「元歴史教師」にこだわりたい。
このホームページへのアクセス数が、昨日2019年8月11日、40万件を達成しました!
おっかなびっくりではじめたこの「日本近現代史の授業中継」、2年と4ヶ月足らずでこのような数字にまで来たことに感動しています。
もちろんちょっとのぞいただけ、写真をみてたら勝手に飛んだだけというも多いとは思います。そうであっても多くの方の目に止まっただけでも光栄です。
ネット上の「近現代史」に一石を投じたい。
このページを始めた頃、ネット上で「近現代史」として検索すると、ヒットするものの多くは、研究者からは相手にされない、ちょっとわかっている人から見れば噴飯物のような歴史修正主義があふれており、読んだ人を誤った歴史認識に誘導するようなものでした。
「いろいろな人、とくに高校生や大学生たちが安易にネット検索で参照し、ホイホイと利用すれば困るな」という内容のものも多々ありました。
そういった記事に対して、もう少し「まともな」内容を提供できないかな、一石を投じられないかな、というのもこのページを始めた一つの理由です。
この点では少しくらい意味があったのかなとは思っています。
また、毎日現場で頑張っておられる先生方、近現代史に興味をもったり気になることを調べたいというみなさん、勉強・研究のとっかかりを求めておられる生徒・学生のみなさん・・などなどに少しでも参考になれたのではないでしょうか。
この点でも少しは役だったかなと、勝手におもっております。
いかがでしょうか。
大学や高校の先生にはコピペのネタとして迷惑をかけている面もあるかもしれませんが・・。
「歴史にかかわるチーム」という考え方
文章を書きながらいつも思うのは、歴史の教師という仕事です。いつも気になり、心配なのは、十分に史料にあたらずその史料批判もなしで、しかも十分な研究史にもあたれないまま、数人の研究者たちの成果に依存して書かざるを得ないということです。さきほどの怪しい歴史修正主義的なしろものとしっかりした一線を引けているかということです。この記述で本当にいいのだろうか、いつもいつも気になっています。
しかし、私は居直ることにしました。
かつて、私の仕事であった授業は、そうでもしなければやっていけないからです。
そして「歴史にかかわる仕事は分業体制で成り立っている」と考えたからです。歴史認識を伝える仕事を「歴史にかかわる仕事」としてとらえた場合、それは歴史学者や歴史研究者だけでは完結するものではない、チームとしての仕事だと考えるようになったからです。
史・資料を発掘し、読解し、史料批判を行い、そこから史実を確定、専門書さらにはそれに基づいて「啓蒙書」を執筆するに従事するのが歴史研究者・歴史学者。それは大学や研究所、博物館などの研究機関でかかわる人もいれば、他の仕事をしながらこつことと研究を続ける民間の研究者もいます。もちろん、教師のなかにもそういう人は多くいます。こうした人たちによって次々と新しい史実が発見され、歴史像を更新させてきました。
こうした研究にヒントを得ながら、それを土台に、自らの想像力によるフィクションも交えながらその時代とそこにに生きた人間のドラマを描き出す文学者・歴史小説、あるいは映画やテレビドラマなどを製作するひとたち。歴史漫画家。かれらがもっとも影響力を持っているかもしれませんね。
歴史のひとこまや隠れた事実などを探求したりする記事や評論をかいたり、ドキュメント番組やクイズ番組をつくる人たち、記者、ジャーナリスト、評論家。歴史学と違った分野の研究者なども大きな影響力を持っていますね。
忘れてならないのは観光などにかかわる旅行関係のジャーナリストやガイド・案内人。各種旅行番組。旅行サイト、往々にしてこまった説明をされ、聞いていてえ〜と引いてしまうこともママあります。
そして学者・研究者の成果をもとに(それは教科書という形で一部具体化されてもいるが)学ぶ人にわかりやすい説明にあった例(ときには不適切なことも多いのですが)を考えたり、図や表にしたり、討論を組織したりしながら、さらにはテストやレポート・作文など、あの手この手のさまざまな手法を用いて、被学習者に歴史研究のエッセンスを選択し「翻訳」して伝えていくのが歴史教師。
こうしたものがあつまって、人々の歴史認識、世界認識や現代認識の形成にかかわるチームを形成しているのです。
このように整理して考えると、歴史教師の役割は、本質的には史料に基づき正確な研究を進めるという研究者・学者ではありません。(もちろん両方を兼ねている方は多いのですが)そんなことをしていたら授業などできません。歴史の全体像を頭に置き、時間的制約など物理的制約も頭に入れながら、学んでほしい内容を自分なりに選択し、被学習者の歴史認識の形成に当たるという仕事です。ひとつの事例に焦点を当て深めていくという多くの研究者のやりかたとは自ずと役割が違うと思います。
しかし研究者の到達点を学び、伝えていくことによって、歴史小説家・歴史ジャーナリストなどと同様に人々の歴史認識の形成に大きな役割、使命をもつ仕事です。
元「歴史教師」の誇り
歴史教師の役割は、こうして歴史学者・研究者とともに、人々の歴史認識さらには世界・現代認識を培う役割を担う一員であるということです。
もちろん研究の「生産」者たる学者・研究者のしもべではありません。歴史学ではやっているテーマでも、それが目の前にいる人たちにとって意味が少ないと感じれば無視しますし、逆にすでに評価の決まっている時代遅れのテーマであっても時間をかけて教えます。あえて古い切り込み方で分析、教えることもあります。
歴史学の成果を、学び、評価しながら、歴史学の人からすれば、やりすぎと思うほど単純化し、歴史小説や教養番組風の方法も用いながら、自分たちの前にいる人たちに向かってわかりやすいことばで、なぜそれが重要なのかという自分なりの理由も交えながら伝える。授業という形式をとって「叙述」していく仕事、それが歴史教師の役割だと思います。
そういう意味では、歴史教師も立派に「歴史家」(歴史叙述を行うもの、という意味で)であるし、その自覚をもつ必要があると思います。この考えは、このページを始めたころから変わりません。
私は、最近、自覚的に「元高校歴史教師」という肩書きにこだわりたいと思っています。歴史学者の下請けでない、歴史教師としてやってきた仕事と役割に自信を持っていますし、おなじ「歴史にかかわる仕事」をしてきた一員として、研究者の方々と対等に渡り合いたいと思っています。(とはいえ、親しくしていているH先生やK先生、さらにはA先生の前ではいまでも萎縮してしまうのですが)
町外れの「個人商店」として
歴史の教師というのは、歴史研究の「生産者」とはいいきれないが「消費者」でもない。私たちの仕事は研究者から仕入れてきて小分けにし、三枚に下ろすなど加工をして「消費者」に売るいわば「小売商」というところなのでしょう。
私は教育現場は離れましたが、同じような仕事をこのページを通して行いたいと思っています。
このページは、町はずれの「個人商店」ではありますが、隠れた場所にひっそりと立っている個性豊かな本屋さんや魚屋さんのように「鮮度の良いもの」「癖が強いが栄養のあるもの」「下の方にかくれていてもとても素敵なもの」「一部では必要とされるちょっとマニアックなもの」そして「定番」などなど、いろんなものを探しだしてきて「翻訳」し「加工」し、その良さを伝えながら、「店頭」に並べたいと思っています。
ぜひご利用ください。
なお、一部に「鮮度の落ちたもの」「痛んだもの」⁈も若干まざっています。変な表現という「小骨」はやまほど混ざっています。なにしろ個人商店なので手が回りきれないところが多々ありますので、ご利用に際してはご注意願います。
十分な検討をできないまま教壇に立たざるをえないという「仕事の性格上やむを得ない」と居直ることをお許しください。
研究等で正確を期される場合は、歴史研究者の専門書、必要に応じ直接に史・資料を参照していただきますようお願いします。
また店主は極端に小心かつずぼらなので、クレーム処理する能力に欠けております。お許しください。
これまでの皆さまのご愛顧ご支援に深く深く感謝します。
本当にありがとうございました。
そしてこれからもよろしくお願いします。
敬白
注:FB版に書いた文章を元に一部かきあらためました。