朝鮮戦争・サンフランシスコ平和条約・日米安保条約

日本復帰期成会はサンフランシスコ講和条約に反対し、沖縄の即時復帰の嘆願書と署名簿を講和会議参加国全権に送付しました。1951年8月28日〔写真:『沖縄県祖国復帰闘争史』沖縄時事出版より〕(読谷バーチャル平和博物館より)
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朝鮮戦争・サンフランシスコ平和条約・日米安保条約

こんにちわ。それではよろしくお願いします。

今日で、なんとか日本を「独立」させ、占領を終わらせたいと思います。

中華人民共和国の成立と日本

前の時間に見たように、冷戦は1947年になって急速に深刻化します。当初、冷戦の舞台は中心はドイツを中心とするヨーロッパでした。

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1940年代後期の東アジア情勢(帝国書院「図録日本史総覧」P294)

アジアについて、アメリカは中国の蒋介石国民政府をアジアのリーダーとするという戦略をたてていました。そのころ中国では国民政府と共産党との間の内戦が再発、アメリカは国民政府への軍事援助を強化、ソ連も国民政府と条約を結んでいました。国民政府軍は共産党の本拠地を奪うなど勝利は時間の問題と考えられました。
ところが、そのころから世界は不思議な光景を見ることになります。アメリカが供与した武器が、すぐに共産党軍の手に渡るのです。国民政府は腐敗し、人心とくに人口の大多数を占める農民の人心を失っていました。
1948年になると共産党軍は一挙に反攻に転じ、中国大陸を席巻、1949年になると国民政府をかつての日本の植民地台湾へと追いやり、10月、中華人民共和国の建国を宣言、ソ連との軍事同盟を結び、東側陣営に参加しました。

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帝国書院「図録日本史総覧」P294

中華人民共和国の成立によりアメリカはアジア戦略変更を余儀なくされます。膨張してくる東側=共産主義陣営をどこで「封じ込める」のかが問題となります。それは朝鮮半島であり、台湾海峡でした。こうした東西対立の前線を支える東アジア・アジアの東部における「西側」の拠点、中国国民政府に代わるリーダーとなるのは日本しか考えられませんでした。こうして、アメリカは、日本に「東洋のスイス」より「反共の砦」の役割を求めるようになります。
1948(昭和23)年頃からこうした動きが急速に進み、アメリカ陸軍長官は1月日本は「全体主義の戦争の脅威に対する防壁の役割」との演説を行いました。対日政策の大幅な変更がすすみます。
しかし、アメリカと中国との間はまだ決定的に対立したとはいえませんでした。

 

講和問題の発生と昭和天皇の「沖縄メッセージ」

東西対立が深刻化するなか、アメリカで外交を担当する国務省は1947年ごろから対日講和=「日本の独立」について検討を始めます。しかし「西側」での独立を嫌うソ連、日本軍国主義を恐れるオーストラリア、アジアでの競争相手の復活を嫌うイギリスなどはこうした動きに否定的でした。しかし最も否定的なのはアメリカ軍部=国防省でした。東西対立がすすむなか、無条件、無制限に使用できる日本の米軍基地は軍部=国防省にとって重要なものでした。講和条約の締結は日本国内の米軍基地撤去を意味します。これでは東側に対抗できないと考えたのです。
マッカーサーは「日本の独立」に前向きで、本土の基地の撤去は当然と考えていました。基地の存在と占領の長期化がアメリカへの反発につながることを心配していました。ただ、マッカーサーの発言にはある前提条件がありました。
1947年9月、ある人物が、人を介してマッカーサーに「25~50年以上にわたって米軍に沖縄占領の継続をお願いしたい」というメッセージを送ってきました。昭和天皇でした。憲法上、象徴天皇として国事から切り離されたはずの天皇がこのようなメッセージを送ったのです。その史料を下に掲げます。

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いわゆる「天皇の沖縄メッセージ」沖縄県公文書館蔵のものを加工。赤字は引用者

 

昭和天皇は、天皇制に否定的な共産主義の勢力拡大に強い危惧をいだいていました。このため、日本軍が消滅した今、米軍もいなくなれば、共産主義勢力が日本を支配するのではないかと考えたのでしょう。そこで米軍の強力な部隊が沖縄にいれば、こういった事態にも対応できると考えました。天皇は再び沖縄を犠牲にして「何か」を守ろうとしました。
マッカーサーは沖縄を日本から切り離して、そこに強力な米軍基地を維持すれば東側に対抗可能だと考えたのです。憲法9条自体、沖縄での米軍基地化が前提であったという研究もあります。マッカーサーは沖縄占領の継続と沖縄での米軍基地の無制限・自由使用を前提に講和と日本本土からの米軍基地撤去を認めようとしたのです。
昭和天皇にとって、憲法は、沖縄は、いったい何だったのか、疑いを禁じ得ないません。
ともあり、このときの講和計画はイギリスなどが参加をきらい、挫折しました。
アメリカでは、講和を急がず、日本をアメリカにとって都合のよい状態にしてからという意識が出てきます。1948年10月、アメリカは「日本が占領終了後も安定を維持し、自発的意志でアメリカの友好国として残るよう経済的、社会的に強化する」という方針を出し、これに反するこれまでの指令などを無効にする、これ以上の改革はしないとして、占領方針を「民主化」から「経済復興」へと大きく転換させました。(NSC13/2)本当なら、憲法も同じように無効にしたかったのかもしれませんね。
ドッジラインなどの経済の立て直し政策や財閥解体のトーンダウン=大企業の温存などはこうした政策変更の反映でした。

片面講和か、全面講和か

東西関係の緊張がアジアに広がるなか、講和をめぐる動きは1949(昭和24)年に本格化します。国務省は西側の有力な一員としての日本独立を再度検討し始めます。ソ連などの反対を切り捨てアメリカなど西側だけとの講和でよいという考えです。
こうしたアメリカの動きは日本国内の国論を二分します

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浜島書店「アカデミア世界史」P289

とりあえず独立すべき」という現実主義的な考え方があります。吉田首相などはこの立場です。「アメリカなど西側とだけの講和でよい」というので片面講和論といいます。もう片面(「東側陣営」)は切り捨てるというのです。
さらに片面講和に異議を持つ国も切り捨てる可能性を持ちます。
これに対し、「『双方の陣営』=全世界から認められた独立であるべき」という理想主義的な立場が全面講和論です。当初はアメリカの言いなりはもうこりごりという保守的な人々もこの立場をとっていました。
この対立は、アメリカを中心とする西側陣営の一員としての独立か、どこの国とも平和的な関係をむすぶ中立の日本をめざす独立(当然、ソ連など東側陣営とも仲良くする)か、あるいはアメリカとある程度の距離をおいた自立した日本をめざすか、など日本の未来像にかかわる対立でした。
片面講和の場合は、アメリカや西側陣営から軍事面を含むさまざまな協力を迫られ、平和憲法の原則に触れる事態もでてくるでしょう。東西対立に巻き込まれ、何らかの形で戦争に巻き込まれる危機もあります。またアメリカの言いなりである占領下と同様の状態が続くとの危惧もあります。しかし実現の可能性は高いです。なんと言っても実際に日本を占領しているアメリカが言い出しっぺなのですから。

片面講和は、戦争や植民地支配で迷惑をかけた国を切り捨てるという面も持っています。しかし、アメリカが嫌う全面講和が実際に可能なのかという現実主義的な問いかけもあるでしょう。このまま占領を長引かせるだけではないのかという・・。
アメリカの軍事力から離れて憲法のいう武力なき平和と独立が本当に維持できるのか、憲法9条を改正して軍事力をもつ必要もあるのではないかという現実主義的な論議もでてきました。いろいろな論点を含みながら「二つの講和論」の間で激しい議論が交わされました。
日本は世界の中でどうあるべきか、熱い議論が交わされました。

「日本が駐留米軍基地の存続を希望する?!」

先に見たようにアメリカの中では、日本を独立させるべきか、否か。厳しく意見が分かれていました。

国務省は日本を独立させることで、ソ連などの介入を防ぎ、日本がアジアにおける西側陣営のリーダーとしての地位につくことを望みます。アジアのリーダーは「独立国」でないとまずいでしょう。
アメリカ軍部にとっては日本列島の米軍基地が重要です。「絶対手放すか!」と。アメリカ軍部=「国防省」は日本駐留の米軍基地の「自由で無制限な使用」は譲ることができないと主張、講和条約に強く反対します。
こうしたアメリカ国内の対立から、講和問題はいきづまりました。この対立の解決をすすめ、日本を独立させるという役割を担ったのがダレスでした。

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マッカーサーと吉田茂(Wikipedia「吉田茂」)

こうしたアメリカ側の対立に助け船を出したのが早期講和を求める吉田首相でした。1950(昭和25)年4月、吉田はアメリカに向かう池田大蔵大臣にあるメッセージを託します。
日本から、『米軍基地を残してください』とお願いしましょうか?アメリカからはいいにくいでしょうから・・」という内容、一般に「池田ミッション」といわれます。
本来、国家主権にかかわる問題として、国内に外国軍隊を駐留させることはありえないというのが世界の常識でした。日本の「独立」=米軍の撤退が当然の前提となっていました。アメリカから「米軍基地を残せ!」ということは「日本の主権を制約しろ」と同様と考えられ、他の国との関わりもあって、言いたくても言えないことでした。
しかし「日本が頼んできたからしかたなく米軍基地を残したのだ」といえばこの難問から逃れられる。世界へもいいわけできる。アメリカにとっては有り難くて仕方がない申し出でした。
これはのちに大きな禍根を残しました。
「恩を売ったのだから、悪くはしないだろう」というのが日本的な考え。「弱みを見せた相手からはめいっぱい要求を引き出す」これが世界の常識。吉田はやはり日本人的、浪花節の感覚があったのかもしれませんね。
その後の展開から逆算すると「池田ミッション」の発案は吉田でなく、昭和天皇だったという考えもできそうです。池田は出発前に昭和天皇に会っています。吉田は「オブラートにつつんで示唆せよ」と命じたというのが実態かもしれません。え、オブラートって何だって?苦い粉薬を飲むための薄い膜のことですよ。
ともあれ、この池田ミッションが今後の日本のあり方を決めたともいわれます。

「池田ミッション」を知ったアメリカ側責任者ダレスは勢い込んで日本に乗り込んできます。ところが、吉田はこのメッセージがなかったかのような態度を取り、ダレスを怒らせます。吉田は「妥協をしすぎた、これは危険だ」と反省したのかもしれません。少なくとも交渉において不利になることは明らかです。

自分の頭ごなしに行われた政府のやり方に腹を立てたマッカーサーに配慮したためとも言われます。日本国憲法の理想を評価し「日本の軍事的中立」を強調するマッカーサーの怒りを感じた吉田がトーンダウンさせたのだと。
しかし、マッカーサーも、態度をかえ、本土の基地自由使用、再軍備といった方向をみせはじめます。その背景にあったのが、この年の6月に発生した朝鮮戦争です。

解放後の朝鮮半島情勢

そのころ朝鮮半島情勢が緊迫化してきました。
1910(明治43)年の「韓国併合」以来、日本の植民地とされてきた朝鮮半島は、1943(昭和18)年のカイロ宣言で日本から解放することが宣言されていました。1945年8月戦争が終わると、朝鮮の独立運動家・呂運亨らは日本総督府の権限を譲り受け、9月朝鮮人民共和国の建国を宣言しました。

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東京書籍「日本史A」P152

他方、米ソ両国はヤルタ会談での密約に従って朝鮮半島に進駐、北緯38度線で朝鮮を分断、北をソ連軍が、南をアメリカ軍が占領しました。両国は朝鮮人民共和国の承認を拒否し、38度線を挟んでそれぞれが直接軍政をはじめました。
その後、何度も統一の動きがあったものの、両国の思惑の違いからすすみませんでした。そして194(昭和23)年8年、ソ連支配地域では金日成を中心にして朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、アメリカ支配地域では李承晩を中心に大韓民国(韓国)が、それぞれ建国を宣言、「二つの朝鮮」が生まれました。両政府は、みずからこそ正統であることを主張し合います。とくに南部・大韓民国では指導者の李承晩の独裁的なやり方が国内外の強い批判を受け、アメリカさえも支援を打ち切る動きを見せました。

朝鮮戦争

こうした南部の情勢をチャンスだと考えたのが金日成でした。かれはアメリカの介入はないと考えて自国軍による「武力統一」を計画、ソ連のスターリン、中国の毛沢東の了解を取り付けて、1950(昭和25)年6月南部・韓国側へ侵攻しました。朝鮮戦争の発生です。不意を突かれた韓国軍は総崩れとなり、釜山周辺の狭い地域に追い込まれ、北朝鮮による朝鮮半島統一が現実化しました。

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朝鮮戦争の推移(帝国書院「図録日本史総覧」P295)

これに対し、アメリカは「北朝鮮による侵略」との国連安保理事会での決議を踏まえ「国連軍」として戦争に介入します。本来なら、ソ連が拒否権を発動する場面ですが、ソ連は国連における「中国」の議席を、中華人民共和国に譲るべきとの主張から、安保理をボイコットしていました。
国連軍の司令官となったのはマッカーサーでした。彼は、ソウル付近の仁川への上陸作戦(地図①)を決行、攻守は一挙に逆転、アメリカ軍はソウルを奪回したのみか、38度線を越えてピョンヤンを占領し、さらに中国国境をめざしました(地図②)。
しかし、ここで思いもかけない事態が発生します。中国から圧倒的な大軍が国境を越えて侵入したのです。彼らは記章を取り外した義勇軍、個人参加のボランティア軍として参戦、「中国」軍ではないという体裁をとりました。この大軍の前に、形勢は再び逆転、国連軍は38度線を維持できず、ソウルも奪われます。
「国連軍」「中国人民義勇軍」という名のもとでアメリカと中国が直接、戦闘行為を行いました。両者の敵対関係は決定的になりました
その後、国連軍は体制を立て直してソウルを奪還、1951年になると現在の軍事境界線(地図③)付近での戦線は膠着化します。
ちなみに戦火が一応収ったのは1953(昭和28)年7月です。しかし、あくまでも休戦です。形式的には戦闘を休んでいるだけで、朝鮮戦争は終わったのではありません。現在、北朝鮮を巡る4カ国協議とは朝鮮戦争の当事者である四カ国という意味をもっています。北朝鮮と中国は「血で結ばれた同盟」ということがあります。それはこの戦争の経緯によるものです。

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戦火を逃れ避難する朝鮮民衆(東京書籍「日本史A」P170

朝鮮戦争では、双方が人々を組織し、敵対しているとみなしたものをゲリラ・スパイなどとして容赦なく殺害し、全土で同じ民族同士が殺し合うという凄惨な様相を呈しました。犠牲者の数は計り知れず、大雑把に300万人といわれます。アジア太平洋戦争の日本人の犠牲者が350万人ですから、その意味合いがわかると思います。しかも住民同士が殺し合うといった事態が発生するなど、同じ民族の手で命を奪われた人が多く、さらに悲惨です。口に出しにくい「闇」が韓国社会に潜んでいることが、たまに報道されることがあります。いわゆる離散家族は1000万人にも及びました。戦火が国土を2往復し、戦争というブルドーザーが朝鮮半島を踏み荒らし、ソウルの町を3度も行き来しました。朝鮮半島は荒廃しました。

米軍の兵站基地としての日本~朝鮮特需

朝鮮戦争の発生は、日本にさまざまな影響を与えました。

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朝鮮特需で砲弾をつくる日本の工場(東京書籍「日本史A」P170)

朝鮮戦争に出撃した部隊の主力は日本各地に駐屯していた部隊でした。日本国内の飛行場からは戦闘機や爆撃機、輸送機が発着を繰り返し、港には戦場に向かう物資があふれかえります。出征していく兵士と、戦死した兵士の遺体や負傷したり疲れきった兵士が日本列島の上で交わります。
戦争に用いられる銃・砲弾はもとより、トラック・軍服など、戦争に必要なものの大部分が日本国内で調達されました。これを朝鮮特需と言います。日本が米軍最大の出撃基地、兵站基地となったのです
朝鮮戦争は、一方では日本全土に散在する米軍基地、他方では日本が隠し持っていた巨大な生産力、この二つによって支えられていました。
朝鮮特需に支えられて、日本の企業の多くはフル操業となり、ドッジラインによる不景気で苦しんでいた日本の企業は一転して好景気にわきます。この好景気を特需景気と言います。当時のニュースを見てみましょう。日本経済は朝鮮の犠牲によって息を吹き返し、高度経済成長につながる上昇トレンドへと入っていきます。

「逆コース」の本格化

戦争終結後5年で再び発生した戦争、しかも「近隣」で発生した戦争に人々はショックを受けました。当時のニュースを見てみましょう。とはいえ、あくまでも「近隣」であって「日本のかつての植民地」と考えた人はなぜか少なかったようですが・・。

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レッドパージによって、労働運動や社会運動の指導者が仕事を失った。写真は1950年農林省の労組掲示板(帝国書院「図録日本史総覧」P295)

日本国内でも反戦運動が発生します。日本が戦争の基地となることに反対し、米軍を阻止しようと各地で衝突が発生しました。占領軍から見ると、こうした一連の動きは共産主義者が東側陣営に協力して後方攪乱をおこなっている、自分たちの統治を脅かそうとしていると見えました。GHQは、共産主義者とその支持者を公職などから追放するレッドパージを命令しました。GHQがこれまで日本の民主化の担い手、パートナーと期待をかけてきた社会党も親ソ勢力と位置づけられるようになっていきます。
朝鮮戦争は、日本国内をも分断し、対立させました。こうして「逆コース」が本格化していきます。

警察予備隊の発足と「逆コース」

日本では、共産主義勢力が明日にでも日本へも上陸するかのような報道がなされ、各地の反対運動はその一環のようにとらえられました。こうした動きに対しアメリカや日本の保守勢力は強い危機感を感じました。

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山川出版社「詳説日本史図説」P295

こうしたなか、マッカーサーは朝鮮に出撃した米軍の代替としての、7万5千人の日本人部隊の設置と海上保安庁の8000人の増員を日本政府に命じます。あくまでも「国内の治安を維持するため」として、アメリカから貸与された銃器のみの軽武装の部隊ですが。こうして設置されたのが警察予備隊です。これがのちの自衛隊へと発展していきます。当時のニュースを見てみましょう。
アメリカは、日本に展開していた米軍の多くが朝鮮に移っていったため、反対運動が暴動や革命運動へと発展した場合、対応できないと考え、警察予備隊の設置を求めたのです。
警察予備隊は、国内の治安維持が任務だといわれましたが、軍隊の性格を持つのではないか、憲法9条の「戦力不保持」の原則と抵触するのではないか、という疑問は当初からだされており、保安隊を経て、自衛隊へと発展する実態としての「日本再軍備」の出発点となりました。

朝鮮戦争は、先に見たように一進一退を繰り返します。そうしたなか、マッカーサーは中国・ソ連に対する原爆の使用を検討、トルーマンと対立、1951年4月司令官の地位を解任されます。こうして、マッカーサーは「老兵は死なず、立ち去るのみ」との言葉を残し日本を去りました。長く続いた「絶対君主」の退陣でした。日本の人にはいろいろな思いがあったのでしょう。当時のニュースはかなり思い入れのある内容です。見てみましょう。

あらたな司令官の下で、公職追放は一挙に緩和され、多くの指導者たちが政財界へ復帰します。憲法改正が公然と語られ、「軍国主義的」と禁止されてきた娯楽や文化などが復活、新聞は「いろんな戦前のものが復活しはじめた」として危惧をいだきます。「逆コース」ということばが広がります。

 

アメリカ側におしまくられた吉田外交

この間、ダレスと吉田の間で日米講和にかかわる交渉が進んでいました。

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ダレス 強硬な反共主義者にたつ冷戦期の代表的政治家(Wikipedia「ジョン=フォスター=ダレス」より)

ダレスの再度の日本訪問に先だって、吉田は外務省に命じて、講和条約に対する日本側の対案をまとめさせます。
外務省は考えます。
米軍基地を置かざるをえないしても、できるだけ有利な形、「日本の主権が尊重される形」としなければならない。
アメリカは日本本土に基地が置きたくて仕方がないのだから、それを交渉材料としつつ、基地の「無条件・無制限、自由使用を阻止しようと考えていました。また憲法の理念とも整合性のある方法を検討しました。
そこで、考えたのが国連を間に入れる方法。憲法と国連の精神に基づき「平和建設のために米軍基地を置く」という理由付けです。アメリカ軍が「国連軍」として日本に駐屯し、国連決議に基づき行動するという条件をつけようとしました。また憲法9条の精神に基づいた「東アジア非武装地帯案」という対案も準備しました。外務省の人たちは「非武装地帯構想」に熱中したと言います。
このように、日本の主権をまもり、憲法とも整合し、世界の人々が納得できる形での米軍基地の残存とし、「無条件・無制限」なアメリカ軍基地の自由使用を阻止しようと考えたのです。
さまざまなあり方が検討されていました。現在の日米関係や日本の姿は、この選択肢の一つの結果に過ぎないのです。
乗り込んできたアメリカ側ダレスも基地の自由使用の問題は厳しい交渉になると覚悟してきました。ところが実際の交渉の冒頭で、吉田はあっさりと「日本側が米軍基地の自由使用をお願いする」といってしまいます。
外務省はもとより、ダレスも、日本が基地を提供し、アメリカがその基地においた軍隊で日本を防衛することで、平等性が保たれる「非対称の平等性」という原則の上で考えていました。基地の使用を第一に考えるアメリカが妥協を迫られる局面でした。
ところが基地についての懸案があっさりとかたづいたとたん、ダレスは一挙に攻勢に転じます。そこで持ち出してきたのが「アメリカは日本を守ってやるのに、日本側は軍隊を持てないといってアメリカを守らない。これは不平等で本国議会を説得できない。」という理屈です。このような考え方は、「安保ただ乗り」論という形でつづいています。大統領選挙でときのトランプ大統領などはその典型でした。
アメリカに対する日本側の最大の貢献は、アメリカの軍事戦略上重要な位置にある日本に基地を置くことを認めていることです。それで、すでにバランスがとれているのです。しかも、「無条件・無制限」という破格の条件で。(さらに今は「思いやり予算」というお小遣いまでも与えています。他の国では逆に駐留費用をアメリカが支払っています。)
ところが、「池田ミッション」や吉田の交渉の拙さから、いつの間にか「日米間の不平等」があるとされてしまい、日本への無理難題を押しつける口実となるつづけたのです。
ダレスは先の理屈の基づいて、「不平等」を解消するためにといって日本の再軍備強化を強く迫ります。吉田が色よい返事をしないので、次々と不利な条項が押しつけられていきました。そして日本の再軍備も認めさせられます。まさにやられたい放題でした。ダレスからすると120点の出来だったのでしょう。

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東京書籍「日本史A」P170

こうして日本にある米軍基地の継続使用はもとより、新しい基地の設置も可能となります。「いつでも、どこでも、自由に」アメリカ軍基地を使い、新たにつくることも認められたのです。国連決議など、一切気にせずに・・・
日本列島に米軍基地を置かせてやるのだから、こちらの条件を聞け」という強気の交渉ができたはずが、日本から「基地をおいてください」とお願いしたので「それならアメリカの条件を聞け」と押しまくられる結果となりました。
吉田外交の、日本外交の全面敗北です。当時の外務官僚らは不快感をあらわにしていたそうです。吉田も同じ気持ちだったのか、サンフランシスコ講和会議への出席を最後まで渋っていました。
吉田はなぜこのような下手な交渉をしたのでしょうか。その背景に「昭和天皇の意向がある」といわれています。天皇自身が政府とは別ルートでダレスらと接触していた事実が明らかになっており、そこで、米軍基地をおいてもらうように側近を通じてアメリカ側と交渉させていたのではといわれます。いやがる吉田をアメリカに行かせたのも天皇ではなかったかと言われています。吉田は、自らを「臣・茂」と呼ぶ「尊皇家」でした。こうしたところに関係あるのかもしれません。

サンフランシスコ平和条約

講和条約=「日本独立」に向けた作業がすすみます。先の交渉内容が、条約と条約以外のものに振り分けられて整理されていきます。条約を認めさせるための、アメリカによる各国への工作も進みます。ダレスは東南アジアの諸国をまわり、対日賠償をまけるようにとの圧力をかけました。

SF条約反対の声J162

実教出版「高校日本史A」P162

こうした作業をもとに、1951(昭和26)年9月アメリカの西海岸サンフランシスコに52カ国が参加した講和会議が開催されました。絶対来ないだろうと考えていたソ連なども参加しました。インドやビルマ(現ミャンマー)などは欠席し、日本がもっとも迷惑をかけた中国は、中華人民共和国と中華民国(台湾)のどちらが正統な政府かわからないとして呼ばれませんでした。韓国(および北朝鮮)も日本の植民地であって戦勝国ではないとアメリカが参加を拒否しました
そして予定通り?!ソ連などが調印を拒否、49カ国がサンフランシスコ平和条約(全文はこちらに調印することで、日本の「独立」がきまりました。
「これでいいのか、戦争の責任を取ったといえるのか」と思わざるを得ないような「独立」(講和条約締結)でした。これが片面講和を選択した苦い結果でした。日本国内でも、それほどの祝賀ムードではなかったようです。その点は、もう一度触れましょう。

SF条約Y283

山川出版社「詳説日本史」P283

朝鮮の独立承認、旧植民地の放棄、沖縄や小笠原諸島の分離(事実上、アメリカの統治下に置くことを認める)、米軍駐留、東京裁判の承認、多くの国は対日賠償は請求せず請求する国もその額を大幅に軽減する、駐留軍は協定によって日本国内におくことができるといった内容で非常に「寛大な内容」と評価する人も多い内容です。
他方、沖縄などは「日本」に見捨てられました。

「安保条約『ビンのフタ』論」

なお調印はしたものの、戦争で大きな被害を受けたオーストラリアやフィリピンなどは本音では「寛大な講和」には反対でした。それほどに、かつての日本軍は怖れられ、新たな日本軍国主義が恐ろしかったのです。アメリカがこうした国を説得するために用いた論理が「安保条約『ビンのフタ』論」です。日本軍国主義がビンからあふれ出し、アジア・太平洋地域の脅威となることを防ぐためのフタとして日本に基地を置き安保条約の枠組にしばりつけて置くのだという理屈です。
「お笑いぐさ」のように見えますが、それだけ戦争中の日本軍国主義は各国のトラウマとなっていたのです。ところが、最近になって米中の間などで再び「安保条約『ビンのフタ』論」が取り上げられるようになりました。アメリカが「安保条約があるから日本が核武装しないのだ、アジアの脅威となることを防いでいるのだ」と語り、中国が納得する。「安保条約『ビンのフタ』論」が国際情勢のなかでリアルな問題として語られるようになってしまっています。

日米安全保障条約と日米行政協定

「寛大な内容」といわれるサンフランシスコ平和条約は、実態としての「講和条約」の「表紙」に過ぎませんでした。その後ろに、あと2種類の「本文」がくっついていました。問題だらけの・・。
サンフランシスコ・オペラハウスという華々しい場所で平和条約の調印を終えた吉田は別の場所に向かいます。現地の米軍基地のなかのホールです。そこで調印されたのが日米安全保障条約(全文はこちら)、正式な内容は、吉田さえ十分に知らなかったといわれます。平和条約には6人もの日本人がぞろぞろと署名したのに、この条約に署名したのは吉田ただ一人でした。調印の様子を当時のニュース映像から来てみましょう。

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この条約は「日本のお願いにもとづいて、アメリカが恩恵を与える」という論理に基づいています。だから、アメリカが日本に基地をおいてやる、それを極東の安全に利用できる。にもかかわらず、米軍が日本を守るとは明記しないという非常に不平等な内容でした
条約前文の第五段落を見てください。そこには日本に対し「自国防衛のための漸増的に自らの責任を負うことを期待する」という一節が入っています。これが入ったことは、日本が再軍備に向けたアメリカの希望を受け入れたことを示しており、日本の再軍備がさらなる一歩を踏み出したことを示しています。これをテコに、アメリカはさらに圧力を増してきます。
吉田がだだをこねて行きたがらなかったのもわかる内容です。
さて、アメリカ軍部=「国防省」が強硬に主張していた米軍の自由使用はどうなったのでしょうか。この条約には具体的には何も記されません。第三条を見てください。「装備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する」とそっけなく書かれているだけです。ここに記された「条約」ですらない「日米行政協定」こそが、最も重要な「本文」でした。これは条約ではないので、このあと、日米両国で検討され、条約発効日までにまとめられました。これにかかわった外務省関係者は、その時の不快な感情を隠そうとはしていません。

第一条では、東アジアで何かあったときアメリカは自由に行動できること(「極東条項」)が定められ、日本の基地から米軍が出撃することが可能となるにもかかわらず、「米軍が日本を必ず守る」とは明言されていません。また米軍が日本国内の「内乱」や「騒擾」に介入できることなどが示されました。そして、条約の有効期限も改訂の方法も定められませんでした。こうした項目は「(旧)安保の不平等性」といわれたもので、安保改訂の必要性として主張されることになります。

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日米行政協定(帝国書院「図録日本史総覧」P297)

問題の「日米行政協定」(条文はこちら)ですが、条約でないので国会で審議したり、批准する必要はありません。そこに米軍が日本国内の基地などの「自由で無制限な使用」、アメリカ軍人の職務中の「治外法権」、軍人の自由な出入国などなど、日本の主権を制限するような内容が事細かにさだめられました。幕末の日米修好通商条約よりもひどい不平等条約だという人もいます。そしてこの内容はほぼそのままに、現在の日米地位協定(条文はこちら)に引き継がれています。
こうして基地の問題は人々の目に触れにくい所におかれることになりました。

アメリカにとっての重要度は「日米行政協定>安保条約>サンフランシスコ講和条約」であったの指摘もあります。

そして安保条約などは、日本国内では憲法をはじめとする国内法をこえる存在となり、戦後の、現在の日本のありかたにも決定的な役割を果たすことになりました。

さらに、文章化されていない本文ともいうべき密約も存在しました。警察予備隊のちの自衛隊の「指揮権」をアメリカ側がもつなど、公的文書とすると大問題になる内容でした。

世界が強要した「民主主義革命」としての戦後改革と日本国民

サンフランシスコ平和条約は1952(昭和27)年4月発効、日本は「独立」を達成します。これにより、日本における連合国(実態はアメリカ)の占領は終わります。この日のニュースも見てみましょう。

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戦後の沖縄の様子1957年(東京書籍「日本史A」P163)

沖縄などはアメリカ軍政下に取り残されました。さらに主要な本土の米軍基地もそのまま維持されます。航空機の性能向上の必要から、飛行場を拡張しようという要求も出ます。富士山頂の一部を射撃場にさせろという要求さえ一時出てきました。
アメリカを中心とする西側の一員として認められた「独立」であり、政治も経済もアメリカの強い影響が続きます。独立したことからくる再軍備のいっそうの拡大や憲法改正と言った新たな要求もでてきます。他方、こうして動きに反対する動きも活発化されます。

日本はアメリカの占領下で大きく変化しました
戦前の日本軍国主義を支えた体制は大きく変化しました。アメリカの高官がのちに「日本国憲法を作らせたのは間違いであった」と発言したように、占領下の変革はその後のアメリカにとって都合のよい改革ではありませんでした。だからこそ、アメリカは自分たちがすすめた改革を作り直したいと圧力をかけ続けているのです。

アメリカ占領期、とくに初期に行われた改革は「二度と戦争をしたくない」「あのような乱暴は二度と許さない」といった世界の人びとの思いが、日本に強要した「上からの民主主義革命」という性格を持っていました

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文部省が編纂した副読本「新しい憲法のはなし」より(東京書籍「日本史A」P157)

そしてそれは「二度と戦争をしたくない」「自由に、平和に生きたい」当時の日本の人々の思いと一致していました。だからこそ現在に至るまで広く支持され続け、「押しつけた」はずのアメリカが憲法などを改正させようとしても、日本人はこの時期の改革の成果を手放そうとしないのです

占領下の改革で、神の子孫であるとされた万世一系の天皇を主権者とする大日本帝国は崩壊しました。軍隊が勝手に政治も国家もねじ曲げていく軍国主義も過去のものとなりました。法律で人権を制限できる臣民の国から、基本的人権をもつ国民こそが国家の主人公である民主主義国家となりました。地主が圧倒的な力を持っていた農村は自作農民の民主的な村落へと変化し、一部の家族が運営していた財閥も解体され近代的な会社制度へと変わりました。父親などの許しがなければ結婚できないような家族制度も、女性の「不倫」が刑法で裁かれ男性の「不倫」が「男の甲斐性」とうらやましがられる社会も、特定の考え方をするからと言って逮捕されるような社会も、形の上ではなくなりました。自由や平等を主張できる世の中になりました。最低限の文化的生活が保障されなければならない社会になりました。そして軍隊を持たず、戦争を放棄した国になりました。なったはずでした。

日本は大きく変わりました。アメリカに、世界に強要された面もたしかにあります。しかし最初は驚き、しだいに歓迎、そしては自らの血肉にしていった事例の方が圧倒的に多かったでしょう。

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1947年プロ野球東西戦が開催された後楽園球場の様子(東京書籍「日本史A」P169)

曲がりなりにも占領が終了し、「独立」が達成されたことで「あるべき日本に戻すのだ」という声がアメリカの言いなりのように見えていた人たちから出てきます。かれらは本来は改革に反対だったり消極的だったのですが、権力の座から離れたくないので賛成してきたのです。それが「これまでの改革はアメリカに強制されたもので、独立した以上、あるべき姿に戻すのだ 」と言い出します。不思議なことに日本国憲法を作らせたのは間違いであった」というアメリカの意向を背景に。
こうして戦後改革で行われた改革、あるものはもとに戻り、あるものはいっそう発展させる、こういったせめぎあいの時代になります。
こうした巻き返しと、それをおしとどめようとするせめぎ合いのなかから、戦後の日本の形がつくられてきます。
ちなみに、今日の授業の時期に私の姉や兄は生まれました!私が生まれるまで、あと数年?!です。
それではきょうはここまでとします。ありがとうございました。

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