米騒動と大正デモクラシー(2)大衆騒擾と友愛会

Pocket

Contents

米騒動と大正デモクラシー(2)
~人間らしい生き方をめざして~

Ⅲ、大衆による異議申し立て~日比谷事件から普選運動へ~

1,大衆騒擾の頻発

1905年のポーツマス講和条約反対運動(日比谷焼き打ち事件)は、「国民」と自覚し始めた人びとが、自分たちの思いが政治に反映されていないとして起こした事件でした。
これ以後、1918年の米騒動までの約20年間は大衆騒擾の時代です。ポピュリスト的な政治家や新聞の「煽動」が、都市雑業層など都市住民のエネルギーを引きだし、その力で、ときには政権をも交代させました。
原敬に代表される政党主流派などの政治家は、エネルギーを利用はしたものの、その政治参加をいっそう拡大することには慎重でした。こうしたエネルギーには警戒心を持ち続けたという方が正しいように思われます。

2,大衆騒擾の発生と構造

 ここではこうした騒擾がどのように発生したかを、アンドルー=ゴードン氏の「戦前日本の大衆政治行動と意識」(「歴史学研究」1987.1)をもとに見ていきたいます。

日比谷焼き打ち事件

きっかけは、さまざまなタイプの政治・経済・外交問題です。市電運賃の値上げといった生活に密着したテーマであったり、対中外交が弱腰であるといった排外主義的なテーマもあります。
こうしたテーマについて、実業団体・各種政治クラブ・弁護士組織、新聞記者団体・地元政治団体などが問題視し、政府に対し嘆願書・決議文をだしたり政府との懇談を実施する一方、協力して演説会を開催することとし、それを新聞が大々的に報じます。

増税反対国民大会のビラ

開催日は、ポーツマス条約が締結された9月5日や、明治憲法が制定された2月11日(紀元節)といった象徴的な日が選ばれ、日露戦争の戦勝祝賀会の会場であり、講和反対の国民大会が行われた日比谷公園が象徴的な会場として選ばれます。
大会が暴動へと発展すると、群衆は警察署・交番、体制と関係の深い組織・政府系の新聞社などを襲撃されました。市電も焼き打ちされます。参加者の中の人力車夫の存在や一方的な運賃値上げへの不満があったことと指摘されます。

3,大衆騒擾の構造

東京での騒擾参加者の職業と労働人口構成(アンドルー=ゴートン「戦前日本の大衆政治行動と意識をさくって」歴史学研究1987.1)

大衆騒擾の参加の仕方には重層性がみられます。
指導者上層部。まず実際に大会を呼びかけた人びとです。政治家としては尾崎行雄・島田三郎らが有名です。
サブリーダー。大会運営にあたったり、大衆に襲撃の目標を告げる働きをした人たちです。指導者のもとに出入りする人物や政治団体関係者が中心で、バラの徽章をつけるなどある程度目立っていたようです。
地元運動家。サブリーダーとともに騒擾をあおる役割を果たした地域の政治・社会活動をになっていた名士たちです。大会などでは新聞の号外を読み聞かせるなどの行動を取っています。近隣で開かれた他の集会の参加者をがついでに参加したという例もあったようです。
積極的参加者。組織・団体には参加していないが、積極的な政治意識を持つひとたちです。大会に主体的に参加し、ときには政府批判の演説をしたりもします。
消極的参加者。あまりはっきりした参加理由や動機もないまま、新聞などで大会を知って参加した人たちです。投石をしたり、警官をどなるといった行動をとりますが、捕らえられても、「みんなやれやれというから何の気なしにやった」というような人びとです。ゴードン氏は、「無料で参加できる大会に、お祭り的・レジャー的感覚で参加した」とまとめています。
傍観者・偶発的参加者。火の手が上がったから駆けつけ、おもしろそうだから投石を行ったりしたという人びとです。

このように、騒擾に参加した人たちは、特定の社会階級と限定することはむつかしく、いろいろな立場の人や団体、種々の職業をもつ都市中間層や下層の人びとが中心でした
しかし、参加者の意識のなかには「民衆主義的国家主義」ともいえる独特の政治意識が存在していたとゴードン氏は考えました。

4,民衆を動かした政治意識

では、ゴードン氏が考える政治意識とはどのようなものでしょうか。底流にあったのは、ある種の正義感といい、4点にまとめています。

第一次護憲運動(1913)で国会前に詰めかけた人びと

一つ目は、公平と公益を尊重すべきという考えです。公益を無視した一方的な料金値上げや一部の人にのみ重い負担を強いる「三悪税」などは公平に欠けると認識されました。
二つ目は行動・集会・言論の自由の尊重への要求です。騒擾の発生は多くの場合警察・公安側の集会禁止や過剰な警備などがきっかけとなりました。
三つ目は国民の意思を尊重してもらいたいという民主主義的な要求です。人びとはながく続く藩閥・官僚による国民を無視する「非立憲」的な政治への不満を蓄積させていました。こうした思いは「国民の意思」「民意により」といったフレーズを流行語としました。
そして、四つ目に、こうした考えを総括する立場としての「立憲」的政治への志向です。民衆にとっての「立憲政治」とは、「正義」が実現される政治であり、天皇と国家の名誉を保持するとともに、民意にしたがって行われる政治と考えていたと指摘します。民意に従わないすべての機関(官僚、警察、時には政党・新聞も)は非立憲的とみなされ、大衆の怒りの対象とされました。
一見無秩序に見える大衆騒擾も、その実態は国民のものとなっていない非立憲的な政治への「異議申し立て」であったのです。

5,普選運動の高まり

普通選挙制を要求する人々(国会前)1919

自らを「国民」と位置づけ、「政治は国民の意思に従って進められるべき」との考えは、民本主義の影響を受け、『国民』である以上、納税額などの制限なしに全員が公平に投票する権利を与えられるべきだという普通選挙権獲得運動につながっていきました。
第一次護憲運動(1912)やシーメンス事件(1913)でみられたような大衆の思いが国会に十分反映されていないという思いがいっそう普通選挙への期待を強めました。
1918(大正7)年普通選挙制度実現をめざす吉野作造ら進歩的知識人は黎明会を結成、全国を遊説するなど、啓蒙運動を本格化させます。大学生たちも新人会(東京帝国大学)などの学生団体を組織してこれに呼応、労働組合である友愛会も組織的に運動に取り組みました

普選は議会の遊び道具ではない 普通選挙法は「時期尚早」とする寺内内閣に対する風刺画

1919(大正8)年には本格的な政党内閣である原敬内閣への期待もあって、普通選挙権獲得運動は、地方インテリ層・学生団体・労働組合など広汎な層を巻き込む大運動となっていきます。
そして第42議会に野党である憲政会と国民党が普選法案を提出、採択をもとめる動きが全国各地で巻き起こりました。東京では連日1万人の大集会が開催され、34府県でも普選をもとめる演説会やデモ行進などおこなわれました。議員を戸別訪問しての訴えかけも行われます。
しかし、原敬内閣はこうした国民のエネルギーの高まりは社会の急進化にむすびつく危険なものと考えていました。
そこで、原は法案を否決する代わりに「普通選挙法の判断を国民に問う」と称して衆議院を解散しました。
前年に改正された選挙法改正は、小選挙区制・直接国税三円以上のものに選挙権が与えられるという政権政党=政友会に圧倒的に有利なものでした。
さらに普通選挙は社会主義政党が勢力を伸ばすとの危機感もあおりました。
こうして政友会が圧倒的な勝利を遂げ、普通選挙法は葬り去られました。のちの歴史を考えると、大正デモクラシーは最大の好機を逸したといえるのかも知れません。
(男子)普通選挙法が実現したのは1925(大正14)年、加藤高明護憲三派内閣の時です。このころ人びとの思いはすでに普通選挙制から離れていました。そして治安維持法という日本史上、最悪ともいえる法律とセットになって成立します。

Ⅳ、友愛会の成立と労働者~尊厳を自覚した労働者たち

1、「職工」の世界

労働運動史の研究者二村一夫氏は友愛会に始まる労働運動の意義を語るにあたって、明治末~大正初年の労働者(職工)像を以下のように描き出します。

精工舎の作業場

当時、多くの青年が村を離れ、都会へ出たが、その際の目標は“成功”であった。苦労して上級学校を出でて官吏や会社員になること、商店の小僧からたたき上げて自分の店を持つこと、これが”立身出世”の”成功”の例であった。これに対し、新しい職業分野であり、致富の機会にも乏しく、災害の危険も高い工場労働者、鉱山労働者になることは“立身出世”競争での落伍を意味した。労働者の挫折感は“飲む・打つ・買う”といった道徳的退廃の瀰漫となり、“一般社会”から“職工社会”に対する差別を増幅させていった。(「労働者階級の状態と労働運動」『岩波講座日本歴史18』1977)
こうした「職工」=労働者像は、最初に見た「女工」=女性労働者像ともダブって見えてきます。
しかし、この時期は新たな「労働者階級」像を模索している時期でもありました。高井が、吉野作造の論文で目を開いたように、進歩的知識人の働きかけがここでも大きな力を与えました。
そうした場となったのが友愛会であり、鈴木文治の存在でした。友愛会は、その労資協調主義もあって、否定的な論調が与えられがちでしたが、松尾尊兊氏の研究によって積極的な側面も評価されはじめました。
友愛会については、主に松尾氏の研究(『大正デモクラシーの研究』など)をもとに記しています。また労働者の困窮と米騒動下の労働争議などについては金原左門編『日本民衆の歴史7自由と反動の潮流』などを参照しました。

2,友愛会の結成と鈴木文治

鈴木文治(1885~1946)

友愛会は、キリスト教社会改良主義の立場に立つ社会運動家鈴木文治によって結成されました。
鈴木は、1885年宮城県生れ、吉野作造と同郷です。幼少時にキリスト教に入信、苦学ののち東京帝大卒業。朝日新聞社を経てユニテリアン派の伝道団体で社会事業に着手、1912年に友愛会を結成します。
鈴木を支えたのは、キリスト教思想・自身の窮乏体験・さらに帝国大学在学中より関わりを持った社会政策学会を通じての知識、こうした体験のなかで自覚した社会の不合理さでした。また伝道活動の中で労働者と接し、その虐げられた境遇を知るなかで労働者の地位を改善するには穏健な労働組合が必要であるとの認識をもちました。あわせて「そのことにより階級闘争の激化を防ぐことができる」との思いも。

『友愛新報』創刊号

鈴木は、キリスト教会で伝道活動を進めるかたわら、教会内に労働者クラブを開設、囲碁などで共に時間を過ごしながら歓談するなかで労働者が助け合う組織の必要性を感じ、明治天皇が死亡した翌々日に友愛会を結成しました。畳職・電機工・牛乳配達人などさまざまな仕事をもつメンバー15人での旗揚げでした。
友愛会は、この段階では労働組合とはいえないものでした。医療機関との特約契約をむすび、法律相談や貯蓄をすすめるといった共済事業、例会での鈴木の人脈でまねいた「名士」による講演会、機関紙「友愛新報」の発行といった活動が主なものでした。

3,労働者の自覚の拡大と友愛会の発展

この時期の鈴木の考えを松尾氏は次のようにまとめています。
労働は神聖である。労働者は自己の職業に誇りを持つべきである。
②労働者は自らの力で地位の向上を図らねばならない。そのためには団結の力によるほかはない。
地位の改善を要求する前に実力を養わねばならない。そのためには各個人の識見・技能。品性を高めることが必要である。
④資本家と労働者は水魚のような関係。相争うべきでない。多くの争議は資本家が職工の人格を尊重しないことが原因であり、これを改めることが資本家の自衛の道である。
現代から見れば、あまりに当然な主張です。しかし、さきにみたような「落伍者」という意識をもつ労働者にとってはきわめて新鮮な訴えでした。松尾氏の主張をうけた形で武田晴人氏はつぎのようにまとめます。

友愛会室蘭支部の組合旗

「貧富の大きな格差の中で、富の程度だけでなく、知能・才能・品性・健康などすべてにわたり劣るとみなされ、世の中から頭ごなしに『職工風情』と罵られる軽蔑を取り除くこと、そのために団結して切磋琢磨し…工場主・資本家と同じ人間としてみとめられること、それがかれらの目標だった」
一個の人間として人格の承認を求め、対等の社会の構成員であることを主張しなければならなかった」(『民本主義と帝国主義』)

友愛会はこうした労働者の思いに形を与えました。各地で続発した労働争議が友愛会の名声を高めました。
団結権や争議権が認められていない中、鈴木が行ったのは調停」という名での支援でした。渋沢栄一をはじめとする官民の有力者とのパイプをもつ鈴木が争議の現場に乗り込み、労働者の要求も受け入れた形で資本家との「調停」をすすめ、要求の一部を実現させました。
このことは労働者たちが資本家たちと対等に向き合い、要求を小なりとも実現することを意味していました。こうした成功体験の積み重ねが友愛会への信頼を高めていきました。

友愛会の記念記章

こうして友愛会には労働者会員が急増、各地に支部が結成されました。大正デモクラシーの風潮の中で育った学生や民主的な知識人も活動に参加・協力し始めます。こうして友愛会は、労働組合の色彩を強めていきます
それまで、友愛会は資金の多くを資本家や官僚に仰ぎ、社会政策学会などにぞくする知識人の応援をうけていました。そして会の運営は鈴木が独裁的に行っていました。
しかし、労働組合的な色彩が強まる中で、鈴木も「階級的自覚による『生存権』確保のための団結」といった主張を行い、政府に団結権・ストライキ権の承認をもとめるといった主張も行います。女性労働者の加入も正式に認められ、婦人部も結成されました。会長の「調停」によって解決するという従来のあり方にかえて、労働者自身が自力で解放をもとめるべきであるという主張も活発化しました。

4,大戦景気のもとでの労働環境の変化

1914(大正3)年にはじまった大戦景気は日本を一変させました。
これまで約100万人であった鉱工業労働者は約150万人へと1.5倍に急増、
労働力需要が高まり、これまでの都市雑業層も、さらには農村滞留層と呼ばれた人びとも、労働者階級のなかに組み込まれていきます。このように労働力市場が「売り手」市場となったことも労働者の地位向上に大きく作用しました。熟練労働者は労働環境が気に入らないとさっさと職場を変えました。労働争議に対し、資本側が譲歩することも増えてきます。
労働者の性格も変わりました。これまでは製糸・紡績の女工たちに典型的なように家計補充・出稼ぎ・副業という性格を強く持っていました。ところが重化学工業などが急増し、熟練労働者が増加、労働力販売によって家族の生活を維持する比率が高まりました。
このことは不安定な農業経営との融合によって本来の労働力販売よりもはるかに安価な労働力提供を実現する「周辺」的な労働スタイル(ウォーラーステイン)から脱却し、「正当な」労働力販売によって生活を維持するという先進国型の労働スタイルも誕生してきます。
こうした働き方は、第三世界的・前近代的労働環境が一般的であったこれまでの日本のありかたとの間で摩擦をひき起こします。この摩擦のなかから日本型労使関係が生まれてきたともいえます。

5,都市問題の深刻化

東京府の人口の増加。中心部(15区)よりも郊外の増加がめだつ。

急速な労働者階級の増加は、労働問題にとどまらず、さまざまなひずみを生み出しました。
急速な都市化は、食料をはじめとする生活必需品の市場を急速に拡大し、消費者問題をひきおこしました。こうして物価は構造的な上昇傾向を示します。その中心が米価でした。
また増加する人口を収容するため住宅不足が顕在化、都市近郊や環境の劣悪な地域に、劣悪な住宅がつぎつぎと建てられます。こうした事情は工場も同様です。
インフラを整備しないまま、無計画に工場や住宅などが建てられ、人口が流入してきます。
拡張しないままの道路は渋滞し、工場排水や生活排水が河川を汚濁させ、井戸など飲料水も汚染されます。ゴミ処理も不十分のまま放置され、伝染病の流行の蔓延の舞台となりました。
鹿野政直氏(『大正デモクラシー』小学館)はこうしたひずみが集中していた大阪近郊のようすを描いた史料を紹介しています。
「村の端に白い電気会社が建った。それから五六年を経たが村は相変らず淋しい。/ 神效川の沿岸一帯に晒し工場が並んでゐる。村の青年たちを都会に吸い取られて、鮮人が安い賃銀で働いてゐる。此度村に大きなメリヤス晒し工場が建った。百七八十尺の鉄筋の煙突が二本立つてゐる。職エ募集-賃銀は五十八銭から一円十銭、そして五十銭近い米。算術だけでは一寸問題にならない。/村に一軒カフエーとも酒場(バー)ともつかないものが出来た」(中略)
「/金儲がしたい。お金が欲しい。/都会へ。都会へ。/胡瓜畑に手入をしてゐるのは、此頃では中以上のお婆さんばかりである。/新しく電鉄の敷地が買メめられた。然しその電車はいつ開通するのか判らない。測量する度に杭の打ち所が変る。変る度に地価が下る。あたら田地が二年も三年も荒して棄ててある。/大正十四年三月三十一日、此日限り大都会に近接する幾つかの町村と等しく、此の村も亡びて了った。村名字も書直され、一躍農村から都会の一部に昇進したが、悩みはいつまでも続く。新市街といふ名の為に、凡ての設備を追々にでも新しく調へねばならぬ。貧しさ故に尚も苦しまねばならぬ」
(くさ坊主「蝕まれゆく近郊~大阪府~『婦人公論』10巻10号1925年)

6,大戦景気下での貧困

1917(大正6)年、内務省警保局は労働者の窮乏と、不満の蓄積を次のように報告しました。

米騒動の直前に実施された細民調査の風刺画

物価、ことに生活必需品が価格暴騰をおこしているにもかかわらず、賃金の増加はこれに伴わないため、一般労働者は戦前と比べて生活上の困難が増していることはおおうことが出来ない。中流以下の国民が生計困難となっている状態は、本年になって、とくに顕著である。
にもかかわらず資本主、ことに多数の職工・坑夫を用いる大規模の鉱山・工場は、戦争による利潤がきわめて大きく、巨富を得た資本家が増加していることも大正6年を異例としている。
したがって、労働者が資本主に対して反感をいだき、これを嫉視する状態にあることも否定できない事実である。
(内務省警保局『大正6年労働争議概況』より現代語訳)

上がり続ける物価、それに伴わない賃金、これによって実質賃金は低下の一途をたどっていく。他方、新聞などから聞こえてくる「成金」たちのぜいたくな生活。警察を管轄する内務省も危機感を感じていたことがわかります。
そしてこうした危惧が現実化したのが1918(大正7)年の米騒動でした。

7,労働者の家計簿から

米騒動のさなかの1918年8月23日付東京日日新聞に、妻と二人の幼児を抱える工場労働者が投書、自分の家の家計簿を公開しました。あまりに低賃金のため転職を検討していたところ、会社側の「大英断」によって二割の増給があったとのことです。
しかしそれでも「収支は依然として一致しない」と嘆きます。
それもそのはずで、彼の収入の約四割が米価に消え、食費の合計は全体の支出の64%を占めるに至っていたのですから。

1917年以来米価は、18年の6月までは2度の急騰をはさみながら月1円前後の上昇をくり返しています。こうした結果として、投書主には30円から36円への2割の賃上げの「英断」があったのでしょう。
しかし18年8月にこうした賃上げではどうしようもない8円強というよてつもない急騰がやってきました。
米価急騰の影響は子どもたちにも襲いかかりました。貧しい家庭の子どもたちが多く通う浅草・玉姫小学校では8月に入って減食・欠食の児童が急増、栄養不良のため、めまいや脳貧血で倒れる児童が急増しました。また浅草橋精華小学校ではこどもが弁当代わりにもってきたパンが紛失し、パンの持参が禁止されるという事件も発生しました。
 スペイン風邪」とよばれる新型インフルエンザが流行したのはこの年と翌年のことです。1918年の年間死者数は、前年までの110万台から149万人へと激増しています。とくに大きかったのが一歳未満の乳児の死亡です。スペイン風邪の流行と、米不足による栄養失調や環境の変化の間に何らかの関連を考えることも可能だと思います。
アメリカにおける新型コロナヴィルスによる犠牲者が貧困層に集中しているという統計と同様の事態が存在したと考えることは、あながち誤りではないと考えます。

8,労働争議の激発~職場における「米騒動」

ストライキの件数と参加人数

米価の暴騰は、労働者たちを賃上げ要求のストライキに立ち上がらせました。そして会社側も、その要求の正当性を認めざるを得なかったことは、先の内務省の認識と大きな開きはなかったでしょう。
1918年7月東京・小石川の博文堂印刷所(現:共同印刷)でストライキが発生しました。きっかけは、米価上昇のため賄料を3食23銭から27銭に値上げをするとの通告でした。怒った労働者は職工総会で賃上げ要求を決議します。あわてた重役会は、弁当値上げ分として日給4銭分を引き上げると回答、労働者たちは日給30銭の値上げを要求し、ストライキにはいりました。
これにたいし、会社側は、各労働者の家を戸別訪問して出勤を求め、その代わり7~12銭の引き上げを実施することで妥協させていきました。
しかしストライキの中心となっていた欧文課ではこれを不満とし、四名をのぞき退社してしまいました。労働者不足の風潮、とくに高度な能力をもつ熟練労働者は好条件の企業に移動することが可能な時代でした。
博文堂の争議はただちに近隣の会社にも波及します。日清印刷(現:大日本印刷)の労働者は2割増給を要求して、1割の賃上げを実現しました。汽車製造会社は、賃上げと労働強化を結びつけたことに対し80名がストを決行しました。石川島造船所月島の木造船の船大工らも賃上げを要求し、ストライキを実施しました。
米騒動が激しさを増していた1918年8月を中心に、東京各地では激しい労働争議が頻発していました。こうした労働争議の高まりをもう一つの「米騒動」とみることができるでしょう。
賃上げ要求は公務労働者にも広がります。日本橋区内の塵芥掃除人夫たちも賃上げを要求しストライキにはいったため区内はゴミの山となりました。市の水道課、市立駒込病院もつづきました。さらには宮内省省丁たちも生活が成り立たないとして宮内大臣に昇級を懇願、大阪九条署では巡査たちが連名で賃上げを嘆願しています。

9,友愛会から日本労働総同盟へ

労働争議の増加と労働組合の発展

大戦景気は日本社会を大きく揺り動かし、そのもとで労働者たちは、みずからの生活を守るために立ち上がり、自らの力で賃上げなどを実現していきました
それは賃金を引き上げたにとどまらず、人間らしい生き方を求めるのは当然であり、その実現を求めることには当然の権利があるとの意識をもつことでもありました。
各地で労働組合の結成があいつぎ、組合加入者も急増しました。
こうした流れに思いがけない追い風も吹きました。
第一次世界大戦は信じがたいほどの惨禍を生み出しました。とくにヨーロッパでは、二度とこのような戦争をしてはならないという思いに駆られました。そして二度と戦争をおこさないために何が必要かを考えました。そして戦争の原因として気づいたのが各国内の貧困と不正でした。
「世界平和は社会正義を基礎としなければ維持できず、国内の『困苦及窮乏を伴う現今の労働状態』を改善しなければ『世界の平和協調』が危うくなる、との認識を、各国は持った」と原田敬一氏はまとめています。(『戦争の終わらせ方』)
 こうしたなか、パリ講和会議は国際労働機構(ILOとして結実)の創設と万国労働法制整備の提案をします。それがベルサイユ平和条約などに組み込まれてました。
日本政府は何が起こっているか、理解不能だったと思われます。

訪欧中の鈴木文治はこうした議論を現地で見ていました。これをうけ、友愛会は、この条約が定めた労働者保護を政府に要求しました。それは、団結権承認・労働組合公認・8時間労働制・団体交渉権といった権利要求であり、労働組合の結成を規制する治安警察法17条を撤廃要求でした。さらに労働者の参政権を確保すべく普通選挙法制定にもとりくみました。

これにたいし、当時の原内閣は「官営八幡製鉄所」の争議などにたいして厳しい弾圧で臨むなど強硬策をとる一方、労働組合の結成や争議権の事実上承認ともいえる労働者保護政策をとり、深刻化する都市問題への対応も本格化させました。

こうした国内と世界の動きのなか、友愛会は全国の労働組合の協議会という性格を強め、1919(大正8)年には名称を大日本労働総同盟友愛会と改称、1921(大正10)年には友愛会の名を外し、日本労働総同盟と名乗るようになりました。
1920年には第一回メーデーも開催されます。
かつて「立身出世からの落伍者」とまわりからの、自分も思っていた労働者たちは、友愛会の活動や自分たちの生活を自分たちの力で守るという運動などを通して、自らの尊厳を自覚し、国家・社会の担い手という意識を持つようになっていきます。
<つづく>

<米騒動と大正デモクラシー~人間らしい生き方をめざして>
はじめに~大正デモクラシーとは何か
Ⅰ、高井としをの生き方~一枚のビラが人生を変えた
Ⅱ、「明治」への異議申し立て~「白樺」「青鞜」の時代
<以上(1)・前回>
Ⅲ、大衆による異議申し立て~日比谷事件から普選運動へ~
Ⅳ、友愛会の成立と労働者~尊厳を自覚した労働者たち
<以上(2)・今回>
Ⅴ、米騒動の発生~立ち上がった民衆たち
Ⅵ、全国水平社の創設~部落解放運動の高まり
<以上(3)>
Ⅶ,小作争議と農村の民主化 ~農民組合の結成と普通選挙
おわりに~大正デモクラシーと戦後民主主義
<以上(4)>

 

タイトルとURLをコピーしました