Contents
幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
~日本近代史をどうとらえるのか(1)
<目次・リンク>
- はじめに~近代日本をどう捉えるのか
- 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
- 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
- 「開発独裁」政権としての維新政府
- 「明治憲法体制」の矛盾と展開
- 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
- 戦時体制下の「革命」と戦後社会
- 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望
主権国家体制への包摂と対抗
思想家柄谷行人は著書「世界史の構造」で、主権国家は感染するという趣旨のことを書いている。
西ヨーロッパの抗争の中から生まれた主権国家群は接触しあい影響しあうことで、互いに政治・経済・社会の全般における変革を迫る。こうして形成された主権国家群は、十九世紀には世界資本主義と一体化した近代世界システムとして世界各地で登場、圧倒的な力でアジア諸民族をも屈服させる。あるものは植民地とされ、あるものは分割され、あるものは未開国として不平等条約を押しつけられる。こうした「屈辱」にたいし、諸民族は戦争、民衆反乱、テロリズムなどさまざまな形で対抗する。そして近代世界システムに合致しないものを切り捨て改編するという「屈辱」のなか、欧米仕様の主権国家体制に包含されていく。その行為は国内外の激しい反発をも招くが、周辺諸民族をも主権国家体制を感染させる。
変革の主体をどこに見いだすか、各民族の経済的発展段階には差異があり未熟な経済体制で世界システムに組み込まれるため、事態に主体的に対応できるだけの社会勢力、ブルジョワ的発展は望むべくもない。したがって変革主体は、権力につながる支配階級か、その分派とならざるを得ない。そうした勢力がいかに主体的に変革を担えるか、そのための自発性をどう手に入れられるかが課題となる。
東アジア文化圏の「半周辺」に位置する日本列島は、他のアジア諸国と異なり、一方では清朝と宗属関係にはない対等の互市関係にあり、他方では「天皇」と「幕府」という「二つの中心」をもつ小「帝国」のもとに諸侯が分封される領邦国家(「藩」)が存在するという幕藩体制のもとにあった。
幕末の政治はこうした内外の諸条件に強く影響される。とくに他の諸国が中央集権的な官僚国家であるのにたいし、日本は地方分権的であったために、対外勢力への抵抗も、幕府ないし天皇を中心として国家の再編成をめざす活動も、分封され半「独立国」の性格をもつ「藩」を基盤にする幕藩体制という条件下でなされることになり、ナショナルな課題が登場するなか、地方分権を止揚しようとする動きが必要となる。
「鎖国」と「大政委任」~松平定信政権下での幕藩制の再定義
十八世紀末、ロシア使節・ラクスマン来訪をきっかけに、幕藩制国家は「主権国家体制」との接触を本格化させる。「主権国家」として対応のなか、当時の松平定信政権は幕府の外交方針を「鎖国」とし、オランダ以外の欧米諸国と外交関係を持たないことを「祖法」であると時代をさかのぼる形で定義した。その影響は現在にいたる。
世界を意識することは、それに対応する自己認識をも促した。すなわち国家主権は天皇にあり、主権者としての天皇が統治大権を武門の長「征夷大将軍」にゆだねたと再定義する。これを「大政委任」論という。こうして定信政権の下、幕藩体制は「鎖国」と「大政委任」という二つの面から再定義される。
このことによって幕末の政局の対立軸が明確になる。
①「鎖国」を守る(「攘夷」)VSあきらめる(「開国」) ②「大政委任」の維持(「幕府専制」)VS廃止(「王政復古」)or両者の関係の再定義(例:「尊王」「公武合体」「大政奉還」「公議政体」など) |
主権国家としての自己意識~啓蒙か、弾圧か
主権国家としての日本が意識にのぼるなか二つの議論が生れる。
一つは、主権国家体制に移行しつつある世界の姿を啓蒙し、日本が置かれた危険な立場を伝えることで「国民」化をすすめるべきとの方向である。林子平の「海国兵談」や「三国通覧図説」はこうした方向性をもち、高野長英や渡辺崋山ら尚歯会グループに引き継がれる。
もう一つは、大政を委任され、「鎖国」が国是である以上、幕府が責任を持って外交に対応すべきであり、世界情勢も研究をすべきであるとの考えである。
定信は学問を振興し、官学・昌平黌(しょうへいこう)で学ぶ優秀な人材の登用をすすめた。昌平黌では、官学とされた朱子学をもとにしつつ「小中華」的偏狭さを脱却した開かれた学問も生まれ、国際感覚な豊かな人材も育った。彼らは地位にかかわらない形で登用・重用され、幕末における幕府の開明性を保障する。その一方で、
知識も情報も身分制的に扱われるべきであり、統治にかかわらないものがかかわるべきものではないし「国民」としての自覚などは不要であり危険であるとの立場から、林子平の「海国兵談」の出版が禁止される。こうして「世界」への正確な知識へのアクセスが阻害され、危機感のみが煽られることによって、偏狭なナショナリズムの温床となる。
十九世紀、日本近海の国際的緊張はいっそう高まる。昌平黌で学んだ開明派官僚らも高野や渡辺らの活動にも参加し影響も受ける。そのことは旧来の秩序を重視する保守派を刺激し、在野の高野や渡辺らが弾圧され、命を奪われる。(「蛮社の獄」)
自生的な「国民」形成の基盤としての幕藩体制
幕藩体制は、徳川将軍を頂点とする封建諸侯が半独立国的領域支配をおこない、自領の百姓から主に「米」という現物で年貢を負担させることでなりたっていた。百姓は連帯責任制と相互扶助にもとづく「村」共同体に属し、共同体的規制を生かした村請制で年貢納入を実現させていた。幕藩体制はこうした封建制的なタテの支配を基礎とする。
それぞれの「イエ」は身分に応じて「役」を分担させられ、身分制的に掌握されるという家元的身分制的支配も受けていた。身分制的支配は、天皇を頂点に、諸侯の領域支配の枠をこえて「ヨコ」に張り巡らせられていた。幕藩体制はこうした二重の支配を組み合わせるという構造をもっていた。
封建諸侯は、独立性の高い君主であった戦国大名が幕府の「武威」で統御されたという歴史的経緯から「独立国の君主」という性格ももっている。大名がこのような性格をもつからこそ、幕府は大名の家族を人質として江戸に在住させ、大名自身に江戸と国元を行き来させるという参勤交代を課した。この制度は、多額の出費を強いることもあって諸大名家の抵抗力を低下させたが、膨大な出費と債務の拡大が諸大名家の危機感を高め、改革へと導くことになった。各地の大名と随行の武士が江戸と国元を往復することは中央と地方の間の人的・文化的交流をすすめるという副産物を生じさせ、地方文化の水準向上と「国民」的文化の形成の基礎を作った。
前代の豊臣政権が導入し、徳川幕府が引き継いだ石高制は、「米」の経済と「銭」の経済を結合させるという特殊な経済構造をもたらした。これを実現させたのが上方とくに大坂の経済力であった。ここを中心に全国的流通網が早くから整備された。また海外渡航の禁止と貿易の空間的・量的制限は、これまで輸入に頼っていた商品の国内生産を刺激し、さらにそれを国内で流通させるという方向へと変化させた。こうして全国で輸入代替品生産が発展、さらに全国規模での国内流通網が整備されたことによって特産品生産を全国的規模で発達させることとなった。さらに江戸・大坂・京都という都市の成立は膨大な消費市場を生み出し、国内流通網をいっそう活発化させ、さらにそのあり方も多様にしていった。こうして全国的な経済面での結びつきが緊密化し、その経済は国民経済という色彩を強めていった。
日本は、古くから中華帝国の文化圏にあり、知識人の間では漢文という共通言語、儒教や中国史という共通知識、インド・中国を経て導入された仏教思想など、東アジアに開かれ共有化されたデータベースが存在していた。江戸期には、これを基盤に、日本化された儒学や、その方法論を日本に適用した国学が興隆し、日本史や王朝文学などの知識もデータベースに加えられた。こうしてインターナショナルな知識とともに、ナショナルな知識も知識人を中心に、国内で広く共有された。そして経済発展にともなう識字率の上昇はこうした知識の受容層を急速に広げていた。
一方、幕藩体制下の日本は、各地に封建諸侯(「諸大名家」)が所領を分封する封建社会でもあった。各諸侯は広範な自治権を与えられ、独自の統治が行われた。ここで注目すべきは、一般的な封建社会とは異なり、一般領主(「藩士」や「旗本・御家人」など)の多くが原則として土地から切り離され、米などの俸禄を受け取るという「サラリーマン」官僚の性格を帯びていたことである。このため、膨大な数の武士たちが官僚として領内の課題に向き合い、職務にあたった。各大名家では財政難を中心としたさまざまな課題が山積していた。それにたいし、多くの武士たちが対処するなかで経験とノウハウを身につけていく。当然、かれらが身につけた学問においても、現実とのかかわりが強く意識される。そして解決策を求め人々はたがいの「知」と経験を交流する。こうした中で、日本の現実の政治・社会に向き合うことができる多くの人材が生み出されていく。
江戸期の日本は「封建社会」という多元的・地方分権的な社会であり、それを幕府と天皇という二つの極が結びつけるという求心的構造をもっていた。こうした社会のなか幕藩制秩序に対する危機感が高まり、主権国家体制とと接触するなかで、先駆的なナショナリズムが形成されつつあった。
こうしたナショナリズムは、反作用としての「藩」ナショナリズム、領邦国家・半独立国意識をも生み出す。有力国持大名やその下の武士たちは、徳川将軍家を相対視し、ナショナルな課題とのかかわりのなかで自「藩」の利害を追求しはじめる。19世紀前半の藩政改革に成功した薩摩・長州などは「雄藩」としての性格を強め、「大政委任論」にたつ旧態依然たる幕府政治をナショナリズムの立場を交えながら批判しはじめる。
商品経済の発展と幕藩体制の弛緩~萌芽的「国民」形成へ
「求心力」と「遠心力」という二方向の力は、経済においても見られる。
特産品生産は大名権力の奨励策などもあり、いっそう拡大、商品経済が発達し地域的商業圏が形成される。「コメの経済」は衰退し、「ゼニの経済」・貨幣が農村深くにまで浸透していく。商品経済の発展は、賃労働の商品化の傾向もすすめ、萌芽的な労働市場の形成もすすんだ。村内にも村の枠を超えて賃労働に依存する水呑・無高などが増加、連帯責任制と相互扶助にもとづく「村」共同体的結合を弛緩させ、それに依存する幕藩制的統治をゆるがすようになる。
こうした弛緩は幕領・弱小藩領・旗本領など小規模な領地が錯綜する地域において顕著であった。支配の枠組みを超えた商人らの活動、農民の結合にもとづく国訴、「村」共同体の「統制と保護」からはみだして賃労働や自営業への依存を高めた半農半プロ層の登場、かれらを大きな担い手とする世直し一揆など、合法・非合法の民衆の闘争がつぎつぎと生まれた。博徒横行など治安の乱れなども生じ、治安の維持は困難となっていく。
こうした事態に対応すべく、関東では関東取締出役がおかれ、領主をこえた組合村が組織されるなど、幕藩制の枠を超えた領域的支配がすすむ。幕府が天保の改革において打ち出した上知令はこうした事態を反映していた。
商品経済の進展、農民・都市民といった人々の文化も急変させた。出版文化は都市から農村へと拡大、その対象も武士・町人や農村指導部にとどまらなくなる。十九世紀の寺子屋の爆発的普及など庶民教育の定着によって文字へのアクセスは民族的といってもいい広がりを見せる。とくに村落指導者や町人への文化的普及は著しいものがあり、芸能・文学・学問・武術など地域も身分も超えた横断的な結びつきが生まれた。民衆の間では伊勢参りなど神仏参りが流行し、知識人は俳句や絵画、武術、学問的興隆や情報交換を求め全国を旅した。旅行などへのあこがれと、旅人を受け入れる広範な階層が生まれていた。
経済発展と人的交流が急速に進むなかで幕藩制的身分秩序・社会秩序は弛緩、18世紀末以降の外国船の出没もくわわることで、既存の秩序崩壊に対する危機感と「世直し」への期待感が入り交じる状態となってきた。こうした意識は、下級武士や都市・農村の指導層などに顕著であり、それは国学や水戸学などの流行という形で示された。
こうした事例は、幕藩制的身分秩序を超える萌芽的な「国民」意識形成を示唆するものであり、「国民国家」形成への志向を潜ませていた。しかし、この「国民」意識は、「鎖国」と幕府の情報コントロールの影響を受け抽象化されゆがんだ国際認識を背景としていたため、「万世一系の天皇が治める神国」との「小中華」的な性格が刻印され、吉田松陰等に見られる侵略的ナショナリズムの傾向を帯びることになった。
「公儀」秩序の再定義が導いたもの~「忠」の対象は誰か
主権国家体制との接触、貨幣経済の深化、萌芽的な「国民」意識の形成、これに対する定信政権の「幕藩体制の再定義」は「公儀」秩序再定義を促す。
まずは幕府とともに幕藩体制を支える大名の再定義である。すなわち、大名は封建契約にもとづく幕府の家臣か、天皇が支配する国土(「皇土」)の一部を分封する地方政権(「藩」)の長か。その問いは「忠」の対象を、将軍に見いだすべきか、天皇とすべきなのか、との難問につながる。
つぎは家臣(「藩士」、そして「幕臣」も)である。「忠」の対象は、「大名」個人か、血統にもとづく「大名家」という「御家」か、法人としての「藩」組織か、それともそれらを超越したナショナルな存在としての天皇か、が問われる。
こうした問いは農村指導者にも広がる。村内の百姓を掌握し「年貢」を徴収・納入する農村の指導層においての「忠」の対象は誰か。「公儀」を分有する大名は「主君」といえるのか、自分たちは「天下」に対して「年貢役」を負担している天皇の「御百姓」ではないのか、など。
これまでの秩序・価値観が問われていた。それはそれぞれが自分に都合のよい「正義」を振りかざしうる機会が与えられたともいえる。
「主権国家体制」と主権国家・未開・半未開国
十六世紀前半、三十年戦争を契機にヨーロッパで生まれた「主権国家」(ウェストファリア)体制は、主権国家が一定領域にたいして排他的に公権力を行使し、そのことを互いに承認しあうという原則に立っていた。
しかし、互いに承認し合える主権国家は「欧米的価値観」を共有しうる国家に限られ、欧米的基準からみて国家としての水準に達していない地域は「未開」とされ、各「主権国家」(欧米列強)が植民地化しうる分割可能な土地とされた。
さらに一定の国家機能は認めうるものの欧米的価値観からみればグローバルスタンダードに達していないと見なされれば「半未開(国)」として不平等条約強要の対象となる。こうした地域は、トルコ・イラン・中国といった近世帝国の中枢に多く見られた。日本もこの位置づけで世界に組み込まれていく。
「未開」として植民地とされるか、「半未開国」として不平等条約を強要されるかは、対象地域の状態と、列強側の時々の判断によって異なった。たとえば、対象地域の政治体制の存在と質(統一権力の有無と民衆掌握の度合い)、文化的水準、抵抗運動の状況(軍事集団の存在と武装状況、鎮圧にかかるコストとのかかわり)、経済開発状態(植民地化による経済開発が必要か、自生的経済発展段階に依存しうるか、地域の潜在能力と植民地化による開発のコストとのかかわりなど)といった地域のもつ事情がこの判断に大きな影響をあたえる。「未開」と位置づけられた地域の多くは「近世帝国」の「周辺」に多く見られる。
さらに「列強」側の事情がある。国内の経済状況や世論(植民地化への欲求の変化)、他国との力関係(たとえばタイは英仏両勢力の緩衝地帯という地政学的理由が独立維持の背景である。他方、軍事的必要から強引な植民地化がなされることもある)などが考えられる。
植民地化が検討された時期の国際情勢や経済発展段階も重要である。産業資本主義段階においては、農産物を中心とした原材料の獲得と工業製品販売の市場が植民地獲得の目標とされていたため、市場的価値の高い人口の密集地域が対象とされやすく、イギリスの覇権がつづいたため、過熱した状態にはならなかった。
これに対し19世紀後期になると、イギリスの覇権が失われ列強同士の抗争が激化、帝国主義化も進行したため、軍事基地や資本投下先としての植民地要求が強まる。重化学工業化は石油・石炭・鉄鉱石など鉱工業原料獲得のための植民地を必要とする。世界分割競争の激化と経済発展が植民地獲得競争の姿を変える。
このように、「未開」として植民地とされるか、「半未開」国として独立を維持させるかは列強側の判断によるところが大きい。したがって近世帝国の中枢インドも植民地化されるし、半未開国であったエジプトも植民地化された。
「未開」か「半未開国」かの判断はつねに流動的であった。
「半未開国」としての包摂と、「屈辱」感
アヘン戦争での清の敗北は日本に深刻な影響を与えた。近世中華帝国として「世界=帝国」の中心であり、東アジアにおける華夷秩序の頂点に立つ清国が「夷狄」であるイギリスに惨敗し、「半未開国」の地位を押しつけられたからである。
このことは、近世中華帝国=華夷秩序の解体が始まったことを意味しており、幕藩体制を支える国際的前提が崩壊し、日本も主権国家体制の原則で世界を再構成する欧米列強と向きあわざるを得ないことを示していた。幕府はこうした事態をかなり正確につかみつつも、表面的には対策を採らなかった。
こうした国際情勢を否が応でも見せつけられたのが1853年のペリー来航と1858年の安政五カ国条約による「開国・開港」であった。それは、強圧的な主権国家体制の中、日本が「『文明』に至らない半『未開』の国」という「屈辱」的な定義づけで組み込まれたことを示していた。
ここでつきつけられた現実は、幕藩体制秩序の揺らぎの中で再定義された「万世一系の皇国」、「小中華としての日本」との自己規定とはまったく異なるものであった。
したがって日本のルールを無視したペリーらのやり方と強圧的な通商条約交渉は「屈辱」と認識され、そうした交渉に応じざるを得ないストレスが蓄積される。十分な国際知識を与えてこなかった反作用から幕府の外交は「屈辱」外交とみなされる。そのとらえ方は急速に整備されつつある全国的情報網を通じて共有された。
ペリー来航が突きつけた難問と幕末をめぐるさまざまな動き
江戸後期には、各レベルで幕藩制秩序の再定義が行われていた。このこと自体、主権国家体制との接触の結果であった。しかし、ペリー来航にはじまる主権国家体制=近代世界システムへの強制的な包摂は「半未開国」という定義の強要であり、その強引な手法への反発とともに、日本をさまざまなレベルで揺さぶった。
「半未開国」でなく「主権国家」として認められるには政治的・経済的変革を余儀なくされることであった。さらに幕藩体制という既存のシステムが主権国家体制に対応可能かを問い直す必要もあった。
幕府内では「大政委任」論にもとづく「幕府専制」で十分だと考えるものがいる反面、幕府専制では不十分であり朝廷との結びつきを強めることで挙国一致をすすめようという公武合体論も生まれた。諸「藩」の合意によって政治を進めようという「列藩同盟」の考えが生まれ、それは合意への参加対象を「藩士」などにも広げる「公議政体論」へと発展する。
天皇こそが日本の中心であることを強調する「尊王論」(それには旧来の「大政委任論」にもとづくものから、「倒幕」「王政復古」をめざすものまで幅広い内容を含む)、列強の強引なやり方によって主権国家体制への強制的な包摂という「屈辱」に屈した幕府の責任を強く問う「攘夷」論(ここにも外国と一戦をしてでも「鎖国」体制への復帰をめざすという過激派から、交渉による「条約改正」をめざすものまでの幅がある)といった議論が生まれた。
こうした議論の背景には混乱に乗じて自「藩」の地位向上をめざす雄藩の動きも存在した。さらに、朝廷の復権をめざす公家たち、身分制的支配から個人的な脱却をめざす下級武士や有力な百姓・町人、これまでの権限を死守したい譜代大名や幕臣、さまざまな勢力の動きが活性化した。こうした諸勢力が合従連衡しながら、複雑な幕末政局をつくりだすことになる。
つづく
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