植民地化以前の台湾「近代化」(メモ)

世界史と日本
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今回も、大学で受けている授業をもとに考えてみたものです。
授業で学んだことと、調べたこと、考えたことがごちゃごちゃになっていることをお許しください。
 またあくまでも自分用の備忘メモですので、ご承知ください。
おもに授業で学んだ内容はオレンジ色を用いて、区別していますが、完全に区別できたわけではありません。

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今回の台湾史の授業は19世紀の台湾の歴史に関わる内容であった。
その内容を下に、考えたことをまとめてみる。

1858年、列強からアロー戦争の結果、押しつけられた天津条約の開港場に台南・淡水2港が含まれ、これによって台湾は本格的に世界資本主義の枠組みに組み込まれる。(開港場でなかった基隆(鶏籠)・高雄(打狗)もそれまでから開国商人が出入りしていた関係で開港される)その際、主要な輸出品となったのが砂糖・茶・樟脳といった商品作物であり、両岸交易の主要な商品であった米とともに栽培が拡大する。
さらに基隆郊外で産出される石炭も輸出品として位置づけられる。(ちなみに輸入品は「アヘン!」と織物)
貿易の担い手は洋人(欧米人)の商人であったが、実際に栽培者と彼らを結んだのは「買弁ばいべん※」とよばれた商人たちであった。

こうした動きは日本の開港と似た事態が発生している。日本では外国人の国内旅行が禁止されたこともあって、「買弁」商人の役割を製糸業の産地などの在郷商人や横浜などの商人が果たした。また近年の研究では、中国商人(華僑)の役割を重視する研究もあるとのこと。
なお、台湾(中国)ではこうした商人が「買弁」という「外国の手先」とした差別的なニュアンスをもって捉えられたのに対し、日本ではこうしたニュアンスが少なかったようにみえる。(台湾では輸入品の過半数がアヘンであったのに対し、日本の商人は扱わなかったことなども関係があるか。また日本では貿易品を扱った特別な商人というより、こうした商人自体に「国民」的な広がりがあったからかもしれない)

※買弁…① 中国で外国資本と中国人とが取引きをする際、その仲介人となり、前者に従属しながら後者から中間搾取を行なった、中国の商人・商業資本。〔モダン辞典(1930)〕
② 植民地・発展途上国などで、外国資本と結びついて利益を得、自国ないし自国民の利益を抑圧する土着の資本、または資本家。
(コトバンク「精選版日本国語大辞典」より)

日本では、開港による輸出という刺激によって製糸業を中心に一挙に農村でのマニュファクチュアが広がったのと同様に、台湾では在地の有力者、さらに中堅の農民たちの共同経営による小規模な製糖所が次々と創業されるなど、貿易に対応しつつも従来の台湾資本が柔軟に対応していった様子をみられた。

日本において、開港と同時に急速に貿易額が拡大したのは、すでに流通・生産という経済的発展が貿易の開始というインパクトに十分対応できるだけの段階にあったと考えられる。
これをあてはめると、台湾においても、洋人たちが直接流通網の把握や農園の整備をしなくとも、商品作物生産に対応して自らを改造していける発展段階にあったことが予想できる。
ただ日本とは経済規模に大きな差があるため、一概に同一視することはできないが。

こうした開港時の台湾経済の発展の背景として、いくつか考えてみた。
①「台湾」の「開発」「植民」がアメリカや北海道に見られるような圧倒的に有力な「外の勢力(=漢人たち)」が先住民族を追いやる形ですすめられ、そこに、すでに高度に発展していた清朝期の経済制度(商品生産)や科挙や私塾などの文化をも移植したこと。
②台湾では早い時期から甘蔗や米が商品作物として作られ、日用品を本土から輸入するという商品経済が生まれていたこと
③とくに漢人は彼らの故地である対岸の福建省、福建省などの出身者による華僑の流通ネットワークの一環のなかに組み込まれ、東南アジアを含めた経済圏のなかの「植民地」として開発される性格を持っていたこと。つまり、漢人の「植民」自体が、ネットワークに「商品」を供給するという意味合いをもっていたこと。
④入植において墾戸とよばれた有力者が影響下にある人々を率いるという方法をとったことなどもかかわりがあるのかもしれない。
ともあれ、東南アジアや南アジアにおける「近代化」、欧米人による農場経営・インフラの整備といった方向性とはかなり異なっていたように見える。(こうした捉え方は変化しているのかもわからないが)

すくなくとも、19世紀中期において、台湾においては開港という事態に際し、ある程度主体的に対応しうるだけの内在的経済発展が存在していたことは明らかである。

1895年までの20年間、台湾は清のなかでも、経済発展が顕著な地域であった。浅野和生は、この時期の中国大陸における貿易額の平均成長率が3.4%なのにたいし、台湾は8%、清朝支配地の中では輸出超過が継続する成長センターであったと指摘している。

 主要な輸出品が茶や樟脳(原料はクスノキ)であることは新たな問題を生み出した。なぜならこういった作物は島西部の平地ではなく、少数民族の多く居住する山地と接続する丘陵部で作られ、こうした作物生産は少数民族の土地と資源を奪うことに他ならなかったからである。これにより、開発を進める漢人と少数民族とくに高山族とのあいだでの抗争が頻発する。こうした抗争は、大農園を経営する「豪紳」たちに有力な漢人のリーダーたちに武力を用いる武装集団のリーダーという性格を付加させた。そして、その活動によって少数民族、とくに高山族たちをさらに山岳部に追いやることとなる。

こうした点に見られる内在的な「近代化」と、日本植民地下での強要された面を強く持つ「近代化」、双方の関わりの中で、台湾の近代化を見ていく必要があると思われる。

1874年の台湾出兵は、アヘン戦争・アロー戦争に次ぐ東アジアの華夷秩序を大きく揺さぶる事件であった。
琉球王国の併合をめざす日本は、1871年に発生した台湾先住民による琉球・宮古島使節の殺害事件(「牡丹社事件」)への謝罪を清朝政府に要求、清国政府が先住民を「化外けがいの民」と釈明すると「化外の民」の住む地は清国領土外であるとして強引に出兵した。
長く東アジア世界を支配していた国際秩序(「華夷秩序」)は中国を中心とし、周辺になるにしたがって中国は影響力を減じていくという形であり、属国もかなり形式的な存在で実際の外交や政治にはあまり介入しない、それが本来の華夷秩序の立場であった。
台湾は、福建省の一部として位置づけられてはいたが、「何か起きたらそれに対応するという消極的な政策」をとりつづけ、漢人が禁制をやぶって開拓するという事実がおこってから、そこに役所を設置するという姿勢がつづき、台湾出兵で問題とされた島東部は翌年の1875年になってやっと版図に組み入れられた状態であった(浅野・前掲書)
しかし、華夷秩序の論理からみれば、それであっても皇帝にしたがう人民・領土であり、そのなかに皇帝の威がおよばない「化外の民」がいることは何ら不思議ではなかった。
日本がつけ込んだのは、東アジアの旧来の国際秩序と、欧米列強が持ち込んだ主権国家体制(「万国公法」体制)の間隙であった。主権国家体制では国家は国境線に囲まれ、そのなかにいるものは「国民」として国家が責任を負い、国境の外は無関係である。こうして「『化外の民』が住む台湾は中国領でない」という論理で出兵したのである。
台湾出兵、さらには1879年の日本の琉球併合は、清に「華夷秩序」が東アジアにおいても通用しないことを自覚させた。こうして清は「万国公法」的な位置づけによる本格的な台湾経営をはじめる。
砲台をはじめとする軍事施設が増設され、西洋の近代技術導入による石炭採掘、電報網などの整備、道路の開通、東部開発などが中国人中心にすすめられた。しかし清朝の官僚制の弊害と台湾軽視のなか、しだいに行き詰まりを見せる。

1884年、清仏戦争においてフランス軍は台湾へ侵攻、一時基隆などを攻撃するが、劉銘傳率いる清軍によって撃退される。1885年清は台湾省を設置され巡撫として劉銘傳(写真の人物)が任命された。
劉のもと、「新政」とよばれる改革がすすめられる。
土地調査とそれに伴うと隠田摘発、人口調査と税改革、鉄道・道路の建設、産業育成など、のちの日本統治下での改革を先取りするような先駆的な改革が進められた。
劉を「台湾近代化の父」とする記述なども見られる。
しかし、改革に対しての住民側の反発も強く、その成果が十分に上がったとはいえないまま、日本の植民地時代へと移行していく。
台湾の学会において、こうした植民地以前の経済、政治における「近代化」が日本統治下、さらには現在の台湾の発展の「台木」となったという主張も見られるという。
こうした改革が、日本侵攻に対するアジア最初の共和制国家「台湾民主国」創設の背景になったこと。さらに「『ボロ』を出させない程にブルジョワ的物的条件が朝鮮と比べて広汎に存在していたこと」や劉の下での改革などが「日本人地主の水田地帯における形成ならびに「東洋拓殖会社」の類似会社の台湾における成立を阻んだ」などの指摘もある。(戴國煇)

しかし、台湾の近代化が始まったのは、植民地期にあるのか、植民地以前に見られるのかという議論は近年においてはやや下火になっている。

たしかに、「近代化」は外圧・あるいは植民地化という外からファクターを重視すべきか、内在的な社会・経済・政治のファクターが強いのかという議論は、ナショナリズムというバイアスがかかりがちであるため激烈な議論となりがちであるが、両方とも重要であったという折衷的な回答しか提出できない不毛な議論となりがちである。両者が密接に絡み合い、それぞれの「近代化」をなしとげていったと考えるべきである。
戴國煇はいう。
当時の世界史的段階においても植民主義によって扼殺できない程に発展した厚い層の地主が存在し、資本主義への胎動をもった台湾経済といった『台木』があったからこそその後の接ぎ木効果が経済面において可能となり、国民所得の再配分に歴然たる民族的階級的差別等のひずみはあったが、『植民地的経済発展』の具現化も又可能となったのである。
(中略)
 植民地統治を受けたあらゆる国は何らかの意味でプラス、マイナス両面の植民地遺産を具える。マイナス面はさておき、経済発展にプラスと思われる遺産も、その存在や形成の程度は植民地統治前史とむ関係ではないし、ましてや植民地統治から解放された後、それらの遺産を守り且つ自らの経済発展の手段として活用していく主体はあく迄かっての一社である。」(『台湾史の探索』P55)

「近代化」は一般に考えられるようなバラ色のものではなく、一面では残酷で重苦しい側面を持つ。さらに植民地とされた地域は、植民地化という苦難がそれに付け加えられる。そのなかで、「近代化」がすすむ。植民地における近代は、こうした苦難の相乗効果のなかですすむ。

しかし、近代化の輝かしい面ともいえる「民主主義」「人権」といった面をみれば、かつてこうした苦難のなかで「近代化」をすすめた国でこそ、実態をともなって、花開いているようにみえる。
東アジアで、もっとも実態として民主主義が機能している国は、韓国であり、台湾であるようにみえる。こうした事実は、こうした「近代化」の逆説を示しているようにも見える。

<参考文献>
戴國煇「清末台湾の一考察」『台湾史の探索』(みやび出版2011)
浅野和生『台湾の歴史と日台関係』(早稲田出版2010)
遠流台湾館編著『台湾史小辞典』(中国書店2010増補版)
周婉窈『図説台湾の歴史』(平凡社2013増補版)

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