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Contents
ベトナム戦争と沖縄返還
~反戦フォークと学園紛争の時代
ある子どもの昭和40年代~ケネディ暗殺、東京オリンピック、記憶の全盛期
おはようございます。
週2時間、35週で70時間をめどに進めてきましたが、そろそろ大詰めに近づき、終わりをどうするのか、少し悩んでいます。
今やっているところは、1960年代半ば、昭和40年代となり、私も児童から生徒へという年齢になってきます。
まず、覚えているのが1963(昭和38)年のケネディが暗殺された日のこと。朝、起きると祖母が「どうしよう、どうしよう」と言っている。「ケネディ米大統領が暗殺された」から。テレビをつけると、日本初の衛星中継がケネディ暗殺を直接アメリカから伝えていました。姉もこの時のようすを覚えていました。「でも祖母はこの事件の何にショックを受けていたのだろうか、不思議だね」とも。8歳の思い出です。
翌年の東京オリンピックとなると記憶は鮮明です。小学校の畳敷きの集会室のテレビでも見せてもらいました。マラソンの円谷選手がイギリスの選手に抜かれたこと、三宅義信の金メダルが印象的でした。
そして閉会式。選手たちは国家の枠を飛び越え、自由に、「無政府的」に、楽しさを爆発させたかのように行進しました。行進というものは、きちんと前を向いて、手を振って、整然と歩くと思い込まされていましたから、強いカルチャーショックを受けました。「もっと自由でいいのだ」と子ども心に思いました。今から考えると、すべてのオリンピックで一番感動したのはこのシーンだったのかもしれません。といっても、ここ数回のオリンピックは全く見ていませんし、たぶん次のオリンピックも見ませんから・・。
小学校の頃の記憶というのはたいしたものです。カラオケで知っている曲の年代を見ると、このあたりに集中しています。たとえば1969(昭和44)年だと数十曲くらいは軽い気がします。このころ覚えた日本や世界の地名もポコッとでてきて驚くことがあります。ある意味、詰め込みをするならこの頃かもしれません。それが年を経て結合するように感じます。でも、勉強、とくに授業は苦手で、ひとり遊びや級友とのクイズの出し合い、本や漫画、新聞やテレビ・ラジオを通じて覚えたことが中心です。私自身の学習能力に多少偏りがあったことも事実で、母を悩ませていたらしいことが、後になってわかりました。
記憶の中の「ベトナム戦争」
物心がついた前後にベトナム戦争が始まりました。終わったのが20歳。
僕の子ども時代、常にかわたらに「ベトナム戦争」がありました。戦争に巻き込まれ戦場に連れて行かれるのではないかというばくぜんとした恐怖もあり、早く年を取って徴兵の年齢をクリアしたいと考えたこともありました。
ベトナム戦争が本格化したのは1965年頃「太平洋戦争はもはや昔のことでした」。でも戦争の痕跡はしっかりと残っていました。戦死した二人の伯父の法事、息子さんが特攻に行った近所のおばあさん、お墓参りのとき「怖い歌」を歌っている傷痍軍人さん、玄関先に貼られた「遺族の家」のプレート。漫画やテレビでも戦争にかかわるものがかなりありました。いろいろなものが戦争を考えさせました。特攻隊はとくに戦争での死を考えさせました。中国などで日本軍が行為もなんとなくわかっていたこともあって「その死に意味があったのだろうか?」と耐えられない気持ちになりました。今から考えると、こういう思いが歴史を勉強したいと思わせたとおもいます。
母は戦争の頃の思い出をよく話してくれました。そしていつも語りかけました。「あんな時代を味合わせたくない、あなたたちを戦争に行かせたくない」と。とくに子どもが死んでも涙を流せなかった祖母のつらさを多感な少女であった母は強く感じていたようでした。
ベトナム戦争は、それに反対している人たちの存在も強く意識させました。
そうした中の「ベトナム戦争」でした。日本から飛んでいったアメリカの爆撃機がベトナムの人々の上に爆弾を落としている、僕たちは戦争に荷担しているのではないかという思いを幼いなりに持っていました。「左翼教師に影響されたのだ」と言われそうですが、「先生は関係ない」と生意気なこの小学生は自信を持って言うでしょう。教師の影響や権威などその程度のものです。普通の公立小学校でしたし、浮いてもいませんでした。本人がそう思っているだけかもしれませんが。
「帰ってきたよっぱらい」とフォークソングブーム
小学校の高学年くらいになると、ベトナム反戦の動きはいっそう激しくなってきます。そうした動きは音楽を通じても入ってきました。フォークソングブームです。最初はカレッジフォークなどと言っていました。しかしベトナム反戦の動きの高まりとともに、ピーター・ポール・&マリー(PPM)、ジョーン・バエズ、そしてボブ・ディラン、ウディ・ガスリーなどアメリカのメッセージ性の高い音楽が紛れ込んできます。
そうした中、大きな影響を与える歌が現れました。反戦歌ではありませんよ。当時の子どもはラジオをよく聞きました。関西の子どもにとって人気があったのが、11時25分に始まる朝日放送の「ABCヤングリクエスト」(「ヤンリク」)、それを聞きながら眠るのが普通でした。そこで、爆発的ヒットとなったのがフォーククルセダーズ(フォークル)の「帰ってきたよっぱらい」です。とりあえず聞いてください。よっぱらい運転で死んだ男の話、テープを早回しにした音楽効果を用いた面白ソングです。それを聴くために、僕たちは眠い目をこすりながら起きていました。1ヶ月ぐらいつづけたかな。これはあくまでも面白ソングのジャンルでした。でもこれを手始めに、高石友也、岡林信康、五つの赤い風船といった関西フォークの存在を知りました。そこでは「平和」や「戦争」はもちろんのこと、「部落差別(手紙)」「日雇い労働(流れ者)」「受験戦争(受験生ブルース)」「主婦という生き方」「アメリカ帝国主義(アメリカちゃん)」「自衛隊」「沖縄戦」「出稼ぎ」「労働運動のありかた」「定時制高校(ままこ)」「天皇制」「性」「三億円強奪事件!!」などいろいろな題材が、ときには面白おかしく、ときには深刻に取り上げられました。冗談ソングも多かったし、今風の「フォーク」もたくさんありました。自由さ、アマチュアイズムがフォークソングの魅力でした。近畿放送という京都のラジオ局はこうした曲を重点的に取り上げていました。
「悲しくてやりきれない」と映画「パッチギ!」
2016年、大ヒットしたアニメ映画「この世界の片隅に」の主題歌「悲しくてやりきれない」はフォークルの曲でした。フォークルは南北統一を願う北朝鮮の方が書いた「イムジン河」という曲を発売する予定でした。ところが南北の対立に巻き込まれて、発売できなくなります。リアルに「悲しくてやりきれない」ことだったでしょう。そこでフォークルの加藤和彦は「イムジン河」のメロディーを逆回転させた曲をつくり、サトウハチロー(「リンゴの唄」の作詞家)の詞をのせたのがこの曲です。自分たちの思いが「政治的配慮」や「事なかれ主義」で伝わらないもどかしさ、当時、在日問題や部落問題など社会問題に良心的に取り組もうとしていた人たちの共通したもどかしさだったかもしれません。当時のフォークに放送禁止は付き物でした。
フォークソングは、熱い「政治の時代」と密接に結びついていました。
この「イムジン河」を切り口につくられたのが映画「パッチギ!」です。「イムジン河」の日本語詞を書いた人の作品が題材です。この映画には僕たちの時代のアイテムがちりばめられています。「理想の国スウェーデン?!」なんかは、おもわずニヤリとしました。また「朝鮮中学校にいった仲のよかった小学校時代の友人はどうしているかな」と思ったりもしました。ちなみにこの映画の音楽はフォークルの加藤和彦が担当しています。
「新宿西口フォークゲリラ」から「四畳半フォーク」へ
フォークは、ベトナム反戦運動や大学紛争と結びついて、大きな運動となっていきました。岡林信康はフォークの神様と祭り上げられるようになりました。新谷のり子は「フランシーヌの場合は」でフランス五月革命を歌い、詩人谷川俊太郎は作曲家武満徹と組んで「死んだ男の残したものは」を発表します。
詩人寺山修司は「戦争は知らない」をつくり、作家五木寛之は「鳩のいない村」という反戦歌で作詞大賞を受賞します。「サトウキビ畑」(寺島尚彦作詞作曲)はいまも歌い継がれています。
東京の新宿西口広場ではフォークゲリラが出没し、数千人の人が多くの人が声を合わせて「友よ」「勝利を我らに」などを歌いました。これを嫌った警察は、「西口広場ではない、西口通路だ」といって催涙弾を打ち込み、人々を追い散らしました。五木寛之の小説「にっぽん三銃士」は新宿のフォークゲリラの騒動に偶然居合わせた三人組を中心に展開していきます。
アメリカでは、ボブ・ディランが怒号の中、エレキギターに持ち替え、さらには伝説のザ=バンドを従えてツアーを行いました。これをまねて岡林も日本のロックの草分け「はっぴいえんど」を従えて演奏活動を行いました。
1970年代に入り大学紛争やベトナム反戦運動が下火になると、フォークも姿を変え、「たたかい」に「消耗」した若者たちによる四畳半フォークなどがヒットします。かぐや姫の「神田川」や友部正人の「一本道」などが典型です。こうした曲調をマスコミは「フォーク調」といいました。コマーシャリズムに囲い込まれた「フォーク調」という言い方は嫌いです・・。かぐや姫も「神田川」も普通に好きですけどね・・。
ベトナム戦争の発生
自分の昔話ばかりしてしまいました。最初に戻ってベトナム戦争から始めましょう。
ベトナム戦争は、インドシナ戦争でホーチミンらがフランスの植民地支配を打ち破ったことにはじまります。ホーチミンらがベトナム全土を支配することを嫌ったアメリカは、ベトナム南部に傀儡国家=「ベトナム共和国」を樹立しました。ホーチミンらがベトナム全土を共産主義化し、さらにドミノ倒しのように他の東南アジア諸国も共産主義化することを恐れたのです(「ドミノ理論」)。これにたいし、北ベトナムの支援の元に解放戦線がたたかったのがベトナム戦争です。
当初、軍事顧問団派遣という形で支援を行ったアメリカでしたがらちがあかず、1965(昭和40)年、ついに本格的な軍事介入に踏み切りました。
こうしてアメリカは大義のない戦争をはじめます。しかしベトナム側の抵抗は強く、1968(昭和43)年1月のテト(旧正月)攻勢でアメリカ側の失敗が明らかになりました。
さらに「政府軍」やアメリカ軍の残虐行為などがテレビなどで伝えられると、「アメリカに正義はあるのか」との問いかけがなされ、アメリカでも世界でもベトナム反戦運動が激化しました。こうして、当時の大統領ジョンソンは次期大統領選出馬を断念、和平交渉に入ります。戦争を終わること、うまく負けるほど難しいことはありません。戦争は長期化します。アメリカ軍がベトナムを撤退したのは1973(昭和48)年、「南ベトナム政府」が崩壊し戦争が最終的に終結したのが1975(昭和50)年でした。
この間、戦争はラオス・カンボジアに飛び火、カンボジアでは史上最悪の虐殺が発生します。
ベトナム戦争と日本
ベトナム戦争は、日本にも大きな影響を与えます。日本、とくに沖縄から飛び立ったB52爆撃機などがベトナムに大量の爆弾や枯れ葉剤などを投下します。
朝鮮戦争や第二次大戦に用いられたよりはるかに多くの爆弾がベトナム各地に投下されました。枯れ葉剤は遺伝子異常をおこし奇形児を誕生させました。
輸送機や輸送船は、物資を、兵士を、そして戦死者や負傷兵を運んで、日本本土や沖縄とベトナムを往復します。沖縄・那覇空港から北に向かう国道の西側岸壁にはベトナムに向かう軍需物資が所狭しと積み上げられました。空からトレーラーが降ってくるという事件も起こりました。
米兵はこれが人生最後になるかもしれないとばかりに派手に騒ぎ、また戦場の空気をひきずったままの兵士が帰ってきました。大量のドルは沖縄を潤わせましたが、トラブルも桁違いでした。
日本、とくに沖縄がアメリカを支えました。さらに日韓条約による「日本からの『援助』」で「息を吹き返した」韓国も。
韓国は、アメリカからの支援も期待してベトナム戦争に海兵隊を派遣します。かれらの度を超した暴虐な振る舞いは韓国現代史の汚点として、近年やっと語られはじめました。
日本本土からベトナムに向かう飛行機や艦船であっても、沖縄に向かうと言えば新安保条約でいう「事前協議」の対象にはなりませんでした。「新安保」は何の歯止めにもなりませんでした。
そして、ベトナム特需が日本経済を潤しました。
これがいやでした!
ベトナムの人の犠牲の上に日本が繁栄している。戦争を放棄したはずの日本が大義のない戦争に巻き込まれている。なんとかしなければ。切羽詰まった思いが人々の心に芽生えました。憲法の考えは安保闘争を経て人々の中に定着していました。
いろいろな人が、いろいろな形でベトナム戦争に反対しました。とくに有名なのが、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)です。ベトナム戦争に反対する人ならだれでも参加できる市民運動として作家・小田実や哲学者・鶴見俊輔らが中心となり結成され、毎週誰でも参加できるデモを行ったり、アメリカの新聞に全面広告をだすなどの活動を進めました。従軍を拒否して脱走した米兵をかくまって亡命させる手助けも行ないました。新宿西口のフォークゲリラもその一環でした。
1966(昭和41年)10月21日、総評は「国際反戦デー」として世界にベトナム戦争反対の統一行動を呼びかけ、国内でもベトナム反戦統一ストを行ないました。1968年の国際反戦デーでは学生たちと機動隊との間で激しい衝突がおこりました。
当時、日本中で広がった革新自治体でも動きがありました。1972(昭和47)年、横浜市長・飛鳥田一雄は相模原の基地から横浜港へ向かおうとする米軍戦車の隊列を道路交通法違反を理由に通行を阻止をはかり、最終的には市長自身が陣頭指揮に立って実力阻止に踏み切りました。
ベトナム反戦は、多くの人々の支持を得ていました。
学園紛争の激化と過激派
もっとも過激に行動したのが学生たちです。
かれらは考えます。大学も戦争と無関係でない。大学での研究が戦争に利用され荷担させられているなど、その教育や研究は、本当に平和のための、人々のための研究になっているのか。学生たちは自分たちの大学や大学生としてのあり方を問題にし始めます。こうした中、不適切な大学運営などを引き金として多くの大学で紛争が発生、1969(昭和44)年には日本の大学の80%がこの渦に巻き込まれました。学生たちは全共闘と呼ばれる組織を結成、大学の施設をバリケートで封鎖し、「帝国主義大学解体」などを叫びました。構内には各種立て看板が林立します。キャンパスのあちこちでアジ演説がなされ、デモがあり、クラス討議なども活発化、断続的に大学側との大衆団交がもたれました。全共闘に結集したのは反日本共産党系学生団体と、その主張を支持する学生たちでした。セクト間の衝突も多発、多くの、やり方をめぐる争いから暴力事件も横行、授業ができない状態がつづきました。1969年度の東京大学などの大学入試はついに中止となりました。
学生たちは、団体(セクト)を示す色を塗ったヘルメットをかぶり、タオルで顔を隠し、ゲバ棒とよぶ角材、灯油などを積めた「火炎瓶」などで「武装」し、行動しました。ベトナム反戦運動や原子力空母の寄港反対運動、成田空港建設の土地強制収容反対運動などの多くの反政府運動にかかわります。
国家の暴力には、暴力で立ち向かうとして暴力を肯定しました。各地で機動隊との衝突を繰り返しました。暴力はさらに暴力を生みます。内ゲバとよばれる過激派セクト同士の争いは、ついに殺し合いへと発展しました。
彼らの行動の背景にはベトナム戦争などへ協力している政府や財界など日本や世界のあり方への疑問があり、直接的には大学運営、教育・研究や医療など、社会が当然としてきたものへの疑問でした。同時期に世界ですすんでいる「若者の反乱」~アメリカなど世界に広がるベトナム反戦運動や、フランス五月革命などの影響もありました。さらに中国で進んでいた文化大革命への過大な思い入れもありました。
出発点においては、理想と正義感に支えられた運動でしたが、行動が過激化し、暴力と流血がくりかえされるなか、批判も高まりました。
政府は大学管理法案をだし、大学の自治を制限する形で大学紛争を解決しようとしました。紛争は、高校や中学校にも飛び火、文部省は高校生の政治活動や生徒会同士の交流などを制限しました。
最終的には、大学側などが機動隊を導入して封鎖を解除します。1969年1月の東大・安田講堂をめぐる攻防が大学紛争の頂点を示すとされています。
政府や大学当局の力による鎮圧、運動の過激化・セクト間の主導権争い、内ゲバの横行などは、しだいに学生たちを運動から遠ざけていきました。「消耗」と「しらけ」が学生や世間に広がります。学生たちは「正常化」された大学にもどり、多くが卒業して「企業戦士」となっていきました。右派の評論家などにも、このときの運動の出身者が多く見られます。
こうして大学(学園)紛争は、結果的に教育の場への権力の介入を強め、その後の学内での自由で民主的な運営を困難にしていきました。
他方、活動の場を狭められ、支持を失った過激派グループは、さらに過激な行動へと向かいます。
内ゲバはいっそう凄惨な様相をみせます。もう少し後の話ですが、ぼくの大学でもセクト間の内ゲバがあり、数人が殺されるという事件がありました。耐えられない気持ちでした。さらにこれを報じた双方のセクトのビラの非人間的な表現に耐えられない嫌悪感を感じました。
運動の過激化はさらにすすみ、1972(昭和47)年になると連合赤軍というグループが山中にこもり「総括」という名の殺し合いを繰り返したあげく一般の女性を人質を取って立てこもり警察と銃撃戦を行う事件をひきおこしました。爆弾テロを起こすグループもでてきました。こうして彼らは影響力を失っていきました。
ベトナム反戦運動の広がりと「強いアメリカ」の終焉
ベトナム反戦運動は世界中で広がります。
フランスでは、ドゴールの長期政権に反対する学生たちの動きから五月革命が発生しました。アメリカでは、ボクシングヘビー級チャンピオン・ムハメド=アリが徴兵を拒否。若者たちも徴兵カードを焼き捨てて参戦を拒否、公民権運動の黒人指導者マルチン・ルーサー・キングも反戦運動に参加します。大学紛争も激化します。アメリカ国内のベトナム反戦運動の高まりは、ジョンソン、ニクソン二人の大統領に絶望ともいえるほどの衝撃を与えたといわれています。
こうした様子はNHKが1990年代に制作した「映像の世紀~ベトナムの衝撃」がみごとに描き出しました。是非、見てください。たんに歴史というだけでなく、戦後の音楽やアートなどさまざまな面で大きな示唆を与えてくれる作品です。
ベトナム反戦運動をきっかけに、既成の秩序を疑問視し、新しい価値観をめざすヒッピームーブメントも広がりを見せました。反戦を訴えるミュージカル「ヘアー」(1967初演)が流行、長髪とドラッグが抵抗する若者のスタイルとなります。幻想的なサイケデリック芸術も広がります。環境問題やウーマンリブとよばれる女性解放運動も活発化、「ブラック イス ビュティフル」を主張する黒人解放運動はいっそう激しさを増します。1969年にニューヨーク郊外の牧場で開かれたウッドストックの野外コンサートはこうしたカウンター=カルチュアの頂点とも言うべき出来事でした。
これまで信じられてきたあらゆるものが問い直されます。映画「ソルジャーブルー」(1970)はアメリカの歴史を白人によるインディアン虐殺の歴史として捉え直し、衝撃を与えました。
若者に圧倒的な支持を得た映画「イージーライダー」(1969)のラストシーンは、南部・保守派の白人が「髪を切れ」と叫んで、バイクのヒッピー二人組を射殺するという衝撃的なものでした。アメリカの分断がみごとに描き出されます。
キング牧師やベトナム反戦を唱えたロバート=ケネディが暗殺されるなど、アメリカの分断がすすみました。
ベトナム戦争によって、アメリカは「正義」も、「国家としての威信」も、「信頼」、「豊かな資金」も、失っていきました。アメリカ国内でも深い分断を生みました。パクス=アメリカーナ(「アメリカの平和」)は終わりつつあるように見えました。
佐藤内閣の誕生と沖縄返還交渉の開始
窮地に立つアメリカを強く支えたのが、日本でした。
1964(昭和39)年・東京オリンピックの閉会式をまって池田は首相を辞職します。喉頭ガンでした。かわって首相となったのが佐藤栄作です。
佐藤は、池田同様、吉田茂のお気に入りでしたが、岸信介の実弟でもあり、タカ派的要素が強く、直前の総裁選では憲法改正に否定的な池田を強く批判していました。しかし首相となるとタカ派色を隠し、自民党内部の力関係に配慮した運営をすすめ、「人事の佐藤」とよばれました。こうして国民的人気がないにもかかわらず、長期政権を維持しました。
その佐藤が大胆な発言を行いました。1965(昭和40)年8月、戦後の首相として初めて沖縄を訪れた時のことです。佐藤は開口一番「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」と語ります。「世界の一流国」になった日本が、国土の一部をアメリカに渡したままではいけないという思いがあったのでしょう。この裏で佐藤を支えたアメリカ人がいました。当時の駐日大使、日本文化研究者でもあったライシャワーです。
戦後の沖縄~米軍による直接支配と「サンフランシスコ平和条約」
アメリカにとって不利とも思える沖縄返還をライシャワーが持ち出した背景を見ていきます。
沖縄は1945(昭和20)年の沖縄戦にまきこまれ、早いところは4月、そして6月には全島が米軍占領下におかれました。住民は収容所に隔離され、その間に沖縄は「基地の島」に変えられ、戦争終結後も維持すること、恒久基地化をめざしました。沖縄は極東ににらみをきかす最適の場所にあります。激しい戦闘でやっと奪い取った場所という意識もあったかもしれません。沖縄は本土とは別だての、米軍の直接統治下に置かれました。沖縄独自の「お金」(B円とよばれる「軍票」)も用いられます。
米軍では沖縄を日本から分離・独立させ、アメリカの影響下の置こうという検討もすすめていました。「琉球」という名が多用されたのは、こうした動きが背景にありました。沖縄内の本土出身者を本土に、本土や外地の沖縄出身者を沖縄に移す計画も進められました。朝鮮や台湾出身者に行ったのと同じやり方です。
マッカーサーが憲法九条をおいたのは、沖縄の基地機能維持を前提にしていたとの研究もあります。昭和天皇が米軍の沖縄支配をアメリカに要望した話はすでに見ました。
1951年のサンフランシスコ平和条約において、沖縄は日本の「潜在主権」下にあることは認められたものの、本土から分離され、統治権(施政権)はアメリカが持つという占領状態が続きました。
平和条約で、アメリカが沖縄統治を正当化するには何らかの理屈が必要でした。第一次大戦の反省から領土の奪い合いをやめようという流れになっていましたから。ひとつのマジックが条約に盛り込まれます。
「日本はアメリカが沖縄を信託統治することに同意する。しかし国連で提案と可決がなされるまではアメリカが沖縄などを統治することを認める」。アメリカに国連に提案して信託統治など行う気などなく、信託統治の提案がなされないま、アメリカの沖縄支配が続けられました。
基地問題の発生と「島ぐるみ闘争」
]1946(昭和21)年、県民たちは収容所を出て、ふるさとに帰りはじめます。しかし人々が見たものは、荒れ果てた大地と、基地に変貌したふるさとでした。
畑も、住居も、墓も、破壊されたり、フェンスの向こう側の近づくことのできない場所にされました。いくつかの町や村は、基地によって分断され、分村を余儀なくされました。こうした状態から、人々の暮らしが再開されたのです。
すでにみたように、本土でも反基地闘争が高揚していました。米軍はこれを嫌って基地を本土から沖縄へ移します。問題を起こしがちな海兵隊はほぼ完全に沖縄に移ります。本土の基地が縮小する一方、沖縄の基地は拡張されます。
こうしたなか、米軍は「土地収用令」をだし、一方的に土地を奪う体制をつくります。「銃剣とブルドーザー」で基地が拡張されます。これにたいし、米軍の一方的な土地収奪への怒りが爆発、「島ぐるみ闘争」と言われる激しい反基地闘争が発生しました。基地だけでない米軍の圧政全般への怒りが爆発したものでした。
米軍はやり方を一部変更したものの、これ以後も、自らを絶対君主と勘違いしたような高等弁務官の出現、米軍をめぐり頻発する事件・事故、それに対する理不尽な対応などなどは、「沖縄の怒り」を高めます。基地のない日本への復帰運動が高まりをみせてきました。
ライシャワーが恐れたのは、こうした「沖縄の怒り」です。当時アメリカは世界各地で反基地運動に直面していました。ライシャワーは、「沖縄の怒り」に同質のものを感じました。ベトナム戦争の活発化によっていっそう高まり、日米関係が悪化し、ついには沖縄基地を失うのではないか。ライシャワーはこれを恐れました。
もし沖縄の施政権を返還すれば、基地にかかわる多くの懸案は日本側に肩代わりさせることができ、「沖縄の怒り」がアメリカに向かうことも弱まる、これがライシャワーのねらいでした。
七十年安保と沖縄
ライシャワーにはもう一つの危惧がありました。
(新)日米安保条約が、1970(昭和45)年以降、破棄可能になることでした。沖縄問題がこじれて国民の反発が高まり、ついには安保条約の破棄をもとめる世論が高まることを恐れていました。これも沖縄返還をすすめる背景でした。
たしかに、多くの人が七十年安保を意識していました。ぼくの中学校の修学旅行の行き先から、東京が外されましたから。万国博覧会が開催された目的の一つは、七十年安保から目をそらすためだといわれました。
結果的に言って、七十年安保は不発でした。それはそうでしょう。新しくはじめるものを止めるのはまだ簡単です。しかしすでにつづいており、ほっておけば自動延長される条約をあえてストップするのにははるかに大きなエネルギーがいります。
それに、かつて60年安保をたたかった人々は「経済の時代」のなかで豊かな生活を享受しており、オピニオンリーダーの多くも安保賛成へと態度を変えていました。大学紛争で激しくたたかった学生たちは1969年のピークをこえて「消耗」しつつありました。過激な行動を繰り返す学生たちと、平和的に運動をすすめようとする人たちとの共闘は不可能になりつつありました。安保条約は何事もなかったように自動延長され、現在に至ります。
日米首脳会議~「核抜き・本土並み」と「密約」
佐藤の声明は、沖縄の人に複雑な感情を呼び起こします。「本土復帰はよい。しかし、沖縄にある米軍基地はどうなるのだ、基地をこのままにしたままの返還はごめんだ。日本政府が基地機能を縮減してくれるとは思えない。」沖縄では、歓迎と批判が錯綜しました。
「声明」をだした日、佐藤は訪沖反対をさけぶ沖縄県民に取り囲まれ、空港からでることすらできず、米軍基地内で一夜を過しました。
こののち、佐藤は精力的にアメリカ側と折衝します。時期はベトナム戦争がさらに激化している最中です。アメリカ側の絶対的な要求は・・「これまで通りの基地の自由使用」です。いっそう重要性が増している沖縄基地なので引き下がれない。沖縄に配備されていた核兵器の撤去、これは日本が譲れない。アジアにおいて日本はどれだけ負担をするのか、これにアメリカは注目します。
アジアにおけるアメリカ支持と、負担の拡大、佐藤はアメリカへのサービスにつとめます。
率先してのベトナム戦争への支持表明、「南ベトナム」訪問と経済援助の約束、原子力空母の本土への寄港承認、ベトナムに対抗する反共同盟・東南アジア諸国連合(ASEAN)発足への協力などなど。率先して協力につとめます。こうした実績をつくりつつ沖縄返還への道筋を探りました。もちろん自衛隊の装備の充実も進めます。
もっとも重要な会議が1969(昭和44)年11月の日米首脳会談です。焦点は、基地の自由使用と核兵器の扱いです。基地の扱いは「本土並み」となります。安保条約と日米地位協定によって米軍は基地の自由使用が認められています。しかし、狭い土地に日本全体の75%にも及ぶ米軍基地を持つ沖縄は「地位協定」のもつ意味は全く異なります。「本土並み」ということはこれまでと大差のない状態で基地が維持されることを意味していました。
基地を大幅に削減しての、基地負担の「本土並み」では決してありませんでした。さらに裏があります。韓国と台湾の「緊急時」については、「事前協議」が「不要」となりました。基地が攻撃基地となることは、攻撃される目標でもあるのです。
核兵器の扱いは難問でした。アメリカは核兵器撤去には応じたものの、緊急事態における核兵器の持ち込みは認めるように強く求めました。しかし、唯一の被爆国・日本としては決して受け入れがたい条件です。佐藤は「持たず、つくらず、持ち込ませず」という非核三原則を国民に約束していましたから、交渉は暗礁に乗り上げました。
ここで一人の人物が出てきます。若泉敬という学者です。かれは密使として両首脳の間を往復、国内的には「核抜き・本土並み」といいつつ、有事における核持ち込みを認める密約を当事者だけで交させました。
アメリカはこの時とばかりに新たな要求を出してきました。本来はアメリカが負担すべき基地移転費用を日本が持つという密約、そして繊維交渉にかかわる密約です。日本の繊維製品の進出は、ニクソンの票田であるアメリカ南部の繊維業を危機に陥れていました。アメリカはこの問題を交渉の場に持ち込んできたのです。やむなく日本は自主規制という形で輸出制限を受け入れました。察知したマスコミなどは「糸(繊維製品)で縄(沖縄)を買った」と批判しました。
こうした密約にかかわった若泉はその後自らの行為の意味に悩み続けました。そしてついに本を書いてすべてを暴露、自ら命を絶ちました。
沖縄返還とその意味
こうして、沖縄返還が実現しました。返還は1972年5月のことです。
返還式典は東京と那覇二会場で開催されました。当時のニュースは、感動して涙を流す東京の佐藤と、苦しそうな表情を最後まで緩めない那覇にいる琉球政府主席屋良朝苗の姿を映し出しました。屋良の言葉には、これからもつづくであろう沖縄の苦渋がにじんでいるようでした。
沖縄返還の意味について考えてみましょう。
なんといっても、戦争以来、アメリカに占領されていた沖縄が復帰したのです。戦後を終わらせる上で、大きな意味があったのは確かです。本土との往復にもパスポートが不要になりました。これによって沖縄と本土の往復が妨害されることもなくなりました。同じ「お金(円)」も使えるようになりました。米軍・高等弁務官などによる米軍による一方的な統治はなくなり、日本国憲法をはじめとする日本の法が通用することになり、沖縄県民は、当然のことのように完全な「日本人」としての権利を得ました。得たはずでした。
ではアメリカにとっては、どうでしょうか。確かに沖縄全体を自由に好き勝手に使うということはできなくなりました。しかし、基地はこれまで通り自由に使えますし、朝鮮や台湾への出撃はフリーパス、ベトナムへの出撃も事実上は黙認。必要に応じ核兵器も持ち込み可。それに加えて、これからは基地の維持にかかわる県民との面倒な交渉は日本側にさせられますし、基地にかかる多額の経費の多くも日本に肩代わりさせられます。日本政府の方が金払いがいいので土地代をめぐる反発も軽減できます。
このように、米軍は基地をめぐる県民との対立の多くを日本政府に肩代わりできたのです。
さらに沖縄に自衛隊が配備され、沖縄の防衛は自衛隊に任せることになります。沖縄県民の強い反発を押し切って、自衛隊の沖縄配置が行われます。
世界中でこんな快適な条件の基地はどこにもありませんでした。フィリピンなどでは多額の基地関係の経費などはアメリカが払っているのに、日本では不要です。基地の維持費用は「地位協定」によって日本がもつのは、これまで通り、さらに密約で米軍基地の移転費用も日本がみることになりましたし、1978(昭和53)年以降には駐留にかかわる光熱費や雇っている人の人件費などの経費、はてはレジャー代金まで日本側が見ることになります。これが「思いやり予算」です。
さらに米兵は「日米地位協定」によって多くの特権を持っています。任務中の米兵も「治外法権」状態にあり、墜落した米軍機などを調査する権限もありません。
軍務による入出国もフリーパスで何人のアメリカ人がいるのかを知る手段はありません。まちがえないでください。この話は沖縄だけの話ではありません。日本全体に通用する米軍への扱いが、基地が密集し米兵の数も圧倒的な比率である沖縄で集中的に現れているのです。これが「本土並み」の意味でもあったのです。
1970年代になると、財政困難に陥ったアメリカは基地を削減、日本本土でもこうした動きがある程度すすみました。しかしこのような好条件もあり、日本とくに沖縄からの撤退がすすまないのです。アメリカ側の撤退計画を、外務省などが押しとどめたということもわかってきました。
世界の米軍基地が減ると言うことは、残った基地の重要性が増すことでもあります。こうして、米軍全体の中での、日本とりわけ沖縄の基地の持つ比重が増していきます。
復帰後の沖縄
返還後も沖縄基地から米軍機がベトナムへ、ラオスへ、カンボジアへと向かいます。那覇から浦添にかけての岸壁には軍需物資が山積みのままです。
こうしたなかで、ドル(1958年以降、B円にかわって用いられていました)は日本円へと交換され、歩道と車道は左右が変更されます。県民の反対運動を押し切って自衛隊がやってきます。せっかく返還された米軍基地の跡に。沖縄の産業振興のため、企業誘致がすすみ、沖縄海洋博が開催されます。これをきっかけに本土資本が沖縄に一気に流入していきます。沖縄の「日本化」がすすみました。
他方、ベトナム和平交渉はなかなか進みません。こうしたなか、世界中を驚かせる事件が発生しました。この驚愕の中、佐藤首相は戦後憲政史上もっとも無様な辞任会見に臨むことになります。
それでは今日はここまでとします。はい、ありがとうございました。
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