戦後改革の本格化と日本国憲法の制定

青空教室 (帝国書院「図録日本史総覧」P293)

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<前の時間:敗戦とアメリカによる占領の開始

Contents

戦後改革の本格化と日本国憲法の制定

こんにちは。今日は戦後改革が本格的に進んでいく様子を見ていきます。戦後改革はアメリカの強い影響下に行われましたが、おおくはすでに日本のなかで準備がされていました。戦後改革の総決算が日本国憲法の制定です。ここにもアメリカの影響だけではく「歴史の地下水」ともいうべき伝統と、苦しい戦争のなかで生まれてきた人々の思いが隠されていました。

幣原内閣の成立と五大改革指令~占領の第二段階

1945(昭和20)年10月、東久邇内閣が崩壊するなか、元老に代わる内閣メーカーとなっていた内大臣・木戸幸一らは悩みました。いったい戦犯に該当せずアメリカが承認する人物はいるのだろうか。自分を含め大部分の人間が何らかの形で戦争にかかわっていたので。

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幣原喜重郎内閣 前列左から四人目が幣原喜重郎総理、米内光政海相、松本烝治国務相、吉田茂外相。(Wikipedia「幣原喜重郎」より

かれが、白羽の矢を立てたのが、1920年代から30年代初頭にかけて、国際協調外交を展開した幣原喜重郎でした。70代で既に引退、忘れられた存在でした。しかし、天皇の強い要請を受け、首相となることを受諾します。
幣原を補佐したのが吉田茂です。吉田は軍部から米英派とみなされ、終戦工作で一時憲兵隊に拘束された経験を持っていました。外務大臣として入閣します。
幣原内閣の誕生とともに、占領と戦後改革は第二段階へと移ります。

内閣成立に当たって表敬訪問をした幣原に対し、マッカーサーは以下の五点にわたる改革を指示しました。五大改革指令です。
①女性参政権を与えること ②労働組合の奨励 ③教育の自由主義化 ④国民を弾圧する制度・組織の排除 ⑤経済の民主主義化、

実は、憲法制定(改正)のことも言っていたのですが、前置きのように聞こえたため、あまり重視されませんでした。
しかし前回にみた憲法改正をめぐる近衛の動きが活発化すると、これに影響されて幣原内閣も憲法改正の検討へと舵を切ります。民間での憲法案をつくろうという動きも生まれます。

戦後改革の本格化

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五大改革指令と政府の対応 山川出版社「詳説日本史図説」P285

五大改革指令に従って、戦後改革の様子を見ていきましょう。
指令は突如だされましたが、いくつかは政府内で検討されており、比較的早い時期に実現したものがあります。
こうしたものとしては、女性参政権をみとめる選挙法が11月、労働組合法も12月と、すでに敗戦の年の内に制定されています。世界的にみても進歩的な内容を含む労働組合法がこのように早くも制定されたのは少し驚きです。
また治安維持法や特別高等警察といった④国民を弾圧する制度・組織は「人権指令」を受けて45年10月廃止されました。こうした法律の廃止によって政治犯も釈放されます。
非合法下に結成され、厳しい弾圧によって事実上壊滅状態にあった日本共産党は活動を再開しました。

財閥解体

戦前の日本経済最大のガンは寄生地主制と財閥資本であり、それが軍国主義の背景となっているという理論がアメリカでも大きな影響を与えていました。連合国は日本を民主化、非軍国主義化するためには、この経済基盤であるこの2つを崩さねばならないと考えました。ですから⑤経済の民主主義の具体的な内容は、寄生地主制解体つまり農地改革と、日本経済を牛耳っていると考えられた財閥の解体です。
GHQは1945年9月末から、直接財閥家族のもとにいって自発的な財閥解体を働きかけました。かれらは最初は強く反発しましたが10月中にはあいついで受け入れ、財閥家族は経営から撤退します。1947年には独占禁止法過度経済力集中排除法が制定されました。
財閥解体の背景には、アメリカ(そしてイギリスも!)が競争相手である日本企業を弱体化させるという意図もあったとも考えられます。しかし冷戦が激化すると大きな潜在能力をもつ日本経済を西側陣営にとりこむ方がよいというアメリカ側の方針変化から財閥解体はトーンダウンしていきます。

農地改革と農村の近代化・民主化

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農地改革啓発ポスター

経済の民主化のもう一つの柱農地改革はその困難さに比べ、ある意味順調に進みました。政府は10月段階で農地改革の方向を打ち出し、12月早くも第一次農地改革案がだされます。しかし内容が不十分だと考えたGHQは、対日理事会(GHQに対する各国代表からなる諮問機関)の意見も聞き、より徹底的な内容にするよう「指令」をだします。1946年10月には新たな法律が制定され、それにもとづく作業が翌1947年から1950年行われました。
農地改革の結果、日本中の小作地の80%が解放されます。農村を基盤に経済的・政治的に大きな力を持っていた地主階級が没落、農村は自分の土地を自分で耕す自作農民が中心となります。
自分の土地を得た農民たちは農業への意欲を高めました。1960年代の高度経済成長と都市人口の急増にも支えられて、農業生産力も日本史上まれにみる急速な成長を遂げました。

こうして、寄生地主制の下、大量の貧困層が日本全体の低賃金構造をつくり、国内市場の狭さや輸出依存体質が日本軍国主義の強引な海外進出へと導く温床となったとされる戦前日本の経済構造は一変します。

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山川出版社「詳説日本史」P373

地主小作関係の解消は半封建的人間関係をも変化させました。自分の土地を手にした農民たちもしだいに保守化し、社会の不安定要素であった農村は、保守勢力の安定的な地盤と姿を変えます。
しかし新たに土地持ち農民になったとはいえ、経営規模は小さく、経営は困難でした。さらに農業の急速な発展は肥料・農薬・農業の機械化とむすびつき、農業経営費=貨幣の需要増をもたらしました。こうして、一方では兼業化、他方では余剰となった労働力の放出がすすみます。土木建築などで働く人も多く、公共事業が農村を支える構造も生まれてきます。集団就職などで都市に向う大きな流れが生まれ、工場労働者などとして高度経済成長を支え、膨張する都市住民となっていきました。朝ドラで、有村架純たちが演じる役柄はまさにそのものです。おなじく農村からの人口流出ですが、戦前の家計補充型・出稼ぎ型とはあきらかに異なるものでした。

総力戦体制と戦後改革~戦後改革は米国の輸入品だったのか?

戦後改革が多くの画期的な成果を上げた背景には、戦争前からはじまり、戦争中にすすんださまざまな動きが背景にありました。
戦争は、勝利を得ることを第一義的に考えるため、伝統的秩序や理念、思惑などすべて「戦争遂行のため」という論理で破壊する性格を持っています。そりゃそうですよね。地球の価値よりも重いはずの人間の生命を奪い合い、財産を破壊し合うのですから。命の価値は暴落し、平時の倫理は駄弁とされ、最後には民族が「一億玉砕」してもいいという倒錯した考えにすらなるのですから。

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戦時下においては、戦争目的遂行のためにさまざまな経済活動が統制下に置かれ、その多くは戦後に引きつがれた。(山川出版社「詳説日本史図説」P272)

戦争の論理は、総力戦体制のなかで社会主義に似た計画経済・統制経済の導入を余儀なくし、「福祉国家」的政策も始まります。
 近衛文麿は、戦時下で進むこうした事態を「共産化」ととらえ、敗北以上に恐れていました。研究者の中には、ソ連で実施されていた「社会主義」は本来の社会主義でなく、革命干渉戦争などの中から生まれた「総力戦体制」が固定化されたものだという人もいます。ヒトラー率いるナチス党の正式名称に「国家社会主義」という名称が含まれているのは、戦争や社会危機に対応する「総力戦体制」が「社会主義」的計画経済と酷似することを暗示しています。
いくつか例を見ていきます。戦場に行った男子若年労働力の補充と増産のため、インフラ維持のための労働力の多くを女性の労働力に依存し、それによってこれまで「家」に閉じ込められがちであった女性の社会進出がすすみます。これが戦前からつづく女性への参政権付与に説得的な根拠をあたえました。

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米の配給制度は、農村における米穀供出をともない、農村の姿を変えていった。この制度は1981年まで続く。(山川出版社「詳説日本史図説」P280)

緊急の課題である食糧不足に対応して実施された米穀配給制度は社会主義的政策といってよい制度でした。米穀供出と食糧増産のためには直接生産に当たる農民の掌握が必要となります。生産に従事せず、中間で生産物を略取する地主制は米穀拠出制度の障害となります。こうして官僚主導の農地改革の計画もすすんでいました。
フランス革命など市民革命段階で大量の流血によって実現した政策、のちのキューバ革命では社会主義政権成立につながった土地改革ですが、日本ではこのように準備され、占領軍の圧力で実現しました。
軍需物資などの増産のためには労働者の協力が不可欠であり、労働者の権利拡大を進めるべきと言う考えが戦前からありました。労働組合法が敗戦の年の12月という時期に制定されたのは、こうした背景にあります。

戦後改革のなかには、このように準備されてきたものが少なくありません。官僚たちによって準備されたこうした改革、本来なら地主や資本家といった旧来の支配層の反発で潰されたはずの改革が、占領軍という支配者の力を背景に実施されました。

教育勅語と「青空教室」

これに対し、③の教育の自由主義化は時間がかかりました。

教育勅語図解読本の挿絵T140

戦争中に作られた「教育勅語図解読本」のさし絵東京書籍「日本史A」p140

近代日本において、教育は軍国主義をすすめる大きな手段でした。教育勅語に示されたように、「非常の場合には天皇のために命を差し出せ」(「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」)という考えが教育全体を覆い、その考えが学校を覆っていました。
道徳にあたる「修身」、歴史である「国史」、「国語」、さらに子どもたちが大好きな「唱歌」などが大きな役割を果たしました。「体操」は軍隊教育の前提でした。学校行事も天皇制を支える大きな役割を持っていました。
戦争が活発化すると、先生たちは子どもに兵隊や満蒙開拓義勇団などへの志願を強く勧めました。
学校教育、そして教師が軍国主義に、戦争遂行に果たした役割は大きなものでした。学校や教師はA級戦犯」でした。現在の教育現場は、戦争に対して学校や教師が果たした役割に、少し鈍感になっていないでしょうか。

戦争が終わったのは8月、夏休み中でした。そして9月新学期が始まりました。学校が空襲で焼けてしまったため、「青空教室」となります。雨が降ればお休み、午前・午後の二部制で対応しました。
変な話ですが、ぼくは子どもの頃、この「青空教室」にあこがれていました。なんか感じよくないですか、「青空」って。自由で、希望にあふれているみたいで。ぼくが小学校にいた昭和四十年前後、すでに学校は堅苦しく、しんどいと感じていたみたいですね。単にずぼらだっただけかな。勉強もできないくせに、知ったようなことをいう、変なガキでしたから。

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青空教室 (帝国書院「図録日本史総覧」P293)

さて、学校が再開します。休み前は「天皇にために命を捧げよ」と教え、体罰を繰り返した教師たち、どういう顔で子どもたちの前に立ったのでしょうか。もと教師として気になるところです。ある教師は、生徒の前で土下座して「間違っていた、許してくれ」と涙ながらにわびたといいます。しかし、「これまでのことは間違いです。今から教えることが正しいことです。では授業を始めます」とばかり、簡単に態度を変えた人が多かったと言います。当然のこととして、反発を持った子どもたちもいたといいます。
教師や偉い人の言うことは信じないことにした」という「元」子どもの文章を見ることも多いです。
それでもあまりにひどいと考えられた教師は追放(「クビ」)になりました。

教育基本法の制定と六三制の導入

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墨塗り教科書 軍国主義的、天皇主義的と考える部分に墨を塗るように指示した。 帝国書院「図録日本史総覧」P293

まず問題となるのが教科書です。休み前まで使っていたものは戦争を賛美する内容ばかり、どうしましょう。
先生たちは、まず墨をすらせます。「○ページ△行目からつぎのページすべてに墨を塗りなさい」とか「□行目の軍艦に墨を塗って、横に貨物船と書き換えなさい」とかいったのです。戦争にかかわるもの、天皇中心と考えた部分を墨で消させました。あまりに長いところは紙を貼らせました。こうして教科書は真っ黒、貼り紙だらけになります。これを「墨塗り教科書」といいます。面白かったという人、いやだったという人、手が真っ黒になった、など感想は分かれます。

それでも、「修身」「国史」「地理」の3科目は「どうしようもない」として教えることが禁じられます。翌年になるとこどもたちに「くにのあゆみ」という歴史の教科書がわたされました。最初の部分は考古学にもとづいた内容となり、人々のくらしなどにも目を配った内容となりました。ちなみに縄文時代などの存在は明治の初めから知られていたのですが、学校では神話や天皇のために尽くした人の話ばかりが教えられていたのです。

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山川出版社「詳説日本史」P374

アメリカでは、戦争中から日本の教育制度が軍国主義の温床であると考えており、改革案が考えられていました。そして1946年来日した教育使節団と日本の関係者の間であらたな教育のあり方が検討され、日本側の意見を多く取り入れた使節団報告がだされました。これに従う形で話が進みます。そして、憲法の理念を実現するための教育の根本理念が検討され、1947年それを前文に、教育基本法が制定されました。さらにこれまでの複線型の教育制度を、六三三四制の単線型の制度に改める学校教育法も制定されました。
そして戦前の軍国主義教育を象徴する「教育勅語」は、1948年「国家が国民に真理を押しつけようということ自体が誤りである」として議会で失効・排除が宣言されました。

アメリカは日本をどのように変えようとしていたのか? ~「東洋のスイス」

アメリカそして世界は、日本をどのように変えようとしていたのでしょうか。アメリカや連合国にとって日本は予想以上の強敵でした。硫黄島や沖縄での米軍の被害の大きさは衝撃的で、本土上陸では大量の戦死者が出ることを覚悟していました。「バンザイ突撃」や特攻などにみられる生命無視の戦い方は理解不能で恐怖すら感じさせました。
アメリカ、そして空襲や捕虜虐待の被害を受けたオーストラリアなどの連合国のねらいは、この恐ろしい敵である日本軍国主義を二度と復活させないように、日本の中から根だやしにすることでした。
こうした願い(勘違いや思い込みも多かったのですが)が、連合国の日本占領の内容を規定します。

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マッカーサー 日本を「東洋のスイス」にすることをめざしていた。

占領の第一段階軍隊の武装解除と戦争犯罪人の逮捕でした。武装解除にめどがつくと、第二段階になります。日本軍国主義を支えていたシステムを破壊し、非軍事化と民主主義化・自由主義化をすすめることです
マッカーサーは「日本を『東洋のスイス』にする」にといいつづけています。日本が平和主義に基づく永世中立国「スイス」のような国になってほしいという思いからだといわれます。

しかし「スイス」は経済面からみると「小国」です。マッカーサーは軍国主義政策を支えた日本の工業力の回復には消極的でした。日本の工場の設備を引っぺがして、アジア諸国への賠償金代わりにしようとしていたとも言われます。財閥解体には日本経済の弱体化をはかるという面も隠されていました。
こうした目的で五大改革指令がだされました。この意図をくんで改革に取り組んだのが、戦前から親米英派として名高い「自由主義者」である元外務官僚幣原喜重郎吉田茂でした。ここに戦争終結と軍の武装解除において圧倒的な存在感を見せつけた「自由主義者」としての昭和天皇をくわえてよいかもしれません。

憲法改正への動き~近衛文麿と松本委員会

昭和天皇は、東久邇はもちろん、幣原以上に事態を把握していたのかもしれません。天皇は、天皇制を維持(「国体護持」)のため様々な手段を講じます。天皇はポツダム宣言を受け入れた以上、明治憲法のままではすまないことを最も早くから理解していました。そのため、同様の理解をもっていた近衛に憲法改正を託しました。天皇は近衛を嫌っていましたが・・。近衛はマッカーサーの信任を得て憲法改正作業を始めます。天皇は作業の進捗状況を非常に気にしていたといわれます。しかし、近衛は12月戦犯に指定されて服毒自殺、憲法改正作業は挫折します。

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松本烝治 幣原内閣で憲法担当大臣をつとめた。 (Wikipedia「松本烝治」より)

他方、占領が第二段階に移る絶妙の時期に昭和天皇はマッカーサーを訪問、信頼関係を打ち立てました。GHQとくにマッカーサーとの関係を強化し、その支持を得て天皇制維持=「国体の護持」をはかろうとしたのです。
憲法改正をめざす近衛の動きは幣原内閣をいらだたせます。幣原は国務大臣で商法の権威の松本烝治を中心に美濃部達吉ら東京帝国大学の研究者をあつめ憲法問題調査委員会(松本委員会)を発足させます。しかし松本も美濃部も憲法改正には消極的であり、のちに憲法学の権威として新憲法擁護の中心となる宮沢俊義らこの委員会に集められたメンバーの多くも小幅な改正でよいと考えていました。

憲法調査会~自由民権運動の地下水を憲法に

このころ、一民間のグループが憲法案を作ろうと集まりました。

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憲法研究会の草案要綱は、日本国憲法の「象徴天皇制」や「人権規定」などに大きな影響を与えたと考えられている。(東京書籍「日本史A」P157)

憲法研究会です。大物ジャーナリストや在野の学者、近衛のブレインで政界の黒幕までも結集、精力的に話し合いました。まとめ役は若手憲法学者の鈴木安蔵です。自由民権期の研究者であり植木枝盛らの私擬憲法がこの案に大きな影響を与えたといわれます。
国の統治権は国民にある」と明記し、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」ものとして多くの制約を課すなど、象徴天皇制の内容を先取りした内容です。社会権・生存権など自由民権運動の「魂」も地下水のようにこの案に流れ込んでいます。この案は年末に公表され、政府とGHQに届けられました。GHQの担当者はすぐ翻訳し、「いくつかの修正をするだけで十分に使える」という高評価を与えました。
なお、会の中心メンバーの一人、高野岩三郎は天皇制廃止・共和制という独自案も提出しました。明治憲法以前に青年時代を過ごした高野は、新憲法を明治憲法以前のもの、自由民権期の憲法案を引き継ぐものとして構想していました。

GHQ草案の作成

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日本で育ったベアテ=シロタは、憲法に女性の権利を盛り込もうとした。

松本委員会に、旧軍の軍務局長が意見を寄せました。「『天皇が軍を統治する』という規定を削除してほしい」と。宮沢などのメンバーも「平和国家一本槍でいくべき」と軍隊条項の削除を主張します。しかし松本は拒否、独断で明治憲法と変わらない憲法草案をまとめていきます。
1946年2月1日、毎日新聞がこの松本委員会の草案をスクープしました。この草案の内容を知ったマッカーサーは覚悟を決めます。「日本政府案を待っても無駄だ。自分たちで草案をつくって日本側に提示しよう」と。会議室に25名のスタッフが集められ、マッカーサーが示した「①天皇を最高位とする②戦争廃止③封建制度廃止」の3つの原則にもとづき、約一週間でGHQ草案を作成することを命じました。8つのグループに分けて不眠不休で原案を作成します。22歳のベアテ=シロタは東京中の図書館から世界の憲法を集めるとともに、少女時代に聞いた日本の女性の悲惨を救おうと女性の権利を憲法につぎつぎと書き入れました。しかし細かすぎるとして大部分が削除されました「ひとつの項目が削除されるたびに不幸な女性が増えていくと感じた」。シロタはのちにそう語りました。
こうして、憲法委員会案や世界の憲法、さらにスタッフの思いをもとにGHQ草案が、わずか1週間という期間でつくられました。

GHQ草案の提示と政府案の作成

この間、松本案が政府案として提出され、2月13日GHQからその回答を受け取ることになっていました。

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東京書籍「日本史A」P163

しかしGHQ側の対応は松本にとって信じがたいものでした。「松本案は受け入れがたい。GHQが草案を準備した。この案の骨格を維持した政府案ならば天皇を守れるだろう」「もし政府がうけいれないならばGHQ案を直接国民に案を提示することになる」。政府側は大混乱となりした。内閣はぐずぐずと時間を浪費した挙句、「やむを得ない」として最終的にうけ入れ、GHQ側と調整して原案をつくり、さらに作家山本有三らによる口語化もおこなって、1946年4月17日政府草案がとして完成させました。
しかし政府草案において、GHQ草案の骨格は維持していましたが「国民主権」が別の言葉に置き替えられ、人間全般をさす「すべての自然人」ということばは「国民」と限定されていました。
多くの問題も含みつつも、政府草案が公表されます。この草案が4月10日の総選挙で選ばれた議員らによって審議がされます。

なぜ憲法制定を急がせたのか~憲法1条と憲法9条

なぜこのような強引に憲法制定を進められたのでしょうか。マッカーサーはある意味追い詰められていました。

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形式的には11カ国で構成される「極東委員会」が日本占領の方針を立てる最高機関であった。(東京書籍「日本史A」P148)

連合国、とくにオーストラリアとソ連は強硬に戦犯として天皇の訴追する事を要求、アメリカ国務省も天皇の戦犯としての調査を要請してきました。
独裁者マッカーサーすら「天皇を守り切る」ことは困難になりつつあったのです。1945年12月、GHQの上部機関として連合国11カ国からなる極東委員会の設置が決定されました。憲法制定など重要案件はここで討議されます。この委員会が機能し始めれば、天皇の訴追が主張されるのは確実であり、憲法においてもより厳しい主張がおこなわれるのは明らかでした。
マッカーサーは極東委員会が動き出す前に「日本人」が憲法草案をつくったという体裁をとりたかったのです。天皇制を残し、天皇制に否定的な国も納得するクオリティーのものを。それが憲法草案作成を急いだ理由でした。政府草案ができると、マッカーサーはそれを大急ぎでワシントンに運びました。
天皇制は残すが儀礼的な存在とし統治権を奪う。さらに戦争を放棄し軍隊ももたない。このような軍国主義的な色彩を排除する憲法を作ると言っているのだから、天皇制を維持させてほしい。これがマッカーサーの本音でした。
こうした事情を松本らは理解せず愚かな草案を出し、恥をかくことになったのです。

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幣原喜重郎 憲法9条の戦争の放棄と戦力不保持は幣原首相の提案といわれる

こうした事情を天皇はよく理解していたような気がします。絶妙のタイミングで「人間宣言」をだしました。

憲法9条の発議は幣原首相?

憲法9条は幣原の発議であった」という説があります。平和主義者・幣原がパリ不戦条約などの精神を憲法に持ち込もうとしたという説です。否定的な意見が多かったのですが、どうも本当らしい。「天皇制を維持するためにどうすればいいか」という話し合いの中で、幣原が「戦争と軍隊の放棄を憲法に明記したらどうだろうか」とアイデアを出し、「よいアイデアだ」とマッカーサーが受け入れたと考えればあり得るようにも思えます。この段階で軍隊は存在せず、憲法草案からの軍隊条項の削除は松本委員会の中でさえ考えられていたのですから。
幣原は秘かに松本案は通用しないと考えていたのかもしれませんね。

新憲法と昭和天皇~最近の新聞記事から

2017年5月3日付けの朝日新聞は、2月22日幣原首相と宮沢俊義ら貴族院のメンバーと天皇が会見した席上で、草案を見た天皇が「これでいいのじゃないか」と答えたという宮沢のメモの存在を報じました。「やはり」という気がします。形式はともあれ、天皇制は維持できたのですから。天皇も松本案では無理だと分かっていたのでしょう。
憲法9条における「戦争の廃止、軍備の放棄」は天皇制維持と裏表の関係という面も持っていました。

「ほとんどの日本人が賛意を示しています」~「天皇」は守られる。

マッカーサーの強引なやり方に、アメリカ国務省も極東委員会も大きな衝撃を受けます。それはそうでしょう。自分たちを無視して勝手に進めたのですから。でも内容は悪くない。とりあえず4月の総選挙の延期を命じました。憲法草案を十分周知徹底させたのちに選挙すべきというのです。しかしマッカーサーは日本政府と結んで、この命令を無視、総選挙を強行しました。

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衆議院で憲法改正案説明する金森大臣(1946年7月1日) (国立国会図書館「日本国憲法の誕生」より)

危機感を持った米国務省はコールグローブという人物を派遣します。しかし、彼が日本で見たのは、マッカーサーを信頼し、憲法草案を支持しつつ、よりよいものにしようとする国会内外の人々の姿でした。そして本国に報告を送ります。「自分が会った知的関心の高いほとんどの人が憲法に賛意を示している」「時宜に適い、賢明なものであったと確信する」と。
憲法草案は日本人の中で早くも認められつつあったのです。
国務省も極東委員会も、さらには日本国民も、マッカーサーの「先制攻撃」にしてやられました。アメリカ政府は憲法についてはまったく関知しておらず「憲法はアメリカ政府の押し付け」という言い方は誤りです。
「先制攻撃」の成功をうけ、戦争犯罪者を裁く東京裁判の首席検察官キーナンは、6月ワシントンで「天皇を裁判にかける気はない」と言明しました。マッカーサーの勝利でした。こうして天皇と天皇制は守られました。

国会での審議と修正、そして日本国憲法の制定

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憲法制定の過程 帝国書院「図録日本史総覧」(P288)による

憲法草案にたいして、国会で活発な論議がなされます。
政府が「国民主権」という言葉の使用を嫌って「国民至高の総意」とぼかした部分には、「主権は天皇か、国家か、国民か」という厳しい質問が浴びせられ、GHQの介入もあって「主権の存する日本国民の総意」と明確に国民主権と規定されます
9条においては反対意見はあまりなかったといいます。それどころか「戦争の放棄、戦力の不保持にとどまるのは消極的だ」という意見から「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という一文を挿入し平和憲法の性格をより明確にしました。この一文の挿入には、党派の垣根を越えた議論がなされたことが近年公開された史料で明らかとなっています。平和を希求することは党派を超えた人々の願いでした
他方、小委員会の委員長を務めた芦田均は一項目と二項目の間に「前項の目的を達成するために」という一文を挿入しました。この一文がのちに自衛のための戦力保持が合憲という根拠となりました。芦田の訂正が意図的であったかどうかは、現在でも意見が分かれています。
このような国会での活発な議論と修正を経て日本国憲法は46年11月3日に公布され、6ヶ月後の47年5月3日に施行されることになりました。

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憲法には、人類の、日本の自由獲得の歴史がつまっている!

現在、憲法改正をめぐる議論が活発化しています。「おしつけ憲法だ」とか「日本人がつくった憲法ではないからだめだ」という議論も多く見られます。

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文部省発行「新しい憲法のはなし」より (東京書籍「日本史A」P157)

たしかに、国際情勢などを背景とした駆け引きやごまかしなどもありました。GHQの力が大きかったことはいうまでもありません。「押しつけ」と見える点があるのも事実でしょう。
しかし、多くの人が、党派を超えて歓迎したことは見逃してはならないと思います。その背景には、戦争はもうこりごり、軍部の横暴は許さない、戦前のような社会は許されないという人々の思いがこもっていました。日本軍国主義復活を嫌う世界の人の願いもこもっていました。
憲法には、自由民権運動の伝統など日本での自由と人権を求める運動はもとより、世界の人々が多くの血を流しながら手に入れてきた人権宣言や憲法の精神が流れ込んでいます。ベアテ=シロタのように隷従的な立場に置かれた日本の女性への思い、自由民権運動以来の自由と民主主義を求める思いも流れ込んでいます。ベアテ=シロタは言いました。「自分の国の憲法より素晴らしいものを渡しました。それが押し付けといえるのでしょうか」

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憲法制定にともなう法改正(帝国書院「図録日本史総覧」p292)

憲法第97条は次のように記しています。この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

憲法が制定されて70年が過ぎました。私たちは憲法に定められた諸権利、それから派生した諸権利をあまりに当然のように、空気のように、社会のインフラとして享受し、生活しています。憲法はいつのまにか、コンスティチューション(constitution)の元々の意味である「構成」「構造」「組織」「体格」「体質」として私たちの血肉になっていると感じます。
日本国憲法以前はこうではありませんでした。基本的人権は認められず、天皇の奴隷=「臣民」でした。憲法によって何が変わったのか、これまでの歴史のなかで考えてほしいと思います。

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憲法の制定に伴った民法の改定で前近代的な「家」制度は解体され、女性の地位は向上した。当然のこととして姦通罪なども廃止された。(山川出版社「詳説日本史図説」P289)


憲法12条にはこの憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」としるされています。
現行憲法にも、もちろん不十分な点はあるでしょう。しかし多くの場合、憲法の不十分さというより、憲法を生かし切れない私たちの側に問題があることが多いのです。憲法の精神に戻って考えれば、正解がでることが多いと思います。
教師となったとき、憲法を守ることを誓約しました。正直に言って、そのときの私には、それが重要なこととは思えませんでした。しかし、いまになって、このことの意味を強く感じます。私は憲法に込められた思いを受け継いでいきたいと思っています。
<次の時間:焼け跡と闇市、そして戦後民主主義
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追記:憲法制定の様子を描いたNHKのドラマ「憲法はまだか」(Youtube)にUPされています。憲法史研究の第一人者古関彰一監修ジェームズ三木脚本のこのドラマはキャスト陣の熱演もあり、素晴らしい出来です。押し付け云々を議論するのなら、是非見て欲しい作品です。また、’17年になってNHKハイビジョンで放映された「アナザーストーリーズ「誕生!日本国憲法~焼け跡に秘められた3つのドラマ~」は、ベアテ=シロタ、憲法研究会、伊豆大島で創られた大島憲法という3つの視点から憲法を描いたもので、素晴らしい出来でした。是非、見られることをお勧めします。

 

 

 

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