五十五年体制の形成と安保闘争

安保闘争を伝える新聞記事(帝国書院「図録日本史総覧」P299)

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五十五年体制の形成と安保闘争

こんにちは。それでは授業をはじめます。
今日勉強する時代から、ぼくも歴史の中に参加します。現在の首相の安倍さんもそうですね。ぼくの記憶のどこかにもこのころの出来事も残っているような気もします。

主権回復の日、屈辱の日

敗戦後の占領期は時間が濃厚に進みました。
8月までは「一億玉砕」を覚悟していたところに、「鬼畜」と思っていたアメリカがやってきて日本を占領、現人神のはずの天皇がそのボスに頭を下げます。アメリカの圧力のもとに戦争をしないという憲法を作られました。労働組合が奨励され、平和、自由と民主主義が高らかに唱えられ新しい時代の新しい生き方が推奨されました。

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帝国書院「図録日本史総覧」P287

ところが2年もたたないうちに雲行きがおかしくなります。戦争に責任があったといわれた人が次々と復権し、かわりに奨励されていたはずの労働組合などが抑圧されます。「軍隊のようなもの」がアメリカの命令でつくられ、それまでの「民主主義」という言葉が「経済復興」や「反共」ということばに置き替えられていきます。
数年前、アメリカがいっていたことを、当のアメリカが否定していきます。
わずか6~7年間の出来事でした。

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沖縄ではサンフランシスコ条約発効の日を「屈辱の日」と考えた。(東京書籍「日本史A」P163)

1952(昭和27)年4月、前年のサンフランシスコ平和条約をうけて日本の独立が実現します。しかし盛り上がりにかけたといわれます。片面講和というアメリカの強い影響力での独立であったこと、そのため世界からの暖かい祝福と激励を受けるということが少なく、国内でも反発が強かったこと。さらに国内にはアメリカ基地が多く残されたままでした。沖縄や奄美諸島などが日本から切り離されました。沖縄の人々はこの日を「屈辱の日」と呼び、奄美諸島でも「痛恨の日」と呼びました。こうしたこともあって、「独立バンザイ」と心から思える日でなかったのでしょう。
なお、政府はこの日を「主権回復の日」として祝賀しようとしたことがあります。しかし、沖縄県民などから「沖縄の主権は回復されなかった」といった声や時代錯誤の祝賀会の進め方などから批判が相次ぎ、一年だけで中止されました。
なお、軍事基地が置かれなかった奄美諸島は1953(昭和28)年12月強い返還運動におされて日本復帰が実現します

去就を取りざたされた二人

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昭和天皇の全国巡幸1949年5月久留米(Wikipedia「昭和天皇」)

さて、この時去就を取りざたされた人物が二人いました。一人は昭和天皇です。天皇は、これまでから何度か退位を口にしており、戦争の犠牲者の冥福と戦争の責任を取って退位すべきだという声が以前からあがっていました。かつての側近・木戸幸一もそうした一人でした。のちに首相となる中曽根康弘も天皇制の道徳的基礎確立という立場から自発的退位を主張します。戦争の最高責任者であった天皇が居座り続けることは、戦争へのケジメという意味から問題があり、それをきっかけに天皇制批判が高まるのではないかと恐れたからでした。
天皇自身に退位の意志があったかどうかわかりませんが、結論的に退位しませんでした。その裏には、退位に強く反対した人物がいました。
当時の首相吉田茂、去就が注目されたもう一人の人物です。吉田は、天皇が退位すれば、自分も辞任せざる得ないと考え反対したとも言われます。

吉田政治の終焉

吉田の政治はすでに飽きられつつありました。「逆コース」が進む中、公職追放になっていた戦前の政治家が次々と復帰してくるなか、アメリカ追随の吉田の路線への反発が高まってきました。そのアメリカからも再武装・憲法改正に消極的な吉田への批判が生まれてきました。

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吉田茂(左)と鳩山一郎(右)1953年ごろ(Wikipedia「鳩山一郎」)

そのなかで、もっとも厳しく吉田と対決したのが鳩山一郎でした。1946年首相就任直前で公職追放によってその道を絶たれた鳩山は、「自分が復帰したら首相の地位を返す」という吉田との約束の実行を迫りますが、吉田は約束自体の存在を否定、両者は犬猿の仲となりました。占領下のやり方をひきずる吉田に対し、鳩山はアメリカから一定の距離をおくことをめざします。憲法を改正して再軍備し、最終的には米軍基地を撤去すること、中国やソ連との国交を回復し世界から独立の承認と国連加盟=国際舞台への復帰をめざしていました。政権にしがみつこうとする吉田と、批判する鳩山、さらに続々と公職復帰を果たす政治家たち、政局は混乱しました。
首相の座に固執し続けた吉田がその地位を降りたのは2年半後の1954(昭和29)年12月のことでした。

「逆コース」の定着

この間、吉田政権は、アメリカの圧力を背景に鳩山らの協力も得ながら、占領期後半以来の「逆コース」の流れを定着させていきました。
アメリカは安保条約をたてにとって防衛力増強を厳しくせまり、吉田が値切りつつ受け入れるという妥協がくりかえされます。

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山川出版社「詳説日本史」P387

このなかで、警察予備隊は1952(昭和27)年軍隊的性格を強めた保安隊として海上護衛隊も吸収、1954(昭和29)年には自衛隊が発足、管理官庁として防衛庁も設置されるなど、再軍備の流れが加速し、予算も、規模も、装備も膨んでいきました。
吉田らは、憲法九条の存在や平和を望む国民の意識など「四つの制約」があるとアメリカ側に説明、「愛国心と自己防衛の自発的精神」をつくることを約束させられました。こうして教育への国家統制なども進みます。
破壊活動防止法や警察組織の改編など治安体制の強化が図られました。財界の強い要求をうけ独占禁止法の改正など規制も緩和されます。かつての財閥は銀行を中心とする企業グループと姿を変えて復活、巨大企業も現れます。労働組合のなかからも、企業の発展を第一に考えて労資の協力をすすめようという企業別組合が力を伸ばしてきました。

反基地闘争の高まり

このような逆コースの進展に対して、激しい抵抗運動も発生しました。

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1952(昭和27)年当時の日本本土に置かれた米軍基地(松尾尊兊「国際国家への出発」P161)

独立したにもかかわらず、大量に残りさらには拡大しつつある米軍基地に対し、各地で反基地闘争が展開されます。朝鮮戦争当時、米軍基地の本土と沖縄の割合は、面積比では9:1、つまり基地の90%が本土にありました。現在沖縄で発生しているようなトラブルが本土でも日常的に発生していました。
米軍への反対運動が最も激しくたたかわれたのが、石川県・内灘闘争でした。米軍試射場のための用地収容にたいし、住民とそれを支援する人々は激しい反対運動を繰り広げました。東京でも立川基地拡張をめぐる砂川闘争がくり広がられます。
砂川闘争をめぐる裁判の一審では米軍の駐留自体が憲法に反するという判決が出されました。危機感をもったアメリカと政府は、最高裁に猛烈な強い圧力をかけ、最高裁は安保条約などの国際条約が憲法など国内法に勝るという信じられないような判決で一審判決を覆しました。ちなみにこの法理論が現在まで生きています。

沖縄には「海兵隊」はいなかった!

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海兵隊の訓練場だった茅ヶ崎海岸(NHK「基地はなぜ沖縄に集中しているのか」より)

現在、沖縄にいる米軍約60%が海兵隊です。
しかし、朝鮮戦争のころ、沖縄に海兵隊はいませんでした。海兵隊の司令部は岐阜や富士山麓におかれ、部隊は全国に展開していました。湘南・茅ヶ崎海岸は主要な訓練地となっており、有名な烏帽子岩は米軍の標的でした。茅ヶ崎では、訓練のため、漁業被害や振動による壁やガラスの剥落などが発生、売春や犯罪など風紀の乱れも広がりました。茅ヶ崎議会には怒りの声が殺到しました。

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帝国書院「図録日本史総覧」P298

こうした事態を見て、アメリカ国務省などは米軍基地の存在によって引き起こされる摩擦や衝突が反米意識を高め、社会党などによる非同盟中立の政府実現へと向かうことを恐れました
こうして問題を起こした海兵隊は1957年以降本土から撤退しはじめます。アメリカに帰ったのではありません。沖縄に移ったのです米軍占領下の沖縄は、多くの「日本国民」の目には見えにくい場所であるとともに、強権的に基地を拡大するにはたやすい、「日本国民」の目を意識しなくてよい「都合のよい」場所でした。
こうして日本本土から基地が急速に減っていきます。1960年の本土における米軍基地は面積で十年前の1/4、施設数で1/10に減少しました。
他方、沖縄では次々と新たな基地がつくられました。とくに海兵隊の進駐により、沖縄の米軍基地は1.8倍、沖縄の総面積の20%にまで拡大していきます。この段階で本土と沖縄の基地の広さがほぼ1:1となりました。
こうして日本本土における基地反対運動が下火になっていくのとは逆に、沖縄での反基地運動が高まりを見せます。本土における米軍問題の沈静化は沖縄の基地拡大と反比例していたのです。本土は再び沖縄の犠牲の上に安寧を取り戻そうとしたのです。

第五福竜丸事件と反核運動

冷戦の深刻化の中、米ソ両国は核開発競争をすすめ、核実験を繰り返しました。

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帝国書院「図録日本史総覧」P298

ソ連や中国も大気圏内で核実験をしていましたから、日本列島にも放射能が降りそそぎました。ぼくたちも、中国が核実験をした直後は「放射能をうけるかもしれない」「髪の毛が抜けたらたいへんだから雨に当たらないように」などと言われました。
1954(昭和29)年、南太平洋でマグロ漁をしていた第五福竜丸がビキニ環礁で行われた水爆実験の放射能を浴び、久保山愛吉さんという船員さんが原爆症で亡くなりました。一隻だけのはずないですよね。かなりの漁船が被曝しははずです。
その後、高知の高校生たちが県下の漁港をまわって調べたところ、放射能を浴びて健康を害した漁師さんが大量に見つかりました。
占領下はGHQの検閲をうけながら、ひそかに伝えられてきたヒロシマ・ナガサキの被害状況は、占領終了とともに人々の広く知るところとなっていました。

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第一回原水禁世界大会(1955年8月6日、広島)(Wikipedia「原水爆禁止日本協議会」

こうしたなかで発生した第五福竜丸事件は核兵器への恐怖と強い怒りを引き起こしました。最初に動き始めたのは東京・杉並区の住民たちでした。彼らがはじめた原水爆禁止を求める署名運動は、日本だけでなく、世界中に広がり、1955(昭和30)年には広島で第一回原水爆禁止世界大会が開催されるにいたります。世界の科学者や宗教家、文化人などにも運動は広がりました。
平和運動はこのような草の根の運動に支えられていきます。

「総評(日本労働組合総評議会)」の活動

平和運動のもう一つの担い手が、労働組合、とくに総評(日本労働組合総評議会)に結集した組合でした。

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松尾尊兊「国際国家への出発」P149

総評は、政治運動に力点が置かれすぎていた労働運動を民主化するという形で占領軍などの支援のもとに、生まれた労働組合の全国組織でした。しかし、いったん結成されると、しだいに資本家や政府との対決姿勢を強め、ニワトリがアヒルになった」などといわれ、平和運動の中心としても活躍しました。
さらに、各地で発生する労働争議でも「家族ぐるみ・街ぐるみ」運動などきびしい闘争を展開しました。しかししだいに力と自信を取り戻しつつある会社側の強い姿勢の前に困難を極めます。さらに会社側の働きかけをうけ、企業の存続と収益拡大によって生活向上をめざすべきだといった労働組合がつくられて力を伸ばします。大企業を中心に総評を離脱していく組合が増えていきます。労働組合に結集して、仕事と生活を守るというやり方が通用しなくなりつつありました。

「五十五年体制」の成立

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自民党結党大会(1955.11)(Wikipedia「自由民主党」)

1954(昭和29)年12月、退陣した吉田に代わって首相となったのは鳩山でした。鳩山は、憲法改正を正面に打ち出して選挙に臨みました。鳩山率いる民主党は勝利はしたものの過半数には及ばず、左右社会党も議席を伸ばし憲法改正を阻止しうる1/3以上の議席を確保したため、憲法改正は挫折、不安定な政権運営を余儀なくされました。
こうした保守勢力内の対立からくる政局不安のなかで生まれたのが「保守合同」の計画です。保守勢力間の争いは景気回復にも悪影響を与え、左右社会党の勢力拡大による非同盟中立政権成立の危機を感じさせました。保守勢力がまとまって一つの政党になるべきという声が高まりました。
先に動いたのは社会党でした。サンフランシスコ平和条約での対応をめぐり左右に分裂していた社会党は、10月再び統一を実現しました。

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松尾尊兊「国際国家への出発」P201

これが人事案などでなかなか進まなかった保守合同の動きを決定的にしました。1955(昭和30)年11月、鳩山率いる民主党と吉田の流れを引く自由党が合同して、自由民主党を結成します。
こうしてアメリカなど西側陣営と強く結びつき資本主義体制維持の立場に立つ保守政党である自由民主党と、非同盟中立の旗の下、社会主義的な政策をもとめる日本社会党などと対決するという二大政党的な枠組み、55年体制が成立したと言われます。
なおレッドパージなどの抑圧を背景に路線対立をめぐって分裂、一部が過激な方針をとることで支持を失っていた日本共産党もこの年再統一を実現、方針転換を実現し、議会主義への道を歩みます。しかし、この流れに反対する大学生たちは離党し、急進的な革命運動を立ち上げ、安保闘争などで大きな働きをすることになります。

「五十五年体制」の実際

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帝国書院「図録日本史総覧」P298」

自民党は諸勢力の寄り合い所帯という様相は否めず、すぐに空中分解するものと考えられていました。しかし、政権の座を独占できるという魅力は強い求心力を生み出し、現在に至るまで数年を除き政権を独占します。他方、以前の政党やグループは自民党内「派閥」として残り、派閥対立が政策論争や疑似政権交代のような意味合いを持つことで政治が単調になるのを防ぎました。
他方、いったん統一した社会党ですが、つねに自民党を下回る議席しか得られず、万年野党に甘んじます。そのため、求心力が働かず、社会主義的政策を表に出そうとする左派と労資協調・社会福祉などに重点を置くべきと考える右派との対立がつづきます。1960(昭和35)年には右派の一部が離党し民主社会党を結成します。その後も多党化が進んだため、つねに自民党の半分程度の議席、他の党も入れて全体の1/3を少し超える状態がつづきます。したがって、五十五年体制は、二大政党制でなく一・五大政党であるともいわれます。しかし、社会党がつねに一定の議席を持ち、護憲政党、批判政党という性格をもち、時には自民党の派閥抗争にも関わります。こうして五十五年体制下では、憲法改正は大きな問題とならず、政策面での論争などでも自民党政治へのチェック機能を果たし、一方的な政治になることを防いでいました。

<追記:五十五年体制については、「『五十五年体制』とその行き詰まりという文章をかいてみました。興味のある方はご覧ください。22年6月22日記

日ソ国交回復と国際連合加盟

1954(昭和29)年自民党総裁となった鳩山は社会党の協力も得ながら、もうひとつの課題であるソ連や中国との関係改善をすすめていきます。

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帝国書院「図録日本史総覧」P299

吉田内閣も中国(本土)との関係維持も考えていましたが、アメリカの強い意向から断念、台湾の中華民国政府と日華平和条約を締結することで中国に敵対しました

しかし、戦前の最大の貿易相手国でもあった中国との関係を重視する財界の意向もあって、鳩山は民間交流・援助を進めるという形で中国との関係改善を進めます。
さらに1956(昭和31)年10月、鳩山は病躯をおしてモスクワを訪問、日ソ首脳会議に臨み、講和条約締結後の歯舞・色丹両島の即時返還を明記した日ソ共同声明に調印、ソ連との国交回復を実現させました。これにともない、12月の国連総会では全会一致で加盟が承認されました。こうして日本は正式に国際舞台への復帰を実現しました。
こうした鳩山の動きに対しアメリカ側は不快感をあらわにし、アメリカとの関係を最優先する吉田系の人々はさまざまな妨害をはかったといわれます。
鳩山は日ソ国交回復を花道に首相の座をおりました。

石橋内閣

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石橋湛山 植民地放棄論など戦前から反骨のジャーナリストとして知られた。

鳩山退陣をうけ、次の首相となったのは石橋湛山でした。石橋は、大正時代、すでに植民地放棄を公然と主張し、自由と民主主義の立場から戦前の日本政府の政策を厳しく批判してきた反骨のジャーナリストであり、戦闘的民主主義者という評価される人物でした。戦後は大蔵大臣としてGHQの意に反する政策を進めたため公職追放ともなりました。

石橋が首相となったことで、アメリカでは頭を抱えた人も多く、短命に終われば僥倖とまでいっていたといわれます。極秘のうちに、日本への大幅な妥協案も検討されていました。日本のアメリカ離れが大変な脅威であったことを示しています。
首相としての石橋は中国との国交回復を進めるとともに、完全雇用をめざすケインズ流の積極財政をすすめようとしました。この手法は大蔵大臣であった池田勇人に大きな影響を与えたともいわれます。
ところが七二歳と高齢であった石橋は激務から肺炎にかかり長期療養を強いられます。国会審議に影響が出ると考えた石橋はわずか六五日で首相の座を去りました。まさにアメリカにとっては僥倖でした。しかも、新しい首相となったのは、お気に入りの人物でした。

 岸信介首相の登場

石橋のあとをついで首相となったのは岸信介です。

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岸信介(左) 釈放され、実弟・佐藤栄作(右・当時官房長官・後首相)の長官公邸に身を寄せた。(1948年12月)(Wikipedia「岸信介」)

岸は戦前、日本や「満州国」で総力戦体制を推し進めた経済官僚で、東条英機内閣では商工大臣として開戦の閣議に参加、戦後、A級戦犯として逮捕され、巣鴨刑務所に収監されました。しかし第二陣とされたことから、東条らの処刑翌日、不起訴・釈放となりました。
岸は反共のためにはアメリカとの協力が必要と考え、釈放後はアメリカとの関係を強めていきました。追放解除となると衆議院議員として吉田批判の急先鋒となり、吉田退陣後は保守合同の中心となりました。
鳩山退陣後の自民党総裁選では、第一回投票では一位となりますが、決選投票では二・三位連合を組んだ石橋に七票差で敗れました。しかし、この実績を背景に石橋内閣では副総裁格の外務大臣となり、石橋の病気によって臨時代行から首相へと上り詰めました。

岸内閣の政治

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「デートもできない警職法」といわれ、若者も積極的に参加した(「週刊明星」58、11)

鳩山・石橋とつづいた対米自立路線とはちがい、憲法改正・積極的再軍備をすすめる親米反共の岸はアメリカにとって歓迎すべき人物でした。岸はアメリカへの協力の実績をつむことで、片務的な日米安保条約を双務的に改定、日米間の対等な関係をつくろうと考えました。そして流れの先に憲法改正をみすえていました。
まず日米関係を基軸とする「国防の基本方針」を定め、それにもとづき軍備拡張計画をすすめます。さらに教職員に対する勤務評定を強化することで教育への介入を進め、警察の権限を強化する警職法制定をめざしましたが、「デートもできぬ警職法」というみごとなキャッチフレーズのもとに広がりを見せた警職法反対運動の前に廃案においこまれます。

新安保条約調印

こうしたなか、アメリカとの間の安保改定交渉が進んでいました。

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新安保条約(東京書籍「日本史A」P165)

旧条約では不明確であったアメリカの日本防衛義務を明確化され、日本の自衛力強化、国内での日米両国の相互防衛義務が明記されます。さらに核持ち込みと域外への出撃については「事前協議」が必要との一項も付け加えられます。旧条約にはなかった条約期限も書き加えられました。
岸は日米が対等となったと胸を張りたいところでしょうが、実態として変わった所は少ないと言われます。基地の自由使用に「事前協議」という枠がはめられますが、密約によって朝鮮半島「有事」はフリーパスとなり、域外出撃と言っても、日本領空をでたあとで、領海をでたあとで、命令を受けたと強弁すれば事前協議の対象外です。万一にも「事前協議」があったとして日本側が本当にアメリカの要求を拒否できるでしょうか。

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松尾尊兊「国際国家への出発」P234

事前協議で拒否することがないとはいえない」という当時の国会答弁がその実態を語っています。実際、ベトナム戦争では日本本土から飛行機や艦船が次々と戦場に向いましたが、現在に至るまで「事前協議」は一度として行われません。「協議してこないのだから仕方ないではないか」というのが政府の説明です。
これにたいし、自衛力の強化など日本側の義務は重くなります。相互防衛義務はアメリカの戦争に巻き込まれる危機が増すことでした
こうした内容を持つ、新安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)は1960(昭和35)年1月調印されます。舞台は、この条約を批准するかどうか、日本国内に移ります。

安保闘争の発生

新安保条約への反対運動(安保闘争)は、当初盛り上がりませんでした。しかし、ソ連領空に侵入したアメリカ偵察機が撃墜される事件がおこると、新安保で日本も戦争に巻き込まれるのではという声が強まり、国会内・外の反対運動は次第に高まってきました。

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帝国書院「図録日本史総覧」P299

岸は、この年6月大統領として初めて訪日するアイゼンハワーの歓迎に力を入れていました。そしてその手土産に条約を批准したいと考え、5月採決に反対する社会党国会議員を警察官に排除させ、会期延長と安保条約の衆議院採決を強行しました。
このやり方が多くの人々を激怒させました。全野党は国会審議を全面的に拒否、岸退陣を要求します。連日、数万の人々が国会周辺を取り囲みます。全国各地で反安保闘争の渦が巻き起こります。

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山川出版社「詳説日本史」P390

労働者、学生、サラリーマン、商店主、知識人、芸術家、演劇関係者などなど、まさしく一般市民が、安保改定さらには岸退陣を求めます。
僕が卒業した高校では生徒会が中心になって討論をし、集会へ行こうと決めたそうです。
このころ、僕は五歳でした。僕たちのおしくらまんじゅうのかけ声はなぜか「アンポ・ハンタイ」でした。小学校入学してからも子どもが混雑するとどこからか「アンポ・ハンタイ」「アンポ・ハンタイ」という声が出ました。「アンポって何?」「知らない」というオチがついていましたが。同じことは、日本中で起こっていたみたいですね。
僕より一年上の「アベ・シンゾー」君も。同じように「アンポ・ハンタイ」を叫んでいたようです。こともあろうに、祖父である岸信介首相の前で・・。ノブスケおじいちゃんは目に入れても痛くないシンゾー君に何て説明したのでしょうか。

安保闘争の高揚と岸内閣崩壊

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安保闘争を伝える新聞記事(帝国書院「図録日本史総覧」P299)

マスコミも岸の手法を厳しく批判、反対運動は空前絶後の規模となっていきます。6月4日には、労働組合が戦後最大のストを実施、560万人もの人が集会に参加したといいます。6月10日には大統領訪日の打ち合わせに来たハガチーが羽田空港付近で立ち往生する出来事も発生、大統領が訪日しても安全が保障できるかが疑問視されます。
運動の中心となったのは、社会党・総評を中心に共産党なども参加した安保条約改定阻止国民会議でした。この運動を大衆的なものとしたのは、多くの民衆であり、理論的に支えのは学者・評論家・作家などの知識人でした。そしてこの運動を激しいものにしたのは、全学連(主流派)の学生たちでした。学生運動に強い影響力を持つ共産党系と対立した学生たちが全学連の主導権を握り、革命運動の一環として過激な反対運動をすすめました。こうした行動は、国民会議の運動には飽き足りなく思っていた人々の一部もまきこんでいきます。学生たちの一部は、6月15日国会構内に侵入、警官隊と乱闘となり、一人の女子学生が死亡しました。
こうした運動の高まりに対し、警察力では不十分と考えた岸は、暴力団員をも含む右翼勢力を動員、デモ隊を襲撃させたため、運動は流血の度合いを増しました。さらに、自衛隊の出動を防衛庁長官に要請しますが、防衛庁長官はそれを拒否しました。それを行えば自衛隊自体が危うくなると考えたからです。現実に、自衛隊が国民に銃を向けていたら、現在の自衛隊はあり得なかったように思います。
万策尽きた岸は安全が確保できないとして大統領訪日中止を要請6月18日の安保条約の自然承認(条約は衆議院の承認のみで批准できる)、批准書の交換をまって、岸は内閣総辞職を決定しました。

アメリカにとって希望の星であったはずの岸は、厄病神扱いされつつありました。アメリカにとって最悪のシナリオは日本がアメリカ離れをおこし、非同盟中立路線をとり、米軍基地を叩き出すことだったのですから。岸は、愚劣な政治手法でこの悪夢を現実化させているかのようでした。岸内閣の総辞職でホッとしたアメリカ当局者も多かったとおもわれます。

こうしてアメリカはあ露骨な再軍備や憲法改正への圧力を控えるようになっていきます。安保闘争の成果は、このような形でも表われていました。

 

安保体制と戦後体制の本格化

安保闘争は、朝鮮戦争前後から始まった「逆コース」にたいする国民からの激しい異議申し立てでした。安保闘争は、日本国憲法が定めた平和主義に反し日本を戦争にまきこむ安保条約への疑問以上に、元戦犯である岸が、議会制民主主義のルールを軽視し、強権的な手法で安保条約を押しつけようとしたことへの怒りの方が強かったといいます。このままでは、政治家が国民を無視してすべてを決定してしまう。せっかく手にした民主主義が破壊され、戦前のような時代に戻ってしまうと。

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松尾「国際国家への出発」P242

安保闘争は戦後における大衆的護憲運動という性格をもっていました。この運動によって岸のような国民を無視した強引な政治手法は許されないことを示しました。憲法改正と再軍備という路線の前には平和と民主主義をもとめる多くの民衆という大きなハードルが立ちふさがっていることを示しました。

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山川出版社「詳説日本史」P398

こうして憲法改正などのテーマはいったん退場、強権的な政治もさけられるようになります。敗戦以来の「政治の時代」は終わりを告げ「経済の時代」へとうつっていきます。
55年体制にもとづく戦後日本の体制は、安保闘争を経ることによって確立しました。
それでは今日はここまでとします。ありがとうございました。

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