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歴史を「道徳」に貶めてはならない

歴史を「道徳」に貶めてはならない

本日(20,6,18)の「東北アジア史」のオンライン授業が終了した。
本日の内容は皇民化政策、連合国による戦後構想など。
そのなかで、対日協力者の扱いの問題が触れられていた。
次の時間のテーマにつながるのかとおもいつつ、この点を意見質問欄に書き込んだ。今回はその内容に手を入れたものをアップした。

台湾人すべてが「対日協力者」とみなされた?

ありがとうございました。
「対日協力者の扱い」という点、考えれば考えるほどいろいろな課題がありそうですね。

林献堂 台湾の民族運動家・資産家。台湾の自治議会設立請願運動などをすすめていた。1945年4月貴族院議員となる。

台湾で、中華民国政府は対日協力者を処罰せず、逆に自治議会運動にかかわり最終的には貴族院議員として日本に協力した林献堂と、蒋介石が笑顔で握手しているのですから。林は対日協力者として意識されているのでしょうか、ある研究者は民族運動家という面だけで林を評価し、貴族院議員・対日協力者という点には触れられませんでしたが)

しかし、話を聞きながら逆のことを考えました。
国民党というか、外省人は台湾の人間すべてをトータルに「対日協力者」「敵」として扱っていたのではないかと。
中華民国の台湾獲得とは、敵(「日本」)から自領をとりもどすとともに、その対日協力者(「台湾人」)をトータルに統治から排除したようにも見えます。政治・行政機構はもちろん、国公営企業の経営からも排除し、「味方」である外省人が独占する。「差別」は容易です。外省人(大陸系中国人)と内省人(旧日本籍中国人)という確実に分離されたカテゴリーがあったからです。理由付けとして、中国語(北京語)の習熟度などを名目にしました。台湾人は北京語をしゃべれない「二等中国人」であり、もっといえば「敵性中国人」として扱われました。個々人の「対日協力者」は罪を問わない代わりに台湾人すべてが「対日協力者」とされたのでは、と思いました。

誰が「対日協力者」なのか?誰が決めるのか?

これにたいし、韓国の場合はどうでしょうか。
台湾のように全体を「対日協力者」としてトータルに捉えることは不可能です。そんなことをすれば、国外ないし獄中で抵抗をつづけている一部の運動家を除き、すべてがこのカテゴリーに含まれてしまうからです。

蔚山の市場の風景 https://11958787.at.webry.info/upload/detail/123260429466716215814.jpg.html

戦争中、多かれ少なかれすべての日本人が「戦争協力者」であったように、半島内で普通に生きていたほぼすべての朝鮮人(「朝鮮系「日本」人」)が、何らかの意味で「対日協力者」にならざるをえなかったからです。
税金を払い、法令を遵守し、子弟を学校に通わせ、警察などの命令にとりあえず従う。総督府の命令に耐えきれず、日本人風の名を名乗る・・・。

韓国では、個人のなかに対日協力者=「親日派」を捉えることになります。何らかの基準を設けて。
日本に協力して朝鮮人に被害を与えた、総督府の統治に能動的な協力をおこなった、軍や総督府と結んで不当な利益を得たなどなど。
しかし、現実に当てはめれば、ありとあらゆるグレーゾーンがでてくるでしょう。
帝国議会への参政権を求める運動は朝鮮を日本の一部であるという前提に立っています、この運動は「親日」なのでしょうか。植民地議会を求める運動も日本統治を前提としています。韓国が独立するための力量を得るために総督府の役人となった人物は役人になってからも朝鮮に工場を誘致することが利益になると考え努力したと主張します。ある歴史家は「親日」と一刀両断にしましたが、その判断でいいのでしょうか。自分が戦死することで韓国人の地位が向上されると心底からおもって特攻隊に志願した青年は「親日」なのでしょうか。

 問題は、だれが、どのような権限で、こうした判断をするのかということです。そしてともすれば自分は無謬であると自称する人によって、判断がなされがちなのです。

植民地支配が作り出した「闇」と、「特効薬」

朴正熙(1917~79)師範学校卒業後、日本陸軍士官学校卒業。満州に配属される。一時南労党(共産党)に入党。61年クーデターで権力掌握、63~79年大統領として独裁政権を樹立、79年、暗殺される。

台湾では台湾人(内省人)は多くの公的な仕事からトータルに排除されましたが、韓国ではこれまで日本人が行ってきた業務のほぼすべてを自分たちで運営する必要がありました。
その際、実際には総督府や日系企業のエリート韓国人=「対日協力者」に頼らざるを得ませんでした。
軍隊や警察も同様です。かつて取り締まる側にいた人間が取り締まられる側にいた人間が机をならべる事態もうまれました。かつての「親日派」が「親日派」を取り締まる法律を策定する、逮捕するといった事例もありました。
こうして多くの人が、濃淡の違いはあれ「闇」を抱えたまま戦後を生きることになりました。
「闇」を抱えた人が他の人の「闇」を告発する、こうした苦悩のなか韓国は歩き出しました。親日派の分別と、逮捕と処罰はそれほど簡単ではありませんでした。ときに「親日」派への糺弾と処罰は政治的思惑と結びつきました。

こうした「闇」を見えなくために、朴正熙政権が強調した「特効薬」が、新たな敵「アカ」でした。
共産主義の侵略と戦うということを表に建てることで、「親日」という過去は第二義的にできたのです。朴自身が「親日派」であるとともに「共産主義者」でもあったのですが。

絶対的「正義」と萎縮する人たち

共和国(「北朝鮮」)は少し事情が違うかも知れません。印象とすれば、台湾に似た面がありそうです。
絶対的な「正義」を背負った抗日運動の闘士が外から入ってきて、解放者であるソ連の力も借りて、日本と戦わないまま「解放」のときを迎えた積極的・消極的な「親日派」を統治する形です。

この構図は、戦後の日本における「戦争協力」「転向」という問題とも似ているようにおもいます。
戦争直後の日本で「抗日英雄」の位置にいたのは、「獄中非転向」の共産党員たちでした。積極的・消極的に戦争に協力した、させられた幾多の人びとにとって、戦争中も戦争反対を唱え説を曲げなかったかれらは輝ける存在でした。それが共産党の無謬神話を生み出しました。
しかし戦時下の抵抗で得られた賞讃と、かれらが「正義」を独占することとは別問題です。あるいは転向し、あるいは戦争に協力したこと自体、行為や弱さを批判されることはあっても、人格を全否定されたり、かつての行動をもとに、その後の行為自体を否定することは違うと思います。誠実な人に限って、こうした落とし穴に落ちたように思えます。

歴史を道徳に貶めてはならない

歴史を善悪二元論で判断することは極めて危険であり、それまでの行動が正しかったからといって、それを権威として正当化することは誤りです。
その愚は現在の共和国(「北朝鮮」)指導者の例を見れば明らかだと思います。
21世紀に入り、韓国の盧武鉉政権が「親日派」の摘発をすすめました。たしかに歴史の「闇」を掘り出すうえでは有効でしたが、そこにその人間が「善」か「悪」かという二元論的な判断が入りこむことによって、歴史を「道徳」に貶めてしまったように思います。
豊饒な歴史事象、善悪でくくりきれない人間の存在、善・悪が一体化してすすむ「近代」をこうした「道徳」で描きだすことは、干からびた歴史像しか提供できないでしょう。
かつて小田実が「巻き込まれながら、巻き返す」重要さを説いていました。歴史においては、こうした視点が必須だと思います。
歴史を儒教的、二元論的な「道徳」に貶めてはいけないと思います。

現在、世界で過剰に「道徳」を歴史に持ち込む動きが広がっているように思います。

リー将軍(1807~70)像 南北戦争における南部連合の軍司令官。アメリカ史上屈指の名将とされる。

歴史上の人物について、人種差別主義者であったという面のみから捉えて全否定する動きです。コロンブスが、リー将軍が、チャーチルが、批判の対象として描き出されます。
ある人物を銅像にするということ自体が歴史を「道徳」として見ており問題があるのですが、逆に自分たちの視点だけから批判し、撤去をもとめることも気になります。
こうした動きを受け、映画「風と共に去りぬ」の配信が配信会社からいったんとめられました。しかし十分に注意を喚起した上で再配信するとのことです。こうした冷静な対応が必要だとおもいます。

歴史叙述において、善悪という道徳を語ることはときには必要だし、重要なことではあります。しかし「悪」として終わってしまえば、歴史叙述としては正しくないと思います。
歴史叙述には、悪や非道の中にも、客観的には歴史をすすめたことも認められるような、ある種のニヒリストの目が必要なように思っています。

例によって、たいそうな物言いになってしまい申し訳ありません。
次回は戦後ですね、期待しています。

何でも死刑!台湾の匪徒刑罰令

今日は、朝から、自宅で大学の授業をネットで受講。

内地と外地の法律面での違いなど。
とくに台湾では、内地や近代国家ではとうてい信じられ程、無茶苦茶な法令が作られていた。
そのひとつに匪徒刑罰令がある。

この法律の内容や日本の植民地支配については以下の文章も参照してください。

http://jugyo-jh.com/nihonsi/日本史aの自習室/植民地の「文明化」と「『日本』化」~参政権問/

なんでも、かんでも死刑とされた。
軍や警察に逆らったものはもちろん、電信柱を傷つけても、野積みの食料、さらにワラを燃やしても、人を匿っても、場所を提供しても、飯を食わせてやっても死刑というのだから、驚く。
こまわり君ならギャグで済むが、実際に行われたのだから驚く。
この法律をつくったのは、児玉源太郎、後藤新平コンビ。

ちなみに後藤は1896〜1902年の間で捕縛もしくは護送の際抵抗せしめたため」5673人、「判決による死刑」2999人、「討伐隊の手に依るもの」3279人合計1万1951人を「殺戮」さらにその他、9000人を「帰順証交付」と呼び出し、一斉射撃で殺した。と講演会で、得意げに語っている。原田敬一「日清・日露戦争」(岩波新書)p102〜3

年号に注意してほしい。公的な台湾掃討戦は1895年のうちに終わっている(中国人兵士・住民の死者14000人)。したがってこの数字は、それ以後の、別の数字である。
こうした残虐行為ののちに、「親日国・台湾」が作られたのである。

本日の講師の先生曰く、台湾では抗日勢力が根絶やしにされたので日本統治は比較的平穏であった。
朝鮮ではそれが残ったし、逃げ場もあったし、人口も多かったから、抵抗運動が以後も激しく展開された。

以下、匪徒刑罰令の全文引用。

全文引用。

第一条 何等ノ目的ヲ問ハス暴行又ハ脅迫ヲ以テ其目的ヲ達スル為多衆結合スルヲ匪徒ノ罪ト為シ左ノ区別ニ従って処断ス
一 首魁及教唆者ハ死刑ニ処ス
二 謀議ニ参輿シ又ハ指揮ヲ為シタル者ハ死刑ニ処ス
三 附和随従シ又ハ雑役ニ服シタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第二條 前條第三号ニ記載シタル匪徒左ノ所為アルトキハ死刑ニ処ス
一 官吏又ハ軍隊ニ抗敵シタルトキ
二 火ヲ放チ建造物汽車船舶橋梁ヲ焼燬シ若ハ毀壊シタルトキ
三 火ヲ放チ山林田野ノ竹木穀麦又ハ露積シタル柴草其他ノ物件ヲ焼燬シタルトキ
四 鉄道又ハ其標識灯台又ハ浮標ヲ毀壊シ汽車船舶往来ノ危険ヲ生セシメタルトキ
五 郵便電信及電話ノ用ニ供スル物件ヲ毀壊シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ其交通ノ妨害ヲ生セシメタルトキ
六 人ヲ殺傷シ又ハ婦女ヲ強姦シタルトキ
七 人ヲ略取シ又ハ財物ヲ掠奪シタルトキ
第三條 前條ノ罪ハ未遂犯罪ノ時ニ於テ仍本刑ヲ科ス
第四條 兵器弾薬船舶金穀其他ノ物件ヲ資給シ若ハ会合ノ場所ヲ給与シ又ハ其他ノ行為ヲ以テ匪徒ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期徒刑ニ処ス
第五條 匪徒ヲ蔵匿シ又ハ隠避セシメ又ハ匪徒ノ罪ヲ免カレシムルコトヲ図リタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第六條 本令ノ罪ヲ犯シタル者官ニ自首シタルトキハ情状ニ依リ其刑ヲ軽減シ又ハ全免ス
本刑ヲ免シタルトキハ五年以下ノ監視ニ附ス
第七條 本令ニ於テ罰スヘキ所為ハ其本令施行前ニ係ルモノモ仍本令ニ依テ之ヲ処断ス
附 則

本令ハ発布ノ日ヨリ施行ス

「国籍」法、そして朝鮮の「反日」と台湾の「親日」

今日は、朝から大学のオンライン授業をうけた。

前半は「国籍」と「地域籍」の問題。戦前の日本帝国においては「日本人」の中に、「内地人」「朝鮮人」「台湾人」がいたという話。なぜ国籍法は台湾人には適用され、朝鮮人には適用されなかったのかなど。そして帝国崩壊後は、その国籍はどのように扱われたのか、現在の在日の人にとって「韓国」籍は国籍であるが、「朝鮮」籍は戦前の「地域籍」としての「朝鮮」籍が残っているだけで、法的には「無国籍」としての扱いであって、決して北朝鮮籍という意味ではないということなど。

ちなみに現在の国籍でいえば「韓国籍」は45万人、「朝鮮籍」は3万人。その背景にあった1984年の「国籍法」改正によって、日韓両国の夫婦から生まれた子どもが成人まで二重国籍をもつことが可能になったことも大きいなど。
後半は、現在の台湾は「親日」といわれ、韓国は「反日」といわれるのか、理由について両者を,植民地以前、植民地統治、植民地統治からの解放後、の三つの時期に分け考えるという中身。
ちなみに、台湾の親日と韓国の反日にかかわる問題については、以下のような文章を、やはりこの先生の授業のレポートとして書いたことがある。
http://jugyo-jh.com/…/%e6%a4%8d%e6%b0%91%e5%9c%b0%e3%81%ae…/

以下は、受講後の小テストの感想欄に書いた文章を加筆、訂正した文章です。

ありがとうございました。よく論点を整理した内容で、いずれの内容も非常に興味深く聞かせていただきました。

私が高校で人権担当をしていた40年前は在日65万人といっていましたが、現在は48万人なのですね。韓国籍と朝鮮籍の人口の割合の変化は80年代から教師を勤めていたものとしては驚異的です。当時はほぼ同数だったと思います。朴政権末期でした。国籍法の問題やパスポートの問題とともに、朴政権崩壊以降の、韓国の民主化の進展(当初はジグザグの動きでしたが)と次第に明らかになってきた北朝鮮のヤミの部分、それに対応した日本での組織の問題などがこうした結果の一因のように感じました。

朴政権下、日本においてもその余波が問題を引き起こしていました。大学時代、友人の友人である在日の学生が「KCIAからマークされている」といっていましたし、大学構内には「キムジハの死刑判決糺弾」という立て看板があふれていました。(学生運動の激しい大学でした)。
共和国の実態はまだ十分に知られていず、朴政権との関わりでまだましなようには見えていました。(実際にはこの時期に拉致事件が頻発していたのですが。)とはいえ共和国も個人崇拝などもなんか変だという感覚も生まれつつありました。「双方」とも「双方」だったため、暗然たる思いをもちつつ韓国の民主化をたたかっているひと(当時のシンボルとしてはキムジハや金大中など)にエールを送っていた記憶があります。

さらに以前、戦前の韓国で発生していたような両国の生徒の暴力事件、「不良同士の喧嘩」が日本の中学生のまわりでも頻発していたことをあとになって知りました。思い出してみると、私が通学していた中学校前に民族学校の生徒がやってきて、先生方が対応のためにばたばたしていたことを思い出します。まさに「パッチギ!」の世界だったのです。なお、私はこの映画の主人公よりやや若い世代です。

台湾の親日と朝鮮の反日の比較、表にしていただいたおかげでよくわかりました。客観的に捉えらることができてありがたかったです。ただ「外国の支配」にたいし、朝鮮は「なし」とされています。「それでいいんだけど、それでいいのかな?」という微妙な感覚があります。朝鮮にとっての清との宗属関係をどう評価すべきなのか、この宗属関係が逆に朝鮮を「小中華」としてのかたくなな方向に向かわせたようにも感じるのですが。
なお、韓国の反日運動のの背景に、この小中華→衛正斥邪思想な感覚の流れを感じることもあります。こうした人たちからすると、先生が「民族運動の主な形態」のなかに加えられた「実力養成運動」は「親日」的で反民族運動と評価されるのだろうなと感じました。

今日の講義では、本当にいろいろと多くの事を考えさせていただきました。ありがとうございました。

植民地化以前の台湾「近代化」(メモ)

今回も、大学で受けている授業をもとに考えてみたものです。
授業で学んだことと、調べたこと、考えたことがごちゃごちゃになっていることをお許しください。
 またあくまでも自分用の備忘メモですので、ご承知ください。
おもに授業で学んだ内容はオレンジ色を用いて、区別していますが、完全に区別できたわけではありません。

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今回の台湾史の授業は19世紀の台湾の歴史に関わる内容であった。
その内容を下に、考えたことをまとめてみる。

1858年、列強からアロー戦争の結果、押しつけられた天津条約の開港場に台南・淡水2港が含まれ、これによって台湾は本格的に世界資本主義の枠組みに組み込まれる。(開港場でなかった基隆(鶏籠)・高雄(打狗)もそれまでから開国商人が出入りしていた関係で開港される)その際、主要な輸出品となったのが砂糖・茶・樟脳といった商品作物であり、両岸交易の主要な商品であった米とともに栽培が拡大する。
さらに基隆郊外で産出される石炭も輸出品として位置づけられる。(ちなみに輸入品は「アヘン!」と織物)
貿易の担い手は洋人(欧米人)の商人であったが、実際に栽培者と彼らを結んだのは「買弁ばいべん※」とよばれた商人たちであった。

こうした動きは日本の開港と似た事態が発生している。日本では外国人の国内旅行が禁止されたこともあって、「買弁」商人の役割を製糸業の産地などの在郷商人や横浜などの商人が果たした。また近年の研究では、中国商人(華僑)の役割を重視する研究もあるとのこと。
なお、台湾(中国)ではこうした商人が「買弁」という「外国の手先」とした差別的なニュアンスをもって捉えられたのに対し、日本ではこうしたニュアンスが少なかったようにみえる。(台湾では輸入品の過半数がアヘンであったのに対し、日本の商人は扱わなかったことなども関係があるか。また日本では貿易品を扱った特別な商人というより、こうした商人自体に「国民」的な広がりがあったからかもしれない)

※買弁…① 中国で外国資本と中国人とが取引きをする際、その仲介人となり、前者に従属しながら後者から中間搾取を行なった、中国の商人・商業資本。〔モダン辞典(1930)〕
② 植民地・発展途上国などで、外国資本と結びついて利益を得、自国ないし自国民の利益を抑圧する土着の資本、または資本家。
(コトバンク「精選版日本国語大辞典」より)

日本では、開港による輸出という刺激によって製糸業を中心に一挙に農村でのマニュファクチュアが広がったのと同様に、台湾では在地の有力者、さらに中堅の農民たちの共同経営による小規模な製糖所が次々と創業されるなど、貿易に対応しつつも従来の台湾資本が柔軟に対応していった様子をみられた。

日本において、開港と同時に急速に貿易額が拡大したのは、すでに流通・生産という経済的発展が貿易の開始というインパクトに十分対応できるだけの段階にあったと考えられる。
これをあてはめると、台湾においても、洋人たちが直接流通網の把握や農園の整備をしなくとも、商品作物生産に対応して自らを改造していける発展段階にあったことが予想できる。
ただ日本とは経済規模に大きな差があるため、一概に同一視することはできないが。

こうした開港時の台湾経済の発展の背景として、いくつか考えてみた。
①「台湾」の「開発」「植民」がアメリカや北海道に見られるような圧倒的に有力な「外の勢力(=漢人たち)」が先住民族を追いやる形ですすめられ、そこに、すでに高度に発展していた清朝期の経済制度(商品生産)や科挙や私塾などの文化をも移植したこと。
②台湾では早い時期から甘蔗や米が商品作物として作られ、日用品を本土から輸入するという商品経済が生まれていたこと
③とくに漢人は彼らの故地である対岸の福建省、福建省などの出身者による華僑の流通ネットワークの一環のなかに組み込まれ、東南アジアを含めた経済圏のなかの「植民地」として開発される性格を持っていたこと。つまり、漢人の「植民」自体が、ネットワークに「商品」を供給するという意味合いをもっていたこと。
④入植において墾戸とよばれた有力者が影響下にある人々を率いるという方法をとったことなどもかかわりがあるのかもしれない。
ともあれ、東南アジアや南アジアにおける「近代化」、欧米人による農場経営・インフラの整備といった方向性とはかなり異なっていたように見える。(こうした捉え方は変化しているのかもわからないが)

すくなくとも、19世紀中期において、台湾においては開港という事態に際し、ある程度主体的に対応しうるだけの内在的経済発展が存在していたことは明らかである。

1895年までの20年間、台湾は清のなかでも、経済発展が顕著な地域であった。浅野和生は、この時期の中国大陸における貿易額の平均成長率が3.4%なのにたいし、台湾は8%、清朝支配地の中では輸出超過が継続する成長センターであったと指摘している。

 主要な輸出品が茶や樟脳(原料はクスノキ)であることは新たな問題を生み出した。なぜならこういった作物は島西部の平地ではなく、少数民族の多く居住する山地と接続する丘陵部で作られ、こうした作物生産は少数民族の土地と資源を奪うことに他ならなかったからである。これにより、開発を進める漢人と少数民族とくに高山族とのあいだでの抗争が頻発する。こうした抗争は、大農園を経営する「豪紳」たちに有力な漢人のリーダーたちに武力を用いる武装集団のリーダーという性格を付加させた。そして、その活動によって少数民族、とくに高山族たちをさらに山岳部に追いやることとなる。

こうした点に見られる内在的な「近代化」と、日本植民地下での強要された面を強く持つ「近代化」、双方の関わりの中で、台湾の近代化を見ていく必要があると思われる。

1874年の台湾出兵は、アヘン戦争・アロー戦争に次ぐ東アジアの華夷秩序を大きく揺さぶる事件であった。
琉球王国の併合をめざす日本は、1871年に発生した台湾先住民による琉球・宮古島使節の殺害事件(「牡丹社事件」)への謝罪を清朝政府に要求、清国政府が先住民を「化外けがいの民」と釈明すると「化外の民」の住む地は清国領土外であるとして強引に出兵した。
長く東アジア世界を支配していた国際秩序(「華夷秩序」)は中国を中心とし、周辺になるにしたがって中国は影響力を減じていくという形であり、属国もかなり形式的な存在で実際の外交や政治にはあまり介入しない、それが本来の華夷秩序の立場であった。
台湾は、福建省の一部として位置づけられてはいたが、「何か起きたらそれに対応するという消極的な政策」をとりつづけ、漢人が禁制をやぶって開拓するという事実がおこってから、そこに役所を設置するという姿勢がつづき、台湾出兵で問題とされた島東部は翌年の1875年になってやっと版図に組み入れられた状態であった(浅野・前掲書)
しかし、華夷秩序の論理からみれば、それであっても皇帝にしたがう人民・領土であり、そのなかに皇帝の威がおよばない「化外の民」がいることは何ら不思議ではなかった。
日本がつけ込んだのは、東アジアの旧来の国際秩序と、欧米列強が持ち込んだ主権国家体制(「万国公法」体制)の間隙であった。主権国家体制では国家は国境線に囲まれ、そのなかにいるものは「国民」として国家が責任を負い、国境の外は無関係である。こうして「『化外の民』が住む台湾は中国領でない」という論理で出兵したのである。
台湾出兵、さらには1879年の日本の琉球併合は、清に「華夷秩序」が東アジアにおいても通用しないことを自覚させた。こうして清は「万国公法」的な位置づけによる本格的な台湾経営をはじめる。
砲台をはじめとする軍事施設が増設され、西洋の近代技術導入による石炭採掘、電報網などの整備、道路の開通、東部開発などが中国人中心にすすめられた。しかし清朝の官僚制の弊害と台湾軽視のなか、しだいに行き詰まりを見せる。

1884年、清仏戦争においてフランス軍は台湾へ侵攻、一時基隆などを攻撃するが、劉銘傳率いる清軍によって撃退される。1885年清は台湾省を設置され巡撫として劉銘傳(写真の人物)が任命された。
劉のもと、「新政」とよばれる改革がすすめられる。
土地調査とそれに伴うと隠田摘発、人口調査と税改革、鉄道・道路の建設、産業育成など、のちの日本統治下での改革を先取りするような先駆的な改革が進められた。
劉を「台湾近代化の父」とする記述なども見られる。
しかし、改革に対しての住民側の反発も強く、その成果が十分に上がったとはいえないまま、日本の植民地時代へと移行していく。
台湾の学会において、こうした植民地以前の経済、政治における「近代化」が日本統治下、さらには現在の台湾の発展の「台木」となったという主張も見られるという。
こうした改革が、日本侵攻に対するアジア最初の共和制国家「台湾民主国」創設の背景になったこと。さらに「『ボロ』を出させない程にブルジョワ的物的条件が朝鮮と比べて広汎に存在していたこと」や劉の下での改革などが「日本人地主の水田地帯における形成ならびに「東洋拓殖会社」の類似会社の台湾における成立を阻んだ」などの指摘もある。(戴國煇)

しかし、台湾の近代化が始まったのは、植民地期にあるのか、植民地以前に見られるのかという議論は近年においてはやや下火になっている。

たしかに、「近代化」は外圧・あるいは植民地化という外からファクターを重視すべきか、内在的な社会・経済・政治のファクターが強いのかという議論は、ナショナリズムというバイアスがかかりがちであるため激烈な議論となりがちであるが、両方とも重要であったという折衷的な回答しか提出できない不毛な議論となりがちである。両者が密接に絡み合い、それぞれの「近代化」をなしとげていったと考えるべきである。
戴國煇はいう。
当時の世界史的段階においても植民主義によって扼殺できない程に発展した厚い層の地主が存在し、資本主義への胎動をもった台湾経済といった『台木』があったからこそその後の接ぎ木効果が経済面において可能となり、国民所得の再配分に歴然たる民族的階級的差別等のひずみはあったが、『植民地的経済発展』の具現化も又可能となったのである。
(中略)
 植民地統治を受けたあらゆる国は何らかの意味でプラス、マイナス両面の植民地遺産を具える。マイナス面はさておき、経済発展にプラスと思われる遺産も、その存在や形成の程度は植民地統治前史とむ関係ではないし、ましてや植民地統治から解放された後、それらの遺産を守り且つ自らの経済発展の手段として活用していく主体はあく迄かっての一社である。」(『台湾史の探索』P55)

「近代化」は一般に考えられるようなバラ色のものではなく、一面では残酷で重苦しい側面を持つ。さらに植民地とされた地域は、植民地化という苦難がそれに付け加えられる。そのなかで、「近代化」がすすむ。植民地における近代は、こうした苦難の相乗効果のなかですすむ。

しかし、近代化の輝かしい面ともいえる「民主主義」「人権」といった面をみれば、かつてこうした苦難のなかで「近代化」をすすめた国でこそ、実態をともなって、花開いているようにみえる。
東アジアで、もっとも実態として民主主義が機能している国は、韓国であり、台湾であるようにみえる。こうした事実は、こうした「近代化」の逆説を示しているようにも見える。

<参考文献>
戴國煇「清末台湾の一考察」『台湾史の探索』(みやび出版2011)
浅野和生『台湾の歴史と日台関係』(早稲田出版2010)
遠流台湾館編著『台湾史小辞典』(中国書店2010増補版)
周婉窈『図説台湾の歴史』(平凡社2013増補版)

ふたつの「リュウキュウ」のちがいは

ふたつの「リュウキュウ」のちがいは
 ~台湾と琉球の「文明」化、違いはどこで?~

今年は、いつも授業を受けている先生が研修で、台湾!へ留学され、講師の先生が、台湾史!概説を教えてくださっています。
その授業の内容にかかわって、もとは中国から「りゅうきゅう(流求・琉球)」といっしょくたにされた台湾と沖縄(ひょっとしたらフィリピンもその一部であったかもしれませんが)両者の「文明」化の違いが気になったので、疑問と思いつきを書きつらねてみました。
何の論証もない思いつきのメモです。そうした内容として見てください。
実が題名を考えるだけで悩んでしまいました。最初は「国家の形成」としたのですが、かんがえていることとずれそうです。「文明」ということばも使ってみたのですが、「文明と未開、野蛮」といった分類のうさんくささ、文明の概念などいろいろな問題が出そうです。ということでこんな題名になってみました。

なお琉球の前近代については前にこんな文章を書きました。よければ参照してください。

******

今年の東洋近代史の授業は、台湾近代史。
今日は前史の部分で、17世紀のオランダ統治、鄭氏政権、清朝支配の部分。
その中で考えたこと。

17世紀以前において、台湾は少数民族の世界で統一的な動きはなかったという。

そこで気になったのが琉球との違い。
琉球は12世紀頃から「歴史時代」となり、「国家」の形成もみえてくるが、台湾では「歴史」時代はオランダ統治以降にならないとはじまらない。この違いは何か。
おもいつくまま、知識もないくせに、疑問とおもいつきを並べてみた。

①日本からの影響(遣唐使のルート、南西諸島からの距離)
→人口の流入、交易圏の中に組み込まれた
→日本の社会構造や文化が持ちこまれてきた。
→本島と両先島諸島の間はかなり距離がある。
台湾と与那国の間の海峡の潮流もかなり早い「らしい」
両先島諸島は人種的には日本との関係が、文明的には台湾先住民など東南アジア系とのつながりが強いという。

②対岸の中国の「開発」状況
→台湾の対岸が「福建省」、沖縄の対岸は「浙江省」など
→福建や広東にはまだフロンティアが広く残っていた?
→しかし、宋・元のころは福建(泉州など)の方が国際港だし・・
→明の「海禁」政策とのかかわりは?

③沖縄のスケール感の問題。
沖縄は、台湾より人口密度が高く(日本からの移民の流入などが10世紀ごろからすすんできたので)、開発に適した土地が狭かったため、対立が激化?・・
台湾の西海岸沿いの人口が少なく、フロンティアも広い。
貿易のメリットが少なかった?

④地形の問題?良港がなかった?
→沖縄は運天港や牧港、那覇港など
台湾には?
台湾(現在の台南市安水など)や打狗(高雄)など良港は多い・・ので×。

⑤中国における貿易港・広州・泉州などの存在
南蛮船の航路はベトナムから中国沿岸沿いに延び、沖合の台湾はスルーされた。
しかし、明の海禁政策によってルートは沖合の台湾ルートに移らないか。

⑥琉球王国のような貿易を担う主体がいなかった。
そのため、南蛮諸国などが住み着いても、完全な植民都市とならざるを得ず、食糧などにおいて後背地のサポートも得にくい?
→オランダの植民が根付かなかった理由もこのあたりにあるかも。

⑦ポルトガルにはマカオが、スペインにはマニラがあったので、別に中継基地はいらなかった・・

まあ、色々思いついたけど、研究者からすれば、「何アホなこというてんのや!」と笑われそうですね。
スペインの支配下に置かれていくフィリピンもあわせて考えるべきかもしれませんね。

(フェースブックに書いた文章をすこし変えて転載しました。)