Contents
桂園時代から原敬内閣へ(3)原敬内閣
Ⅴ、原敬内閣~本格的な政党内閣
(1)原敬という人物
寺内正毅の辞職をうけてついに原敬が首相となりました。
原の経歴について見ていきましょう。
原は、岩手県にあった南部藩の家老の家柄で、分家に際し士族の族称をすて平民となりました。南部藩は戊辰戦争で新政府軍と戦い賊軍とされたことがその生き方に大きな影響を与えました。原の雅号「一山」は、奥羽地方が「一山百文」と馬鹿にされたことを逆手にとったもので、薩長中心のありかたへの反骨精神を見ることができます。
こうした反骨精神は、士族を棄て、衆議院議員でありつづけるため爵位の誘い(=華族になること)を拒み、キリスト教にも入信したことなどにもつながるように思われます。賊軍の側の人間が首相となることができる日本となることが真の統一国家、「国民」として統合されることにつながると考えようにおもわれます。
原は新聞記者として活躍、井上馨らに見いだされ官僚となります。その後、陸奥宗光の知遇を得て外務次官など要職につき、その死後、大阪毎日新聞社長となって熾烈な販売競争を繰り広げたのち、伊藤博文の政友会結成に参加、第四次伊藤内閣では逓信大臣となりました。
政友会では、実力者・星亨のあとを襲い党務の中心となり、桂園時代には、桂と「化かし合い」ともいえるようなやりとりを行いました。政友会の「樽みこし」、西園寺との仲はあまりよくありませんでした。
そして大正政変のなかで西園寺が総裁を退くと三代目の政友会総裁となります。政治的センスと見識、党内統率力は抜群でしたが、人望はもう一人の実力者松田正久に劣りました。
総裁となった原は、首相を意識し元老・山県に接近します。山県も、原への親近感をもちますが、政友会総裁としての原を首相に推薦することは拒み続けました。
なお原内閣成立後、山県は彼を深く信頼、後事を託そうとしたといわれます。それだけに原暗殺ショックは大きく、三ヶ月後、山県もあとを追いました。
(2)原敬政友会内閣の成立とその性格
原内閣成立の決め手となったのは米騒動です。
このころ、寺内首相は事態収拾の先頭に立つのは不可能な状態でした。二度にわたるインフルエンザの感染(スペイン風邪か?)が、弱っていた心臓に負担をかけていました。
なお、寺内は辞任直後、死亡します。
寺内もこの事態に対処できるのは原しかいないと考えていました。
原が首相に就任すべきとの意見は高まります。
そのころ、当の原は休養を口実に選挙区の盛岡にひきこもっていました。米騒動騒動や政局に巻き込まれることを嫌い、「熟柿が落ちるのをまっていた」と伝記作家は記します。
他方、山県は最後まで原はずしをあきらめません。ついには天皇をつかっての西園寺引き出しもはかりました。しかし当の西園寺が原を推薦するにいたって断念、1918年9月、原内閣が成立します。陸・海・外の三大臣をのぞく全ての大臣を政友会員で固める本格的な政党内閣でした。
原の伝記を書いた前田蓮山は「原敬は、歓呼の声をもって、国民に迎えられた。しかしながら、それは原敬の経綸手腕に期待したというわけではなく、多くは平民宰相、準政党内閣の出現を歓迎したのとどまる」と控えめに記します。
当時のメディアは原内閣に「①立憲政治・政党政治の徹底、②社会政策の実行、③労働組合の自由の公認、④選挙権の拡張、⑤物価調整、⑥民意の尊重の保障」を期待しました。(雑誌『法治国』調査)原は、いくつかを実現する一方、いくつかには冷水を浴びせかけました。
この内閣が誕生したころ、日本は大戦景気のなか資本主義が急速に成長していました。農村型社会から都市型社会へ、名望家支配がゆらぎ大衆社会へと移りつつありました。
一部では成金景気にわいていましたが、多くの人々はその恩恵を受けらないままでした。
物価高が労働争議を、米価高騰にもかかわらず変わらない高額小作料・品質管理の強化などが小作争議を、激増させました。
世間には、欧米的な個人主義が広がり、ロシア革命は知識人の間に社会主義への興味を高めました。軍人たちは第一次世界大戦から総力戦という近代戦思想をまなび、社会運動家たちは総力戦体制下ですすんでいく民衆の政治・社会参加や福祉国家への関心をもちました。
「客分」とされてきた民衆の政治参加も講和条約反対運動以来すすんでいました。国民が政治に主体的に関わろうという運動が普通選挙権獲得運動(普選運動)へとつながっていきました。
普選運動が最高潮に達したのも原内閣時代でした。原内閣への期待がこの運動の高揚につながった面もあるでしょう。
原の終生の課題は、明治憲法体制下の権力の分散状態を政党政治下に一元化していくこと、元老・軍部・官僚・枢密院・貴族院といった権力の分散性を政党内閣の元に統合することでした。
カリスマ的君主・明治天皇が去り、旧体制の中心にいた元老の多くも去り山県は衰えました。大正デモクラシーの風潮は、藩閥や軍部への批判を強めました。その風潮を吉野作造や美濃部達吉らの理念が支えていました。
こうしたものが、こうした原を後押ししていました。
(3)鉄道網の整備~大正版「日本列島改造論」
原の政権戦略の基礎はやはり、政友会の「数」でした。「数」を交渉材料として旧勢力に妥協を迫る、それが彼のやり方でした。
「数」を増やすため、地方名望家たちが求める政策の実現に力を注ぎました。
その中心鉄道網の整備でした。原は「鉄道は文明を全国民に普及させる手段」と主張、鉄道路線を倍増させる野心的な計画を進めようとしました。
東京を中心とする都市の急速な文明化にたいし、農村はおいていかれつつありました。
自動車などの交通手段が未整備な時代、原が主張したように鉄道は文明にアクセスする手段との性格を持っていました。東北出身の原にとって、こうした思いは人一倍強かったと思われます。
同時に、鉄道建設などの公共事業は地主や土建業などと深くかかわり、地方有力者も大きな利益を得る内容であり、政友会の支持基盤拡大につながる事業でした。
同じ岩手出身の政治家であっても、後藤新平は、経済発展と軍事力の機動的な運用のため鉄道広軌化による高速・大量の輸送を推進しようとします。
地方の課題解決を図るとともに自党の支持基盤をはかる、こうした手法は以後も日本の保守政党のなかに強く根を下ろします。
その後継者が新潟県出身・田中角栄の「日本列島改造論」でした。
原は、このほかにも道路、港湾、電話線設置、河川堤防の整備といった公共事業も重視しました。こうした費用の多くは公債によってまかなわれました。
さらに露骨な手法も用います。当時、各府県知事は政府・内務省による任命制をとっていました。これを利用して政友会関係者を各府県の知事に就任させ、その権力を利用して政友会関係者への便宜を図らせたり、他党から支持者を奪い取ろうとしました。こうしたなかで、汚職事件なども発生しました。
(4)選挙法改正~政友会に有利な改正
原は、普通選挙法は時期尚早と考えていました。原は普通選挙を求める声を利用して自党に有利な選挙制度を導入します。
それまでの選挙法は、1900(明治33)年のもので、直接国税10円以上納める25歳以上の男子に選挙権を与える府県単位の大選挙区でした。
成立当時の直接国税10円はかなり高いハードルでしたが、増税と米価上昇で農村ではハードルが下がりますが、税制度の違いから都市住民のハードルは高いままでした。1900年段階、すでに市部は農村部とは別の選挙区が設定されていました。市区は郡部よりはるかに少ない得票で当選できました。現在とは反対です。
1919年、原内閣が提出したものは、普通選挙でなく直接国税3円以上という資格条件の緩和、大選挙区でなく大政党に有利な小選挙区制という選挙法でした。農村では裕福な自作農までが有権者となりますが、都市住民の増加はわずか、結果として政友会に有利な内容でした。
実は、新選挙による最大の被害者は、大選挙区制を利用して議席を獲得、第三党としてキャスティングボートを握ろうとしていた山県系の御用政党でした。選挙制度改正は旧勢力の影響力低下を目指す原の遠謀でもありました。
(5)四大政綱
原の目玉政策は「四大政綱」とまとめられます。それをみていきましょう。
第一は「教育機関の改善充実」、中等・高等教育の充実です。
原内閣のもとで、高等学校10校、実業専門学校17校、専門学校2校の設立・学部増設が一気に行われ、早稲田や慶応といったような私立専門学校も正式な大学として認可されました。
近代資本主義社会の発展にともない高学歴層の知識が必要となった産業界などの要請に応えると同時に、急増してきた都市中間層などへのニーズに応えるものでした。
他方、初等教育や中等教育は充実の対象からはずされました。
第二は「交通機関の整備」です。原の死後の1922年鉄道敷設法として成立しました。あわせて道路法、道路公債法も制定されました。国土の均衡的発展を図るとともに、最大の支持基盤である地方・農村の名望家へむけた政策でもありました。
第三は「産業及び通商貿易の振興」です。
経済発展、工業化・都市化に対応した基盤整備がすすめられます。流通拡大に向けての道路整備、貿易拡大をにらんだ港湾の整備、上下水道などの都市環境の整備、さらに洪水を繰り返す堤防などのインフラ整備、さらに電話事業拡大などが実施され、経済発展にみあった産業インフラ整備という課題に対応しました。産業界や都市住民などへの支持拡大もはかっていました。
そして第四が「国防の充実」です。
この時期の軍事予算の伸びは著しいものでした。
海軍八八艦隊の建造、陸軍21個師団増設、軍備の近代化といった軍部の要望の多くが受け入れられました。
それは軍部による予算獲得要求とともに、大戦によって急速に近代化が進んだ世界の軍備との格差是正という問題意識がありました。原は、世界が軍縮に向かってすすむとの道筋を予測し既成事実作りに軍拡をすすめたともいわれます。
四大政綱は伝統的な支持基盤である地方名望家にたいする伝統的な鉄道整備など大規模な地域開発を本格化する一方、成長する都市のブルジョワ層や中間層の要求をも視野に入れたものでした。
それは農村・地主中心の社会から都市中心の大衆社会へのかわってきたことにも対応していました。税収の中心が地租から、間接税および法人・個人の所得税へ移行したことともかかわっていました。
(6)社会運動にたいする「アメとムチ」
この時期はさまざまな社会運動が活発化した時期です。(この点については別稿をご覧ください。)原は社会運動の高まりを勢力拡大には利用したものの、つねに警戒心を持ちつづけました。
宮地正人によると、原は民主主義思想や社会主義思想の広がりは、外部からもちこまれ、扇動された結果と思っており、そうした外来思想を持ち込むものとしてメディアや学問などに警戒の目を向けていたといいます。
当時、きびしい政府批判を行う新聞も多く、多くの騒擾事件に新聞記者がかかわることも多く、とくに日本最大の部数を誇る大阪朝日新聞がその筆頭でした。
しかも、ロシア革命に好意的な記事を書いたり、シベリア出兵に批判的な記事を書くなど、対外硬的な記事の多い新聞のなかでは異質の存在であり、右翼や司法当局からマークされていました。
そうしたなかで発生したのが「白虹」事件です。(白虹事件については別稿を参照してください)
米騒動にかかわった記事を、右翼と司法当局が「不敬」の疑いがあるとして攻撃したのです。この結果、幹部や編集部の多くが退陣、「不党不偏」の紙面作りをすすめるという内容の謝罪記事を出しました。これ以降、新聞は「不偏不党」の美名のもと、政府批判を自粛する傾向を強め、味を占めた司法当局や右翼は「不敬」を口実にした攻撃を繰り返すようになります。
また司法当局は、東京帝国大学の森戸辰男が無政府主義を紹介したことを問題視、起訴し、退職に追い込みました。原もこうした方針に賛意を示します。また新興宗教である大本教を不敬罪で弾圧するなど、文化・思想統制を積極的に進めました。
当時の内務大臣の床次竹二郎は社会運動を暴力的に抑圧するため、博徒・侠客ら反社会的勢力を糾合し大日本国粋会という団体を結成させました。かれらは労働運動や部落解放運動などへの暴力的介入を行います。
労働運動への弾圧もおこなわれます。15,000人の労働者が参加、職工と警察・憲兵が衝突するという事態を招いた官営八幡製鉄所では争議の中心メンバー224人を解雇、組合を壊滅に追い込みました。他方、争議団が要求していた8時間三交代制導入や賃金引き上げなどの要求は実現させるというアメとムチの対応をすすめます。
原内閣は、労働者たちが求める治安警察法第17条撤廃(労働者の団結や争議行為を制限する内容)を拒否する一方、労働者に階級調和の精神を持たせることを目的とした協調会を設立、争議の仲裁・調停に当たらせるべく労働争議調整法を制定、小作争議を調停するための小作調整法制定もすすめました。労働組合法は成立しませんでしたが、事実上労働組合もみとめる姿勢をとりました。
このように、原内閣の社会運動への対応はアメとムチの政策との性格をもっていました。
(7)社会政策の展開
貧困や労働・衛生環境、物価高といった社会問題への対策も原内閣のころから本格化します。
米騒動を受けて公設食堂や公設市場が各地に設けられ、職業紹介所なども開始します。
大阪市では社会政策の研究者から行政に転じた関一せきはじめ市長のもとで、実態調査を実施、その結果にもとづいた政策が実施されました。現在の民生委員の原型となる方面委員も設置され、要救護者の状況をきめ細かくつかもうとします。結核療養所が設けられ、市民館という隣保館事業も始まりました。
政府も、結核やトラホームなど伝染病に対する予防法を制定したり、不十分なものながら健康保険法の制定もすすめます。居住者の強制退去をさけるための借地法・借家法も制定しました。このように日が当たりにくかった人々を対象にした政策もはじまりました。
大正デモクラシーの風潮や社会運動のたかまりをみた内務省は1919年以降民力涵養運動を開始します。国家思想の啓蒙・地域秩序の再編といった明治末期の地方改良運動につながる内容ですが、途方改良運動が「自助」に重点を置いたのにたいして、今回は生活改善、労使・地主小作関係の調整といった社会政策をも含むものでした。
その背景にあったのは、第一次大戦下のヨーロッパですすんだ総力戦体制構築という事態です。戦争遂行のためには「国民的合意」が不可欠という認識から政府は国民統合にいっそうの力を注ぎ、国民の把握と生活保障・介入を強めます。こうして国家は福祉国家・「現代」国家という性格を強めました。こうした潮流が、福利厚生などには冷淡であった近代日本「国家」にも影響を与え始めたのです。国民生活を把握する目的から国勢調査も1920年からはじまりました。
こうした動きの中心となったのが内務省内で1920年社会局となる部署でした。しかし、実際にこうした施策を担う中心は道府県など地方自治体でした。そのため、地方への財政負担の大きさが問題となっていきます。
アメとムチという性格は司法改革でも見られました。
刑事訴訟法改正は、一方では黙秘権の承認など人権擁護の面を持っていましたが、捜査機関の強制捜査などの権限を拡大し「取り締まりを強化させる側面を持っていました。
原内閣は世界の趨勢に敏感な対応をすすめ、第一次大戦後の世界のありかたを見据え「現代国家」の方向にかじを切り始めた内閣と捉えることができます。
世界の潮流を敏感に捉えた原の姿勢は外交政策にも見ることができます。
Ⅵ、国際協調外交へ
(1)外交政策の変更
第一次大戦中の日本外交は、大戦終了後にドイツないしイギリス・アメリカといった欧米諸国が一挙に中国への進出をすすめるはずであるとの問題意識のもと、ロシアと結び大戦が続いている間に中国への影響力を拡大しておこうという世界戦略のもとに動いてきました。
ところが、二一か条要求にみられる強引な中国進出策は、アメリカの強い反発やイギリス・フランスなどの警戒心を引き起こし、なによりも中国のナショナリズムを刺激しました。
そうしたなか、日本が最も頼りにしていたロシア帝国がロシア革命で崩壊、革命政府が両国間の秘密条項を暴露するなか、日本外交は行き詰まり、国際的孤立状態に陥りました。
「満蒙」とは中国の満州(現,東北部)および内モンゴル(蒙古)の地方を指す日本側の呼称です。日露戦争の結果,日本が南満州に関東州の租借権・南満州鉄道の経営権などの権益を獲得すると,その維持をめぐる〈満州問題〉が提起されますが,1912年第3次日露協約で日本の勢力範囲が東部内蒙古へ拡張されると〈満蒙〉の語が一般に用いられるようになりました。(「満蒙問題」世界大百科事典(平凡社))
こうしたなか、以前から対米協調を第一とする国際協調を主張してきた原の方針は、日本外交の行き詰まりを脱却しうる対案という意味合いを強めます。しかしこれまでの外交や植民政策との整合性も課題となります。
見落としてならないのは、原も、当時の日本・世界の帝国主義を前提としていたことです。別の言い方をすれば、大戦前のような帝国主義国間の衝突を回避し、アメリカをはじめとする帝国主義列強が協力して植民地・半植民地諸民族の動きに対処しようという立場に立っていたのです。
他方、新たな動きも生まれていました。第一次大戦のなかでロシア・ソビエト政権やウィルソン米大統領の唱えた「民族自決」のスローガンに力を得た被抑圧諸民族の人々の運動が活発化し始めたのです。そして、当のアメリカが主導する「国際協調」にも異議を申し立て始めることになります。
原も、こうしたナショナリズムの高揚に対し、十分な理解を持っていたとはいえませんでした。
(2)中国政策の変更と五四運動
ともあれ、対中国政策は原内閣の下で大きく変化しました。
原は、1911年の辛亥革命以来の、大隈内閣の二十一か条要求の強要や寺内内閣における段祺瑞ら北京政府への援助(西原借款)など対中国介入政策にかえて、非干渉政策をとります。
「満蒙」中心の軍事的進出に代え、中国中央部への経済進出をめざします。そのための国内産業の競争力強化を図ります。しかし経済進出にさいしてはアメリカが提唱する四カ国借款の枠組みを重視しました。
互いを牽制しつつ我先に利権を確保しようとする従来のやり方にかえて、共通の利益獲得のため帝国主義列強が利害を調整し共同で中国に対峙するやりかたでした。
こうした枠組みは1922年のワシントン会議における九カ国条約によって完成し(ワシントン体制)、日本では憲政会(のち立憲民政党)・幣原外交のもとですすめられます。
原も「満蒙」の「特殊権益」の維持には固執しています。
この地は、一方では日本国内では日清・日露という二つの戦争における血によって獲得した地という意識が強く、他方では、経済発展に不可欠な鉄鉱石や石炭といった資源の供給地であり、さらに朝鮮半島と並ぶ綿織物などの市場でもありました。
産業立国を目指す原にとっても、この地の利権は重要でした。
こうして原政権も「満蒙」を四カ国借款の枠外におこうとしました。
当初、日本側は「満蒙」という地域全体を対象外としようとします。しかしアメリカなどの反発を買い、結局は旅順大連の租借権や南満州鉄道利権といった個々の内容を列挙する形式で合意しました。
なお、山東省利権については、いったん旧ドイツ利権を獲得したのち、いくつかの利権と引き換えで中国側に返還しようと考え、パリ講和会議で強硬にドイツ利権継承を主張したため、中国側と激しく対立、激しい反日運動である五四運動を引き起こし、他の参加国の不興もかいました。
なお山東省利権は1922年のワシントン会議で中国に返還されます。
(3)三・一独立運動と「文化政治」
1910年の韓国併合によって、日本の植民地とされた朝鮮では、寺内総督の下、朝鮮側の抵抗を軍隊力で押さえ込むという武断政策をとりました。この結果、併合直前に最盛期を迎えた義兵闘争も押さえ込まれ、一見平穏に見える状態となっていました。
こうしたなかで発生したのが三一独立運動です。
ウィルソン米大統領が提唱した「民族自決の原則」は朝鮮のエリート層に、朝鮮の独立が実現可能であるかのような期待を抱かせました。そこで宗教指導者を中心とする民族代表たちは、かつての国王・皇帝高宗の葬儀のため多くの人がソウルに集まってきた機会を狙って、1919年3月1日パゴダ公園で独立宣言書を発表、それをうけて朝鮮全土で独立万歳を叫ぶ示威行動が発生しました。各地で日本軍と衝突、その厳しい取り締まりによって、数千人の死者、5万人近い逮捕者が出ました。住民を教会に押し込めて、火を放ち皆殺しにした堤岩里ていがんり(チェアムリ)事件などは有名です。
原は、このように軍隊を用いた厳しい取り締りをすすめさせる一方、これまでの軍事力一辺倒の統治方針を一部改めます。
朝鮮側に一定の自治権を認める「文化政策」です。この結果、限定されたものながら言論・出版・集会・結社の自由などが認められ、民間による朝鮮語新聞の発行なども許可されるようになります。
軍隊(憲兵)を表に立てたやり方も改めます。実際は警察による統治に代えただけですが。
原は朝鮮総督に文民をあてることをめざしました。山県のお気に入りの官僚田健次郎や山県の養子の山県伊三郎をあてることを提案しますが、山県に拒否され、やむなく予備役の海軍大将・斉藤実が現役に復帰し、就任しました。
原は、植民地が軍部とくに陸軍の支配下におかれている現状を改めようとしていたのです。
朝鮮では失敗したものの、台湾総督には田健次郎が、関東長官には山県伊三郎が就任、軍部の影響力を削ぐとの原の狙いが部分的に成功しました。
他方、文官は軍への指揮権も持たないため、満州では関東軍というモンスターを誕生させるという副産物をもたらしました。
原は外交官時代から植民地に対する内地延長主義を主張していました。植民地も、最終的には北海道や沖縄(琉球)と同様に他の道府県と同様な存在にすべきという考えです。
こうした立場をとる原は、植民地住民への権利付与では妥協的でしたが、ナショナリズムについての認識は弱く、同化政策の傾向も帯びることが多かったのです。
(4)シベリアからの撤退
寺内内閣時代、臨時外交審議会で原はシベリア出兵に否定的なスタンスをとり続けました。その中心としたのはアメリカとの協調でした。
ところが当のアメリカがウラジオストクへの限定的な共同出兵を申し入れてきたことから、やむなく承認する姿勢を見せました。ところが、実際出兵にさいして陸軍は北満州からバイカル湖方面へも出兵、その規模は協調出兵の枠を超えた大規模なものとなり、アメリカの批判も受けました。寺内内閣が退陣したため、シベリア出兵の対応は、出兵論の中心田中義一を陸相に据える原内閣に託されます。
戦闘は、ソ連側の激しい抵抗とシベリアの厳しい自然に苦しめられます。原内閣が撤兵方針を打ち出しても、なかなかすすまない事態へとなりました。
その間、イギリスやアメリカは撤兵、結局、日本の単独出兵という形になっていきました。
撤兵は、満州での朝鮮系住民の反日ゲリラ鎮圧のための間島出兵、ニコラエフスクでの日本人虐殺事件への報復などもあって、さらに遅れます。
アメリカやイギリスもなかなか撤兵が進まない日本を批判、ここにおいても、日本は孤立状態となっていきます。
このように原内閣はシベリア撤兵という大きな課題を抱えましたが、同時に事態をなかなか改善できない陸軍に対する影響力も強めていきます。
シベリア出兵は、1922年のワシントン会議をきっかけに撤兵がほぼ終了、領有を目指した北樺太からも1925年撤兵が実現しました。
Ⅴ、原敬内閣とは何であったのか
(1)普選運動の高揚
原内閣は、閥族政治に対する大正デモクラシーの勝利と考えられ、その成立は普通選挙実現の大きなチャンスと考えられました。こうして普選運動は1919年から1920年にかけて最高潮に達しました。
吉野作造ら知識人は各地で情熱的に普選実現を唱え、多彩な人々が運動に参加しました。友愛会も運動の中心に掲げます。社会主義者、青年・学生、さらには女性参政権をめざす女性団体など、さまざまなグループが普選実現という目標で結集しました。
1919年12月、第42議会が始まると、東京では連日1万人集会が開催され、34府県でも演説会や集会が開催され、デモ行進が繰り広げられました。国会議員のもとに多くの人が陳情を繰り返しました。
憲政会はこのままでは思想の動揺がいっそうすすむと考え、犬養毅率いる国民党はこの運動を通じて既成野党に対抗できる力を手にできるとの考えから、普選賛成に態度を変え、それぞれ別の普選法案を提出しました。
こうしたなか、原=政友会内閣は選択を迫られます。
原は普選は時期尚早と考え、否定的でした。
山県らとも同様に、普選運動にロシア革命のような革命運動の影を見、社会主義の影響が懸念していました。また国民一般に対する否定的な見方の持ち主でもありました。
保守的な人々は普選を「雲助選挙」と批判しています。政治的・文化的教養に欠け国家への責任を自覚していない「雲助」(※雲助とは駕籠かき人足をさすが、ここでは彼らが「無教養」な民衆と考える典型としてこのようにいった)のような民衆に選挙権を与えれば無責任な政治となり、社会主義者など過激思想の持ち主が当選すると考えたのです。
こうした危機感は、山県ら閥族政治家にも、政友会支持者の多くを占める地方名望家にも共有されていました。
結局、原はせまい政治の舞台で、山県ら旧勢力との妥協を選びました。原敬は、国民の民主主義的な潮流と結び、その支持を得てより広い国民的基礎の上にあたらしい日本政治をつくりだすという民主的な政治家ではありませんでした。
そして原が普選運動にとったやりかたは、日本の民主主義に非常に大きな打撃を与えるものでした。
(2)衆議院解散と政友会の大勝
もともと議会の多数派である政友会が反対している以上、普選法案の成立は不可能であり、政友会は反対多数で否決できました。しかし、原は考えます。それでは国民の批判が政友会に集中し、政権維持が困難になると。
そこで原は大胆な作戦に出ます。
野党提出の普選法案に対しての「国民」の意向を問うとして突如衆議院を解散したのです。
この手法は一見、民主的なやり方に見えます。
しかし、実際の「選挙」では政友会支持者が圧倒的です。前年の改正によってさらに有利となりました。
つまり普選促進の立場から見れば、国民代表とはいえない人々が国民としての意思を表明するものでした。しかも、野党の準備不足をねらって、論点が十分に伝わらない状態で。
選挙が始まると、政友会は鉄道網建設など地域利益の実現などを強調する一方、「普選運動は、過激思想(=社会主義)との深い関係があり、有産階級の政治を打破し無産階級の政治をめざす」とし名望家をはじめとする有産者の危機感に訴えかけるイデオロギー選挙を展開、急激な変化を望まない人々の支持を掘り起こしました。
選挙結果は、政友会の大勝でした。
政友会は地方票を中心に総議席の61%を占める281議席を獲得しました。
一政党による単独過半数は日本議会史上最初のできごとでした(憲政会109、国民党29)。
とはいえ、市部では憲政会・国民党の合計には届きませんでした。
政党間の争いの中で、第三極をめざした山県系の保守派議員の大部分が落選、衆議院の政党化がすすみました。
最大の問題は、この選挙が普選運動、さらには日本の民主主義運動を一気に沈静化させたことです。
「国民は普選を望まなかった」という主張が声高に語られ、
「政治を自分たちの手に」と協力して運動を進めた人々は挫折し、別々の方向を歩み始めます。
友愛会は普選運動から撤退しストライキなどの直接行動に、青年や学生たちは労働運動や農民運動に参加、マルクス主義の影響をうけるものも増えます。社会主義者たちは普選運動の意義を感じなくなりました。
多くの人が普選運動から離れていきました。
同時に政党政治とくに政友会への信頼も低下しました。
東洋経済新報は原暗殺の直前に以下のようなコラムを掲載しました。
野党政治家の中には大正初めの憲政擁護運動の再現を夢見ているものがいる。…あの頃は国民は政党に大きな信頼を置いていたのであり、協力で横暴な官僚を倒して政党政治さえつくれば「国家の面目」は全く一新すると考え…信じていた。…
ところが今日では国民は政党に失望してしまっている。大隈・原の両内閣の施政、近頃の有様は、政党に対する国民の信頼を裏切るに充分であった。政党は「政権を私する為の朋党」であり「国利民福を念とする団結」でないことが、あまりに歴然とした。
国民の信望がこのようにすでに政党を去った今日、いかに好い題目を掲げても、国民の血を政党のために沸き立たせることは出来ない。
1920年の普選運動の高まりは「国家の面目」を全く一新する格好の機会でした。しかし国民の支持の上に政党政府をうちたてる機会は失われ、国民と政府の間にふたたび距離感が生まれました。
(3)原内閣による国家統合の強化
政友会の圧勝は国民の圧倒的多数が原内閣を支持しているとの口実を可能としました。
原は「数の力」を背景に、明治憲法の多元化を克服し、政党政治による国家統合をいっそうすすめます。
原は、山県閥の拠点・貴族院において有力メンバーと結ぶという貴族院縦断政策をすすめ、政友会系グループを形成します。
枢密院でも山県閥の力は低下します。
独立性がとくに強い軍部では、機を見るに敏な陸相田中義一が内閣主導のシベリア撤兵を支持するなど原内閣にたいする協力姿勢をみせ、国家統合が進み始めたように見えました。
こうした変化は、原が山県のもとを足繁く通い、合意をとりつけるという妥協の産物でもありました。国民の力で変革を進めるのではなくさまざまな権謀術数によって得た「数」を武器に、旧体制側の妥協を引き出し国家統合を進めるという原の手法が完成しつつありました。
(4)原内閣の行き詰まりと原の死
原内閣を支えた条件の一つは、大戦景気によって急増した豊かな国家財政でした。それが鉄道網の整備や高等教育の充実、なによりも巨額の軍備拡張を可能にしていました。
ところが、この条件は1920年3月一挙に崩れました。
戦後恐慌の発生です。
銀行の取り付けは169行、休業は21行におよび、会社の倒産も相次ぎました。不況は農業にも波及、生糸価格はこの年の最高値の1/4に暴落、米価も1/2となりました。
これにより、積極財政の条件が失われました。
原内閣は恐慌救済のため、銀行や株式市場を通じて救済資金を支出せざるを得ませんでした。不況は企業から賃上げの体力を奪い、争議は深刻さを増し、仕事を失った人々の苦境も広がり、そのことが原内閣への反発へとつながります。
こうした状況下、次々と汚職事件が明るみに出ます。
東京市疑獄問題では政友会関係者が多く逮捕され、原の旧知の古賀廉造は没収したアヘンを密売し、満鉄副社長の中西清一は炭鉱・船・企業を満鉄に不当に高い金額で購入させリベートを政友会の政治資金としました。さらに、原の声掛かりで東京府知事となった友人の阿部浩は収賄疑惑をうけました。
原自身は個人的には清廉で、その生活も質素だったのですが、私事に左右される人事を行い、利権を分配するという政治手法であったことは否めないでしょう。
こうして原への逆風が強まる中、右翼勢力の反発を買う二つのできごとが発生します。
一つは皇太子の訪欧問題です。原は、皇族も洋行して見聞を広げるべきとの立場から、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の訪欧を強く勧め、これを実現させました。
今一つは皇太子妃の内定問題です。
きっかけは山県でした。山県は皇太子妃として内定した久邇宮良子女王の血統に色覚異常があると問題視、内定を辞するように働きかけました。山県との関係を重視する原もこれに同調します。
ところがこうした動きに対し右翼勢力が激しく反発、さらに良子女王が薩摩・島津家の血統につながっていたことから薩摩閥も動きました。皇太子訪欧は実現したものの、皇太子妃内定問題は山県の完敗におわり、山県の政治生命も事実上絶たれました。
山県を支持し、訪欧をすすめた原にも大きなダメージでした。
こうして、平民宰相として期待された原への批判も高まっていきます。岡義武は『近代日本の政治家』において、以下のように記します。
原内閣下の露骨を極めた党勢拡張、それに伴って生じたさまざまな政治的腐敗、しかもこれらに対して野党をはじめ広く世上に沸き立つ烈しい論難に直面しながらも絶対多数党の威を恃むごとく見える原の傍若無人、傲岸不遜の態度、原とその内閣とは、甚だしい不評・非難を世人の間に買うに至っていた。(岡義武『近代日本の政治家』)
そして1921年11月ついに事件が起こりました。原が東京駅構内で刺殺されたのです。
犯人は19才の転轍手中岡艮一なかおかごんいち、原のいくつかの失政を指摘していましたが、実際の動機は原を殺せば名をあげられるという奇妙なものでした。
しかし右翼団体の間では直前に犯行を予告するような噂があり、こうした団体の関与が考えられています。
(5)原敬の政治とは何であったのか。
坂野潤治は著書『日本近代史』のなかで、日清戦争前の1893年から1924年の普通選挙法制定にいたる時代を「再編の時代」ととらえ、この時期の課題を
①官僚内閣を倒して政党内閣を樹立すること。→「政治主導」の確立、
②農村地主の特権を廃して、都市商工業者や労働者、さらには農村の小作農にも選挙権を与えること。→「普通選挙権の樹立」
の二つにまとめました。
そして、ほかならぬ原こそが「再編の時代」の課題を拒み続けた保守的政治家であると指弾します。
たしかに原は、講和条約反対、桂園時代、大正政変、米騒動という国民の運動の盛り上がりを勢力拡大には利用しただけで、かれらと結ぼうとせず、普選運動のたかまりに衆議院解散と制限選挙下での「国民の審判」を仰ぐという手厳しい冷水を浴びせかけました。
このように普通選挙にみられる民主化に敵対したことは明らかでしょう。政府を国民の信頼の上に確立するという点で坂野の指摘は当を得ているといえます。
しかし①の「政治主導」の確立という点ではどうでしょうか。
三谷太一郎は「明治憲法は表面的な集権主義的構成にもかかわらず、その特質はむしろ分権主義的」であり、日本の政治は「政治は遠心的であり、求心性が弱かった」。そのため「体制を全体として統合する機能を持つ、憲法に書かれていない何らかの非制度的主体が不可欠」だったと指摘します。(『日本の近代とは何であったのか』)
この「統合」の役割を藩閥、さらに藩閥の代表による元老集団が担っていたのが明治の日本政治でした。
こうしたあり方と一線を画する存在が衆議院でした。「国民(の一部)」の正統な委託を受けて政治の場面に出現した彼らを旧勢力は掌握できず、両者は暗闘と妥協を繰り返します。それが桂園時代であり、衆議院側のリーダーとして政友会を率いたのが原敬でした。この暗闘における原の最大の武器が政友会の議席数でした。
原はこうして旧勢力の力を少しずつそぎ落とし、ついに首相として内閣を組織、さらに旧勢力を追い詰めました。「官僚内閣を倒して政党内閣を樹立」し「政治主導」を実現しつつありました。
原は「山県系藩閥勢力の抵抗を排除して議会を基礎とした政党内閣を実現すること」(川田稔)をめざし、最終的には「イギリス風の立憲君主制」(伊藤之雄)を実現しようとしました。
それは、薩長藩閥勢力など一部の勢力が国家が運営されるという状態を脱し、国家を日本全土の国民の上に打ち立てるという取り組みでした。それは「一山百文」として切り捨てられた「東北の復権」でもありました。
こうした点からみると、やはり原は「再編」の重要な担い手といえようにおもいます。
原の手法には多くの問題がありました。
国民を信頼し、その力を引き出すという民主主義的な手法を拒絶し、「軍隊的規律」でしばられた政友会の「数」の力を背景に、旧体制の打破を旧体制との妥協で実現しようとしました。そのやり方は権謀術数を駆使するという手法となっていきました。
もうひとつの問題は議席数を増やすための手法です。
鉄道利権を中心とする地方への利益供与、利益供与を可能にするための必要以上の旧勢力との妥協、自党に都合のよい選挙法の実施、地方権力を自党支持者で支配するといった手法などがこれにあたるでしょう。
原は潤沢な政治資金を準備して議員たちに供給するとともに、いろいろな利権を供与しました。
こうした政友会の構造が多くの疑獄・汚職事件を誘発する背景となりました。
とくに政友会が政権の座につくとより多くの利権が政府に集中、汚職や腐敗があふれだしました。
「数」の確保の他の側面は、政友会という組織の維持でした。
原の党運営は「軍隊的」と評されるように抑圧的・独裁的といわれます。原は党内の意見対立や党外からの工作に、神経質に対応しました。決定困難な場合には決定の先送りや公約数的な内容での妥協などもはかるため、画期的な政策は採りにくくなりました。
こうして政友会においては党内民主主義も働きにくく、政策の多くも原をはじめとする幹部の意向にそったものとなりがちでした。原という圧倒的な権力者の前に、政党の維持自体が自己目的化していきます。
政友会が巨大化し、原の存在感が増す一方で、政友会内部では対立が拡大、旧来の党員と官僚出身者など新しい参加者の間の暗闘も存在しました。
政友会は、原敬というカリスマ的なリーダーがいてこそ維持できる状態でした。しかし、その政友会の中に、原が生涯をかけて追い続けようとしていたものが継承されているか、心細い状態でした。
さまざまな政策の提案、政権運営、党運営、こうしたものは卓抜した政治家原敬であったから可能なことでした。
原の問題の一つは、自分のやってきたことを他のものに期待することは困難であることを理解していなかったことかもしれません。ワンマン政治家の陥りやすい罠だったのかもしれません。
山県は、原が元老の一員となって、日本の将来を担うことを期待していたといいます。それは原が作ろうとしてきた政党政治による国家の統合という理想とは矛盾する期待です。
山県は、原が、天皇制国家の分散性を政党政治家としてではなく元老として統合することの方が望ましいと思っていたでしょう。
もし原によりさらに寿命が残っていたら、どちらの道を歩んだでしょうか。
原の正統な後継者であるはずの政友会が軍部の補完勢力となって日本をさらなる侵略戦争へと導き、逆に山県の後継者ともいえる元老・西園寺や牧野伸顕ら宮廷勢力が、ついには天皇自身が軍の暴走を制御せざるを得なかった歴史的経過も考えると、興味深い問いかけになります。
当の原は「かれを殺せば自分の名前をあげることができる」と考えたひとりの青年によって、1921年11月暗殺されました。
Ⅵ、おわりに~政党内閣の定着に
原の死後、高橋是清が政友会総裁として首相となり、全閣僚をそのまま引き継ぎ形で首相となります。
ワシントン会議を成功して国際協調外交に道を開き、軍縮を実現させ、健康保険法など原が残した課題を次々と実現していきました。
しかし、戦後恐慌にはじまる慢性的な経済不振は積極財政を困難としました。新参者の高橋が政友会内部の深刻な対立をまとめることも困難でした。さらに高橋がかつて参謀本部無用論を唱えたことを元老たちは快く思っていませんでした。
政友会内の対立は拡大、1922年5月高橋が内閣改造を図るために辞表提出をもとめたところ3名の閣僚が拒否、高橋内閣は閣内不統一により崩壊しました。
高橋は再登板を希望しましたが、元老たちは高橋をきらっていました。原首相暗殺という非常事だから高橋を推薦したにすぎなかったのです。憲政会の加藤高明も外相時代の強引な手法が嫌われていました。
こうしてこの時期の政党政治は二内閣で終わり、海軍大臣の加藤友三郎が首相となりました。
加藤は陸海軍の軍縮をすすめ、軍縮や行政費縮減で得られた資金で営業税軽減や地方財政充実といった政友会内閣のすすめた政策を継続しました。シベリア・山東省からの撤兵を実現、対中国協調外交も続けました。しかし中国に対して弱腰であるとの批判も高まり始めました。
1923年8月、加藤友三郎は現職のままガンで死亡、西園寺が選んだのは海軍の山本権兵衛でした。ところが組閣途上の9月1日関東大震災が発生、内閣の親任式は崩壊を免れた赤坂離宮の庭園で行われるという有様でした。内閣は震災対応と復興に忙殺されつつ、普通選挙法の実施もめざしました。しかし12月テロリストが摂政宮(のちの昭和天皇)を狙撃した虎ノ門事件がおこると、山本は責任をとって総辞職します。
この緊急事態に西園寺が推薦したのが枢密院議長の清浦奎吾でした。しかし山県直系の官僚政治家の組閣に各政党は強く反発します。政友会では高橋ら主流派が倒閣を目指し憲政会・革新倶楽部と共同で清浦内閣打倒の方針を出すと、床次竹二郎らは離党し政友本党を結成します。こうして原が育てた政友会は分裂します。
護憲三派内閣が崩壊し、高橋が総裁を引退すると、政友会は普通選挙における在郷軍人会の組織票なども期待して陸軍・長州閥の田中義一を総裁に迎えます。田中の下で政友会は対中国積極政策をすすめ、戦争の時代への大きな一歩を踏み出す手助けをします。さらに後継者たちは統帥権干犯攻撃や満州事変での対応などを通じて議会政治・政党政治の自殺ともいうべき事態をつくりだしていきます。こうした政友会の未来、原はどのように思うだろうか、聞いてみたいような気がします。
さて内閣打倒をめざしたす三党は護憲三派を結成、特権内閣打倒・政党政治確立をもとめて第二次護憲運動を起こし、選挙では普選の実現と貴族院改革の二点に絞って運動をすすめました。その結果、三派で464議席中286議席の過半数を獲得しました。
なお、第二次護憲運動とはいうものの第一次護憲運動とは比べるべくもない政党中心の運動であり、民衆による運動も不活発でした。
こうして清浦内閣は総辞職、西園寺は憲政会総裁の加藤高明を首相に推薦、いわゆる護憲三派内閣が成立しました。
こうして、以後7年間にわたって政党内閣の時代が始まります。
<桂園時代から原敬内閣へ>
1:桂園時代
2:大正政変と第一次大戦
3:原敬内閣~本格的な政党内閣
<参考文献>
岡義武「近代日本の政治家」 伊藤之雄「原敬(下)」「山県有朋」
小林道彦「近代日本と軍部 1868-1945」
川田稔「原敬と山県有朋」 千葉功「桂太郎」
季武嘉也「原敬」「大正社会と改造の潮流」
三谷太一郎『日本の近代とは何であったか~問題史的考察』
坂野潤治「近代日本の出発」「日本近代史」
武田晴人「帝国主義と民本主義」「日本経済史」
松尾尊兌「大正デモクラシー」成田龍一「大正デモクラシー」
鹿野政直「大正デモクラシー」金原左門「昭和への胎動」
加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」
江口圭一「二つの大戦」
宮地正人「国際政治下の近代日本」
※高校日本史用図表(浜島書店・山川出版社・帝国書院)