前近代の身分制と「部落問題」


Contents

前近代の身分制と「部落問題」(授業案として)

1,隅田川の堤防の風景から

市川よみうり「検証・まち(路上生活)」ホームページより同HPは約15年前ごろのものと思われる。

数年前、ある用事で東京にいき、時間があったので隅田川のほとりを散歩していた。そこにはブルーシートで作られた家がたくさん並んでいた。不況などさまざまな理由で、仕事と住まいなどを失ったり、自ら離れたりした人たちが「居」を構えているのだ。住みついた人たちは、早朝からかき集めてきた空き缶や段ボールを売ってお金を得て食べ物を買う。ときには飲食店の残り物やボランティアの炊き出しで飢えをしのぐ。周囲の冷たい視線を浴びたり、若者からの理不尽な襲撃を怯える。他方、ホームレスの間でも、独自の「ルール」が生まれ、しだいに「社会」が形成される。こうした人たち、歴史上にも、いろいろな形で存在したに違いないと思った。

2,差別された身分が生み出された

千年前の日本でも、飢饉や疫病、自然災害、領主の誅求、身体障害など、何らかの理由から住んでいた土地を離れ、さまよう人々がいた。

乞丐「一遍聖絵」(野沢清氏HP「庚寅夜話」から転載)乞丐(こつがい)とは「乞食」「ものもらい」をさし、寺院周辺などに小屋がけをして住んでいたと考えられます。

平安時代の中期以来、こうした人々は、税のかからない河原や荒れ地、都市や村の周辺部などに住みつき、生きる糧を求めた。寺社や役所の配下となって死骸の片付けをはじめとする清掃や警備・処刑などに携わるもの、葬送・火葬などに携わり糧をえるもの、河原で行われた皮革の生産などの技術者集団に加わるものなど、彼らは仕事や役割、庇護関係などを背景にいろいろなグループを作る。自分たちで、ときには関係者との関係の中でルールを定め、子孫に引き継いでいく。

 

犬神人と乞食「融通念仏縁起絵巻」(HP「庚寅夜話」)「犬神人」は「中世、八坂神社に属した神人のうち、下層の民。京都建仁寺門前あたりに住み、平素は弓弦・沓くつなどを作るとともに、洛中の死屍の始末に当たり、また祇園祭には神幸の道路清掃なども行なった。」(大辞林)

彼らは「非人」と呼ばれたり、それぞれのグループの居住地や特質などによって「宿」「キヨメ」「河原者」などさまざまな名で呼ばれた。
物乞いをしていたものの中から「祝い」や「キヨメ」にかかわる芸能も生まれた。遍歴する芸能集団や職人もいた。技術と経験が蓄積され、すぐれた技術者や芸術家も生まれた。幸若舞はのちに江戸幕府の式楽とされ、銀閣寺庭園を造った善阿弥が現れた。

鉢叩「七十一番職人歌合」(HP「庚寅夜話」より)鉢叩とは「家々の門に立って喜捨を乞うた門付芸。声聞道の一つで、鹿の角をつけた鹿杖(かせづえ)をつき、瓢箪を撥(ばち)で叩きながら念仏や無常和讚を唱えて踊った。」(小学館日本大百科全書)

 

中世は、農民や町人の力が強まった時代である。居住地ごとに団結し、ルールを作り、ときには領主とも対抗しながら、「村」や「町」を運営した。このような農民や町人にとって、「非人」たちは異質な存在であり、「異人」であった。さらに、「死」や「血」をきらう意識の高まりの中、「ケガレ」と見なされる仕事を担ったこともあって、「非人」たちは差別的な目で見られることも多かった。他方、「ケガレ」を「キヨメ」る不思議な力をもつ存在とも見なされていた。

3,江戸時代は身分差別を前提にした社会だった。

(1)身分制の固定

豊臣秀吉の時代、支配者たちは、百姓から武器を取り上げ(「刀狩り」)、地侍(武士化した地主)などの農村の中間的支配者を否定して百姓か武士かいずれかの途を選択させ(太閤検地)、さらに武家奉公人・町人・百姓の間の身分間移動を禁止した(「人掃令」「身分統制令」)。百姓たちは農村に住むものとされ、武士や町人は城下町で、職業や地位に応じて居住地を与えられた。大坂では、新たに「非人」と位置づけられる人々の住む場所も決められた。
支配者は、村や町の自治を一方で尊重しながら、それを支配に利用した。身分ごとに社会の中での役割(「役」)が位置づけられた。

(2)「かわた」身分

いくさを職業とする武士にとって、武器は必要不可欠であり、鎧の原料である皮を手に入れることが求められた。

七十一番職人歌合36番「穢多」 同書は戦国期・1500年頃成立したとされる。(Wikipedia「穢多」より)

このため、戦国期の大名たちは技術者を集めて領地内に住まわせ、皮革生産にあたらせた。こうした技術への需要は近世になっても変わらなかった。身分制度が定着していく中、皮革生産の技術者たちは、皮を生産する「役」を負担する身分として、社会の中に位置づけられた。あわせて行刑役や清掃といった仕事も役割とされることも多かった。皮革の生産にあたったことから「かわた(皮多)」と呼ばれることが多かった。

 

 

江戸職人歌合に描かれた「穢多」 石原正明著 (片野東四郎, 1900)(Wikipedia「穢多」より)

この時代、死んだ牛馬は決められた場所(「草場」)に捨てられることとなっていた。「かわた」たちは担当する「草場」をもち、死牛馬を処理してさまざまな製品に加工、その収益で生活を支えていった。「草場」は藩の領域を越える形で設定されることもあった。そして浅草の弾左衛門に代表される「頭(かしら)」が「藩」や幕領といった枠組をこえた広い地域にすむ「かわた」身分全体を統括し、仕事の割りふりなどを仕切っていた。

「かわた」たちは、土地を耕す農民という性格ももっていた。藩の支配において、彼らの住む村は、他の村(「本村」)の下に置かれた「枝村」とされ、地域の中で一段低い存在と位置づけられることが多かった。

(3)「非人」身分と雑種賤民

「流民」(建部清庵「民間備荒録」)宝暦の大飢饉は多くの流民を生み出した。 この写真をUPされた方のHPでは岩手・花巻ではこうした流民たちが「小屋」に収容された、それを「非人小屋」と記していると指摘されています。

近世になっても村々から流出してくる人々がいた。飢饉がおこると、大量の人々が都市に流入、物乞いとなった。人別改帳という「戸籍」から脱落しており、治安上も問題となった彼らは「非人」たちの取り締りの対象であった。彼らは、住む場所を定められ、「非人」身分に組み込まれた。病気や障害をもつ「物乞い」たちも保護の対象として非人に組み込まれた。(なお、当初「非人」とされた人の中には、キリシタンから改宗させられた人の子孫も多かった。)

 

 

乞食(『和漢三才図会』(正徳2年(1712年)成立)より)Wikipedia「乞食」より

「非人」たちは、基本的には「物乞い(乞食)」であり、長吏や非人頭などの監督下に置かれていた。しかし、しだいに町や村の番人など警察の末端業務、清掃、芝居などの勧進、次々と生み出される新非人・野非人の取り締り、刑罰によって非人とされた人々の監督など、仕事を拡大していった。しかし、身分的なまとまりは弱く、分散しがちであったため、明治以降、分散・消滅していくことが多かった。

 

 

 

また「かわた」として把握されなかった中世の被差別民の多くは「百姓」身分に吸収された。雑芸能や呪術的な宗教者などの仕事を続けるものもいた。

「猿回し」もこのような差別の中から引き継がれてきた芸である。(「周防猿回しの会」HPより)復活の中心となった村崎義正氏の思いはここから。

差別が残る場合もあれば、そうでない場合もあった。差別された人々は「かわた」身分と「非人」身分だけではなかったのである。なお「百姓」身分とは、農民のみをさすものでなく、農村部に住み、土地・屋敷をもち、百姓「役」を負担する、山民・漁民なども含めた広範な生業の従事者をさしていた。

 

(4)江戸期の身分秩序

江戸時代は、身分差別を前提にした社会であった。身分ごとに住む場所が決まり、自由な結婚や交流はあり得なかった。

詳説日本史 p186

人間の価値は「身分」や「家」「社会的地位」で決まり、「個人」は「家」に埋没していた。武士と、百姓や町人(商人・職人)など「平人」の間には身分にもとづく差別が厳然としてあった。武士身分には細かい階層があった百姓も名主・庄屋ら村役人たちと、本百姓、水呑(小作農)の格の違いも歴然としていた。
このように、この時代は差別的秩序が当然で、人間の平等などを主張するものは秩序を乱す者であった。これが近世であり、前近代の社会であった。「差別が許されない」のではなく、「差別しないことが許されない」時代であった。被差別身分だけを取り出して差別を指摘することは、全体像を見失うことになる。
しかし農村出身で豪商であった坂本龍馬の先祖が武士になり、座頭であった勝海舟の先祖が御家人になるなど多くの抜け道もあった。しかし「かわた」身分にはこうした抜け道はあまりなかった。

(5)経済の発展と差別の拡大

経済発展が未熟な時期は、身分間の接触は限定的であり、差別現象も限定的であった。しかし、江戸中期以降の経済発展は人々の行動範囲を拡大させ、身分間の接触も活発化した。「かわた」たちも差別をきらって町に住むといった事例も生まれ、さまざまなトラブルも発生した。都市に住む「かわた」たちが見つけ出されて追放されたり、服装や髪型など身分を「目に見える」ようにするといった政策も行われた。一揆鎮圧の表面に「かわた」や「非人」を表に立てることも多くなった。差別的な意味を含む「えた(穢多)」という名称が全国化するのも江戸中期以降である。

 

 

渋染一揆記念碑(写真は野町均氏HP「すろーぼーとからのつぶやき」より)渋染一揆についてはここから。

経済の発展は、差別を拡大する面とともに、人間が平等であることを知り差別の不当性を認識させるものきっかけともなった。差別拡大政策に「かわた」たちは強く反発、岡山藩では渋染一揆なども発生した。自分たちは「御百姓」であり、差別は不当であるという主張も生まれた。自分たちの祖先を高貴な人々に求める「河原巻物」と呼ばれる書物なども作り、差別の不当さを訴えるようにもなった。周辺の百姓とうちこわしなどで一緒に行動するといった例も生まれた。

4,部落問題の成立

明治時代になって、江戸時代の身分の基本である住む場所や仕事・社会での「役」の固定とがなくなり、身分的特権もほぼなくなった。一八七一年の解放令(賤称廃止令)は「穢多・非人」といった呼び名を廃止するとともに、仕事の制限も廃止した。形式的には差別を前提とする身分制は廃止され、差別は法的にはない社会になった。

 

浜島書店「新詳日本史図説」P201

明治維新は大きな変革であったが、農民たちはこれまで通りの重い負担を課せられた。「徒党・一揆の禁止」「封建的なルールは変わらない」との高札も掲げられた。解放令は百姓を被差別身分に組み込むものだと感じた農民が、解放令反対一揆をおこすこともあった。

 

江戸時代、百姓人口が停滞していたのに対し「かわた」村の人口は一貫して増加しており、彼らが百姓に比して貧困であったとはいえない。田畑は狭かったが、皮革生産など保護された仕事など多彩な仕事が彼らの生活を支えていたと考えられている。
しかし、明治になると「草場」権などの特権がなくなり、生活基盤が失われた。所有田畑も少なく、新たな仕事を見つけるのが困難であった「かわた」村は半失業状態となり、貧困に見まわられた。貧困が新たな差別を生むことになる。

 

全国水平社設立大会のチラシ(1922)

明治時代の政策や社会の仕組みも、差別を助長するものであった。寄生地主が経済だけでなく地方行政においても君臨する、「家」中心の民法、天皇制、こうしたありかたは「人間は平等ですべての人の基本的人権は尊重されなければならない」という民主主義の原則を根付かせにくくしていた。
周辺地域との交流も少なく、差別意識も残存するという負の遺産を引き継ぎながら、厳しい貧困の中に置かれたかつての「かわた」身分の人たちは封建的な「差別」と近代の「貧困」が結合した中に置かれた。こうした事態は新たな問題を引き起こし、新たな差別を生み出した。これが部落問題である。部落問題は江戸時代の身分制がそのまま残ったものではない。

*この授業案のねらいはここ

タイトルとURLをコピーしました