冷戦体制成立期の台湾と沖縄(1)

二二八事件 専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日
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冷戦体制成立期の台湾と沖縄

はじめに

隣接する台湾と沖縄は、ともに日本帝国の崩壊によって外部勢力の圧制下におかれた。そして世界が冷戦へとすすむなか、アメリカの極東政策によって、圧制を維持したまま経済的安定を実現する。こうした過程は朝鮮半島南部=韓国とも共通する。
そして台湾と韓国は「奇跡の発展」を実現、沖縄は「基地」という重荷を背負わされ、さらに新たな基地建設を押しつけられる。
しかし、いずれも圧政とのたたかいのなかで自らの力で民主主義をかちとっていく。
今回は、戦争末期からおもに1970年頃までの経済政策を、当時の国際政治・社会情勢をもとに描き出したい。それによって、東アジアにおける冷戦との経済復興の関係が見えてくると考える。
以下、次のような順序で論を進める。
第1章は沖縄と台湾のおおよその歴史を、帝国支配下の両地域のありかたと関係にも触れながらみていく。
第2章は、沖縄の戦後経済史を見ていく。この時期、沖縄では「密貿易」がひろがり、ヤミ市が繁栄する。その姿をアメリカの沖縄政策とかかわらせて考える。「シーツ善政」といわれる時期の、基地の恒常化と経済安定のメカニズムを見ていく。
第3章では、台湾の経済史をみていく。「日本帝国の植民地」としてその分業体制に組み込まれていた台湾経済が、帝国から切り離され、国民党政権=外省人支配のもとで組み替えられ組み替えられなかったかをみていく。さらにアメリカの国際戦略が台湾経済に与えた影響も考えたい。そして経済発展の中で、現在の民主化の基盤が作られたこともみておきたい。
第4章は、統計資料を基に、帝国下の分業体制のなかにあった台湾の産業が、帝国解体にともなってどう変化したか、連続面と断絶面を確認する。その後、東アジアの諸地域が、日本帝国の崩壊とアメリカ主導の「封じ込め戦略」に組み込まれ、圧制を組み込んだまま、経済発展がすすんだ様子を確認したい。

第1章 台湾と沖縄の戦後史

(1)「日本帝国」と台湾と沖縄

アジア大陸東辺の島嶼からなる台湾と沖縄であるが、その歴史は大きく異なる。
両地域は、19世紀後~末期ともに「日本帝国」に組み込まれる。沖縄は1879年いわゆる「琉球処分」(「廃琉置県」)により「国内植民地」となる。
他方、17世紀以降、漢民族のフロンティアとして発展した台湾は、19世紀中期、欧米や日本の東アジア進出に対抗する形で清による中国化がすすみ、1885年には台湾省が設置される。しかし1895年の下関条約で日本に「割譲」され、大陸と分離する。
日本軍は現地の人々にたいする残虐な掃討戦を経てこの地を征服する。しかし琉球=沖縄とは異なり、明治憲法をはじめとする国内法の多くが適用されない「外地植民地」とする。

多くの民衆が琉球王国(その背景には薩摩藩、さらには幕藩体制があるのだが)の苛政下に苦しめられていた沖縄では、「琉球処分」後も「旧慣温存」政策による旧支配身分が温存され、近代的土地所有が確立したのは「大正」にならんとする時期であった。第一次大戦による好景気によってサトウキビ栽培が発展し栽培面積を伸ばすが、巨大資本のもとに発展した台湾の糖業の発展により苦境におちいる。
その後、不景気と凶作のなか、毒を含むソテツを食糧とせざるを得ない「ソテツ地獄」も発生、多くの人々が国内外への移民・出稼ぎにでる。こうして沖縄は、朝鮮半島と共に近代化しつつある本土の工業とくに過酷な紡績産業の労働や港湾労働などに安価な労働力を提供するとともに、台湾・南洋群島などの帝国植民地、さらには世界各地に移民として進出した。
しかし内地のみならず海外の日本人社会でも言葉の壁などで疎外されることも多く、独自の「社会」を作ることも多かった。

他方、17世紀以降、大陸からの植民者が原住民族を追いつつ農地開拓をすすめた台湾では、大陸に農産物を「輸出」する「植民地」型の商業的農業が発展、19世紀後半には、貿易を志向した農業や農村工業も広がりを見せていた。
帝国の支配下に組み込まれると、大陸との交易が制限され、「貿易」の対象は日本帝国内が中心となり、そこに米や砂糖、樟脳などを「輸出」(移出)し、雑貨や衣服などの工業製品を「輸入」(移入)するという帝国の分業体制に組み込まれた。
植民地支配を効率化する目的で土地調査事業が導入、近代的土地所有制度が実現、清末の事業を引き継ぎつつ道路鉄道などのインフラも整備された。近代的教育制度の導入も始められる。
帝国の台湾統治が安定してくると、多くの日本企業が進出しはじめる。製糖業では1920年代以降、資本主義的な大企業が台湾内部のサトウキビ栽培や製糖を支配下に置いた。こうした糖業の「近代化」は小規模で未成熟な沖縄の製糖業を圧倒する。

台湾は沖縄から距離的に近く、就職・進学・出稼ぎなどのさまざまなかたちで結びつきを強めた。学校や役所、警察の職に就くものも多く、「外地人」である台湾人にたいし「日本人」として「権力」を行使するものもいた。
ともに「日本帝国」に組み込まれたことで住民同士の往き来が活発化した。とくに、国境の島である与那国島では日常品の買い出しに台湾に通ったり、修学旅行も台湾にむかうなど、台湾も生活圏の一部となっていた。

(2)戦時体制の沖縄と台湾

1930年代、日本資本主義の重化学工業化がすすむと、「帝国」内での分業体制も姿を変えはじめる。そうしたなか、台湾は「南進の拠点」と位置づけられ、日月譚の水力発電所に見られるようなインフラ整備事業や化学肥料工場など重化学工業化が急速に進められる。
他方、沖縄の人々は、亜熱帯の生活に馴染みがあることから「帝国臣民」として、南洋群島やフィリピンなどへ多くの移民が進出、「南進の尖兵」の性格をもつことになった。そのことによって、戦火が太平洋地域に拡大されると、戦闘に巻き込まれ、命を落とす人々を増やすことにつながった。
1941年12月、対米英戦争が始まると、台湾はフィリピン攻略の出撃地として「南進」の拠点となった。他方、戦線を拡大している間、沖縄は大きな意味を持っておらず、守備隊もわずかであった。
ところが日本軍が守勢になると、台湾・沖縄ともに重要な防衛拠点として位置づけられ、急速な軍事基地化が進められた。
アメリカも日本侵攻計画の選択肢として両島を比較、当初、中国大陸へのルート獲得のため台湾上陸を推す声がたかかったが、マッカーサーがフィリピン作戦に固執したことから、沖縄上陸作戦が選択される。
1945年3月末にはじまる沖縄戦では、猛烈な爆撃・砲撃と、激しい地上戦によって沖縄は壊滅的な被害をうけ、全土が焦土と化した。
他方、爆撃はうけたものの地上戦を免れた台湾は、基本的には日本統治下の状態をほぼ維持したまま、1945年10月、中国に引き渡される。
沖縄と台湾は、戦争の中で全くことなった運命を引き受けた。

(3)アメリカ占領下の沖縄

両地域は、1945年あいついで「日本帝国」から離脱する。
戦争の局面では全く異なった運命をたどった両者ではあるが、ともに外部からやってきた勢力に運命を翻弄される。沖縄はアメリカ(軍)に、台湾は大陸から渡ってきた国民政府と「外省人」によって。
ほぼ無傷のまま中国に「返還」された台湾とは違い、沖縄は現住人口の1/4を失うという甚大な被害をうけるとともに占領統治下に置かれたことにより、文字通り収容所からの出発となった。
ひとびとが収容所から解放されはじめるのは、45年の10月のことである。しかし、それは米軍の都合により徐々にすすみ、完全に解放されるまでには約2年という時間がかかった。
解放された住民がみたものは破壊され焦土と化した大地であり、米軍用地として占有された村や田畑であった。
また、県外はもちろん、琉球諸島内の他の群島、さらには離島とのあいだの往来も許可が必要とされた。そもそも往来に用いるべき船舶の多くも失われていた。その結果、沖縄列島を構成する島々は孤立状態となった。
46年頃からの数年間、沖縄は「忘れられた島」であった。1950年沖縄を訪れたタイム社のギブニーは当時の沖縄の米軍を、「司令官たちの中のある者は怠慢で仕事に非能率的」「軍紀は、世界中の他の米駐留軍のどれよりも悪」い。「沖縄は米陸軍の才能のない者やのけもののていのよいはきだめ」などと徹底的にこき下ろしている。
しかし、米軍は多大な犠牲を出して手に入れたこの地を手放そうとしなかった。使っていない軍用地さえ返そうとはしなかった。方向性もなく占領がつづく米軍の間では、軍紀が低下、兵士たちによる犯罪も多発、米軍統治への反発が起こり、祖国復帰運動も高まりをみせるようになった。

(4)「イヌが去り、ブタがきた」台湾

戦場になることなく、平和裏に「光復」を実現した台湾であるが、ここでも過酷な歴史が待っていた。
台湾を「受けとった」のは蒋介石率いる中国国民党軍である。
日本統治からの解放を喜ぶべく、進駐してきた国民党軍歓迎に集まった人々が目にしたのは、見慣れた日本兵とはあまりに違ったみすぼらしい軍隊であった。
国民党の統治の手法も、日本流の「近代」になじんだ人々にとっては「前近代」的にみえた。大陸からやってきたひとびと(「外省人」)の多くは、能力も教養もないのに、縁故や情実を駆使して財産や利権、地位の獲得に奔走する。かれらは餌に群がる野蛮な集団のようにみえたのだ。彼らはひそかに「イヌが去り、ブタがきた」とささやきあった。こまかいところまで口を出す騒がしいが番犬としては役立つ日本人と比べて、外省人はこれといった生産的な行動も行わずに利権という餌に群がる「ブタ」というのである。
他方、国民党軍からすれば、台湾人は長い間、自分たちを苦しめた敵国日本の支配下にいた信頼できない「中国人」(「本省人」とよばれるようになる)であり、半「敵国人」という警戒心で見ていた。さらに彼らに対する冷淡な視線はこうした思いを強めた。
彼らは台湾の人々が「中国語(北京語)」ができないことなどを口実として政治や経済の中枢から排除した。こうして「中国人」としてのあらたなスタートを切ろうとする台湾住民は失望した。かれらは大陸からやってきた「外省人」と区別して「本省人」とよばれるようになる。
内省人排除の諸政策は、帝国離脱と大陸経済への接合、大陸で継続中の国共内戦の影響も受けた破滅的なインフレの波及とあいまって、本省人の反発を引き起こした。1947年2月、市場での外省人の警察官が露天商の女性に暴行を加えたことをきっかけにこれまでの怒りが爆発、各地で本省人が外省人に暴行をふるう事件がおこった。

二二八事件 専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日

こうした混乱のさなか、一部の本省人は日本人が中国人に投げつけた蔑称さえ用いた。これは日本軍との苦しいたたかいを行ってきた本省人の激怒をまねき、内省人への「警戒感」をさらに刺激した。
他方、日本流の教育を受けた知識人たちは、交渉による事態の沈静化を図ろう対話を求め、現地の国民政府側も交渉に応じるかの姿勢を見せた。
しかし、こうした姿勢は時間稼ぎであった。大陸から大挙渡ってきた国民党軍は力による鎮圧を開始、多くの本省人が殺害された。平和的な交渉を進めていた本省人のリーダーたちもとらえられ裁判もなく殺害された。台湾の未来を切り開くと期待されていた知識人の多くが犠牲になったといわれる。(「228事件」)。
国民政府・外省人による本省人への強権的な支配はさらに本格化する。その後国共内戦に敗れた蒋介石ら国民党は大陸を脱出、1949年この地に政府を移した。かれらは「大陸反攻」をスローガンに、臨戦態勢を維持すべく台湾全土に戒厳令を敷いた。戒厳令は40年近くつづく。
こうして、国民党・外省人が政治・経済・軍事など台湾統治にかかわるほぼすべてを独占し、巨大な軍隊と特務機関で内省人を封じ込めるという体制が構築された。また戒厳令と共に共産党に近い勢力への弾圧(「赤狩り」)もはじまり、知識人を中心にさらに多くの命が失われた。二二八事件につづくさらなる弾圧によって内省人社会でも疑心暗鬼がひろがり、社会全体に追従と沈黙が蔓延する。こうした状態は、1970年代まで続く。

(5)朝鮮戦争の発生と台湾海峡の危機

国共内戦は共産党側の勝利におわり、1949年10月中華人民共和国建国が宣言される。他方、国民政府の腐敗と無能力ぶりにあきれたアメリカは、1949年8月の「中国白書」で援助打切りと対中国政策の転換を示唆した。この時点で、国民政府はアメリカからも見放されていた。
こうした国民政府・蒋介石を救ったのが1950年6月の朝鮮戦争発生である。戦争がはじまると同時にアメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣し、台湾・国民政府援助の姿勢を明確にする。
アメリカは不沈空母・台湾を支配し、六十万の大軍を擁する蒋介石の存在を無視できなくなった。そればかりか、自らの極東戦略の遂行と、中共封じ込め作戦の上でも国府台湾は不可欠の防波堤となった」と戴國煇は著書『台湾』で記す。
アメリカにとっての判断基準は「反共」的であるか否か、アメリカの政策に追従的か反抗的かであった。蒋介石政権や韓国の李承晩政権は「非民主的で腐敗が蔓延している」と評価し切り捨るという考えは過去のものとなり、非民主的であろうと強権的であろうと、反共で「共産主義封じ込め」政策に協力的な政権は「民主主義」という共通の理念に立つ「自由主義」陣営の一員と強弁される。
この世界戦略に日本も同調をせまられた。当時の吉田首相は最大の貿易相手国であった中国大陸市場への再進出を望んでいたが、アメリカの強硬な姿勢の前に適応範囲を台湾に限定するという条件で日華条約締結を締結、岸内閣は台湾が中国を代表する政府との政府見解を出す。
こうして、蒋介石の国民政府も、韓国の李承晩政権も、南ベトナムの軍事政権など腐敗した強権政権も、アメリカの世界戦略の都合によって、延命させられる。
こうした腐敗した政権を、軍事面で支えたのが沖縄基地に展開したアメリカ空軍と核兵器であった。

(6)「封じ込め」戦略の軍事拠点となった沖縄

冷戦、とくに1950年に発生した朝鮮戦争は東アジアのあり方に決定的な役割を果たした。戦争は日本と同様、沖縄や台湾にも「特需景気」をもたらした。1945年以来の経済混乱はいったんおさまる。
朝鮮戦争のなか、東アジアにおけるアメリカの「共産主義封じ込め」戦略が確立する。これによると台湾海峡にのぞむ台湾は共産主義者の侵攻から「自由主義陣営」を防衛する拠点であり反攻の根拠地となる。それをまもる米軍の最大拠点(「太平洋の要かなめ石」が恒久基地化がすすむ沖縄であった。「自由主義体制」を守る「要石」を維持するため、沖縄の人々が犠牲になるのはやむを得ないとされ、強権政治が沖縄を覆う。
アメリカは沖縄を事実上の領土として扱い、全島の基地化をすすめた。この戦略のもと、1951年のサンフランシスコ平和条約で沖縄は日本から分離され、アメリカ統治下に置かれる。経済も基地経済への依存を高めた。
さらに日本本土での基地反対・撤去運動のたかまりは沖縄にさらなる負担を強いた。本土の「厄介者」であった海兵隊が沖縄に移転、基地確保が強行された。本土とは反比例する形で沖縄の基地が拡張されたのだ。「島ぐるみ闘争」が激化した。
1965年以降本格化するベトナム戦争は沖縄基地なしには続けられなかった。
こうしてアメリカの極東戦略の矛盾は沖縄に集中され、アメリカによる強権的支配が強化させる。反基地闘争、祖国復帰運動は「共産主義」的であるとして不当な逮捕拘束があいついだ。基地や米兵に起因するさまざまな事件が頻発し、県民の生命と権利はつねに脅かさつづけた。
韓国・台湾同様、沖縄でも強権的支配がつづいた。

追記:2021/09/21一部改訂しました。

 

<冷戦成立期の台湾と沖縄:目次とリンク>

はじめに

第1章 沖縄と台湾の戦後史

第2章 戦後の沖縄経済~ヤミ経済と密貿易、そして基地依存

第3章 台湾経済、戦後のあゆみ

第4章 アメリカ主導の秩序のなかで

 

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