「授業の工夫」カテゴリーアーカイブ

歴史系用語の精選問題にかかわって

歴史系用語の精選問題にかかわって
~元高校教師の視点から

 

歴史教科書の実態から

まず、実際使われている(いた)教科書を見ていただきたい。

山川出版社「詳説日本史」P225

手元にあった「詳説日本史」の1ページ「宝暦・天明期の文化」のなかの1ページ(P225)である。
ここに記載される人名本文の太字で6人(青木昆陽・野呂元丈・前野良沢・杉田玄白・稲村三伯・平賀源内)通常の文字で5人(西川如見・新井白石・大塚玄沢・宇田川玄瑞)、注釈や写真説明で2人(シドッチ・山脇東洋)、さらに表中でさらに8名(略)。計22名がこの1ページのなかで登場する。さらに書名7冊(解体新書・ハルマ和解・采覧異言・西洋紀聞・蔵志・蘭学階梯・西説内科撰要)、その他、塾の名前(芝蘭堂)などもある。
この部分は、文化史なので、多めではあるが、こうした叙述が、この教科書では415ページにわたって続く。

コラムなど省略しやすい部分があるので、約400ページ、この膨大な量が高校で授業すべき対象として期待され、大学入試の「試験範囲」となる。
さらに、大学の先生には常識であっても、高校では常識でない問題、教科書に記載されない問題が出題され、さらに教科書に載せられる用語が増える。
 かつて「天台宗の中心になる経典は」という問題(答、わかりますか:「法華経」ですよ!)が出題され、翌年にはもう教科書に載っていた。

1日50分間の授業のノルマは3ページ強

本来、日本史Bは4単位であり、実際には授業時間数は120時間程度なので、1時間に3ページ以上進むことを前提に教科書は編纂されている
さきに掲げた部分なら、「宝暦・天明期の文化」全体で約7ページなので、授業時間2回分となる。掲げた分は、洋学(蘭学)でまとまっているのでやりやすいが、これを15分で終わらせられるか。儒学は、江戸期全体(室町期も)もにらみながら、授業するのでさらに厄介だ。
本当に可能か考えていただきたい。精選しつつ教える。「入試に出るかも」という不安を抱えながら。
入試に対応する「質」を求めると、ここで示した部分だけで1時間近くかかるだろう。「思考力育成型の授業と両立可能な用語数は一時間の授業数で15語程度」という指摘からすれば、このページだけでオーバーする。1日1ページならば、鎌倉・室町で年間時間数を使い切る。
 「学校では近現代史まで教えてくれない!」という批判に、「当然じゃないか」と居直りたくなる理由をわかっていただきたい。

実際の授業では

では「宝暦・天明期の文化」全7ページを2時間、さきにみたようにこの部分は15分程度で仕上げる。
私の例を挙げよう。「授業中継(開国前夜)」では、以下のような感じとなる。

**************

蘭学も広がりを見せた。

解体新書表紙 山川出版社「詳説日本史」P225


蘭学とは、オランダ語を学び、それを元に世界の文化に触れようとする学問だ。
蘭学は、実際の人体解剖に立ち会った医師の前野良沢・杉田玄白らが、もっていたオランダ解剖書の挿絵のあまりの正確さに衝撃を受けこの本の翻訳をはじめる。いわば中学校1年の単語帳だけで医学専門書を翻訳する感じだ。
そうした努力の上に、オランダ語、さらには西洋文化の知識を蓄積される。その蓄積は辞書や文法書を作るなどの形となり、オランダ人らから直接学ぶといった過程を経ていく。そして世界の知識に飢えていた知識人(おもに医師)の中に急速に広がっていった。
18世紀後半には、その興味は医学だけにはとどまらなくなっていく。すでに18世紀中期には平賀源内のようなあらゆる分野に興味を示す人物が出現したが、この時期には林子平のように世界情勢を深く理解し、日本のあり方に警鐘を鳴らす者も現れてきた。
田沼意次はこうした動きを好意的であったが、松平定信は「幕府が世界の知識を独占すべきだ」との立場から、こうした動きを危険視、林のように弾圧されることもあった。

 これにエピソードを加えて15分。「日本史A」での内容なのでこれでいいが、入試を考えた「日本史B」では厳しい。

<板書例>
2,宝暦・天明期の文化
a.洋学
 蘭学・・吉宗期の漢訳洋書の輸入緩和とオランダ語学習(青木昆陽ら)
 18C後期、前野良沢・杉田玄白ら・・「解体新書」=オランダ語文献を翻訳
  ⇒その過程での知識の積み上げ(蘭学隆盛へ)
     蘭日辞書「ハルマ和解」や文法書
           ↓
 医学から他の分野への興味の高まり(←幕府の弾圧も)
平賀源内・・「万能の天才」

 本来ならこの程度。
黒板に書き、ノートに採らせる。それで数分。
これに「解体新書」のエピソードや源内の活躍と死(たとえば、「玄白の追悼文」を紹介)、なぜ幕府が蘭学を弾圧したか、などを紹介して、15分という展開となる。時間があれば、芝蘭堂に大黒屋光大夫がきた話なども。

教えきれないからプリントを使用するが・・

ただ、これは勤務校がそれほどの進学校でなかったからできるので、進学校で通用しない。
なぜなら、入試で出題される中心は「稲村三伯」「ハルマ和解」「宇田川玄随」「小田野直武」であり「芝蘭堂」や「蔵志」であり、私の板書にはあまり入っていない。
決して杉田玄白・前野良沢・平賀源内ではない。
 受験に対応していないとなる。

実は、ここで記した範囲は、授業で実施できなかった内容である。単純に時間不足だから。幕末維新史を残すか、こちらを残すかの判断で、カットした。
少し余裕があれば、上記「授業中継」程度の内容をさらっととながす程度である。そして、補習回しとなるが、人数不足からめったに開講されない。

板書には時間がかかるという場合とか、より正確な説明と密度を濃くしたいという場合はプリントを用いる。
板書にもどした時期も文化だけはプリントを用いることが多かった。
しかし、こうしたプリントをつくっても、多くの生徒は空欄に赤ボールペンで答を写すだけ。試験前に赤い下敷きで隠してその部分を覚えるだけ。

歴史の授業は構造的に消化不良を起こす!

丁寧に教えるべきことには時間をかけて教えたい。近現代まで教えたい。これから生きていく上で指針となったり、役立つことを身につけさせたい、私はそうおもって、歴史の教師となり、教えようとしてきた。
しかし、そのような余裕は全くなく、時間と、授業という形式(この点については別の機会に述べたい)のため、困難であった。
どうあるべきか。
一つは、いっそうの時間保障がなされることである。どの学校でも、いろいろな口実を付けて時間数を増やそうとしている。しかし、行政側は、いろいろなけちを付け、もし増加単位を置くとすれば、訳のわからない科目名をつけ、やれる訳のない教案まで要求する。そうとはいいながら、こうしたフィクションを行いながら、多くの学校で時間数を増やしている。
いま一つは、教えきれるわけもないまま、入試の都合や研究成果を盛り込みたい学界の都合などから押し込まれる膨大な歴史用語を精選するしかない
入試や教科書から来ている以上、ある程度「外側からの力」をもって精選を図るしかない。ただその精選は国家権力によるものであってはいけない。あくまでも、教育現場と研究現場が、国民的、世界市民的教養とはなにかを考えて行うべきものである。

放置すれば、歴史教育は、さらに暗記のみを強要する無駄なものとなる。入試と教科書において、歴史用語と内容の肥大化をなんとか押しとどめるガイドラインを出さねば、歴史教育の新たな展開はない。

このままでは歴史教育は崩壊しかねない。

実は、私自身、生徒たちにセンター試験のみで必要という者にたいし「世界史や日本史を選択すべきでない」と指導してきた。努力に対し、結果との乖離(コストパフォーマンス?の悪さ)があまりにも大きすぎる。
このまま「歴史総合」2単位の教科書が編成され、さらに他の「日本史探究」「世界史探究」などの選択科目が置かれ、単位数削減にさらされるとするならば、歴史教育はさらなる用語の羅列となる可能性が大きい。
無政府的に示された歴史用語から配慮なしに入試問題がつくられるという悪夢すら想定できる。2単位であることを看過したまま。

入試至上主義の高校からは歴史科目は消え去る動きが表面化したのが、世界史未履修問題であった。あまりに難度が高まり、些末に流れる「歴史」科目自体が、まとめて教育から消去されかねない。

高大連携歴史教育研究会の提案

こうした危機感の中を背景に、2011年「学術研究者の国会」ともいうべき、日本学術会議が、国民および世界市民として学ばねばならない教養としての歴史の最低限を「歴史基礎」(および「地理基礎」)にまとめて新設必履修化すること、そしてそうした最低限およびその発展した内容と視点の歴史用語精選を提案したのである。

この流れにしたがって蛮勇をふるって汚れ役を引き受けて原案を出していただいたのが高大連携歴史教育研究会の皆さんであると理解している。 それは、指導要領に影響されつつも、あくまでも現実の歴史教育の当面する問題を検討し、歴史学と歴史教育のあり方を検討するなかで出てきたものである。

今回の精選案(高等学校教科書および大学入試における歴史系用語精選の提案(第一次))に対しては、いくつかの誤解がつきまとっている。
ひとつめは、「精選」の主体を、文部科学省・中央教育審議会などといった政府系の機関と考える誤解である。こうした機関が上意下達的に提出したといった印象で見られがちである。
しかし、実際は日本学術会議の分科会による「関係学会などで重要用語を精選するガイドラインを作成し、大学入試の出題をそのガイドライン内で行うとともに、歴史的思考力を問う問題を増やすように働きかけていく」という提案にもとづくものであり、民間の「高等学校歴史教育研究会」が学術会議などで行った高大の現場アンケートを元に試案を作成し、「大学と高校の教員の交流を可能にする全国的規模の研究会の必要性が痛感されるようになり」2015年に発足した高大連携歴史教育研究会で検討、作成したものである。
今回公表されたものは第一次案で、2018年2月までにアンケート等によって意見を集約し、2017年度中に最終案を発表するとしている。
今回の精選案は、アンケート調査のための具体例として出されている。精選の是非、精選の考え方、具体的な用語選定など、高大連携歴史教育研究会へアンケートを集中することによって、より多くの意見を集約したいとしている。
※なお、アンケートは高大連携歴史教育研究会のホームページからも回答をすることができる。このページからもリンクしておくことにする。

是非、アンケートを寄せていただきたい。

さらに、本年度中にだされる、最終案自体も「学習指導要領」のように、それ自体が権力的に扱われるものではない。こうした考え方と具体例を示すことで、新たな教科書編成や入試などへ活かしてもらえるよう働きかけるという性格を持つものである。

精選によって「龍馬」が消えるわけでない。

なお、多くの人が誤解をしているのは、この精選によって、今まで載っていた語句が教科書に載らなくなるのではないかという点である。
もっともポイントとなる部分を「提案」から引用することにする。

このガイドラインに記載された用語を教科書で「基礎用語」として本文に記載し、大学入試でも知識として問うのはこの範囲に限定する、それ以外の用語については、例えば、教科書では「発展用語」などの扱いで資料や図表・課題中に含めて自主的な学びに導く、入試でも大学入試でその知識を求めることはしないが、基礎用語の知識と組み合わせで解答すべき資料中に使うことは制限しないというやり方で、高等学校の歴史教育に柔軟性と多様性を保証することが期待されます。(中略)
また授業内容や教科書執筆全体については、本用語精選案がリスト外の用語を、授業中に例示することや教科書の資料・図表やコラムなどに掲載することを否定してはいないことをよくよくご理解いただきたいと思います。精選(制限)を提案しているのは、「教科書本文に掲載し、入試で必須暗記事項として扱う」用語だけです。

 今回精選のリストから外れた坂本龍馬や吉田松陰であっても、教科書の本文には載らず、入試には出ない(現実問題として、そんな簡単な問題が出るとは思えないが)ということであって、教科書執筆に当たっては、資料や図表にだすことは可能であるし、後で示す理由から、脚注などでの補足にも記される可能性が高いと考えられる。
もちろん、高校の定期考査などでは出題可能であるし、私が現役の高校歴史教師であっても、気にせず出題する。

精選の具体例を見ていこう。

ちなみに、今回の精選提案において、先に示した「洋学」のページに関わり合いがあるのは
蘭学・杉田玄白・解体新書・平賀源内と、他の場所に記載がある新井白石に限定される。
人名では13人が3人、書名では7冊が1冊に減ることになる。
しかし、私の授業がらみでいえば、消えた人物が前野良沢・青木昆陽、書名が「ハルマ和解」くらいであり、実際の授業内容から見て違和感はない。(ただ、寛政期の林子平が消えていることは、やや違和感もあるが)
さらに、2日で扱う内容となる「宝暦・天明期の文化」全7ページ分では本文中の人名約40名(脚注・表を加えるとゆうに100人を越える!)が8名となっている。

残されたのはこれだけ。「<項目>歴史用語、で記す」
<蘭学>蘭学、杉田玄白、「解体新書」、平賀源内
<国学>国学、本居宣長、塙保己一、尊王論、頼山陽
<儒学>朱子学、藩校、郷学
<教育と思想>心学、石田梅岩、寺子屋、安藤昌益、通俗道徳
<文学・芸能>与謝蕪村、川柳、『仮名手本忠臣蔵』
<美術>錦絵、喜多川歌麿、東洲斎写楽

以上となる。さらに先ほどの新井白石のように別の場所で出てくる内容もある。

「こんなに減らされてやっていけるか!」という人もいるし、「それでも、まだこんなに覚えなければならないの!」という人もいるだろう。

幕末・維新期や戦国期ではどうか

もっとも意見が出されている幕末~維新についても見ていく。まず人名。
今回は《学習内容》と人名という形で記す。

《開国前後の世界》ペリー、ハリス、プチャーチン、孝明天皇
《開国とその影響》徳川家茂、徳川慶喜、井伊直弼、勝海舟
《尊王攘夷から倒幕へ》和宮
《廃藩置県の断行》明治天皇
《明治初期の諸改革》大久保利通、岩崎弥太郎、渋沢栄一
《明治初期の外交と国境問題》岩倉具視
《明治初期の国内政治》西郷隆盛、板垣退助、木戸孝允
《文明開化》福澤諭吉
《他の部分で》井上馨、伊藤博文、山県有朋、大隈重信

山川出版社「詳説日本史」のなかの太字(重要人物)で消えているのは、以下の10名である。

 

ビッドル、阿部正弘、堀田正睦、徳川家定、三条実美、高杉晋作、中村正直、前嶋密、尚泰(上記の範囲内で)
吉田松陰(化政文化の項で)

なお、話題に中心である坂本龍馬はもともと一般語句の扱い、近藤勇は脚注、すでに現在の教科書の扱いでもこうである。しかし、「一般語句なのに勝海舟が入った」とのだからという理屈も成り立つ。

しかし、他の語句をよく見ると《尊王攘夷から倒幕へ》のなかに、「安政の大獄」があるので松陰が、「薩長連合」があるので坂本が、長州征討があるので高杉が、禁門の変三条が、それぞれ触れられることは、授業の進めかたとして普通である。精選に際し、人名と出来事、どちらか一つを選んだ結果と考えられる。教科書の脚注などに記されることが予想されているし、そうでなくとも教師が授業のなかで補足することも想定していると考えられる。

さらに話題となる戦国大名であるが、リストには

北条早雲、毛利氏、長宗我部氏、北条氏、武田氏、今川氏、朝倉氏、島津氏、大友氏、伊達氏

と11の戦国大名家が選ばれている。こんなに多く必要とは思えない、地図や表で十分!という方が私の印象である。

誤解に基づく「用語精選」批判

ところが、精選については、総論賛成、各論反対は世の常である。予想通り、多くの反論が出てきた。まず出てきたのは、坂本龍馬や吉田松陰など自分の好みの人物が外されたという、マスコミ受けのする批判である。
この批判は、すでに見たし、研究会を主導する桃木至郎氏が何度も発言するように誤解に基づくものである。精選の対象は入試(しかも、その知識が正誤にかかわる出題のみ)と教科書本文についてである。つまり、例示や表などは使用可能である。そもそも、授業展開のシーンでは具体的な名前を入れた方がよいに決まっている。
私の「授業中継」で例を挙げれば、武田信玄の領国制を説明する中で、分国法や喧嘩両成敗による家臣団の統制、金山開発などの富国強兵策などを説明し、そこから目を転じて寄親寄子制、武士や商人らの城下町集住、指出検地、貫高制などに話を及ぼすというやり方は可能だし、そうした方が戦国大名を全体として理解できる。最終的に入試に武田信玄は出題されなくても、何ら問題はない。自分の学校の考査で出題することはなんの問題もない。

同様に、坂本龍馬や吉田松陰らを例にとって幕末期を説明することは何ら問題ないし、そうした方がいいのかもしれない。すべての教科書が横並びにその名前を出す必要はないし、入試にはでないと考えればいいのである。

これにより教科書としても、教師としてもさまざまな授業展開を可能にできる。校内の考査においてはいくら出してもかまわない。今まで教科書に出ていないものでもよい。考査は、教師の授業展開にかかわって出題すればいいものなのだから。

「国定教科書」意識は捨てるべき

多くの批判を見て感じるのは、多くの人の意識に「国定教科書」的な意識がこびりつきすぎているのではないか。教科書の本文には原則としてださないことは教えないことではない。
 高校生すべてが、坂本龍馬や吉田松陰の名前を知らなくともいいのじゃないか、全国のすべての人間が龍馬の名前を横並びで覚える必要はないというだけだ。だから入試にも出さない。
逆にいえば、他の用語も減り、時間的に余裕ができるのだから龍馬や松陰を使って、より丁寧に幕末を教える余裕もできる。授業であつかわれる龍馬や松陰の「名前」は入試にでないが、彼らがかかわった尊王攘夷運動、長州征討、薩長連合は入試にでる。自分の地域にかかわる人物を用いて尊王攘夷運動を説明できるのならそれでもかまわない。定期考査にも出題する。
武田信玄の代わりに、長宗我部元親で説明しても、伊達政宗を使って戦国大名を説明してよい。
とりあえず、記憶が自己目的化している歴史から歴史教育を解放しようということだと私は理解した。
かつての「ゆとり教育」の再現だという的外れの批判もあるが、意味のないような記憶でなく、さまざまなアプローチを可能にすることの方が大切だ。
「言葉を閉ざす」という批判もあるが、人の名前だけを意味もなく覚えることが「言葉を閉ざす」のだろうか。私が挙げた例でいえば、「稲村三伯」「ハルマ和解」「宇田川玄随」「小田野直武」「芝蘭堂」「蔵志」とぞろぞろと人の名前を覚えることにどれだけの意味があるのだろうか。
ターヘルアナトミアを中学校一年生単語だけで訳していく中で、どのようにして言語を習得したのか、学んだ単語を積み重ねることで辞書をつくり(「ハルマ和解」)、文法書をつくり、それでどのように世界を読み解いていったのか、読み解いた世界と日本の現実のギャップにどう向き合っていったのか。それを考えた方が、国際理解や言語習得の意味を深く考えられるのではないか。

芝蘭堂に集まった蘭学者たち

学ぶための共同体がつくられ、いかに協力し合ったのか。「芝蘭堂」の会合に参加した大黒屋光太夫が世界をどう紹介したか、蘭学者たちがその情報をどのように感じさせたか、説明した方がよほど「言葉を開く」。
そのなかで、必要に応じて、さりげなく、こんな人もいたよと人名を出せばいいのではないか。
歴史の流れから切り離された人名や歴史用語をマーカーで線を引かせて「さあ覚えなさい」の授業が「言葉を閉ざさない」とは私には思えない。

教科書は「厚い」方がよい!

そもそも、私自身は教科書は厚い方がよいと思っている。(ツイッターで見る限り、桃木氏も同じ考えを持っておられるようである)。教科書には、さまざまな事例が紹介され、史・資料の内容がだされ、その中から、教師(場合によっては生徒も)が、内容をチョイスし、学び、現代につながる課題を読み取っていく。それが最もよいと思っている。
問題は教科書に書いてあるすべてを記憶するものと位置づけていることだ
世界史研究の発展の中、「なぜ世界史にアフリカが登場しないのか?」「世界システム論という考え方をぜひ紹介したい!」といった声が研究者から、さらに教育者の側からも出された。それは、正しい議論であろう。しかし、今までのものが精選されないまま、教科書に反映され、新たに付け加えられた。結果は入試で扱われる内容が増えただけだった。しかも新傾向として。

内容が妥当なだけに悲しかった。結局、「さらに教えなければならないことが増えた」「さらに覚えなければならないことが増え、入試が難しくなった」との反発を受ける。あるべき世界史像を普及させようという思いが、入試という観点から拒絶される。教科書に書いてもらいたい、書くべき内容が、生徒の消化不良を促進し、入試での忌避、歴史嫌いを増やす。
理由もなく、あるいは考える余裕もなく記憶せざるを得ないものを「入試には出しません」「入試に出す可能性があるのはこの内容です」と宣言し、あとは教科書を作成する人たちと現場の教師たちの創意を活かせばいいというのが趣旨であると考える。

「精選」のさいの検討事項も

以上のような点から、私は今回の歴史用語精選はやむを得ないと考え、基本的に支持をしたい。
 ただ、検討すべき内容もある。
生徒、とくに学力に課題のある生徒にとってはみれば、何も考えず、論理構造も考えず、丸覚えする方が楽なのだ。とりあえず、言葉だけを必死になって詰め込み、「主義」がついているものには、覚えてきた「主義」がつくことばを、資本主義か、ロマン主義か、正統主義かなど、全く考えず埋め込む、そして赤点ぎりぎりで、なんとか単位認定してもらう、という現場がある。
一つ一つの「主義」を、抽象的・概念的用語を丁寧に学ばせ、理解させる方が、実はよっぽど大変なのだ。何も考えず「丸覚えする」歴史教科がさらに難しくなることにつながるし、教える側の努力も必要だ。
抽象的・概念的用語も、理解しないまま、事実の裏付けもないまま暗記させる恐れもある。歴史的な事実と結びついた形で歴史理論が組み立てるのはかまわないが、その理論を導き出した事実的裏付けなしに歴史理論だけを覚えるのならそれは非科学的なものといわざるを得ない
とくに、新科目「歴史総合」はそういった可能性が強いだけに注意が必要である。
こうした課題についても、目を向けていく必要があろう。

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

1867年12月9日でない「1867」年12月9日が存在する!

山川出版社「詳説日本史」P259所収の表より抄録

歴史の教科書には1867年12月9日ではない、「1867」年12月9日という不思議な日が存在します。なにを訳のわからないことをいっているのかと怒られそうですが、そんなことが存在するのです。
ちょっと詳しい人ならわかりますよね。明治6年1月1日以前、日本は旧暦で日付を表記していました。だから、ズレが生じていたこと。そして、面倒くさいものだから、教科書を含み多くの書物では、1868年=慶応4年または明治元年という等式で書きます。したがって慶応3年12月9日は「1867」年12月9日と書かれてしまうのです。
もし、その時代に飛行機があって、江戸からロンドンへ飛んだりしたら、約1ヶ月ぐらい時間を飛び越えたことになったのでしょうね。
今回も、大学の講義で学んだことを紹介しつつ、記していきます。

1868年1月3日~王政復古のクーデタ

さて、括弧付きの「1867」年12月9日、つまり慶応3年12月9日は、欧米では1868年1月3日でした。
その日、岩倉具視は大久保らと組んでクーデタを決行、天皇親政を宣言した王政復古の大号令が発せられました。そして、夕刻からは小御所会議が開かれ、岩倉や大久保、西郷と、山内豊信や松平慶永らとの間で、どなりあいをも含む、息詰まるようなドラマが演じられた日として知られています。(どこまでが本当か、近年は疑問視されていますが)これによって、旧幕府は日本の統治権を完全に失い、天皇中心の新政府が生まれました。
しかし、クーデタや小御所会議に参加したメンバーは、こうしたやり方に反対していました。大政奉還などにおける徳川慶喜の行動を評価し、慶喜が新政府にしかるべき地位で参加するべきだと考えていたのです。
この日以後、活躍が目立つのは、瞬発力の豊信でなく持久力の慶永らです。慶喜を新政府の中に組み込むための工作がすすみます。実は、新政府内で、慶喜を排除しようというのは、大久保ら薩摩、朝敵の汚名を着せられた長州、そして岩倉を中心とするごく一部の公家だけです。しかも、岩倉にしても、薩長が力を持ちすぎるのについては心配しています。こうして慶永らの工作が功を奏しはじめます。徳川家の責任を追及し、慶喜の官位と領地を朝廷に返還せよという「辞官納地」の要求は事実上骨抜きとなりました。さらに、慶永らは、慶喜を議定として参加させようと画策、ついに岩倉も折れて、慶喜が新政府に議定として参画することが内定しました
もし、慶喜が新政府に入るとどうでしょうか。新政府の議定の大部分は徳川家を議長格にした公議政体論を求めてきた人たちで、江戸時代の上下関係が新政府部内でも反映することは、容易に想像がつきます。なんといっても将軍家の親戚筋(親藩)や将軍への忠義の強い大名たちです。参予も、そうした大名の家臣です。さらに、慶喜の頭脳明晰さと言説の鋭さ、かつて神童と呼ばれその能力はずば抜けています。多くの議定や参予が支持したでしょうし、さすがの岩倉も、大久保も、対抗するのは困難だったでしょう。西郷が小御所会議でいったという「短刀一本で勝負がつく」という事態が発生していたかもしれません。
これが慶応3年の年末、1868年の1月の状況でした。王政復古のクーデターは失敗に終わる直前でした。大久保や西郷、木戸といった連中は、それを覚悟していたかもしれない状況でした。

「1868」年1月3日~鳥羽伏見の戦い発生

こうした事態が急変したのが、年が明けて慶応4年の1月3日、今度はカギ括弧つきの「1868」(慶応4)年1月3日です。(カッコなしの西暦標記では1868年1月27日)
江戸では、薩摩側が行っていた江戸攪乱工作への反発から、庄内藩などが薩摩藩邸を襲撃、これが大坂につたわると、慶喜配下の旧幕府側武士たちがいきり立ち、「京都進発」を主張、慶喜もそれを認めます。

しかし、「京都進発」とは何でしょうか。戦争に訴えるのなら作戦を練って多方面から攻撃すべきだし、平和的に抗議したり、議定就任の請状を提出するのなら、少数で行くべきでした。どちらの方法でも旧幕府側の有利は動かない状況でした。
ところが、旧幕府側は最悪のやり方をします。時代錯誤の感覚が彼らを動かしていました。将軍の軍隊が「まかり通る」といえば、黄門様の印籠を出された武士のように恐れ入るという感覚でしかなかったかとしか思えません。当初より、戦闘意欲旺盛な薩摩・長州の武士たちは、江戸期のフツウの武士ではないことを理解できなかったのでしょう。こんな風だからこそ、幕府は滅びなければならなかったのかもしれません。
ともあれ旧幕府側はたたかいには不向きな隊列で京に向かい、薩長と衝突しました。鳥羽伏見の戦いです。慶応4(1868)年1月3日のことでした。旧幕軍の武士たちの奮戦もむなしく、旧幕側は敗れ、ショックを受けた慶喜は家臣たちを見捨てて、江戸へと逃げ帰ります。

逆に、戦闘状態になったことで薩長側は、旧幕府は天皇に楯を突く「賊軍」であるというレッテルを貼ることができました。そして自分たちのやり方を「天皇の命令」として押しつけることができるようになります。
慶喜のため尽力した慶永や尾張の徳川慶勝らも新政府側に立ち、慶勝は家中を大粛清、多くの武士が斬られます。
こうして、慶応3年末、1868年1月段階で、風前の灯火であった新政府が、旧幕府側の愚行のおかげで、「天皇の信任」という神話をもとに確立することになりました。

和暦と西暦、この二つの1月3日をターニングポイントとして、日本は新しい時代へとこぎ出しました。

1年は13ヶ月?~閏月の話

もうすこし暦の話をします。太陰暦は月の満ち欠けをもとに、新月から新月までを1ヶ月(約29.5日)とします。ですから1ヶ月は大の月が30日か、小の月が29日となります。月の満ち欠けと一致しますから、かならず15日は満月です。「○月1日は満月であった」なんて小説やドラマがあれば、明らかなミスですね。龍馬が殺害された日は旧暦の11月15日ですので、晴れていれば、満月が見られたはずです。
しかし、おかしなことに気づきませんか。1ヶ月が29~30日ならば、1年は355日となり、太陽暦の1年(365.24日)との間で、1年でほぼ11日のズレが生じます。
イスラム暦は、この点を一切気にしないので、季節と月の関係ががたがたになります。だから断食月(ラマダン)は夏にあったり、冬になったりと、いろいろ大変なのです。1年はもちろん365日ではありません。

映画「天地明察」と日本の暦について

ところが、中国など多くの国では、やはり季節と月がある程度一致した方がよいと考えました。したがって、月の満ち欠けを基本とする太陰暦を太陽の動きで1年を図る太陽暦で補正します。これが太陰太陽暦です。どのように補正するかというと、約3年に1回、1年を13ヶ月としたのです。そのプラスアルファ分の月を閏(うるう)月といいます。中国では殷の時代から始まっていました。
たとえば慶応4(明治元)年の場合では、4月の次に閏(うるう)4月という月がやってきて、その次に5月・6月と続くことになります。

季節とのずれが生じないよう、どこに閏月を入れるかが暦をつくる人たちにまかされます。
江戸時代には、江戸の天文方と京都との間でキャッチボールしながら暦を編成、それにしたがってつくられた暦を伊勢御師など認められた人たちが印刷、配布していました
なお、戊辰戦争のことをしらべていたとき、本来なら閏4月の記事と思われるものが、4月と記されていたり混乱していて、ちょっと困ったことがありました。

 

2日しかなかった明治5年12月~大隈重信の「悪だくみ」

映画「天地明察」と日本の暦についてhttps://www.offinet.com/news/entry_73578.html

和暦(太陰太陽暦)と太陽暦の併存がなくなったのは明治5年12月のことです。岩倉使節団が海外に行っているどさくさ紛れに12月3日を明治6年1月1日にしてしまいます。この年の12月は2日しかなかったのです
では、なぜこの年、太陽暦に変えたのか。「グローバルスタンダードにあわせた」といいそうですが、実際はもっとせこい。明治6年が閏年だったせいです。

大隈重信

わかります?閏年は1年が13ヶ月。だから給料は・・・13回・・・けど、カネがない・・・。もうわかりますね。給料を13回払いたくなかったのです。しかも、「明治5年12月は2日しかない、それもいらないじゃないか!」ということで、2回分の給料をボツったのです。
考えたのは、当時の大蔵省のボス・大隈重信です。
 改暦による混乱はなかったのか。先生の話によると、その通知はぎりぎり(11月9日)だったが、それほど混乱はなかった、百姓は旧暦で生きていたからとの話でした。しかし私には疑義があります。私が卒論で扱った金光教の教祖金光大神(赤沢文治・川手文治郎)のことばのなかに、太陽暦に伴う節句の廃止を「四季節句、五節句は天地のお祭り事。今は節句を廃いておる。すれば、神の祭り事もなし。神への祭り事なければ人への例なし。子孫危うし」として節句や暦を神の祭りと結びつけて捉え、その廃止は民衆世界を脅かすものとして受け止める視点があったからです。
また急に決まったため10月1日から暦の販売に当たっていた業者も、返品の嵐で、数百万部の廃品を抱えることになりました

時間を支配するのは誰か?~昭和から平成へ

青山忠正氏は次のように記します。

時を支配するのは、近代以前では「皇帝」あるいは「王」といった最高統治者です。東アジアならば、中華皇帝が定めた暦を授けられることを「正朔を奉ず」といって、その臣従下に入ることを象徴する意味を持ちました。その意味で、文明の認識基準をヨーロッパタイプに転換する際の、一つのカギに当たる大事件なのですが、一般には文明開化の一端という程度で、軽く見過ごされているようです。(青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017)
 

 金光大神は、直感的にこの象徴性を捉えていたのかもしれません。

新たな元号を「平成」と発表する当時の小渕官房長官

こうした「支配者」による時の支配を私に強く感じさせたのが1989年1月でした。昭和天皇が死亡、1月7日をもって昭和が終わり、平成が始まりました。なぜ僕たちの時間が一人の人物の生死によって決められなければならないのか、強烈な違和感と不快感をもったことを思い出します

もう一つの「1月3日」~坂本龍馬が死んだのは満32歳の誕生日?

最後に、もう一つの1月3日の話をしたいと思います。歴史マニアの人たちにすれば、日本の歴史を変えたもう一つの1月3日といえるかもしれません。
それは1836年1月3日です。そんな日は知らないといわれそうです。これを、和暦に換算すると天保6年11月15日です。
小説などでは「彼が殺害されたのは奇しくも慶応3年11月15日、満32歳の誕生日のことであった」と記される人物の誕生日とされる日です。もうわかりますね。坂本龍馬の誕生日とされる日です。
しかし、ここにはいくつかの問題があります。
1つめ、殺害された日は資料的に裏付けられますが、誕生日を裏付ける史料はありません。記録がないのです。
2つめ、そもそも満年齢という考えがない。
3つめ、満年齢で数えるならば、1歳はおよそ365.25日で計算するはずなのに、西暦換算すると日数が足りない、などなど。
細かい論証は青山氏の前掲書をご覧ください。

<参考文献>

青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017

広瀬秀雄「日本史小百科 暦」近藤出版社 1978

ブログ・映画「天地明察」と日本の暦について  https://www.offinet.com/news/entry_73578.html

注記、明治6年の改暦のドタバタと、その責任者である大隈の話を書いたところ、その内容ドタバタが、前進座で芝居として上演されたとの話を聞かせて頂きました。ありました。「明治おばけ暦」脚本は、「ゲゲゲの女房」や「八重の桜」の山本むつみだったそうです。一応、リンク貼っておきますね。

「5つの名前」と、壬申戸籍

「5つの名前」と、壬申戸籍
~幕末維新期の「名前」(2)

江戸期の名前の複雑な構造

新潟県村上市の町並み

新潟県村上の内藤家中に鳥居与一左衛門和達という武士がいた。
この人物に興味のある方は、ここを参照してください。
源平藤橘の姓はよくわからないが、先祖は三河の鳥居氏であることは確かである。Wikipediaでは、三河の鳥居家は熊野権現の神職の末裔であり、平清盛から平姓をもらったというから、源平藤橘の「姓」は「」であったとおもわれる。したがって、前回のブログ風に、記すと下のようになる。

鳥居・与一左衛門・平・和達

前回のいい方をすると、鳥居がで、与一左衛門が通称、平が、和達が名(ということになる。

村上・鳥居三家

村上には鳥居家は、代々家老を引き継いできた鳥居本家(内蔵助家)のほかに、早い時期に分出した中鳥居、そして後年になって分出した末鳥居の三家が存在していた。
戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟に参加し、「官軍」に敵対した責任を取って切腹(政府の命令は「斬首」)した鳥居三十郎は、本家内蔵助家の出身である。
鳥居三十郎については別稿参照

さて、この二つの分家には別の呼び方がある。末鳥居は杢左衛門家であり、中鳥居の別名が与一左衛門家である。つまり和達の通称のように見える「与一左衛門」は通称ではなく、鳥居家を分類する際に用いられる「家名」でもあり、家長が代々襲名する名であった。
遠山金四郎が、役職に就いてからは「金四郎」でなく「左衛門尉」という官名を名乗ったように、家督を襲名した当主が「氏」とは別に「家名」ともいえる「与一左衛門」を名乗ったのだ。老舗や芸道によくあるものである。
ならば、こうした人々は実際にはどう呼ばれたのであろうか。「家名」でよぶことも多かったであろうが、家族や友人などもっとくだけた場合には使いにくかったと考えられる。また「和達」というような諱は一般には使わない。となれば和達という人間を識別するべき名は公的にはなくなってしまう。
そこで、公的でない場合は、ふだんは通称にあたる別の名を用いていたようである。

鳥居与一左衛門和達と鳥居存九郎

旧鳥居与一左衛門家現況
https://blogs.yahoo.co.jp/orion_chelseaより

現在わかっている「和達」の名を挙げておこう。かれの生まれはよくわからないが、子どもたちの年齢などから逆算すると、天保5(1833)年ころの生まれと想像できる。
安政2(1855)年、藩主信親の近習として江戸住まいをしていた頃の名は「喜代之助」、安政4(1857)藩主の名を受け水谷栄之丞(孫平治)、窪田潜龍とともに樺太探検をおこなった時は「存九郎」、家督を継ぎ、町奉行となってからは「与一左衛門」となる。
郷土史家の大場喜代司氏が当時の史料をもとに記されたと思われる、慶応2年の正月のようすを記したエッセイで、「和達」は「与一左衛門」ではなく「存九郎」と呼ばれている。このことから、平時は「家の当主代々の名」である「与一左衛門」ではなく、それまでの「存九郎」という名で呼ばれることが多かったと思われる。

戊辰戦争の中で

慶應4年正月に開始された戊辰戦争は、和達は、2月新潟で行われた越後の諸大名連絡会議(「新潟会議」)に水谷孫平治とともに村上藩代表として参加、さらに奥羽列藩同盟の中心であり、村上藩に強い影響力を持つ庄内藩にも行くなど、主戦派の中心の一人として活躍していたと思われる。さらに、北越戦争が始まると、実際に戦闘にも参加している。
出撃して以後の動きはわからなかったものの、村上落城後、羽越国境での新政府との戦闘に参加しており。いったん村上に戻っていたのか、会津・米沢を経由して庄内へいったのかについては、わからない。庄内藩の降伏によって、戦争が終わると、村上帰還、市内の寺で謹慎生活に入ったようである。当初は外出し、会議への参加するなど、かなりも緩やかなものであったと考えられるが、新政府から取り調べの命令がでて、監視は強化された。反新政府派の有力者として、帰順派の江坂與兵衞暗殺事件にかかわった可能性もある。

「鳥居三十郎追悼碑」(村上市)

義兄(年下であるが)鳥居三十郎切腹後、8月に三十郎を含む戊辰戦争死没者の大施餓鬼供養を行った際の中心人物であったとの記事も見られる。
その後、こうした事態を重大視した新政府は、和達らを東京召喚、それにもかかわらず東京で謹慎中に外出し狩りを行ったため、に謹慎を続ける羽目に陥った。
その後の経過はわからないが、同一行動を取っていたと考えられる水谷孫平治が隠居し家督を譲ったのが明治4年7月であるので、おそらく同じ時期に村上に帰還、隠居して家督を長子・和邦に譲ったと考えられる。

壬申戸籍の編成の中で

当時、和邦は12歳であったが、家督を相続し、おそらく元服、与一左衛門家の当主となったとおもわれる。与一左衛門を名乗った可能性もある。
鳥居和邦についても別稿参照

このように仮定すると、和邦の名前は以下のようになっていた可能性がある。

鳥居・与一左衛門・平・和邦
(とりい・よいちざえもん・たいら(の)・まさくに)

ちょうど、この年、新たに戸籍法が制定され、翌年から、いわゆる壬申戸籍が編制されはじめる。前回も書いたように、これによって、いくつかあった名前が一つに固定されていく。いくつかある名前から、一つを選ぶのであるから、どこの家でも、かなり混乱したと思われる。
入手することができた鳥居録三郎の戸籍から、こうした混乱を読み取ることができる。一枚の戸籍の中に、3タイプの名前が併存しているからだ。
録三郎の父、つまり和達の欄にはこれまで見たことのない名前が出てくる。「淇松」である。なんと呼ぶのかはわからない。なお入手した戸籍には「淇松」の名の上に「亡」の文字が付されており、和達は、入手した戸籍が編成された時には、すでに死亡していたことがわかる。
戸籍の筆頭者は兄の「和邦」、そして弟が「録三郎」、末弟が「鍗次郎」となる。
この三つの名を見ると、和邦は諱を、録三郎鍗次郎は通称、あるいは幼名を、そして和達は隠居名をそれぞれ用いたことがわかる。そして和邦の通称は、法律上=戸籍上は消去され、録三郎と鍗次郎は諱もまたないまま、そのとき用いていた名前が登録されたことになる。
この時代、人々は、どれだけこの選択の意味を理解していただろうか。これまでと同様に、いくつかの名前が公的にも使えると考えていたのかもしれないし、年長になれば録三郎らも「諱」のような名を付けられると思っていたのかもしれない。しかし、名前の変更は、これ以降、簡単には認められなくなる。それを知って、愕然とした人間もいたと思われる。そのためかどうかはわからないが、録三郎の子どもたちには、再び一族の「諱」に用いられた「和」の文字が用いられ、「諱」系の名前が戸籍を占めるようになっていく。
鳥居鍗次郎についても別稿参照

引き継がれた江戸時代の「名前」たち

こうした江戸期の名前のつけ方のルールが、明治期以降の伝統的な日本人の男性の名前のつけ方に反映している。
①一つ目は、「」系を引き継ぐ氏名である。江戸期までは特別な場でしか用いられなかった「諱」であるが、やはり「最も大切で、系図に記される名前」ということで登録されたのであろう。「和達」「和邦」などのように、2字のからなる名前がおおい。なお「徹」「彰」など1字のみの名も、公家や大名家などに散見できることから諱系と分類することができる。
②二つ目は、「通称」(幼名)系の名前で、それまでから一般的に使っていたので親しみ深かったともいえる。「金四郎」「録三郎」「鍗次郎」のように三字となることがおおく、「喜代之助」のような四字の場合もありうる。しかし、「通称」は公的なものとは見なされにくかったため、鳥居家では長子ではない子どもたちに付けたようにも思われる。
③三つ目として考えられるのは、「官名」「一族代々の名」である。
遠山金四郎のような「左衛門尉」のようなたいそうな名前はないとしても、現在におおい「大輔」のように、律令制的な官位を引き継ぐは「○○すけ」(「すけ」には「助」・「介」・「佐」などさまざまな漢字が用いられる)」を中心に、多く存在する。明治当初は「○○衞門」「△△兵衛」などがそうしてものともいえる。
実際には「与一左衛門」のように、これまでの「名字」にかわる「家名」という性格を持っていたものもあれば、すでに官名の性格を失って通称としても用いられることも多かったと考えられる。
百姓の代名詞である「権兵衛(ごんべえ)」さんや猫型ロボットの「ドラえもん」が律令制的な役職から来ているなどといっても、どん引きされるか、笑われるだけであろう。
④四つめは、その他の名前である。鳥居家の場合は隠居名である「淇松」がこれに当たる。さらに「松陰」「子義」といった「」や「」が登録されたこともあったと思われる。僧侶は「法名」が用いられた。多くは二字名であり、難しい漢字が並ぶことがおおい。

日本人の名前にはいくつかのタイプが確かに存在する。それは、このような江戸時代の名前のつけ方から来ているものがあることは明らかであろう。

高校で教える歴史の教師か、歴史を教える高校教師か?

高校で教える歴史の教師か、歴史を教える高校教師か

 

「高校で教える歴史は××だ!」

大学の先生方は、よく「こんなことも教えていない高校がある」とか、「高校までの歴史は教科書を教えているだけだ」とか、「覚えさせることが高校までの歴史だった」とか、高校の歴史教育を批判されます。こうしたいい方についての思いは、やや感情的だったかもしれない批判を何度か書いてみました。(*「歴史家としての歴史教師」参照元高校教師の私としては「そんな授業にさせているのは些末な暗記ばっかりを求める大学入試のせいじゃないか」とか、「わずか一年でそんないろいろなことができるか」(*日本史Aについては「大切なことは何を教えないかだ」、日本史Bについては「現代史」までいくのは、どう考えても無理。」参照) とか、「普通に授業ができる学校だけじゃないんだぞ」(*高校の状況について「授業は仕事の合間にやる『仕事』」参照など毒づきたくなりますし、すでに十分毒づいていますので、今回は「(高校の)歴史教育ってなんだろうか」について考え、歴史の授業で何を教えるのかについて自分の考えを記したいと思います。あわせて、このHP「日本近現代史の授業中継」を書く思いの一端を記したいと思います。

「高校で教える歴史」は歴史学の簡易バージョン?

考える出発点を表題のように考えてみました。「高校で教えている歴史の教師か、歴史を教えている高校教師か?」、同じことじゃないかと思いがちですが、実は大きな違いがあります。
大学の歴史学科の先生の多くは「高校で教える歴史の教師」として考えているように感じます。「自分たちが研究している歴史学の初歩、あるいは通史を教えるのが歴史教育」とか「歴史学の下請け」や「歴史学の簡易バージョン」と考えられている気がします。「国家が与えた指導要領の通り暗記させるのが仕事だとか。だから「荘園制を1時間しか教えない先生に習った生徒は不幸です」とか、「本居宣長については高校で習ったはずです」とかいうことばがでてくるのだと思います。

「高校で教える/歴史の教師」と「高校で教える歴史/の教師」

高校で教える歴史の教師」という言い方も、区切り方によって意味合いが変わります。
高校で教える / 歴史の教師」と考える生徒たちは歴史の授業でも、テレビや映画で出てくるような楽しい歴史の話をしてくれることを期待しているみたいです。しかし、実際の授業で歴史の教師は「高校で教える歴史 / の教師」として向き合います。自分たちが期待していたものでないと知ると、往々にして「面白くない」「退屈だ」というブーイングを出してきます。ですから実際の授業では、居眠りを減らし、授業への協力者を増やすためにも、一定の妥協をします。ビデオを見せたり、エピソードをちりばめたり。「授業中継」のなかでも戦国時代(*たとえば、本能寺の乱の「陰謀」説や幕末(*高杉の例あたりにはこうしたエピソードをちりばめています。ぼくが歴史を好きになったのも、こうした部分からなので、粗末にはできません。ただ、調子に乗ってやりすぎると時間が取られすぎてしまいますが・・。

では「高校で教える歴史」とは

高校で教える歴史」とはどのようなものでしょうか。高校ではどのような歴史を教えねばならないのでしょうか。公式的には学習指導要領で規定された内容なのでしょう。しかし、実際のねらいはここにはないでしょう。ただ、めったに、教科書を開かない、開かせない私ですが、授業の組み立てという意味では指導要領に従ってはいますし、規定されていました。しかし気分の上では人間としての、教育者としての「良心」にしたがって授業をすすめていたつもりです。ちょっとおこがましいですが・・。

最後のころになって、やっと「高校で教える歴史」のなかで教えたかったのは、こんなことかなと思うようになりました。(遅すぎますね。)
「どのような経過をたどって今の私たちがいるのか」「その中で解決してきたものは何であり、まだ未解決のものは何か」。このことを通じて、「時々の課題に対して先人たちはどのように立ち向かっていったのか。その過程で犯してしまった愚行やきらりと光る人間としての素晴らしさもみつめながら、現在、直面している課題がどのようにして生まれてきて、どこまで解決し、今の私たちに託されたものは何かを知ること」。
まだいい足りないようですが、まあこんな感じです。そして
「こうした視点から「人類の歴史」を整理して教えたい」
こんなことを考えながら授業をすすめていました。

歴史を学ぶことによって新しい世代に「自分たちの世代が現在直面している歴史的課題は何か、新しい時代を創るための何が必要なのか」を考える材料を与えたいと考えたのです。
「歴史学科」を中心とする大学の先生方の高校歴史への要望とは距離がありそうですね。

「何を教えないか」という選択

「人類の歴史を整理して」といいましたが、実際には、そんなたいそうなものではありません。歴史学をはじめとする諸科学の研究成果と方法論をもとに歴史学の研究者たちが、「学習指導要領」をふまえつつ記述された教科書の力を借ります。(私はあまり教科書は使わないタイプの教師でしたが)。教科書の問題については、ここでは触れないでおきましょう。ただ国家権力による余計なノイズが入っていることは頭の片隅に置いておいた方がよいでしょう。
とはいえ、教科書に叙述された内容は膨大であり、付け加えたいこともあり、教師の課題意識によって取捨選択が迫られます。(教科書だけを教えるという先生もおられると思いますが、実際にはいろいろな工夫をされていることもわかります。)
こうした取捨選択に際しては、実際の二単位・四単位・六単位などといった時間的な制約(実授業時数、考査までの時間数など)を考え、大学入試なども頭の端においておきながら、生徒の様子や時代の課題などを考えて「教えたいこと」「教えなければならないこと」そして「何を教えないか」を選択します。(*この点については「大切なことは何を教えないかだ」として一度書きました。そのための工夫も「いかに教材を精選し、スピードアップするか」で書いてみました。)涙を飲んで荘園制を一時間でまとめたり、本居宣長をパスしたりもします。通史(日本史B)ではかなり腹をくくらないと、結局近現代史をパスすることになります。
(※実際に時間切れが多いのですが、残念ながら時間不足を口実に近現代史を教えない人がいることも事実です。*この項については「現代までいくことはどうしても無理」で少し触れました。
※なお、「入試にでないから学校では近現代史は教えない」というネット上の書き込みを目にしますが、それは「全くの嘘、事実に反するでたらめ」です。入試で一番高い確率で出題されるのは日本史・世界史をとわず近現代史です。入試で歴史を取る人は、近現代史からはじめるのが鉄則です!しかし、その近現代史は、書き込んだ人の読みたい「近現代史」(のようなもの?!)ではないと思いますが。)

そもそも「教育」とは?

これまで「高校で教える歴史の教師」の側面を見てきました。しかし、私はこれでは不十分であると考えています。高校の歴史の教師は「歴史を教える高校教師」でなければならないと思っています。少したいそうな話から始めます。
教育というものは、原始の社会、新しい世代が、親や集団といった古い世代から、狩猟・採集などといった生きるためのさまざまな知識や技術・技能を学ぶことからはじまったものです狩りや農耕の場での体験や訓練、歌や踊り・長老による昔語りなどによる知識の伝授(まさに「歴史教育」です!)、通過儀礼(たとえばバンジージャンプ)、さまざまな場面、さまざまな機会に、古い世代は次の世代に彼らが学ぶべきと考えた知識を伝授し、生きる力、集団に貢献できるような力を身につけさせようとしました。年老い・死んでいく古い世代に代わって新しい世代が成長させることで、集団を維持させ、文化的な「種の保存」=再生産を図ったのです。これ教育の原初的な形態です。
一人では生きていけない「未熟児」として生まれてきたヒトは、周囲の環境、「おせっかいな人間たち」にかまわれ、迷惑をかけながら「人間」になっていきます。「ヒト」は、教育によって「人間」に成長する高度な可塑性・可能性をもつ「未熟児」として生まれるのです。教育は、ヒトという個体が生きる絶対条件であり、各レベルの集団維持のための必要条件でした。

近代国家が付け加えた新たな「教育」の役割

近代になり、主権国家が形成されると人間は「国民」として把握されるようになり、教育のなかに「国民の形成」という機能が組み込まれ、国家の求める「規格」に合致した「製品」としての「国民」をつくる役割が与えられます。こうした役割を担うため公教育が整備されます。後進国ドイツに始まった義務教育は強い兵士を作ることが第一の目的でしたし、日本においても教育制度は富国強兵と強く結びついていました。(この項、「明治維新(2)近代的軍隊の創設と地租改正」参照)

個々の人間も「主権国家」という枠に囲い込まれた以上、さまざまなそのルールに順応せざるを得ませんでした。本来的な「人間・社会の再生産」という機能に、近代主権国家が求める「国民の形成」という新たな機能が持ち込まれるなか、こうした「教育」を効率的に身につけさせるための「装置」が「学校」であり、公教育でした。
言語や数的処理能力、法令や慣習の存在、規格化された肉体、道徳、そして共有すべき伝統、歴史あるいは神話などが、「国民の形成」という国家的目標に即し、「人間・社会の再生産」という本源的な教育の目的と渾然一体となって公教育で扱われます。

さらに教育は、その成果を「財産」化することで、立身出世を可能にし「家」も発展させうるというインセンティブが加えられました。
公教育はナショナリズムの温床であったといわれます。現在でも、国家が学校教育に介入してくるのは、こうした性格をもっているからでしょう。

教師が課せられた役割とは

このような役割を担わされたにせよ、古い世代が次の世代に彼らが学ぶべきと考えた知識を伝授し、生きる力、集団に貢献できるような力を身につけさせようとするという教育の原初以来の機能はかわりません。
個性や発達段階、理解度に配慮しながら、整理して分かりやすくかみ砕いたり、逆に厳密さ正確さを重視したり、相手を見ながら伝え、考えさせたり、習熟させるのが、原初以来の教育の姿でした。そして、学校教育という形のなかで、専門職としての教師が教育学の成果などにも学びながら合理的な教授法を確立し、教育の「一部」を担うようになったのです。
近代社会においては国家の要請に沿うことも多くなりますが、人類が未来を託すことが教育の目的である以上、それにとどまらない役割も持っているのです。
このように考えてくれば、教師の使命も見えてきます。それは、自分たちが先人から引き継いできた社会や文化をよい形で次の世代に受け継ぎ、よりよいものとして発達させ、再生産してもらうための手助けなのです。古い世代が受け継いできたバトンを、しっかりとバトンタッチすること、その営みが教育の役割だと思います。
こうした機能を専門的に特化した「学校」という機関において、教師たちが機能を分担しながら伝えていくのです。
近代資本主義社会は、個々の人間を原子化するとともに、人間関係を経済的関係へと置き替えていきます。子育ての負担は、これまで以上に家族とくに母親へ集中しますが、これまで母親を支え育ててきた家族や地域社会は衰退しています。「よってたかって子どもを育てた『おせっかいな人間』たち」が子ども(と母親)のまわりから消えていき、地域や家庭で分有されてきた「教育」機能が弱体化します。おいつめられた母親たちはその悲鳴を「教育」を公的に担う学校に向けてきます。地域すらが似た行動を取るようになります。
家庭・地域・学校といった三者で担うべき「教育」機能ですが、前の二者の機能も学校教育へ吹き寄せられてきます。このなかに「生きる力、集団に貢献できるような力」という「教育の原初以来の機能」にかかわるものがあり、「この力を身に付けずに大人になることは困る」という役割すらも押しつけられます。
こうした役割は、「国家の求める「規格」に合致した「製品」としての「国民」をつくる」というあり方や「国民道徳を涵養する」という戦前以来の公教育が担わされてきた役割と響き合う形で、現在の学校に持ち込まれているのです。
こうした役割は「次の世代が学ぶべき知識を伝授」を主要な課題とする学校教育になじまないとして拒否することも可能でしょう。それは地域や家庭の問題だといって。しかし、疲弊した地域や崩壊しつつある家庭のなかで、「生きる力、集団に貢献できるような力」を育てる課題を放棄できるのか、という苦しい選択が強いられているのです。この役割も、文句も言わず引き受けてきたのが「学校」でした。「人間サンドバック」になりながら。
部活動もそうです。「本務ではない」。しかし、そこには、学校教育を超えた教育の本質にかかわるものがあり、個人や社会の形成にかかわる「教育」で効果を上げることも多い・・。
こうして、学校は、教師は、家庭や地域が担いきれなくなった教育に対する役割すらをも背負い込み、身動きがとれなくなってしまっている。
たしかに労働条件から見ると、教育現場は「ブラック企業」のひとつです。ところが、自分たちの仕事が、児童生徒の人間としての発達・成長を保障し、それによって社会を支えているという意識(思い込みの分もあるとおもいますが)が、こうした過酷な環境を容認させているのかもしれません。
ともあれ、こうした内容さえ付与されてしまった「教育」の専門機関が学校です。

(*部活動と教師の多忙化については、「授業は仕事の合間にする仕事?」参照)
 

「歴史を教える高校教師」の仕事

こうして、「歴史を教える高校教師」という姿が見えてきます。教師はこれまで見てきたような仕事を行なう専門職であり、ホームルームや校務分掌、部活動など、教育にかかわるさまざまな場面でも、こうした仕事を担っているのです
当然、授業という場面でも、狭い意味での「高校で教える歴史の教師」をこえた役割が期待されます。
出発点となる「読み書き算」、自分で考えたり体験を元に想像する力、共感する力、自分の考えを発表したり、他の人の意見を聞く力、文章や史・資料などを読み取る力、あるいは他の人の学習権をはじめとする人権を尊重する力などなど、こうした世界を読み取り、変革していく広い意味の学力を身につけることが求められています。
こうした役割を「高校で教える歴史」とともに求めらるのが「歴史を教えている教師」です。

「歴史を教える高校教師」として私が気をつけたこと

実は、私は指導力不足気味で、面倒くさがりの「落ちこぼれ教師」でした。優れた実践をしている「歴史教育者協議会(歴教協)」や生徒を動かすことでその力を引き出そうとする「全国高校生活指導研究会(高生研)」といった人々のすぐれた実践をとりいれようとしたこともありましたが、最終的にはある文部官僚に「石器時代」と揶揄されたような伝統的な授業スタイルにもどっていきました。私が書き続けている「授業中継」の方法はこのようなカビの生えた代物です。こうした批判を持たれる先生方も多いと思います。その通りとしかいいようがありません。力量不足だったことはいなめません。
しかし、そんな私であってもいくつか気をつけたことがあります。
一つ目が国語など他教科にかかわる説明も丁寧にしようとしました生徒が、歴史(あるいは理科なども)で引っかかっている原因は、じつは国語力・語彙力にかかわっているように思います。ですから、ちょっと難しい、あるいはこれぐらいは知っているだろうという所でも、丁寧に説明しようと試みました。語彙などは、国語よりも実際に必要に応じてさまざまな言葉を使っている「社会」や「理科」といった科目の方がその定着を促進しているのかもしれません。最初に書いた「日露戦争」あたりには、そうした痕跡がのこっています。(*この点については「平安時代と室町時代、どっちが古い」参照。学習障害などにかかわる課題については「勉強ができないのは、努力が足りないせいか」もご覧ください)
二つ目は、現在を読み解く上で重要な概念やエピソードなどは脱線しても、より丁寧に教えようと考えました。「授業中継」のなかには、明治憲法の特質、選挙制度、インフレとデフレの人々への影響、実質賃金、変動相場制など主に「政経」分野への「領空侵犯」をおこなっています。(*例として自由民権運動の展開と松方デフレ」参照生きていく上で必須の知識だとおもうからです。言葉の通じない外国人とのコミュニケーションのとりかた等も書いてみました。「開国前夜~近代の台頭と対外情勢の緊迫化」参照)今回は書いていませんが、原爆の原理を教えたこともあります。
三つ目としては、歴史上の「人間」への思いや共感を大事にしました。これは歴史学としては好ましくないかもしれません。しかし、生徒たちに自分の生き方を考え、進路選択をさせるのが学校教育の大きな課題である以上、いろいろな人間の生き方を提示することは重要な教材です。しかし事実に反する説明や誇張によって戦前の「国史」のような偉人伝にならないように事実に基づいたものであり、問題点や限界などもきっちりと指摘をする必要があります。さらに、時代の中で、取り巻く条件を丁寧に描こうと考えました。(例:伊藤博文にかかわって「明治憲法体制の成立」参照)
個別の人物ではないのですが、こうした点でとくに力を入れたのが南京事件でした。(*「兵士たちの日中戦争」参照かれらは暴虐で非道な行為に携わることになったのですが、それが何故行われたのか、そうして理由を丁寧に書き込むことによって、戦争の真の姿に近づけたいと考えました。そうしないと被害者も、加害者となってしまった兵士たちも浮かばれないと考えたからです。今回の「授業中継」では時間の制約がなかったので、より丁寧に描き出したつもりです
四つめとしては、私自身や関わりのある人を出演させました。ぼくはできませんでしたが、生徒たちも出演させることができたかもしれないと思います。
現在に生きている私たちすべてが歴史の出演者であり、自分たちが見ており、体験しているすべてが歴史そのものだという当事者意識を感じてほしいからですさらに、私のささやかな経験が生き方を考える材料となったり、時代を感じさせるものとなればと思ったからです。(*日本近現代史を大雑把につかもう」。さらに「高度経済成長と日韓基本条約」「ベトナム戦争と沖縄返還」なども参照)
五つ目としては、やや強引だったかもしれませんが、いろいろな手法をつかってみました。生徒たちが、社会を、歴史を見るときの方法論を学んでほしいと思ったからです。今回は出していませんが、マインドマップなどもつかいました。階級分析と階級闘争によって歴史が動くという視点とか、底辺の民衆の目から歴史を見る視点、女性にとっての歴史など。さらに、植民地民衆、侵略を受けた側、攻撃された側など複眼の視点も重視しようと考えました。世の中を、多様な方法で、さまざまな視点から分析するツールを知ってほしいと思いました。(*「いろいろな方法を試してみたい」、あわせて「士族反乱・農民反乱・民権運動」参照

 

この「日本近現代史の授業中継」は、こうした視点から「石器時代」の手法で行ってきたポンコツの「歴史を教えている教師」による授業の実践です。(実際には、実施できなかった授業の分もありますが・・)
最も望ましいのは、多様な授業の手法で、生徒の意欲と潜在力を引き出す際、この「授業中継」が先生方や生徒の皆さん材料となることです。

 

 

’45年8月15日、なにが終わったのか?

45年8月15日に、なにが終わったのか?
~「授業中継」戦前・戦中編の完成によせて

この「授業中継」、58回目でやっと1945年8月15日まで来ることができました。見直せば問題だらけですが、一応の区切りがついたとほっとしています。ほぼ1年、玉音放送を聞いた「国民」のような虚脱感にとらわれています。
ここでは、これまでの内容を、総括する意味で8月15日の意味を考えてみたいと思います。

8月15日、「戦争」が終わった!

1945(昭和20)年8月15日、「戦争」がおわりました

東京書籍「新選日本史B」P27

なお、国際的な意味合いでの、戦争の終結は、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した8月10日、あるいは降伏文書に調印した9月2日ですが、「やっと終わった!」という気持ちは8月15日の方が強かったと思うので、象徴的な意味でこの日付を用います。
8月15日、いったい何が終わったのでしょうか。
多くの人はいうでしょう。
1941年12月8日に始まったアジア太平洋戦争だと。(ちなみに、私たちの世代がよく用いた「太平洋戦争」という言葉は、アメリカ主導で始まった名称で、1941年12月以後も、中国戦線が主要な戦場であり続けていたことや日本軍の東南アジア、さらにはインド進出という事実を組み込んだものといえないので、現在での歴史学界ではつかわれなくなっています。)
1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦もこの時に終わりました。
5400万人とも、それ以上とも言われる天文学的な死者をだし、アウシュビッツやヒロシマ・ナガサキに象徴される世界中の人びとを地獄においやった戦争、これがほぼ完全におわりました。世界中の大多数の人が、掛け値なしに、心の底から喜んだ日ではなかったでしょうか。

「解放記念日」としての8月15日

ジアの人びとにとって、8月15日は、日本による軍事占領や植民地支配が終わった解放記念日です。そしてあらたな時代が始まった日でした。

日本の敗戦は朝鮮半島に人々にとっては植民地支配からの解放そのものであった。
東京書籍「日本史A」P152

インドネシアやベトナムでは、この直後に独立宣言が出され、あらたな独立運動、旧宗主国との戦いがスタートすることになります。
1910年以来、日本の植民地であった朝鮮半島では「独立万歳」の声が響きわたり、どこから現れたのか太極旗が町中にはためきました。夕刻には独立運動家・呂運亨を中心に朝鮮建国準備委員会が設置され、9月はじめ、これを母体とした朝鮮人民共和国の樹立が宣言されました。あたらしい朝鮮半島の歴史も生まれるはずでした。

苦しかった「戦争」の開始としての日中戦争

私は、小さい頃から、「戦争中はしんどかった」「大変だった」ということばを繰り返し聞かされ育ちました。昭和30年生まれというのは、そのような世代です。しかし、不思議に思ったことがあります。

中国との戦争によって多くの戦死者が発生した。写真は満州事変によるもの。東京書籍日本史AP132

しんどかった内容の多くが、戦争が始まった「昭和16年の12月8日」以前から始まっていたのです。召集令状の乱発も、戦没者や「傷痍軍人」の急増も、勤労動員も、切符や配給も、「贅沢は敵」というスローガンも、金物回収や木炭自動車も、戦場から聞こえてくる血なまぐさい事件の話も、「とんとんとんからりと隣組」の歌も、尋常小学校から国民学校への改称も。「苦しく、つらかった『戦争』」は12月8日以前に始まっていました。親たちの世代は、日中戦争、当時の言い方では「支那事変」のことは、あまり考えたくなかったように感じます。しかし生活実感としての「戦争」は1937年7月7日の盧溝橋事件に本格化しました。

日中戦争~総力戦の「戦争」、制御の聞かない「戦争」

日中戦争の開始とともに、総力戦体制(「国家総動員体制」)が本格化し始めます。

国民の生活が戦時色に染まっていく。東京書籍「日本史A」P131

徴兵や徴用の強化、戦時経済の導入、隣組・町内会を底辺とする国民の戦時体制への組織化などなど、「戦争」は一挙に本格化しました。人々の生活に深く「戦争」が入り込みます。自由は極端に失われていきます。
政府も軍部さえも「戦争」を制御できなくなっていきます。その暴走に軍中央もふくめたリーダーたちは手をこまねくしかなくなりました。
12月8日にはじまる戦争は、この戦争を終結させるための劇薬として処方されたものでもありました。
実感としての「戦争」が始まったのは1937年でした。12月8日を重視する背景には、日本が敗れたのはアメリカだと思い込みたい日本人の意識が隠れていると思えてなりません。日本が中国に負けたことを信じたくないために。
でも、日本はアメリカ以上に、中国に敗れたのです。
7月7日は七夕(たなばた)の日としてしか意識されていません。しかし、この日はとりかえしのつかない「戦争」へと足を踏み入れ、国民生活を破壊し、中国の人びとを塗炭の苦しみにあわせる始まりの日として記憶すべきなのでしょう。
そして、「苦しかった戦争」、「リーダーたちが制御できなくなった戦争」である日中戦争が、8月15日におわりました。

「昭和の戦争」としての十五年戦争

8月15日には中国との間の絶え間ない「戦争」、十五年戦争が終わりました。

十五年戦争は1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された満州事変を出発点とする昭和の前期をほぼ覆い尽くす戦争、「昭和の戦争」そのものでした
この時代、人々は、強弱はあるものの、いつも何らかの形で「戦争」をしていました。
文字通りの「戦争の時代」でした。
満州事変は、軍隊の出先機関が勝手に、政府や軍の中央の命令すら無視して拡大した戦争です。それを、マスコミが、多くの国民が応援しました。その暴走を軍中央も政府も追認し、批判するものにはさまざまな暴力が加えました。国家、軍人や右翼による暴力が一般化、人々は暴力の前に萎縮し、ものが言えなくなりました。平和を主張したり、民主主義的な考え方は、「国体」に反するといわれるようになっていきます
この出発点となるのが、9月18日でした。

平和維持の国際秩序の破壊としての9月18日

9月18日は日本が世界からの孤立をすすめるきっかけでもありました。

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

第一次大戦後の国際秩序を無視した「満州国」建国は、当然のこととして世界の承認を得られませんでした。苦し紛れに、小手先の責任回避から国際連盟を脱退、軍縮条約からも離脱しました。これによって、なんとか平和を維持していこうという第一次大戦後の国際秩序は破綻し、ドイツやイタリアのファシストたちは安心して国際秩序を破壊しました。そのきっかけが、9月18日に始まる満州事変でした。

こうした国際秩序の破壊に終止符が打たれたのも8月15日でした。
8月15日は、二度と戦争を行わないという決意の日でしたが、すでに米ソを中心とする冷戦的な国際秩序がスタートを切っている日でもありました。

「『中国』との戦争」が本格化した日としての9月18日

9月18日以降、十五年戦争で日本軍が戦ったのは、目覚め始めた民衆に基盤にした『中国』そのものでした

日本の中国進出にともなって、中国の民族運動の対象は日本へと変わっていった。帝国書院「図説日本史通覧」P252

日本は『中国』など簡単に屈服できると考えていたのでしょう。たしかに、当時の中国国民政府は日本との戦争を避けようとしました。しかし立ち上がった民衆、民族運動、つまり『中国』は「国民政府」のそうした態度に納得しませんでした。そして『中国』の大きな力は国民政府に日本との戦いを決意させ、安易な妥協を許させませんでした。
このような『中国』を黙らせるため、日本軍は侵略をエスカレートせざるを得ませんでした。「功名心」にはやる軍人たちは『中国』との戦争をいっそう泥沼へと導きました。泥沼は、7月7日以降になっていっそう深くなります。『中国』はアメリカやイギリスの日本との妥協を許しませんでした。そして米英に対日強硬姿勢をとらせ、ついには日本に対米英戦争を余儀なくさせます。もちろん『中国』も抵抗をやめませんでした。
8月15日はこうした泥沼化した『中国』との十五年戦争の終結、そして敗北の日でもありました。

絶え間なく続く「五十年戦争」
~日本の帝国主義支配

満州事変は、中国東北部などの権益を取り返そうとする中国側と、権益を維持し続けようとする日本側との対立が背景にありました。当時、日本側がよく言ったことは「日露戦争の犠牲を無駄にするな」ということばです。日露戦争の大きな犠牲によって獲得した「満州」は「日本の生命線」だというのです。

満蒙の「特殊権益」を、「日本民族の血と汗の結晶」と表現している。帝国書院「図説日本史通覧」P269

日露戦争の勝利が、満州事変の原因となっていました。このように、近代の日本では、それぞれの戦争が、つぎの戦争の原因となり、「『戦争』で得たものを守り抜く」ことが、国内での「大義名分」でした。日露戦争は、日清戦争によって火ぶたを切ることになる中国をめぐる列強の中国分割競争、朝鮮半島への進出をめぐる日露の対立が原因でした。

帝国主義体制が世界を覆った20世紀初頭は、植民地支配に対する民族運動の時代でもありました。こうした民族運動の高まりが帝国主義体制を追い詰めていくのですが、遅れて帝国主義化し、時代遅れの19世紀的な手法でアジア進出をはかる日本にはとくに厳しいものがありました。

帝国主義は帝国主義本国の人々も苦しめる

帝国主義的支配=植民地経営は結局自国の民衆を苦しめる」といわれます。日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島、日露戦争で関東州や南樺太、そして朝鮮半島と植民地を拡大していきした。満州事変では中国東北部も事実上の植民地とします。これによって日本は大きな「コスト」を強いられます。

抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」より

植民地化は必然的に植民地化された人々の公然・非公然の反対運動を引き起こしました。植民地の統治は、治安維持の必要から強力な統治機構を必要とします。総督府などがおかれ、憲兵や警察などの抑圧機関を肥大化させます。いつ発生するかわからない抵抗の恐怖は緊張状態を強い、準戦闘状態を恒常化させます。緊張状態は国内にも波及し、帝国主義本国自体の軍事国家化をつよめます。大正政変のきっかけとなった陸軍の二個師団増設問題が「韓国併合」にともなうものであったように、財政負担を拡大させ、政情不安にもつながりました。

「『戦後』が『戦前』である時代」

日本では1894年の日清戦争開始以来、戦後が次の戦争の戦前となる状態がつづきます。「この戦争が終われば・・・」という人々の願いは裏切られ続けます。
戦勝による軍事大国化は、大国にふさわしい軍備を必要とし、さらに大きな負担を強います。財政は膨張し、債務は膨大となり、国民生活を顧みることは困難となります。
10年ごとに大規模な戦争がおこる時代、それをある歴史家は「五十年戦争」といいます。五十年間つづく「戦後が戦前である時代」、この緊張から解き放されたのが、8月15日でした。

「内地」と「外地」~ダブルスタンダードの法治主義

植民地の獲得は統治のあり方を変化させました。
植民地=「外地」を獲得することで、大日本帝国は「内地」と「外地」という二つの領域を支配するになりました。「明治憲法」とそれに基盤を置いた法体系が適用される「内地」、これにたいし「外地」=植民地においては「内地」の法は部分的にしか適用しないというダブルスタンダードとなります。その矛盾が「帝国」日本を苦しめます。それともあいまって、フルスペックの権利を認められる内地のヤマト系日本人と、植民地人とされた朝鮮人や台湾人などとの間の明らかな差別も拡大します。こうしたダブルスタンダードの「国家」、ダブルスタンダードの「日本人」、これが解消されるきっかけが8月15日でした。

「富国強兵」としての「近代日本」

ペリーの来航以来の近代日本のあり方に「ノー」がだされたのも8月15日でした。
日本は欧米列強からの国際的なストレスや緊張、つまり『外圧』を感じながら、歴史を重ねてきました。外圧という感覚のなかには、リーダーたちの頭の中で増幅された強迫神経症的なものも一部あったでしょう。天皇制国家建設の「口実」という面もあったかもしれません。そうしたものも含め「外圧」が幕末以来の日本を規定しました。
「外圧」のストレスは、その反動として対外進出へと転化します

岩倉使節団の出発
岩倉使節団の出発 欧米の文明が導入される大きなきっかけとなった。「東京書籍日本史A」

外圧のストレスは、日本の文化への極端な二つのまなざしを作り上げます。
日本が参加を余儀なくされた国際関係は、ヨーロッパ中心の主権国家体制=「万国公法」体制でした。参加資格は欧米的価値観の共有であり、それをもたない「未開」の地域は、欧米諸国による容赦ない「早い者勝ち」の植民地とされます。「不十分」と見なされた「半文明国」は「不平等条約」を強要されました。
「半文明国」である日本もこのルールに従って不平等条約を強要されました。こうした位置づけは、幕末から明治初年のリーダーたちにとっても不本意なものでした。その不本意さが、幕末には攘夷運動として表面化したのです。明治の新政府は「条約改正」という「攘夷実行」のために岩倉遣欧米使節団を送りました。かれらがそこでみたものは、日本と「万国公法クラブ」のグローバルスタンダードとの大きな隔たりでした。条約改正までの道のりの遠さを実感しました。こうして、明治のリーダーたちは「不平等条約」を強要されざるをえない日本を、「万国公法クラブ」への参加資格をみたす欧米基準に作り替えなければなりませんでした。ちょうど、EUへの加入をめざす諸国がその厳しい基準をクリアするため国内法を改正するなど血の汗を流すような苦労をするように。

「文明開化」と「未開」「非文明」

「万国公法クラブ」参加のための「欧米化」と、参加の前提となる国民国家建設手段でもあった天皇制の整備を併存させたものが「文明開化」でした。

廃仏毀釈 多くの寺院や仏像が破壊された。「図説日本史通覧」帝国書籍

この基準に適うものが「文明」であり、それに反するものは「未開」「非文明」としてみなし、排除の対象とされした。一時は、仏教さえもその対象となりました。「廃仏毀釈」はその典型です。そして「文明」に従わない人々、多くは一般民衆ですが、一方での暴力による抑圧と他方での「教化」をすすめました。「文明開化」によって日本が伝統的に作り出してきた多くのものが抑圧され、天皇制の関わりがない場合は排除の対象となり、「無知蒙昧」「非文明的」として侮蔑されました。
「文明化」は伝統世界で生きる民衆との緊張関係のなかですすみました。自由と民主主義という政府とは別に違う「文明化」の論理で迫る自由民権運動との緊張関係もうまれました。明治憲法と帝国議会などはこうした緊張関係の産物といえます。

「文明開化」に隠され「劣等感」と「独善」

「文明開化」の過程は、欧米文明に対する劣等感を蓄積していく側面をもっていましたが、他方で「文明化」しない人々への優越感と侮蔑をも作り上げるものでもありました。こうした優越感と侮蔑意識は国際関係にも応用され、日本がアジアを教化していくリーダーであるという意識を形作り、さらには日本のアジア進出は、アジアを「文明化」することであるという意識をつくりだすことになりました。こうして朝鮮や中国は非文明的な遅れた国、したがって日本というリーダーに従うべき国という論理に転換され、植民地化の、侵略の、理由にならない理由とされました。

欧化政策を皮肉したビゴーの戯画。鏡に映った着飾った高官の姿は「猿」

他方、文明開化の過程で国内におりのように蓄積されていった劣等感は、「文明化」=「欧米化」の一定の成功、さらに日清戦争に始まる帝国主義化、軍事大国化、つまり条約改正=「万国公法クラブ」加入によって、一挙に反転し始めます。日本文化への見直しが、国民国家建設のツールとして用いられた天皇制と結びついて、根拠のない優越感となっていき、ついには「八紘一宇」という形での独善的な思想へと変わっていきます。これは「外圧」と対峙するというなかでつくられてきた劣等感が暴力的な形で反転したものでした。
江戸時代末期から、国民生活をないがしろにして、軍事大国を目指す、植民地を獲得して帝国主義大国に上り詰める、そのなかで生まれた劣等感と裏返しの独善的な優越感、こうした幕末以来の日本のあり方が、清算された出来事、それも1945年8月15日の敗戦でした。

近代日本はこれでよかったのか?

8月15日は、これまで日本を動かしてきたもの、それに巨大な疑問符をつけるものでした。「日本は多くの誤りを犯してきた。なぜそんなことになったのか?」と。
多くの日本人は、信じてきたものを否定されました。だからこそ、虚脱感に襲われたのかもしれません。これまでの約90年近く信じ続けてきたもの、日本のあり方、それらが敗戦によって否定されたのです。

「戦争責任」の問い直しの機会を逸した日本

重層的な歴史、日本にかかわる歴史、そこで行われたさまざまな行動、考え方、そういったものがいったん否定され、一挙に問い直されていたのが8月15日の意味でした。日本の近代自体が、本当にそれでよかったの?どこで間違え、どこが間違いだったのか?これがと問い直されたのが、8月15日の意味でした。
こうした問いかけにどれだけ向き合ったか?

東京裁判 連合軍によって日本の戦争犯罪が裁かれ、東条英機や広田弘毅ら7名が絞首刑となった。

日本人は「戦争犯罪」という形での問いかけに自分の力で応じることができませんでした。それにかわって連合国が行ったのが東京裁判です。東京裁判は、問題山積ながら、曲がりなりにも軍国主義と侵略戦争を断罪する裁判でした。罪刑法定主義に反するという法手続き上の問題、勝者による敗者の裁きなどの疑問は当時からも出されており、こうした批判は、現在でも問題視され、これに乗じて戦争犯罪のみならず、日本の戦争さえも免罪しようという動きもあります。
もし日本人が、自らの手で、自らの身を切り裂いて、がん細胞を摘出するような裁判がなされたなら、この批判は通用するでしょう。しかしそれはなされませんでした。日本人は、自分たちで裁けなかったのです。このことをまず恥ずべきなのかもしれません。勝者による裁判だからといって東京裁判を否定するだけなら、それこそ、だれも責任をとらなかったことになります。東京裁判は、日本国民、アジア諸民族、そして世界を苦しめた戦争にないして何の責任もとらない、こうした事態を七人を「人身御供」とすることで回避させたのです。日本人自身ではなく、日本との新たな関係を求める連合軍とくにアメリカが「落とし前をつけた」という言葉がもっとも適切なような気がします。

2014年の安倍首相の靖国参拝は、中国や韓国などにとどまらず、アメリカ高官の「失望」との発言も生んだ。

世界が靖国神社への首相の公式参拝に反対するのは、45年8月15日に対する責任を象徴する責任者を免罪することで、日本政府は戦争の責任をとらないと宣言しているように見えるからです。慰安婦問題や歴史認識について中国や韓国・朝鮮から厳しい批判を受けることがあります。その批判の多くは、これまで見てきたような近代日本の課題にたいし向き合ってこなかった点を厳しくついていると思います。
しかし、日本人が、8月15日に終わったこれまでの日本の近代をまったく問い直さなかったかといえば、そうではないような気もします。

日本人は、8月15日を問わなかったのか?

10数年前、中国に行ったときのことです。道路のドライブインに、日本のコンビニにならんでいるエッチな本のような感じで、戦争中と現在を混同させた「これはちょっと」と思わざるをえない「日本批判本」が多数並べられていました。

売り場に殺到する訪日観光客

たしかに問題だとは思いました。しかし、私が思ったのは、このような「本」を書いたり、読んだりしている人に、「是非、日本に来て、いまの生きている日本人があなたたちが思うような人間なのか、その目で検証してください」という思いでした。
現在、中国や韓国から大量の人たちがやってきます。10数年前、思ったことが実現しつつあります。高度成長期、パリなどでの「ノウキョウさん」が、中国の人たちによっても日本の地で再現されました。しかしパリでの日本人がそうだったように、二度、三度というリピーターになるにつれて、かれらなりの日本を発見をしつつあります。中国国内にも、あたらしい冷静な「知日派」が生まれつつあります。表面上、あの「日本批判本」を信じているかに見える中国人も韓国人も、現実は大きく異なるという印象を持ち始めているように思えます。

文部省が編纂した副読本「新しい憲法のはなし」より(東京書籍「日本史A」P157)

10数年前の直感は、日本にすむ生活者の中に、普通の日本人の生き方の中に、8月15日への反省が隠れていると感じたからだったかもしれません。たしかに「日本」は、「戦争」へのきっちりとした向き合い方も、反省もできませんでした。とくに、政府レベルではまったく不十分でした。しかし、時代の中で生きていた多くの人は、様々なレベルで戦争に向き合い、「二度と戦争はしないでおこう」という思いをもちました。そうした象徴が、日本国憲法でした。憲法制定過程については、アメリカという自分の政策に都合のよく日本をもっていこうとする「助産師」さんの力も借りました。しかし、完成した憲法を感動を持って受け入れたのは戦争をくぐり抜けてきた日本人です。何度も出てきた憲法改正要求を挫折させ、憲法を大切にし骨肉化してきたのも日本人でした。戦争が続いた戦後七十年間、戦争で人を殺したり、殺されたりしないかった平和国家・日本にたいし、戦後の日本人は自信を持ってもよいとおもうのです。

2015年の安保法制反対デモ(©日刊ゲンダイ)

いろいろと問題があり、批判される点は山ほどありながらも、人々が平和的に生きている国、そうしたやり方で8月15日に向き合ってきた日本、それは誇ってよい、それが十数年前の私の直感でした。日本が軍を前に立てての侵略をおこなうということは思いもよらない、その日本を見てください。それがあのときの気持ちでした。(過去形で書いているのが残念でなりませんが・・)
戦後の日本、その背景には、それぞれの人の、いろいろなレベルで8月15日におわった戦争についての思いがあり、戦争とその時代への反省があり、それが戦後の日本の歩みの底流に流れているのです。

「あなたは8月15日にどのような感情を持ちましたか?」
   ~公開問題を出します。

こうした思いから、私は定期考査(多くの場合は年度末考査になります)の1問をあらかじめ生徒に知らせる公開問題をしました。以下の業務連絡のような感じです。
なかなかの名作揃いとなりますよ。

業務連絡:公開問題・・「戦後日本を作ったもの」

今度の考査では、公開問題を出します。10点分、ですからかなり大きいですよ。さらに、ぼくが「うーん」とうならされた解答にはプラスαをつけますので本来の満点10点にボーナス5点の15点満点とします。プラス5点を加えて100点を超える場合は、100点で打ち止めとしますから許してください。ただし手元の計算では100点を超えて計算しますので。
さて、その内容ですが。みなさんに1945(昭和20)年8月15日時点の「人間」「もと人間」あるいは「人間以外の何か」でもかまいません。とりあえず、8月15日の気持ちを、自分なりに考察して、「手紙」または「手記」の形で書いてもらいたいのです。
そのときに生きていた人間~日本の子ども、兵士、戦地に愛する人を送り出した女性、老人、朝鮮人、中国人、台湾人、東南アジアの人でも、戦争を戦ったアメリカ人やロシア(ソ連)人~でもかまいません。幽霊もおもしろそうですね。神、宇宙人でも、あるいは犬・猫でも、「アホーアホー」と鳴きながら飛ぶカラスでもかまいません。そういった何かの8月15日の気持ちを書いて欲しいのです。
配点基準は、それまでの日本や世界の歴史と矛盾なくそれらを踏まえているか、8月15日当時の状況を理解しているかなどを前提とし、なぜそういった感想や気持ちをもったのか、十分に説明しているかをもとに採点します。当時の人びとの気持ちを調べろという内容ではありませんので、間違えないでください。
もちろん解答はありません。字数は、A41枚分解答用紙をつけておきますが、全部を書けというわけでもありませんし、増えすぎて足りない時は裏を使ってもらってもかまいません。
みなさんに、そのときの気持ちになって欲しいと思うのです。そこから、戦後の日本が、世界が生まれてきたのですから。
以上、業務連絡です。

 

新たな疑惑~不幸は明治天皇一家にも

以前、「なぜ将軍の子どもたちは短命だった?~ある疑惑」という記事を書きました。その内容は、将軍家、とくに江戸末期の将軍の子どもたちの短命は、大奥の女性たちの化粧品白粉(おしろい)にふくまれる鉛ないし水銀中毒ではないかというものでした。また、同一のことを主張するブログも紹介しました

ところが、話はこれで終わらないことに気がついたのです。発端は、牧原憲夫氏が著した「民権と憲法」(岩波新書)の記述です。その部分をよんでください。
明治天皇には「皇后には子供がなく、側室五人の間に15人の子(男5女10)が生まれたが、10人は夭折(ようせつ)し、成人した男子は典侍柳原愛子の子・明宮だけだった。」

幼いころ、巡幸にきた現皇后(当時は皇太子妃)の化粧をみた小学生連中が、あまりの分厚い白粉のため、とても「不敬な」ことをいっていました。昭和四〇年代の初めでもそんな状態でした。明治時代の宮中では、もっと大量の白粉を使っていたことは明らかでしょう。現皇后の白粉にはもちろん鉛や水銀は入っていません。しかし鉛入りの白粉が製造中止になったのは昭和初年(Wikipedia「鉛中毒」)のことです。それまでは、鉛入りの白粉を使っていたのです。そしていずれかの時期までは、宮中で使っていた白粉も、鉛や水銀を原料とするものでした。

Emperor_Taishō
大正天皇(Wikipedia「大正天皇」より)

ですから、明治天皇の子どもたちも、大奥と同様に、乳首までしっかりと鉛を塗った女性の母乳を飲んでいた可能性が高いのです。

明治天皇は1887年までに9人の皇子女をもうけたが、大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死んだ2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった」とし、さらに「大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ」と記されています。
 さらに、当時の公家・武家の華族の三歳以下の子どもの死亡原因の大部分が脳膜炎様症状であることが問題になっていて、1923年に京都帝国大学教授が「原因は慢性鉛中毒ではないか」との研究成果を発表した、実は明治末年からすでに疑いが持たれていたとも書いてありました。
明治天皇の子どもたちの死産や夭折は、鉛ないし水銀の中毒であった可能性が濃厚といわざるを得ません。

さらに大正天皇は分娩時、すでに湿疹があったという記事ものっていました

こうしたことを総合すると、大正天皇は鉛ないし水銀中毒の胎内中毒をおり、さらに母乳からさらに金属毒を摂取した。このため出産時より湿疹がでており、虚弱であり、生まれてすぐ脳膜炎様症状を発症した。なんとかこういった「病」を乗り切ったものの、後遺症や体内に蓄積した金属毒を原因とする障害で苦しみ、その特異な行動などで人びとの密かな「嘲り」(差別!)をうけ、最終的には公職をまっとうすることができず、のちの昭和天皇を摂政とし、印象の薄い人生を終えた。
このような人生であったとかんがえられないでしょうか。
気がつきませんか?
家定将軍と大正天皇の共通点
兄弟の大部分が夭折し、生き残った唯一の成人男子。虚弱で、障害をもち、短命。

しかし、他の子どもたちが金属毒に耐えきれずなくなったのに、大正天皇(もしかしたら家定も)が生き残ったのは、DNA的には長寿遺伝子をもっており、元来は強健な身体の持ち主であったのかもしれません。
大正天皇の4人の男の子たちは全員が成人し、もっとも短命であった秩父宮でも50代まで生き、最も長命の三笠宮は昨年(2016年)101歳で大往生を遂げました。
大正天皇の子どもたちは、明治天皇の子どもたちとは好対照を示しています。
宮中では、密かに不幸の原因を探っており、鉛や水銀の入った白粉を使わないようにしたのではないかとも想像されます。
彼の子どもたちの長寿はこうしたところから来ているのかもしれません。(もちろん、栄養状態もよかったのでしょうが・・)
金属中毒は、足尾鉱毒事件によってひきおこされた利根川流域の人々にたいしてだけでなく、宮中の女性のぶ厚い化粧を通して天皇家にも取り憑き、不幸をもたらしていました。
大正天皇はこうした犠牲者であったとおもわれます。
 

徳川時代の物価はどのくらいだったのか?

徳川時代のいろいろな値段は?

江戸時代の物価って一体どのくらいなのでしょうか。
私がでている授業でおもしろいデータがありましたので、そのレジュメ(パワーポイント)のデータをもとに紹介します。

三種類の貨幣(金・銀・銭)が併存

江戸時代には金貨、銀貨、銭(銅貨)の三種類があったことはご存じの通りだと思います。
帝国書院「図説日本史通覧」P167
帝国書院「図説日本史通覧」P167
日本国内で、地域的な偏りをもって、三種類の貨幣が流通し、取引されていました。なにか、現在の世界のようですね。

金貨・銀貨・銭の交換レートを確認しよう。

まず交換レートです。1625年現在のものです。
金1両=金・銀4分=金・銀16朱=銀16匁=銭4000文
これが  1764~71年の 明和年間には
金1両=5000文
と交換されるようになります。
先生の感覚で、1文は10円と換算されました。
あくまでも根拠は・・感覚とのことです。
だから、ここでは
1両=4000文=40000円
という換算式ですすめていきます。

注記:他のHPでの換算率について

 
※京都故実研究会「江戸時代の貨幣価値と物価表」というHP
(http://www.teiocollection.com/kakaku.htm)では次のような換算式を用いています。
江戸前期 25.0円/文
    江戸中期 20.0円/文
    江戸後期  5  円/文
江戸期の平均 16.5円/文
このHPには、詳細な物価表がきっちりと紹介されており、引用したりするときはこちらの方を使った方がよいと思います。
※江戸時代のちょっとびっくりな文化と生活「江戸時代の文化と生活」というHP
http://www.edojidai.info/bukka.html)では、いろいろなベースを元に換算しています。
 
     1両=  4 万円 (米ベースの換算・日銀による)
    1両=12~13万円 (そば代で換算)
            1両=30~40万円 (大工の手間賃で換算)
 
 こうしたなかから、このHPでは
    1両= 8万円 1文=20円 が妥当としています。

日銭稼ぎの都市住民収入は月収10万円以下

 まずは収入から、ここでは日銭稼ぎの都市住民の例です。
大工・左官・土方など 1日324~540文(3240~5400円)
1か月 6万~10万円    年収 72万~120万円
野菜棒手振(野菜の行商)1日100~200文(1000~2000円)
1か月 2万~4万円  年収69万~48万円
1日の数字と月収の間のずれがあるようです。
計算したものでなく、それぞれ別々の史料から出されたのか、月20日働いたぐらいの金額となっています。
古典落語の主人公や時代劇の名脇役の収入です。
かなり厳しい生活だったことが分かります。
1文=20円で計算しても、月収4万円~20万円
     やはり厳しい数字となっています。

中級武士でも年収160万円

では、武士はどうでしょうか。
先生が示したのは100石取りの中級武士の例です。
しかし、中小の藩では上級武士に準じる場合もあります。
100石取りというのは、100石の収穫が見込める土地分の年貢がもらえるということで、実際に手に入るのはその40%程度の40石ということになります。
武士100石取り 実質40石=40両
        年収160万円位(月給13.3万円
  という悲惨な数字となってしまいます。
中級でこの数字ですので、下級武士の場合はいっそう厳しかったことがわかります。
武士たちが、各種のバイトに励んだり、次男や三男を養子に出したことの意味が少しは見えてきそうです。

住まいは狭いが、家賃は安い

生活費の内の住居費です。町屋の家賃が示されています。
イメージ 1
江戸の長屋(写真・深川江戸資料館) http://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/46836013.html
ちなみに「一般的な裏長屋の広さは、間口が9尺(2.7m)で奥行きが2間(1.8メートル)というのが一般的な大きさで、部屋全体の大きさとしては6畳相当になりますが、土間や台所なども含めてその大きさですから、居間兼寝室となる部分は4畳半ほどしかありませんでした。」(「江戸時代の文化と生活HP」http://www.edojidai.info/kurashi/uranagaya.html)
ということで4畳半、1Kの住まいの家賃です
     文政年間(1818~29)の例です
    長 屋・・・ 1か月 800~1000文(8000~10000円

        棟割長屋・・ 1か月      500文       (5000円

この両者の違いはわかりません。先生が調べた史料の関係かもしれません。

一人一日5合の米を食べているが・・

    つぎは食料費です。
江戸時代の庶民の食事(再現)の拡大画像
江戸時代の庶民の食事(再現)http://edo-g.com/blog/2016/02/meal.html/edo_meal_l
江戸時代の人(とくに都市の住民)はわれわれの想像を超える量の米を食べており、一人一年間1石以上消費しています。
1日一人あたり5合前後の米を食べていたのです
ちなみに、昭和の初め、宮沢賢治が
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」(雨ニモマケズ)
と書いています。1合の米を炊いても数日間残るという現在とは大きな違いですね。
夫婦と子ども1人の3人家族で1年3石5斗4升と計算されています。
米以外の食品の価格について、現在とは雰囲気が違いますね。
牛乳2合2万円とか、ゆで卵1個200円とか、
びっくりしますね。食べ物というより薬だったのでしょうね。
魚も結構高価なものが多かったこともわかります。
      米代 1年3人分 3石5斗4升で約6両(24万円)
                  1か月2万円
 塩・味噌・油・薪炭代 1年約11両(44万円)
                  1か月3万円
その他の食料品と外食費
 豆腐1丁(現在の4倍の大きさ)56~60文(500~600円)
 納豆4文(40円)                    しじみ1升6文(60円)
 まぐろ1尾200文(2000円)

 初鰹1本(棒手振り売り)1000文(10000円)

 酒 1升 40文 (400円)慶安年間(17世紀中期)
      文化年間(19世紀初期)には 200文 (2000円)
 砂糖水 8~12文(80~120円) 水一荷4文(40円)
 牛乳2合2分(2万円)  ゆで卵20文(200円)

外食はどうかというと、これもそんなに安くはない。
いきおい、屋台で腹を満たす。鮨も天麩羅も屋台で食べられていました。
 鰻丼100文(1000円)のち400文(4000円)
 屋台で食べると
そば16文(160円)  握り鮨1個8文(80円)
  天麩羅1個4~6文(40~60円)
縄のれんで一杯
  酒1合30文(300円)
茶店では 4~10文(40~100円)
串団子1串5文(50円)  大福餅や桜餅一個4文(40円)
羊羹一棹66文(660円)

 さまざまな生活費

さまざまな生活費ともいうべきものの値段を示します。
   刻み煙草 10匁(38g) 8文(80円)
   灯油          1升(1か月分)    410文(4100円)
                      →幕末には    2000文(20000円)に急騰
           下駄         50~100文(500~1000円)  
           草鞋        12~16文(2000~3000円)
           蛇の目傘   1000文(1万円) 
           番傘   200~300文(2000~3000円)
           銭湯                  6文(     60円)   瓦版     4~30文(40~300円)
           宿場駕籠    250文(2500円)
           髪結                 28文(    280円)
             →19世紀以降32文(320円)→幕末は48~56文(480~560円)
           出会い茶屋利用料 1/4両=1000文(10000円)

人々の「楽しみ」の値段

人々の楽しみにかかる費用です。
歌舞伎の値段の上下の差、びっくりしますね。
また浮世草子などの本を買うのは非常に高かったことが江戸の貸本文化を支えたことも見えてきます。
歌舞伎小屋(HP「歌舞伎への誘い」より)http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/1/index.html
           歌舞伎 桟敷席 銀35~40匁(2~3万円) 
                 一般席    100文       (1000円)
                立ち見席              10文          (100円)
           相撲  桟敷席   銀43匁    (27000円) 
                                木戸銭   銀  3匁      (2000円)
          浮世草子                    銀25匁  (17000円)
今も昔も、一攫千金を夢見た人たち、当時の宝くじがこれ。

  富籤 12文 (120円)

1730年では賞金25両(100万円)が5人に当たるということでしたが、賞金はどんどんエスカレート。100両(400万円)から、ついには1000両(4000万円)にまで達します。

男性の「天国」?!吉原にいくと

   吉原の太夫の揚げ代 1回  1両2分(60000円)
 しかし、その裏返しで、こういった悲劇もあります。
  吉原への娘を身売り得るのが 50両(200万円)
      妻を身売りしたら  80両(320万円)
  娘は親の薬代のために、妻は夫の窮地を助けるためだった
  とのことです。

  病気や健康維持のためにかかる費用

     医者の診察代 1~2分  (1万から2万円)
     薬代 3日分               1分           (1万円)安政年間
                         按摩上下 1回        50文           (500円)
                同じ薬でも
                        避妊薬       1回       124文        (1240円)
               こんなものも、でも効果あったのかな?

  結婚持参金や教育費

       一般町人 5~10両 (20万から40万円)
豪商           500両      (2000万円)

上下の差が大きいですね。こんなのもあります。
不倫の示談金 1回 7両2分 (30万円)

  江戸後期に急速に増えた寺子屋にかかる教育費
       机・硯箱 250~270文 (2500~2700円)
   筆      一本    4文(40円)  墨    1つ12文(120円)
     半紙  20枚8~12文(80~120円)
入門料200~300文(2000~3000円)
他に炭代(暖房費?)や五節句のお礼なども必要です。

旅行にかかる費用は

  一度はいきたいお伊勢さん。もさかんになります。
 庶民の宿は安かったみたいで
    旅籠代200文(2000円)、木賃宿16~32文(160~320円)
    渡し船が、12~15文(120~150円)
東海道 大井川の図(広重)島田市博物館所蔵 HP「東海道川を渡る道」よりhttp://tokaido.canariya.net/1-rene-tokdo/5book/2bu/12_fr.html
     面白いところでは、東海道・大井川の渡し
 人々は人足に担がれて川を渡ります。
      人足料
         腰まで48文(480円)
         乳下70文(700円)、
         脇下90~100文(900~1000円)
水の深さで値段が違ったのですね。
 普通は人足の肩車で渡ります。
 でもお金持ちは四人で担ぐ輿にのって渡りました。
 当然、費用は4人分、水の深さで費用が違うのは肩車同様です。

参勤交代の費用は

庶民の旅でなく、大名方の旅行(参勤交代)にかかる費用です。
帝国書院「図説日本史通覧」P150
帝国書院「図説日本史通覧」P150

 

関東地方・群馬県にあった高崎藩 82000石でかかった費用
   片道 900両(3600万円)

九州の大藩佐賀藩357000石で参勤交代にかかる費用
    片道 2600両(1億400万円)
参勤交代の負担は大名に重くのしかかっていました。

借金の利息は

最後は借金の利息。享保年間(1716~35)の例です。
       1両(4万円)を借りた場合の利息が
   1か月1匁6分=74文(740円)、
      月利1.85%、単純に12倍した年利が22.2%
 複利ならもっと多くなります。現在なら許されない利息率ですね
少額金融はもっと厳しく、
 銭100文(1000円)について
   1か月4文(40円) 月利4%、年利48%
 というとんでもない利率になります。複利ならもっと増えることは先に見たとおりです。

江戸時代の値段から見えるもの

提示された例を挙げただけでも、いろいろなテーマが見えてきそうなですね。
本来なら、自分で調べたものならよかったのですが、全くのパクリです。
個々で出された数字は、担当の先生が、いろいろな史料をみて出てきた値段を記されたものだと思います。
江戸期は物価の変動が小さかったとはいえ、約270年の長い時間であり変化があったことは確かです。
先に見たように、「1文10円は自分の感覚でしかない」と何度も話しておられましたのでとくにご注意ください。
最後に、このデータは先生が授業のなかで時代のイメージをつくるために出されたものであることにご留意ください。

なんとか「終戦」までは! ~「お助けプリント」を準備しました。

なんとか「終戦」までは!
~「お助けプリント」を準備しました。

とうとう12月、2学期の期末考査の時期です。
毎年、ぞっとする時期です。
というのは、残っている授業時間があまりに少ないから
残る授業は、3年生で実質2~3週間2年生は約2か月
そこで、指導手帳に講座ごとの授業時間をまとめ、その枠内で教える内容を考える。
是非教えたい内容も涙を呑んで削る。
それでも、どうしても時間が足りない。
何としても日本国憲法の制定、少なくとも終戦まで」という目標をあきらめなければと思う時期です。
「まあいいか、できたところまで」と考えてしまいますが、桑田佳祐の「知りたいことは時間切れ」というフレーズが頭をよぎり「本当にそれでいいの?」という心の声が聞こえます。
昨年もそうでした。
2学期の期末考査時点で、やっと日露戦争が終わったところ。(「日本の産業革命」や「条約改正」を犠牲にしてもこのありさまです。)
普通のやりかたなら大正で終わり、終戦までは絶対無理という場面です。
しかし、毎年、こんな状態でも予定まではやりきります(^_^)v
その手段が超短縮プリントと、ビデオの併存です。
ということで、昨年度(それ以前から(^_^;)も)使用していたプリントをアップすることにしました。
実際には、さらなる短縮版も作っていますが。
今回は、ちょっとええかっこして量を増やしすぎました。
日本史Aの資料室」に「時間短縮用プリント(大正期~占領期)」としてアップしておきます。「なんや、いつも書いてる内容とえらい違うやないか!」とのご批判もあるかとは思いますが、実際はこんなものです。プリントのネタの多くは、例によって旺文社「教科書よりもやさしい日本史ノート」(監修:石川晶康)です。
(注記:当方のミスで同じプリントばかりが表示されていることに気がつきました。今回、正しいプリントに訂正しましたので、ご利用ください。17.4.26記)
またビデオはユーキャンの「昭和と戦争~語り継ぐ7000日」シリーズを使っています。2巻・赤紙が届く日(昭和11~12年)、4巻・立ち上がれ少国民(昭和16~18年)、6巻・本土決戦の覚悟(昭和20年)を飛ばし飛ばし見せていました。どう見ても不要な所や「ン?」という所もありますが、おおむね良心的に作られているように感じます。
さらに時間に余裕があるときは、7巻8巻という戦後編も見せていました。
6巻についての授業用プリントもアップしておきますので、ご覧いただければ光栄です。

五色塚古墳で考えたこと~「本物」と実際

「本物」を見せただけでは実際の姿には近づけない
 ~五色塚古墳で考えたこと~

 

ふと、気がむいて、神戸の五色塚古墳へ行ってきた。

五色塚古墳①
五色塚古墳①

神戸市西方にあり、淡路島と淡路海峡大橋を眼前においた兵庫県屈指の規模を誇る古墳である。

ここの古墳の特徴は工事用のじゃり置き場のように丸い小石、葺石がゴロゴロしているところにある。この古墳が作られたころの姿に復元すると、このような姿となるのた。

五色塚古墳②葺き石
五色塚古墳②葺き石

僕たちは、古墳といえば、大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)のような鬱蒼とした木々に覆われた緑の森を想像してしまう。古墳といえばこういう姿だとして、こうした写真ばかり見せられるてきたからだ。歴史の教師の側からいえば、見せてしまうというべきか。

正面から・・・一般には、ここからの拝観・・・仁徳天皇陵古墳拝所・・これよ... [大仙陵古墳(伝
大仙陵古墳http://pds.exblog.jp/pds/1/201308/21/45/a0249645_1943557.jpg
たしかにこうした古墳は「本物」ではある。しかし、これを見せて、古代の人はこのような古墳を作りましたというのは正しいだろうか?ここに、五色山古墳再生の面白さがある。1000年以上経った古墳ではなく、古代の人々がつくったような、彼らが実際に目にしていた古墳を再生して現在の我々に提示しているからだ。

大仙陵古墳や周囲の陪塚全てにおいて、葺石や円筒埴輪が忠実に復元されてい... 歴史文化学科の学生
大仙陵古墳の復元図(近つ飛鳥博物館の展示) http://www.osaka-ohtani.ac.jp/blog_campus/literature/003124.html

現代人にとっては神々しいとは思えない土砂置き場のような盛り土の山、これが実際の古墳なのだ。しかし、これも実際の姿とはいえないかもしれない。周りが、まったく違うからだ。現在の我々は嫌になる程、毎日、人工物を目にしている。そうした我々にとって、自然の緑は美しく生き生きしたものと感じる。しかし、古墳が作られた時代はまったく逆なのだ。

古墳が作られた時代、人間は荒々しいまでの森林と戦いつつ自らの支配地域を広げて行く時代であった。そこに実に人工的な建造物が作られる。鬱蒼とした緑の中に、明石海峡を通る船からもくっきりとみえつ人工物、周りの葺石は太陽の光を浴びて輝き、頂上部分には埴輪が隙間なく並べられている、それは自然と対峙している人間の力の象徴のようにもみえる。古墳は自然に戦いを挑んでいる人間の力を示しているのだ。

五色塚古墳②明石海峡と明石海峡大橋を望む
五色塚古墳③ 明石海峡と明石海峡大橋を望む

だからこそ、現代人にとっての古墳が緑に覆われた神聖な空間と感じるように、緑の自然の中の人工的な輝きこそが多くの人間たちを組織してこのようなものを作らせた古代人のリーダーの権力を示すものであったのだ。 

我々は、現在に残された「本物」、本物の現況を見て、過去のことを想像する。しかし大仙陵古墳のように「本物」ではあるが、当時の現実とは異なる姿に慣らされている。

復元鋳造された銅鐸 京都の青銅器工房 「和銅寛」のHPより https://wadokan.ocnk.net/contact

私たちは、銅鐸や銅鏡が青緑色をしていると教えてこなかっただろうか。あのような輝きのない色をしたものを古代人がありがたく思ったように思わせていないだろうか。これは古代人たちの信仰をミスリードする。当時の人々が見た、銅鐸や銅鏡は金色にぴかぴかと輝いて、叩けば当時の人たちが聞いたことのないような高い金属音を発した。だからこそ、信仰の対象となったのだ。こうした古代人たちが見ていた姿を伝えていただろうか。

仏像でもそうだ。

新薬師寺十二神将婆娑羅大将 JR東海「うましうるわし奈良」より http://nara.jr-central.co.jp/campaign/shinyakushiji/special/index.html

木目が見えていたり、銅の地金が見えている仏像、これを当時の人々が信仰したと思わせていないだろうか。実際の仏像は金色に輝き、濃い群青色で隈取れるものであったり、様々な色で塗り分けられたものであった。

奈良、新薬師寺の十二神将像にいたってはヘビメタ真っ青の色彩で表現されていた。そのケバさを超自然的な力をもつ仏や神として尊んだ感覚を伝えられているだろうか。我々が感じる長い時間を生き延びるなかで得られた虚飾を脱ぎ捨てた仏像の物語とともに、もともとの姿をも思い浮かべる想像力も必要なのだろう。

浄土寺(兵庫県小野市)の阿弥陀三尊像 採光を最も劇的に用いた建物と仏像とされる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B8%82)#/media/File:%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA%E4%B8%89%E5%B0%8A.jpg

仏像の場合は、光の状態やそれを見る目線も重要である。蝋燭の光、差し込むわずかな光、護摩の炎、こうしたなかでの仏像、さらには時々で移ろっていく光に照らされた仏像こそが、人々にとっての仏像である。電気の光に照らされたり、さらには写真用の照明で完璧に照らし出された仏像とは異なるものであった。

 我々は、現在の姿で歴史的なものを見て、分かったような気になっている。しかし、それが作られた時の姿にも注意を向ける努力をしなければ、当時の人々に近づくことはできないように思う。

 鬱蒼とした緑のなかに、ひときわ輝く砂利置き場のような人工物のなかにこそ我々は古代人の思いを知ることができる。「本物」であることで満足するのではなく、作られた時代の姿や人々の前に現した状況などにも、時には配慮しなければ、実際の歴史には近づけないのだろう。

いろんな手法を試してみたい~自由民権編UPしました

いろんな手法を試してみたい。

~自由民権編をUPしました。~

自由民権運動を中心とする明治一ケタから二十年前後までの授業案をUPしてみました。
わたしは、歴史の授業において、いろいろな歴史学や社会科学など諸科学の分析・叙述の方法を用いたいと、非力を顧みず考え、やってきたつもりです。
それは、生徒たちの将来にとって有効だと考えています。
生徒が、特定の立場や方法に固執するなく、複眼的な視点を持ち、いろいろな角度から、自分を取り巻く社会や世界を分析し、行動する指針として欲しいからです。
日本史でありながらも、東アジアや世界に開かれた汎用性のある学びを得て欲しいからです。
一つ一つの歴史事象について、いろいろな角度から見る力をつけて欲しいからです
こうした考えから、全体の流れからずれない程度で、時間を見ながら、いろんな歴史理論や社会科学などの方法を意識し、授業を進めきました。
「開国」のあたりではシステム論とはいえないまでも資本主義の成立がアジアにどのような影響を与えたのかを、明治維新では国民国家論を、外交の所では主権国家や華夷体制という国際関係論をそれぞれ意識し、文明開化のあたりでは民衆思想論にも触れられたかなと思っています。
今回の自由民権を中心とする明治一ケタから十年代の歴史については階級という視点を少し使って導入してみました。
明治維新、文明開化という大きな流れの中で、
士族・農民・豪農豪商というそれぞれの階級がどのような立場に置かれ、どのように考え、行動をしたのか。といった分析を基礎におきながら、政府の動きとのかかわり、西南戦争後のインフレと松方デフレという経済の激動がそれぞれのグループにどのような影響を与え、運動をどのように変革させたのかにも触れました。
最終的には、豪農が寄生地主化することで、自由民権運動、そして明治国家、戦前の経済がどのような事になっていくかも展望したつもりです。
階級を意識した分析は、世界史では、フランス革命のところでとくに有効でした。というか、これを使わないと、うまく説明できませんでした。
階級(闘争)論というマルクス主義的な手法は時代遅れという人も多いかもしれません。
しかし、階級ごとに分析し、それぞれの置かれた状況、願いや考え、そして具体的な行動をみていく、というやり方は、現在を分析する上でも有効な手段と思いますし、こうした分析方法を知ることは高校生にとっても意義があるものだとと思っています。