のあり方を構想する。夢想ではなく、主権国家が覇を競い国境が人々を別っている世界、人類がまだ理想が実現できるだけの知的・文化的な水準に到達していないという現状、それをもとに議論をくみたてようとする。
自分が属している国家とどのようにつきあっていくか、国家主義とはなにか、あるべき国際主義とは。
恒藤は「世界民」として自らの考えを人々に問いかける。
確かに、その構想は、恒藤と当時の日本・世界の学問的水準を反映して、不十分な点、批判を受けざるを得ない点ももつ。現実離れしているし、欧米中心であるとの批判もあろう。しかし、人類、一人一人の人間に対する暖かいまなざし、平和の実現への熱い思いと、自由への渇望は行間にあふれている。
時代のなかでの「世界民」論文
1921(大正10)年、日本は天皇制国家が厳然として存在し、「日本人」という前提を疑う人間はまず存在しない時代に、「世界民」として自らを位置づけることで「日本国民」であることを相対化した。
この時代は、第一次大戦のおそるべき惨禍は、世界に国際主義と平和主義、軍備縮小と国際協調の必要を切実に求めさせた。ロシア革命は社会主義への関心を高め、働く者の地位向上が意識にのぼった。大正デモクラシー期の人道主義と民主主義的潮流が広がっていた。こうした世界や日本の状況が、この論文の中にも強く反映している。それでも、日本国民であることは「偶然」であり、「第n次の優先順位でしかない」「自分は日本国民よりも世界民であることを重視する」と公言し、主権国家体制を越えていく道を模索したことの意味は大きい。
「死して生きる道」を選ぶ
時代は、彼の理想とは逆方向へすすむ。
かれは法哲学者としての学術研究を進める一方、京大・滝川事件では大学と学問の自由を守るため、「死して生きる道」を選ぶと京大を去る。
大阪商科大に迎えられた恒藤ではあったが、戦時体制の進行は恒藤に沈黙と奴隷のことばを強いる。教え子は戦地へと送られ、官憲に捕らわれる友人も出る。かれも官憲の監視下に置かれていたことは想像に難くない。戦地におもむく学生は「それでも世界はよい方向に向かっている」との恒藤のことばを印象的に覚えている。いろいろな解釈が可能なことばであるが、戦争終結を見据え、世界は「世界民」の理想に向かっていることを信じ込もうとしたと解されることが多い。
「世界民」論文の復活と戦後の活躍
戰争終結後、最初に発表しようとしたのが、他ならぬこの論文であった。彼の日誌には、娘たちに原稿の清書をさせていたことが記されている。恒藤は、新しい時代への船出に対し、自らの初心ともいえるこの論文で再出発しようとしたと思われる。さらに、若い世代に清書させることで、自分の思いを次の世代に伝えたかったようにも思える。
戦後、恒藤の活躍はめざましいものがあった。恒藤は、新憲法に記された理想を伝え、守り、現実化していくために多くの講演会を開き、執筆活動にも励んだ。そこでは、国家・軍事力による安全保障ではない平和の道、それこそが「新憲法」のめざすものであることを主張した。
また大阪商科大・大阪市立大の学長(総長)として、理想の学園づくりをめざし、尽力する。
こうした行動こそが、帰らぬ教え子への責任をとることであり、「世界民」たる恒藤が自らに課した権利と義務を果たすことであったと思われる。
参考文献
関口安義 『恒藤恭とその時代』(日本エディタースクール出版部)
*掲載の写真はこの本による
山崎時彦『恒藤恭の青年時代』(世界思想社)
広川禎秀『恒藤恭の思想史的研究』(大月書店)
なおこの書物のもとになった研究、出版後の共同研究は大阪市立大学史編纂室を中心に進められた。そうした研究成果は大阪市立大学術機関リポリトジを通じて、ネット上で見ることができる。