貿易の開始~世界資本主義と日本

当時流行した「時世のぼり凧」とよばれた物価高騰のようすの風刺画。山川出版社「詳説日本史図説」P196

<13時間目>

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貿易の開始~世界資本主義と日本

生徒のノート(板書事項)より

的確にまとめたノートである。

 貿易開始武谷

前回の復習~開国と通商条約締結

こんにちは。では授業を始めます。
前回は、1853年のペリー来航翌年の日米和親条約の締結で、日本は鎖国をすて開国することになった話をしました。さらにアメリカの総領事ハリスの強い働きかけにより、日米修好通商貿易をはじめとする安政の五カ国条約が締結されました。しかし、条約は朝廷の許可がないまま締結したこと、日本の水準の低さもあって不平等条約を受け入れなければならなかったことなどをはなしました。そして、通商条約締結の翌年である1859年、貿易が開始されます。
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横浜市港湾局「横浜港の歴史」HPより。横浜開港資料館蔵

今回は貿易の開始、今風にいえば日本がグローバリズムに組みこまれることで、どのような事態が生まれてきたか、日本がどう変わっていくのか、経済を中心に見ていきたいと思います。

開港貿易の影響

横浜の貿易額は急成長

1859年、ついに貿易が始まります。最初は横浜(東海道に面した神奈川から少し離れた横浜に変更されます。当然、外国側との合意済みです)と長崎、および箱館の三港です。
イギリスなど各国は驚いた思いますよ。貿易を開始すると同時に、横浜の貿易取扱量はうなぎ登りの上昇し、10年もたたない1867年には横浜一港で全中国の貿易額の1/5、中国第二位の取扱量である広州とならぶ数字になるのですから。

金銀比価問題~金が流出していく!

日本では3つの通貨が併存していた
しかし、開港によっておこったのは別の事態でした。当時の日本では三種類のお金(金・銀・銭(銅))が用いられていました。金は江戸周辺で、銀は大坂など上方で、銭は全国レベルで。今でいうなら、国内でドルとユーロと円の3つの通貨を使っていたような状態です。そして現在のドルと円を交換するように金貨と銀貨を交換していたのが両替商です。朝ドラの「あさが来た」の嫁ぎ先の仕事がそうです。
一往復でぼろ儲けができた!
当時、金と銀の交換レートは、重量比でほぼ「1:5」というレートでした。金を100グラムもっていくと、銀500グラムと交換してくれるという計算です。
ところが、開港により困った問題が起こりました。世界(最も近くでは香港)市場での金と銀の交換レートが重量比でほぼ「1:15」、金100グラム持って行くと、銀が1500グラムと交換できたのです。
商売のセンスがあれば、ぼろ儲けできることが分かりますね。分からないという人は、財テクとかに手を出すのは避けた方がいい…。さあ、もうけ方、わかりましたか…?
どのようにもうけたか
上の数字を使って考えてみましょう。
イギリス人が、金(ゴールドですよ)を100グラムもって香港にきて銀に変えます。1500グラムになります(最初から銀1500グラムを持ってきても何ら問題ありません)
そして、その銀をもって船に乗って、横浜に行き、日本側に両替を依頼します。日本では両替比率1:5ですから、1500グラムの銀は300グラムの金に交換できます。
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金貨流出の仕組み  帝国書院「図録日本史総覧」P197

日本と香港を1往復するだけで、三倍の儲けが手に入ることになります。多くの商人は、貿易なんて面倒なことをしなくてもぼろ儲けできました。外交官でもこうして儲けた人がいます。こうして日本から大量の金が流出しました。これを金銀比価問題といいます。
欧米諸国の「誠実な忠告」
さすがにこれについては欧米側も困ったみたいです。経済現象としては合法ですが、こんな形でもうけるのはやはり不本意で、本業である貿易でもうけたいと考えたみたいです。こんなことをすれば日本経済のダメージが大きくなって、金の卵を産む日本経済を破壊しかねませんから。そして日本側に誠実!に忠告します。「交換レートをグローバルスタンダード(国際基準)にあわせた方がよいですよ」と。
貨幣改鋳とインフレ
幕府側も事態の深刻さを理解し、さっそく対策を打ち出します。どうしたかって、1両の小判に含まれる金の量をこれまでの1/3に減らしてしまったのです!幕府からすれば、これまでのコストの1/3(ちょっと不正確ですが)で同じ小判が作れるのですから大もうけ。大量の通貨が流通するようになります。同じ1両でも入っている金の量がこんなに違えば混乱しますよね。さらに通貨の大量発行、強烈なインフレが発生します。
はい、経済学の問題です。
インフレで損をするのは、生産者?消費者?
インフレで損をするのは、生産者ですか、消費者ですか?
インフレ、お金が増えすぎたり、商品の量が減ったりして、物価が急速に上がることですね。だから…?
物を持っている生産者はよりたくさんの貨幣を手に入れられるから「得」、お金で物を買う側の消費者は物価が上がるから「損」
ということで、消費者が損をすることになります。
では、この時代の最大の消費者といえば…、お金(あるいは米)をもらって、生産的な仕事はあまりしていない…、人口の1割程度ではあるが…?
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当時流行した「時世のぼり凧」とよばれた物価高騰のようすの風刺画。山川出版社「詳説日本史図説」P196

そう武士です。とくに下級武士なんかはインフレの被害をもろにかぶります
下級武士らが、貿易をやめろ!攘夷決行!といったのは、思想的なだけでなく、生活の問題があったのです。「貿易が始まって、ただでさえ苦しかった生活がもっと厳しくなった」って。「それもこれも、天子様の命令も聞かずに、日本全体の合意もなく貿易を始めた幕府のせいだ」って。
とりあえず、こうして開港直後の金銀比価問題にかかわる出血は、貨幣改鋳という副作用のある劇薬でなんとか止めました

なぜ、日本貿易は急拡大したのか

貿易が本格化します。そして、あっという間にその貿易額は巨額となります。

安い生糸

安い生糸(生徒のノートより)

なぜか分かりますか。
ひょっとしたら金銀比価問題で撒き餌した効果があったのかもしれませんが。
それ以上に、日本では全国的流通網が整備されており横浜に日本中の物資が集まるという構造ができていました。
江戸期の産業の発展、とくに農村での製糸業の発展を背景に、価格の安い日本の生糸(絹糸のことですよ)は欧米人の購買意欲をかきたてます。
さらに、日本中、とくに地方の商人たちのなかで仕事を拡大させたいという 意欲が、江戸後期以降、急速に高まっていました。

インド・中国と比較してみると

日本の社会と経済は、貿易の開始によって世界に結びつけられ、グローバル化によって、非常なダメージを受けます。
それが、幕末の激しい尊王攘夷運動の背景だとも言われます。日本中が激しいダメージを受けたということは日本の国内市場が成熟していたためともいえます。
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幕末の貿易の発展 輸出入ともに、急激な増加をしていることが分かる。 山川出版社「詳説日本史」P253

多くの国ではそうはいきません。貿易を拡大するため、欧米諸国がインフラを整備しなければならないからです
インドでは、大量の綿花を栽培しイギリス産の綿製品を売りつけるため、鉄道を敷き、港湾を整備し、農園を経営し、綿工業を破壊しました。そのためにも、現地の政治的権力を奪う、つまり植民地化せねばならなかったのです
イギリスなどは、中国でも人口に比べて貿易高が伸びないことに不満を持っています。ですから戦争を仕掛けて、開港場を増やしました。国内流通網の不十分さを開港場を増やすことで補おうとしたのです。ただ、中国の人々が進めたイギリス製綿糸で綿織物をつくるという企業努力については気がついていなかったようですが。
それに対し、日本はどうだったのでしょうか。開港したとたん、待ってましたとばかり商人たちが横浜の町に見本を持ってやってきます。外国製品にも強い興味を示します。余計なことをしなくても輸出品は集まるし、輸入品もはけていく。日本をあえて植民地にしてインフラを整備しなくとも、すでにある程度は整備されており、さらに貿易開始をきっかけにあっという間に貿易モードにチューンナップされてしまいました。

そしてグラフに見られるような右肩上がり、しかも急激な貿易額の上昇です

何が輸出されたのか?

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この時期の貿易(居留地貿易)の仕組み 帝国書院「図録日本史総覧」P197

横浜で生糸が高く売れると聞いた群馬県や埼玉県西部の生糸商人たちは、直接生糸を横浜に持ち込みます。
これまでは江戸の商人を経由して動いていたいくつかの商品が、江戸をパスして産地直送で横浜と結びついたのです。関東地方西部の生糸産地はあっという間に沸騰状態となり、工場制手工業(マニファクチュア)が定着していきます。
輸出品の大部分は絹にかかわる商品です。生糸が約80%、蚕が卵を産み付け たシートである蚕卵紙が3%と圧倒的です。2位は意外な商品ですが…。実はお 茶です。紅茶じゃないですよ。アメリカでは当時緑茶ブームだったみたい で、輸出額の10%に達しています。

流通の混乱

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輸出品における生糸の圧倒的な割合と輸入における毛・綿織物の割合の大きさが目を引く山川出版社「詳説日本史」P253

流通や産業が貿易モードになるにつれて様々な問題も起こってきました。

ひとつは、物の流れが変わったことです。地方の商人たちはより利益の上がる横浜を目指し、江戸をパスしました。これによって、江戸には物資が集まりませんし、江戸や大坂の商人を通じて流通を掌握していた幕府にとっても困った事態となります。そこで、幕府は1860年、生糸を含む5つの商品をいったん江戸に集めるようにという命令(「五品江戸廻送令」)をだします。しかし、せっかくの儲けをボツにされる地方の商人、さらには「自由貿易」という条約の趣旨に反する(実際は「もうけが減る」ですが・・)と主張する外国側の反発によって効果は上がりませんでした。

伝統産業への打撃

日本国内でも、いろいろなトラブルが発生します。たとえば、京都では貿易開始によって、ある産業がダメージを受け、景気が落ち込みます
わかりますか…?京都の伝統産業といえば…、清水焼と…、そう、西陣織や友禅染ですね。
西陣織の原料は言うまでもなく生糸が原料ですね。その生糸は外国が日本の相場よりもはるかに高い値で大量に買い付けてしまいます。その結果、生糸が品薄になり、価格が急騰、西陣織友禅染といった産業がダメージを受けたのです。

木綿(もめん)工業における攻防

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明治時代の貿易。 綿糸や綿織物が輸出から輸入に変わっていくのを見ることができる。 山川出版社「詳説日本史」P302

もっと厳しい状況に追い込まれた分野もあります。

輸入品を見てみましょう。さきほど1865年のグラフを示してました。ここではイギリスの最も期待していた商品が上位に並びます。1位が毛織物、日本ではあまり生産していないものでよく売れたのでしょう。2位がイギリス一押しの綿織物、5位に綿糸が入っています。3位4位は幕末の政治情勢を背景にして、武器・艦船がはいっています。なかなか工業製品が売れない中国と違って、一番売りたい綿織物などを買ってくれる日本は、イギリスにいいお得意さんだったのでした。
綿織物が入ってきます。イギリスの綿織物は機械生産ですから、国内産と比べてかなり安い、したがって貿易額が増えるにつれ、木綿にかかわる産業がダメージを受け始めます
すこし先回りをしながら話します。
最初はイギリスで織った綿織物が入ってきました。しかし日本人の好みの色でも織り方でもなかったせいか、頭打ちになっていきます。そこで活躍したのが日本の織屋さんです。日本産の糸は高いのでイギリスの綿糸を買って、日本人が喜ぶような綿織物を織るようになっていきます。ですからしだいに綿糸の輸入が増えていきます。
そして明治の中期以降になると、朝ドラの玉木宏?!さんたちの努力で大阪近辺などで次々と紡績工場を創業、綿糸の大量生産をはじめ、明治の終わり頃になると綿糸が生糸と並ぶ輸出産業となります

最先端農業・綿花栽培の崩壊

こうして綿工業は欧米の産業と対抗しながら発展していくのですが、一分野だけはどんなことをしても世界と対抗できませんでした。分かりますか。そう原料である綿花栽培です。日本では、気候的に不向きな綿花を肥料をはじめ、非常な手間を掛けて生産してきました。こんな苦労をするわけですから、価格は非常に高い、かといって質はインド産やエジプト産に劣る。こうした原料を使った綿製品が日本に大量に流れ込むのだから、太刀打ちできず、江戸時代の最先端農業であった綿花栽培は衰退、壊滅していくことになります。
同様のことは、灯油の原料であった菜種でも起こります。
こうして、開港・貿易開始というグローバル化の流れによって、日本経済は貿易モードのなかに組こまれていくことになります
日本が綿花を輸出?!
滅亡していく運命の綿花なんですが、ほんの数年間、輸出された時期があります。分かりますか?
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綿花プランテーション(アメリカ南部)大量の奴隷労働力に依存していた。浜島書店「アカデミア世界史」P227

幕末の1861年から、ある国で大変な事態が発生していました。分かりますか。幕末の最初の頃は、名前がよく出ていたのに、急に影が薄くなった国…、奴隷を大量に用いて綿花を作っている国…。そう、アメリカです。
アメリカの1861年といえば、世界史で出てきませんでしたか?奴隷解放をめぐって、国内が二分した…そう、南北戦争。アメリカは、日本が幕末の混乱で困っていた時期、南北戦争をしていたのです。ちなみに、南北戦争の戦死者は二つの世界大戦におけるアメリカ兵の戦死者よりもはるかに多いものでした。同じ国民同士が殺し合う、アメリカにとっては耐えがたい戦争だったのでしょうね。余談です。
当時、世界の最重要な工業製品は何だったでしょうか?そう、綿工業です。綿工業の原料である綿花の世界的な産地がアメリカ合衆国南部でした。ところが戦争で輸出困難になったため、背に腹は代えられないとばかり、日本から輸入しました。でも、日本産は高くて質も良くなかったので、一時的でおわります。
南北戦争、これが幕末の政局に微妙な陰を落とすことになりますが、それは別の機会に話したいと思います。

経済的観点から見ると日本を植民地化するメリットはない!

日本はなぜ植民地化されなかったのか?という問いがよくなされます。
経済的な意味合いだけでみると、余計なことをして優秀な貿易相手国である日本を混乱させる必要はなかったといえるでしょう。ただ、貿易港が九州と関東の二港(箱館もあるにはありますが)しかないのは困りもので、日本経済のもう一つの拠点、上方(関西)圏と直接結びつく兵庫(神戸)の開港は、イギリスなどの悲願であったとは思いますが。
逆に言えば、日本側が貿易に制限を加えようとすると、列強の武力行使や威嚇的行動に出なねないということです。
 先の折れ線グラフで輸出、輸入とも激減している時期があります。1864年です。実はこの時期、幕府は、朝廷に対し「攘夷をめざします」と公約し横浜港を閉じようとしていました。先にケースにあたることがわかりますね。
これに対する報復で、列強は攘夷派の拠点長州の下関に砲撃を加えます。さらに長州の行動の責任は幕府にあるとして、強硬な交渉にもちこみ、かなり高めに設定されていた関税を大幅に引き下げさせます。この事件は、長州に対するものと考えられがちですが、じつは幕府=朝廷の横浜鎖港などに対する脅しでもありました。貿易への妨害に対して、列強とくにイギリスは軍事的手段の行使も躊躇しません。さらにいつまでも兵庫開港をみとめない朝廷に圧力をかけるべく、大坂湾に侵入、圧力をかけ、攘夷方針を撤回させるに至ります。
ともあれ、開国・開港そして貿易の開始は日本に大激震を与えるものでした。そしてペリーの来航以後15年間、こうした経済・社会の混乱にも押される形で、政局の混乱がつづくことになります
 
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追記:一部加筆・訂正しました。(2022.8.23)

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