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冷戦体制成立期の台湾と沖縄(2)
第二章 戦後の沖縄経済 ~ヤミ経済と密貿易、そして基地依存
(1)収容所から始まった戦後
沖縄(本島など)の戦後は収容所から始まった。
激しい戦闘で、約15万人もの県民の命を奪われ、大地は戦火に焼かれ、農地は荒廃し、工場など産業基盤の大部分も失われた。生き残った人々は米軍に「保護」され、収容所に送られた。
人々は軍作業と引き換えに米軍の補給物資を受け取る生活となる。しかし、米軍が対日作戦遂行を重視したことから補給物資は滞りがちとなり、輸送距離が長く物資が届きにくい北部の収容所では飢えがひろがった。人々は残留日本兵の襲撃を恐れながらも、食料確保のため山野をさまよう。この段階で貨幣はまったく意味を持たなかった。
45年10月以来、米軍は漸次収容所を縮小、収容所外の生活がはじまる。それでも米軍の作業にも従事しながら配給物資を受け取る生活がつづいた。
「終戦後の一定期間、住民生活を支えた物的要素は『米軍の経済援助』がすべてであったといっても過言ではな」かったと、琉球銀行調査部『戦後沖縄経済史』)は記述する。
以下の経済史に関する記述は、牧野浩隆を主たる執筆者とする同書を主な参考文献として記述する。
(2)貨幣経済の復活
ひとびとが、収容所から解放されてすぐに通貨が使用されたわけではない。必要に応じ煙草などを通貨代わりとする交換が行われた。しかし、住民は軍作業など労働の対価としての賃金を求めはじめた。米軍は慶良間諸島での貨幣使用の実験を経て、46年4月から貨幣経済を復活させる。
とはいえ、流通する物資の大部分は米軍からの援助物資であったため価格の基準は存在せず、米軍が戦中の物価などを考慮して定めた公定価格が用いられた。
販売店は一村平均5店、全島226カ所の市町村販売所に限定され、各世帯は割りあてられた「点数制配給カード」で物資を購入するという、配給制度を変形させたものであった。
当初、米軍は援助物資を基本にしつつ住民から供出させた食料なども組み込んで販売しようとしていたが失敗に終わり、援助物資を配給するにとどまった。
他方、賃金は公定価格を基準に、職業別に作業の熟練度なども勘案し細かく分類して定められた。
賃金が支払われるということは「住民の間に労働をする喜びを生」み、戦後沖縄の経済復興につながった。(川平2012)
なおこの時の貨幣は「B円」(B型軍票)と呼ばれる米軍が発行した「紙幣」と、この直前に日本銀行が新たに発行した円(「新円」)などとされた。
貨幣の使用開始にともない、住民がもっていた貨幣(「旧円」)は回収して預金として「凍結」され、世帯主100円(他の家族は50円)を限度に新円と交換した。しかし発行直後の「新円」が調達できなかったため、実際に渡されたのは「B円」であった。
(3)ヤミ経済の成長と「戦果アギヤー」
貨幣経済が始まると、統制をかいくぐってヤミ取引が活発化する。
農家や漁業者などは供出を嫌い、高値で取引されるヤミルートに物質を流した。こうした物資がヤミ市場に現れた。その価格は正規のルートで販売される物資の公定価格をはるかに上回った。
賃金は公定価格を算定基準として低く抑えられていたため、給与生活者が賃金のみで生活を維持することは不可能に近かった。
こうした事情が米軍物資などの窃盗・横領という行為を蔓延させた。この結果得られた物資は「戦果品」とよばれ、こうした非合法の行為を「戦果アギヤー」と呼んだ。
こうした行為は生活のためやむを得ないもの、ときには当然の行為と考えられた。かつての「戦争」とかかわって「抵抗」の一種と考えた人もおり、罪悪感を持つ者は少なかったという。「忘れられた島」の米兵や軍関係者の一部もこうした行為に加担していた。
米軍当局はこうした行為にたいし、「射殺」も含め厳しい取締を求めたが、警察官自身も低賃金でヤミ物資に頼らざるを得ない状態であり、消極的な対応に終始した。厳しい取締まれば、これに「加担」している米兵に「射殺」されるおそれもあった。
こうした「戦果品」もヤミ市場に流入、人々の「胃袋」を満たした。
ヤミ市場こそが実際の沖縄の経済を反映していた。
戦果品の一部はほかの販路にも流れ出した。
(4)通貨交換と「戦後処理費」
「帝国の崩壊」は台湾やフィリピンなどからの県出身移民の大量帰還を促した。
米軍は本土からの帰還を促したため、経済基盤が崩壊した沖縄に人間があふれた。とくに本土からの引き揚げ者は当時沖縄の通貨として用いることができた「新円」を大量に持ちこみ通貨量を増加させたことで、インフレを拡大させた。
米軍は、通貨使用開始のわずか3ヶ月後の46年7月、9月以降は「B円」の使用を禁止しすべて日本円(「新円」)を用いることを命じた(第二次通貨交換)。交換レートは1:1である。この措置は米軍の「場当たり」的政策との評価されがちだが、『経済史』は2月17日に発行が決まった「新円」が4月の時点では調達できなかったため「B円」を代用品として渡したに過ぎないとする。(p62)
ではなぜ日本銀行の発行する「新円」をアメリカの支配下にある沖縄で用いたのか。『経済史』の執筆者牧野浩隆の説明は明快である。「労務やその他物資調達に要するいわゆる『占領経費』の支払いは日本政府の負担とされており、米軍はB円や日本円を使用するものの、その発行責任は日本政府にあった」(牧野1992 p332)からである。
重要な事でありながら、よくしられていないが、日本占領下の米軍の駐留経費は日本政府に支払い義務があった。その内容を『国史大辞典』(佐藤和義執筆)をもとに記す。
日本政府が駐留経費として支出する項目は「兵舎・宿舎の新築・改修、不動産借上げ、占領軍雇用労働者の人件費、工事資材・燃料の購入、施設の維持管理費、運輸・通信・事務費など」である。しかし「経理は乱脈で、竣工後はじめて工事費が確定したり、過大請求がなされたこともあった。また資材不足のもとで占領軍より工事の期日厳守が要求された結果、大幅な経費増をもたらした。」こうした費用は1946年から53年までで総額5168億円にたっした。とくに46~48年度の三年間は歳入総額の1/3~1/4をしめインフレーション激化の原因となっていた。
戦後処理費という名目で、大量の餓死者すら予想されていたこの時期の日本の税金が、進駐軍の豊かな生活費を保障していたのである。それに加え、沖縄の基地費用も日本政府が負担していたのである。アメリカ軍は基本的には占領経費を支払っていなかった。(ガリオア援助などの形での支給はあったが)
したがって米軍の理屈からすると、沖縄の米軍が基地労働者に支払う賃金は日本政府が支払うべきであり、沖縄で使用する通貨も日本政府の発行する「新円」でなければならない。第一次交換での「B円」はアメリカ軍が立て替えているに過ぎない、このことをはっきりさせたのが第二次通貨交換であった、と『経済史』は指摘したのである。
沖縄の貧しさは、本土の貧しさと連動していた。
しかし一年後1947年8月、アメリカは再び「B円」の使用を認める。
理由のひとつは日本政府による戦後処理費の扱い方法の変更による。それまで現金(新円)で支給していたこの費用を現物支給としたのである。さらに沖縄占領の費用を日本政府が負担することへの疑義も出て予算が大幅に削減された。このため沖縄での基地運営経費や賃金支払いにあてる円が不足したからである。
しかし、別の狙いもあった。この時期、アメリカ政府内では沖縄分離支配という方針が固まりつつあった。沖縄独自の貨幣としてのB円にウェートを置くことで、インフレと物資不足の原因となっている日本円との結びつきを弱めようとしたのである。(牧野 1992)
(5)ヤミ市の隆盛
この間も、沖縄とくに本島の物資不足は解消されていない。食糧や生活物資を求める人々はヤミ市場へ向かい、その規模はますます拡大、ヤミ価格も上昇した。
ヤミ価格は46年6月の公定価格決定から2年余で、米が3.7倍、甘藷7.8倍、鮮魚10倍、鰹節4倍、たばこ6.3倍と、大幅な値上がりが見られた。その一方で、賃金は公定価格を基準としたため、タバコ1個20円の時代に、役人の初任給が月額180円という状態であった。教員や警察官、公務員さらに軍関係者といった給与生活者は、次々と離職、あるいは「サイドビジネス」として、「戦果アギヤー」やヤミブローカー、担ぎ屋などの「仕事」に手を染めた。警察官がヤミ物資摘発に消極的なのも当然であった。
他方、「毎日1000円の収入を得ている漁夫がいる」と報じられたように、物資を手中におく人々は大きな利益を得ており、貧富の差が拡大していた。
「米軍の経済援助がすべて」の状態もつづいていた。1947年7月時点では必要カロリーの75%は米軍の補給食料に依存しており、48年になってもその依存度は40%を占めていた。
当初、アメリカの援助物資は、日本侵攻に向けて備蓄された米軍の「余剰物資」の放出という形をとっっていた。しかし46年7月以降、「米軍占領地域の飢餓、疾病、不安などを防止する」ことを目的とする「占領地域行政及び救済基金」(「ガリオア援助」)が併用され、こちらが主流となる。1949年からは「占領地域経済復興基金」(「エロア資金」)も適用された。アメリカの援助物資は小麦粉やトウモロコシといった代用食が多く、主食の米の補給が少ないことが不満の種であった。
ヤミ市場の拡大は人々の生活が正常に戻りつつあることの証明でもあった。ヤミ市場を通して、人々はさまざまな物資を購入するようになり、こうした需要は、そこに物資を供給しようとする循環も生みだした。物資の調達源も「戦果アギヤー」など非合法な手段だけではなく、生産経済にもとめる動きもできてきた。「陶器・漆器・帽子・織物・瓦・煉瓦・石灰・石材・木工・製塩・鋳物・板金加工・製粉・製麺・味噌・醤油・酒類」といった住民生活に直結した産業が復活し始めた。(『経済史』)
「ヤミ市場」は1947年秋には市民権を得るようになる。統制撤廃の声も高まり、米軍の政策変更もあり、1948年11月自由企業制に移行したのである。違法とされてきたヤミ市は公設市場と呼ばれ、市民権を得るようになる。
(6)群島間の「貿易」と「密貿易」
アメリカが統治下においたのは沖縄本島と周辺だけではない。北緯30度以南の南西諸島が範囲とされ、八重山・宮古・さらに鹿児島県奄美群島も含まれた。
それぞれの地域ごとに事情が異なっていた。たとえば奄美群島は「戦災」の被害をほとんど受けず進駐してきた米軍の人数も少なかった。これに対し戦闘には巻き込まれなかった八重山群島(とくに石垣島や波照間島)では駐屯していた日本軍によるマラリア有病地への強制移住がなされため「人間らしい葬式をしたのはほんのひとにぎり」(川平2012)という悲惨な状況が生じていた。
また島々を結ぶ船舶の多くが失われ、各群島さらに離島は孤立状態となっていた。
アメリカ軍は各群島ごとに別々の軍政府をおき、列島内の交通・交易を許可制とし制限した。群島間の正式な「貿易」を主たる役割とする「貿易庁」を設置させた。
こうして群島間の「貿易」ははじまったが、実態として戦災の被害の小さかった奄美、さらに先島(宮古・八重山)の物資を調達し、被害の大きい沖縄群島に搬入する形となり「沖縄を救済するためにあるといっても過言でない」(『経済史』)ものであった。他の群島から見れば、輸出だけで輸入するものがない片貿易であり、通貨のみが増加、インフレを引き起こすだけであった。
さらに本島と他の島々の間で物価水準に差があるにかかわらず共通の「公定価格」での取引(それに補助金も加味されたが)をめざしたため、生産者の意欲をそぎ、交易拡大を阻害した。たとえば本島でヤミでは2000円で取引される豚一頭は公定価格では120円にすぎず補助金を加えても話にならない価格であり、一頭600円程度での出荷を希望していた宮古島の養豚業者などの生産意欲を失わせた。これも沖縄本島の品不足とヤミ価格の高騰につながっていた。
こうした硬直化した「貿易」が「密貿易」の成長を促した。先の例でいえば600円以上の高値で買い入れた豚を漁船などで本島にひそかに持ち込めば、大きな利益を得られる。さらに公的なルートでは持ち出せない「戦果品」なども本島から持ち出され、食料品などと交換した。こうして群島間・島々を結ぶ「密貿易」のネットワークが形成されていった。
ネットワークは、帝国の崩壊と大陸経済への包摂による経済混乱に見舞われている台湾へ、さらには国共内戦さなかの中国沿岸部(窓口は香港とマカオ)へと結びつく。さらに北側では日本本土や韓国にもつながっていく。こうして「密貿易」のネットワークは、米軍占領下の「南西諸島」という限界を越えて、東シナ海を中心に、東アジア全体を結びつけるような規模へとつながった。
なお、密貿易に関する記述は石原昌家『空白の沖縄社会史』を主に参照する。
(7)密貿易の広がり
「密貿易」ネットワークの中心となったのは南西諸島最西端の与那国島である。この島からは年に数回、西南111キロにある台湾が遠望できる位置にある。(ちなみにこの島から八重山群島の中心、石垣市までの距離は127キロ)。この島は以前から台湾と日常な交流関係があり、台湾が植民地とされるなかで結びつきを強める。就職や進学、出稼ぎなどで台湾に向かう人々も多く、食料品や日用品などは普通に台湾で調達した。台湾経済圏にも組み込まれたことで与那国は沖縄では比較的豊かな地域となっていた。
1945年8月の日本の敗戦=「日本帝国の崩壊」が、与那国と台湾の間に国境線を引く。
当初は与那国と台湾とのむすびつきはそれまでと同じであった。しかし、45年10月、中国国民党軍が台湾に進駐すると、取り締まりが強化され、銃撃されたり、荷物を没収されることも頻発、これまでの日常的な交易は「密貿易」となった。日本人の引き揚げ者や復員兵・友人知人が乗ってくることもあった。のちには日本に亡命しようとする台湾人も運んだ。国民党軍関係者自体も取引にかかわったという証言もある。
与那国には台湾から米や砂糖などが持ち込まれ、まず物々交換がはじまった。これに群島間の交易がリンクされるのは時間の問題であった。深刻な食糧難に悩む沖縄本島、「帝国崩壊」による貿易構造の変化と国民党進駐による混乱にある台湾、国共内戦を背景に破滅的なインフレが深刻化する中国海岸部(それはとくに香港を窓口とした)などを結びつける海のネットワークが形成された。沖縄人や台湾人のみならずさまざまな国籍に人々が参加、膨大な利益を求めて与那国に殺到した。さらにそれをねらう海賊の活動も活発化した。
最盛期には与那国島・久部良の沖合には一日60~80隻もの台湾、香港などからの密貿易船が押し寄せた。荷下ろし、荷積みのためのサンバン(伝馬船)は200~300隻に増加、宮古・石垣、さらには沖縄本島からも沖仲仕や担ぎ屋が集まった。人口は一万人をはるかに超えたとされる。島の人々は「豚飼うより、ブローカーを養った方がいい」と話すようになった。
大量の「密輸品」が持ち込まれ、持ち出された。各地の紙幣が無造作にいききした。町中のあらゆるスペースには倉庫や下宿屋が建ち並び、メインストリート沿いには屋根のない屋台や露店が建ち並び、食べ物類や日用雑貨品が所狭しと並べられた。「料亭」や飲み屋が軒を連ね、200名ちかい娼婦たちも集まり連日宴会を繰りひろげられた。「鶏は落ちている米粒を食べようとしなかった」という当時のエピソードを語った人もいる。
沖縄からは、薬莢など非鉄金属、カーキズボンなど米軍の品々、アメリカ製のタバコ、さらには石油・ガソリンなど、戦果アギヤーや米兵の横流しで得た物資などが運び込まれ、台湾の蓬莱米や砂糖などと交換された。さらに香港からのバイヤーは薬莢などの非鉄金属、さらには銃器などをもちかえった。その一部は共産党軍に流れる。与那国には「国際的ヤミ市」の様相を呈した。
密貿易で得られた物資は、アメリカ軍や警察の目を避けて糸満漁港や久高島などで荷下ろしされ、島内のネットワークを通してヤミ市などに並んだ。こうして「密貿易」が沖縄の人々の生活を支えていた。
「密貿易」のネットは本土とも結びつく。本土との密貿易の中心となったのはトカラ列島の口之島(北緯30度線上にする)や口永良部島である。ここには、陶磁器や材木、さまざまな日用雑貨、日本食の食材などがもちこまれ、ネットワークをへて持ち込まれた物資と交換された。
本土から持ち込まれたものは物資にとどまらない。元警察官は本土で手に入れた「日本国憲法の草案」をもちかえり、警察学校の「民主主義の教科書」として用いた。それは沖縄の人々のあいだにもひろがり、その内容に目を輝かした。教育基本法の情報は直接宮古島に伝わり、本島に先駆けて教育基本法が取り入れられて六三制が実施された。教育に必要な新憲法の精神にもとづく教科書なども学用品と共に運ばれた。「密貿易」船で向学心に燃える若者が本土の大学に向かった。
「密貿易」のネットワークは、さまざまな「もの」に飢えていた沖縄の人々を支え、元気づけた。
(8)「シーツ善政」の背景、恒久基地化方針の決定
密貿易とヤミ市場に代表される沖縄の姿が大きくかわるのは1949~50年の「シーツ善政」の時期からである。しかし、この「善政」は多くの「毒」を含んでいた。
すでにみたように、1948年11月の自由企業制開始によってヤミ取引の多くが公認され、群島間の取引の自由化もすすんだため、「密貿易」の原因の多くも取り除かれた。とはいえ、物資の不足は沖縄全体の需要にはるかに及ばなかったものであったが。
本土との「貿易」も制限されていた。本土のインフレは沖縄にも波及した。持ち込まれた「円」はその双方の価格差を利用してただでさえ不足している物資を「密輸出」された。
こうしたなかではじまったのが「シーツ善政」である。
シーツ少将は「住民」の生活向上、「自治」の拡大、「復興」工事という「三大政策」をすすめ、食料の値下げと配給増加、衣料の値下げ、「知事」議会議員の公選制や政党活動の「自由」を認めるなど、それまでの「軍政」とは大きく異なる「開明的」な政策をすすめたとされる。
しかし、こうした積極的な政策が打ち出せたのは、「忘れ去られた島」となっていた沖縄をどのように扱うかという方針がさだまったからである。
沖縄を日本本土から分離して統治し、アメリカ半永久的に恒久基地として利用するという方針が。
この時期、中国では共産軍が国民政府軍を圧倒し、朝鮮半島情勢も混沌としていた。他方、対日講和条約によって日本本土の米軍基地の自由使用が困難になる可能性もあった。こうしたなか、沖縄の分離に難色を示していた国務省も方針を変更、1949年5月、アメリカ大統領は沖縄を本土から分離、恒久基地化する方針を採用した。沖縄住民の意向を一切無視して将来の沖縄の姿が決められたのである。
この決定によってアメリカの沖縄政策はがぜん積極化し、大量のドル資金が投入されるようになった。
シーツ「善政」はこの方針の具体化であった。あわせていえば、それまでの軍政を「忘れられた島」というルポで徹底的にこきおろしたギブニーの記事が沖縄紙に転載された理由は、恒久基地化を県民に「善政」として印象づける狙いがあったと考えられる。
アメリカは1949年10月、初年度58000万ドルもの巨額の予算を承認、金に糸目をつけず基地建設を進める。しかし、それには大きな懸念材料があった。インフレ発生という懸念材料が。
つまり、沖縄戦以来の生産能力が低下しあらゆる物資の供給不足がつづいていた。もし沖縄に巨額の基地建設資金をそのまま投入すれば物資不足による激しいインフレが発生するのは明らかであった。それをいかに回避するかが基地建設成功の鍵であった。
(9)「沖縄特需」
日本本土で1ドル=360円というレートが採用されたのは1949年4月のことである。直前の実勢レートは、輸出ベースで1ドル=331円、輸入ベースでは1ドル=130円という大きな乖離を示していた。その差額を「貿易資金特別会計」を介した各種の補助金でカバーしていた。これにたいし、日本の経済復興には正常な単一レートであるべきと考えたアメリカは、輸入への補助金を一部残しつつ、輸出振興に重きを置くレート、1ドル=360円という超円安としたのである。この結果、日本経済は円安の追い風に乗って輸出を拡大、1949年すでに輸出は倍増し、さらに1950年以降は朝鮮戦争による特需景気もあって、経済復興の道を歩む。戦時統制と空襲などでのおおきな被害はあったものの、本土決戦が避けられず国土を焦土としなかったことで潜在能力が残されていたからである。さらに比較的被害の小さかった重化学工業部門の大部分が、このころから本格的に操業を再開したことも大きい。
これに対し、沖縄の事情はまったく異なっていた。戦争によって産業は破壊され、輸出すべき産物もみあたらず、食料をはじめあらゆる物資が不足していた。
こうした中、基地建設を進めようとするアメリカがインフレを起こさないための方法は、大量の資金流入にみあうだけの物資を輸入によって準備することであった。アメリカからやってきた調査団は「大至急、住民の必要とする消費物資を大量に供給すること」の必要性を指摘した。(牧野P338)
そのために導入された一つ目の手段は、従来からのガリオア援助の運用であった。本来なら減らすべき援助物資を逆に増加させ、廉価で販売させた。元来援助物資であるのでコストを気にする必要はなかった。
二つ目は、沖縄で用いられるドルをいったん日本に持ち込み、大量の消費物資を買い込んで沖縄の市場に投入することであった。これは日本本土のドルを増加させることで輸出産業を育成することにもつながる一石二鳥の政策であった。アメリカ調査団は月平均二〇万ドルにすぎなかった沖縄への輸出額を100万ドルに増やす目標をたて、とくに緊急性のある初回には200万ドル分の供給を指示した。その選定は琉球貿易庁にゆだねられた。こうして沖縄の住民が望む品が日本を経由する形で「援助」された。このため米極東軍司令部と琉球司令部の間で「日琉貿易協定」「日琉金融協定」が締結された。こうした手法は、建築資材などでも用いられた。
こうした流れが生まれることで基地建設のため沖縄に投下される多額のドルが、内地からの「輸入」へと利用される「流れ」もうまれる。
1950年本土に向かった沖縄の買付使節団を本土の新聞は「100万ドルのお客様」と報じ、取引を求める約250社の企業が面会に殺到、宿舎を三度も変えるほどの歓迎にあった。こうして1950年末の日本の外貨準備高13億7千万ドルのうちの3億7千万ドル、3割近くを、沖縄との「貿易」で稼ぎ出したのである。
さらに基地建設の多くが、本土ゼネコンと沖縄の企業の合弁でおこなわれ、その資金も双方の土木建築業界を潤わせ、本土で購入される建築資材が国内の重工業を潤わせた。特需景気の「特需」は朝鮮特需だけでなく沖縄特需でもあった。
(10)「1ドル=120B円」と賃金大幅アップという「マジック」
インフレを発生させず、基地建設をすすめるためには、大量の物資を沖縄市場に並べるために一つのマジックが用いられた。それは、沖縄の通貨を日本円から分離し、独自の通貨とすることであった。円使用は再び停止され「B円」(アメリカB型軍票)に一本化され、今度はドルと固定相場でリンクされる。(第三次通貨変更)。
問題となったのは、この政策に最適な為替レートの設定であった。アメリカ調査団の結論は「日本からの輸入物資の価格をできるだけ安くするにはできるだけB円高の為替レートにすることが望ましい」というものであった。日本本土とは逆に、輸出を考慮せず輸入促進のみを優先する為替レートを設定しようとした。
しかしB円高は建設労働者の賃金上昇、ドル負担増を招く。双方の事情を配慮して決まったのが1ドル=120B円のレートである。日本円は1ドル=360円の固定レートであったので、本土の通貨「円」と沖縄の通貨「B円」はドルベースで3:1で交換されることとなる。これによって、本土からの商品は1/3の価格で「輸入」できるようになる。消費物資のみならず建築資材も1/3で調達でき、日本のゼネコンへの支払いも1/3ですむ。
「1ドル=120B円」の根拠を、賃金ベースで見てみる。当時、軍労働者の賃金は、週四〇時間労働で650~700B円であり、一般的な5人家族の一ヶ月の生活費約2500B円からみればはるかに安く、民間の1/3~1/4、公共工事賃金からみても1/2~1/3にすぎない額であった。この低すぎる賃金が離職者や欠勤者の大量発生を引き起こしていたのである。
これをアメリカ側から見れば、軍労働者の賃金はドルベースで13~14ドルの賃金であり、それが当時の1ドル=50B円という実質レートによって上記の賃金となっていたのである。
基地建設の必要は軍労働者の大量増員を必要としており、アメリカは賃金改善を余儀なくされていた。少なくとも民間の賃金水準の約2000B円程度にまで引き上げなければならなかった。これを実現するために導入されたのが、ドル=B円のレートの変更であった。かりに最終的に決定した1ドル=120B円で計算すれば同じ14ドルの賃金が1680B円となって目標の2000円に近くなるというマジックが成立する。
アメリカでは、本土や沖縄の賃金や米国側の負担を検討、軍労働者への賃金として支払える額を「①B円で2400円、②ドルで20ドル」とした。これが「1ドル=120B円」というレートの根拠である。これによって軍労働者の賃金は名目的には3倍(一般労務など)~9倍(通訳・翻訳)へと大幅に引き上げられる。
このことが明らかになると、不人気な職業の代表であった軍労働には応募者が殺到、一転して花形職業となった。軍用地確保のため、狭い耕地での農耕を余儀なくされており、輸入拡大による農産物の価格下落が生み出す離農者などを吸収していった。
基地建設工事がピークに達した1952年には、基地従業員総数は63000人に達し、彼らが稼いだドル賃金は55年度には18260万ドルに達し、基地「産業」が沖縄最大のもうけ頭となる。
こうしてアメリカの基地建設にかかわる大量の資金の多くが軍労働という大量の雇用拡大と賃金の大幅アップという形で投入された。その資金は、1ドル=120B円というレートが引き起こす輸入拡大と名目賃金の上昇という「マジック」によって可能となった。当然予想されるインフレは、ガリオア資金を直接的・間接的に利用した安価で大量の消費物資の放出によっておさえこまれた。こうした基地需要と「1ドル=120B円」のマジックによって沖縄の経済混乱は抑え込まれた。
(11)沖縄での「特需景気」とスクラップ
1950年に始まる朝鮮戦争は、建設中の沖縄米軍基地を最前線とした。これによりさらなる貨幣が沖縄に投入された。
朝鮮戦争は日本本土で特需景気を引き起こし、以後高度経済成長へというコースを歩む。その牽引車となったのは重工業部門である。その原料として注目されたのが沖縄の各地に存在していた武器の残骸であった。アメリカ軍が経済援助の一環としてスクラップの払い下げと輸出を許可すると、島中でスクラップブームが発生、スクラップ業者は約80社が乱立、山野で、海浜で、あらそって「戦争の名残」をかきあつめた。こうして54年頃からは輸出額も輸出総額の20%を占め砂糖に次ぐ第二位、最盛期の56年には月額約180万ドル、砂糖の二倍、総輸出額の56%を占め、戦前の輸出の最高額を突破する。しかし57年になると輸出額は激減、ブームは去って行った。
スクラップブームは沖縄の目に見えた「戦争の名残」を見えにくくして消し去り、住民に時ならぬ臨時収入を与えた。しかしスクラップの正体はかつての武器であり、不発弾なども混ざっていた。爆発事件が発生し命を失ったり大けがをするものが頻出した。
他方、こうしたスクラップや横流しされた物資の一部が、「密貿易」ルートを経て、香港へ、さらには共産党支配下の中国大陸へと流出していた。このことは米軍当局を緊張させ「密貿易」の取締が強化される。
※スクラップ事情などについては(琉球新報社92)も参照
(12)基地依存経済のワナ
沖縄基地の恒久化工事の開始とそれにかかわる経済政策は沖縄を大きく変えた。49年11月の統制経済の緩和と自由取引の承認によってヤミ市は公設市場と名を変え、那覇・ガーブ川沿いのヤミ市は、1951年牧志第一公設市場となった。店頭には本土などからの大量の物資も並び、現在は沖縄の観光名所である。
基地労働者の大量採用と賃金アップ、朝鮮戦争をきっかけとしたスクラップブームなどが人々の懐を潤し、生活も安定し始めた。市場目当ての産業もすこしずつ復活、戦果アギヤーに従事していた人たちの多くも職を得た。朝鮮戦争と日本の経済復興を背景としたスクラップ収集によって目に見える「戦争の名残」が消えるころには、沖縄の姿も大きく変わっていた。
しかし、生活苦からある程度解放された人々が見たのは、巨大し近代化された米軍基地であり、さらに拡大しようとのアメリカ軍の意図であった。
「シーツ善政」は沖縄の恒久基地化の基盤づくりにかかわる政策であり、これにともなう一貫した政策のもとに進められたものであった。この時期の諸政策、とくに経済政策には強い「毒」があった。1ドル=120B円のレートは安価な商品を店頭に並べた。しかしこのレート自体、輸出産業の発展を期待しない、犠牲にすることを意味しており、沖縄の非基地経済化・自生的な発展の芽をつむ政策であった。人口を農業などから軍関係に移動させることであった。安い輸入品に押されて、第一次・第二次産業は対抗する力を失い、かわって第三次産業、とくにアメリカ基地にかかわるサービス産業が沖縄経済の中心となる。つまりアメリカ基地に沖縄経済を依存させることとなった。
さらにいえば、日本本土からの「輸入」を大量に受け入れることで物価を安定させ、自由主義陣営の後方基地である日本本土の経済復興をはかるという政策であった。
補論:第四次通貨交換と日本の援助
1958年、さらにB円をやめてドルへ交換する第四次通貨変更が行われる。これによりドルを手に入れたものはドル高円安のメリットを享受できることになる。
この交換は、外資導入と外資系資本の誘致による県内経済の発展が目標であったとされる。
牧野への取材をもとにまとめられた琉球新報2019年5月15日の記事「27年で5回も通貨が変わった沖縄」ではこの結果を次のようにまとめている。
ドルに切り替えた当初の米軍の思惑や県民の期待は外れた。外資系企業の誘致は促進されず、これまでの輸入型経済を助長し、沖縄の産業育成はさらに遠のいた。追い打ちを掛けたのが、県内の通貨流通量のコントロールだ。
ドルは米国で発行されているため、沖縄で通貨の流通量の調整ができない。貿易収支で黒字になった時のみ、沖縄でドルが増える仕組みだが、そもそも沖縄では産業が育っていないために輸出する物がなく、貿易収支は赤字。資金不足で企業を興すことができず、負のスパイラルに陥った。(2019年5月15日 なお2020/02/13ネットにて参照)
こうした状況はアメリカ基地からの収入、さらにアメリカ援助で補填された。しかし、あらたに重要な援助元となったのが、高度経済成長下で急速に経済成長をすすめていた日本政府である。
とくにベトナム戦争によってアメリカの財政が苦しくなると、日本側の援助の比率が高まっていく。それは沖縄への援助であると同時に、米軍基地への援助でもあった。
これは1972年の沖縄返還(あわせてドルから円への第五次通貨変更も行われる)のもうひとつの背景をも浮かび上がらせる。
返還以後、沖縄の駐留経費は日米地位協定の規定で日本政府が肩代わりする。これはますますエスカレートし、1978年にはじまる「思いやり予算」、現在の辺野古新基地建設へとつながる日本政府が国内(沖縄のみならず本土も含む)の米軍基地を支えるという図式である。
※この部分は、時間切れでもとのレポートにはなかったが、より論点が明確になると考え、上記の琉球新報の記事(リンクはここ)に学びながら補足した。第四章にも一部、この趣旨を反映することとする。
沖縄は自立した産業を育成し、貿易収支を安定させるという本来あるべき姿とは逆の基地依存経済の道を選択させられた。沖縄は経済面でも「基地の島」の性格を強めた。
こうした米軍の意図が明らかになるにつれ、住民たちも反旗を翻しはじめる。そしてアメリカによる、基地使用を永続化とさらなる基地拡大の動きが明らかになると、「島ぐるみ闘争」にみられる激しい運動を繰りひろげられた。
(つづく)
<冷戦成立期の台湾と沖縄:目次とリンク>
第2章 戦後の沖縄経済~ヤミ経済と密貿易、そして基地依存(本稿)