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幕末・維新期における「百姓成立」
~「百姓成立」、その成立と展開、崩壊(3)~
※「百姓成立(なりたち)」その成立と展開、崩壊 1、近世「百姓」の成立と「百姓成立」 2、「村」と「稼ぎ」=「村人」を支えたもの 3、幕末・維新期における「百姓成立」(本稿) |
寛政の改革~「百姓成立」への回帰とその限界
「米納年貢を原則とする農耕専一の民」としての百姓たちに年貢を課す代償として百姓たちの「平和」と生活・生産の再生産を保障するという「百姓成立(ひゃくしょうなりたち)」は、一方では領主による「仁政」を要件としていたが、実際には扶助組織としての「村」の存在と百姓たちの「稼ぎ」を前提に成立していた。
しかし「稼ぎ」のしめる役割が増すにつれて「米納年貢を原則とする農耕専一の民」といった理念的な百姓像は通用しなくなる。
こうしたなか、あらたな専売制度など重商主義的な手法によってあらたな「略取」を実現しようとする領主らも現れた。しかしそれは「米」の多くを差し出す代わりに裏作や諸「稼ぎ」の取得を保障するとの原則に反したため、百姓たちは自らの「正当性」を主張、百姓一揆が急増した。
天明の大飢饉にともなう百姓一揆やうちこわしの増加を「仁政」イデオロギーにもとづく幕藩制の危機と認識し「百姓成立(ひゃくしょうなりたち)」の回復をめざしたのが、松平定信(まつだいらさだのぶ)がすすめた寛政(かんせい)改革であった。
定信は「仁政」=「百姓成立」原則などを実効性のある政策として回復しようとした。「百姓の奢侈(しゃし)」を禁じ、「商品作物の栽培を制限」「米や雑穀の作付け」など寛永期を思わせる時代錯誤とも思える触書(ふれがき)を出し、百姓らに勤勉と倹約を求めた。さらに、「間引(まび)き」や堕胎の禁止、「出稼ぎ」の制限と都市人口の農村回帰をはかる「旧里帰農令(きゅうりきのうれい)」など農村人口の維持・回復をめざした。さらに、領主による「仁政」の象徴ともいえる「救米(すくいまい)」を、日常的な穀物の備蓄(「囲い籾(もみ)」=「社倉(しゃそう)」)によってシステム的に整備する。「貯穀令(ちょこくれい)」は、主に「村」の有力者に非常時に備え「穀物」を積み立てる形で「村」の扶助構造の再建をはかろうとした。
「百姓成立」の再建という問題意識は、定信だけでなく、寛政~文化期の改革派領主、そして農村の荒廃と村方騒動(むらかたそうどう)の激発にみまわれた村役人層に共通したものであった。この時期、「地方凡例録(ぢかたはんれいしゅう)」などの書物がつくられたことは、この時代の意識をよく示している。慶安の触書が注目されたのもこの時期である。
しかし定信の「百姓成立」再建の政策は「米納年貢による農耕専一」というすでに破たんした原則の上で、破たんをくいとめようとする社会政策であった。この時期、「百姓成立」は商品生産という市場経済の原理の上でかろうじて支えられていた。
領主財政も「米納年貢」だけでなく、「『社会契約』に反する『略取』」である専売制に大きく依存し、貨幣悪鋳や藩札発行といった通貨政策、領内の商人など有力者に課せられるご都合主義的な「御用金」などで支えられていた。領主側から「仁政」を行う財政余裕はなくなりつつあった。
そもそも、公的な財源が自作農民の米作に依存し、商工業への課税は原則としてなされないという前近代的な財政が、急速に市場経済化をすすめる時代とマッチしなくなっていた。急速に富を蓄えつつある商工業への課税は、「御用金」などといった臨時的な借用などでなされ、ひどい場合には無実の罪を着せて財産を没収するといった形でなされた。
財源を新たな経済活動から広く求めるという手法は、正統的な幕藩制イデオロギーからみれば許し難いものであった。幕政における田沼意次(たぬまおきつぐ)と松平定信(まつだいらさだのぶ)の確執はここから生じていた。定信が勝利し「百姓成立」原則の再確認し回復を目指したことは、幕政が、新しい時代に即した財政・経済政策をとりえないことを示したようにも見える。「農耕専一の民による米納年貢」を原則とする租税方針の変更は明治政権の成立をまたねばならない。
村方騒動の激化と豪農=村役人層
江戸中期まで、村役人として「村」のリーダーをつとめてきた多くは、戦国期の土豪・武士に起源を持つ「草分け」的な存在であり、広い土地と隷属農民や小作農民を従わせる大高持(おおたかもち)百姓であった。財力とともに、高い知的・文化的水準にあり、他の「村」の村役人、藩内外の「武士」たちともパイプを持っていた。学問や趣味などを通して全国的なネットワークをもつものもいた。このような権威と財力、情報・文化、人間関係、さらに領主の信任などを背景に、隔絶した地位をもち、「特権を当然とする意識があり、公私未分離のまま、村の共同体を慣行的に掌握していた」(津田秀夫)。
ところが、十九世紀とくに化政期になると、村役人による不明朗な年貢の割り振り(「年貢割付(わりつけ))」)や村費(「村入用(いりよう)」の使途、共有財産管理における公私混同などへの批判から村方騒動が頻発するようになり、村役人の交代や「入れ札」(=公選)による村役人の選出、をもとめるといった村の「民主化」をめぐる動きが活発化した。
その背景には、「村」の中で農民層分解によって土地を失った無高層が増加する一方、商品栽培や手工業などを背景とした新興の有力百姓が台頭してきたこと、商品経済の進展によって多くの百姓も「村」外とのつながりを強めたこと。寺子屋など庶民教育の広がりにとって得られた知識が百姓たちの意識を変化させてきたことなどが指摘できる。
こうした事態は、これまでは当然とされてきた「村」のあり方や伝統的な「村役人」支配が問い直された。「村役人」層として選ばれる大高持(おおたかもち)にとっては、「百姓成立」の実現のためのより緊張ある「村」運営を強いられることを意味することでもあった。
こうして、村役人層による「百姓成立」=秩序の維持と回復をめぐる苦闘が始まる。
十九世紀前半の情勢と村役人層
文化二年(1805年)、「関東取締出役」(「八州廻り(はつしゆうまわり)」)が設置された。このことは、非領国地域において「公儀」権力につながる個々の領主権力が治安維持機能を果たせない、つまり旧来の「公儀」システムでは秩序を維持し得なくなり、幕府が、個々の領主権を無視し、直接乗り出さねば「百姓成立」の根本としての「治安維持」が維持できなくなったことを示していた。
これと並んで、関東では、幕府の指示によって領主にかかわらず領域的に村々を組み合わせて「組合村」をつくらせる。「村」同士の結びつきに依拠し、村役人層を前面にたてて、崩壊しつつある地域の統治と治安維持の再建をすすめようとしたのである。
同じく非領国地帯の出羽(でわ)・村山地方では、十八世紀末期以来、粗悪な銭の流入阻止や米穀の郡外流出を阻止するために、代官所とも結んで、各村の代表による申し合わせ(「郡内議定」)を定め、代表(「郡中惣代」)選出・会議開催、村を越えた連合体を結成した。
やはり、非領国地帯である大坂周辺では、住人の多くが関係している綿花や油の特権商人による独占と独占価格に反対していた。これをうけ、各村の村役人たちは、「村」が自主的に連合組織を結成、国訴(くにそ)を起こして幕府へ訴え、ついには綿花の流通独占を打破した。現在の大阪府域全土(「摂河泉」)の一千をこえる「村」が、地域の課題について村や領主の枠を越えてむすびつき合法的に訴えたのである。
このように、非領国地帯では領主権の衰退がすすみ、「村」とくにそのリーダーたちが連合し、自分たちが地域の問題を解決するという方向を強めていった。
天保改革における「上知令(じょうちれい)」は、領主支配の機能が失われつつある非領国地方を幕府が立て直すという意図をもっていた。しかしこの政策は、地域に利害を持つ領主たちの反発を買う・さらに百姓たちの反発をかった「三方領地替え」とともに、大失敗に終わる。こうして権力の強化をめざした改革は、転封権すら行使できないことを白日の下にさらし、「公儀」権力の弱体化を示す結果となった。
寛政の改革は「百姓成立」を枠組みを形式的には再建した。しかし、内実でみると「百姓成立」は領主側から崩れつつあったのである。
他方、財政難に陥っている国持・準国持大名らの領国地域では、非領国地域とは逆に、領国経済の自立化をすすめていた。多くの藩は領内でのみ通用する「地域通貨」藩札を発行し、通貨の面で自立をめざした。阿波藩は特産の藍を藩直営で販売、姫路藩は木綿を直接江戸で販売するなど、全国的流通網に対抗して、藩による「産直」をすすめた。
経済的自立は政治的な自立へとすすんでいく。天保期の藩政改革に成功した諸藩が、幕末期に雄藩として出現したのはよくしられた話である。
諸藩は、年貢増徴や藩営事業や専売制などによって、小商品生産=「稼ぎ」の成果を奪い取り、さらに流通網の掌握などの手法を駆使した。これにたいし、「村」のリーダーである村役人や豪農たちは複雑な対応を行う。領主と対抗して場合によっては一揆を組織したり、逆に一揆に走ろうとする村人を抑えようとして打ちこわしにあったり、改革に積極的に協力したり。領主と「村」の農民、さらに自分たちの階級的利害もからみ、苦悩する村役人=豪農層の姿を見ることができる。
幕末動乱期の中での豪農=村役人層
幕末になると、どの村でも「余作」「余業」といった兼業が半数をはるかに超えるようになる。先進地域では無高やごく小さな持高の百姓が、10人を越える労働者を雇うという状態も生まれた。「日用稼(ひようかせぎ)」は賃金の「高下」によっていろいろな地域に賃稼ぎにいき、「村」への帰属意識が薄らいだ。さらに、いろいろな地域の情報を「村」にもたらした。村役人を輩出する豪農自身も、「村」内外の住民を小作人としたり、「余業」「余作」の労働者として雇用するなど、村の中に、貸借関係、地主小作関係、資本労働関係などがもちこまれた。「住民」と村役人、村役人を支える豪農との関係はいっそう微妙となる。
こうしたなか、「村役人」らは「百姓成立」=「村」秩序の維持の努力をつづけていく。自らの土地を質入れしての「村」の年貢を支払う大坂近郊の村役人がいたり、二宮尊徳(にのみやそんとく)を招き住民に対し「倹約と勤勉」をもとめる民衆教化を進めたり、大原幽学(おおはらゆうがく)のもと産業協同組合ともいうべき「先祖株組合」を設置しようとしたり、大蔵永常(おおくらながつね)にまなんで商品作物技術の導入をすすめるなど、様々な手法で「村」の再生をはかろうとした。
先に見たように、関東や出羽(でわ)では治安が悪化し統治困難になった地域を、「村」同士の協力によって回復する動きも見せる。
こうした努力にもかかわらず、各地で村方騒動は発生し、一揆とくに幕末期の世直し一揆で村役人や有力農民らが標的とされ、さんざんに打ち壊される事態も発生する。関東では、これに対抗し治安を守るため、村役人層が中心となって「農兵」などを組織している。
こうしたなか、村役人層の政治意識は鍛えられ、幕藩体制のありかた自体に疑問を持ち、それに代わる秩序を求める動きもでてきた。豪農=村役人層の中に、国学や水戸学が広がり、幕藩体制を相対化し、幕府を越えるナショナルな存在としての天皇に結びつこうとする尊王論もひろがった。村を離れて草莽(そうもう)の志士として活躍するものもでてきた。新撰組や奇兵隊、戊辰戦争において各地で出現した「草莽(そうもう)隊」などに参加し、身分上昇をはたそうとした中心ともかれらであった。「年貢半減」「官軍先鋒」を唱え、東山道をすすんだ相良総三(さがらそうぞう)ら「赤報隊」をささえたのも彼らであった。
他方、開港に際して、ただちに地域で大量の生糸などを買い集め、横浜に持ち込み、多額の収入をえたのも彼らであった。
幕末の騒乱において、豪農たちはおおきな役割を果たした。
戊辰戦争と地租改正~「百姓成立」の崩壊
明治初年の戊辰(ぼしん)戦争では、各地で「村役人」らに率いられた「草莽隊(そうもうたい)」が結成され、新政府軍として戦闘に参加した。列藩同盟側の中心、庄内藩で百姓たちは「農兵隊」として組織され新政府軍と戦った。両軍は各地で百姓たちを戦闘に軍役にと徴発した。戦闘に巻き込まれて命を失うものがいる反面、戦国時代のように、主体的に放火や略奪にかかわる百姓兵たちもいた。また最新鋭の銃で武装した最新・最強の幕府陸軍の兵士の多くは、「日用(ひよう)層」とよばれる賃稼ぎの元農民たちであった。
逆に戊辰戦争は「軍役を負い軍事力の担い手」であり「政治権力の担い手」であったはずの武士がすでにその役割を果たせなくなったこともしめした。「百姓」が「農耕専一の民」という身分的な位置づけを越えて、軍事的政治的役割を担うことも多かった。
「戊辰戦争による軍事動員では、近世の本来的なありかたである軍役を通じた武士の動員という形では行われなかった。」
「政治的に活発化した武士以外の身分の人びとも戦争に参加した。つまり、戊辰戦争において、近世身分制社会の基本単位となっていた『袋』が破れてしまったのである」(松沢裕作「自由民権運動」)
「百姓成立」における「社会契約」は過去のものとなりつつあった。グローバルスタンダードとしての主権国家体制=「万国公法」体制への参加をめざす明治政府は、「四民平等」の名の下に、近世的な「身分制」廃止などの改革をすすめる。
明治六年、地租改正事業が開始される。これに先立ち、これまでの年貢納入者には地券の交付により土地所有権が付与され、土地の売買が解禁された。そして地租改正では、税の納入責任は地券が与えられた土地所有者個人となり、村が年貢を一括して支払う「村請制」が廃止された。年貢を払えない「百姓」を扶助するセーフティーネットが取り払われた。村役人や「大高持」が「村」の「年貢未進」分を立替える必要もなくなったし、とっくに期限がきれている土地を返すという裏ルール(「無年季的質地割り戻し慣行」)も消滅した。こうして「百姓成立」は消滅、村役人や豪農たちは「百姓成立」という長い束縛から解き放たれた。
牧原憲夫のいい方を借りると「『強者としての責務』から解放され『傲然自恣(ごうぜんじし)』になれること」であった。
牧原はいう。
村議定が効力を持った背景には、「百姓相続」という身分制の大義名分と年貢の納入責任を村単位に設定した村請制があったが、いずれにせよ、こうした富裕農民と小農民双方の『私益』のせめぎ合いの中で、村の公共性が優越したところに近世農村の特質があった。ところが、地租改正の結果、土地所有者に排他的・絶対的な『権利』が与えられた。地主は自由に小作料を決め、滞納者の土地を取り上げ小作人を替えることが可能になった。地租納入も所有者の個人責任となり、滞納者は容赦なく財産の差押え=公売処分に付された。かつてのような村役人等が立て替える必要もなくなった。明治以降の地主制の拡大と地主の小作人に対する圧倒的な優越性は、したがって封建的なものでなく、小前一同の干渉を排除し富者の責務を否定した近代的土地所有がもたらしたものなのである。(牧原憲夫「客分と国民のあいだ」)
「百姓成立」(=「百姓相続」)がうしなわれたことは、多くの農民にあらたな試練をもたらした。地租を払えないことは、農民が経営に失敗したことであり、「自己責任」と見なされるようになったことである。その結果、土地は、さまざまな経緯を経て、さまざまなタイプの地主たちの手にわたっていった。さらに、政府が農業経営に不可欠な「村」の入会地を無主地として没収、国有地化したことは、再生産の条件を傷つけ、その経営を困難にした。
「近代的土地所有制度」というグローバルスタンダード、「近代」の法律と資本主義的な市場原理が多くの農民に与えたものは「セーフティーネットとしての『村』=『百姓成立』からの『自由』」であり、「没落していく『自由』」でもあった。
明治十年代後半の松方(まつかた)デフレは「村」の中核層自作農へ強いダメージを与えた。土地を失って小作に転落するものや都市へ流出していくものも多い。これに対抗して、困民党に参加し「仁政」をもとめようとしたものもいたが、明治政府や明治の金融機関にはそのような考えはなかった。村の有力者たちにもそのような考えを持つものは少なくなっていた。
1884(明治17)年の秩父(ちちぶ)事件は、こうした社会に対し、没落しつつある農民が、仁政と「百姓成立」をもとめて起こしたものでもあった。牧原憲夫によるとこうした「仁政」への熾火(おきび)がふたたび起こったのが1918年の米騒動であったという。
他方、かつての村のリーダーたちは、これまでの身分的束縛から自由となり、政治や社会の中枢への道を歩むことになる。あるものは開かれた政治をめざして自由民権運動に参加した。松方(まつかた)デフレをきっかけに、没落していく農民の土地を集積、農業経営からも手を引き寄生地主の道を歩むものも多かった。かれら、さらに裕福な在村地主たちは小作料収入を商工業に投資することで日本の産業革命を支え、高等教育をうけて、産業界や官界、学界などに進出していく。
そして明治憲法体制下、没落していった農民たちの上に地主として経済的影響力を発揮するとともに、「三新法」などによって整備された地方政界や中央政界において「地方名望家」の代表として地域住民の上に政治的にも君臨した。
かつての「百姓成立」は、近代という時代の中で大きく変貌を遂げていったのである。
おわりに
柄谷行人は、「略取と再分配」という交換段階における「国家」の発生を次のように記している。
「国家の基盤は何よりも暴力的収奪にあるのですが、それが一次的なものではなく永続的かつ拡大的であるためには、むしろ被支配者を保護し育成しなければならない。国家は、他の国家からの略奪に対し、共同体を防衛します。また、積極的に「公共的」事業を興す。たとえば、灌漑のような大がかりな事業です。もちろん、それは、農業共同体からの賦役と貢納(租税)を確保するためになされるのですが、被支配者は、支配者の仕事を贈与として受け止め、賦役や納税をそれに対するお返しとして受け取る。そこに一種の互酬の擬制が成立するわけです。また、共同体の間で葛藤・対立があるとき、国家はそれを調停し制御します。かくして、国家は公共的あるいは理性的であるという観念が生じるのです。」(「世界共和国へ」)
この文章は近世日本のスケッチとして示されたものではないし、柄谷も本レポートのような視点から近世は描いてはいない。本レポートも柄谷の「日本史像」(とくに「帝国の構造」第七章)とは視点を異にしている。しかし、かれが描く「略取」という交換段階における「国家」のあり方は、近世とくに江戸期の国家のあり方と「百姓成立」を見事なほどに言い表しているように思われる。
このように「百姓成立」は交換様式B「略取と再分配」という交換段階に典型的な支配=被支配の姿を取ったものであった。しかし、実際の「百姓成立」が「稼ぎ」によって補完されていたように、交換様式C「商品交換(貨幣と商品)」に補完されることで成立したものでもあった。
しかし、18世紀になって、「稼ぎ」への依存、つまり交換様式C「商品交換(貨幣と商品)」が農村へ浸透してくると、そこではマルクスが資本論でしめした「資本の原始的蓄積」の過程、「農民を生産手段(土地)から引きはがす過程」が緩慢に、しかし着実に進行しはじめる。江戸期の中期は、「生産手段からの自由」「共同体の束縛からの自由」という「二つの自由」をもった労働力が自生的に創出され始めた時代でもあった。
こうした「原始的蓄積」の進行に抗して、交換様式Bにもとづく農業共同体の維持をはかろうとしたのが「百姓成立」のもう一つの姿であった。それを政策的に表現したのが、松平定信に代表される寛政期の改革であった。しかし、それが資本制的生産様式=交換様式C「商品交換(貨幣と商品)」の発展によって促された以上、時代錯誤的な「重農主義」の側面を持たざるを得なかった。
しかも十八世紀末のロシア使節来訪にみられるように、この時期は交換様式C「商品交換(貨幣と商品)」に基盤をおく「主権国家体制」と「世界=経済」が、世界全体を覆い尽くそうとした時期でもあり、日本もこうした動きと向き合うことを余儀なくされた時期であった。
こうした危機感は領主階級のみならず、国学や水戸学などを通して村の指導者層にも共有され、地域秩序の崩壊、村内の「百姓成立」の変質と困難とあいまった「内憂外患」として意識させた。
1859年の開港、「世界=経済」(世界資本主義と主権国家体制)への本格的な包摂は「略取と再分配」を原則とする「近世国家」のあり方を否定した。そして幕末維新の動乱をのりきった明治政権は、欧米的な「近代的主権国家」モデルの採用を余儀なくされる。そのことは、「仁政」イデオロギーによって「百姓成立」を保障するといった「互酬(ごしゆう)の擬制(ぎせい)」を排除し、「法」と「貨幣」による近代的な冷徹な原理によって「村」とかつての「百姓」たちを取り扱うものであった。そして村のリーダーたちは、交換様式C「商品交換(貨幣と商品)」の原理の下に、地主=「名望家」支配というあらたな「村」と「地域」支配を実現していくことになる。
参考文献
水林彪 「封建制の再編と日本的社会の確立」山川出版社1987
深谷克己 「江戸時代」岩波書店2000
「士農工商の世」小学館1988
「百姓成立」塙書房1993
「百姓一揆の歴史的構造」校倉書房1979
「深谷克己近世史論集」(1)(3)校倉書房2009
深谷克己・川鍋定男「江戸時代の諸稼ぎ」農山漁村文化協会 1988
藤田覚 「松平定信」中央公論社1993
「幕末から維新」岩波書店2015
津田秀夫 「天保改革」小学館1975
白川部達雄 「近世の百姓社会」吉川弘文館1999
渡辺尚志 「百姓たちの幕末維新」草思社2012
「百姓たちの江戸時代」筑摩書房2009
「幕末地域社会の変貌」(『講座明治維新7』有志舎2013)
松沢裕作 「自由民権運動」岩波書店2016
「町村合併から生まれた日本近代」講談社2013
牧原憲夫 「客分と国民の間」吉川弘文館1998
稲田雅洋 「日本近代成立期の民衆運動」筑摩書房1990
柄谷行人 「世界共和国へ」岩波書店2006
「世界史の構造」岩波書店2010
「帝国の構造」青土社2014
※「百姓成立(なりたち)」その成立と展開、崩壊 1、近世「百姓」の成立と「百姓成立」 2、「村」と「稼ぎ」=「村人」を支えたもの 3、幕末・維新期における「百姓成立」(本稿) |
同じ時期の農村を論じたページ
1:近世末期の自生的「近代」を考える
2:幕藩体制と「国民」の萌芽的形成