Contents
戦時体制下の「革命」と戦後社会
~日本近代史のとらえかた(6)
<目次・リンク>
- はじめに~近代日本をどう捉えるのか
- 幕藩体制と「国民」の萌芽的形成
- 幕末の政治過程(「オールジャパンをめぐる抗争」)
- 「開発独裁」政権としての維新政府
- 「明治憲法体制」の矛盾と展開
- 権力中枢の「空洞化」と政党内閣
- 戦時体制下の「革命」と戦後社会
- 近代社会をどう捉えるのか~総括と展望
戦時下の「革命」!
昭和恐慌の発生は戦前を通じての最大の輸出産業であった製糸業に壊滅的のダメージをあたえ、米価の暴落もあって農村の荒廃をすすめた。さらに1931年の満州事変の開始にともなう準戦時体制の構築の必要性は、寄生地主制下の農村などの低賃金労働力を基礎とする繊維工業を中心とした経済構造を一掃し、近代戦争・総力戦体制を遂行しうる重化学工業化の巨大化を迫るものとなった。その急速な変革は財閥独占資本いわんや寄生地主らの支持や自発性さらにはかれらと結ぶ政党勢力の路線変更をまっていては維持できないものであった。ここに再び執行権力の暴走が始まる。
1937年の日中全面戦争の開始は、戦時体制の構築、それにともなう総動員体制への移行という至上命題をとりわけ執行権力側に与えた。かつての「万国対峙」というスローガンが「戦争遂行」という形をとって再び出現した。戦場での需要を満たさねばならないという至上命令と軍部の暴力が圧倒的な権限を執行権力側に与えた。国民精神総動員運動がはじまり、植民地を含めすべての「国民」に戦争協力が強要され、異論を許さない社会・文化・思想統制が生み出された。国家総動員法は、戦争遂行に最適な社会・経済構造の再構築の権限を執行権力側に与えた。
セクショナリズムで分断された執行権力は戦争目的の遂行という目標の下で再統合され、本音はともあれ協力を強要され、旧来の法秩序や社会体制、財閥・地主といった社会権力、議会や政党も、場合によっては内閣すらも、あまり配慮せずに革命的ともいえる改革の実施を可能とした。
産業においては、兵器生産にかかわる重化学工業化が最優先され、人材も資源も傾斜的に配当された。国家とくに軍部の命令で資源が配分され、多くの企業は合併や閉鎖を命じられ、財閥などの枠にすらとらわれない巨大企業が生まれ、逆にこれまで日本を支えてきた製糸業などは退場が命じられた。
配給制や戦地への食糧供給の必要によって、米は地主を経ることなく政府が直接生産者から獲得、その補償額の低さもあって寄生地主制は崩壊の道をたどる。また成人男子が戦場に送られることに対応し「銃後の憂いを絶つ」ため、あるいは傷ついて帰ってきた兵士に対応すべく社会保険制度が検討される。企業ごとに産業報国会の支部が結成され、事務職と製造職の壁を超えた同じ職員としての結びつきが強調される。他の職業から家族持ちの年配の労働者を受け入れたことが給与の性格を職能給から生活給へ変えた。
統制経済と「福祉国家」的改革は、寄生地主や財閥の利害にも反する内容を多く含むものであり、それまでの体制ではとうてい実現しがたい「革命」的性格ももつものであった。しかし、そうした反発は「戦争遂行」というスローガンが抑え込んだ。
こうした戦時経済をになったのはおもに経済官僚からなる革新官僚とよばれる人々であった。その多くは直接的・間接的にマルクス主義の影響をうけていた。かれらが植民地「満州」において試験的に実施した政策が国内にもちこまれる。
「戦前」の一掃と「近代の理念」の達成?!
1945年の敗戦は、戦時体制という「革命」から、アメリカ占領下での「革命」という段階に、日本を移行させた。
地主や財閥ブルジョワジー、そして戦争終結に動いた吉田茂ら「自由主義」派の政治家はアメリカが明治憲法体制の「ガン」軍部を除去することで、一九三〇年前後の政党政治の時代へもどれると夢想していた。しかし米軍占領はそのように甘いものではなかった。日本の指導者たちは、自分たちがアジア・太平洋地域で行った「行為」が世界に与えたことがもたらしたものを理解していなかったといえる。
世界は自分たちを苦しめた日本軍国主義を根こそぎせねば許さないし、その復活をけっして許さないとの気持ちが充満していた。日本軍国主義の社会的基礎を寄生地主制と財閥ブルジョワジーによって支えられた絶対主義的天皇制の存在に見いだすという講座派マルクス主義の影響も広がりを見せていた。
逆に、戦前の帝国主義の復活をめざすイギリスは、この機会に手強い競争相手である日本を弱体化し、日本製品を排除することでアジア市場での復権をもねらっていた。米英の東アジアにおけるパートナーは「蒋介石率いる中国」でなければならず、その援助を日本の工場の設備の移出という賠償で実現しようと考えていた。日本は、平和的な小国、「東洋のスイス」でなければならなかった。
たしかに、戦前日本における「がん細胞」ともいえる軍部は占領軍によって「切除」された。しかし占領軍は返す刀でその培養地であり、明治以来の社会基盤でもあった寄生地主と財閥の解体をすすめた。農地改革によって寄生地主制は消滅し、財閥家族の経営によって前近代的な企業統治は企業グループへと姿を変えた。
軍国主義を払拭するという世界の人々の思いは、戦前の日本が採用を拒んだ国民主権と基本的人権という「近代の理念」を、戦争放棄・戦力不保持という平和主義とともに、日本国憲法の三原則としてくんだ。
帝国憲法体制に見られた統一性を欠き制御不能に陥った国家の諸機関・装置は、主権者である国民が選出した議員によって構成される国権の最高機関である国会の下に統合され、国会が指名した内閣総理大臣が行政の長として執行機関を率いる形をとった。こうして戦前日本の無責任体制の原因となっていた権力中枢における空洞が形式面には消滅し、諸機関の間での相互制御のシステムもうまれた。
幕末の混乱の中で、オールジャパンを体現する「主権者」として位置づけられ、開発独裁とそれにつづく統治権力専制、国家機関・諸装置のセクショナリズム、軍の暴走などなどを正統化してきた天皇制はそうした機能を剥ぎ取られ、象徴天皇制として位置づけられた。
戦後改革は日本社会を大きく変化させた。ファシズム・軍国主義によって大きな被害を受けた人々の思いが、占領軍への大きな圧力となっていた。憲法九条にしめされた戦争放棄・戦力不保持といった「過激な」内容を受け入れなければ、世界の人々は天皇の戦犯指定を要求し、天皇制存続も許してくれないであろうという米占領軍の判断も背景にあった。この判断は、「万世一系の天皇」伝説、「老舗としての天皇制」の生き残りに精力を傾けていた裕仁天皇も共有していたと思われる。
戦前・戦中からの連続性と官僚
戦後改革の事実上の出発点といわれる1945年10月の「五大改革指令」を、当時の首相幣原喜重郎はそれほどの驚かなかった。なぜなら、幣原の主観において、その多くはすでに取り組まれはじめていたと感じたからだといわれる。
ポツダム宣言には「日本国国民における民主主義的傾向の復活」という一節がある。この一節は多義的な意味を持っている。幣原や吉田らはこれを政党政治期の回復として捉えた。そして五大改革指令もこの時期の改革の延長線上で考えていた。
しかし、民主主義の理念というならば、日本国内における自由民権運動・大正デモクラシーといった「参加のオールジャパン」=「下からの『国民国家』建設」をめざした民主主義的な伝統が「地下水」となっている。こうした傾向の復活としても捉えうる。それが連合国が持ち込んだ理念を結合したともいえる。
他方、民主主義・自由主義という理念と対極にあった「聖戦遂行」という理念のもとで進められた戦時期の諸改革も戦後改革を準備していた。農地改革や財閥解体は、戦時下の改革の中で道筋が付けられていた。戦争に最適な政策の追求は、戦前の日本の非合理的な経済・社会システムを生き延びさせることを許さなかった。戦時下の急進的で不可逆的な改革は、非軍国主義化と民主国家建国という連合国の要求にも「現代国家」のありかたにも合致していた。「五大改革指令」に示された内容の多くは戦時下の改革の中ですでに準備されていた。
敗戦、植民地の喪失、悪性インフレという戦後の混乱も、戦時下の非常措置と同様の非常措置の実施を求めていた。「都合のいいことに」戦時下で「戦争遂行」の「革命」を実質的に担った官僚たちの多くが職場を追われることなく役所の中に残され、今度は「祖国復興」というスローガンのもとで「専門性」を生かし「職務」に専念しはじめていた。かれらの多くは間接統治という占領政策によって、以前の職場を奪われることなく役所内に残っていた。トップの数人が「公職追放」されたことが若手官僚らのより自由な活躍の場を与えた。しかし、そのまま職場に残ったことは、役所の古い文化をも引き継ぐ。
戦前の手法の継続を許されなかった政治家たちはあらたな事態に対処しうるブレインが必要であった。アメリカとの協調を強いられた吉田茂は有能と考えた官僚を次々と政治家として誘い、初当選で大臣の地位につけるなど、積極的に彼らに仕事を与えた。官僚たちは政治家による強い後押しを得ることになる。
「戦前・戦中」と「戦後」の融合と対決
1947年以降急速に進んだ東西冷戦によってアメリカの占領政策の重点は、軍国主義の一掃と自由化・民主主義化から、アメリカの国益と西側陣営の利害に従属させるという方向に変化させた。とくに1949年の中華人民共和国の成立以降、日本を「東洋のスイス(=小国)」とする政策はあまり語られなくなり、逆に極東におけるアメリカのパートナー、西側の後方支援地・軍需工場とする方向へと移っていった。こうした政策変化は、官僚主導で日本の工業化を復活させようという日本側支配層の政策と合致、自らをアメリカの世界政策に従属させることで戦後復興と経済発展を図る戦後日本の政策が形成される。そこに戦時体制下ですすめられた諸政策が組み込まれていく。
特定の分野に対する資源の集中的な投入(傾斜経済政策)、政府による経済計画の策定と経済界・企業への行政指導と銀行などの護送船団方式、健康保険制度と年金制度、米穀配給制度、農地解放=自作農創設制度、農業協同組合といった制度が受け継がれ、採用され、定着していく。大企業文化の中に、戦時期にはじまる企業別組合と生活給(→年功序列制と終身雇用制)が取り入れられていく。
こうして戦時下の諸政策が、あるものはそのままに、あるものは「ラベル」のみ貼り替え、占領軍と政府の保護・支援を得て、戦前以上に力を増した官僚たちのもとで推進される。
計画経済や企業への行政指導、財政資金や財投資金の投入などによる産業育成といった形で官僚主導ですすめたことは、維新政府以来の強力な執行権力を、その中心を経済官庁にうつしつつ戦後に引き継がせることとなる。こうしたことを背景に、戦後の高度経済成長と経済大国化が準備されていく。
冷戦の進行のなかで、広義の財閥解体など日本側と対立する政策を事実上中止される。戦争責任の追及も「七人の処刑」のみで幕引きにされ残りの容疑者は釈放され、公職追放の解除もすすむ。こうして復活された、戦争に責任をもつべき人々が執行権力への復帰をはたし、共産主義陣営との対決色をつよめるアメリカと結び、戦前の体制への回帰をはかろうとする。
こうした際、もっとも障害となったのが、戦後改革を経る中で湧出してきた民衆の力であり、軍国主義に反対する世界の世論を背景に制定された日本国憲法であった。
(つづく)
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