3_「開発独裁」政権としての維新政府

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「開発独裁」政権としての維新政府
~日本近代史のとらえかた(3)

<目次・リンク>

  1. はじめに~近代日本をどう捉えるのか
  2. 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
  3. 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
  4. 「開発独裁」政権としての維新政府
  5. 「明治憲法体制」の矛盾と展開
  6. 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
  7. 戦時体制下の「革命」と戦後社会
  8. 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望

旧執行権力の崩壊と「天皇の信任」

前章では、主権国家体制に本格的に包摂され、世界資本主義体制に組み込まれる状況の下、いかにこの事態に対応するか、対応できる体制をどのようにつくるかという争いをみてきた。天皇を主権者としてオールジャパン体制を構築する点ではほぼ一致するものの、公武合体を基礎に「大政委任(たいせいいにん)」原理を再構築し幕府中心の体制を維持しようとする幕府と、天皇のもとで大名、一般武士、さらには「草莽(そうもう)」をも参加しうる政権(そこには有力大名としての徳川宗家も参加する)という構想が対立していた。
実際の議論となったのは三権のうちの立法権力に当たる部分が中心であり、具体的な国内政治、行政・軍事・財務・警察・司法などの執行権力、焦眉の課題である外交の担い手などは、軍事・財務などを別として論じられることが少なかった。
ところが王政復古のもとで政権は天皇の下に掌握され、つづく戊辰(ぼしん)戦争によって旧幕府は機能を停止する。その結果、新政府が執行権力の掌握・運営を迫られることとなる。
こうした混乱の中で、身分制や幕藩体制という旧来の秩序の崩壊がすすむ。にもかかわらず、新政府側には財政基盤がなく、一歩誤れば国家分裂=植民地化という最悪のケースすら起こりうるなかで外交のかじ取りをせねばならない。このような緊迫感の中、公議政体(こうぎせいたい)論のような悠長な議論につきあう余裕はなかった。早急に強力な執行権力を組み立てる必要があった。
明確な方針も、人材も見つけにくい中、新政府の中心にいた岩倉・大久保・西郷・木戸といったリーダーのもとには幕末の混乱で得た唯一の結果ともいえる強力な政治的「資源」が存在した。それは「天皇の信任」という資源である。かれらはこれを最大限生かす形で、難局に立ち向かい、明治国家建設をすすめていく。

新政府成立期の混乱~公議政体論と天皇

「王政復古」直後、新政府は混乱を極めていた。幕府は消滅したものの、政府内には多くの列藩同盟派=「公議政体」派の諸侯らを抱えていたし、現実の土地人民を統治していたのは諸大名家(「藩」)であった。したがって、天皇の下でのオールジャパン体制をめざすためには各「藩」代表を組み入れた公議政体論の方向を含めた形を追求せざるを得なかった。大久保・西郷・木戸・岩倉といった指導者たちも、明確な国家構想は持っているとはいえなかった。
しかし次々と生じる事態に公議政体論はあまりに無力であった。王政復古のクーデタ以来政治をリードしてきた岩倉や大久保が政局のヘゲモニーを手放すことは考えられず、そのことを正統化しうる唯一の「資源」は「玉(ぎょく)」としての「天皇」であった。それを決して手放してはならならず、さらに「使いやすく」する必要もあった。
事態は深刻であった。幕府の崩壊により、外交だけでなく、諸藩への指示、財政運営、あらたに獲得した旧幕領など直轄地の掌握、人民統治などといった実務が新政府に押し寄せていた。幕府諸機関が担ってきた仕事を、引き継ぎもないまま、寄り合い所帯で、経験も不十分で空論を振り回していた「志士」たちが受け取ったのである。「走りながら考える」。それしかなかった。

あふれかえる諸課題

鳥羽伏見の戦いに勝利した時点で、新政府が使えそうな政体論は薩土(さつど)盟約などに示された列藩同盟=「公議政体」論くらいしかなかった。まずその線が追求された。五ヵ条の誓文における「万機公論(ばんきこうろん)に決すべし」との条文もこうした事情を反映していた。有力藩の藩主らが公家とともに議定として新政府内に参加、各藩代表からなど議員(貢士(こうし))が国政を協議する「公議所」も設置され版籍奉還(はんせきほうかん)などを協議した。しかし公議所では、「廃刀令」を主張した森有礼(もりありのり)が生命の危険を感じて辞職せざるをえないことに示されるように現状維持の意見が大勢であった。
「公議政体論」は、藩主や公家による上院、家臣による下院という列藩同盟的枠組みにもとづく、主に立法権にかかわる構想であり、執行(行政)権、民政や財政、外交の実務はあまり論じられず、旧幕府の官僚組織が暗黙の前提となっていた。ところが幕府の崩壊でそれが消滅した。新政府は自前で人材を集め、行政組織を整備せねばならなかった。いきおい王政復古のクーデタ以来政治をリードしてきた薩摩・長州出身者が中心となりがちであり、さらに私的な人間関係をもとにして人材が集められる。こうして薩長などの旧雄藩出身者が政治を私物化すると批判をうける「藩閥(はんばつ)」の基礎が作られる。
新政府にとって、必要な仕事は山ほどあった。
まず内戦への対応である。諸「藩」から兵士を動員して軍隊組織を編成すること、食料や兵器を調達して前線に送ることがまず必要であった。さらに、力では屈服させたものの半独立国としての性格を維持し続ける諸「藩」への対応や、「年貢半免」など「世直し」を叫ぶ百姓を沈静化させ、外国人や用人を襲撃するかつての仲間である旧「尊王攘夷」派などテロ集団の逮捕処罰といった秩序・統治の「回復」が必要であった。そのためにも接収した幕府支配に変わる統治機構の早急な立ち上げが必要であった。
また急を要したのが財源確保であり、膨大な量の不換紙幣「太政官札」が発行された。江戸期に多額の金銭を蓄えていた都市の金融・商業ブルジョワジーは多額の用金の「調達」が命じられた。こうした債務は、江戸時代全体を通じて幕府・諸藩がため込んできた膨大な債務とともに、最終的に債務放棄と支払い延長という形で処理される。この過程で、江戸期以来の多くの金融・商業ブルジョワジーが破綻する。新政府は、こうした商業・金融ブルジョワジーの犠牲によって命脈を保つことができた。
外交面では諸列強の信頼と承認をいかに勝ち取るかが課題であった。江戸における戦闘の中止=「江戸城無血開城」は貿易への悪影響を恐れる列強側の厳しい要求が背景にあった。
維新政府は、山積する緊急課題を並行処理することが求められていた。さらに、こういった課題処理には大きな条件が課されていた。新政府の最大のテーマが「万国対峙(ばんこくたいじ)」であり、「破約攘夷(はやくじょうい)」が姿を変えた「条約改正」である以上、新たな行政組織はたとえ形式的であれ、主権国家にふさわしい国際標準に準拠したものでなければならなかった。この課題に耐えうる政策の質が求められていた。
日々発生するこうした膨大な課題を素早く効率的に処理するには「公議政体」論の枠組みは不向きであり、通用するものではなかった。

「革命」政権としての維新政府と公議政体論の消滅

明治維新においては、幕府滅亡、内戦、新たな行政機関創出、外交関係再構築といった多岐にわたる緊急課題に対処するため、権力を集中し、それまでのルールを否定し、反対派を暴力的に弾圧する「革命」権力が求められた。公議所のような「民主主義」的な機関は無用であり危険であった。「公議所」は廃止され、「議定(ぎじょう)」として宮中でおしゃべりをくりかえす旧大名や多くの公家も政府を去る。こうして幕末期の政体論の中心であった公議政体論はいったん姿を消す。
かわって、姿をあらわしたのが、維新官僚らの「有司専制(ゆうしせんせい)」による開発独裁である。ここでは有司専制にもとづく執行権力の独裁、開発独裁政権を「維新政府」として位置づけたい。
革命時、「議会制民主主義」は体制維持の方向に働く。イギリス革命においてクロムウェルは議会を停止し護国卿(ごこくきょう)として独裁者となる。フランス革命のロベスピエール一派も公安委員会に独裁的権限を集中させて恐怖政治という強権を得ることで事態の打破を図った。現状維持派が圧倒的な勢力を占めたロシア革命後の憲法制定議会をボリシェビキは暴力的に停止した。権力を集中して難局に挑もうとした維新政府も体制維持に動きがちな公議政体論を無力化する。
しかし、維新政府は革命政府との大きな違いがあった。維新政府において、独裁を「人民の委託」とする直接民主主義的な正統化が通用しないことである。維新政府を正統化する根拠は「万国対峙」への対応であり、「万世一系の神話」に基づく「天皇の信任」でしかなかった。だからこそ「玉」としての天皇を決して手放してはならなかったし、対外危機とナショナルな課題を高唱し続けなければならなかった。
「人民の信任」によらず、神話に依拠した「天皇の信任」に依拠したことをもって、これまでの多くの研究者は「反革命」的「絶対主義」的と評価した。

階級的・大衆的基盤をもたない「革命」派

維新政府は権力を集中し独裁的に政治を運営する「革命」政府の性格を強めた。中心になって、内外の課題を処理していたのは岩倉・三条の二人の公家と大久保・木戸・西郷ら幕末以来のリーダー、これに加え実務能力で台頭した由利公正(ゆりきみまさ)や大隈重信(おおくましげのぶ)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、井上馨(いのうえかおる)、大村益次郎(おおむらますじろう)山県有朋(やまがたありとも)、寺島宗則(てらしまむねのり)、五代友厚(ごだいともあつ)、江藤新平(えとうしんぺい)など洋学的素養や留学経験を持つテクノクラート、民政面での能力を持つ広沢真臣(ひろさわまさおみ)、松方正義(まつかたまさよし)たち、主に薩長土肥出身の「維新官僚」であった。
古典的なブルジョワ革命では、市民社会の成熟を背景に、啓蒙思想などの形の「革命の理念」がブルジョワジー中心に共有されていた。そのため革命指導者は「人民の名によって」と主張することが可能となり、自信と高揚感をもって、革命を進めることができた。これにたいし、明治維新は、基本的には市民社会と無関係にすすめられた。「革命」の理念は「屈辱」をバネにした「万国対峙」というイデオロギー的なもので、生産や生活に裏うちされた階級的要求に基づくものではなかった。大衆的基盤をもたない、ナショナルな課題を表に出しての「革命」であった。
「革命」政権の中心が、ブルジョワジーや小市民でなく、領主層の一派である中・下級諸藩士出身であったことは、かれらに自らの階級的基盤を掘り崩すという厳しい任務を課した。その結果、「革命」指導部の一員の多くが、「王党派」反乱たる士族反乱の指導者や反体制政治運動の指導者へ変身するという姿を多くみることになる。
思想家・大藪龍介(おおやぶりゅうすけ)は階級を「経済的階級」と「政治的階級」の二つの面から掌握しようとする考えを示した。これにならうならば、彼らは士族(武士)という「経済的階級」と、「万国対峙」という目的のために動く「政治的階級」の間で揺れつづけたといえよう。その分裂性をみごとに示したのが西郷隆盛であった。
階級的、大衆的基盤なしに革命的政策を進めるところに維新政府の不安定さがあった。頼りにできたのは「万国対峙(ばんこくたいじ)」という国家目標であり、伝統に依拠した「万世一系(ばんせいいっけい)」の「天皇の信任」のみであった。「天皇の信任」をうけ国家的課題に立ち向かうというアピール、そこにしか突破口はなかった。
しかし、こうした観念は明治初年において一般的ではなかった。したがって、こうした観念を人々の中に植え付けること、つまり天皇に服従する「臣民」としての「日本人」を創出する啓蒙絶対主義(けいもうぜったいしゅぎ)的なありかたが求められる。日本を「国民国家」的存在へ変えて、主権国家体制の中「文明国」=先進国クラブへの参加を勝ち取る、それが彼らの支配の正統化を担保するものとして、追求されることになる。

「開発独裁政権」としての維新政府

維新政府をナショナルな動機を引き金とする「革命政権」として捉えたならば、それを韓国の朴正熙(パクチョンヒ)政権やインドネシアのスハルト政権、マレーシアのマハティール政権、フィリピンのマルコス政権など第二次大戦後の開発独裁政権と対比することも可能である。
こうした政府は、植民地・半植民地におかれたことで生じた社会・経済的発展段階の未熟さを、権威主義的な開発によって克服しようとする。そのさい発生する矛盾をナショナリズムを高唱することで抑圧する。そしてナショナルな目的を掲げ、リーダーや組織に権力を集中し、目標実現のために国民を動員し、強権的な近代化政策を進める。こうして資本主義化を進める前提としての「資本の原始的蓄積過程」が強権的に進められ、阻害要因となる前近代的な生産様式や生活様式の「一部」は「野蛮」「未開」として捨て去られる。このなかで発生する矛盾を軍隊・警察という「暴力」に依存して対応するため、その強権ぶりはいっそう強まる。
「近代化」の目標は、あくまでも先進諸国と「対峙」し、地域大国となることにおかれるため、経済発展や軍事の近代化などが中心課題となり、法や司法制度の整備は形式的であり、基本的人権の確立や社会秩序の変革などは権力基盤を損ねないとして扱われる。言論出版の自由は抑圧され、思想信条などへの介入なども多く見られる。開発独裁の権威主義は、前近代的な身分的・階級的関係、家族制度、社会システム、旧来の思想や慣習などで権威づけられ、補完されるからである。前近代的な社会制度や思想の多くが先進国の制度の名称や装いで維持される。
教育や文化など「知的」開発もこうしたありかたに影響される。ときには、「先進国」以上に最新鋭の装置や技術が選択的に導入される。産業・科学・軍事などの技術などいくつかの分野では「先進国」をうわまわることも多い。新興国が軍事強国となったり、IT最先進国となったりするのは、こうした「後発のゆえの最先端」のためでもある。しかし多くは「世界最高」が「前近代」と併存する底の浅い「近代化」となる。
こうした「近代化」はある意味では「効率のよい近代化」である。それは、人権と環境、民主主義などに配慮する「効率の悪い近代化」を経て、その遺産をたっぷりと抱え込んだスピード感のない先進諸国を、ときには軍事や経済などでときには上回る。「八時間労働」とバカンスの権利を保障した西欧諸国は、家族経営のもと「二十四時間、働けますか!」の日本に地位を奪われ、その日本も人権問題が山積する中国に追い抜かれ、その中国も過酷な労働環境のなか低賃金と豊富な若年労働力を売りにするベトナムやバングラデシュ、ミャンマーなどの挑戦を受ける。
開発主義を推し進めることで、底は浅いが「世界最高水準」を一部手にした国々は、誕生のきっかけとなった「屈辱」感=ナショナリズムと「不安定さ」を背景に、近代化で先行してきた国々への挑戦者として立ち現れることがある。それを典型的に示したのが戦前の日本であった。
マレーシアのマハティールが「ルック=イースト」政策として日本の近代化モデルを取り入れようとしたように、開発独裁を進めた国々と明治期日本は多くの共通性を示している。韓国の朴正熙がみずからの独裁体制を「維新体制」とよんだことは象徴的である。ロシア革命後のソビエト政権やスターリン体制、社会主義・中国政府も、こうした性格を強く持っており、維新政府との親近性を見いだすことができる。
戦後、こうした開発主義は冷戦構造を利用して発展した。そして、現在は多国籍企業の世界戦略と結びついて維持される。しかし、それは近代化で先行してきた国への反作用を起こす。先進資本主義国では、生産拠点の国外流出がすすみ、国内では、雇用の劣化、不安定化・流動化を招き、社会の不安定化を産み出す。技術や経験の継承も困難となり、金融への過度の依存など経済の寄生化・腐朽化もすすむ。それによって「近代の価値」の「刃こぼれ」が発生する。反知性主義が広がり、人権と民主主義、個人の尊厳が嘲笑を浴び、ポピュリズムが猛威を振るい、独裁者が喝采され、社会の分断と対立が進む。

不十分な「ブルジョワ革命」、不十分な「近代化」

近代化は、つねに他の諸国、とくに先進国との関わりを視野に入れながら進められる。十九世紀の「ドイツ統一」が、イギリス製品流入を阻止する保護貿易政策の必要性によって供給されたように、諸民族は他の国を意識した政治的・軍事的・経済的な対抗手段をとりつつ近代化を進める。実験室の中で、一国だけですすめられるような近代化は最先進国をふくめ存在しない。
明治維新は、産業資本主義段階にある19世紀中期という時期、東アジア文化圏の「半周辺」で、「海禁政策」を背景に独自の経済・文化を発展させてきた日本が、近代世界システム=主権国家体制のなかに「半未開国」として包摂された「屈辱」をばねに「文明国」として認められようとして、一方では「万国対峙」というナショナルな課題を前面に押し出しつつ、他方で、幕藩体制下で積み上げられてきた資源を活かしながら近代化政策をすすめようとした「革命」であった。
「四民平等」が唱えられ、それまでの身分制度が解体され、さまざまな身分から、軍隊や産業さらには統治の現場への人材供給を可能となった。「地租改正」は近世村落を解体し、財政の近代化と近代的土地所有関係を実現した。「学制」導入で「国民皆学」がめざされ、「お奉行様」による「お裁き」は法律に基づく裁判制度にかわり、警察制度も整備された。
他方、身分制度は天皇・皇族・華族(のちに爵(しゃく)位によってランク付けがされる)・士族・平民という新たな身分に再編成され、家父長制的な家族制度が社会の根幹とされた。農村も、寄生地主制下に置かれ、有力地主=名望家を中心とする自治制度に再編成された。教育はさまざまな変遷を経ながら、最終的には教育勅語を基礎とする国家主義的な形に収斂する。形式的には近代化された法体系も、拷問による取り調べは維持され、生命軽視の監獄や囚人労働が公然と行われ、ついには思想・信条すら犯罪対象とされ、取り調べ中の「殺人」は実態として「合法」化される。
このような日本の「近代」は欧米基準からみればきわめて「前近代的」であった。これが形式主義的な単型発展論と結びつき、日本「近代」は「半封建制」であるとの理解が広がった。戦前の講座派理論以来、戦後にいたるまで、こうした理解が日本の社会科学では優勢であり、ブルジョワ民主主義の実現が求められた。
しかし、戦前日本の「前近代性」「半封建性」は「万国対峙」という目標実現のため、それまでの「資源」を活かしてスピードアップするという「無茶」が背景にあったのであり、同時に確たる階級基盤を持たない開発独裁政権である維新政府が自らの正統性を「万世一系の天皇」に求めた所に根拠があった。このような日本近代は「特殊な」ものではない。後発国の「近代化」に最も早く成功した例であり、同時に「失敗」した姿をも示すことになった。

導入された「近代化」と、否定された「前近代」

維新政府がめざした「近代国家」には近代的軍隊が必要であり、政治・経済における中央集権化とそれを律しうる統治機構が不可欠であった。産業資本主義も必要であり、それを担いうるブルジョワジーも必要であった。法学・政治学・経済学などの知識も不可欠であり、それを学び実践する国家官僚や企業官僚を育成する必要があった。軍事官僚(軍人)はいうまでもない。
西ヨーロッパにおいて「近代化」は、貴族階級や教会との間での物理的・イデオロギー的なたたかいのなか、試行錯誤の結果、達成された。日本では数百年かかった過程をわずかな期間で、より早く、より効率的にすすめようとした。そこに多くの矛盾が発生した。政府に有益な「近代」は急速に導入されるが、「効率」面で障害となるなど「時間のかかる近代」は後回しにされ、ときには意図的に排除された。「近代化」の障害となる「前近代」はおとしめられ否定され破壊されるが、「近代化」に役立つ「前近代」は残され、ときには奇形的に発展させられる。
否定されたものとしては、幕藩体制という政治体制・社会秩序、封建的身分制度・秩序、封建的重層的土地所有関係、相互扶助と相互監視を基礎とした近世村落共同体、使い物にならず無用な出費を強いる軍人=「武士」集団、土俗的な民間信仰や慣習。そして華夷(かい)秩序をもとにした東アジアにおける東アジア中華帝国の枠組みなどが上げられる。

保留された「近代化」~憲法・議会・自由主義

「文明国」の一角に食い込むうえでは当初から必要とされながらも、導入が猶予され、「骨抜き」にされ、部分的にしか導入されなかった「近代」もある。議会制度、憲法と立憲主義、法治主義、自由主義。これらの導入をあとまわしにしたことが自由民権運動の広がりへとつながる。
伊藤や大隈といった第二世代の指導者だけなく、大久保や木戸、岩倉といった第一世代の指導者にとっても、こうした「近代」の「導入」は必要不可欠なものと認識されてはいた。しかし、「開発独裁政権」としての維新政府を維持し、「富国強兵」や「官僚制」の整備などにとっては障害でもあった。そのため、導入は遅らされる。
議会制は、「参加のオールジャパン」としての「公議政体」論を欧米近代社会の理念の中に復活させる性格を持っており、「五ヵ条の誓文」の理念にもつながる。さらに「天皇の信任」というトップダウン的な権威のみによって正統性が担保されている政府を、「国民の信任」というボトムアップ的な正統性によってより強固なものとできる。しかし、維新政府がまだしっかりとした社会的な支持、階級的基盤の上に立っておらず、自らの基盤を新たに作り出していく過程において、その導入は非能率として、いったん否定され、導入を約束しつつ、保留状態におかれる。
これを不当と考えたのが、自由民権運動である。新政府側も、民権側も、欧米的な近代化をすすめることに異存ない。しかし「欧米的近代化」の「どの側面」に重点を置くのか、さらに方法・手法などをめぐって対立していたのである。開発独裁政権たる政府にとって、早期の議会導入は「革命政権」としての力を削ぎ、変革を停滞させるものと考えた。
しかし、国家の基盤がさだまり、国家権力における執行権力のヘゲモニーが確立できれば、逆に地主階級やブルジョワジーを権力基盤に組み込むことが国家の正統性を担保するものともなる。したがって、こうした国家機関に設置は保留されたのであり、権力が安定してくれば保留は解除され利用されるべきものであった。
また、こうした機関の存在は「近代化」「欧米化」のメルクマールと見なされることを維新政府のリーダーたちも理解しており、「条約改正」の不可欠の要素として理解していたことはいうまでもない。

無視された「近代」の理念~国民主権・基本的人権・平等

最後まで排除されつづけた「近代」の理念がある。国民主権であり、基本的人権とりわけ「個人の自由」の観念であった。言論出版の自由は制限されつづけ、思想信条の自由も実態として認められなかった。個人主義は非難されるべきものとされた。
明治憲法が制定され、帝国議会が開設され、形式的には近代国家となったにもかかわらず、個人の尊厳や婚姻の自由は否定され、家父長制的家族のあり方が「法」的に強要させた。教育勅語などの家族国家的イデオロギーが教育などを通じて注入され続けた。昭和期には個人の「思想信条」が刑法犯の対象にすらされた。法治主義を称しながら「法治」は確立しなかった。憲法が国家権力をしばるものであるという立憲主義の観念も不十分にしか認められなかった。
「基本的人権」は個人の尊厳を基礎とする人権ではなく、法によって制限をうける「臣民」への「恩恵」としての権利に過ぎなかった。当然のこととして、「平等」という観念も認められず、「生命の尊厳」も軽視された。
「四民平等」のスローガンで進められた身分制解体は、天皇制に基づく「皇族ー華族(のちにこの内部に爵位という身分も創設される)ー士族ー平民」という新たな身分への再編成に他ならなかったし、旧えた身分などへの手立もおこなわれず、このことが部落差別を残すことにつながる。
江戸時代、たてまえの面も持っていた上層身分における家父長制的な家族制度は「日本の美徳」として賞賛され、家族国家イデオロギーや家族的経営といった形で、江戸時代とは違った形で残され、女性差別の法的根拠ともなった。

「日本型『原蓄』過程」~農村社会の解体・再構築と戦前日本型資本主義

地租改正などの改革は重層的に組み立てられていた土地所有権を近代的土地所有関係に一元化するものであり、「四民平等」などの改革とともに、農民の「百姓身分からの自由」を実現させた。
さらにこうした改革は、村請(むらうけ)制を基礎とする「百姓成立(ひゃくしょうなりたち)」の仕組み、近世における農業再生産の構造=セーフティーネットを解体し、農民の没落の自由、マルクスのいう「生産手段(=土地)からの自由」を促進した。この過程は1880年代の松方デフレの中で急速に進展した。こうして「二つの自由」を得た大量のプロレタリアートが出現した。一部が都市へ移動し都市下層社会を形成したが、大多数は農村に残り小作層を形成した。
近世村落の中核であった自作農が減少し、小作農や自小作農と言った零細農民が多数となり、他方で寄生地主を頂点に在地の大地主、中小地主・上層自作農がそれにつぐという形の農村ヒエラルキーが形成される。これまでの近世的村落秩序は、経済的には地主小作関係、政治的には地方名望家による地方・村落秩序維持という新たな秩序に組み替えられる。それは、資本主義経済が未発達であるにもかかわらず上からの急激な資本の原蓄過程を強行したことから生まれた「半封建」的な地方秩序であった。
明治国家は、こうしたヒエラルキーの上層部分を地方名望家として組織化し、自らの支配秩序の中に組み込もうとする。自由民権運動から政党結成、さらに初期議会における「民力休養」「政費節減」を求めるたたかいは、こうした農村指導層が、自らを国家に組み込むための闘争という性格も持っていた。
農村は、都市などへヒエラルキーに対応したさまざまなタイプの労働力を供給していく。上層部分からはブルジョワジーや官・民の高級「官僚」や知識人などを、中層部分からは熟練労働者や店員、下士官たちを、下層部分からは車夫や日雇いといった雑業従事者、炭鉱夫やタコ部屋労働者、製糸業や紡績業への工女たちを。こうした振りわけに、整備されつつあった教育制度が大きな影響を与え、学歴の差が職業の差として位置づけられるという「近代」の論理によって正当化される。
小作料として集められた資金は、銀行など間接金融を経由したり、株式投資や起業といった直接投資の形をとったりしながら、インフラや商工業へ投資される。農村の「富」はもちだされるだけで、農村に用いられることは少なく、農村には貧困が日常化する。
こうした「半封建的」と評される農村秩序が戦前日本社会や日本資本主義の性格を規定した。農村における半封建的な秩序は、工場に持ち込まれ、低賃金・長時間労働・奴隷的な労務管理にもとづく労働現場を作り上げた。そこでえられた安価な工業製品が戦前の日本資本主義の急速な発展を促し、その収益が軍艦や軍需工場などに姿を変えて日本の軍国主義化・帝国主義化を支えた。
講座派が強調した諸点、それは封建制的な遺物ではなく、「万国対峙」というテーマにそって解体され再編成された農村秩序と資本主義が融合しつつ再編成されたシステムであった。

人民に依拠できない「革命」と天皇制イデオロギーの創出

「国民」やいずれかの階級による「信任」という正統性を期待できない政府が統治を維持できた理由は「天皇の信任」という権威から与えられた正統性であった。
ただ若い天皇が、薩長を中心とする政府を本気で信任していると思っている人はそんなにいたとは思えない。そもそも、武士や有力農民・町人、京都やその近郊に住む人間を除いて、民衆の中で天皇の存在がどれだけ浸透していたかすら疑わしい。政府が自らの統治の正統性をより確実とする「日本の支配者」としての「天皇」神話を「万国対峙」と結びつけて「創作」し、浸透させるしかなかった。「万世一系の天皇」神話が「万国対峙」の危機意識に対抗するナショナリズムの結節点に位置づけられ、植え付けられ、定着させられた。
この手段として導入されたイデオロギー装置が、国家神道であり、「家族国家」思想であり、天皇中心に再編された「身分制」であり、天皇制を中心に再編成された祝祭日などさまざまなイベントであった。
ナショナリズムの結節点として「国家の主権者」として近代的な「天皇」が「創作」される。御所の奥に鎮座する「お内裏(だいり)様」としての前近代的な「天皇」像にかわり、いかめしい軍服に身を包んだ帝王がつくられた。女官や公家たちが天皇の周囲から排除され、無骨な武士や漢学者などが集められた。東京遷都はこうした天皇改造の一環でもあった。こうしてグローバルスタンダードとして通用する君主=「明治大帝」がつくられる。

小括・「天皇の信任」という政権を正統化する「神話」

開発独裁政権としての維新政府の正統性の根源は「天皇の信任」であり、その正統性は戊辰戦争で暴力的に承認させる。幕末以来の歴史は、「万国対峙」という国家課題と、「破約攘夷」の明治版である「条約改正」「富国強兵」「文明開化」=欧米化などの国家的目標に、否定しがたい正当性を付与していた。政府は、こうした正当性を主張しつつ、軍隊・警察といった国家暴力装置や幕藩体制にかわる地方行政組織・中央集権的官僚制度などを整備していく。そして、西南戦争で軍隊と警察の暴力が封建的軍隊を圧倒したことで相対的な安定状態をつくりだすことに成功した。こうして、維新政府は「明治国家」としての安定感を増していく。
士族反乱という力による抵抗にかわっって活発化したのが自由民権運動である。かれらは「薩長による藩閥政府」との批判を繰り返すが、天皇中心のオールジャパンで「万国と対峙」しつつ「近代化」を実現するという枠組みは政府と共有しており、「天皇の信任」という「玉」をにぎった政府を完全には否定しきれなかった。だからこそ、政府が導入を保留している近代化のもう一つの柱「自由・民主主義」とくに議会制の早期実現に要求を集約し、政府批判をくりかえした。いわば幕末以来の「オールジャパン体制の確立」の明治版として打ち出したのである。
国会開設=オールジャパン体制の樹立は、身分制の縛りから解き放たれた農村指導層やブルジョワの政治参加という要求を実現させうるスローガンとして受け止められた。士族に担われていた運動は農村の好景気を背景に農村指導層らによって支えられるようになってくる。
他方、明治0年代の混乱が収まり、近代化が軌道に乗るなか、政府にとって、「近代化」の成果を示す上でも、農村指導層やブルジョワジーの支持を確実にする意味でも、議会開設・立憲政体の樹立は逃れきれない課題であった。自らも否定しきれない要求を展開する民権運動が勢いをますなか、明治国家を支える官僚たちは正統性の裾野を広げ、「下から」の支持を確保しようと考えはじめる。ここに、憲法制定、議会制度導入などをめぐる駆け引きが行われることになる。

つづく

<目次・リンク>

  1. はじめに~近代日本をどう捉えるのか
  2. 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
  3. 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
  4. 「開発独裁」政権としての維新政府
  5. 「明治憲法体制」の矛盾と展開
  6. 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
  7. 戦時体制下の「革命」と戦後社会
  8. 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望
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