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貿易の開始~世界資本主義と日本
生徒のノート(板書事項)より
的確にまとめたノートである。
前回の復習~開国と通商条約締結
前回は、1853年のペリー来航、翌年の日米和親条約の締結で、日本は鎖国をすて開国することになった話をしました。さらにアメリカの総領事ハリスの強い働きかけにより、日米修好通商貿易をはじめとする安政の五カ国条約が締結されました。しかし、条約は朝廷の許可がないまま締結したこと、日本の水準の低さもあって不平等条約を受け入れなければならなかったことなどをはなしました。そして、通商条約締結の翌年である1859年、貿易が開始されます。
今回は貿易の開始、今風にいえば日本がグローバリズムに組みこまれることで、どのような事態が生まれてきたか、日本がどう変わっていくのか、経済を中心に見ていきたいと思います。
開港貿易の影響
横浜の貿易額は急成長
イギリスなど各国は驚いた思いますよ。貿易を開始すると同時に、横浜の貿易取扱量はうなぎ登りの上昇し、10年もたたない1867年には横浜一港で全中国の貿易額の1/5、中国第二位の取扱量である広州とならぶ数字になるのですから。
金銀比価問題~金が流出していく!
しかし、開港によっておこったのは別の事態でした。当時の日本では三種類のお金(金・銀・銭(銅))が用いられていました。金は江戸周辺で、銀は大坂など上方で、銭は全国レベルで。今でいうなら、国内でドルとユーロと円の3つの通貨を使っていたような状態です。そして現在のドルと円を交換するように金貨と銀貨を交換していたのが、両替商です。朝ドラの「あさが来た」の嫁ぎ先の仕事がそうです。
ところが、開港により困った問題が起こりました。世界(最も近くでは香港)市場での金と銀の交換レートが重量比でほぼ「1:15」、金100グラム持って行くと、銀が1500グラムと交換できたのです。
商売のセンスがあれば、ぼろ儲けできることが分かりますね。分からないという人は、財テクとかに手を出すのは避けた方がいい…。さあ、もうけ方、わかりましたか…?
上の数字を使って考えてみましょう。
イギリス人が、金(ゴールドですよ)を100グラムもって香港にきて銀に変えます。1500グラムになります(最初から銀1500グラムを持ってきても何ら問題ありません)
そして、その銀をもって船に乗って、横浜に行き、日本側に両替を依頼します。日本では両替比率1:5ですから、1500グラムの銀は300グラムの金に交換できます。
さすがにこれについては欧米側も困ったみたいです。経済現象としては合法ですが、こんな形でもうけるのはやはり不本意で、本業である貿易でもうけたいと考えたみたいです。こんなことをすれば日本経済のダメージが大きくなって、金の卵を産む日本経済を破壊しかねませんから。そして日本側に誠実!に忠告します。「交換レートをグローバルスタンダード(国際基準)にあわせた方がよいですよ」と。
貨幣改鋳とインフレ
幕府側も事態の深刻さを理解し、さっそく対策を打ち出します。どうしたかって、1両の小判に含まれる金の量をこれまでの1/3に減らしてしまったのです!幕府からすれば、これまでのコストの1/3(ちょっと不正確ですが)で同じ小判が作れるのですから大もうけ。大量の通貨が流通するようになります。同じ1両でも入っている金の量がこんなに違えば混乱しますよね。さらに通貨の大量発行、強烈なインフレが発生します。
インフレで損をするのは、生産者?消費者?
インフレで損をするのは、生産者ですか、消費者ですか?
物を持っている生産者はよりたくさんの貨幣を手に入れられるから「得」、お金で物を買う側の消費者は物価が上がるから「損」
ということで、消費者が損をすることになります。
そう武士です。とくに下級武士なんかはインフレの被害をもろにかぶります。
下級武士らが、貿易をやめろ!攘夷決行!といったのは、思想的なだけでなく、生活の問題があったのです。「貿易が始まって、ただでさえ苦しかった生活がもっと厳しくなった」って。「それもこれも、天子様の命令も聞かずに、日本全体の合意もなく貿易を始めた幕府のせいだ」って。
とりあえず、こうして開港直後の金銀比価問題にかかわる出血は、貨幣改鋳という副作用のある劇薬でなんとか止めました。
なぜ、日本貿易は急拡大したのか
貿易が本格化します。そして、あっという間にその貿易額は巨額となります。
ひょっとしたら金銀比価問題で撒き餌した効果があったのかもしれませんが。
それ以上に、日本では全国的流通網が整備されており、横浜に日本中の物資が集まるという構造ができていました。
江戸期の産業の発展、とくに農村での製糸業の発展を背景に、価格の安い日本の生糸(絹糸のことですよ)は欧米人の購買意欲をかきたてます。
さらに、日本中、とくに地方の商人たちのなかで仕事を拡大させたいという 意欲が、江戸後期以降、急速に高まっていました。
インド・中国と比較してみると
多くの国ではそうはいきません。貿易を拡大するため、欧米諸国がインフラを整備しなければならないからです。
インドでは、大量の綿花を栽培しイギリス産の綿製品を売りつけるため、鉄道を敷き、港湾を整備し、農園を経営し、綿工業を破壊しました。そのためにも、現地の政治的権力を奪う、つまり植民地化せねばならなかったのです。
イギリスなどは、中国でも人口に比べて貿易高が伸びないことに不満を持っています。ですから戦争を仕掛けて、開港場を増やしました。国内流通網の不十分さを開港場を増やすことで補おうとしたのです。ただ、中国の人々が進めたイギリス製綿糸で綿織物をつくるという企業努力については気がついていなかったようですが。
それに対し、日本はどうだったのでしょうか。開港したとたん、待ってましたとばかり商人たちが横浜の町に見本を持ってやってきます。外国製品にも強い興味を示します。余計なことをしなくても輸出品は集まるし、輸入品もはけていく。日本をあえて植民地にしてインフラを整備しなくとも、すでにある程度は整備されており、さらに貿易開始をきっかけにあっという間に貿易モードにチューンナップされてしまいました。
何が輸出されたのか?
流通の混乱
ひとつは、物の流れが変わったことです。地方の商人たちはより利益の上がる横浜を目指し、江戸をパスしました。これによって、江戸には物資が集まりませんし、江戸や大坂の商人を通じて流通を掌握していた幕府にとっても困った事態となります。そこで、幕府は1860年、生糸を含む5つの商品をいったん江戸に集めるようにという命令(「五品江戸廻送令」)をだします。しかし、せっかくの儲けをボツにされる地方の商人、さらには「自由貿易」という条約の趣旨に反する(実際は「もうけが減る」ですが・・)と主張する外国側の反発によって効果は上がりませんでした。
伝統産業への打撃
わかりますか…?京都の伝統産業といえば…、清水焼と…、そう、西陣織や友禅染ですね。
西陣織の原料は言うまでもなく生糸が原料ですね。その生糸は外国が日本の相場よりもはるかに高い値で大量に買い付けてしまいます。その結果、生糸が品薄になり、価格が急騰、西陣織友禅染といった産業がダメージを受けたのです。
木綿(もめん)工業における攻防
もっと厳しい状況に追い込まれた分野もあります。
綿織物が入ってきます。イギリスの綿織物は機械生産ですから、国内産と比べてかなり安い、したがって貿易額が増えるにつれ、木綿にかかわる産業がダメージを受け始めます。
最先端農業・綿花栽培の崩壊
同様のことは、灯油の原料であった菜種でも起こります。
こうして、開港・貿易開始というグローバル化の流れによって、日本経済は貿易モードのなかに組こまれていくことになります。
幕末の1861年から、ある国で大変な事態が発生していました。分かりますか。幕末の最初の頃は、名前がよく出ていたのに、急に影が薄くなった国…、奴隷を大量に用いて綿花を作っている国…。そう、アメリカです。
アメリカの1861年といえば、世界史で出てきませんでしたか?奴隷解放をめぐって、国内が二分した…そう、南北戦争。アメリカは、日本が幕末の混乱で困っていた時期、南北戦争をしていたのです。ちなみに、南北戦争の戦死者は二つの世界大戦におけるアメリカ兵の戦死者よりもはるかに多いものでした。同じ国民同士が殺し合う、アメリカにとっては耐えがたい戦争だったのでしょうね。余談です。
当時、世界の最重要な工業製品は何だったでしょうか?そう、綿工業です。綿工業の原料である綿花の世界的な産地がアメリカ合衆国南部でした。ところが戦争で輸出困難になったため、背に腹は代えられないとばかり、日本から輸入しました。でも、日本産は高くて質も良くなかったので、一時的でおわります。
南北戦争、これが幕末の政局に微妙な陰を落とすことになりますが、それは別の機会に話したいと思います。
経済的観点から見ると日本を植民地化するメリットはない!
経済的な意味合いだけでみると、余計なことをして優秀な貿易相手国である日本を混乱させる必要はなかったといえるでしょう。ただ、貿易港が九州と関東の二港(箱館もあるにはありますが)しかないのは困りもので、日本経済のもう一つの拠点、上方(関西)圏と直接結びつく兵庫(神戸)の開港は、イギリスなどの悲願であったとは思いますが。
これに対する報復で、列強は攘夷派の拠点長州の下関に砲撃を加えます。さらに長州の行動の責任は幕府にあるとして、強硬な交渉にもちこみ、かなり高めに設定されていた関税を大幅に引き下げさせます。この事件は、長州に対するものと考えられがちですが、じつは幕府=朝廷の横浜鎖港などに対する脅しでもありました。貿易への妨害に対して、列強とくにイギリスは軍事的手段の行使も躊躇しません。さらにいつまでも兵庫開港をみとめない朝廷に圧力をかけるべく、大坂湾に侵入、圧力をかけ、攘夷方針を撤回させるに至ります。
追記:一部加筆・訂正しました。(2022.8.23)