<前の時間:幕府の滅亡と戊辰戦争>
Contents
明治維新(1)明治初年の改革と廃藩置県
前回までが、時代でいえば江戸時代、今日からが明治時代となります。
維新政府のめざしたもの~欧米に追いつけ追い越せ
自分たちの命令は天皇の命令!
そうでしょう。多くが外様大名の家の下級武士、この時点で30代を中心とする若者。伊藤博文に至ってはまだ20代半ばです。そんな連中が日本全体を動かそうというのですから。
こんな混乱期に。いや混乱期だからこそ…。
では、どんなマジックでこの課題に立ち向かったのでしょうか。そう、すでに実験済みのあの方法です。「錦の御旗」という一枚の布きれで幕府を打ち破ったあのマジックで…。
新政府は
明治初年の改革
外交関係の樹立~神戸事件・堺事件
列強からすれば、外国人を斬り殺したり、大砲を撃ち込んだりした藩を中心に、攘夷の総本山であった天皇をかついで、新政府を立てたのだから、非常に心配でした。「条約破棄とか貿易中止とかいってこないだろうか」と。
実際、「新政府ができてやっと攘夷ができる」と息巻いている時代から取り残された人々もいました。
1868年1月、はやくも事件が起こります。神戸で岡山藩士と外国人の間でのトラブル、神戸事件です。
天皇が姿を見せる、しかも外国人の前に!
思い出してください、孝明天皇は外国人が日本の地に足を踏み入れることすら嫌っており、攘夷を主張した。それをきっかけに幕末の混乱になったのですよ。
にもかかわらず、攘夷を唱えていた連中が、外国人を京都に迎え入れ、自分たちすら顔を見ることのできない天皇と会見させたのです。ある歴史家は「幕府の方がはるかに骨のある対応をしており、新政府の方が外国に甘かった」といういい方をしています。
「神話的」天皇から「絶対君主」としての天皇に
天皇はこれまでは、御所の奥に、ちょうど神社のご神体のように隠れていて、特定の人以外はだれも姿を見ることのできない存在でした。ところが、新しい時代の天皇は、日本を代表して諸外国の代表と面会し、国民に対しても命令を下し、国民はそれに従います。
ぼくが大学で勉強していたころ、こうした天皇の姿を「絶対主義的天皇制」といういい方で説明していました。世界史で学んだフランスのルイ14世やドイツのフリードリヒ大王のようにすべての権力を集中し、その命令ですべてが動く形です。
しかし、明治天皇をこのような絶対君主と同一視することは難しいと思います。天皇が自分の考えで判断し命令していたようには思えないからです。
「開発独裁政権」としての明治政権
彼らは、軍事力などで政権を握り、強権的な権力を背景に、人権や民主主義も犠牲にして産業や軍事の近代化改革をすすめた第二次世界大戦後のアジアのリーダーたちに似ているような気がします。1960年代の後半以降、韓国やインドネシア、マレーシア、シンガポールなどは非常に似ています。
五箇条の誓文
この文書のでき方を見るといろいろなことが見えてきます。
当初は天皇と各大名が相談し、内容を確認し合う形式が考えられ、第一条も「諸侯会議をおこし」と、具体的な内容が書かれていました。ちなみに「諸侯会議」とは大名の会議のことです。
しかし、新政府内部の反対と戊辰戦争の進展もあって「広く会議をおこし」と一般的な文章に変えられました。発表のやり方も、天皇が、公家・大名ら「百官」を従えてこれを神に誓い、その後、参加者全員が署名する形にしました。
意味分かります?天皇が、日本中の人々を代表して神に誓う、天皇が最も偉く、他の人はそれよりも低い地位であることを確認させたのです。
第四条には「旧来の陋習を破り、天地の行動に基づくべし」との文言が見えます。この条文は木戸孝允が最終段階で書き加えた分です。いったい「陋習(ろうしゅう)」(古くいやしい習慣)とは、何をさすのでしょうか?かつては「鎖国攘夷」をさすとされてきましたが、最近はそんなに限定せず「これまでの日本のあり方全般」を指していたとの意見が強いようですす。
この二つの条文をまとめてみると、「日本は欧米諸国より劣っており古くさいルールや考えがあふれている。だから世界の知識を学び、本来のあるべき道を考え、日本の発展を図らなければならない」という風によめます。
こうして天皇を中心に、これまでのルールを改め、「文明開化」をすすめるという方向が示されました。また「開国は国家方針」ということを知らせ、外国勢力を安心させる意味もありました。
五榜(ごぼう)の掲示
五箇条の誓文がだされた翌日、日本中の高札場(町や村の中心にある広場。お上の命令が立て札という形で建てられる場所)に五枚の立て札が立てられます。これを「五榜の掲示」とよびます。
この立て札には「上の人への忠義を守れ」とか、「人々が集団を組んだり、集団で要求したり、勝手に逃げ出してはいけない」とか、「キリスト教の禁止」とか、江戸時代と変わらない新政府の民衆に対する方針がかかげられていました。
キリスト教に対しては、明治になってからの方が厳しい対応がされます。これについては、別の機会に話します。
新しい立て札が立てられるときは、名主とか庄屋とか、町でいうと町行事とかいわれる村(町)役人が人々を集め、内容を読みながら説明するルールとなっていました。このときも、そうしたのでしょうね。
明治初年の改革~一世一元の制
そして、慶応4年9月8日、明治天皇(正式には45年後、死後正式にそう呼ばれる…)の即位式がおこなわれ、「明治」という元号が定められます。同時に一世一元の制が定められ、一人の天皇が一つの年号をもつというルールができます。
ちなみに現在の天皇を平成天皇などという人がいますが、そのようなおくり名は、天皇が亡くなったのちにつけるのであって、正式には「無礼ないい方」です。「今上(きんじょう)天皇」が正式ないい方です。死語に近いですが…。
だから、いいたいときは平成の天皇や今の天皇くらいでごまかすのがいいでしょうね。
ちなみに天皇にかかわるルールは、新しい天皇像をつくるなかで生まれたものが多く、明治あるいは大正に始まったものが多いのです。天皇は火葬しないのが伝統とかいいますが、江戸時代の天皇は火葬し、菩提寺である泉涌寺(せんにゅうじ)に葬られ、位牌も作られています。
東京遷都~「天皇の変身」
江戸時代、天皇は、人々の前に姿を現わすこともなく、必要なときもすだれごしに話を聞きます。御所の奥深くにいて、女官や少数の公家に囲まれ、政治や社会、軍事などとも基本的には無関係で。外の話は取り巻きの公家を経由して聞く、これが、江戸時代までの天皇でした。
そこで天皇改造計画が実施されます。
ちなみに、天皇はこうした連中が大好きだったみたいです。十代後半の若者が、若者らしく扱ってもらえたのですから、うれしかったでしょうね。酔っ払って山岡に相撲をしかけようとするなど、かなりやんちゃなところもあったみたいですよ。
こうして世間から隔離されていたひ弱な少年は、近代国家日本のの主権者、大日本帝国皇帝、帝国陸海軍大元帥へと育てられます。
明治あたりの京都の人は「天皇さんは長い間東京に旅行に行っておられるけど、本当の都はやっぱり京都なんや」と思い込もうとしたみたいです。
幕藩体制から中央集権体制へ
「版籍奉還」
幕府直轄であった幕領(天領)の大部分などが新政府の直轄地とな り、そこに府・県がおかれ、中央から行政官が派遣されます。
しかし、それ以外は、大名が統治する藩のままで、基本的には今までどおりの 政治を行っています。藩主の下に、年貢を集め、藩士に配り、という…。
たしかに天皇中心の新政府が生まれました。そして天皇の名でいろいろな改革に取り組まれ、藩にも改革が命じられます。とくにむりやり戦争につきあわされ、そのやりかたを押しつけられたことはショックでした。前に使ったいいかたではマウンティングされたのですね。戊辰戦争に参加した藩士たちによる下剋上の動きもつよまります。他方、「幕府の時と同様、できるだけ受け流したい」という姿勢や殿様にお伺いを立てて動きたい。「天皇の命令といってもどうせ薩長が勝手にいっていることだ。」という気持ちもあります。
改革をすすめようとする新政府の立場からすれば、それぞれの藩に新政府のいうことをしっかり聞かせる仕組みが必要になります。
そこで新政府は一つの作戦をたてます。
幕藩体制下でおこなわれていた「大名は土地と人民をいったん新しい支配者に返して、契約を結び直して改めてもらう」というルールを使うのです。そして、もとの主人である藩主に「自藩の土地と人民を天皇にお返しします」と申し出させました。それを見た他の藩も我先にと同じ申し出をします。
これに対し、各藩の代表者会議に諮った後、政府はいいます。「それでは藩主を知藩事という役人に任命しよう。給料は藩の収入の1/10。陸海軍でつかう金を9%政府に払え。残りで運営せよ。ちなみに藩士の給料も減らせ。役人になったのだから政府の命令をよく聞くように!」
こうして、独立国の国王であった藩主は天皇に任命された役人とされました。ちょっとだまされた感じがしたかもしれませんね。
この出来事を版籍奉還といいます。
「版」とは地図を指しており、藩が持っている領地の意味です。「籍」は戸籍 のことで、戸籍には住んでいる人間が記載されていることから藩の支配下にいる人間を指しています。「奉還」は大政奉還の時やったように「(天皇様に)かえし奉ります」という意味。土地と人民を天皇に返すという意味です。
こうして政府は役人である旧藩主に次々と命令を出せるようになります。軽いクーデタといえるかもしれませんね。
士族の反乱、農民の一揆、諸藩崩壊、社会騒然
長州ではあんだけ頑張ったのにあっさりとリストラされてしまった奇兵隊などが反乱を起こし、木戸らによって大量に処刑されます。
社会は騒然とした情勢になっていきます。
いくつかの藩では借金がかさみ「藩をやめたいのですけど」と申し出ます。政府の予定以上に「いきすぎた?!」進歩的な改革を進める藩もでてきて、足並みがそろいません。
廃藩置県のクーデタ実施
「このまま手をこまねいてダメになるぐらいなら、藩を廃止し、中央の命令が末端まで届く中央集権的な日本につくり変えよう」と。
こうした荒技をするときに頼りになるのが西郷です。西郷は戊辰戦争がおわると、薩摩に戻っていました。そこに岩倉が天皇の命令をもって薩摩までいって「非常時だから助けてくれ」と頼み、西郷はお気に入りの土佐の板垣退助もつれて東京へやってきます。そして薩摩・長州・土佐から一万人の軍隊を集め、西郷と木戸の二人に権力を集中し、命令を出します。「世界と対抗するため、藩を廃止して県をおく」(「廃藩置県」)と。
具体的にはこうです。
かわって県がおかれます。半年後、整理統合され302の県が72県となります。その県に中央から県令(現在の知事)が派遣されます。多くは薩長土肥出身の若者たちです。かれらは、土地や人々への執着もなく、中央の威光をかさに、上の命令に忠実な強引な統治を行います。こうして中央の命令は、かつての藩というカベを失い、一人ひとりの庶民にまで伝わるようになります。
藩がうしなわれたことは、政府と対抗しうる組織も消滅したことを示します。
人々にとっての「廃藩置県」
一般の庶民にとっても、これまでの殿様がいなくなり、隣の藩なんかとひとまとめにされ、訳の分からん若造が我が物顔に乱暴な政治を行う…。
多くの人々にとっては、大政奉還や王政復古よりはるかに目に見える重大な変革だったでしょう。
「こんな無茶をするのだから大混乱となるだろう」とリーダーたちは考えていたのは当然です。王政復古のクーデタのときよりも緊張していたのかもしれません。だからこそ、西郷が復帰し、薩長土のオールスターキャストをそろえ、いつでも軍隊を派遣、鎮圧できるように準備したのです。
しかし、結果は思わぬものでした。目に見えた反対は特になし。藩主は、華族という身分と藩の収入の1/10という金ももらえ、東京で仕事もせずに暮らしていけるだから、こんな楽なことはありません。ただ一人、すねてしまった人がいます。島津久光です。かれは「大久保にだまされた」といって、一晩中、鹿児島湾で花火を上げさせたといいます。そして東京へは行かず鹿児島に残ります。
廃藩置県のもつ意味~地方分権から中央集権へ
幕藩体制の下で、人々は藩という小さな国や地域に分断され、その枠の中で、生き、働き、考え、死んでいきました。
これによって日本は幕藩体制という地方分権社会から、明治国家という中央集権社会へと生まれ変わりました。
ヨーロッパでこれほど時間が掛ったことを、わずか1日で実現させました。
なぜ廃藩置県は成功したのか?
まず第一にペリーが来る以前に、日本に、経済的・文化的なまとまりが、さまざまなレベルでできていました。これがベースになります。
それにくわえて、欧米列強と対抗するためには日本が一つにならなければならないというある種の共通理解もあったのでしょう。戊辰戦争で見せられた新政府の暴力と内乱をさけようという意識、天皇にはさからえないという思い。そして藩を残すべき意味がみいだせなくなってきたこと。
簡単に言うと、すでに藩という存在が時代遅れになっており、熟し切った実がボトンと落ちるそんな時期だったというのがもっとも適当な気がします。
「国民」創出のための二つのカベ~身分制解消
江戸時代の人々はさきにみたようにアイデンティティのひとつを藩など地域に求めました。行政や地理的条件によって分かれていました。いわば「ヨコのカベ」とでもいうべきものです。このカベは、先に見たように廃藩置県でなくなりました。
しかし、もう一つのカベがありました。
人々は身分という「タテのカベ」でも隔てられていたのです。
身分制解消をめぐる動き
江戸時代の身分秩序では、政治とくに国政には参加できるはずのない人々でした。
それが、「すべての人間は天皇の民である」といった国学思想や、「日の本の危機」といった危機意識などに依拠しながら行動していたのです。
対照的に見える新撰組も、長州の奇兵隊も、自分の身分から脱出し武士になりたいというなどのエネルギーを組織化して形成されたものでした。
幕藩体制というシステムがすでに時代遅れになっていたように、身分制も耐用年数を超えていたのです。
身分制と軍隊
日本中を敵に回した長州藩がなぜ勝利したのか、それは奇兵隊をはじめとする諸隊という近代的な軍隊が形成されていたからです。近代的な軍隊では指揮官の命令一下、集団として行動することが要求されます。
もし、軍隊の論理に身分の論理を組みこめば何が起こるでしょうか。「なぜ100石取りの武士である自分が、足軽ふぜいと同じ行動をせねばならないのか」とか「あのような家柄のものの命令を聞くのは断る。身分が高く、代々指揮官の家柄である自分が命令をすべきだ」といった意見が出ます。さらに「我が家は槍で家に仕える身分、鉄砲のような身分の低いものが持つ武器はことわる」という人も出てきました。
軍制改革を進めようとした幕府が苦労をしたものこういった点でした。幕府では仕方なしに、旗本を用いた近代軍をあきらめ、農兵や火消し、「日用」といった日雇い層など、武士以外の人間を用いて軍隊の編成をすすめました。戊辰戦争で戦った旧幕府軍の兵士の背中には見事な入れ墨をいれた人が大量にいたことに驚いたという記録が残っています。
こうしたことは、農工商を守って戦うべき身分のはずの武士がその役割を果たせなくなったことを示しており、近代国家にふさわしい軍隊は、身分を超えた国民軍でしかないことを示していました。
奇兵隊などが強かったのは身分を超えた国民軍の性格を持っていたからです。ついでにいえば新撰組も身分を超えた実力主義に立っていたからこそ、強かったといえるのかもしれません。
「四民平等」
ぼくは、まずこの時点でいったん切って、この意味を押さるべきだと思います。江戸時代の身分制の解体ができ、まがりなりにも「タテのカベ」を解消したことを評価すべきではないかと思います。
あらたな身分=「華族」と「士族」
しかし、この段階で藩(のちには政府)から「給料」(俸禄)をもらっていた武士を平民とはできません。大名たちを取り込み、武士との離反を図るという意味では「華族」という身分を作ることも合理的でした。
そして、士族(武士)たちは秩禄処分や廃刀令などで特権を失い没落、身分としての特権は「士族」という族称ぐらいしかなくなります。
「解放令」と部落問題の成立
「『新平民』という身分ができた」という人がいましたが、そんな身分はありません。新しく平民になったという意味の「差別用語」で「士族」のような公的な身分にはありません。
たしかに、旧えた身分の人への差別が残ります。江戸時代よりはるかにひどい差別がなされるようになったという方が正しいかもしれません。
それは、えた身分が残ったというような単純なものではなく、江戸時代、周囲から差別をうけていた身分の人たちへの差別を残したまま、特権がなくなったため働く場が限定されて貧困状態におかれる、資本主義の矛盾が覆い被さった近代の問題です。これが部落問題です。
江戸時代のように差別が当然という身分秩序の一環であった差別とは別の問題としてとらえた方がいいでしょう。むつかしいことをいいましたが、この点はいずれ説明したいと思います。
「四民平等」の限界は明治維新の限界でもある
だから「四民平等」といったテーマは、近代国家を形成する上での副次的なテーマであり、主なテーマにとって必要な部分の改革はなされますが、主テーマにとって不要な、あるいは邪魔な改革はなされなかったのです。部落問題が残ったのもこの部分に原因があると思います。
「自由・平等・友愛」といった市民革命の主たるテーマは、明治維新の主たるテーマからはかなり離れていたため、この時点ではあまり問題となりませんでした。ですから「思想・信条の自由」を核とする基本的人権といった観念もまだでてきません。
「四民平等」はこのように多くの保留つきで、身分という「タテのカベ」を解消し、国家の構成員たる「国民」をつくったと思います。