焼け跡と闇市、そして戦後民主主義

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焼け跡と闇市、そして戦後民主主義

~「東京キッド」の時代~

「東京キッド」の時代

 こんにちわ。
今日は、まず一つ曲を聴いてもらうことからはじめましょう。映像もあります。
東京キッド

映画「東京キッド」(1950)より

歌っているのは、昭和の歌姫として有名な美空ひばり、当時13歳です。こどもにしては大人っぽい歌い方ですね。歌っている曲は「東京キッド」。「キッド」とは「子どもとか、若者」という意味ですので、「東京の街の子」というか、もうすこし野性味がある感じ・・。1950(昭和25)年に発表された同名の映画の主題歌で、映像はその一部です。
明るい歌詞で当時の言い方をすればハイカラな曲ですね。歌詞を配ります。気になる言葉をチェックしてみてください。
  歌も楽しや 東京キッド
いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チューイン・ガム
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マン・ホール
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銀座の服部時計店を接収してもうけられた進駐軍PX(帝国書院「図録日本史総覧」P288)

歌も楽しや 東京キッド
泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても
フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マン・ホール
歌も楽しや 東京キッド
腕も自慢で のど自慢
いつもスイング ジャズの歌
おどるおどりは ジタバーク
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マン・ホール

 (作詞:藤浦洸、作曲:万城目正

歌詞を見て気がついたこと、変だと思うこと、あげてみませんか。
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ダンスホールの盛況 1949(昭和24)年(山川出版社「詳説日本史」P285)

「カタカナ」が多い。そうですね。進駐軍文化の影響、「チューインガム」とか「チョコレート」は当時の人たち、とくに子供たちの憧れのまと。「フランス香水」「スイングジャズ」といった大人びた言葉も出ますね。占領下でアメリカ文化が広がりつつありました。「ジタバーグ」は「ジルバ」ともいい、はやりのダンスのステップ。子どもの世界と大人の世界が渾然一体となった占領下のハイカラな時代を歌いあげています。
進駐軍のもたらした文化というかその空気は、自由と豊かさの象徴でした。英会話ブームも起こりました。こうしたアメリカ的なものへの憧れが、戦後日本の文化に大きな影響を与えました。

実はアメリカが大好きだった日本人

 

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プロ野球は、敗戦後2年という早い時期に復活した。写真は1947年に開催されて東西対抗戦。後楽園球場(東京書籍「日本史A」P169)

口には出さなかったけど、戦前から、日本人のアメリカへのあこがれは強かったという指摘があります。自由といった価値が抑圧されていた日本人にとってアメリカは輝ける自由と繁栄、欲望の象徴でした。ジャズやハリウッド映画が流行、野球がはやりベーブルースら大リーグの来日に熱狂、そこにはアメリカへのあこがれがありました。しかし、あこがれは戦時体制、さらに対米戦争の開始により抑圧されました。「贅沢は敵である」というスローガンはこうしたあこがれを否定するものでした。あのアメリカを拒否することが「非常時」の意味でした。「鬼畜米英」というスローガンはあこがれの反作用なのです。
敗戦は、こうした状況を一気にひっくり返しました。国家や軍、うるさい近所の人の目なんか気にせずに、心置きなくアメリカへのあこがれを表現できるようになりました。それが新しい生き方でした。
日本中に、英語が、カタカナがあふれます。

「右のポッケに『夢』がある、左のポッケにチューインガム」

歌詞の「もぐりたくなりゃ マン・ホール」というところ、この意味、わかります?なぜマンホールに潜るのですか?普通、めったにそんなところには潜りませんね。

ここから、この歌で描かれた子どもがどんな子どもなのかがわかります。マンホールに潜り込み、ビルの屋根、青天井で空を見上げる子ども。・・家や家族を失った「浮浪児」、家がないのでマンホールの下やビルの屋上を住まいにしている。空襲で親をなくした「戦災孤児」なのでしょうか。戦後の悲惨さの象徴ともいえる子どもたちです。
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駅をねぐらに靴磨きをする戦災孤児(47年8月・名古屋)(「東京大空襲訴訟を支援するブログ」より)

しかし、この曲は、こうした境遇を逆手にとって、「いきでおしゃれで ほがらかで」と、そんな暮らしも遊びのように楽しんでいる、こんな子どもとして描きだします。街はジャズが流れるダンスホールだし、高価なフランス香水やチョコレートもいっぱいある。なんといっても、ポッケの中にはいっぱい「夢がある」んだから
戦争によって何もかも失ってしまった。だけど失ったからこその自由、未来への「夢」や希望。具体的な「夢」なんかなくったってよい。チューインガムやスイングジャズ、おいしいものや楽しいことを楽しめるようになった。家をなくしたことだって自由な場所で眠れるようになったと考えりゃいいじゃないか。「金はひとつも なくっても」あふれるほどの自由と希望があるじゃないか。

美空ひばり

美空ひばり

こうした「解放感」を、抜群の歌唱力で、学校では叱られる歌い方で「のど自慢」の魚屋の娘美空ひばりが力一杯に歌う。
ひばりは「見てはいけない、聞いてはいけない何か」を象徴している存在のようだったという人もいました。

人々は戦争の終わったことの意味、戦後という時代をこの少女の姿を通して感じていました。元気づけられました。

 

ちなみに、動画の中に、広場の定番がありましたね。

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ドラえもん 広場には必ず土管がある。

ドラえもんやサザエさんで定番の「土管」。こうしたアニメはこうした時代を一つの背景にしているのです。苦しいけど、これまでの息苦しさとは全く違う時代、苦しいけどなぜかみんなが生き生きとしていて希望を感じさせる時代、それが「東京キッド」の描く時代でした。

戦争が終わって五年たって、ある程度生活が安定し、次第に餓死の脅威が過去のものになってきたからこそ作ることのできた曲や映画だったのかもしれませんが。
「金がひとつもなくって」、寒さにふるえ、飢え死の危機を感じながらも、その「右のポッケ」には「夢」がはいっている。貧困や苦悩と未来への希望、それが交錯した時代が戦後の数年間でした。

「焼け跡」のなかでの生活~バラックと戦災孤児

「玉音放送」で茫然自失となった人々。戦争は終わってもひもじさはかわりません。その日の食べるものをどうするのか。東京や大阪など多くの都市には空襲の焼け跡が広がっています。
人びとは焼け残った木材などを集めてバラックと呼ばれる粗末な家を作ったり、防空壕で暮らしたり、知り合いを頼って間借りしたりしました。広島や長崎は原爆の地獄図絵が広がったままでした。
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帝国書院「図録日本史総覧」P287

東京などには、空襲などで親をなくした戦災孤児がいました。リアル「東京キッド」たちは、靴磨きをしたり、乞食をしたり、ときには「かっぱらい」もしながら、飢死の危機やのみ・しらみとたたかいながら、生きていました。駅の通路が寝床という子どもたちもたくさんいました。劣悪な施設に「保護」され、そこで命を失う「キッド」たちもいました。
1947(昭和22)年から三年間、大人気を博したラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、戦災孤児と彼らの家を作ろうとした帰還兵の希望にあふれる話でした。1955年生まれの僕でさえ主題歌を口ずさめるほどのヒット作でした。

食糧難と闇市の賑わい

食べ物の不足はいっそう深刻化してきました。戦争は農村を荒廃させました。1945年はまれに見る凶作でした。敗戦によって、朝鮮や東北部から運び込まれてきた食料も途絶えます。配給制度はつづけられたものの、その維持は困難となり、遅配や代用品がつづきます。
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帝国書院「図録日本史総覧」P287

物資が全くなかったのではありません。一般の日本人の立ち入れないPXとよばれた占領軍の売店(「酒保」)には、チョコレートやフランス香水など豊富で見たこともないような贅沢な物資があふれており、人々の羨望の的でした。「人々の悩み」という特集の当時のニュースがありますので見てみましょう。

都会のあちらこちらには闇市が出現、露天商が店を出しました。旧軍隊が隠していた物資や、配給に回さず横流しされた食料品などが並べられ、闇物資を買い求める人で賑わいました。抑え込まれていた価格も、戦争が終わったことで一挙に跳ね上がり、闇価格は公定価格の数十倍から100倍を超えました。それでもなんとかやりくりをして手に入れようとしました。東京・上野のアメ横などはかつての闇市の名残です。

 

買い出し列車、タケノコ生活

人々は食料を求め農村に買い出しに行きます。衣服などをもっていって、米など農産物と交換してもらうのです。買い出し列車とよばれる列車には網棚から連結部、車両の上などそこら中に人が乗りこみました。衣服などを農作物に変えていく有り様をタケノコになぞらえて、タケノコ生活と言いました。
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山川出版社「詳説日本史」P377

しかし、大切な「宝物」はなかなか交換してもらえず、ほんのわずかな食料で我慢することも多かったのです。
政府からすれば、このようなやり方は配給システムを壊す犯罪でした。そのため、思いついたように取り締まりが行われ、せっかく手に入れた食料が没収されてしまうこともよくありました。大切な思い出と引き換えの食べ物が取り上げられる、こうした風景が繰り返されていました。

ひとりの「英雄」の死

生きていくためには、闇を買ったり、買い出しにいくなど、非合法な手段に頼らざるを得ない時代でした。
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帝国書院「図録日本史総覧」P287

この時代、一人の「英雄」が生まれました。山口良忠という裁判官です。自分は裁判官だからと闇物資を決して口にせず、配給だけで生きていこうとし・・栄養失調で死にます。ぼくの母や祖母は「人間、建前だけではやっていけない」というたとえとしてこの人物の話をよくしました。それぐらい、時代の人びとに、強い印象を与えた事件でした。
そのときの言い方を思い出すと、母たちにはなんらかの心の痛みもあったように感じます。その痛みはこの時代を生きた人たちに共通の痛みだったのでしょう。法やルールを守ることも、まじめなだけでも、生きられない時代でした。普通の人たちも「仕方ないじゃないか」と思った、思おうとした時代でした

 復員とシベリア抑留

 食べ物も、住宅も不足する中、外地から次々と人々が帰ってきました。
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戦地から帰還した兵士と家族 山川出版社「詳説日本史図説」P291

まず350万人の軍人たち、復員といいます。彼らが戦地に残ると不安定要因になると考え、連合軍は早々に復員させした。中国の一部やインドネシア、インドシナなどでは内戦や独立戦争に巻き込まれた人もおり、命を失った人、その地に残った人もたちもいました。
「バンザイ」の歓声で送られた人たちでした。生死の境を何度も経験しながら、苦難の末に帰ってきた元兵士たちです。しかしやっとたどり着いた日本で冷たい視線を浴びせられることも多かったといいます。
なかなか復員が許されず、戦後になって厳しい労働に従事させられた元兵士たちがいました。シベリア抑留です。ソ連は旧「満州国」などにいた約60万人の元兵士をソ連領内に連行、さまざまな労働に従事させました。極寒の地で十分な食事を与えない過酷な労働のなかで5万人以上の人が命を失いました。
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帝国書院「図録日本史総覧」P285

ソ連の側からすれば、ナチスドイツに受けた被害からの復興のための、ちょうどよい労働力だったのでしょう。囚人労働によるシベリア開発は帝政ロシア以来の伝統でもありました。さらに兵士たちを共産主義思想を伝え日本での革命の担い手にしようと考えたともいわれます。その点でいうなら、この行為は全くの逆効果でした。シベリア抑留は、ソ連の対日参戦の経緯とともに反ソ連感情を高めたのですから。

引き揚げ

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復員・引揚者数 山川出版社「詳説日本史図説」P291

兵士の復員が一段落すると、朝鮮や台湾、「満州」、さらに中国などに移り住んでいた民間人、約310万人が帰ってきます。「引き揚げ」といいます。彼らが、現地で作り上げた財産は没収されて持ち帰ることが許されず、文字通り着の身着のままでした。
とくに「満州」に開拓団として移住した人たちは、生きて帰れただけで幸いといえるほどの、言語に絶する体験のすえの引き揚げでした。多くの人びとが亡くなり、置き去りにされた子どもや女性も多数に上りました。
しかし、貧しさから大陸に渡った人が中心であったため、帰ってはきたものの、彼らを受け入れてくれる家も土地もないという人が多く、帰還したその日から食事に困るような有様でした。荒れ地などに入植するという苦しい選択をした人々もいました。

帰国した人と残った人~在日朝鮮人問題の発生

敗戦時、日本本土には約200万人の朝鮮半島出身者がいました。8月15日を「解放の日」と考えた彼らは戦勝国民としての権利を主張し始めました。GHQではその扱いに苦慮しました。
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浮島丸事件殉難碑(舞鶴市佐波賀) 朝鮮人労働者・家族3735人を乗せた青森県大湊を出港した「浮島丸」が(4730トン)が1945年8月24日舞鶴港沖で爆発、沈没、確認できただけでも約550人が死亡した。(「日本の鉱山」HPより)

「強制連行」の形でやってきた人たちは、帰還できる船を探し、日本海側の港に殺到、大混乱となりました。ついには米軍も動いて帰国事業をすすめ、約半年で約135万人が帰国しました。青森から多くの朝鮮人を乗せた船(浮島丸)が舞鶴港で爆発、多くの死者が出る事件も発生しました。
戦争前から来ていた人たちの多くも帰国を望みました。しかし財産整理の都合や、財産持ち出しの制限、もはや何も残っていない祖国での生活不安などから約60万人が日本に残り、その後の半島での混乱により帰国の機会を失います。逆に日本に戻ってきた人もいました。
日本政府は、敗戦後、朝鮮半島出身者などに認めてきた参政権などを停止、47年の憲法発効前日には彼らを「当分の間、外国人と見なす」との「勅令」をだし、最終的には、1952年「日本国籍」を剥奪し、外国人としての扱いを行うことにしました。こうした作業は本人の意思を一切聞くことなく、一方的に進められました
朝鮮出身者は、韓国併合によって一方的に日本国民とされ、敗戦とともに一方的に「外国人」とされました
なお、アメリカ軍は、沖縄に関して、本土の沖縄県民を沖縄に、沖縄県内の本土出身者を本土に移すという政策を進めています。この段階、アメリカは沖縄を旧植民地と同様に考え、日本から分離する狙いを持っていたとも言われています。

日本経済の崩壊と「飢えていた」人々

話を、1945年に戻します。
物資とくに食料不足は、戦地や旧植民地などからの人々の帰還によっていっそう厳しくなりました。1946年の冬には大量の餓死者が出るという予測が出されました。
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終戦時の生産力 1934~36年の平均を100とした指数(山川出版社「詳説日本史図説」P292)

空襲などによって鉱工業生産力は戦前の1/3に落ち込んでいました。アメリカの空襲は軍需工場や鉄道などのインフラではなく、都市を狙ったため、都市の中に散在していた生活に密着した工場が被害を受け、軍需工場や鉄道などの被害は比較的少なかったと言われます。非武装化は軍需工業の操業停止をも意味しました。比較的被害が少なかった工場は使えず、人々が切実に求めていた工場が大きな被害を受けていたのです。
大量の兵士など軍事関係者、空襲で仕事場を失ったり非武装化によって仕事を失った労働者などが失業者の群れにはいっていきます。戦地や旧植民地からもぞくぞくと人びとが帰還してきます。かれらの復帰はそれまで働いていた人をおしのけました。大量の失業者が街にあふれました。
このような状況で賃金が上昇するとは考えられません。労働者の実質賃金は戦争前1934年の20%前後まで下がっていました。東京の先生たちには週一回、買い出しのための休みがありました。
失業している人はもちろん、仕事についている人も生きていくこと食べることに精一杯の時代でした。憲法よりも飯だ」というスローガンが強い説得力を持っていました。

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山川出版社「詳説日本史図説」P291

闇屋のように、混乱に乗じて新たな仕事を見つける人もうまれてきました。国家の力を信頼できなくなった人びとは、時には反社会的な勢力の力も借ります。当然、社会は混乱します。自分の命と生活は自分たちで守らなければという意識が高まりました。
他方、食糧不足にもかかわらず本が飛ぶように売れたといいます。新しい本や眠っていた本が店頭に並べられると、人びとは先を争って買いました。食糧のためのなけなしのお金を本に替えた人もいました。
これまでの価値感がくずれ、国家への信頼が暴落した中、人びとは知ること学ぶことにも「飢え」ていました。自分が、日本が、今後どうあるべきかを知りたい、こういった思いもあふれていました。
「東京キッド」の不思議な明るさはこうした時代の風潮をとらえていたのです。

悪性インフレの発生

政府の政策は、人びとの生活をいっそう混乱に落とし入れました。政府は、戦争中に多くの借金をしていました。敗戦と同時に、政府は軍需物資などの支払い、軍人への遺族給付などを臨時軍事費として一挙に支払います。軍需産業では一挙に首切りがされたので退職金の原資も必要でした。
この多額の支払い、どうします?・・お札を刷って支払いました。ものがないのに、大量の紙幣を発行すると・・インフレが発生します。
これから数年間、人々は強烈な悪性インフレに悩みつづけます。
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山川出版社「詳説日本史図説」P292

政府の側、財政面で見るとインフレは悪いことだけではありません。戦争中、政府は戦時国債や愛国貯金などさまざまな形で国民のお金を集めました。

この大量の借金はインフレになるとどうなりますか?お金の価値が一挙に下がっても金額は額面のままです。そのため、その金額で買えるものは10分の1、100分の1となり、ついにはタダ同然となります。国債や貯めた貯金がただ同然になったため、政府は借金を事実上支払わなくてもよくなったのです。こうしたねらいもあり、財政当局はインフレを放置したともいわれます。

現在、日本は1000兆円を越す借金をもっています。悲観的な経済学者はこれを返却することは不可能じゃないかとよくいっています。深刻さは増しているはずなのに、最近は話題になることが少なく気がします。気のせいでしょうか。

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貯蓄を呼びかける回覧板。戦時中、人々はなけなしのお金を貯蓄に回した。(山川出版社「詳説日本史図説」P280)

さてこの膨大な国債をどう処理するのか。戦後のようなインフレにならなければ無理じゃないかという意見を聞いたことがありました。しかしそれは国家が信頼を失い、破たんすることです。
1945(昭和20)年、日本は、経済や財政という面からも破たんしていました。そのつけは国民に回されました。いつも最終的に痛い目にあわされるのは庶民のようです。

 

政府のインフレ対策~金融緊急措置令・物価統制令

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山川出版社「詳説日本史図説」P292

そうはいっても、政府としてインフレをいつまでも放置しておくわけにはいきません。1946年2月金融緊急措置令がだされます。今までのお金(旧円)の使用を禁止、新しいお金(新円)との円切り換えを命じます。しかし、交換できる額が制限され、残りの旧円は紙切れとなります。だから引き上げ期日までに旧円を使おうとする人も多く、闇市での価格は急騰します。さらに預金の引き出しが閉鎖され、引きだし額も上限をつけられます。こうした強引なやり方で貨幣の流通量を強引に減らし、インフレを抑制しようとしました。しかし効果は一時的でした。

3月の物価等統制令は、戦争前(1934~36年平均)を基準に、物価は10倍、賃金は5倍と決めました。しかし、フランス革命の最高価格令のように違反したものをギロチンにかけるというわけにはいきません。賃金は抑えられる一方で、闇価格はいっそう上昇、貯金も引き出せないため、不満はいっそう高まります。

労働運動の活発化

こうした不満は、労働組合運動の急速な発展へとつながります。労働組合は、戦争中にすべて解散され、勤労報国会という形で上から組織されました。戦争終了とともにかつての労働運動の指導者たちは労働組合復活をめざす取り組みが始めました。他方、45年10月ごろから、炭鉱などでは朝鮮半島出身者らの自発的な争議に背中を押されるように争議が発生、労働運動が本格化します。
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労働運動の急速な発展(帝国書院「図録日本史総覧」P291)

他方、財閥資本の横暴に対抗すべき民主的勢力としての労働運動の育成をめざすGHQと、戦前・中から官僚らによって準備された計画が合わさる形で45年12月に団結権・団体交渉権・争議権の労働三権を保障した労働組合法が制定されます。
こうして労働者は続々と労働組合を結成、生活難を背景に組合員数・争議権数ともに急増していきます。再開された日本共産党の活動ともあいまって労働運動は激化しました。ストライキによって工場や鉄道を止めることをさけるため、労働組合の責任で工場生産や鉄道運行を保障し、その分の賃金を確保するいった生産管理闘争などの戦術も広がっていきました。

農民運動の活発化と農地改革

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帝国書院「図録日本史総覧」P291

農村においても、小作農民を中心とする農民運動が活発化しました。こうした運動の活発化は、食料配給制をささえる供出制度を背景に地主が弱体化してきたことともあいまって、戦前のような農村の秩序を回復することを困難としていました
こうした状況は、政府やGHQにいかに農村を安定させるかという課題をつきつけました。GHQや政府からすれば、このような農村の不安定さを解消する上でも、また食糧を供出させる上でも農地改革は重要な政策でした。

農地改革によって農村は安定化し、農民運動も退潮傾向を強め、保守の地盤という性格を強めます。

復活メーデーと食糧メーデー

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食糧メーデーでは天皇への風刺すら見られるようになってきた。 山川出版社「詳説日本史図説」P292

1946(昭和21)年5月復活メーデーが開催されます。全国で100万人、東京の皇居前広場に50万人の労働者が集まりました。さらに2週間後の5月19日には「米、よこせ」の要求を掲げる25万人が再び皇居前広場に集まり、付近は騒然とした雰囲気の包まれます。(食糧メーデー
こうした運動の盛り上がりに対し、マッカーサーが「暴民デモ許さず」の声明を出すなど、GHQはしだいに労働運動などを抑制する傾向を見せ始めました。他方、食糧不足を背景に、労働運動や社会運動はいっそう急進化し、社会は騒然とした状態となっていきました。
’46年の年末、各地で争議が発生するなか、賃金を抑えらていた公務員の労働組合は大規模なストライキによって事態を打破しようと考えました。それに他の労働組合も参加・協力を決定、’47年2月1日を期して全国規模のストライキ(ゼネスト)を実施する計画がすすみました。
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山川出版社「詳説日本史図説」P292

ゼネストの力で政府を打倒し、新しい政権を打ち立てようという計画もささやかれました。労働組合も、大きな影響力を持っていた共産党も、GHQやマッカーサーは労働者を支持してくれると思い込んでいました。
しかし、マッカーサーからすれば、ゼネストの発生は、日本の社会や経済の更なる混乱を招くことでした。GHQは、ゼネスト中止を命令、指導者をラジオ局に連行、中止の全国放送を命じました。そのときのニュースを見てみましょう。
こうして、GHQと労働運動は対決色を強めていきます。

帝国議会と政党の結成

20歳以上の男女に参政権を認めた選挙が実施されたのは1946(昭和21)年4月のことです
それまで議会には、戦争中の1942(昭和17)年4月の選挙で選ばれた議員たちが居座っていました。この選挙は翼賛選挙とよばれ、政府が人数分の候補を推薦していました。しかし、こうした選挙に批判的な人は推薦なしで立候補、干渉に打ち勝って466人中85人が当選していました。しかし、全員、翼賛政治会に参加させられました。
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帝国書院「図録日本史総覧」P289

戦争が終わると、非推薦議員が中心となって自由党を結成、戦前の無産政党の流れをくむ人たちも社会党を結成、政府の推薦で当選した人たちは進歩党を結成しました。
こうした議会のもとで、選挙法改正が行われ、労働組合法が成立し、骨抜きにしつつも第一次農地改革の実施を決定しました。戦争を遂行してきた人がそのまま議員として居すわり、「戦後改革」をすすめていたのです。ともあれ、このゾンビのような議会は’45年12月解散、翌年1月新選挙法のもとで選挙が行われることになりました。この選挙でもそれまでの議員が多く当選すると予想されました。

公職追放による政界の混乱

ところが、ここで大事件が起こります。
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公職追放(帝国書院「図録日本史総覧」P289)

このままでは改革が進まないと考えたGHQが強硬手段に訴えました。46年の新年早々、1000人を超える戦争協力者とみなされる人物にたいし、大臣や議員など「公職」につくことを禁止する「公職追放令」をだしたのです。
閣僚6名、翼賛選挙で政府の推薦を受け当選したものほぼ全員が対象となり、進歩党は壊滅状態となり、自由党や社会党からも多くの「公職追放」者が出ます。
公職追放は経済界などにも広がり、最終的には約21万人が「追放」されます。会社などでは、これまでの役職者の大部分が追放されたため、一気に経営陣が若返り、経済発展につながった、活性化されたという人がいます。若くして役職に就いたため、必要以上に長くその地位にいすわり、成功体験にしがみついたため、ゾンビ化したという笑えない副作用もありました。ちょっと脱線してしまいました・・。
「公職追放」による大混乱で、1月の選挙は延期となりました。この間、GHQと政府の間での憲法を巡る厳しい駆け引きが進んでいました。
GHQからすれば、戦前・戦中の空気を身体中から発散するような勢力が国会や内閣の多数を占めることに危機感を感じたのでしょう。選挙を延期させることで「政府の憲法草案」(実はGHQ草案をもとにした案)の信任投票の性格も持たせることが可能になりました。
「公職追放」はGHQによる「無血革命」であったという人もいます。

戦後初の総選挙の実施

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戦後第一回(第22回)総選挙(帝国書院「図録日本史総覧」P292)

新選挙法による衆議院議員選挙は4月実施されました。新しい日本を作ろうということで、それまで選挙とは関係のなかった人たちも多数立候補しました。
アメリカ帰りの私の祖父も立候補したそうです。惨敗だったらしいですけど・・・。

参政権を得たということで晴れ着を着て投票に臨んだ女性もいました。だれに投票すればいいかわからず、夫に命じられるまま投票する人も多かったといいます。選挙の事務にかかわった女性の証言があります。聴いてみましょう。

選挙の結果、自由党が第一党となり、社会党も勢力を伸ばし、戦前は非合法化にあった共産党も議席を得ました。この議会の下、憲法制定をはじめとする戦後改革が進められます。
食糧不足で、もののない時代でしたが、投票率は70%をこえました。

「リンゴの唄」~「ポッケのなかに夢」があった時代

選挙では39名の女性議員が新たに登場、女性解放運動が高まりを見せ、「男女同権」が流行語となりました。
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帝国書院「図録日本史総覧」P287

ちまたでは、空襲で両親を亡くした並木路子が歌う「リンゴの唄」が街中に流れていました。
そうしたなか公開された憲法草案は「二度と戦争はしたくない」という人々の思いにマッチしていました。学問や研究、出版の自由が保障され、戦争中に秘かに書きためられた小説や研究が次々と発表されました。軍服のままの若者が大学に戻ってきました。知りたい、学びたいという気持ちが街中に満ちあふれていました。職場には次々と労働組合が結成され、5月のメーデーには100万人を超える人が集まりました。
何か新しいものがはじまる、はじめるのだという気持ちが人々をとらえていました
食べ物がなく、みんな飢えていた時代。戦災孤児や失業者が町にあふれていた時代、「金はひとつもない時代」でした。しかし「右のポッケには夢がある時代」でもあったのです。
それでは今日はここまでとします。
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