2_「村」と「稼ぎ」~「村人」を支えたもの


Contents

「村」と「稼ぎ」=「村人」を支えたもの「百姓成立」その成立と展開、崩壊(2)~

「百姓成立」その成立と展開、崩壊
1.近世「百姓」の成立と「百姓成立」
2.「村」と「稼ぎ」=村人をささえたもの(本稿)
3.幕末・維新期における「百姓成立」

 

「百姓成立」を支えたもの

秀吉政権から江戸初期、「武士」を中心とする領主階級は「村」同士の争いを鎮め、灌漑(かんがい)や新田開発など耕地開発につとめ、不作や自然災害があれば「救い米」など社会福祉「仁政」政策)をとって「百姓」の生活と生産の再生産を維持しようとした。これを「百姓成立(ひゃくしょうなりたち)」政策として捉えることが出来る。こうして「略取」と「再分配」の構造を維持しようとしたのである。
しかし領主側が準備したものは、あくまでも「百姓成立」の構造=外枠をつくるものにとどまり、現実の「百姓」の生活と生産の再生産(「百姓成立(ひゃくしょうなりたち)」)は百姓らの共同体である「村」と個々の「百姓」に努力にゆだねられていた。

「村」における「百姓成立」~扶助構造と質地小作の展開

村」は、一方では中世の「惣」の伝統を受け継ぐ百姓の自治組織=共同体として、村に居住するさまざまな「家」とその構成員を保護する扶助構造を内包していた。
他方では、領主階級の代理として年貢の徴収・納入を請負い、様々な「役」の負担に応じ、さらに領主の指示をも受けて「村」内や地域の治安維持活動を請け負い「百姓成立」を実現する「公儀」システムの末端に位置づけられていた。

「公儀」システム末端としての最大の仕事は村請制」として知られる年貢納入の仕組みである。各「村」は検地によって定められた村高(むらだか)と検見(けみ)によって確定された年貢額を領主から通知され、持ち高にしたがって個々の百姓に割り振り、納入させ、それを一括して期日までに皆済することが求められた。
しかし、太閤検地などによって新たに「百姓」となった小百姓たちの経営は非常に危ういものであり、年貢の皆済のために、「村」は様々な仕組みで彼らを支えた。入会地や用水の共同管理・共同使用が認められ、「結い」などとよばれる労働力の相互提供、「牛組」などによる牛馬の共同保有など、経営と生活を扶助するシステムが存在した。一軒一軒の百姓の年貢などをサポートするため、数家族の年貢負担者をグループ化して代表して納めさせる分付組という制度をもっていた村などもある。
領主による連帯責任・相互監視制度としてネガティブにとらえられがちな五人組も、分付組や牛組といったそれ以前の農民同士の扶助システムを基盤にできたとも考えられ、扶助構造の一環という側面も持っていた。このように経営困難が年貢(ねんぐ)未進(みしん)を招き、最終的には「つぶれ」となる百姓をなくすために、「村」内には多くのセーフティーネットが組み込まれていた。
近世農村形成期以来、年貢「未進」となる百姓は、つねに一定数存在した。「村請制」がある以上、こうした「未進」は原則として村内で処理せねばならない。こうして村役人を中心とする有力百姓による「未進」分の立替がおこなわれる。これは「未進」した百姓が有力百姓から借銭をおこなったことになる。
渡邊忠司の研究によると、大坂近郊の農村では、毎年年末になると様々な家財道具を大坂市内の質屋に持って行き借銭をし、年貢皆済、肥料代の補填など一年の決済をしていたことが明らかにされている。
村役人など村内外の有力百姓や金貸しに田畑を質入れして、年貢の不足分や家計維持を行うことも行われた。質入れされた土地はしだいに有力農民や金貸しのものとなり、元も持ち主は小作となったり、土地を失うこともある。こうしたやりかたは「田畑永代売買の禁」に反する行為と見なされそうではあるが、実際には広範に行われていた。この禁令自体、どれだけ実効性があったのか、疑問が持たれている。
しかし質地の期限を大幅に過ぎ、子孫の世代となり、権利者が変更されている場合であっても、元金を返済すれば田畑を取り返すことができるという「村」の暗黙のルール(「無年季的質地割り戻し慣行」)が明治初年まで、多くの地方で存在していた。田畑の質入れに対しては「村」の許可が必要であり、耕作している土地を交換する「割地」慣行が残る地域も広く見られる、入会地の共同保有・共同利用のように、「村」の土地の保有については「村」が深く関与しており、近代的土地所有とは大きく異なるものであった。

「百姓成立」の対象としての「村」と「農民」たち

「村」にはいくつかの顔がある。一つは検地帳に土地保有を記載された「高持(たかもち)百姓」の「家」の共同体である。
渡辺尚志は農村における本来的な「百姓」を次のように定義する。

「土地を所有して自立した経営を営み、領主に対し年貢などの負担を果たし、村と領主双方から百姓と認められたものに与えられる身分誇称」でした。(渡辺「百姓たちの幕末維新」)

正式の定義をすれば、家族と親族、さらに村と領主が認めた「家」共同体の長をさす身分のみが「百姓」である。他の構成員(家族)は「百姓女房(にょうぼう)」や「百姓倅(せがれ)」「百姓隠居(いんきょ)」という身分である。他方、高持百姓の寡婦は「○○後家(ごけ)などと表記される身分であり、「百姓」代理の扱いとされる。
このような「百姓」が「寄合(よりあい)」で「村」の運営を決め、「年貢」や「役」を「持ち高」にしたがって配分・負担する
「高持百姓」とはいうものの、戦国の武士や地侍の系譜を引き、百石にも及ぶ持高をもち村役人を世襲する大高持(おおたかもち)もいれば、自作の限界とされる五反五畝(大石久敬「地方凡例録(ぢかたはんれいろく)」による)を下回り、田畑からの収入では農業経営を維持できない小前(こまえ)百姓もいた。こうした小前百姓は、百姓の全体の1/2から2/3近くにものぼる。
しかし、村を構成するのはこのような「高持百姓」の「家」だけではない。無高(むだか)」「水呑(みずのみ)」など小作や「賃稼(ちんかせ)ぎ」などによって生計をたてている農民がいる。かれらは、年貢や「役」の負担は免れるが原則として「村」政には参加できない。しかし「五人組」といった組織には参加し「村役人」→「寄合」といった「村」政の支配下に置かれ、「村」民として一定の役割を求められた。また有力百姓は「名子(なご)」「被官(ひかん)」などとよばれる隷属民をもかかえていることもあった。
そして、それぞれの百姓など村人の「家」には家族がいる。こうした総体が「百姓成立」の対象となる「村」であり、身分社会の積み重ねの基礎となる「袋」となっている。
「村」、とくにリーダーたる村役人はこうした「村」の住民の生活と生産に対して責任を負っていたのである。
いくつかの「村」は、「えた」身分の集落を「枝村(えだむら)」として付属していた。「えた」村の多くは実態として独立した「村」であり、領主からの直接的支配と「えた頭」の「家元」的支配を受ける一方、年貢や一般的な連絡など「地域」的支配は「本村」を通して行われた
また村の寺には僧侶がおり、神官がいる神社もあり、いずれも本山などの「家元」的支配の下におかれていた
身分社会の「袋」としての「村」はこのように多様な住民が居住し、多くの対立や矛盾を抱えた存在であった。こうした人々の生活を維持し、治安を安定させることも「村」の役割であった。

「稼ぎ」~「百姓」の生活を支えたもの。

 このように実際の江戸時代の「村」は「米納年貢を中心とする、農業専一の民である百姓」の共同体とはいえない。米作、さらには農耕だけでは生活を維持できない下層農民(持ち高の少ない小前「百姓」や「無高(むだか)」「水呑(みずのみ)」など)は「村」による様々な扶助構造によって保護されつつも、農耕以外の稼業にも従事して生活を維持していた。こうして実態としての「百姓成立」が維持されていたのである。
なお、持ち高では下層「百姓」や「無高」であるが、実際にはそうとはいえないケースがある。幕藩体制下「武士と町人・職人は都市に住み、農村は百姓の居住地」というのが建前となった。このため、漁村や山村の人々も、在郷町の商人も職人も、「百姓」として、ひとくくりに処理された。これにより、本来なら、漁業や林業あるいは商業や手工業が本職で、農業を「稼ぎ」としてとらえるべき人々が、百姓は「農業専一」という建前から逆転した形でとらえられ、田畑の広さにしたがって「小高持」や「無高」として書類上、現れる。こうした矛盾は村請制という枠組みにより村内で解消されていたと考えられる。
下層農民たちの生活を支える中心の稼業が小作である。中世の地侍層を出自とするような有力百姓(「大高持」)の土地を借りての小作経営は近世当初より存在したが、時期が下ると自らの土地を質地として差し出す質地小作制がさかんとなる。
下層農民だけでなく、おおくの農民がかかわっていたのが「稼ぎ」である。深谷克己は「稼ぎ」を「農耕作業とはちがうが必要な諸雑業」と定義づけている。これについては、のちに詳しく見ていく。
賃労働=「賃稼ぎ」も重要である。広い田畑を持ち「手作り経営」を行う「大高持」はもちろんのこと、米作のみで経営を維持できる限界程度の自作農家でも、時期によって労働力不足が発生した。住民間・親族間での労働力の融通もあったが、多くは「無高」「水呑(みずのみ)」などの労働力の購入によって労働力不足を解消していた。「村」に賦課される「役」なども下層農民の「稼ぎ」に位置づけることで、自作層らは実態として「役」を免れることが多かった。「賃稼ぎ」はわれわれが考える以上に大きな役割を持っていた。

「自分づかい」から「不慮なる稼ぎ」へ

前近代における農民は自給自足が原則であり、衣食住にかかわる物資は可能な限り自家で、あるいは「村」など周辺で調達していた。兵農分離によって、「職人」たちがいったん「都市」へ去ったあとも、米作などの農耕のかたわら、農耕以外の仕事にも従事する「住民」が存在することで、自給自足の欠乏分を補完した。
 さしたる特技をもたない農民も「自分づかいの稼ぎ」に取り組んだ。縄ない、糸取り、薪取り、炭焼き、ぞうりづくり、「魚取り」「貝拾い」、さらには大豆や小豆、野菜栽培のなど米作以外の栽培もある意味ではこれに含まれる。「慶安触書(けいあんふれがき)」でいう「晩にハ縄をない、たわらをあみ、・・・」で想定されていたのが「自分づかいの稼ぎ」である。
「自分づかいの稼ぎ」の剰余分は、当初は周辺への人々への贈与や交換に用いられ、つぎには一部が販売され、ついには金銭を得て「渡世の足し」とする「不慮なる稼ぎ」へと発展した。鍛冶(かじ)・大工(だいく)・紙漉(かみすき)・木挽(こひ)きなどの職人的な仕事に従事する農民が生まれ、たばこを栽培したり、紙すきや養蚕・機(はた)織り、製茶などを「余業」とするといった例が十七世紀段階、とくに後半から散見しはじめる。さらには「日雇稼ぎ」、城下での行商露天販売、口減らしのための住み込み年季奉公(ねんきぼうこう)などもおこなわれる。
「百姓成立」における「稼ぎ」について深谷克己は以下のように位置づける。

「重い年貢のもとで小農経営を維持するためには、村役人や上層農民からの借金も必要だし、領主の「御救(おすくい)」も必要だし、村内の農民同士の助け合いも必要だが、もう一つ、諸稼ぎによって経営を助成していくことが必要だったのである。無年貢にしてでも稼ぎ仕事の収入を得させ、「本途物成(ほんとものなり)」といわれる基本の年貢を上納し続けられるような百姓を作らなければならない。百姓経営を「成立」たせ、その土地にしっかり「有付」け、しかる後に「取立」てるのでなければ、権力がよって立つ社会の基礎そのものが崩壊してしまう」(深谷克己・川鍋定男「江戸時代の諸稼ぎ」)

「慶安触書」は「一、少ハ商心もこれ有りて、身上持ち上げ候様に仕るべく候」とのべ、延宝七年十月三日の触書では「一、耕作常々精出し、作之間は男女ともに相応之稼いたす申すべく候」とのべている。「稼ぎ」からの収入に依存することで、実態として年貢納入が滞りなくおこなわれ、「百姓成立」が実現していることを、領主たちも理解していた。

「百姓成立」と「仁政」、百姓一揆

このように「農業専一の小百姓が米栽培によって年貢を負担する」という理念型としての「百姓成立」は、実際には成立したことがない。
実際には、小作と借金、賃労働などの「稼ぎ」という理念型に反した要素の力を借りることで、自作・農耕のみで経営が困難な小規模の「百姓」、「無高」「水呑」といった住民を含みこんだ「村」での「百姓成立」が実現、「村」という「袋」が完成していたのである。「袋」の中には様々な矛盾が詰め込まれていたのは見たとおりである。
しかし、「村」という「袋」の維持、実態としての「百姓成立」が、幕藩制社会が戦国期までの「村」の「万人が万人の狼」ともいうべき状態からの脱却という「社会契約」として成立した以上、領主側にとっても、百姓にとっても、守られるべきものであり、その枠の中での平和が保たれていたのである。
「つぶれ百姓」を出さず「村」と「家」の平安と永続を維持し、そのかわりに滞りなく年貢納入を果たすことが「村」に集まった百姓と、領主の側の共通利害であり、「社会契約」であった。
領主はこうした「社会契約」の遵守(じゅんしゅ)を求められた。

「百姓成立」が困難となった場合には「御救(おすくい)」という形の「仁政」が求められ、「百姓成立」に支障をあたえる政策は「社会契約」に反する「不正」=「苛政(かせい)」であった。苛政に抗する百姓一揆は、「社会契約」の維持を求める「正義」として正当化され、「御百姓」を苦しめる領主は「天」理に反する所行として排斥される。
しかし、百姓一揆という「自力救済」は「社会契約」に反するものでもあり、一揆の首謀者はときには厳しい処分を甘んじて受け、百姓たちから「神」としてあがめられた。

「稼ぎ」への依存と広がり~質地小作制と小商品生産

十七世紀後半以降、幕藩体制の確立と並行して、全国的規模での商品流通網が整備され、日本列島が商品経済で結合されていく。こうした流れは、都市の商人たちの影響力を増大させるとともに、「稼ぎ」に依存する百姓の活動の場を広げることでもあった。こうした「稼ぎ」での収入の拡大こそが「百姓成立」の条件でもあった。
多くの百姓にとって、経営が困難でありつづけたことはいうまでもない。病気や死、家庭内の「不行跡(ふぎょうせき)」といった個人的家族的事情、水害・病虫害・冷害・日照りといった自然災害、さらに領主による政策変更といった事情でたやすく危機に陥り、年貢未進(ねんぐみしん)となった。領主の「仁政」に期待し「御救(おすくい)」を求めることもあったが、多くは「村」という「袋」のなかで対応した。村役人をはじめとする有力百姓による「立替」で対応、やむを得ない場合には「村」の了解を得ての近郷や都市の金貸しへ土地を質入れした。こうして、百姓の土地はしだいに有力百姓や金貸しの手に移っていった。元の持ち主は、その土地で小作として残り、利子を払い続けるか、いったん土地を手放した。こうして質地小作関係が広がっていく。
借金を重ね、ついには土地を失い小作となった百姓たちは、借金の返済や土地の回復のために、さらなる「稼ぎ」への依存を深める。
深谷克己は、十八世紀の「稼ぎ」を「余稼ぎ」「余業」「余作」「手間取り」の4つの方向で整理している。

自家用にもする薪(まき)・炭・莚(むしろ)・ぞうり・糸・織物などのわずかな余りを売りに出すことが「余稼ぎ」であり、ふつうの農家の大半がかかわっていた。
行商や街道筋での運送業、家の軒先の販売や小規模な店商い、農業の合間の鍛冶・大工・桶(おけ)屋・綿打(わたうち)・木挽(こびき)・指物(さしもの)などの仕事、このような農民の商工的な「稼ぎ」が「余業」である。質屋・酒造・水車稼ぎなど地主や豪農などによる「稼ぎ」も存在する。兼業がすすみ、余業がメインとなる住民もあらわれる。あくまでも農村に住み、「農間」「作間」に営まれるものが中心である。
年貢納入や自家消費のためではなく、利益を得る目的での、小商品生産としての栽培・採取・加工という「稼ぎ」が「余作」である。楮(こうぞ)・櫨(はぜ)・紅花(べにばな)・漆(うるし)・木綿(もめん)・桑・蜜柑(みかん)・樹木などなどの徳用作物を栽培し、紙・蠟(ろう)・糸・布などに加工して売る。こうした「余作」は販売などの過程で必然的に都市・市場との結びつきを深める。村外の問屋や仲買商人との接触し、村や隣村の商人的な上層農民や地主・豪農による組織化もすすむ。こうして貨幣経済の急速な浸透がすすんだ。こうした情勢は「村」の秩序を動揺させることになる。
「江戸時代の小商品生産は、生産者の側から見る限り、このような苦境の打開策としての稼ぎ仕事を起点とし、それに技術・肥料の進歩、生産地と需要地を結ぶ市場構造の発展によって生まれたのである。」(深谷克己・川鍋定男「江戸時代の諸稼ぎ」)

「村」の変化~商品経済の浸透と農民層の分解

 農村における質地小作制の広がりは、家計補充と借金返済と土地の買い戻しのための資金需要を拡大させ、農民の「稼ぎ」への依存を進めた。中心は元手のかからない「手間取り」である。
経済の発展にともなって、労働力需要が高まると「手間取り」たちは「給金の高下を選」ぶようになり、賃金は高騰し、村での労働力供給が不足しはじめる。労働力供給の手段は労働力を購入する「手間稼ぎ」へとシフトしていた。「村」内の人間関係は、協力と協働から、「金」や「物」の関係へと変わりつつあった
「小前(こまえ)」や水呑(みずのみ)・無高(むだか)といった人びとも「手間取(てまどり)」の仕事が得にくく、賃金も低く、うだつのあがらない「村」を離れ、長期の「手間取り」や出稼ぎなどの形をとって都会へ流れ、そのまま住み着くものも現れた。こうして、江戸などでは都市下層民・雑業層が肥大化し、農村地区でも在郷町の形成・拡大がすすんだ。他方、「村」では人口減少がつづき、「枯(かれ)村」が広がり、作り手のいない「手余地」が増加、領主に高請(たかうけ)地を返却するといった事態も生まれた。
「村」にのこった人々も「米作」よりも収入を得られる「稼ぎ」への依存を高めていく。こうしたなか、米作が困難な地域や長い農閑期を余儀なくされる地域などを中心に「余作」「余業」の中から「特産物が生まれ、全国的流通網の発展と貨幣経済の進展の中で市場のシェアを拡大していく。
こうした特産物は、農民たちには「村」や「家」の困窮・荒廃からの脱却、生活向上の可能性を高めるものであった。しかし、それは領主たちが新たな収入=「略取」の道を手に入れることでもあった。こうして、農民や領主は、ともに大きな収入を得られる特産物の開発、導入、育成などに注力する。こうして日本全国で特産品が生まれる。
特産物栽培は購入肥料の導入や新たな道具などを必要とし、新たな産業も発展させた。米納から銭納への移行がすすんだり、商品作物の収益で米を購入し米納年貢を支払う地域も現れた。こうして、「稼ぎ」への依存=小商品生産の広がりによって、農村への貨幣経済はさらに浸透した
特産品=小商品生産の広がりは、農村へ市場原理が流入してきたことでもある。商品価格は市場の影響で激しく変動した。大きな収益が得られる反面、原価を大きく割り込み、大量の借金を抱え込ませ、廃業さらには経営破たん、「つぶれ」をうみだす。とくに米を購入して年貢を支払っていた地域は米価の上昇にも悩まされることになる。天保大飢饉(てんぽうだいききん)にともなって発生した甲州郡内一揆はこうした地域で発生したし、幕末の世直し一揆の多くも、こうした地域で発生した。
商品作物栽培は世界的寒冷化や技術の未熟さから不作となることが多かった。新たな産地の登場は元の産地の地位を脅かし、供給過剰を生み出した。購入肥料の大量投入は栽培コストを確実に上昇させた。
最大のリスクは、特産物の流通に、権力的介入し、収益を奪い取ろうとする領主や独占的特権商人の存在はであったかもしれない。新しい農業は、多くのリスクを抱えていた。
しかし、こうしたリスクに果敢に立ち向かい、成功を収め、多くの富を手に入れたものも多く見られた。かれらは、収益を土地に投下して手作り地を広げたり、地主化したり、マニュファクチュアなどの形式をとる手工業など、新たな「余業」に進出し、「村」において旧来の村役人層に代わる新たな有力百姓(「豪農」)層を形成していった。
他方、没落していった多数の貧農も生み出した。こうして商品作物の導入によって農民層分解が加速、没落したものは、「手間稼ぎ」と小作によって生計を成り立たせようとした。他方、新たな稼ぎを求めて都市をめざすものも増加した。江戸などでは住宅問題や食料不足などの都市問題が深刻化、物価上昇などに反対する都市下層民による「打ちこわし」が頻発、幕府などはその対策に頭を悩ました。
とくに、非領国地域が広がる関東地方では、農業の破たんで村を離れるものが急増、「渡世人」「無宿人」となり、各地で賭場(とば)を開き、抗争を繰り返し、複雑な領有関係を利用して巧みに取締を逃れた。治安の乱れが表面化し始めた。

「専売制」と百姓一揆の激発

農村における小商品生産の発展と様々な矛盾の発生は、「米納年貢を原則とする農耕専一の民」といった理念的な百姓像の変更を領主層に迫った。この原則に立って小商品生産の流入の拡大を抑制しようする改革をめざす領主がいる一方、小商品生産の発展の成果を吸収しようという動きも生まれてきた。後者の動きを代表するのが十八世紀後期の田沼意次(たぬまおきつぐ)政権であり、この時期に進んだ専売制度の導入である。
「特産物」にたいする需要は領主層には歓迎すべき新たな財源であった。こうして、特産物生産への保護・育成策を取る一方、特産物生産の収益を専売制度など重商主義的な手法によって奪い取ろうとした。
「米」の収穫の多くを年貢として差し出す代わりに、裏作や諸「稼ぎ」の大部分は百姓の取り分として保障することが「百姓成立」の前提であった。専売制度などはこの前提・原則に反することであり、「社会契約」を踏みにじる政策であった。田沼時代に急増した百姓一揆が問題にしたのは、この「社会契約」に反する政策の導入であった。
同時に百姓たちは天明大飢饉(てんめいのだいききん)を前に、「仁政」の原則によって当然実施されるべき「救米(すくいまい)」を要求した。領主が説いてきた「仁政」の論理、「百姓成立」の原則に照らして一揆を起こしたのである。支配者の論理である「仁政」イデオロギーにもとづいて自分たちこそが正義なのだと主張したのである。「社会契約」を破棄した「不正」の領主が、倫理的に正当な「御百姓」に銃を向けることは「天」が許さない行為であった。
しかし、多くの大名は、こうした百姓一揆を力で圧殺することによって特産品への専売制を導入した。しかし、このことは領主側が、みずからがよってたつ「仁政」イデオロギーに反することであり「社会契約」を破棄したことでもあった。

つづく

「百姓成立」その成立と展開、崩壊
1.近世「百姓」の成立と「百姓成立」
2.「村」と「稼ぎ」=村人をささえたもの(本稿)
3.幕末・維新期における「百姓成立」

参考文献

水林彪  「封建制の再編と日本的社会の確立」山川出版社1987
深谷克己 「江戸時代」岩波書店2000
    「士農工商の世」小学館1988
    「百姓成立」塙書房1993
    「百姓一揆の歴史的構造」校倉書房1979
    「深谷克己近世史論集」(1)(3)校倉書房2009
深谷克己・川鍋定男「江戸時代の諸稼ぎ」農山漁村文化協会 1988
渡辺尚志 「百姓たちの幕末維新」草思社2012
「百姓たちの江戸時代」筑摩書房2009
白川部達雄 「近世の百姓社会」吉川弘文館1999

関連するページへのリンク
江戸時代の百姓像をみなおす
1:江戸時代の年貢は重かったのか?
2:「百姓」は百姓であったのか?
3:稲作にかかわる数字と仕事
その他
4:江戸期の社会~身分制度と農民
5:近世末期の自生的「近代」を考える
6:幕藩体制と「国民」の萌芽的形成

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