<前の時間 日露戦争への道(2)>
Contents
日露戦争(1) 戦争の経過
日露戦争について(復習)
おはようございます。
日露戦争を2回に分けて見ていきたいと思います。
前半の今日は戦争の経過を見ていくことで、具体的な戦争がどのような論理によって動かされるのかを見ていきたいと思います。
まず、日露戦争の概要についてまとめておきます。
戦った国:日本vsロシア
戦争の期間:1904(明治37)年2月~1905(明治38)年夏まで
当時の首相:桂太郎(長州出身の軍人)
戦争の原因:北清事変においてロシアが満州へ駐兵。
これを朝鮮進出の危機ととらえた日本が反発
※シベリア鉄道開通の影響力拡大を日英が懸念
主 な 戦 場 :「満州」(中国東北部)南部、樺太、黄海・日本海
戦争の終結:ポーツマス条約
戦争の結果:①日本による韓国の保護国化→植民地化
②日本の南満州への進出
③日本の強国化、列強とくに米との対立激化
④アジアにおける民族運動の活発化
など
開戦
戦争は1904年(明治37)年2月8日、日本海軍による韓国・仁川のロシア艦船攻撃と、旅順軍港・ロシア太平洋艦隊への奇襲攻撃で始まります。
ロシアは2月9日、日本は2月10日正式に宣戦を布告します。
しかし、これに先立ち2月6日釜山や鎮海湾で、7日には仁川で海軍などの事前行動がみられ、この日、陸軍も仁川に上陸、ソウルをめざし行動を開始しました。
事前に韓国は中立を宣言していたのですから、国際法上、問題のある行動です。
なお、戦争中の韓国との関係については、次々回にまとめてみたいと思います。
日清戦争も、日露戦争も、宣戦布告前に攻撃をした形になりした。日本側は2月6日東京でロシア公使に、モスクワで日本公使が、それぞれ国交断絶の最後通牒を手渡しており、手続きは踏んでいると理解していました。ロシア外相はこうした文書の意味を理解できなかったのですが。
ただ、日本は東京からの電信網を一時的に遮断、ロシア公使からの電信はモスクワにも旅順にも届かないようにするなどかなり悪質です。ロシアは日本側の攻撃を予測はしていましたが、全面的な戦闘を仕掛るというのはことは予想外でした。
準備万端整えて戦争に臨んだ日本、不意を突かれたロシアという形で戦争が始まりました。
宣戦布告で戦争が始まるとの国際法は日露戦争後に確立されたもので、この時点で必須条件ではありませんでした。
したがって日本の奇襲は、このときはあまり問題になりませんでしたが、国際法が整備された37年後は大問題になりました。今でも、原爆投下などアメリカの戦争犯罪などを追求されると、かれらの口からでてくるのが宣戦布告前の奇襲への非難です。かれらはいいます。「リメンバーパールハーバー」、真珠湾をおもいだせって。
戦争の開始と補給問題~シベリア鉄道と朝鮮海峡
陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸、北に、韓清国境に向けて進撃します。
つづいて第二軍が遼東半島の南部に上陸、日露の大軍が「満州」南部で死闘を始めます。
日本の方が戦場にはるかに近いため輸送は楽に見えますが、実際にはロシアの方が楽(正確には「安全」)でした。
大部分が自国領を横切るシベリア鉄道に兵隊と武器弾薬を積んで運べばいいのだから。
ロシア軍の全体の兵士の数は日本と比べものにならないほど膨大であり、装備も恵まれていました。「湧くように現れる」イメージです。それが鉄道を通じてぞくぞくと送られてくるのです。
なぜこんな国に戦争をふっかけたのか、それも鉄道が原因です。
シベリア鉄道はほぼ完成していましたが、バイカル湖の迂回線など難工事が残っており、鉄道が全面的に開通すれば、それこそ勝ち目はない「それまでにたたけ!」と参謀本部などは考えたのです。
実際、ロシアの鉄道輸送には別の問題も発生していました。単線の鉄道で大量の輸送をするためのノウハウが不十分でした。引き込み線も少なく、往路と復路の行き違いで多くのトラブルが発生して渋滞、車両数も不足気味でした。
日本側は鉄道が完成しフル回転するまでに戦いたいと考えていました。実際、鉄道による大量輸送が日本軍を苦しめたことに間違いはありません。
日本はどうでしょうか。
客観的に輸送についての条件はロシアよりはるかに厳しいものがありました。
具体例をあげます。
戦争が始まっての4ヶ月後、兵士を満載した常陸丸という輸送船が玄界灘でロシア・ウラジオ艦隊の攻撃を受け撃沈しました。その結果は、1063人兵士・乗員が犠牲になるという大惨事です。タイタニックの死者が約1500人ですから、この規模がわかるとおもいます。輸送船が沈没するということは、非常にダメージが大きいのです。ウラジオ艦隊は次々と輸送船などを沈め、日本は、兵員も武器・弾薬など、食料を失いました。さらに朝鮮東部の軍港元山に艦砲射撃を行い、ついには東京湾の入り口にまでやってきて輸送船を攻撃しました。
ウラジオ艦隊はわずか三隻の巡洋艦からなる艦隊です。かれらは日本軍の追撃をかわし、神出鬼没の活動を展開、海上輸送とくに軍隊への補給を大混乱に陥れました。もしもっと多くのロシア艦船が日本沿岸に出現、日本の海上交通を攪乱すれば、日本軍は完全に敗北し、それこそいくつかの港を奪われたはずです。
日本軍の弱点は、大陸で戦争を進めるには安全に海を渡る事ができなければならないこと、海とくに大陸への輸送路である朝鮮海峡(玄界灘)、黄海の制海権を得なければならないことでした。
しかし日本の弱点と考えると、日本が島国で、全土が海に面しているいうことです。もし制海権を奪われれば、日本列島あらゆる場所が攻撃の対象になるのです。
実は江戸後期以来、この恐怖心が日本を動かした面もあったのです。
この事態が発生したのが、アジア太平洋戦争末期です。アメリカの潜水艦が沿岸にも出没し、漁船を含む、さまざまなタイプの船を襲いました。国内の海上輸送すらマヒし始めたのです。
海軍の仕事の基本は、制海権の確保と海上輸送を守ることです。ところがアジア太平洋戦争での日本海軍はこの仕事をほったらかして、海戦での勝利を第一に考えました。
補給路(シーレーン)をめぐる攻防
日露戦争にもどります。日本軍にとって玄界灘・朝鮮海峡から黄海といった補給路(軍事的には「シーレーン」というらしい)を守ることが戦争をつづける前提条件です。
この海域の制海権を確保することは、同時にウラジオから旅順というロシアの海のルートを切断することでもありました。
ですから、この海域の支配が日露戦争のみならず、幕末以来の歴史・国際関係の焦点となったのでした。
ロシアは、幕末には対馬に軍港を確保しようとし、それ以後も、朝鮮南部(あるいは東部)に軍港を確保しようとしつづけ、ロシアの基地ができれば大陸へのルートが脅かされる考えた日本、中国進出を嫌ったイギリスが危機感を持ったのです。
とくに1898年旅順・大連(「関東州」)の租借権を獲得すると、ウラジオと両港を結ぶ中間地帯へのロシア基地がいっそうもとめられ、これを阻止すべく暗闘が繰り広げられたのでした。
そして日露戦争直前、日本海軍が暗闘の焦点であった鎮海湾(馬山浦)を占領しました。
旅順の獲得が生み出した緊張
旅順大連の租借の結果、旅順での軍港建設と旅順への補給路の確保、このテーマがロシア極東政策を左右していました。
補給路としての鉄道確保の必要性が南満州への軍隊駐留を長期化させる、朝鮮北部を拠点とした日本軍が侵入してくることへの恐怖が朝鮮北部における緩衝地帯設置を要求させ、ロシアの手による鴨緑江開発を着手させました。海のルート確保が馬山浦の獲得をめぐる対立を生みました
こうした一つ一つがロシアに対する日本側の警戒心を生みました。警戒心は新聞などによって増幅され、日本社会を神経症的な状態に追い込みました。あおったはずの政府すら、制御不能になっていきます。
自らの行動が日本での過剰反応を引き起こす危険性をもっていることに、ロシアは無神経でした。アジアの小国日本が大国ロシアに牙をむくことはあり得ない、軍事行動に出たとしても朝鮮半島にとどまるという根拠のない過信があったのです。
ロシア太平洋艦隊とバルチック艦隊
こうした動きを頭に置くと実際の戦闘の意味が見えてきます。
日本軍が宣戦布告さえ行わないうちに獲得しようとしたのが、対馬海峡から黄海に向かう海域の制海権であり、障害となる朝鮮西岸・仁川に停泊中のロシアの艦船排除であり、両国が獲得をめざしていた朝鮮海峡に面した良港、鎮海湾(馬山港)の占領でした。さらに旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊主力)に打撃を与え、その戦闘能力を削ぐための旅順港内への奇襲作戦でした。
次に必要となるのが、旅順艦隊の動きを抑え、制海権を握り続け、陸軍の兵力輸送を助けることでした。
ロシア旅順艦隊が旅順港にとじこもったことは、陸軍の行動を容易にしました。しかし、同時に海軍の大艦隊を旅順沖に貼り付けることでももありました。それは別の意味で新たな問題を引き起こします。
巨大な国土をもつロシアは、国土が面する三つの海それぞれに海軍を置いています。旅順(およびウラジオ)を拠点とするのが太平洋艦隊で日本海軍にはやや劣るが新鋭艦中心のロシア最強の艦隊です。バルト海にはほぼ同規模のバルト(バルチック)艦隊、さらに黒海にも艦隊がありました。ロシアはこの二つの艦隊も日本との戦争に投入しようと考えました。
日本にとっての悪夢は、この艦隊が日本近海に現れ、太平洋艦隊と合流すること、実現すれば、その規模・装備は日本を圧倒し、日本沿岸を危機に陥れます。したがって、早い時期に最小限の被害で太平洋艦隊を壊滅させ、準備を整えてやってくるバルチック艦隊と戦うという難しい戦い方をしなければならないということになります。
ところがロシア艦隊は旅順からなかなか出てきません。バルチック艦隊の来襲をまっているのです。海軍に危機感が生まれます。そこで考えたのは旅順港の狭い港口です。ここを封鎖すれば港内の船は出てこられなくなる、これが旅順港閉塞作戦でした。
しかしロシアにとっては織り込み済みでした。日本軍は三度に作戦を実施しますが失敗をつづけ、三回目にいたっては無事収容されたのが参加者の1/4強という惨憺たる結果となりました。また2回目の作戦で戦死した広瀬中佐は「軍神」として讃えられました。
ロシアの補給路の寸断と旅順攻略戦
ロシア艦隊が旅順港にこもったことは、陸軍の上陸作戦を容易にしました。
第二軍は大連東方に無血上陸に成功、南山でロシア軍を破り、補給路を切断、大連も占領、旅順は孤立化します。
旅順の孤立というロシアの危惧が現実化しました。
守備隊をおいて兵糧攻めにし、大部分の軍でまだ兵力が準備できていない北方のロシア軍と戦うのが陸軍の計画でした。
ところが海軍からの要望が作戦を狂わせます。
バルチック艦隊到着までに太平洋艦隊を壊滅させたい。ついては旅順港を陸側から攻撃してほしいというのです。
これをうけ、陸軍は第三軍を結成、旅順要塞攻略を開始しました。司令官には乃木希典のぎまれすけが選ばれます。
乃木は長らく日露戦争の英雄とされてきました。
ところが司馬遼太郎の『坂の上の雲』のヒットがそれを一変させました。この作品で、乃木は、工夫もないまま正面突破作戦に固執、莫大な犠牲者を出した無能な司令官だというのです。逆にこうした評価が定着しました。
歴史家山田朗氏はやや同情的です。バルチック艦隊の来襲予測から逆算したスケジュールが乃木に無謀な作戦を強要したというのです。このため、乃木は十分な調査や準備、計画もたてないまま戦闘を開始、大きな犠牲を出したのです。
かつて『二〇三高地』という映画がありました。戦争の理由などの描き方はかなりひどいものですが、戦闘シーンは見る価値がありました。山の上に多少の砲撃では壊れない頑丈なコンクリートでトーチカが作られ、その窓からこの戦争で本格的に使用され始める機銃などが日本兵を狙う。ルートは鉄条網などに覆われ、さらに遮蔽物もない状態で突撃し、次々と斃れる。
旅順ではこうした戦い方がつづけました。
本来なら塹壕などでルートを確保しつつ、トンネルなど地下からの攻撃もおこなうというのが定石ですが、時間が迫られたため、無謀な突撃を命じざるを得なかったのです。
そのつけが、膨大な犠牲者数でした。
その後、日本軍は苦闘の後、二〇三高地という高台を占領、太平洋艦隊を全滅させました。
すでに多くの艦船はすでにスクラップ同然でしたが。
161日間の戦闘における日本軍の死者は15390人、43914人の負傷者、さらに約3万人の疾病患者の犠牲者がでました。ロシア側もこれに匹敵する犠牲者が出ました。
ともあれ、旅順艦隊の壊滅によって、日本海軍は旅順包囲の役割から開放され、ヨーロッパからやってくるバルチック艦隊への対策に専念できるようになりました。日本の制海権を脅かしていたウラジオ艦隊もこのときまでには壊滅されていました。
火力主義と情報ハイテク戦争
陸軍は誤算続きでした。
旅順攻略との二方面作戦を強いられたことで、ロシアの補給が進まないうちに兵力でも圧倒して勝負をつけるという参謀本部の当初の計画は破綻しました。
さらにドイツ教官仕込みの火力主義と機動戦という戦術も弾薬不足で不可能になりました。
この作戦で戦われた南山の戦いでは三万発もの砲弾が消費されました。この量は半年間でつかう予定量、国内生産の三ヶ月分の生産量でした。これを二日で使ってしまったのです。犠牲者も多く、参謀本部は一桁間違っているのではと思ったそうです。
これ以降、日本軍は慢性的な弾薬不足のなかで戦闘をつづけます。南山の戦いで歩兵が用いた銃弾が平均89発であったのにたいし、翌年3月の奉天会戦では6発に過ぎませんでした。
他の戦場では銃弾を撃ち尽くした両軍が石を投げ合いました。弾薬不足から連続的な攻勢に出ることも、撤退するロシア軍を追撃することもできず、大きな打撃を与えるチャンスを失いました。
不足する兵器や弾薬はイギリスとドイツに大量発注することになりました。工業力が未熟な日本がドイツ流の火力主義を実施することには無理がありました。
こうした状態の中でも、陸軍は勝利を積みあげていきました。
8月末にはじまる遼陽会戦は日露両軍35万人が参加する世界史上まれな戦いとなりました。この戦闘で、日本軍は兵力面で勝るロシア軍にたいし攻勢を加え、勝利を手にしました。
山田朗は、将兵の質と練度の高さ、電信・電話を利用した共同作戦と連携に勝因を見いだそうとします。
部隊が移動するのと並行して電信・電話線を引いたため、各部隊の連携が保たれたというのです。
『坂の上の雲』では、司令部の命令などで各部隊が連携して動くシーンが描かれますが、その背景には電信・電話の理由があったのです。
ロシア側からすれば連絡不十分のため攻勢のチャンスを逸し、撤退せざるを得なかったということになります。
近代戦の技術をいち早く導入したことも日本軍の優位を作っていました。
あいつぐ会戦の中で
遼陽会戦のあと、両軍は、南満州の平野部、北は奉天(瀋陽)から南は遼陽の間でにらみあいがつづきます。
その間に、沙河・黒溝台の大規模な戦闘がつづきます。
日本軍は、ロシア軍の攻撃を耐え抜いて、結果として占領地を拡大するという状態がつづきました。
この時期になると、弾薬の不足に加え、中・小隊長クラスの将校の戦死があいつぐなど将兵の消耗と兵力不足がすすみます。将兵の質と練度の低下がすすみました。こうして、相手方の撤退という絶好のチャンスをのがす結果となりました。
日本軍が優勢は、ロシア側の問題の結果ともいえます。
ロシア軍の場合、有能な将校・兵士と沿い例外のばらつきが大きく、質(練度)より量を頼りにしたいたと山田はいいます。日本軍は欠陥があったとしても電信などによる連携で修正できたのに対し、ロシア軍はこうした修正が困難でした。
奉天の大会戦
ロシア軍32万人、日本軍21万人、50万人以上の兵隊が参加する、第一次大戦以前では世界最大の戦い奉天の会戦が1905年3月発生しました。
10日間にわたる一進一退の熾烈な激戦が繰り広げられ、日本軍は崩壊寸前にまで追い込まれますが、最終的にはロシア軍が撤退し、日本軍は奉天とその周辺を占領しました。
戦闘が終結した段階で、日本軍は砲弾・銃弾のほぼすべてを消費しており、ロシア軍を追撃・撃滅することに失敗しました。
日本軍の死傷者は70028人、ロシアは60093人・行方不明29330人ですが、参加兵力における合計の割合はともに28%でした。
形の上では日本の勝利ですが、ロシア軍は総兵力の3/4を温存しており、シベリア鉄道の輸送力も改善されてきたことから、兵員の補充や武器弾薬の補給もすすみました。国内にはまだ十分な予備兵力がありました。
これに対し、日本軍の兵員補充は限界状態でした。訓練を積んだ指揮官や将校の戦死が相次ぎ、その欠乏は深刻でした。こうして奉天会戦以後、陸軍は戦い続けるだけの力を失いました。奉天会戦は「惨勝」とさえいえるような勝利だったのです。
日本陸軍は、もはや持ち駒を使い果たした状態であり、ロシアが攻勢に出れば持ちこたえることはもはや困難でした。
こうして「早く講和を進めてくれ」という悲鳴のような声が届きはじめます。東京では、もっとすすんで占領地を広げられないかとの作戦も検討されていたのですが…。
なぜロシアは撤退したのか?
ロシアの動きをもうすこしみておきます。ロシア軍の総司令官クロパトキンは陸軍大臣時代、南満州とくに旅順大連から撤退し北満州を固めることを主張しつづけてきました。こうした気持ちが戦闘の指導に反映したことは予想できます。
ロシア(ソ連時代も含む)は二度にわたり世界史を変える戦いに勝利しました。一度はナポレオンのロシア(モスクワ)遠征、今一度は第二次大戦における独ソ戦です。
この二回の戦いの共通点は敵軍をロシアの大地深くまで引きずり込み、ロシアの厳しい冬(冬将軍)の力をかりて相手の動きを止め、反撃するやり方です。こうした歴史の経験(とはいえ、この段階ではナポレオン戦争の経験しかないが)がクロパトキンの頭の中にあったとも考えられます。
戦略的撤退と強弁しても撤退は撤退で、客観的には敗北と判断されます。しかも戦闘対象相手は、天才ナポレオンでなく弱小日本です。士気はいちじるしく低下し、国内の批判も高まりました。世界もロシアの敗北を論じ始めています。
こうした責任を取る形で、クロパトキンは更迭されます。その後、鉄道の整備が進み兵力の増強も進みました。
にもかかわらず、ロシアには再び攻勢に出る余裕、日本と戦いを続ける余裕はなくなりつつありました。
ロシア第一革命の発生
相次ぐ敗戦はロシア国内の厭戦気分を高めていました。
はるか東方の聞いたこともない地域で、聞いたこともない国との戦争です。国民の関心を買うわけがありません。しかも国内体制が整わないなかで予想外の戦争を仕掛けられたのです。それは皇帝と側近の失政が引き込んだ「皇帝の戦争」でした。
曲がりなりにも国民の支持を得て戦う日本とは事情が違います。にもかかわらず、戦争の負担は同じように国民に転嫁され、生活を窮乏化させました。とくに敗退を繰り返す戦局への不満は、皇帝を中心とするロシア帝国のあり方への批判へとつながっていきました。
ロシア国内では帝政のあり方への批判が高まり、政府高官へのテロ活動なども頻発、内務大臣も暗殺されました。反戦デモが公然と行われ、憲法制定や国会開設を求める声も高まってきました。
そうしたなか1905年1月には、司祭ガポンが率いた平和的な請願行動に対し軍隊が発砲するという血の日曜日事件が発生します。これをきっかけにロシア第一革命と呼ばれる革命運動がロシア各地で発生、ストライキ参加者は1月段階で44万人にも達します。
海軍でも水兵たちの暴動が発生しました。国内は騒然とし、日本との戦争どころではなくなっていました。
日本海海戦~バルチック艦隊の「悲劇」
バルチック艦隊が日本に近づいてきたのはこうした時期でした。
1904年10月、バルト海に面するリバウ軍港を出航したバルチック艦隊は、ヨーロッパでは日本の同盟国イギリス海軍の脅威を感じつつ日本に向かいます。スエズ運河が使えないロシア艦隊はアフリカ沿岸を南下、赤道を越え、アフリカの最南端の喜望峰を回るルートを余儀なくされます。イギリスの妨害工作のため入港できる港がなかなか見つからない航海です。同盟国のフランスの植民地さえ冷淡な対応をとります。寄港も困難で、休息を取ることも十分な補給もできず、慣れない気候の中で伝染病なども発生します。
このようなフランスの素っ気ない対応の背景には、同盟国のはずのフランスが敵の同盟国イギリスに接近しはじめていたのです。このため、バルチック艦隊は招かれざる客だったのです。
好意的な態度をしたのは、ロシアの関心が東方へ向かうことを期待しているドイツだけでした。
彼らの航海は、旅行やビジネスではありません。戦争に行くのです。ところが、それまでの過程で苦労をかさね、やっとベトナムのカムラン湾に到着したのが4月です。
6ヶ月を超える航海で乗組員の疲労が蓄積、ロシア帝国の縮図でもある身分制など前近代的な社会関係は、ストレスを蓄積させ、さまざまなトラブルを引き起こしました。船にもフジツボなどがびっしりと付着し、運航能力を劣化させました。
ベトナムを出港したバルチック艦隊は上海沖で石炭を船に積み込みます。それは海上での積み込みです。買いすぎというほどの量の石炭は船の速度をさらに遅くしました。積み込み作業は水兵たちを疲労させていました。こうした最悪の状態で戦闘海域に接近したのです。
これに対し、日本海軍は旅順の海上封鎖終了後、準備に万全を尽くしていました。休養も十分でした。
33,340キロもの長大な距離を半年かけて航行し、兵士も艦船も疲労困憊というバルチック艦隊の前に出現したのは、こうした日本海軍でした。
戦闘は世界の海戦史上珍しいほどのワンサイドゲームに終わりました。
ロシアの艦船のあるものは撃沈され、あるものは航行不能になって自沈、あるものは降伏して日本船に拿捕されました。ウラジオについたのはごくわずかでした。
彼らの航海はいったい何だったのか、無惨な死だけのために、二万キロ以上の苦しい航海をしたのだと考えると胸がつぶれそうな気がします。
こうして、陸軍では戦闘能力を保持しているものの、ロシア側もこれ以上戦争をつづけることは困難となりました。すでに戦争終結にむけてのプログラムが動き始めていました。
<次の時間 日露戦争(2)ポーツマス条約と「国民」>
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※本稿は2020年6月にUPした新版です。
2016年度版「世界初の近代戦争~日露戦争の発生」(旧版)は
以下のリンクから見ることができます。
※書籍・映画を除く図版で注記のないものは、海野福寿『日清・日露戦争』(集英社)のものを用いさせていただきました。
※2022/07/21訂正・加筆