「授業のネタ」カテゴリーアーカイブ

ロシアのクシュンコタン占領とアイヌ政策

ロシアのクシュンコタン占領とアイヌ政策、「樺太」~鳥居存九郎の旅にも触れて~

※この文章は私が聴講している授業の内容をもとに、いくつかの内容を付け加えて記した内容です

ロシアによるクシュンコタン占領

 

ロシア船

1853(嘉永6)年秋、サハリン南部アニワ湾の最大の漁業基地クシュンコタン(大泊・現コルサコフ)に、ロシア船がやってきた。町の隣接地に砦を築き、ロシア軍が駐屯する。サハリン島占領隊長は25才のブッセ少佐。彼が命じられた任務は「日本人とは事を構えず、サハリンがロシア領であること」というアクロバット的なものである。和人の多くか逃げだし、宗谷海峡をわたり幕府・松前藩に走った。
アメリカのペリー、ロシアのプチャーチンとの交渉に忙殺されていた幕府は、新たな課題を抱えることになる。
他方、ブッセは持ち前の誠実さを発揮しこの地のアイヌたちとの交流につとめ、占領の実績をつんでいく。他方、副隊長のルダノフスキー中尉も犬ぞりを駆使して、サハリン島南部を精力的に探索する。和人たちが冬になると島外に去ったりするのとは対照的である。
しかし翌春、日本側が大挙として上陸してくるとブッセらはあわただしく島を去っていった。
ブッセの日記『サハリン島占領日記1853~54』は東洋文庫から出版されている。(平凡社2003)

ロシア軍撤退の背景

撤退の事情をブッセは記していない。

日本人が描いたブッセの姿

当時長崎で開国交渉中のプチャーチンの指示ないし命令と推測されている。
実はこの時期、ロシアは英仏とのクリミア戦争の最中であった。カムチャツカ半島にある北東太平洋のロシア側の最大拠点ペブロパブロフスクも英仏側の砲撃をうけた。戦争は世界戦争の性格も持っていたのである。日本に開国をせまるプチャーチンもつねに両国の動きをみながら行動している。
ロシアがサハリンにとどまることは英仏の攻撃を受ける可能性があった。もともと、この占領に異論をもっていたブッセはこれ幸いと撤去したというのが実際かも知れない。
かれに守備隊長を命じたネヴィスコイ少佐は島を離れずゲリラ戦を命じていたが。
ちなみに先生によるとロシア軍アジア艦隊の被害が少なくてすんだのはタタール海峡(間宮海峡)が通行可能であるという事実が英仏艦隊に知られていなかったからことが大きいからということである。

クシュンコタン占領と「万国公法」

ロシアがクシュンコタンに拠点を設けたこと自体、ペリー艦隊の日本来航と関係があった。アメリカはペリー艦隊と並行して北太平洋沿岸に測量艦隊を派遣、千島などの測量も計画していた。1853年段階ではロシア・ムラヴィヨフ総督もこの事業への援助も約束していた。(後藤敦史『忘れられた黒船』講談社2017)
しかし、かれらの来航は、サハリンなどの地の情報が世界に広がることでもある。
当時の国際法(「万国公法」)は世界を「文明」「半未開」「未開」の3つのカテゴリーに分類、「未開」と認識されれば「文明」(つまり欧米諸国)は「早いもの勝ち」で植民地とできるという勝手な論理を含んでいた。
つまり「文明」が、ある地域を未開(「無主の地」)と認識し、占領すれば領土にできる。
こうした事態に対応すべくロシアが「サハリンはロシア領」という既定事実つくりを急いだのだ。
そのためにも砦は辺境ではなくサハリン島内でももっとも開発が進んでいた南海岸のクシュンコタンでなければならなかった。リスクを冒しても。

幕府による「和人化」政策

ロシアと同じ論理は幕府にも働く。
幕府側からすれば、サハリン(「北蝦夷」)さらには蝦夷地(北海道)が「無主の地」と認識されれば、「文明」とくにロシアによる植民地が正当化される。
「万国公法」にたいしても一定の知識をもっていた幕府官僚たちは、蝦夷地(北海道)、さらにはサハリン(とくに南部)が「無主の地」でないことをアピールする必要があった。

ちなみに、幕府官僚の外交能力はかなり高いものがあり、それによって日本の歴史は大きくかわった。かれらが無能であるかの言説はあたらない。

 そのためには対象となる可能性がある蝦夷地および北蝦夷(サハリン)に住むアイヌ、出来ればサハリンのニブフ・ウィルタも日本支配下の民であることを示す必要があったのである。
これをビジュアルに伝えられるのが「和人」の髪型をすることである。アイヌにひげを剃らせ、月代を剃って髷を結わせることでカタチだけでも日本人であると見せようとした。こうした政策はとくにサハリンの対岸である宗谷地方で強要された。

これについて従来の研究は、幕府の圧政として全土での実施をあげていた。これについて先生は疑義を呈している。ロシア人の来訪の可能性が高い宗谷はともかく、他の地域では髪を結ぶ(つまりすぐ元に戻る)程度で妥協されることもあり、さらに実施されない地域もあった。典拠とされた松浦武四郎の史料の読み違いもある。アイヌ側から「自分たちを和人化したいのなら、自分たちの生産や生活も保障してくれるのか」という反問され、答えきれなかった例もある。
幕府にとっては、ロシアや他の列強の目に付きやすい「ショーウィンドウ」の中のアイヌが、見た目だけ「日本人」化していればそれでよかった。いわば、「日本人」というマーキングができれば良かったのだ。
幕府側からすれば、こうしたやり方がよくないこともわかっていた。より蝦夷地の本格的な開発をしなければサハリンどころか蝦夷地すらどうなるかわからないという箱館奉行の書状がのこされている。明治以降の植民政策と重なる内容である。

サハリンでのロシアの動きと幕府

さらに問題となるのが、ロシアが自領と主張し、いったんは占領しようとした「北蝦夷」=「サハリン」の扱いである。
1854年クシュンコタンの施設は撤去されたものの、「全島ロシア領、日本との紛争は起こさない」というロシアの方針は撤去されていない。

日本人が書いたルダノフスキーと思われる人物

1857(安政4)年にはかつての副隊長であったルダノフスキーが西海岸のナヨロに寄港した。当時、樺太を探索中であった筆者の高祖父らもロシア船の姿を見、大砲の音も聞いている。さらに雇用していたアイヌがロシア人船員に招かれて酒を飲み食事を共にしたとの記事も記される。帰国途上で、現地に急行する奉行所の役人とも面談している。
さきのロシアのクシュンコタン占領は、幕府がこの地をしっかりと管理するとともに、「日本」領という証拠を示す必要を求めていた。
箱館奉行所は、クシュンコタン占領に対応すべく堀利忠・村垣範正らを派遣、撤去を見届けると共に、この地の詳細な調査をおこなった。
他方、この地の住民が日本の影響下にあるという既成事実をつくるための諸政策を進めた。奉行所はサハリン東海岸の漁業権や開発権を越後出身の松川弁之助に与え開発を進めさせると共に、ウィルタの人々への物資の提供などで影響力の拡大に努め、日本領としての実質を固めようとしたことが分かる。
またアイヌに対する虐待も問題であった。こうした行動はこの地に住むアイヌたちをロシア側においやる可能性があったからである。ブッセは、クシュンコタン周辺での和人への反発の大きさを記しており、「日本人と事を構えない」というロシア側の政策との間の葛藤を記している。

「北緯50度」~鳥居存九郎の樺太紀行

多くの探検隊が派遣された。安政4年頃には一種のブームともいえる状態となる。私の高祖父・鳥居存九郎も幕府老中であった藩主内藤信親の命をうけて、蝦夷地から北蝦夷(サハリン・樺太)への探検を行う。
めざしたのは北緯50度をすこし超えたホロコタンであり、多くの人々もこの辺りを目的としていた。
その背景には和人の間のサハリン=アイヌと、ニブフやウィルタにたいする位置づけの差がある。アイヌは多くが蝦夷地にも住んでおりサハリン=アイヌと共通性が多い。日本商人の進出によってその生活や労働は「和人」と深く結びついていた。和人によって、漁民に編成され労働に従事させられるものもおおかった。
クシュンコタン周辺のアイヌは和人の酷使によってはつらつとした気風を失い卑屈な態度を示すようになったとブッセは記し、西海岸ナヨロからやってきた首長の独立自尊の堂々たる態度と対比して示す※。
こうした記述はサハリン=アイヌの生活や社会に和人との関係が浸透し、さまざまな問題を引き起こしていたことを示すと考えられる。
これとくらべ、ニブフやウィルタは別との認識があったようである。高祖父一行もホロロッカでの「スメレンクル人(ニブフ)の様子を詳しく記述、さまざまな物資を交換(実際は供与に近い)している。彼らと出会ったことが日本領の北限に来たと考えたと感じさせたようでもある。
北緯50度附近が、アイヌとニブフやウィルタが棲み分けている境界と感じられていたことから、アイヌ中心の南側が「日本」、ニブフやウィルタ中心の北側が日本の「外」との意識が生まれたように思われる。
北緯50度を日本領の北限と考えたのは徳川斉昭ということであるが、背景にあったものはこのような事情が影響していたように思われる。

主権国家形成とアイヌ政策

幕末のアイヌ政策は、ロシアとそれにつづく欧米主権国家との接触のなか、主権国家体制の枠組みに組み込まれる過程で領土確定とかかわって進んだ。
とくに1853~54年のロシアによるクシュンコタン占領は衝撃的であり、その結果として急速に進められた。しかし、それは国際関係の急迫という事態の中での弥縫策であり、明治期の「国民」への包摂~「和人」への同化とは大きく異なるものであった。

※補足 ナヨロの首長シタクロのこと

次の授業では、登場人物の後日談を聞くことが出来た。
西海岸ナヨロからやってきて、堂々たる態度をみせ、ブッセらを感銘させた首長シタクロのことである。クシュンコタンで彼とあったかつての副隊長ルダノフスキーが三年後にナヨロにやってきた。その軍艦を存九郎一行が見たことは上に書いたとおり。
今回の授業での再会の様子を知ることができた。そのことが、ルダノフスキーのプチャーチンへの報告書に記されている。先生に紹介していただいた史料を示す。

70才の老人シタクレロー~1854年にロシア人に献身した~は今回は次のように述べて働くことを拒否した。日本人たちは一度、私を許してくれた。今度は私を許さないし、私を厳しく罰するだろう。彼は、自分の仲間に示唆しながら、そのように述べた。

アニワ湾のサハリンアイヌと異なり、ロシア人に友好的であったナヨロの首長シタクロは、ロシアの撤退後、和人(堀や村垣、その部下と思われる)から詮議をうけている。暴力を伴ったことも容易に想像できる。
シタクロは、ロシア人による砦建設をきっかけにロシアの力を借りることで和人に撤退をすすめていた。

異国人宿営いたし候島中に番人共罷在候は宜ケ間敷氷海明次第本蝦夷地之方江引取可申旨申勧メ候

シタクロは運上屋の忠助にこのように説いている。
こうした態度に幕府側が怒ったことはいうまでもない。
とはいえ、幕府側にも弱みがある。サハリンアイヌの最有力者シタクロを必要以上に痛めつけることは彼らをよりロシア側に近づける結果ももたらす。「私を許してくれた」というシタクロの言葉にはこうした二面性が隠れていると思われる。
こうして和人と距離を持っていたグループも和人の支配を受け入れていく。サハリンアイヌを影響下に置くという幕府側の政策が、ロシア側のサハリン領有・サハリンアイヌ懐柔という政策を打ち砕いたことが分かる。
ついでにいえば、存九郎らが雇用していたアイヌたちがロシア人によって酒食の提供を受けたのも、その事実を翌朝ただちに存九郎らに語ったことも、こうした両国のあいだの駆け引きのなかでおこったことと考えることが出来る。
こうして1857(安政4)年のロシアの西海岸の拠点作りはアイヌ側の協力を得ることが出来ず、困難をともなったことが分かる。
これはロシア側のクシュンコタンへの強引な砦建設と占領、クリミア戦争発生に伴う短期間での撤退という政策が引き起こしたものでもあった。

ふたつの「リュウキュウ」のちがいは

ふたつの「リュウキュウ」のちがいは
 ~台湾と琉球の「文明」化、違いはどこで?~

今年は、いつも授業を受けている先生が研修で、台湾!へ留学され、講師の先生が、台湾史!概説を教えてくださっています。
その授業の内容にかかわって、もとは中国から「りゅうきゅう(流求・琉球)」といっしょくたにされた台湾と沖縄(ひょっとしたらフィリピンもその一部であったかもしれませんが)両者の「文明」化の違いが気になったので、疑問と思いつきを書きつらねてみました。
何の論証もない思いつきのメモです。そうした内容として見てください。
実が題名を考えるだけで悩んでしまいました。最初は「国家の形成」としたのですが、かんがえていることとずれそうです。「文明」ということばも使ってみたのですが、「文明と未開、野蛮」といった分類のうさんくささ、文明の概念などいろいろな問題が出そうです。ということでこんな題名になってみました。

なお琉球の前近代については前にこんな文章を書きました。よければ参照してください。

******

今年の東洋近代史の授業は、台湾近代史。
今日は前史の部分で、17世紀のオランダ統治、鄭氏政権、清朝支配の部分。
その中で考えたこと。

17世紀以前において、台湾は少数民族の世界で統一的な動きはなかったという。

そこで気になったのが琉球との違い。
琉球は12世紀頃から「歴史時代」となり、「国家」の形成もみえてくるが、台湾では「歴史」時代はオランダ統治以降にならないとはじまらない。この違いは何か。
おもいつくまま、知識もないくせに、疑問とおもいつきを並べてみた。

①日本からの影響(遣唐使のルート、南西諸島からの距離)
→人口の流入、交易圏の中に組み込まれた
→日本の社会構造や文化が持ちこまれてきた。
→本島と両先島諸島の間はかなり距離がある。
台湾と与那国の間の海峡の潮流もかなり早い「らしい」
両先島諸島は人種的には日本との関係が、文明的には台湾先住民など東南アジア系とのつながりが強いという。

②対岸の中国の「開発」状況
→台湾の対岸が「福建省」、沖縄の対岸は「浙江省」など
→福建や広東にはまだフロンティアが広く残っていた?
→しかし、宋・元のころは福建(泉州など)の方が国際港だし・・
→明の「海禁」政策とのかかわりは?

③沖縄のスケール感の問題。
沖縄は、台湾より人口密度が高く(日本からの移民の流入などが10世紀ごろからすすんできたので)、開発に適した土地が狭かったため、対立が激化?・・
台湾の西海岸沿いの人口が少なく、フロンティアも広い。
貿易のメリットが少なかった?

④地形の問題?良港がなかった?
→沖縄は運天港や牧港、那覇港など
台湾には?
台湾(現在の台南市安水など)や打狗(高雄)など良港は多い・・ので×。

⑤中国における貿易港・広州・泉州などの存在
南蛮船の航路はベトナムから中国沿岸沿いに延び、沖合の台湾はスルーされた。
しかし、明の海禁政策によってルートは沖合の台湾ルートに移らないか。

⑥琉球王国のような貿易を担う主体がいなかった。
そのため、南蛮諸国などが住み着いても、完全な植民都市とならざるを得ず、食糧などにおいて後背地のサポートも得にくい?
→オランダの植民が根付かなかった理由もこのあたりにあるかも。

⑦ポルトガルにはマカオが、スペインにはマニラがあったので、別に中継基地はいらなかった・・

まあ、色々思いついたけど、研究者からすれば、「何アホなこというてんのや!」と笑われそうですね。
スペインの支配下に置かれていくフィリピンもあわせて考えるべきかもしれませんね。

(フェースブックに書いた文章をすこし変えて転載しました。)

日比谷焼打事件の史料から(2)~なぜここに残ったのか?

日比谷焼打事件の史料から(2)
~なぜこの史料が陸軍に残ったのか?

「史料講読」の苦労談を書き、すこしだけ気にかかっていたことを書いていて、ふと先生の隠しテーマに気づいた。(実は違うのかも知れないが)
予定していた提出時間までわずかである。さっそくパート2を作ることにする。高校現場にいる頃から「やっつけ仕事」は得意である

今回の課題史料は、防衛省防衛研究所所蔵の日比谷焼き打ち事件の実態報告「明治38年自9月至12月暴徒に関する内報綴」(JACAR Ref.C06041160500)のなかの臨秘1・2・4・5号である。気にかかっていたのは、発信者と受信者の関係と、なぜ陸軍にこの史料がのこったのかということである。さらに、日比谷焼き打ち事件といいながら日比谷公園でのやりとりや、首相桂太郎の愛人宅が襲撃されたといった9月5日から6日未明の内容も記されていない。どうも中途半端にはじまった印象が拭えない。
その理由に、すでに示した文章を書いていてふと気づいた。これについて、記していく。

「暴徒に関する内報綴」臨秘第一号末尾 発信者安立綱之と受信者山県有朋の名が見える。

この史料、右の文書に見られるように発信者は警視総監・安立綱之、受信者は元帥・山県有朋である。警視総監は内務大臣直属の勅任官であり、この人物が得た各警察署での状況を赤裸々に伝えた文書をなぜ「元帥山県有朋」に送付しているのか。なぜ内務大臣芳川顕正ではなく山県有朋なのか。
たしかに山県は明治国家ナンバー1ないし2の実力を持つ元老ではある。この間でなぜこの文書がやりとりされたのか、これが疑問の第一である。
さらに山県が個人的に受け取ったとすれば、文書は山県関係文書にあるはずでありなぜ陸軍省の流れにある防衛省防衛研究所保管となったのかである。陸軍がどう関わるのか。
ここまでの内容を考えたところ、大きな見落としに気がついた。

ということで、ここからはトーンを変えて、B大学喫茶部での思考を再現します。



山県からすれば、首相は桂太郎だし、陸軍大臣もやはり長州閥の寺内正毅だし、どちらも子分だ。だから、恐れ多い大先輩で元老のところへも文書を送ったのかな、それなら別の元老のところにも関係書類がありそうだが。そもそも個人的な文書なら陸軍省にその文書が残るのは理屈に合わない。

元帥・山県有朋 当時は参謀総長でもあった。

よく考えると、明治国家は内閣だけに権力が集中していたわけではない。とくに軍の権限は大きい。統帥権には口出しができない。参謀本部だし、参謀総長は・・・。まだ形式的には日露戦争中。「坂の上の雲」に日露戦争の時の参謀総長のことが書いてあった。・・・山県だ。ネットで確認。たしかにそうだ。山県は日露戦争の遂行ということで参謀総長の地位にいた。軍隊が治安出動した以上、事実上の最高責任者山県に連絡が行ってもおかしくない。
 戒厳令が出されたのは9月6日。つまり騒動が最高潮だった一日目の9月5日は、警察が中心となって活動しており、どうしようもなくなって陸軍部隊が出動、後追いになって、6日に戒厳令が発せられた。

 ネットで「戒厳令」をみる。こう記される。
日本では,1882年に太政官布告として制定された。戒厳の宣告は天皇の権能(旧憲法14条)。戒厳が宣告されると,その地域における立法・司法・行政事務は戒厳司令官の権限に移され,住民の憲法上の自由・権利は制限されることが認められた。」(百科事典マイペディア)
何のことはない、戒厳令の布告によって、軍人である戒厳司令官の下に警察組織が組み込まれていたのだ。これにより、警視総監の上司は内務大臣ではなく、一時的に戒厳司令官である東京衛戌総督佐久間左馬太大将となる。しかし総督も参謀本部の指揮下に置かれることから、戒厳令下の最高実力者は山県となり、報告が集中したと考えられる。

 こう考えればこの簿冊の最初の文書が9月7日付けのものとなっていることも、9月5日の日比谷公園での衝突や新富座での混乱、内務省襲撃その他、日比谷焼き打ち事件で必ず取り上げられる事件の文書がないことも納得がいく。
 陸軍=戒厳司令官が治安回復に対し正式な責任を負うのは6日の戒厳令発布以降なのだ。したがって、戒厳令以前の文書は報告がないし、報告される公的な必要もなかった。それは、官僚制におけるルールにもとづき、正統な流れで発信・受信され、保管されたものだったのだ。
 ここまで書いてきてH先生の仕掛けたねらいが見えてきた。なぜ、この史料が陸軍に残ったのかだったのか。なぜ、宛先が山県だったのか。
ということで、レポートその2をさっそく作成することとしよう。事実上の締め切りまであと二時間。

実際に締め切りは翌日の午後でした。締め切りを過ぎたのでUPします。
ちなみにレポート現物はここから見てください。

日比谷焼打事件の史料から(1)

日比谷焼き打ち事件の史料から(1)
~教会堂襲撃をめぐって~

アジア歴史資料センター(「国立公文書館」のデータベース)で公開されている史料を基にレポートを作成するという史料講読の時間。今回与えられた史料は防衛省防衛研究所所蔵の日比谷焼き打ち事件の実態報告「明治38年自9月至12月暴徒に関する内報綴」(JACAR Ref.C06041160500)のなかの臨秘1・2・4・5号である。

警察署ごとの暴動の実態や破壊状況、負傷者や逮捕者などを警察側の立場からまとめ、報告したもの。発信者は警視総監・安立綱之で、受信者は元帥・山県有朋。暴動の状況を生き生きと描き出し、ルポルタージュとしてまとめる手法を採れば面白いものができる素材となる。
しかし、この史料をもとに、起承転結の形でA4一枚に整理し、5日後までにレポートとして提出するという課題には向かない。H先生には裏テーマを隠しているのだろうがみつからない以上、史料のなかからつっこみどころをみつけまとめるしかない。そこで、史料の中に一定数のサンプルが示され、研究ではあまり取り上げられることがないと思われるキリスト教会堂襲撃をまとめることにした。
とりあえず被害報告のあった教会等8カ所の表を作成する。全焼は3カ所、いずれも監理人が外国人(アメリカ・スイス・フランス)である。偶然か、それとも襲撃の性格を示すのか、興味のあるところだ。(なお、「植村正久と其の時代(5)」で「もっとも惨澹たる惨状」と記したのもこの3カ所である)。史料の関係上、あまり深く追求することは困難な気がする。

焼き打ちにあった施設(Wikipedia「日比谷焼き打ち事件」より)

課題史料は、個々の事件の場所、様子、被害、といったことが中心に網羅的にまとめられ、表などにまとめ全体像をつくりあげる分には役立つが、深めることは難しい。参加者の手記や新聞資料などに当たるべきかも知れないが、さらにレポートの趣旨から離れる。とりあえず事件の基本文献「所謂日比谷焼打事件の研究」を読みたいと思う。アジ歴の「日比谷焼打事件」の検索で唯一ヒットしたのもこの文献(昭和14年調・所謂日比谷焼打事件概況)であった。実際に開いてみれば、一部判読が困難な部分もあるが、読めなくもない。さらに調べるとこの文献をも含めた復刻版が出版されており、R大学図書館が所蔵していた。ここには襲撃された教会堂等13カ所の表があったので、さきに作成した表と合体する。この本の表は襲撃時間ごとに並んでおり、襲撃時間がほぼ一時間ないし三〇分という時間経過で変化する。このことから襲撃は、各地で同時多発的に起こったのではなく、同一グループが野次馬などを組み込みつつ、教会堂を襲撃しながら移動していったと考えられる。藤野裕子「都市と暴動の民衆史」はこの動きを地図上で示している。こうしたことから、民衆の排外意識の爆発というよりも具体的な「教会」や信者との間でトラブルがあったり、対立したりしているグループが中心となって、前日来の騒動で興奮した群衆とともに教会を襲ってまわったと捉えた方が妥当である。「民衆の排外主義が露呈した」と強調しすぎることは危険である。

 日比谷焼き討ち事件について最も新しい研究が藤野のものである。その研究をはじめ、多くの文献が依拠するのが「植村正久と其の時代(5)」である。ここには、襲撃直後に当該教会を訪問した記録や襲撃を受けながらもかれらを説得して無事に切り抜けた牧師の発言なども残されている。そのなかには、解体のための道具を準備してテキパキと教会堂を破壊するプロらしき人物、羽織を着て十数名の壮士風の人物を指揮する大将格の人物、教会の土地の地主の姿などの参加のようすも描いている。どこまでの信憑性があるか、確定が難しいながら、攻撃の背景になんらかの意志の存在を想像させる。藤野氏が他の章で描いた下層民とかれらを組織する親方の存在を想起させる光景ではある。また襲撃側が、教会に「この教会はどこの国の教会か」と問いかけ、「貧しい日本人が金を出しあって作った」というと退散したという牧師の証言も、外国籍の教会がとくにひどい破壊にあったことを裏付けるようで興味深い。
おもに、こうしたことを中心に、今回のレポートをまとめてみた。H先生が求める課題史料に語らせるという内容からはかなり離れたものとなってしまったことは微力のなせるわざとあきらめるしかない。
なお、襲撃された教会堂のなかに外国籍のものがあったので、外務省がどのような対応をしたのか、少し興味があったので、アジ歴の文献を見たところ、やはりそうした外務省史料「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090142300、東京横浜騒擾一件(5-3-1-0-16)(外務省外交史料館)」)が存在した。ある文献には「被害がなかった」との文言を見せ消しして被害を記している部分があり、現在の官僚の姿を思い浮かべ苦笑してしまった。

なおこの文書の補足として、文書の宛先がなぜ山県であったかということに触れようとして、H先生の狙いにふと気づいた。提出時間までわずか。さっそくレポートパート2を作ることにする。このことは次の稿で記す。

提出したレポートはより読みやすい形に整形して、「自習室」と「準備室」にアップするつもりです

千本釈迦堂にて

FBに書いた文章を転載します。

*********

医者に血糖値が高いと言われたので、B大学まで歩くこととした。

途中で千本釈迦堂に寄り道。

この辺りで戦われた内野の戦い(明徳の変)で討たれた山名氏清の碑と、氏清らの菩提を弔い、経文を納めたお堂を受け継いだ建物をまず見る。さらに氏清と山名宗全

山名氏清の碑

の念持仏が納められたお堂も。(ちなみに、「内野」とは、かつての大内裏があった場所に広がっていた荒れ地のこと)

 

国宝千本釈迦堂本堂

国宝の本堂は応仁の乱を生き延びた数少ない建物として有名。

千本釈迦堂本堂内部、応仁の乱における刀槍の痕

堂内の柱には、乱の時の刀や槍の傷が多数見られる。この堂内で戦闘があったことを実感する。横に並ぶと首から胸くらいの高さに傷が集中、命のやり取りがあったことがわかる。

ふとパリのペール=ラシェーズ墓地でみた連盟兵が銃殺された壁の弾痕を思い出す。撮影禁止の文字がないのをいいことに、パシャり。

 

宝物館、素晴らしい仏像が並んでいる。(こっちは撮影厳禁の文字、多数)。

慶派の定慶による六観音、綺麗な顔が印象的。六道とのかかわりで作られたことを考えながら観る。修羅道の十一面観音の目の下の傷がなぜか、涙のように見えた。また餓鬼道の准胝観音だけが異形、不思議に思う。

十大弟子像(千本釈迦堂HPより)

十大弟子は、半分が修理中で、五人だけが並ぶ。さすがに快慶。ふと「第一説法」の弟子の姿が日蓮像に似ているような気がした。快慶と当時の鎌倉仏教の偉人たちとは交流があったとも考えられ、彼らの姿が、その仏教への真摯な思いとともに、仏の弟子として造形されてもおかしくないと夢想する。だったら、「受戒第一」の弟子は明恵で、釈迦の実子の羅睺羅はいい氏のボン「道元」か。優しそうなお顔の弟子は法然。親鸞は、快慶の師匠の運慶はだれか?などとひとしきり妄想する。

千本釈迦堂境内にて

その後、B大学へ向かったはずが、いつの間にか90度曲がって、R大学の方に来てしまった。
ということで、今R大学図書館でこの文を書いている。今日は、5時まで、閉館も近い。

注:パリのペール=ラシェーズ墓地の壁とは、1871年のパリ=コンミュンに参加した市民兵たちが集められ、次々と銃殺された壁のことです。柔らかい石のちょうど胸のあたりに、無数の銃痕が残っており、そこで行われたことを物語っていました。

パリ・ペールラシェーズ墓地・連盟兵の壁(いい町.netさんのブログより転載)

 

 

楠木正成と湊川神社

神戸に行って、ただで帰るのは面白くないので、湊川神社へ行く。高速神戸の駅を上がったところが神社の入口。

楠木正成墓所入口

右側に楠木正成の墓所がある。墓を建てたのは徳川光圀(水戸黄門)。正成の墓の墓碑銘を書いたのが光圀で、撰文は朱舜水。

楠木正成の墓石
正成の墓石の拓本。事務所で販売している。

 

 

 

 

 

 

 

 

何枚か撮したがうまく写らないので、売店にあった拓本も添えておく。

朱舜水撰の墓碑銘の拓本
徳川光圀(水戸黄門)像と徳富蘇峰撰の光圀顕彰碑

この縁で、光圀の銅像が建てられ、さらに光圀顕彰の石碑も建てられる。撰文は徳富蘇峰。漢文でなく現代文でかかれ
る。
横の石灯篭をみると、元治2年とか、文久2年と言った幕末の年号が多いのに気づく。幕末期、楠公ブームが到来していたことを物語る。石灯籠の寄進者の多くは尼崎・(桜井)松平家。この頃はこの地は幕領とされていたが、この地の領主であった時期もあったのかもしれない。
最初のものは文化年間。この頃から、大楠公崇拝、尊王論が高まりを見せたことを物語っている。勝手な推測をするなら、尊王論、歴史ブームの高まりの中で、尼崎・松平家が領内のこの墓所を観光資源⁈としようとしたのかもしれない。

 

岡藩士奉献灯籠2

別の献納者の石灯籠も見つける。名前がなく「岡藩士」とのみ記され、献納の時期は元治2年(慶応元年に改元される)。岡藩は九州・大分の竹田にあった藩。この時期、「藩」という語は正式にもちいられておらず、尊王の志士らが自称したことから考えて、尊王の志士と考えられる。
岡藩の志士といえば、小河一敏の名が浮かんでくる。
調べてみると小河は文久2年の寺田屋事件で薩摩に拘束され、岡藩に引き渡されたが、一時釈放されていたとウィキペディアに記されており、その可能性は高いと思われる。小河はのちに明治天皇の側近となるので、湊川神社の隆盛に影響を与えたと考えて良いと思う。
宝物館は休館日なので、境内をうろうろ。

楠木正成像 湊川神社ではなく湊川公園内に設置されている。現在は仮住まい。

正成の銅像くらいあるだろうと思ったがなかった。、本殿の横に正成「殉節」の地なるものがある。忠君大楠公が作り出される中での遺跡か。先の墓所といい、「殉節」の地といい、歴史ブーム、尊王ブームの中で、江戸後期にはじまり、幕末・明治と時代を経るにつれ、整備され、神話化されていったと考えられる。
楠木正成という人物、歴史上の「悪党」としてみた場合、非常に面白い人物なのだか、尊王の偉人として位置づけられるに従って、面白くなくなる。本気で天皇を守るつもりなら、簡単に死なずにもっとやり方があっただろう!とツッコミたくもなる。そもそも、みんな自決したのに、正季が「七生報国」と言ったなんてこと伝わらん!太平記以来の創作だろう。リアル正成兄弟よ、こんな風に神様として、祀って欲しかったの?、などと考えてしまう。

テロの黒幕としての「西郷」も西郷

本編用のFBにUPしたものです。
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ツィーターを見ていて、坂本龍馬暗殺の黒幕は西郷ではないという話がでていた。確かに、現在の研究の到達点からすれば、それは正しいだろう。そもそも、竜馬暗殺の日に、薩摩の三トップは京都にいない。かれらなしで竜馬暗殺を促す行動を行うということは困難だとおもわれる。それは、それでよい。

しかし、だからといって西郷はこうした暗殺とかいった現在から見て非難されるような行動をしない正義の人だというのなら、それは別の話だ。西郷はほぼ確実に罪のない人物の殺害を命じている。実際に存在したのか疑問が出されている坂本の船中八策より先に、それより優れた内容の改革案を島津久光、徳川慶喜や松平慶永らに提出した、ある面で坂本のモデルであった(だから存在を隠されてきた可能性もある)とされる上田藩・赤松小三郎の暗殺だ。厳密な史料批判で有名な青山忠正教授なども、ほぼ西郷の命令であることは明らかであることを公言している。赤松の門弟であった中村半次郎に殺害を命じるのだから、エグい。
薩摩の軍事顧問であったため、赤松が帰藩すれば薩摩の軍事情報が流れること、幕府側の軍事力を高める可能性を嫌い、口封じをしたともみられる。さらにいえば、赤松は薩摩の三トップよりも、島津久光に近かったことから、薩摩藩内部のヘゲモニー争いとの関わりも考えられる。
この行為をどう評価するか、その是非は別として、(それが幕末のリアル)、こうした行為を命令する凄味をもった人物であったことを押さえないと、リアリストとして「悪」にも手を染める正しい西郷像は描けない。親しい仲間や友人・恩人であってもやむを得ないときには命を奪い、仲間に盗賊行為を命じ、江戸の町を焼き払うことも辞せず、さらには会津藩などを人身御供とできる人物。他方で、ひょっとしたら自分の命も道具としてさしだすこともいとわない人物、だからこそ庄内藩など戦争で敗れた藩などから尊敬を受ける人物であったように思える。
こうした西郷の「悪」や「闇」を「西郷どん」で描けるか。結局は正義の人、偉人伝に終始するのだろうな。そうして、幕末から維新にかけてのイメージが作られていく・・・。
なお、赤松についての研究もすすんできた。上記の内容は拓殖大の関良基氏の労作も参考にした。たしかに赤松は優れた人物であったかもしれないが、赤松への思い入れの強さから、時代や状況を無視した贔屓の引き倒しになっていないか。とくに「人民」とはだれか?冷静な分析が必要と思う。

注:数日前、何の気なしに見たNHKーBSの再放送で赤松小三郎暗殺をとりあげていた。リアルタイムで視聴しないで、上記の文章を書いていたことになる。下の番組紹介をみて、大河の提灯番組と判断し見落としたのかも知れない。
番組では赤松小三郎の暗殺を薩摩の仕業としていたし、赤松の業績が紹介され前出・関教授のインタビューもあった。「あり得たもう一つの近代」とのコメントもあった。責任が曖昧で幕末史のリアルというから見れば不十分で唐突の感は否めなかったが、知られざる思想家赤松小三郎が紹介されたことも含め、評価すべきと考える。

NHKが、大河や歴史番組でこうしたリアルを今後どう扱うか?気になるところである。西郷らが負うべき暴力とテロの責任を含めて、単なる偉人伝ではないリアルな幕末の歴史・人物像が描かれることが望まれる。
 この番組は、NHKオンデマンドで見ることが可能です。
 また、この番組に言及された関教授のブログへのリンクもつけておきます。

***番組紹介より「引用」***
英雄たちの選択新春スペシャル
「幕末ヒーロー列伝 これが薩摩藩の底力だ!」
 
日本がかつてない危機に直面した幕末、西郷隆盛や大久保利通らの英雄が薩摩藩から次々と登場し、維新の原動力となった。変革の時代をリードした薩摩藩の底力を徹底解剖!

 260年続いた江戸幕府を打倒し、新時代を切り開く原動力となったのが、日本の南端にある藩「薩摩藩」。幕末、薩摩藩は西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀ら傑出したヒーローを次々と生み出した。日本が進むべき将来の明確なビジョンを掲げ、欧米列強とも互角に渡り合い、歴史を変えていった薩摩の英雄たち。なぜ、そんなことができたのか?「薩摩藩の底力」を徹底解剖し、混迷の時代を生きぬく知恵を磯田道史がゲストとともに探る。
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】中野信子,岩下哲典,桐野作人,瀧本哲史,【語り】松重豊

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

1867年12月9日でない「1867」年12月9日が存在する!

山川出版社「詳説日本史」P259所収の表より抄録

歴史の教科書には1867年12月9日ではない、「1867」年12月9日という不思議な日が存在します。なにを訳のわからないことをいっているのかと怒られそうですが、そんなことが存在するのです。
ちょっと詳しい人ならわかりますよね。明治6年1月1日以前、日本は旧暦で日付を表記していました。だから、ズレが生じていたこと。そして、面倒くさいものだから、教科書を含み多くの書物では、1868年=慶応4年または明治元年という等式で書きます。したがって慶応3年12月9日は「1867」年12月9日と書かれてしまうのです。
もし、その時代に飛行機があって、江戸からロンドンへ飛んだりしたら、約1ヶ月ぐらい時間を飛び越えたことになったのでしょうね。
今回も、大学の講義で学んだことを紹介しつつ、記していきます。

1868年1月3日~王政復古のクーデタ

さて、括弧付きの「1867」年12月9日、つまり慶応3年12月9日は、欧米では1868年1月3日でした。
その日、岩倉具視は大久保らと組んでクーデタを決行、天皇親政を宣言した王政復古の大号令が発せられました。そして、夕刻からは小御所会議が開かれ、岩倉や大久保、西郷と、山内豊信や松平慶永らとの間で、どなりあいをも含む、息詰まるようなドラマが演じられた日として知られています。(どこまでが本当か、近年は疑問視されていますが)これによって、旧幕府は日本の統治権を完全に失い、天皇中心の新政府が生まれました。
しかし、クーデタや小御所会議に参加したメンバーは、こうしたやり方に反対していました。大政奉還などにおける徳川慶喜の行動を評価し、慶喜が新政府にしかるべき地位で参加するべきだと考えていたのです。
この日以後、活躍が目立つのは、瞬発力の豊信でなく持久力の慶永らです。慶喜を新政府の中に組み込むための工作がすすみます。実は、新政府内で、慶喜を排除しようというのは、大久保ら薩摩、朝敵の汚名を着せられた長州、そして岩倉を中心とするごく一部の公家だけです。しかも、岩倉にしても、薩長が力を持ちすぎるのについては心配しています。こうして慶永らの工作が功を奏しはじめます。徳川家の責任を追及し、慶喜の官位と領地を朝廷に返還せよという「辞官納地」の要求は事実上骨抜きとなりました。さらに、慶永らは、慶喜を議定として参加させようと画策、ついに岩倉も折れて、慶喜が新政府に議定として参画することが内定しました
もし、慶喜が新政府に入るとどうでしょうか。新政府の議定の大部分は徳川家を議長格にした公議政体論を求めてきた人たちで、江戸時代の上下関係が新政府部内でも反映することは、容易に想像がつきます。なんといっても将軍家の親戚筋(親藩)や将軍への忠義の強い大名たちです。参予も、そうした大名の家臣です。さらに、慶喜の頭脳明晰さと言説の鋭さ、かつて神童と呼ばれその能力はずば抜けています。多くの議定や参予が支持したでしょうし、さすがの岩倉も、大久保も、対抗するのは困難だったでしょう。西郷が小御所会議でいったという「短刀一本で勝負がつく」という事態が発生していたかもしれません。
これが慶応3年の年末、1868年の1月の状況でした。王政復古のクーデターは失敗に終わる直前でした。大久保や西郷、木戸といった連中は、それを覚悟していたかもしれない状況でした。

「1868」年1月3日~鳥羽伏見の戦い発生

こうした事態が急変したのが、年が明けて慶応4年の1月3日、今度はカギ括弧つきの「1868」(慶応4)年1月3日です。(カッコなしの西暦標記では1868年1月27日)
江戸では、薩摩側が行っていた江戸攪乱工作への反発から、庄内藩などが薩摩藩邸を襲撃、これが大坂につたわると、慶喜配下の旧幕府側武士たちがいきり立ち、「京都進発」を主張、慶喜もそれを認めます。

しかし、「京都進発」とは何でしょうか。戦争に訴えるのなら作戦を練って多方面から攻撃すべきだし、平和的に抗議したり、議定就任の請状を提出するのなら、少数で行くべきでした。どちらの方法でも旧幕府側の有利は動かない状況でした。
ところが、旧幕府側は最悪のやり方をします。時代錯誤の感覚が彼らを動かしていました。将軍の軍隊が「まかり通る」といえば、黄門様の印籠を出された武士のように恐れ入るという感覚でしかなかったかとしか思えません。当初より、戦闘意欲旺盛な薩摩・長州の武士たちは、江戸期のフツウの武士ではないことを理解できなかったのでしょう。こんな風だからこそ、幕府は滅びなければならなかったのかもしれません。
ともあれ旧幕府側はたたかいには不向きな隊列で京に向かい、薩長と衝突しました。鳥羽伏見の戦いです。慶応4(1868)年1月3日のことでした。旧幕軍の武士たちの奮戦もむなしく、旧幕側は敗れ、ショックを受けた慶喜は家臣たちを見捨てて、江戸へと逃げ帰ります。

逆に、戦闘状態になったことで薩長側は、旧幕府は天皇に楯を突く「賊軍」であるというレッテルを貼ることができました。そして自分たちのやり方を「天皇の命令」として押しつけることができるようになります。
慶喜のため尽力した慶永や尾張の徳川慶勝らも新政府側に立ち、慶勝は家中を大粛清、多くの武士が斬られます。
こうして、慶応3年末、1868年1月段階で、風前の灯火であった新政府が、旧幕府側の愚行のおかげで、「天皇の信任」という神話をもとに確立することになりました。

和暦と西暦、この二つの1月3日をターニングポイントとして、日本は新しい時代へとこぎ出しました。

1年は13ヶ月?~閏月の話

もうすこし暦の話をします。太陰暦は月の満ち欠けをもとに、新月から新月までを1ヶ月(約29.5日)とします。ですから1ヶ月は大の月が30日か、小の月が29日となります。月の満ち欠けと一致しますから、かならず15日は満月です。「○月1日は満月であった」なんて小説やドラマがあれば、明らかなミスですね。龍馬が殺害された日は旧暦の11月15日ですので、晴れていれば、満月が見られたはずです。
しかし、おかしなことに気づきませんか。1ヶ月が29~30日ならば、1年は355日となり、太陽暦の1年(365.24日)との間で、1年でほぼ11日のズレが生じます。
イスラム暦は、この点を一切気にしないので、季節と月の関係ががたがたになります。だから断食月(ラマダン)は夏にあったり、冬になったりと、いろいろ大変なのです。1年はもちろん365日ではありません。

映画「天地明察」と日本の暦について

ところが、中国など多くの国では、やはり季節と月がある程度一致した方がよいと考えました。したがって、月の満ち欠けを基本とする太陰暦を太陽の動きで1年を図る太陽暦で補正します。これが太陰太陽暦です。どのように補正するかというと、約3年に1回、1年を13ヶ月としたのです。そのプラスアルファ分の月を閏(うるう)月といいます。中国では殷の時代から始まっていました。
たとえば慶応4(明治元)年の場合では、4月の次に閏(うるう)4月という月がやってきて、その次に5月・6月と続くことになります。

季節とのずれが生じないよう、どこに閏月を入れるかが暦をつくる人たちにまかされます。
江戸時代には、江戸の天文方と京都との間でキャッチボールしながら暦を編成、それにしたがってつくられた暦を伊勢御師など認められた人たちが印刷、配布していました
なお、戊辰戦争のことをしらべていたとき、本来なら閏4月の記事と思われるものが、4月と記されていたり混乱していて、ちょっと困ったことがありました。

 

2日しかなかった明治5年12月~大隈重信の「悪だくみ」

映画「天地明察」と日本の暦についてhttps://www.offinet.com/news/entry_73578.html

和暦(太陰太陽暦)と太陽暦の併存がなくなったのは明治5年12月のことです。岩倉使節団が海外に行っているどさくさ紛れに12月3日を明治6年1月1日にしてしまいます。この年の12月は2日しかなかったのです
では、なぜこの年、太陽暦に変えたのか。「グローバルスタンダードにあわせた」といいそうですが、実際はもっとせこい。明治6年が閏年だったせいです。

大隈重信

わかります?閏年は1年が13ヶ月。だから給料は・・・13回・・・けど、カネがない・・・。もうわかりますね。給料を13回払いたくなかったのです。しかも、「明治5年12月は2日しかない、それもいらないじゃないか!」ということで、2回分の給料をボツったのです。
考えたのは、当時の大蔵省のボス・大隈重信です。
 改暦による混乱はなかったのか。先生の話によると、その通知はぎりぎり(11月9日)だったが、それほど混乱はなかった、百姓は旧暦で生きていたからとの話でした。しかし私には疑義があります。私が卒論で扱った金光教の教祖金光大神(赤沢文治・川手文治郎)のことばのなかに、太陽暦に伴う節句の廃止を「四季節句、五節句は天地のお祭り事。今は節句を廃いておる。すれば、神の祭り事もなし。神への祭り事なければ人への例なし。子孫危うし」として節句や暦を神の祭りと結びつけて捉え、その廃止は民衆世界を脅かすものとして受け止める視点があったからです。
また急に決まったため10月1日から暦の販売に当たっていた業者も、返品の嵐で、数百万部の廃品を抱えることになりました

時間を支配するのは誰か?~昭和から平成へ

青山忠正氏は次のように記します。

時を支配するのは、近代以前では「皇帝」あるいは「王」といった最高統治者です。東アジアならば、中華皇帝が定めた暦を授けられることを「正朔を奉ず」といって、その臣従下に入ることを象徴する意味を持ちました。その意味で、文明の認識基準をヨーロッパタイプに転換する際の、一つのカギに当たる大事件なのですが、一般には文明開化の一端という程度で、軽く見過ごされているようです。(青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017)
 

 金光大神は、直感的にこの象徴性を捉えていたのかもしれません。

新たな元号を「平成」と発表する当時の小渕官房長官

こうした「支配者」による時の支配を私に強く感じさせたのが1989年1月でした。昭和天皇が死亡、1月7日をもって昭和が終わり、平成が始まりました。なぜ僕たちの時間が一人の人物の生死によって決められなければならないのか、強烈な違和感と不快感をもったことを思い出します

もう一つの「1月3日」~坂本龍馬が死んだのは満32歳の誕生日?

最後に、もう一つの1月3日の話をしたいと思います。歴史マニアの人たちにすれば、日本の歴史を変えたもう一つの1月3日といえるかもしれません。
それは1836年1月3日です。そんな日は知らないといわれそうです。これを、和暦に換算すると天保6年11月15日です。
小説などでは「彼が殺害されたのは奇しくも慶応3年11月15日、満32歳の誕生日のことであった」と記される人物の誕生日とされる日です。もうわかりますね。坂本龍馬の誕生日とされる日です。
しかし、ここにはいくつかの問題があります。
1つめ、殺害された日は資料的に裏付けられますが、誕生日を裏付ける史料はありません。記録がないのです。
2つめ、そもそも満年齢という考えがない。
3つめ、満年齢で数えるならば、1歳はおよそ365.25日で計算するはずなのに、西暦換算すると日数が足りない、などなど。
細かい論証は青山氏の前掲書をご覧ください。

<参考文献>

青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017

広瀬秀雄「日本史小百科 暦」近藤出版社 1978

ブログ・映画「天地明察」と日本の暦について  https://www.offinet.com/news/entry_73578.html

注記、明治6年の改暦のドタバタと、その責任者である大隈の話を書いたところ、その内容ドタバタが、前進座で芝居として上演されたとの話を聞かせて頂きました。ありました。「明治おばけ暦」脚本は、「ゲゲゲの女房」や「八重の桜」の山本むつみだったそうです。一応、リンク貼っておきますね。

「5つの名前」と、壬申戸籍

「5つの名前」と、壬申戸籍
~幕末維新期の「名前」(2)

江戸期の名前の複雑な構造

新潟県村上市の町並み

新潟県村上の内藤家中に鳥居与一左衛門和達という武士がいた。
この人物に興味のある方は、ここを参照してください。
源平藤橘の姓はよくわからないが、先祖は三河の鳥居氏であることは確かである。Wikipediaでは、三河の鳥居家は熊野権現の神職の末裔であり、平清盛から平姓をもらったというから、源平藤橘の「姓」は「」であったとおもわれる。したがって、前回のブログ風に、記すと下のようになる。

鳥居・与一左衛門・平・和達

前回のいい方をすると、鳥居がで、与一左衛門が通称、平が、和達が名(ということになる。

村上・鳥居三家

村上には鳥居家は、代々家老を引き継いできた鳥居本家(内蔵助家)のほかに、早い時期に分出した中鳥居、そして後年になって分出した末鳥居の三家が存在していた。
戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟に参加し、「官軍」に敵対した責任を取って切腹(政府の命令は「斬首」)した鳥居三十郎は、本家内蔵助家の出身である。
鳥居三十郎については別稿参照

さて、この二つの分家には別の呼び方がある。末鳥居は杢左衛門家であり、中鳥居の別名が与一左衛門家である。つまり和達の通称のように見える「与一左衛門」は通称ではなく、鳥居家を分類する際に用いられる「家名」でもあり、家長が代々襲名する名であった。
遠山金四郎が、役職に就いてからは「金四郎」でなく「左衛門尉」という官名を名乗ったように、家督を襲名した当主が「氏」とは別に「家名」ともいえる「与一左衛門」を名乗ったのだ。老舗や芸道によくあるものである。
ならば、こうした人々は実際にはどう呼ばれたのであろうか。「家名」でよぶことも多かったであろうが、家族や友人などもっとくだけた場合には使いにくかったと考えられる。また「和達」というような諱は一般には使わない。となれば和達という人間を識別するべき名は公的にはなくなってしまう。
そこで、公的でない場合は、ふだんは通称にあたる別の名を用いていたようである。

鳥居与一左衛門和達と鳥居存九郎

旧鳥居与一左衛門家現況
https://blogs.yahoo.co.jp/orion_chelseaより

現在わかっている「和達」の名を挙げておこう。かれの生まれはよくわからないが、子どもたちの年齢などから逆算すると、天保5(1833)年ころの生まれと想像できる。
安政2(1855)年、藩主信親の近習として江戸住まいをしていた頃の名は「喜代之助」、安政4(1857)藩主の名を受け水谷栄之丞(孫平治)、窪田潜龍とともに樺太探検をおこなった時は「存九郎」、家督を継ぎ、町奉行となってからは「与一左衛門」となる。
郷土史家の大場喜代司氏が当時の史料をもとに記されたと思われる、慶応2年の正月のようすを記したエッセイで、「和達」は「与一左衛門」ではなく「存九郎」と呼ばれている。このことから、平時は「家の当主代々の名」である「与一左衛門」ではなく、それまでの「存九郎」という名で呼ばれることが多かったと思われる。

戊辰戦争の中で

慶應4年正月に開始された戊辰戦争は、和達は、2月新潟で行われた越後の諸大名連絡会議(「新潟会議」)に水谷孫平治とともに村上藩代表として参加、さらに奥羽列藩同盟の中心であり、村上藩に強い影響力を持つ庄内藩にも行くなど、主戦派の中心の一人として活躍していたと思われる。さらに、北越戦争が始まると、実際に戦闘にも参加している。
出撃して以後の動きはわからなかったものの、村上落城後、羽越国境での新政府との戦闘に参加しており。いったん村上に戻っていたのか、会津・米沢を経由して庄内へいったのかについては、わからない。庄内藩の降伏によって、戦争が終わると、村上帰還、市内の寺で謹慎生活に入ったようである。当初は外出し、会議への参加するなど、かなりも緩やかなものであったと考えられるが、新政府から取り調べの命令がでて、監視は強化された。反新政府派の有力者として、帰順派の江坂與兵衞暗殺事件にかかわった可能性もある。

「鳥居三十郎追悼碑」(村上市)

義兄(年下であるが)鳥居三十郎切腹後、8月に三十郎を含む戊辰戦争死没者の大施餓鬼供養を行った際の中心人物であったとの記事も見られる。
その後、こうした事態を重大視した新政府は、和達らを東京召喚、それにもかかわらず東京で謹慎中に外出し狩りを行ったため、に謹慎を続ける羽目に陥った。
その後の経過はわからないが、同一行動を取っていたと考えられる水谷孫平治が隠居し家督を譲ったのが明治4年7月であるので、おそらく同じ時期に村上に帰還、隠居して家督を長子・和邦に譲ったと考えられる。

壬申戸籍の編成の中で

当時、和邦は12歳であったが、家督を相続し、おそらく元服、与一左衛門家の当主となったとおもわれる。与一左衛門を名乗った可能性もある。
鳥居和邦についても別稿参照

このように仮定すると、和邦の名前は以下のようになっていた可能性がある。

鳥居・与一左衛門・平・和邦
(とりい・よいちざえもん・たいら(の)・まさくに)

ちょうど、この年、新たに戸籍法が制定され、翌年から、いわゆる壬申戸籍が編制されはじめる。前回も書いたように、これによって、いくつかあった名前が一つに固定されていく。いくつかある名前から、一つを選ぶのであるから、どこの家でも、かなり混乱したと思われる。
入手することができた鳥居録三郎の戸籍から、こうした混乱を読み取ることができる。一枚の戸籍の中に、3タイプの名前が併存しているからだ。
録三郎の父、つまり和達の欄にはこれまで見たことのない名前が出てくる。「淇松」である。なんと呼ぶのかはわからない。なお入手した戸籍には「淇松」の名の上に「亡」の文字が付されており、和達は、入手した戸籍が編成された時には、すでに死亡していたことがわかる。
戸籍の筆頭者は兄の「和邦」、そして弟が「録三郎」、末弟が「鍗次郎」となる。
この三つの名を見ると、和邦は諱を、録三郎鍗次郎は通称、あるいは幼名を、そして和達は隠居名をそれぞれ用いたことがわかる。そして和邦の通称は、法律上=戸籍上は消去され、録三郎と鍗次郎は諱もまたないまま、そのとき用いていた名前が登録されたことになる。
この時代、人々は、どれだけこの選択の意味を理解していただろうか。これまでと同様に、いくつかの名前が公的にも使えると考えていたのかもしれないし、年長になれば録三郎らも「諱」のような名を付けられると思っていたのかもしれない。しかし、名前の変更は、これ以降、簡単には認められなくなる。それを知って、愕然とした人間もいたと思われる。そのためかどうかはわからないが、録三郎の子どもたちには、再び一族の「諱」に用いられた「和」の文字が用いられ、「諱」系の名前が戸籍を占めるようになっていく。
鳥居鍗次郎についても別稿参照

引き継がれた江戸時代の「名前」たち

こうした江戸期の名前のつけ方のルールが、明治期以降の伝統的な日本人の男性の名前のつけ方に反映している。
①一つ目は、「」系を引き継ぐ氏名である。江戸期までは特別な場でしか用いられなかった「諱」であるが、やはり「最も大切で、系図に記される名前」ということで登録されたのであろう。「和達」「和邦」などのように、2字のからなる名前がおおい。なお「徹」「彰」など1字のみの名も、公家や大名家などに散見できることから諱系と分類することができる。
②二つ目は、「通称」(幼名)系の名前で、それまでから一般的に使っていたので親しみ深かったともいえる。「金四郎」「録三郎」「鍗次郎」のように三字となることがおおく、「喜代之助」のような四字の場合もありうる。しかし、「通称」は公的なものとは見なされにくかったため、鳥居家では長子ではない子どもたちに付けたようにも思われる。
③三つ目として考えられるのは、「官名」「一族代々の名」である。
遠山金四郎のような「左衛門尉」のようなたいそうな名前はないとしても、現在におおい「大輔」のように、律令制的な官位を引き継ぐは「○○すけ」(「すけ」には「助」・「介」・「佐」などさまざまな漢字が用いられる)」を中心に、多く存在する。明治当初は「○○衞門」「△△兵衛」などがそうしてものともいえる。
実際には「与一左衛門」のように、これまでの「名字」にかわる「家名」という性格を持っていたものもあれば、すでに官名の性格を失って通称としても用いられることも多かったと考えられる。
百姓の代名詞である「権兵衛(ごんべえ)」さんや猫型ロボットの「ドラえもん」が律令制的な役職から来ているなどといっても、どん引きされるか、笑われるだけであろう。
④四つめは、その他の名前である。鳥居家の場合は隠居名である「淇松」がこれに当たる。さらに「松陰」「子義」といった「」や「」が登録されたこともあったと思われる。僧侶は「法名」が用いられた。多くは二字名であり、難しい漢字が並ぶことがおおい。

日本人の名前にはいくつかのタイプが確かに存在する。それは、このような江戸時代の名前のつけ方から来ているものがあることは明らかであろう。

江戸時代の名前と戸籍法 ~「名前」をめぐる明治維新史(1)

江戸時代の名前の規則と戸籍法
~「名前」をめぐる明治維新史(1)

大学での授業は気になっていたことを一挙に解決してくれることがある。
歴史研究者からすれば、当然のだが、一般人にはあまり知られていないことがある。
今回、教えていただいた内容は江戸時代において名を名乗るの原則であり、それが明治維新によってどう変わったかである。
祖先調べで資料(史料でない!)にでてくる名前で苦しんだ経験があったので、この内容は非常に興味深かった。幕末維新史の大家の先生の話からは多くの発見ができる。

今回は先生の話を紹介しつつ、追加的に調べたことを交えて、幕末維新史をめぐる「名前」について記し、次回は応用編として私が祖先調べの中でわかったことを述べていきたい。
なお、先生は幕末維新史の政治史にかかわってでてきた内容なので、武家の「名前」にかかわる話となり、庶民の名前には触れておられない。個人的に、庶民の名前についても調べたいという興味もわいてきた。

前近代の名前の原則~坂本龍馬の名前から

坂本龍馬が例として扱われた。龍馬の正式の名乗りを記すと

坂本・龍馬・紀・直柔
(さかもと・りょうま・き(の)・なおなり)

坂本」が「」の名前、今でいう名字、坂本家の出身であることを示す。
龍馬」が「通称」であり、家族や仲間が一般に用いる名前。だから、一般にはこれが用いられる。 愛称になると、省略されたりするのは現在と同じである。

実際に多く用いられるのが通称である。有名な者としては、西郷「吉之助」、大久保「一蔵」などがこれにあたる。一般に用いられるのはここまでである。

残りの「紀・直柔」は一般には用いられない名前である。子孫が系図に記したり、墓石に刻むための名前である。
ちなみに「」は、「姓(かばね)」であり、先祖の家系を示すものであり、多くは「源平藤橘」の4姓が用いられることがおおい。とくに藤原がおおい。「大部分はフィクションであろう」というのが先生の見立てだ。
そして「直柔」が「」であり「諱(いみな」ともよばれる。

なお国語大辞典では諱とは「「忌み名」の意味であり、① 本名。生前の名で、その死後人々がいう。② 死後に尊んで付けた称号。おくりな。のちのいみな。③ (①の意を誤って) 実名の敬称。貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。」とあるように、本名ではあるが死後にもちいられることを原則とした名前といえるようである。
ただし、江戸時代の大名家などでは、③のように諱を貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。

目上の人を呼ぶためには~吉田松陰の例

通称で呼ぶあうのは、基本的に、「上から」ないし「横から」の呼び方であり、目下から目上を呼ぶことには用いにくい。
そこで、吉田松陰の例があげられる。松陰の正式な名乗りを記す。

 吉田・寅次郎・藤原・矩方
(よしだ・とらじろう・ふじわら・のりかた)

 さきほどの理屈で、目上の者や家族、友人は、「とらじろう」やそれを略した愛称「とら」で松陰を呼ぶことになる。小説などで、主君の毛利敬親が松陰の命日に「今日はトラの日であったな」と話すのはこうした仕組みからである。
しかし、目下の者、とりわけ弟子などが「とらじろう先生」と呼ぶのは、恐れ多いことと考えられた。そこで用いられたのが「号(ごう)」である。こうして弟子たちは「松陰」先生と呼ぶことになる。門人が先生を呼ぶときは「号」が用いられる。
さらにちょっと気取った文人・学者世界では「字(あざな)」を用い、「子義」という「字」が多く用いられた。

ちなみに松陰は多くの名をもっている。
「国史大辞典」によると「幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す」となる。

「号」と「字」の違いが今ひとつわからないが、「国語大辞典」によれば、「号」は「特に、学者、文人、画家などが、本名、字(あざな)のほかに付ける名。雅号。」とあり、「字」は、「㋑中国で、男子が元服の時につけて、それ以後通用させた別名。通常、実名と何らかの関係のある文字が選ばれる。実名を知られるのを忌んだ原始信仰に基づき、実名を呼ぶのを不敬と考えるようになったところからの風習。㋺ 日本で、中国の風習にならって文人、学者などがつけた、実名以外の名。」である。さらに「江戸時代には、儒者・文人の間に広まったが、総じて尊称的なものと考えられていたようである。」との説明が付されている。尊称とあるように「字」の方がより気取った感じなのだろうか。

「偉い人」は「官位」が名前~「遠山金さん」と「一橋中納言」

これが大名や有力旗本になるともっと面倒になる。先生が例を挙げたのが「遠山の金さん」だ。まず正式名を記す。

 遠山・金四郎・藤原・景元
(とおやま・きんしろう・ふじわら・かげもと)

となり、原則はこれまで通りであり、通称を用いて「遠山金四郎」という呼び方が用いられる。ところが、官職につくと、「官名」がつく。「国史大辞典」によると、天保7年に「左衛門尉」という官位があたえられる。これ以降、一般的な呼び方は官名でよばれるようになる。周囲の人々も、自らも「金四郎」でなく「左衛門尉」「左衛門尉様」と呼ぶことになるのだ。おなじみの「遠山左衛門尉様、ご出座」という呼び方になる。
ちなみに、彼は天保3年に「大隅守」の官位をもらっており、それ以後の5年間は「遠山大隅守様」であったことになる。
こうして、官位を持った者は官位で呼ばれることが大きな意味をもつ。
徳川慶喜などは「一橋中納言」と呼ばれていた。

私もたまに、幕末期の史料を見ることもあるが、大名や旗本の名前が出てくればとても困る。たとえば、幕末の村上「藩」の家臣などは、「紀伊守家中」としてしか史料にでてこないこともあり、特定することが非常に困難である。

「名前が一つにされる」~戸籍法と壬申戸籍

こうした状況が大きく変わるのが明治4年の戸籍法である。これに基づき翌明治5年から編成されたのが壬申戸籍である。近代国家形成に伴い、政府は人間を名前で掌握する必要が生まれた。これまでのように一人の人間がいくつもの名前を持ち、立場や状況によっていくつもの名前を用いるのでは個人が特定できなくなる。そうすれば、徴税や徴兵といった事業を行うことが困難になるのだ。こうして「個人の名前は一つでなければならないし、一生変えることが出来ない」という原則が打ち立てられる。
こうした中で、超有名人をめぐる一種の「喜劇」が発生する。先生が紹介したのが西郷隆盛の例だ。例によって、隆盛の幕末における正式な名を記す。

 西郷・吉之助・平・隆永
(さいごう・きちのすけ・たいら(の)・たかなが)

 おかしなことに気がつかないであろうか。西郷隆盛の「隆盛」はどこにいったのか?
戸籍法・壬申戸籍の編成にあたって、西郷は代理人に戸籍名の届けをだした。先に見たように、「名 」「諱」は一般には使われることはなく、西郷もつねに「吉之助」で通用させていた。したがって、代理人は、彼の名(諱)である「隆永」でなく父親の名(諱)である「隆盛」として届けたというのである。嘘のような話であるが、史料批判の厳しさには定評のある師のことであるので、事実だと思う。実際の所、西郷は自らの署名は常に「吉之助」で通している。しかし、先生はいう。「西郷は一度だけ『隆盛』という署名をしている。それは西南戦争に際して『伺いたきことがあり兵をつれて東京へ向かう』という文書を鹿児島県知事大山綱良に提出したとき、そのときだけはさすがに『隆盛』という署名をした」とのことである。

先生は、「明治になって『名前が変わった』。以前は名前は何種類もあったのが、戸籍法によって一つに固定された。しかし、正式にいうと近代になって『名前を支える論理が変わった』というべきである」と話された。
先生のいいたかったことは、こうした具体的な事例を通じて、明治の変革の意味が見えてくるのだといいたかったのだとおもった。

非常に興味深い話であった。この話を聞いて、さっそく私が把握しているだけでも5つの名をもつ私の高祖父、その一家がそれぞれの名前をどのように届けたかを整理したいと考えた。それによって、現在の名前のいくつかのパターンもみえてくると思う。