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冷戦体制成立期の台湾と沖縄(3)
第三章 台湾経済、戦後のあゆみ
(1)初期条件としての日本による植民地支配
1945年8月、日本の台湾支配は終了した。その支配の「遺産」は様々な面で、戦後の台湾のあり方を規定した。
半世紀にわたる日本による植民地支配は台湾にとってどのような意味を持っていたのか、劉進慶はその功罪を以下のように記す。「台湾土着資本は地主・商人の形で温存され、一定の蓄積基盤を与えられながら、同時にそれ以上の発展を制約された。広範な農民と労働者に到っては、いぜんとして貧困を強いられざるを得なかった」。
しかし「客観的にみてそれなりにポジティブな経済開発基盤の遺産を残した」と記す。そのポジティブな面を「近代的社会経済制度の確立、インフラ基盤の整備、米糖経済の開発および工業化の推進」の4点に見いだす。そして多くの保留をつけながらも、こうしたものは「社会的に根づいた歴史的遺産であり、大なり小なり戦後に引き継がれた」。それが「総督府専制、日本独占資本支配体制および戦時統制経済」といった植民地時代のネガティブな面とともに戦後期の方向を規定すると記す。妥当な評価と思われる。
(隅谷他『台湾の経済』(以後『経済』)P25。台湾経済史についてはこの文献を主な参考文献として用いる)
堀和生も日韓台三国の共同研究をもとに、「解放後国民経済を建設する台湾と韓国は、戦前期東アジア資本主義の一部として成立していた資本主義の基盤と、戦後米国の資金的物的援助を結びつけることによって、1950年代国民市場を充足するだけの工業生産を確立することに成立した。」(堀 P369)として、戦後の資本主義において植民地期の経済発展が一定の役割を果たしたことを認める。
さらにふみこんで、「通説的に日本との切断や軍事的政治的混乱によって経済が疲弊していると理解されていた1950年代の韓国や台湾が、その時点で他の後進国にはない特徴を持っていた(中略)他の後進国では見られないこの事態は、韓国と台湾が日本帝国のもとで、すでに工業生産の社会経済的な基盤を構築し、商品経済の最も発展した資本主義的生産様式が社会の規定的な要因になっていたからである」(堀 P370)
こうした植民地支配体制と産業基盤は、日本帝国の支配とともにほぼ無傷のまま、中国側に引き継がれた。
(2)日本人企業の官業化と本省人の排除
これを引き継いだのは中国国民政府であり、中国大陸からやってきた「外省人」であった。
国民政府・国民党は、45年10月台湾総督府がもっていた権力と共に、日本人が所有していたあらゆる財産を支配下に置く。台湾人を排除した形で。
「台湾人が最初に抱いた熱情と想像はあっという間に冷め、幻滅に変わり始めたのである。役所では汚職や腐敗がはびこり、軍隊には紀律がなく、勝手に民間を煩わすばかりだったし、さらに、経済の破綻、不合理な貨幣制度、物価の高騰などによって、台湾人の不満は募るばかりだった。」(周2007)
日本人経営であった金融機関や工場などの財産が接収され全面的に官業化された。それは「植民地体制下の日本独占資本が一挙に国民党支配下の官業独占資本もしくは国家資本独占体制に編成替え」(『経済』p27)されたことを意味していた。
官業の経営は外省人の手にゆだねられた。「台湾人は「国語」〔中国標準語〕を解さず、また人材もいない」と排除し、身内や縁故によって仕事を運営するというネポチズムが蔓延する社会であり、経営の能力に欠如による操業の中断であり、汚職や横領といった腐敗がはびこる社会であった。
「やってきた国民政府が、植民地時期の圧政を完全に拭い去り、台湾人が政治面でも経済面でも大いに自己発展してくれる」との台湾人の期待は完全に裏切られ、「土匪横行の時代を再現するのではないか」との不安が高まった。外省人が「生産事業を独占し、史上を壟断し、輸出入を一手に請け負い、およそ利益の望める事業からは一般商人・企業家を締め出し」ていた。呉密察は「終戦以後、台湾人は戦争と植民地の重圧から現実には解放されたとはいえず、逆にその境遇は以前よりも悪くなった」と記す。(呉1993)
国民党は接収した官業の資産を大陸で繰り広げられている国共内戦の軍事費に流用し、それによっておこる資金不足は台湾銀行の紙幣増発によって補った。
劉進慶は「官業独占、軍事財政、紙幣増発の三要因が相互に結合してインフレ昂進の主役を担った」「本質的には財政を含めた広い意味での国家資本=官僚資本が、台湾社会の経済的余剰を収取して、国共内戦の損耗に注ぎこむ役割を果たしていた」と指摘する。(『経済』p31)
「日本帝国」の消滅は、これまで9割近くを依存してきた日本および「帝国」内の貿易相手先が消滅したことを意味していた。他方、これまで中国大陸とは分断されていた台湾が再び大陸経済と接合されることでその混乱を直接的に引き受けた。
接合の中心となったのが上海・南京地方などである。政府や国営企業が集荷した台湾の米や砂糖はこの地に移出して、日用品と交換され移入された。この地は極度のインフレ状態であり日用品の価格は高騰していた。大陸からの巨額の逃避資金も流入、台湾のインフレも昂進、消費者物価指数は等比級数的な上昇を見せた。民間の企業活動は停滞し、台湾経済も崩壊寸前の追い込まれた。
前章で見た与那国島を舞台とした「密貿易」の隆盛はこうした台湾での経済混乱をも背景としていた。
大陸から渡ってきた人々(外省人)が、台湾人を差別・排除し、政治・経済を独占し、汚職と腐敗、強権的なやり方を続けたなかで生じた不満が爆発したのが1947年の2・28事件であった。
これをうけ、琉球・日本へとつながる「密貿易」のネットワークは生命の危機を感じた「本省人」も運ぶこととなる。
(3)強要された自立した「国民経済」
1949年、内戦に敗れた国民政府と関係者が大量に台湾に逃げ込んできた。それは100万人以上、一説には200万人といわれる大陸からの移住者(外省人)を受け入れたことである。(久保 p41)1950年の台湾の人口が約800万人なので、人口増加率は最小でも12.5%、最大では25%もの人口増加があったことを示す。台湾は人口増加分の食糧をはじめとする需要拡大を受けとめねばならなかった。そのなかには60万人もの軍隊を含んでおり、この非生産人口の需要と軍事予算にも応えなければならなかった。他方、人口規模に不釣り合いな軍隊は、国民政府=外省人が「戒厳令」を維持して本省人を抑圧するには十分すぎる規模であった。
その一方で、政府関係者や富豪が財産をもちこんだこと、最先端産業であった上海の紡績資本が機械設備ごと移転してきたこと、故宮の美術品のような文化財を持ち込んだ面もある。
とはいえ新たな負担の多くの部分は本省人に転嫁された。
かつて中国大陸の大部分を支配していた国民政府が大陸から切り離されたこと、共産党軍の進攻にそなえるためにも、彼らが口実とする「大陸反攻」のためにも、台湾支配をより強固とする必要があり、それに耐えうる経済体制の構築も必要であった。そのためには大陸との分離を前提とした自立的な「国民経済」を建設する必要があった。
こうした中で「通貨改革」と「農地改革」が実施される。
(4)台米日三環構造の形成
通貨改革によって台湾の貨幣は中国本土の貨幣と分離し、もちこんできた金と外貨準備に依拠することで大陸経済からの自立を図り、さらにインフレをおさえこもうとした。こうして大陸と離脱した独自通貨圏が成立した。
苦境におちいった台湾を支えたのが、アメリカであり、日本であった。台湾の新たな最大の貿易相手国となったのが復興のきっかけをもとめていた日本である。1949年、戦後処理も終えないまま日台貿易支払協定が結ばれ、翌年には日台貿易協定へと発展する。1948年、わずか8%に減少していた対日輸出額は49年には56%へと急拡大、輸入額も49年の7・5%から50年の32%となる。そして50年の特需景気以後、日本が台湾の最大貿易相手国となる。さらに冷戦の仕組みの中、アメリカの援助を背景に日本から基幹部品を輸入、完成品をアメリカに輸出するという70年代以降の台湾経済を特徴づける「台湾貿易の三環構造」が形成されていく。
アメリカの冷戦戦略の枠組みにより、台湾・韓国さらに沖縄経済は、日本の生産力と資本力・技術力、アメリカ本国の巨大な消費力を背景に、新たな分業体制に組み込まれていった。
こうした枠組にくみこまれることで、沖縄も、台湾も、最悪の「経済」状態を抜け出すことができた。1960年代の韓国も同様である。
しかしこの枠組みは、沖縄では基地の永続化・さらなる基地拡大に反対する住民に対するアメリカの軍政、約30年に及ぶ戒厳令下に強権的・暴力的な圧政をやめようとしない台湾・国民党独裁を、そして漢江の奇跡と並行してすすめられた朴正熙軍事独裁政権の存在を肯定し、援助する枠組みでもあった。
(5)農地改革による農村の変化と収奪
地主の階級的利害を代弁したことで小作農中心の農村の支持を奪ない大陸を追われた国民党は、台湾では先手を打って農地改革を実施する。
中国大陸と異なり台湾の地主階級は配慮する必要のない他者であり、二二八事件にかかわった反国民党・知識人反対派の温床でもあり躊躇する理由はなかった。さらに日本の戦時体制下ですすんだ統制経済は日本国内と同様にこの地の地主経営を弱体化させていた。日本や韓国で実施された農地改革の影響もあった。
台湾での農地改革は、1949年4月に開始された。日本が台湾統治のよりどころとしてきた地主制=地主階級は解体され、台湾の農村も自作農を中心としたものへと変化した。さらに自作農=小経営農民層の生産意欲が引き出され、農業生産力の向上を促された。農村の大衆化・保守化もすすんだ。こうしたことを背景に、国民党支配下であっても、農民たちは地域レベルの選挙などの「政治ショー」に興じる余裕が生まれ、国民党支配の枠内に取り込まれた。
国民政府は、生産量をのばした農民から、肥大化した人口が必要とする食糧と輸出用の農産品を奪い取る。
米の収奪については、おもに二つの方法がとられた。一つは日本の戦時経済下ですすめられた公定価格での強制買い取りであり、いまひとつは化学肥料と農産物の現物交換を強要する「米肥交換制」であった。これにより政府は市価よりもはるかに安い価格で、生産総額30%分の米を手に入れ、軍隊の食糧にあてるとともに、外貨獲得のために輸出した。
今ひとつの主要農産物・砂糖では「分糖制」という手段、サトウキビ農家から「製糖費」として砂糖の約半分程度を取り上げるやり方をとる。日本時代の製糖費用は13%程度であったことからみても過剰な収奪であったことは明らかである。さらに農家自身の得る砂糖の量にも上限をつけ、それを越えた分を強制的に買い上げた。こうして国営企業・台糖が手に入れた安価な砂糖が主に日本へ輸出された。
農産物輸出で得た外貨は一億ドルに達し、アメリカの経済援助の額にほぼ匹敵した。この二つが、貴重な外貨収入として、一方では軍事費となり、他方では工業化に投資された。
アメリカの経済援助と、農民からの農産物の収奪によって台湾経済は危機を脱する。
(6)アメリカの経済援助と官業の発展
台湾の経済を考える上で重要なのが、1950年の朝鮮戦争の発生であり、それによって再開されたアメリカとの関係である。国共内戦における国民党の非力と腐敗のひどさに援助打切りを検討していたアメリカの態度は、朝鮮戦争の発生によって劇的に変化する。台湾海峡が東西対立の最前線となったことで国民党の強権的な政治体制や腐敗は見ないふりをし、軍事面や経済面を中心とした援助を拡大した。
援助は1951年に始まり、台湾のGNPの5~10%に当たる年間約1億円が投入され台湾の貴重な資金源となった。
資金の多くは官業に投入された。中心が電力開発である。こうして得られた電力の20%を消費したのが化学肥料であり、さらに紡績、セメント、製紙といった主要な民間工業にもエネルギーを供給した。アメリカの援助が直接的・間接的に台湾の工業化を進めた。
つぎに資金が投入されたのが化学肥料分野である。戦前の日本資本の三社五工場を統合した台湾肥料公司は、安価な電力と日米から提供された技術と、「米肥交換制」にもとづく需要という手厚い保護をもとに事業を拡大、1960年代半ばには輸出産業へと発展した。
戦前の工業の中心であった製糖業にも資金は投入される。やはり「分糖制」などの保護政策などに支えられて規模を拡大、1952~62年までは輸出総額の約半数をかせぎだす戦略産業となっていった。
このように、政府は電力・肥料・製糖の三部門にアメリカ資金の80~90%を投入、農村を踏み台にしながら、工業化をすすめた。
(7)有力民間工業の登場
戦争後の台湾の経済は官業と民間企業の二重構造から成り立っていると言われる。この関係は、戦前・植民地下の経済構造を反映したものでもあった。
日本の撤退と共に、日本資本の諸事業は、官営も民間、巨大産業・中小企業もすべてが国民党政府に接収され、国営企業・公営企業などの官業として国民党・外省人の手で運営された。こうした官業が内戦期の軍事費調達や私的な致富に利用されたことは見てきたとおりである。
このことは、さらに鉄鋼、造船、石油化学、肥料、金属、製糖といった台湾における基幹産業部門、交通、運輸、通信、電力といったエネルギー・インフラ部門、主要銀行など金融部門の多くも官業が独占したことを意味している。民業はこうした官業の間隙を縫って発展することとなる。
しかし、政府とのかかわりで発展した民業もある。
ひとつは官業の払い下げによって形成されたものがある。
農地改革の土地代金は官業の株という形で引き渡された。その株式は日本人経営の中小企業にルーツを持つ国営企業(四大官業=食品・セメント・製紙・農産加工業など)の株であり、それが地主たちの手に渡る。これはこうした産業が民間に渡ったことを意味しており、地主を産業資本家に転身させる側面を持っていた。
いまひとつが紡績業である。多くの民業が内省人経営であるのに対し、この部門は外省人経営である。
戦前期、中国民族資本の中心であり、国民党のパトロンでもあった紡績資本の多くは、共産党支配を嫌って上海から機械設備ごと移ってきた。こうした経緯から、かれらは民業ではありながらも政府の優遇措置の対象となる。アメリカ綿花が優先的に配給され、為替の優遇レート、特定企業を優先しての共倒れ防止、政府による委託加工などがそれであり、こうした後押しもあって輸入代替産業として劇的な発展を遂げた。紡績業は1950年代半ば自給を達成、50年代末には輸出産業となる。こうした紡績業の発展を劉は「アメリカの援助と政府の強力な保護政策を梃子とする内発的発展と評価」する。『経済』P108
こうした民間企業は50年代保護政策下に輸出代替産業として発展の基礎をつくり、50年代末~60年代初に輸出へのりだしていく。
(8)安価な労働力の存在と民間企業の成長
1950年代の台湾工業のめざしたものは輸入品代替であった。台湾のコンパクトさは輸入品の国産化という経済政策が功を奏しやすい条件であった。さらに、農村が安価な農産物、労働力、さらに資金を提供し、アメリカや日本のさまざまな援助も存在した。
戦前の台湾にはのちの官業につながる日本企業とともに、台湾人経営の企業も多数存在していた。こうした企業は、パイナップル缶詰業のような農産物加工部門が中心であり、大部分が家族経営が中心の零細企業であった。その市場は日本帝国内の分業構造に規定され日本市場向けが中心であったため、帝国の崩壊によって打撃をうけた。なお、こうした農産物加工部門の存在は貿易志向の商業的農業と農村工業(とくに搾糖業)が発展していた清末に遡ることができる。
こうした零細企業は日本帝国崩壊以後にも残った。日本企業を接収し官業を独占したことで基幹産業やインフラ産業といった川上産業は外省人が独占したが、内省人と呼ばれるようになった台湾人は周辺産業、軽工業、消費財工業など主にローテクの川下産業を中心に勢力を拡大していく。
こうした工場の多くは農村に出自を持つことが多く、農村に立地していたため、農村の安価な労働力を手に入れることが出来た。そこにはウォーラステインが指摘するような「周辺」独特の事情がある。
ウォーラステインは、賃金収入が高い比率を占めているプロレタリア世帯の賃金は、依存率が低い半プロレタリア世帯とくらべて、はるかに高いと指摘する。なぜならプロレタリア階級はすべての生活費を賃金によって得なければならないのに対し、半プロレタリア世帯は「基本的には自家消費のための家内生産、ないしはせいぜい局地的市場での販売…によって、需要可能な賃金の最終水準を引き下げうるような余剰を生み出してい」るからであり、「非賃金労働の存在によって、一部の生産者は、その労働力をより安価に調達できたし…生産コストを引き下げ、利潤マージンを拡大することも出来たのである」。(『史的システムとしての資本主義』p26~27)
つまり、労働者が自家消費程度の食糧だけでも生産していれば、工場は労働力再生産に必須の食糧などの費用負担を減らすことが出来、賃金を彼らが必要とする現金収入程度におさえることが出来るというのである。これが「周辺」に搾取が集中するという世界規模の議論につながる。
台湾の農村に展開した企業は、こうした典型であった。
農地改革によって小規模な土地を得た農民は農耕を家族の一部にゆだねて、他のメンバー、夫や娘・息子などを通勤可能な工場で働かせ現金収入を得ようとした。勤務時間以外はそうした人間も農作業に充てることもできる。
他方、経営者は労働者家族の生活を全面的に保障する必要がないため最悪の場合「小遣い銭」程度の低賃金に抑えることすら可能であった。政府も、農家は別の収入の途があったからこそ、家族消費分の農産物以外の部分を収奪できた。
鉄道道路といったインフラの整備により物資や人間の移動の容易さ、国土のコンパクトさも、農村工業に有利に働いた。
労働者の多くは親族や知人など、地域や一族の人間関係の枠内で採用した、労働者としての権利意識も弱くなりがちであった。また労働者の自立意欲の高さから来る離職率も高かったため、雇用調整も容易であった。
中小企業であるという身の軽さは台湾人の商人気質と相まって、新たな分野や商品開発に挑戦することを容易にしていた。その結果、保守的な官業と異なって、積極的な商品開発に取り組み、輸入代替にとどまらず、果敢に輸出に挑み、率先して外資とも連繋した。
安価な労働力と、台湾に伝統的な商人性、そしてさまざまな有利な条件を背景に、内省人経営の企業は生産を伸ばし、その規模も拡大し官業と並ぶ規模にまで発展していく。
※台湾の労働力のあり方は『経済』第3章労働~低賃金構造の秘密(隅谷三喜男執筆)をおもに参照
(9)輸入代替から輸出産業に
輸出が急速に発展したのは、1950年代末~60年代初である。輸入代替産業が発展した理由は台湾の地理的なコンパクトさに由来する点が多かった。しかしコンパクトさは市場の狭隘さの意味でもある。さらに農民を収奪することで工業化を図るやり方はさらに市場を狭めた。
輸入代替化がすすむなかで、1950年代末台湾市場は早くも飽和状態となりつつあった。輸出へとハンドルをきる必要が生じた。台湾政府は為替制度の変革と外国導入の誘致という政策に踏み切る。それはやはりアメリカの戦略に依存している。
アメリカは西側の結束をつよめるべく、本国への台湾製品の輸入量を増加させ、さらに影響下にある東南アジアなどへの台湾製品の輸出を促進した。セメント輸出の40%、綿製品輸出の10%が(南)ベトナムであったことは、台湾の輸出拡大が冷戦下のアメリカ戦略との結びついていたことを示している。
アメリカと並び台湾経済を支えたのは日本であった。日本は、戦後の数年を除き台湾最大の貿易相手国でありつづける。アメリカが輸入中心であったのに対し、輸出が中心である。台湾の外資導入政策を受け、台湾に工場を持つ日本企業が増加、技術移転もすすみ、日本製の工業機械が導入された。さらにその原料となる中間財が日本から大量に輸入され、台湾の工業化をすすめていた。
台湾経済は清末に始まり、日本統治期、ときには妨害されつつもすすんだ内発的な発展をすすめ、戦後は「共産主義封じ込め」政策にもとづくアメリカの世界戦略の一環に組み込まれることで、回復・発展という軌跡を描いた。
(10)70年代以後の展望
ところが、70年代に入ると対アメリカ・日本との関係は大きく変化する。
1972年ニクソン訪中によってこれまでの最大の援助国アメリカは、中国の主張する「一つの中国」論をうけいれて米中国交回復を実現、最大の貿易相手国・日本もこれに続いた。
こうして「中華民国」=台湾を世界は正式な国家とは認めなくなった。台湾は国連を追われ、正式な国交関係を持つ国々は急減、国際的孤立化を進めた。
その結果、国内法によって台湾との関係を調整するアメリカや日本の議会に配慮した措置が必要となった。こうした調整は高齢化し衰えがめだった蒋介石(1975年に死亡する)に代わって息子の蒋経国のもとで進められた。強権的な政治であるとの批判をそらすために、本省人の政治・経済部門などへの登用は必須であった。それは、強権支配のもとでも非政治的分野とくに経済分野での本省人の台頭が著しかったことも背景としていた。外省人=官業によって支えられてきた台湾経済は、すでに民業(主に本省人に支えられる)による輸出拡大が中心になっていた。中国語教育の広がりは、言語などによって本省人を排除するという手法を不可能にしていた。
こうした中で、台湾は「中国の一部」という主張は力を失い、かわって「台湾」ナショナリズムともいうべき言説が広がりを見せてきた。しだいに強権的支配は不可能となっていた。
この動きは、80年代後半以降さらに力を増し、1987年戒厳令はついに撤回される。翌1988年1月の蒋経国の死と、その後を襲った本省人・李登輝の国民党総統への就任で、一挙に「台湾」化がすすむ。
そして2000年には内省人を基盤とする民進党の陳水扁が、国民党を破って政権を獲得するにいたる。(つづく)
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