近世末期の自生的「近代」を考える ~近世中後期・幕末期の村・地域における経済・金融・流通構造


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近世末期の自生的「近代」化を考える
~近世中後期・幕末期の村・地域における経済・金融・流通構造

はじめに

秀吉政権にはじまる兵農分離政策のなかで、農村は「農耕専一の民」=「百姓」が住む場所として再定義された。さらに「小農民」を年貢負担者(「百姓」)と定置されたことで、「村」は単婚小家族を基礎とする「小百姓」が居住する場所と再定義され、おもに米作に従事し、年貢として米などを納めた。こうした「小百姓」を基盤とした「近世村」は、急速な新田開発政策によって物質的基礎がつくられ、寛永の飢饉をきっかけとする幕府の百姓「保護」政策などによって枠組みがつくられ、江戸前期の村方騒動という村落「民主化」運動によって完成した。
しかし、こうした定義自体、いくつかの「虚構」を前提としていた。百姓は農業だけでなく、さまざまな「稼業」に従事し、「村」や「金融」などに依存することで、「百姓成立」を実現させていた。そして米の多くを年貢として納めねばならなかったことは、百姓たちに生産力拡大の方向を別の作物や「稼業」へと移す結果となった。そして、そうした産物の販売や賃労働などは次第に仕事の中での意味づけを拡大した。そして大量の貨幣が流れ込み、百姓たちは金融への依存をいっそう強めた。また産物の流通はより適切な流れを模索する中で、大坂を中心とする遠隔地交易の仕組みを変えていく。

「年貢未進」という「病」

「村請制」のもと、「年貢皆済」は、近世が「略取と再分配」を基本に置いた社会である以上、領主が「村」の自治と「百姓成立」を保障するという「社会契約」の基本であった。したがって日常的な「年貢皆済」は必ず達成せねばならず、「村」と主要な担い手である村役人は村内の「百姓」から年貢等を集めきることは至上命令であった。とはいえ「百姓」の経営は非常に不安定で、災害(不運なものや過失によるもの)や疫病、「生老病死」「冠婚葬祭」、事業の失敗、さらには消費欲求や射幸心、人間関係やストレスなど人間が生きていく上で生じるさまざまな問題や困難が、結果として「年貢未進」につながっていった。

資金需要の高まりと「豪農」の成長

「年貢未進」につながる不調は時代が下るにつれて多様化し拡大する。経済活動の活発化が人々の生活圏を拡大し、日々の生活の中に貨幣が浸透してきたからである。
貨幣は「百姓」たちの欲望をかきたてる。事業の成功はさらなる事業の拡大へと駆り立て、事業の失敗は年貢未進さらには土地の喪失につながった。失地回復の努力がさらなる損失を拡大することにもつながる。
こうして、農村においても、損失の補填、新規事業の立ち上げ、事業拡大、経営回復、つなぎ資金、さらには流行となってきた物見遊山や派手になっていく冠婚葬祭など、さまざまな場面で貨幣需要がたかまっていった。
こうした農村での資金需要を追い風に、急速に勢力を伸ばしていったものが、村や地域の有力者=豪農たちである。かれらは村落の指導者につながる地位も利用しながら、質入れされた土地や物資をつぎつぎと獲得し手に入れた土地を貸し出すことで地主として勢力を拡大するという従来のあり方に加え、収益をもとに質屋を初めとする金融業、さらには関連産業に進出した。こうして酒造業などの手工業、移出入品の販売といった商業などへと事業を多角化、拡大させていった。一族に出店させるという形式もとりながら地域の中心となる在郷町や都市へも進出していく。
しかし、かれらが農村地域を地盤とする以上、旧来からの村落指導層としての立場にも縛られざるを得ない。貸付や質入に際しての自村などへの「特例」、飢饉における米等の廉売など小前・無高層の反発を買わないよう配慮につとめなければならない。配慮に欠ける場合は一揆や打ちこわしなどで厳しいしっぺ返しを受ける。

労働力の流動化にともなう「村」の変化

他方、貨幣経済の進展は多くの「敗者」を生んだ。損失を埋め合わせるため出稼ぎや年季奉公などの形で村から流出する者が増加し、農業をしない百姓や兼業も増加する。人口の流動化と労働力への需要の高まり、人々の村外へとの志向のたかまりによって、無高・水呑など旧来から賃労働に生活の多くを依存していたものたちに高賃金の仕事などを村外に求めることを一般化させた。こうして農作業にかかわる賃金が上昇、農繁期の労働力不足をかれらに依存していた百姓の再生産へも影響を与えた。ある意味、貧困層をつなぎ止めていた「村」の規制力(それは「保護」力でもあったのだが)の低下を意味し、一個の「村」自体の持つ再生産力の低下も示していた。またこうした人口の流動化は各種のレベルにおいて、村外の新たな知見を「村」内にもちこんできた。
もはや「百姓=農民」という擬制は通用しなくなり、「百姓」に対する「村」の規制は低下し、しだいに「村」の役割が変化しつつあった。再び激化した村方騒動はこうした事態を背景にしていた。さらに十九世紀になると、「村」から脱落していったものを中心に、史料上「悪党」として表現される勢力が形成される。それに「村」内の「若者組」のものなども呼応、掠奪・放火・殺人など従来の「一揆の作法」に反する行動をとる。旧来の秩序を維持するために、「村」の側も、村役人を中心に武装化をすすめていく。
土地を獲得したのちには二つの方向が存在した。金融資本の性格をつよめる豪農は集積した土地を小作にだし、小作料収入を得る旧来型の地主経営をすすめた。かつていわれたようなブルジョワ的発展は旧来の「村」秩序との矛盾を拡大するゆえに、方向転換には極めて慎重であった。
これにたいし、商品作物の導入など農業自身での事業展開をめざす農民は、土地に大量の金肥を投入して「土」を作り、作物や栽培法に適した「農場」をつくろうとした。備中国では、豪農=金融が「質地割り戻し」など旧来の慣行を守り「村」「百姓」の権利を擁護するのに対し、小百姓の方は一旦手に入れた土地を手放すことを嫌い始めたとの史料がみられる。

遠隔地交易から「ネットワーク型」交易へ

「米の経済」は過去のものとなり、貨幣中心の経済は都市から農村へと広がった。膨大な資金需要が、新たな経済・金融・流通構造を形成する。幕府の悪政の代表とも言われる貨幣改鋳(とそれによる「出目」獲得)は、こうした活発な資金需要に対応した政策の側面も持っていた。
新しい経済は新しい流通網の整備を促した。これまでの大坂市場を軸とした遠隔地交易としての全国的流通網は各地の港を結ぶネットワーク型の交易に置き換えられ、ネットは港と在郷町、在郷町と個々の農村へとつながる更に細かいネットワークと結合する。
こうして農村経済は全国市場との結びつきを強める。商品が直接大坂に向かうということは減り、よりもうけが見込める下関などの港で荷下ろしされて販売されることがふえ、また直接取引も行われるようになる。また生産地からの直接買い付けをめざす新興回船業者があらわれたり、姫路藩のように専売制によってあつめた産物を藩営の回船が直接消費地に運んで販売するといったこともはじまる。こうして実際の商品の流れに最適化された流通網が形成された。
内陸河川などを用いた農村と都市の間の地域交易をも刺激され、専売制などによる領国地帯の経済圏の自立化(ただしそれはかつての藩内アウタルキーとは異なり、さきの姫路藩に見られるような商品経済の果実を得る領主的な対応であるのだが)が進む一方、非領国地帯では藩域等など封建領主の都合に合わせた経済圏ではない実際の流通に適した流通網が整備される。
物資の流通の活発化はそれに適合した為替流通など、貨幣の流れもつくりだした。

商品経済の進展と資金需要の高まり

江戸時代の早い時期から、村での金融の目的の基本は「年貢皆済」であった。金融が年貢等を支払うことを支えるセーフティーネットであり、江戸後期には金融が「百姓成立」の大きな柱となっていく。
経済の発展にともない金融は事業資金の獲得もその役割に加える。近世後期の農業は「勤勉革命」とよばれるように狭い土地に資金と労働力を集中することで生産力の向上をめざした。資金の多くは購入肥料(金肥)である。市場価値の高いものも生産するためにはより多くの干鰯などの「金肥」や鯨油など農薬が必要であり、事業資金が必要であった。そのためには作物を販売し、貨幣を得る必要があったのだ。
農村における貨幣経済の広がりは年貢米を貨幣で購入して納めるといった事態をもひきおこす。その資金も必要とされる。しかし商品作物は生産技術が未成熟であることから天候等の被害を受けやすく、さらに市場価格に大きな影響をうけるリスクの高いものであった。新たなビジネスの立ち上げやつなぎ融資など多様な資金需要が必要となった。逆に、リスクに備えた貯蓄も必要となった。金融は貨幣経済にとって必須の存在であった。

質地小作関係と「村」の介在

「金融」には、様々なレベルがあった。一つ目は村内等における貸借関係である。単純には、「年貢未進」等にともなう村役人や五人組関係者、村内外の一族による立替といったものが想定できる。しかし、こうした関係であったとしても、担保が必要となる場合もあり、質地小作関係へと発展していくこととなる。
江戸期全体においてもっとも広範に展開されたのが土地の質入れの形を取った金融である。「年貢未進」などの危機に瀕した百姓が、村内外の富農(村役人と重なることもある)や金融業者などへの土地を担保として差し出し、資金を得る方法である。借りた資金で年貢を支払ったり、借銭を清算する。このような貸借による資金「融通」が「年貢皆済」を支える条件となった。こうして、借金と引き換えに土地を担保に入れるという質地小作関係が成立する。あるときは今まで通りその土地を耕作しつつ年貢と利息分を支払い、あるときは土地から離れ都市などで現金収入を得て年季までに元利の支払いをしようとした。しかし、多くの場合は年季が過ぎても返済できず、土地「所有」権が「貸主」に移転、さらには別のものの手に渡った。
質地小作関係はのちの寄生地主制とのかかわりから重視されてきたが、近年の研究では、年季が過ぎ、数世代が過ぎた後であり、権利者が変更されていても元金を返済すれば田畑を取り返すことができるとの「村」の暗黙のルール(「無年季的質地割り戻し慣行」)の存在が指摘され、土地に対する「家」の潜在的所有権の存在が指摘されている。
さらに、それを保障していた「村」の役割も重視される。質入証文には村役人の副署が必要であり、村外の貸主の選定に村が主導的役割をはたしたことも明らかになっており、質地小作自体が「村」を支える資金「融通」の側面を持っていたとされる。なお、村外へ土地の権利を流出させないよう、備中では村外への土地貸し出しを制限したり村が預かり質取主を決める事例もあるなど、「村」自身が一定の「所有」権をもっていたとの論者も存在する。このように質地地主を直接的に明治期の地主制度と結びつけることは困難であると考えられる。

「頼母子」「無尽」という資金供給

賃貸借関係となるのをを巧妙に避けつつ、資金調達によく用いられたのが頼母子や無尽といった手法である。資金不足におちいった者を救済するため講が結成され、メンバーが資金を出し合う。その返済金と新たな掛け金を元手に資金を必要とするものに資金を供給、事業の立ち上げなどにも活用しうる。これを全員が資金を得るまで続ける。これによると、当初は「年貢未進」や「経営不振」といったネガティブな資金需要に対応しているが、しだいに新たな事業展開、土地集積、あるいは伊勢参り消費行動ヘの支出などポジティブな資金需要にも対応することとなる。村人、とくに中・上層農民を担い手とするこのシステムではあるが、その背景には村役人層など有力農民が破綻しがちなこのシステムを支えていた。

「質屋」の隆盛

小口の資金需要に応えていたのが質屋である。渡邊忠司によると、大坂近郊の農村では早い時期から、年末に百姓たちが家財道具を市中の質屋に持ち込むことが恒例となっていたという。さらに、後期になると小百姓たちが小口の資金需要のため、衣服や家財道具を質屋に持ち込むことが増えてくる。幕末の備中では、質屋が小前対象の少額金融を広範に展開したことが紹介されており、1日単位の少額貸付といったものもあり、農村における小口で緊急の資金需要の広がりが分かる。こうした資金需要は、関東でもみられ、下野では「金銭不融通解消」を理由に質屋渡世を願い出た有力百姓の存在が明らかになっている。こうした村内外の質屋の存在が「百姓成立」を保障するとともに、小農民たちの広範な経済活動を支えてきた。

「豪農」=在村金融のネットワーク

地域の金融センターとなっていたのが豪農らである。かれらは質地小作制の広がりや商品作物生産などをきっかけに台頭し、貨幣経済の深化や消費志向の広がりなど農村の旺盛な資金需要に応えて順調に業績を拡大した。旺盛な資金需要に応えるべく同族や地域の他の豪農や金融業者などとの間での地域横断的な資金供給・融通のネットワークも構築した。また、大都市の商人に出資をして資金運用をすすめる一方、遠隔地の商人は大坂の豪商との間の為替業務などのネットワークを構築、流通の拡大に努めた。

封建領主の金融への参入と「御用金」

封建領主たちもこうした資金供給のネットワークに資金を供給しはじめる。一八世紀末になると、幕府はその財政基盤を、年々減少していく年貢収入に代わる財源として、貨幣改鋳による「出目」獲得と融資による利子獲得に着目する。幕府資金は低利で地域の豪農や金融業者などへ低利で貸し出され、こうしたネットワークに供給される。また備中・一橋領では救荒用の備蓄米の一部の運用の手法としてこうした融資が行われたり、特産物生産などに重点的に投資することで殖産興業の実を挙げようとした長州の例などを見ることが出来る。
しかし、十九世紀中期にはいり領主財政が逼迫すると領主は大商人や豪農からの借財を求めたり、御用金を課すといった権力を背景とした地域金融への吸着を進めた。これによって経営不振におちいる在村の金融業者も現れた。とくに幕末から明治初年においては、領主側の強引な政策によって、都市・農村とも多くの金融業者が破綻を余儀なくされた。幕末から維新期の改革は各レベルの金融の犠牲の上に成立した側面もある。

いくつかの論点にかかわって~「近代」ヘの展望のなかで

①農民層の分解の原因をどう捉えるのか

これまでは幕末の社会変動を「農民層の分解」として、とくに持ち高の分析をもとに捉えてきたが、木下や平野らの研究に明らかなように、「米の経済」が終焉を迎え、それが多くの農産物生産の選択肢の一つとなるなかで、農民の経営実態を「持ち高」で捉えることは困難であると考え、農民の生活を多様な作物生産や稼業、小作、賃労働、さらには出稼ぎなど多様な働き方の中で捉える必要がある。商品経済の発展の中で、生産・経営といった面だけでなく、現代人と相通じる消費願望や射幸心など「生活の都会化」など欲望が喚起されたことも資金需要を喚起し、貨幣経済を進展させたと考えた。そして、こうした「病巣」から発症した「症状」として「年貢未進」を捉えてみた。年貢未進は領主の苛斂誅求よりもこうした要素が大きいと考える。
もし領主の苛斂誅求というならば、幕末期の豪農・豪商への寄生的な「御用金」や「借財」、明治初年の最終的な債務切り捨てをいうべきであろう。ただし、それ自身は米作以外にはほとんど課税していなかった階層に対する法人税・所得税との性格を持っていたとも捉えることが可能である。それ自身が米の年貢の収取を基礎とした幕藩体制の税制度の矛盾の表現ともいえる。

②質地小作関係の捉え方について

近代の寄生地主制との関わりで捉えがちである質地地主制であるが、大塚の論点を踏まえ、「百姓成立」を支える「資金融通」として位置づけた。小農民の再生産の困難さは近世小農民の宿痾ともいうべきものであり、こうした村内外の「金融」のシステムこそが小農民の没落を緩和し「百姓成立」を維持させていたと考えるべきである。
さらに、白川部によって強調される「無年季的質地割り戻し慣行」の存在は質地小作制が近代的土地所有にもとづく地主制とは異なる性格を持っていたことを示している。

③資本主義的農業の形成をどこに見いだすのか

かつて近代資本主義の担い手としての役割を想定されてきた豪農は、十八世紀後期以降、農村における資金需要の背景に急速に発展し事業内容も多角化させた。しかし、かれらは「村請制」を基盤とする近世「村」をも背景に成長したものであり、村落指導者につながる性格をもあわせ持っていた。「国訴」などのように双方の性格に合致する場合はよいが、土地の集積や小百姓への金融については「村」の維持という側面も配慮せざるを得ず、「土地の割り戻し」なども認めるといった消極的な対応も見られた。このため生産規模の拡大という資本主義的な方向ではなく、従来の小農民のありかたを尊重しうる小作制という方向を採ることが多かった。
逆に、資本主義的農業の方向をすすめる行動に出たのは先進地域の小経営農民たちであった。かれらは金肥の大量投入などによって土地の生産性をたかめることで収益を得ようと考え、生産手段としての土地をもとめた。農場経営のための土地を獲得し、土地への投資をすすめるには、質入れ質流れによって土地を獲得するという手法はリスクが大きかった。そのため「割り戻し」期間を制限しようという動きもみせた。
近世的な土地所有のあり方はあらたな農業生産のあり方との間で矛盾を起こしはじめていた。この流れの中に、地租改正=近代的土地所有関係への移行という事態を位置づけることが出来る。

④「豪農」の捉え方について

豪農は、一方ではブルジョワジーの性格をもちつつも、同時に近世「村」の中心として村の自治と領主権力の末端を担うという役割ももつ。関東において、豪農たちは「村」を「世直し」勢力から守るために武装する中心となり農兵を組織するに至る。領主の危機に際して積極的に御用金賦課に応じるなど資金援助もいとわない例も多い。
他方、経済的地位によって構築された全国的なネットワークを通して幕末の政情を把握できるようになったため、「草莽の士」や「幕臣」などとして政治運動に身を投じたり、資金援助を行うものも現れた。弛緩していく「村」秩序を憂い、その再生を図る存在であるとともに、身分制的秩序に飽き足らないとしてあらたな時代を求める運動にもかかわる存在でもあった。

⑤「世直し状況論」

かつて佐々木潤之介は「世直し状況論」を唱え、農民の豪農・半プロ分裂を主要な社会変化として捉え、両者の階級対立の中に世直し一揆にみられる農民戦争状態を捉えようとした。豪農や半プロというこれまでの近世的な「村」秩序からはみだした階級の中に新たな時代の階級闘争の目を見いだそうとした。しかし、すでにみたように農民分裂を貧困の結果として単純に捉えることは妥当とはいえない。佐々木が百姓の没落・分裂によって生じたとした「半プロ」は、よりポジティブな形の賃労働や各種生業に生活の基盤を移した「百姓」とよりひろく考えるべきではないか。このような幕藩制的な民衆のあり方を乗り越える新しいタイプの民衆の一般的成立は、須田が示したような十九世紀における一揆の質的変化、「一揆の作法」を崩壊させ、「万人の戦争状態」(この表現については疑問があるが)を産み出したことは明らかだと思われる。

おわりに

海禁体制を前提とした幕藩制のなかで、ある程度自生的に成長してきた日本的資本制的商品経済の成長は、十九世紀にいたってそれにふさわしい生産・流通・金融構造などを構築し、国民経済の基礎を作りつつあった。それが開国以後の日本の急速な近代化を実現させた原動力でもあった。
この過程は資本の原始的蓄積段階に対応する身分と土地から農民を解放するという「二つの自由」をもつ労働力形成も促したが、イギリスなどとも同様にこうした労働力の働き口が十分の保障されない。あるものは農村にのこり、あるものは都市の雑業層として滞留する。佐々木が「半プロ」層として抽出したこうした人々のなかから、須田のいう「悪党」も形成され、「世直し状況」「万人の戦争状態」といった事態を引き起こした。
商品・貨幣経済の進展は、庶民教育を活発化させ農民や都市民衆の識字率を高め、武士と豪農商が共有する文化基盤も形成した。都市を中心とする文化は農村へと、武士・村落指導層など知識層から都市民衆・一般百姓層へと広がり、普遍化しはじめた。ペリー来航の情報がわずかな期間で全国化したことにみられるように全国規模の情報網も整備された。そして危機感も全国的、身分横断的に共有されていく。先駆的な「国民国家」が形成されつつあったのである。「開国」の衝撃の大きさとその後の政治・社会・経済の大変革は、こうした発展段階によってもたらされたものである。
しかし、自生的に形成されてきた日本の「近代」と、産業革命と市民革命の「二重革命」達成から100年もの時を過ごした欧米流の「近代」との落差は大きかった。開国以後、とりわけ明治期における国家は、権力的に欧米化という形の「近代化」をすすめた。その成功は、自生的な「近代」の土壌に欧米発の「近代」「資本主義」を「接ぎ木」しえたことによるところが大きいのであるが、おうおうにしてその「土壌」は、「欧米基準」というグローバルスタンダードによって「未開」として切り捨てられたり、「二流の存在」「遅れたもの」として軽視されつづけた。
こうした手法は民衆の激しい抵抗を招くこととなった。明治初年に起こった騒擾においてはもはや「一揆の作法」は存在せず、双方の間で暴力と殺戮が繰り広げられることになった。

<参考文献等>

・佛教大学歴史学部・’18年度・日本近世史特講1H(東野将伸担当)講義レジュメ

・東野将伸「幕末期の掛屋と年貢銀収納~備中一橋領を事例として」(『歴史学研究』2018.1)他、東野の諸論文
・ 木下光生『貧困と自己責任の近世日本史』(人文書院2017)
・平野哲也「Ⅴ、近世」(木村茂光『日本農業史』吉川弘文館2010)
・平野哲也「江戸時代における百姓生業の多様性・柔軟性と村社会」『日本史学のフロンティア』法政大学出版局2015)
・大塚英志『日本近世金融史の研究』(校倉書房1996)
・大藤修 『近世農民と家・村・国家 生活史・社会史の視座から』(吉川弘文館1996)
・大藤修 『近世村人のライフサイクル』(山川出版社2003)
・須田努 『「悪党」の一九世紀 民衆運動の変質と“近代移行期”』(青木書店2002年)
・須田努『幕末の世直し 万人の戦争状態』(吉川弘文館2010年)
・白川部達夫『近世の百姓社会』(吉川弘文館1999)
・渡邊忠司『近世社会と百姓成立~構造論的研究』(思文閣出版2007)
・深谷克己『百姓成立』(塙書房1993)
・深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』(校倉書房1979)
・深谷克己・川鍋定男「江戸時代の諸稼ぎ」(農山漁村文化協会1988)
・佐々木潤之介『幕末社会論 「世直し状況」研究序論』(塙書房 1969)

※本レポートは2018年度春学期に聴講した佛教大学・歴史学部の日本近世史特講1H用のレポートとして作成したもので、講師のH先生の研究成果に大きく依存しています。
また本ホームページ「近現代史の授業中継」における下記の文章との関連を意識して作りました。あわせてご参照いただければ幸いです。
「『百姓成立』~その成立と展開、そして崩壊」
日本近代史をどうとらえるか、そのスケッチとして」とくに第一章
「江戸時代の「年貢」は重かったのか?~江戸時代の「百姓」像を見直す(1)」
「『百姓』は百姓であったのか?~「年貢」は重かったのか(2)」

 

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