第二次大戦後の世界と戦後改革

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第二次大戦後の世界と戦後改革

こんにちは、今日は世界の様子から見ていきたいと思います。

第二次世界大戦の特徴は?

第二次大戦は、それまでの戦争とは違う特徴がありました
どこが違うと思います?

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両大戦の死傷者数 ソ連の死者が圧倒的である。ただし、中国の死傷者が含まれていないことに注意。浜島書店「アカデミア世界史」P276

・・参加国が多い・・死者が半端なく多い。・・
そうですね、その理由は?
・・科学技術の発展・・。途中でやめられなかった。・・非戦闘員が巻き込まれた。・・ユダヤ人の虐殺のような絶滅政策がとられた。・・・次々と違いが見えてきますね。
ほかにはありませんか?たとえば、日露戦争や日清戦争と比べて・・・。戦争の終わり方なんかを見て気づくことはありませんか。
日露戦争の時は、ポーツマス条約ではいくつかの権益などを手にいれて話がつきました。
日清戦争の下関条約では・・・台湾と遼東半島を獲得、・・・朝鮮の独立を承認する・・重要ですね。さらに・・・賠償金、そう金も取りました。しかし、こうしたことで話がつきました。

負けた国のあり方が問題とされる・・。

たしかにやられた側はつらい目に遭いました。それを引き金に革命も発生します。
でも、第二次大戦とは違う点があります。わかります?
負けたからといって相手の国を占領してその指導者を死刑にしたり、憲法を変えることを強要するといった「乱暴な話」にはなりませんね。ニコライ2世を戦犯として裁判にかけるとか、中国の民主化を進めろなんて話はありませんでしたね。
第二次大戦はどうでしょうか。

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浜島書店「アカデミア世界史」P281

ドイツでは国土が米ソ英仏4カ国の連合軍に分割占領されます。政府は崩壊して機能を失い、ドイツ人による統治はいったん否定されます。それまでの指導者は逮捕され、平和に対する犯罪の容疑で裁判にかけられ、処刑されます。ナチスを再び復活させないことに重点を置いた新しい憲法も作られます。そして冷戦の中で東西に分断されてしまいました・・。

なぜ「無条件降伏」なのか

第二次大戦では、戦争を進めた国のあり方そのものが糾弾され、否定されました。その結果、別の国に作り直されたのです。
別の言い方をすれば、勝者は自らが「正義の担い手」として、「悪をなした」敗者を犯罪者として裁き、その国家のあり方を否定したのです。

他方、あまりに過酷な賠償は避けました。こうしたことは、19世紀以前の戦争ではあり得ないことでした。
ナチスは、やったがやったことですから、当然のように感じますが、考えれば不思議な話です。このような厳しい要求を突きつけるためには、相手を「グーの音も出ない」ほどやっつける必要があったのです。「グーの音」、つまり一切の文句を言わせない、別の言い方をすれば条件をつけさせない降伏、・・・無条件降伏を求めたのです。

 

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浜島書店「アカデミア世界史」P278

こうして連合国は日本やドイツなどに無条件降伏を求め、その軍事力を背景に、「革命」を強要し、「憲法」(英語の”constitution”には「形態」「国のあり方(政体)」などの意味もある)を作り替える、作り替えさせる権利を要求したのです。

「正義を押しつける」戦争

少し整理しましょう。

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大戦中に開かれた会談と内容 (浜島書店「アカデミア世界史」P276)

第二次大戦は、19世紀的な領土や賠償金、王位の取り合いという戦争ではなく、第一次大戦のような列強が植民地を獲得するための帝国主義戦争とも違いました。これが一点目でしょう。

この戦争では、戦争を起こした側が「悪」とみなされました。これが二点目です。ドイツや日本は人類が守らねばならないと考えた価値(人権の尊重や民主主義など)や第一次大戦後急速に進んだ世界のルール・国際間の取り決めに著しく背いたと考えられたからです。
ナチスのユダヤ人やロマ人(「ジプシー」)などの虐殺は誰が見ても許されない行動です。
日本の行動も国際紛争を戦争という手段で解決することを禁止した第一次大戦後の国際ルール、とくにパリ不戦条約などに反し、宣戦布告なしの真珠湾攻撃や捕虜虐待も国際法に背くものでした。
ですから、米英などの連合軍は自らを「正義」と自己規定できたのです。「悪」であるファシズム・軍国主義をただすと「正義の戦争」であると。
正義の戦争」という考え方は、1941年段階で米英で共有され(大西洋憲章)、連合国共同宣言(1942)として共有されました。この二つの宣言の精神は、国際連合憲章として定式化されます。ちなみに連合国を英語で記すと”United=Nations”、別の日本語に訳すと国際連合ともなります。国際連合の正体は「連合国」なのです。

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国連憲章 第二次大戦の戦争目的も、新たな世界や人類のめざす道もこの中に示されている。

 

「コンスティテューション」(「憲法」「政体」)がおしつけられる!

ドイツや日本における「悪」をたちきるには、戦争をおこし支持した勢力を徹底的に破壊しなければならない。だからいったん占領して根本的な「治療」を行う必要がある。適当なところでは終われない。「無条件降伏」させる必要がある。これが三点目。
相手を徹底的にたたきつぶすという目的に科学技術や生産力の発達という条件も加わるから、いきおい戦争は凄惨なものとならざるを得ない。これが四点目。
こうした戦争ですから、「勝ったぜ、バンザイ!」「金や領土をたんまりいただく」では終わりません。
「戦争依存症」の国を「治療」するために「強制入院」させます。それが軍事占領です。そのうえで「戦争依存症」の根を絶つ「治療」(政体(constitution)の変化をともない、「革命」としての性格を持つ)がおこなわれ、世界の人類が守らねばならないと考えた価値(人権の尊重や民主主義など。国際連合憲章で定式化される)に基づいたコンスティテューション(constitution「憲法」「政体」)がおしつけられる。それが五点目です。
インド人、インドネシア人、ベトナム人などからみれば、「おまえには言われたくない」という面もありそうですね。こうした「治療」をするといっているイギリスやフランスなどこそ「帝国主義的な支配をして、自分たちの人権の尊重や民主主義など人類が守らねばならないと価値を侵しているではないか」と。
日本、正式に言うと大日本帝国はここにつけ込もうとしていました。大東亜共栄圏構想がそれでした。しかし、実際には侵略の上の貼った薄っぺらなメッキでしかありませんでしたが。
なお、まずいと考えたイギリスは大西洋憲章の対象をヨーロッパに限定しようとしています。しかし、「正義の戦争」という位置づけは、このようなイギリスなどの態度を追い詰めていきます。

『野蛮な敵国』としての日本軍国主義

日本との関わりでみていきましょう。

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東京書籍「日本史A」P135

連合国は、「日本は中国や東南アジアへの侵略という『悪』を行った」と規定しました。「満州国」の建国に始まる中国への進出は日本軍国主義の侵略的体質を体現したものであり、南京大虐殺や三光作戦にみられる残虐行為や捕虜虐待は日本軍国主義の非人道性を示しました。捕虜を拒むバンザイ突撃や特攻といった戦い方は日本軍国主義の「神秘性に裏打ちされた狂気」と「国家主義的教育の恐ろしさ」を示していました。そして、神秘性に彩られた天皇制こそが軍国主義の象徴であると考えるひともいました。
こうして日本軍国主義はヒトラー率いるドイツ、ムッソリーニ率いるイタリアと並ぶファシズム国家として位置づけ、天皇はヒトラーたち同格の存在とみなされました。
こうした日本に対し、1943年米英中の三国によって出されたカイロ宣言は日本を「野蛮な敵国」と表現し、「日本の無条件降伏まで戦う」ことを宣言しました。

『国体』は護持されたのか~無条件降伏?条件付き降伏?

戦争が、過酷さを増す中、日本が欧米的な常識で判断できない「野蛮な敵国」であり「危険な神秘主義に立つ軍国主義国家」である以上、安易な妥協は認められません。根本的な民主化と非軍国主義化は譲れないと考えられ、無条件降伏は絶対に必要でした。ポツダム宣言はこうした連合国の姿勢から出てきました。

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山川出版社「詳説日本史」P367

実はポツダム宣言の原案を準備したアメリカ国務省には二つの流れがありました。背景にあるのは天皇と天皇制の評価です。
一つは、国家神道によって飾り立てられた天皇制こそが日本軍国主義の核心と考える立場。今ひとつは昭和天皇と側近グループは自由主義的であると評価し、天皇制のなんらかの維持を保障することで早期降伏を求めるという考え方でした。彼らは宣言に「国体護持」を意味する「立憲君主制」という文言の挿入をめざしましたがかなわず、妥協的な表現にとどめました。どのあたりに、そのニュアンスがあるか、史料を見てください。
日本側はいったんはポツダム宣言を「黙殺」したものの、原爆の投下とソ連の参戦、アメリカ側の「国体護持」を容認するとの示唆をえたと理解し宣言受諾=降伏に応じました。日本の指導者の気持ちは「国体を護持」し得た「条件付きの降伏」でした。

旧支配層が居座る中での民主化・非軍国主義化

こうして第二次世界大戦というこれまでと違う原理にたつ戦争が終わりました。

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日本とドイツの軍事占領の比較(浜島書店「アカデミア世界史」P281)

当初、連合国は民主主義化・非軍国主義化という原則に基づき、連合国の協力体制を重視しながら、枢軸国のファシズム・軍国主義体制の解体をはかりました。
完璧に国家体制が破壊されたドイツとは異なり、日本はそれまでの政府が残りました。この敗北の姿のため、日本では一九世紀の戦争の敗北と違うことがなかなか理解できなかったのです。
ポツダム宣言が定めた「無条件降伏」と日本側の「国体維持」ができたという認識のずれや、戦争が予想よりも早く終わったことからくる間接占領となったこと、こういった事情が日本側、旧支配層の楽観的な観測を許していました。
日本においては、戦争に積極的・消極的にかかわった勢力が居座り戦前のあり方を踏襲したいと画策しているなかで、世界の人びとの意を受けた占領軍が戦争の根を絶つような「治療」(=「革命」)を行おうとしたのです。さらに東西対立から冷戦へとつながる国際関係の変化もありました。こうした事情もあり、戦後改革は複雑な動きを見せることになったのです。

最大の犠牲を払った国「ソ連」

戦争終了の直前ころから、連合国の間の足並みの乱れも見え始めていました。

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浜島書店「アカデミア世界史」P276

戦争において、長い期間ドイツをほぼ一手に引き受けて戦い、これをスターリングラートの戦いで破り、勝利の展望を与えたのはソ連でした。
ソ連にとっては、巨額の軍事援助を得たとはいえ英米はあまり信頼できない存在でした。戦争前、イギリスなどは宥和政策をとってドイツをソ連にけしかけようとしましたし、独ソ戦が始まっても米英はドイツと正面から戦わなかったため2000万人超という大戦最大の死者を出したとも考えていました。
そのため、ソ連はドイツ軍国主義が再び復活しないこと、さらに復活したときのための防波堤となるような緩衝地域をもうけることを強く求めました。そしてこうした戦略に伴って東ヨーロッパに進出、この地に親ソ政権を打ち立てます実態としてのソ連圏膨張のねらいがあったことも否定できないでしょう。
こうしたソ連のねらいには、大戦の原因ときっかけであり、ドイツに国を奪われながらも亡命政権のもとで戦い続けた国、ソ連に次ぐ大量の犠牲者をだした「連合国の一員」ポーランドも含まれていました。

ヤルタ会談とポツダム会談

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浜島書店「アカデミア世界史」P276

1945年2月のヤルタ会談は、こうした動きを見せるソ連と、それを嫌った米英の間を調整するために開催されました。ファシズムと戦って民主主義を守るという論理は後景に退き、強者が力によって世界を分け取りをすると言った大国のエゴが表面化しました。とはいえ、アメリカのF=ローズヴェルトもソ連のスターリンも連合国(=「国際連合」)という枠組みを維持する点では異存がありませんでした。ソ連の対日参戦もこうした枠組みの中、アメリカの要請で決まりました。とはいえ、スターリンはその代償として南樺太と千島列島、さらには旅順大連港を得るという「帝国主義的」な条件を承認させましたが。

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浜島書店「アカデミア世界史」P276

ドイツ降伏後の7月に開催されたポツダム会談では、ポーランド問題やドイツ占領などを巡り対立はいっそう深まります。長くアメリカを率いてきたF=ローズヴェルトが病死したことは米ソの信頼関係にひびがはいったことを示してもいました。原爆投下はソ連への威嚇の意味を持っていました。
しかし、二度と戦争をしない、地上からファシズムや軍国主義を撲滅するという姿勢は堅持されていました。この姿勢を文書化したものがポツダム宣言でした。宣言はアメリカイギリスが会談には参加していない中華民国の同意も得て出され、対日参戦後にはソ連も加わりました。
この4カ国にフランスを加えた「連合国」(“United Nations”)の主要5カ国が、国際連合(”United Nations”)の常任理事国となります。

協調から対立へ~「冷戦」の発生

大戦終了後の1945~46年段階で、米ソ両国は反ファシズム・反軍国主義という立場での協調関係を維持しようとしていました。
日本の植民地であった朝鮮半島においても両国は38度線を守って進駐しましたし、ソ連による北海道北部への進駐は拒否したもののアメリカは占領軍へのソ連軍の参加を求め続けました。

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山川出版社「詳説日本史図説」P293

しかし、1946年3月、イギリスのチャーチル元首相が「ヨーロッパ中央部でソ連が「鉄のカーテン」を引いている」とソ連の東ヨーロッパ政策を批判するなど、アメリカを中心とする西側陣営(資本主義諸国・自由主義陣営)とソ連を中心とする東側陣営(共産主義陣営)の対立はしだいに強まってきました。
1947年になると、アメリカはトルーマン=ドクトリンでソ連への対抗姿勢をしめし、「ソ連封じ込め」政策を本格化、両者の対立は決定的となります。こうした両者の関係は「冷たい戦争(冷戦)」とよばれます。

この時期、冷戦の中心はヨーロッパとくにドイツでした。しかし、中国ではアメリカが支援する蒋介石率いる国民政府と毛沢東率いる共産党軍との間の内戦が激化し朝鮮半島の統一をめざす話し合いはなかなか決着がつかないなど東アジアでも対立は起こっていました。

冷戦の開始とGHQ内部の対立

冷戦にいたる東西対立の激化は、日本国内にも影響を及ぼします。

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1948年1月アメリカ陸軍長官は日本を「全体主義の戦争の脅威に対する防壁」と位置づけました。(帝国書院「図録日本史総覧」P294)

日本でもヨーロッパ諸国と同様に経済混乱・食糧難を背景とした労働運動や社会運動が活発化し、共産党の影響力も高まってきました。アメリカ政府やGHQはこうした事態に「ソ連の影」を感じ、労働組合などへの圧力を強めはじめます。ところが、不思議なことに日本の共産党はアメリカを「解放軍」と規定し、親近感すら持つ「片思い」状態でした。
1947年になると、改革が一段落したこともあり、アメリカ本国では日本占領や経済援助におけるコスト削減を求める声が高まり、国務省(日本の外務省)を中心に、占領終了=対日講和の話が出始めます。東側勢力との対抗上、西側陣営の生産力拠点としての日本やドイツの復興をもとめる声も生まれます。
GHQ内部でも、非軍国主義化・民主化を進めていこうとグループと対抗する形で、国際情勢の変化を背景に日本経済の回復や国内外の左派勢力との対峙を重視する勢力が力を増してきます。かれらはこれまでの財閥解体や改革を進めるための公職追放への批判を強めていきます。

第一次吉田内閣~「よき敗者」としての改革

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吉田茂 元外交官。5期にわたって首相をつとめ、ワンマン宰相とも呼ばれたた。

話を1946(昭和21)年4月の帝国議会最後の総選挙に戻しましょう。総選挙で第一党となったのは戦争中も非公選で当選した鳩山一郎率いる自由党でした。進歩党総裁に転身した幣原の居座り工作などもあったものの、結局は鳩山を首相とする方向でまとまりました。ところが突然GHQは鳩山の公職追放を命じます。戦前の鳩山の言論弾圧を口実としたものでしたが、鳩山の反米的な気質~それは改革へのサボタージュにつながるのですが~を嫌ったのが本音でしょう。こうして首相選びはふりだしに戻り、幣原政権の外相吉田茂が自由党総裁となり、幣原率いる進歩党との連立内閣の総理大臣となります。
この内閣の主たる仕事は、憲法制定と民主化・自由主義化の改革でした。吉田は「よき敗者としてふるまう」と公言し、厳しいGHQの要求の前に「不本意」な改革を進めます。やりたくない仕事ですから、ごまかしやサボタージュも含めて。

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戦後の経済政策の変遷(帝国書院「図録日本史総覧」P29

ともかく、圧倒的なGHQの威光の前に、第二次農地改革などの諸改革が進展しました。

もう一つの重要課題が食糧難への対応と経済再建でした。吉田はGHQを通じてアメリカに食糧の緊急援助を依頼して急場をしのごうとします。食糧難が労働運動を激化させたのは前回見たとおりです。
経済再建の「目玉」として吉田が進めたのは、政府・官僚の主導のもとで日本経済復興の中心と考えた石炭と鉄鋼に資金を集中的に投入する傾斜生産方式でした。このような、官僚主導で社会主義的な手法を一部取り入れるケインズ流の混合経済は、戦後日本の経済政策の基本となります。こうした方法は、戦争中の総力戦体制=「国家総動員体制」の置き土産と考えることも可能でしょう。しかし、このやり方は官僚の恣意的な運用を可能にしやすいものであり、政府と経済界に間の不適切な関係が生まれやすく数年おきに疑獄事件が発生します。
傾斜生産方式で投入される資金は紙幣増刷で得たため、さらなるインフレを招きました。このことはさらなる賃金上昇圧力となって労働運動を激化させます。二一ゼネストの動きの背景にはこうした事情がありました。

片山内閣と芦田内閣~GHQとの協調と挫折

1947年4月、新憲法の施行を前に、次々と選挙が行われました。改革を加速したいGHQはさらなる手を打ちます。公職追放の対象を、地方レベルのリーダーや、経済界や言論界にも広げ、改革に消極的な自由党や民主党(進歩党の後進)をおさえようとしたのです。
こうした側面援助もあって、国政選挙で第一党となったのは社会党でした。とはいえ、過半数にははるかにおよばず、他の党との連立が必至でした。マッカーサーはさっそく、歓迎の声明を出します。GHQは社会党(とくに右派)こそが改革を発展させる新しい日本の担い手と期待していました。

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片山哲内閣(Wikipedia「片山内閣」より)

こうして社会党の片山哲を首相とし、民主党・国民協同党との連立内閣が成立しました。片山内閣はGHQとの協力の下で、新憲法に則した法体系やシステムの整備をすすめ、巨大な力を持っていた内務省の解体や警察制度の改革などもすすめました。面従腹背の吉田と違い、片山は民主化には前向きでした。
他方、経済面の混乱はつづきます。当時の経済白書は「家計も赤字、企業も赤字、財政も赤字」との嘆きを記しています。インフレ抑制策は賃金の抑制につながったため、社会党支持母体である労働組合の反発を招き、社会党内部の対立にもつながりました。こうして1948年2月、片山内閣は崩壊します。
あとをうけたのは、GHQの支持を背景に、連立の枠組みを維持した民主党の芦田均を首班とする内閣です。

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GHQは労働争議への介入をすすめた。 東京書籍「日本史A」P165

芦田もインフレの克服と経済再建を進めます。しかし1948月になると、先に見たように、アメリカ本国の姿勢がかわり、日本への要求も、民主化から経済復興へと風向きが変わり始めていました。インフレ脱却のための賃金抑制という本国の圧力を受け、1948年7月マッカーサーは公務員の争議権を制限せよとの書簡をおくり、政府はこれを政令201号として公布、公務員や国鉄など公務関係労働者のスト権がうばわれ、これ以後の労働運動の焦点となります。GHQは労働運動保護政策から、抑制政策へと舵を切ってきました。

 吉田茂の復活~戦後民主化路線の退潮

この年、昭和電工が多額の賄賂を政界や官界にばらまいていたとされる事件が発覚、多くの官僚が関与し逮捕される中、芦田内閣は10月に総辞職しました。かわって、首相の座についたのは、民主自由党(自由党の後進)の吉田茂でした。民主化に批判的な吉田内閣の成立は、非軍国主義化・民主化の路線から、冷戦をにらみつつ経済復興を優先する路線への転換を示すものでした。

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東京裁判の判決(帝国書院「図録日本史総覧」P289)

これまで国家主義者などの「公職追放」に対応していた政令の対象を「非民主主義的団体」と改めることで、実態として共産主義者を取り締まりの対象とします。
12月、東京裁判の判決が出され、第一陣の25名は全員が有罪、東条や広田など7名が死刑となり、12月23日刑が執行されます。そして翌日には岸信介ら第二陣以下のA級戦犯容疑者は全員釈放となります。裁判にかけられることもなく・・。これによりポツダム宣言の主要な柱、戦争犯罪者の裁判も決着します。1948年末、占領政策が大きな節目を迎えたことがわかります。
1949年1月の総選挙では、与党民自党が過半数を制する圧勝となり、吉田は民主党の一部を取り込む形で強力な内閣を組織します。総得票数では前回の選挙と大きな変化はなかったのですが。

アメリカ対日政策の変更~GHQ主導から本国主導に

アメリカの占領政策も、GHQのあり方も、大きく変化していました。前年12月アメリカ政府はこれまでのGHQの経済政策を否定する「経済安定9原則」を出し、これに伴う改革をGHQに命じました。占領政策の決定権は、マッカーサーからアメリカ本国へと移っていきます。
1949年1月、マッカーサーは「復興計画の重点は政治から経済へと移行した」との声明を発表、民主化の終結と経済立て直しの本格化を正式に宣言します。

 「ドッジ・ライン」~超デフレ政策の強行と「怪事件」の発生

2月になるとトルーマンから絶大な権限を与えられた一人の銀行家がやってきます。ドッジです。

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帝国書院「図録日本史総覧」P294

彼は「日本経済は、アメリカからの経済援助と財政からの補助金という日本の『竹馬』に乗っている。この『竹馬』を取り外さねばならない」として、厳しいデフレ政策を要求、吉田内閣の予算案を拒否し、GHQにつくらせた独自予算案を内示・政府案として無修正で成立させます。これこそ「押しつけ」ですね。大蔵大臣の池田勇人は中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ないという有名な暴言を吐きました。
とりあえずドッジの処方した荒療治によってインフレは一挙に収束に向かいました。
しかしその副作用は激しく、大企業や国鉄など官庁では「人員整理」の名目で大量の首切りが行われました。中小企業の倒産も相次ぎ、賃金も大きく引き下げられ、失業者は再び町中にあふれました。
「人員整理」の対象となったものの多くは労働組合の活動家たちでした。当然、労働運動は激化します。こうしたなか、大量の解雇者を出した国鉄を巡って怪事件が続発します。7月には国鉄総裁下山定則が行方不明となり轢死体となって発見される(下山事件)、三鷹駅構内で無人の列車が暴走する(三鷹事件)、8月には東北線松川駅で列車の脱線事件が発生する(松川事件)など。

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山川出版社「詳説日本史」P381

これといった証拠もないまま国鉄労働者などが逮捕され、労働運動とのかかわりが報じられ、労働運動へ打撃を与えました。背後には労働運動の激化を恐れたアメリカの諜報機関の存在があったと主張する人もいます。
9月来日した財政学者シャウプは所得税を中心とし累進課税を導入するといった財政改革を勧告され、受け入れられることになります。

「逆コース」の本格化へ

冷戦に伴うアメリカの政策変更第二次吉田内閣の成立によって、政治の流れは民主化・非軍国主義化から経済改革へと大きく流れを変えました。しわ寄せは労働者に向けられ、労働組合は抑圧されます。戦争にかかわった勢力や旧財閥関係者などがしだいに復権する一方、共産主義者や急進的な労働運動はソ連の影響力を強めるものとして排除されていきます。こうした流れは「逆コース」という言い方で語られます。そしてこうした逆コースは1949年の中華人民共和国の成立、そして1950年に発生する朝鮮戦争によって決定的となります。

 

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