大正デモクラシー~社会運動の発展~


Contents

大正デモクラシー

民本主義と普通選挙獲得運動

なぜ護「憲」運動なのか?

大正時代は、大正デモクラシーということばがあるように、民主主義的な風潮が広がった時代だといいました。

しかし、明治憲法は厳然と存在、国民は天皇の臣民であり、国民の権利は法律によって制限され、国民の立場に立つ政治などは困難にみえる時代です。
このような憲法、このような時代なのに、なぜ国民は「憲政擁護(憲法にもとづく政治体制を守れ)」という護憲運動を行ったのでしょうか。デモクラシーといわれるような民主主義的な風潮が広がったのでしょうか。そもそも明治憲法に人々が守れというほどの価値があったのでしょうか。

それは明治憲法下においても国民の立場に立った政治は実現できると考えた学者があらわれ、その考え方が時代の常識となったからです。

吉野作造の「民本主義」
その一人が吉野作造です。吉野作造は留学をきっかけに世界のトレンドはデモクラシーだと学んで帰国、日本的な民主主義のありかたを「民本主義」という言葉であらわしました。

「民本主義」吉野作造([中央公論」より) 帝国書院「図説日本史通覧」P

「民本主義」吉野作造([中央公論」より)
帝国書院「図説日本史通覧」P254

吉野はいいます。「たしかに憲法では日本の主人公(主権者)は天皇であり、国民が主人公という意味の「民主主義」は日本になじまない。しかし、普通選挙制を実現し、議会で多数を得た政党が政権を運営するというルールが定着すれば、国民の意見を反映した国民本位の日本的な民主的な政治が実現する」こう主張したのです。
国民本位の政治をめざすので「民本主義」といいます。

美濃部達吉の「天皇機関説」と「護憲」

もう一人は美濃部達吉です。
美濃部は帝国憲法の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ、此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」(4条)という条文をもとに
天皇は元首であるが、同時に憲法に従って政治(統治権)を行使する機関ともいえる」。したがって「国家の機関である以上、天皇も国家意思に従わなければならない」と、明治憲法を立憲君主制の憲法として読み替えました。
そして議会を通じて示される国家の意思に天皇も従うべきだと考えたのです。
この憲法解釈を天皇機関説といい、大正から昭和の初めまで憲法学界の通説となりました。
護憲運動の「護憲」はこのような読み方をした明治憲法体制を守れという意味なのです。
立憲主義を死守しようとした?伊藤博文
余談です。なぜ明治憲法にこのような読み方ができるスキがあったか?

「大日本帝国」原本 Meiji Kenpo04.jpg

最近の研究によると、憲法作成に当たった伊藤博文たちは「支配者の力にたいする歯止めをもたないものは憲法とはいえない」という立憲主義上の常識をもっていたおり、この常識を欠いた憲法は近代憲法とはいえないと考えていたことが明らかになっています。こうした歯止めがない憲法では条約改正交渉で近代国家とみなされないとして、この条項を死守したといわれています。
なお、伊藤は第三条に示されたような絶対主義的な天皇規定には消極的だったともいわれています。
明治憲法制定について、明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)~憲法と帝国議会(2)という文章も書きました。よければご覧ください。

普通選挙獲得運動の高まり

こうした考え方に支えられ、国民の意見を国会に正確に反映させ、そこで示された国民の意思に従って政治を進めようという考え方が広がり、
普通選挙制を要求する人々(国会前)1919 帝国書院「図説日本史通覧」P251

普通選挙制を要求する人々(国会前)1919
帝国書院「図説日本史通覧」P251

国民の意見をできるだけ正確に反映できるような選挙制度、納税額などの制限がなく、全員が一票の権利を行使できる選挙制度普通選挙制を実現しようという運動が広がりました。
この運動をすすめるべく、吉野は1918(大正7)年黎明会という団体を率いて全国を遊説し、積極的に普通選挙実現の運動を進めました。
学生たちも新人会などの学生団体を結成します。こうして普通選挙獲得運動は、1919(大正8)年ごろを中心に、大きな盛り上がりを見せるました。

大戦景気下の国民生活と「米騒動」

好景気・都市化の下での国民生活

前の時間、大戦景気で日本中が好景気に沸いていたといいました。しかしその恩恵を得られなかった国民もいました
物価の急騰と賃金の上昇 帝国書院「図説日本史通覧」P250

物価の急騰と賃金の上昇
帝国書院「図説日本史通覧」P250

好景気は都市化の急速な進展もあって米をはじめとする物価の高騰につながります。
他方、賃金の上昇のペースはにぶく、実質賃金(賃金ー物価)が低下していきました。

この結果、なかなか仕事にありつけない人、日雇や職人など日銭で暮らしている人、昔ながらの仕事に就いている人、このような好景気の恩恵をうけにくい人々、収入増も期待しにくい人々が、とくに物価高のダメージを強くうけました。
そうした人々の耳にも、大戦景気で大もうけした人、成金の話などが入ってきます。腹の虫が治まらなかった人も多かったでしょう。
好景気で贅沢の極みの生活をしている人がいる一方、物価が異常なほど上がっているのに、収入は増えず、生きていくのが厳しくなるものがいる。自分たちと関わりのなさそうなところで金が使われ、動いていく。
こうした情報が、新聞や雑誌などを通じてどんどん伝わってきます。人々の中に怒りが蓄積していきました。
2010年代、政府は「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる」「時間がたてばみんな豊かになっていく」といいつづけていました。これをトリクルダウン理論といいます。しかし、実際そうなったでしょうか。「生活がよくなったとは実感できない」といっている人の方がいつまでたっても圧倒的多数であり、いつの間にかこのフレーズは使われなくなりました。
1910年代後半の大戦景気下でも、トリクルダウンが広がったわけではなかったのです。

シベリア出兵と米不足・米価高騰

政府は1918(大正7)年シベリア出兵を決定します。軍隊をシベリアに派遣し、革命干渉戦争に参加するというのです。しかし、各方面から「こんな戦争、何の意味があるのか、おかしい」という声があがりました。国民の支持もえられません。
そうしたなか、こんなことが起こりました。
戦争には兵隊の食料を持って行かねばなりません。前もいったけど、陸軍は「兵隊に白米の飯だけはたっぷり食べさせたい」と考えていたので、大量の米を買い付けます
帝国書院「図説日本史通覧」P251

帝国書院「図説日本史通覧」P251

さあ、皆さんが米屋だったら?家の蔵に米が山積みになっている地主なら?どうしますか?
買い付けが起こると、米の値段が上がります。米の値段が上がり始めると、先に売った者が損をし、一番高いときに売る者がトクをします。
ほんのちょっと売るのをあとにすれば、もっと儲けることができると考えて買い占め・売り惜しみに走る人たちが出てきました。
これをみて、お金に余裕のある消費者は「安いうちに買いだめしておこう」と生活防衛に走ります。
戦争が近づくと買いだめに走るのは、庶民の悲しいがしたたかな習性です。しかし、やや余裕のある・・・。
こうして、米の値段は値上げの悪循環がおこり、信じがたいほどの値上がりをします。夕方の米の値段が朝の1.5倍なんてことにもなります。
もっとも痛い目にあったのは、買いだめできない「貧しい」人たちでした。日銭稼ぎをしている人は、その日の儲けでその日食べる家族の米を買っていたのです。
怒りのマグマが日本中がたまっていきました。

「米騒動」

1918(大正7)年7月23日富山県魚津の町で一つの事件が起こります。ここは漁師町で、魚を売った金で米を買う生活をしている人が多い町です。
この時期、魚津では魚が獲れすぎて値段が下がり気味でした。ところが米価は上がり続けます。困り果てていた女性たちは、港から富山産の米が運び出されようするのを知ります。北海道行きの船でした。「米を持ち出さないで、米の値段がもっとあがる」と女性たちが騒ぎだし、運び出しが困難となりました。さらには米屋で米の安売りが求められました。どこにでもありそうな事件でした。
ところが、事件が新聞で報道されると「なんだ、みんな同じ事を感じていたんだ」と思ったのです。日本列島の各地で、同時に。そして思います。「自分たちも米屋に安売りを要求しよう」「買い占め売り惜しみに抗議しよう」と。そして日本中で米屋への安売りをもとめる運動がひろがり、米屋や輸出商社などが焼き打ち・打ちこわしにあうなどの暴動へと発展していきました。
米騒動です
米騒動は、神戸・京都・名古屋といった大都市から、地方都市、農村へと広がり、いくつかの炭鉱では日頃の働かせ方への不満とも相まって発破(ダイナマイト)をもって、警察とにらみ合うという事態にまで発生しました。
警察だけでは鎮圧できないところでは、軍隊も出動、軍隊への信頼を揺らがせる結果にもつながりました。

米騒動の歴史的意義

商家に押しかけて、ときには建物までも打ち壊すというやり方は江戸時代にもよくありました。では米騒動はこれまでとどこが違ったのでしょうか。
帝国書院「図説日本史通覧」P251

帝国書院「図説日本史通覧」P251

一つ目は全国的であったことです。米騒動が発生しなかったのは東北の3県と栃木・沖縄の5県だけ、他の道府県すべてで発生、参加人数は70万人を超えるといいます。
なぜ全国化した理由の一つはメディアの発達です。

富山の女性の怒りを自分の怒りと感じた新聞記者たちは「富山の女房一揆」という記事を書きます。
山川出版社「詳説日本史」p335

山川出版社「詳説日本史」p335

騒動が広がると、新聞各紙は、騒動のようすを、寺内内閣の無策ぶりとあわせて報道、参加者たちは「自分たちの行動が正義である」という意識をもつようになります。「正義」を実現する行動は、江戸時代の百姓一揆や打ちこわしと共通すると指摘する学者もいます。
危機感をいだいた政府は、報道を統制しようとすると、記者たちは反対集会を開いて抗議しました。

新聞を読む人が急速に増えていたという話をしました。これが米騒動が全国化する大きな要因でもありました。米騒動は、情報化社会が進んだあかしでもあったのです

こうした米騒動にかかわるメディアのかかわりと、政府による弾圧と屈服は現在のメディアのあり方と密接につながっています。この点については白虹事件=マスコミの「敗北」~マスメディアの発展(3)をご覧ください。

二つ目は、参加した人々の階層的な広がりです
どんな人が中心となって参加したと思いますか。・・そう、生活に困っていた人、米の値上がりのダメージがとくにひどかった人、具体的には・・職工、日雇い、職人、商人といった都市の雑業層、さっきのいい方では日銭稼ぎの人が多い。炭鉱の坑夫や工場労働者、小作農民など中流以下の階層の多くの人の参加しました。
そして参加した人々は、「自分たちと同じ思いをしている人がいる」「景気がいいと世間ではいっているのに、なぜ自分たちはその恩恵に当たらないのか?」などと考えはじめます。
 さらにロシア革命もこのようなものだったのではないか、とさえ感じ始めます。

労働運動の発展~友愛会から日本労働総同盟へ

こうした社会情勢と民衆運動の高まりが、社会や経済の変化とあいまって、労働運動の発展につながりました。
労働運動は、1897年の労働運動期成会の結成などにより生まれつつありましたが、期成会は治安警察法により力を失いました。そうした中、鈴木文治が「労働者と資本家が協力(「労資協調」)して労働者の地位向上をめざそう」と考えて1912(明治45・大正元)年結成したのが友愛会でした。
東京書籍「日本史A」p106

東京書籍「日本史A」p106

大戦景気の中、多くの工場が作られ、労働者が増えたにもかかわらず、賃金が上がらず、労働条件も改善しないことから、各地で「賃金を上げて欲しい」「労働条件をよくして欲しい」といった要求をかかげて労働争議が激増しました。友愛会も、労資協調という枠組みを離れ、しだいに労働組合の協議体という性格を強め、争議を指導するようになっていきます。
そして1919(大正8)年には大日本労働総同盟友愛会と名を改め、8時間労働制や労働組合の公認などを要求するようになっていきます。1920(大正9)年には第一回メーデーも開催されました。1921(大正10)年にはさらに日本労働総同盟と改称、「自分たちの要求を実現するために資本家とたたかう」という階級闘争の方針を打ち出すに至ります。

小作争議の発生

農村では、寄生地主制と、「名望家」に牛耳られたムラ社会の規制で動きを封じられていた小作農民たちも動きを見せ始めました。
山川出版社「詳説日本史」p330

山川出版社「詳説日本史」p330

都市化の進展にともなう米価の上昇は、米で小作農民から小作料を集めていた寄生地主たちに大きな収益をもたらしました。地主たちはその利益をもとに、いっそう土地を買い集めます。小作率が最高となったもの大戦中のことです。
しかし、みなさんが小作人の立場ならどうでしょうか。「地主さん、これまでよりも収入が増えているのだから、少しぐらい小作料をまけてくれてもいいのではないですか
ところが、そうした要求に応じる地主は少なく、逆に「そんなことを言うのなら出て行ってもらってもいいですよ。借りたい人はたくさんいるのだから」といい、ひどい場合には追い出しをはかります。
さらに大戦が終わると戦後恐慌が発生、対立はいっそう激化します。しだいに「小作料軽減」と「耕作権確保」(「小作は土地を耕す権利をもっており、一方的に土地を取り上げることは許されない」)などをめぐって地主と小作の対立が激化、各地で小作争議がおこりはじめました。
小作農民の要求、毎年出題していますからね。この時期の労働組合の要求とともに、しっかり押さえてくださいよ。

日本農民組合の結成

賀川豊彦(1888~1960)大正-昭和時代の牧師,社会運動家。神戸神学校在学中にキリスト教伝道活動にはいり,まずしい人々の救済につくす。大正8年友愛会関西労働同盟会の結成に参加。川崎・三菱造船所争議など労働組合運動,農民組合運動で活躍。

こうした小作農民などを助けようと立ち上がったのが賀川豊彦です。
賀川豊彦は神戸で貧民救済にあたってきたキリスト教の牧師で、1921年発生した造船所の労働争議にかかわってきました。
そして、農民のおかれた厳しい現状を知る中で、1922(大正11)年農民運動家の杉山元治郎とともに日本農民組合を結成しました。
こうして、小作争議は「村」という枠組みをこえた広がりを持つようになり、翌年の1923(大正12)年には小作料の3割削減を実現した村も生まれました。
村の中で低い地位におかれていた農民たちの動きは、地主によって支配されていた村の姿を変えるきっかけにもなっていきました。
「日本農民組合」。こういう名前、みんな弱いんだよな。あまりにも普通すぎて。しっかり覚えておきましょう。

部落問題と全国水平社

「部落問題」の成立

米騒動をきっかけに新たな運動に立ち上がったのが被差別部落の若者たちでした。
江戸時代、おもに「えた」身分として排除されて、差別されてきた人々は1871(明治4)年のいわゆる「解放令」(「賤称廃止令」)によって身分としての「えた」身分はなくなりました。
まずこの点ははっきりと確認しておく必要があります。
しかし、江戸時代のような身分制度がなくなることで、江戸時代に認められていた死んだ牛馬を手に入れる権利、つまり皮革製品の原料をただで手に入れるなどの特権もなくなります。
周辺の町や村との交流が長く許されなかった、おこなわれなかったことなどから生じた差別と偏見ものこっていました。このため、新たな仕事に就くことも難しく、周辺とのつながりも困難ななか、江戸時代以来の雑業や狭小な土地での小作といった生活を余儀なくされます。江戸時代よりも厳しい生活状況となったといえるのかもしれません。
こうして彼らが住む地域は半失業状態の人が集まっている地域という性格を強めました。そしてこうした貧困の状態があらたな差別と偏見を招きました
こうした問題が部落問題です。
江戸時代の身分制と「部落問題」の関係については前近代の身分制と「部落問題」をご覧ください。

「全国水平社」の結成

これにたいし、明治末年以来、環境と生活を改善することによって差別を解消しようといった融和運動地域内外の人々の手で生まれはじめます
東京書籍「日本史A」P106

東京書籍「日本史A」P106

しかし、米騒動などをきっかけに、若者たちは考え始めました。
なぜ、自分たちが差別に対して卑屈になる必要があるのだろうか。そもそも、差別自身が間違いなのであって、自分たちは胸をはって差別は間違いであり、それを正すように主張すべきではないのか。
そして、1922(大正11)年3月、京都の岡崎公会堂で結成大会を開いたのが、全国水平社です。部落住民が自らの力で部落問題を解決しようとした組織が全国水平社です。
この時の水平社宣言は日本における人権宣言といえます。
人の世に熱あれ。人の世に光りあれ

水平社宣言は、このように締めくくられています。

水平社運動の苦闘

東京書籍「日本史A」p106

東京書籍「日本史A」p106

しかし、結成された水平社はどのような運動によって差別をなくすことができるのか、そのやり方が分からなかったところがありました。そのため、不用意に発せられた差別的な言動に対して必要以上に厳しい態度をとることもありました。その結果、その場限りの謝罪となったり、とりあえずかかわりあいをさけようという動きがうまれたり、逆に反発した人たちの襲撃をうけるといった事件も発生しました。
こうした中、社会主義の影響も受け「労働者や小作などの農民も、社会の中で差別されている存在ではないか。かれらとも手を組んで社会を変えていく必要があるのではないか」という考え方も生まれてきました。
農民組合が、水平社に支えられていた村などもありました。

立ち上がる女性たち

明治期の女性

差別に苦しめられていたのは女性も同じでした。
帝国書院「図説日本史通覧」P255

帝国書院「図説日本史通覧」P255

明治期、女性たちは「家」制度の中に押し込められていました。家長(父親や祖父)が認めなければ結婚もできず、住む場所も自由に決められませんでした。姦通罪があったことは前も話したとおりです。1900年(明治33)年の制定された治安警察法では女性が演説会にいくことすら禁止していました。
日本史上、女性の地位が最も低いのは明治憲法下ではないか」という説も話しましたね。このような女性の低い地位が、製糸業や紡績業などでの女工さんの過酷な労働の背景にもなっていました。
しかし、明治というか、近代という時代は、女性を解放する条件も作り出しました
日本女子大学の化学の授業風景 図説日本史通覧P241

日本女子大学の化学の授業風景
帝国書院「図説日本史通覧」P241

内容はともあれ義務教育は女性の前にも開かれており、中等教育や高等教育も保障されるようになります。数年前の朝ドラでも描かれていましたね。
こうして女性たちはさまざまな情報と知識を得る機会をえます。また狭き門ながら、教師など女性にも職業が得られる可能性も生まれました。明治末期にはなると、古い女性像を打ち破ろうとする「新しい女性」も生まれてきました。

青鞜社・新婦人協会と女性解放運動

夏目漱石の「三四郎」に美彌子(みねこ)という自由奔放な女性が出てきます。このモデルが、漱石の弟子森田草平の恋人であり、森田との心中未遂事件を起こした平塚明(ひらつか・はる)平塚らいてうです。
帝国書院「図説日本史通覧」P255

帝国書院「図説日本史通覧」P255

平塚は、心中事件に対する世間の非難に対し、男尊女卑の社会のなか、抑圧された女性の解放を考えるようになりました。そして発刊したのが文芸雑誌「青鞜」です。「青鞜」とは青い靴下のことで、イギリスで「新しい女性たち」がこのんではいていたもので、それを誌名としました。
「青鞜」で平塚が書いた「発刊の辞」は日本における女性解放宣言ともいえる文章です。
元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である。」
いまこそ、太陽としての女性を取り戻さなければならない、力強い宣言ですね。

とてもすばらしい言葉なので、みなさんにも是非覚えておいて欲しいと思っています。・・・・よろしいですね。毎年、出題してますからね。水平社宣言と一緒に覚えておきましょう。

「新婦人協会」と婦人参政権運動

これ以後、平塚と「青鞜」に集まった女性たちは、文学の立場から女性の解放を唱えていきます。
東京書籍「日本史A」P107

東京書籍「日本史A」P107

さらに平塚は女性の政治的権利の獲得の活動も始めました。平塚が市川房枝らとともに始めた「新婦人協会」です。男女同権を求め、男性だけの普通選挙ではなく女性参政権をも求める運動をすすめました。こうしたなかで1922(大正11)年、女性の政治参加を制限した治安警察法の改正を実現させています。女性たちの運動が法律を改正させたのです。
ちなみに、市川房枝は戦後長く参議院議員としてお金のかからない理想選挙と女性の地位向上のために力を尽くしました。明治生まれの僕の祖母、このころの職業婦人でもあった祖母は、戦後いつも市川房枝に投票していたようです。
しかし、こうした有名な運動家だけでなく、「家」の重圧の中、彼女らを応援してきた主婦など「普通の女性たち」がいました。職場のセクハラや冷たい仕打ち、世間の冷たい視線にたえて、女性が働くことを世間に認めさせてきた「職業婦人」たち。こういった人たちが、女性の地位向上に大きな意味をもっていたことを確認しておく必要があるでしょう。

社会主義運動の再開

 第一次世界大戦前後の社会運動の発展を背景に、社会主義運動が再び動き出します。
社会主義は明治末以来「冬の時代」とよばれる沈滞期を迎えていたのでしたね。ある事件のせいでした。
・・・1910年の大逆事件社会主義者が天皇暗殺を謀ったとして大量に死刑にされた事件。
以後「冬の時代」をむかえていた社会主義者が再び動き出します。そのきっかけは1917(大正6)年発生したロシア革命。世界初の社会主義政権の成立は人々の社会主義への関心を呼び覚ましました。さらに翌年に起こった米騒動は、人々に「ロシア革命もこんな風なものだったんだ」という実感をもたせることになります。労働運動の発達と労働争議の増加のなか、人々は資本主義とは違う社会のありかた考えはじめるようになりました。

こうした空気の変化を感じた堺利彦山川均ら社会主義者、大杉栄といった無政府主義者は運動を活発化させ、1920(大正9)年には日本社会主義者同盟を結成、労働組合や学生団体の人々も参加しました。

しかし、ロシア流の社会主義をめざす堺や山川と、無政府主義をめざす大杉らの対立(アナボル論争)がつづき、1921(1921)年には解散を命じられます。

日本共産党の設立

このころ、ロシアでは列強の革命干渉戦争に苦しむ指導者は、世界に革命運動を広げることで自分たちへの支持を拡大しようと考えました。そして結成したのがコミンテルン(第三インターナショナル・世界共産党)です。そして、各国の社会主義者に働きかけをすすめます。こうした働きかけもあって1922(大正11)年、
堺や山川らが結成したのが日本共産党です。当初はコミンテルン日本支部という性格を持っていました。
このような政党を政府が認めるわけはなく、もちろん、非合法の政党でした。ちなみに、中国共産党もコミンテルン中国支部として始まっています。
しかし、共産党は弾圧を受け、「党を維持できない」として1924(大正13)年いったん解党を決議します。その後、1926(大正15)年再結党されます。しかし、警察などによる激しい弾圧を受け、命を奪われた人や、考え方を変えたり変えたふりをした人もいました。戦後には、合法化され、現在に至っています。
なお、方針の違いから堺や山川は再結党には参加せず、合法無産政党結成に進むことになります。
このように、この時代にはさまざまな社会運動が起こり、活発に活動をつづけていきます。このようにさまざまな活動が生き生きと進められた時代、まさにこのような動きこそが民主主義であると考えて大正デモクラシーといういい方をします
追記:
・一部加筆訂正を行いました。
・なお本稿とほぼ同一の内容を論じたシリーズを書きました。ご覧いただければ光栄です。(2022/08/23)
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 米騒動と大正デモクラシー(1) 「明治」への異議申し立て
米騒動と大正デモクラシー(2)   大衆騒擾と友愛会
米騒動と大正デモクラシー(3)       米騒動と全国水平社
米騒動と大正デモクラシー(4)       小作争議と農村の民主化
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