幕末の政局(3)薩長同盟

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幕末の政局(3)薩長同盟

<生徒のノート(板書事項)>

高杉晋作の決起~長州藩の政変

歴史というのは、ある一瞬、一人の人間によって動くことがあります。
1864年の暮 九州に亡命していた高杉晋作が、幕府軍の包囲下の長州・下関郊外の奇兵隊に戻ってきました。
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高杉晋作 長州藩の上士の出身。吉田松陰に学び異彩を放った。維新直前、27歳の若さで死亡。

 高杉はいいます。
幕府に屈服した藩は、奇兵隊など諸隊を解散するといっている。それでいいのか。もう一度、長州藩を取り戻すのだ」と。
しかし「時期が悪い」「無謀だ」という声で、高杉の提案はうけいれられません。
しかし高杉は決起を主張しつづけ、わずかな人数で蜂起します。若き日の伊藤博文も、相撲取りを集めて結成された力士隊を率いて参加します。
彼らが攻めてくると、高杉らに同情的な現地の役所は「はいどうぞ」とばかり抵抗しません。その後、奇兵隊なども合流、藩政府軍と戦いに勝利し、藩の実権を奪い返し、外向けには「反省してます」といいながら幕府がきたら戦うぞ」(「武備恭順」といいますが)という姿勢をとります。

諸隊の反乱(生徒のノートより)※周助→俊輔

禁門の変以降、行方不明となっていた桂小五郎(木戸孝允)も帰国、以後、「我々は謝罪して責任者を処刑した。これで謝罪はおわった。謝っているものにさらに罰を与えようとするのはおかしい」という姿勢をとります。

15万人もの大軍で行った長州征討がむだになったと考えた慶喜らは、「今度こそ痛い目にあわせてやるぞ」と長州征討を再度実施することを考え始めます。

幕府権力の回復

ともあれ、8月18日の政変から禁門の変という過程の中で孝明天皇との結びつき(時には恐喝まがいの手段も使いましたが)をつよめた幕府、とくに京都の一橋慶喜らは、朝廷の力を背景に勢いを盛り返していきます。当初は朝廷の下に有力諸藩が集まってさまざまなことを決めていこうとしましたが、しだいに天皇の命令を幕府が実行するという形の政治を進めるようになります。破約攘夷を受け入れますといって、横浜の港を閉鎖する交渉もはじめます。列強が危機意識を持ち、下関砲撃事件をおこしたのは、こうした事情からです。
江戸では、幕府主流派が、長州さらには薩摩も倒し、天皇の権威もおさえこんだ幕府中心の中央集権国家の実現を検討しはじめます。

討幕派の成立と薩長同盟

薩長が外国との戦いで学んだこと

列強との戦いは、薩摩や長州のリーダーたちに、欧米列強との力の差を頭ではなく身体で実感させました。「いったん条約を破棄し、改めて対等な条約を結ぶというこれまでの攘夷論のやり方が不可能であることも実感しました。
そして目標を立て直します。「遅れをとっている日本を、欧米諸国と対抗しうる国=『攘夷可能な国』にする」という目標に。

幕府は新しい日本のリーダーとして適当か?

この目標は「だれが新しい日本のリーダーとしてふさわしいか?とくに幕府はふさわしいのか?」という問いへと発展していきます。これまでのいきさつや幕府の体質をみると、その回答は否定的となりそうです。改革よりも現状維持、日本全体の利益よりも幕府の体面や先例の体質、組織の非効率性さと国際情勢への感応性のにぶさ、オールジャパンよりも幕府独裁をめざす姿勢など
結論はつぎの二つになりそうです。「幕府には新しい日本を託せない」または「幕府だけでは無理だ」のどちらかに。
前者からは「幕府は、新しい国作りにとって邪魔などころか、有害だ!だから幕府を倒すことが日本のためになる」との考えが生まれます。こうした立場にたちはじめた人たちを討幕派とよびます。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通、長州藩の高杉晋作・木戸孝允(桂小五郎)らがあげられます。公家の岩倉具視も、朝廷の復権がメインテーマですが、このグループに近いでしょう。

対抗軸としての薩摩・長州

幕府打倒には否定的あるいは消極的でも、「幕府独走は決して日本のためにはならない」「幕府だけで日本の近代化は無理だ」という後者の考えでかなり広範な意思統一ができつつありました。旧一橋派の越前藩・松平慶永尾張藩・徳川慶勝、さらに土佐藩の山内豊信ら、いわゆる「公議政体派」は当初からこういった立場でした。幕府内改革派の勝海舟らもこうした立場でしょう。坂本龍馬は討幕派に入れるべきかここに入れるか、良い意味でぶれていそうです。さらにはイギリスも「順調に伸びている貿易を挫折させたくない。そのためには幕府の姿勢こそがリスクだ」と考えはじめているような気がします。
こうした立場の人にとっても、幕府に対する対抗軸、幕府の独走をチェックする勢力が必要でした。その対抗軸の中心はいうまでもなく薩摩藩です。しかし薩摩藩は長く日本国内でも鎖国状態で今ひとつ信頼が置けないし、ひょっとすれば「島津幕府をめざしているのではないか」との疑いもあります。(島津久光は「そう考えていた」ふしがあります)。だから薩摩をコントロールできる勢力も必要です。幕府と対抗しつつ薩摩の独走をコントロールできる藩は、軍事力からいっても人材の豊富さからいっても「長州藩」しかないでしょう。

坂本龍馬

こうして「長州藩を潰してはいけない」という声、さらに「薩摩・長州両藩、さらには土佐などの雄藩もふくめ、手を結んでほしい」という声が出てきます。こうした動きを形にしたのが土佐藩出身の浪人坂本龍馬中岡慎太郎たちでした。
龍馬と慎太郎

坂本龍馬{左)と中岡慎太郎(右) 京都・円山公園に建てられた銅像。ともに土佐の郷士出身。協力して薩長同盟成立に尽くし、明治維新直前に幕府・見廻組の手で殺害された。

藩という組織を離れていた彼らは、自分たちのよりどころを「日本」という抽象的な存在においており「日本はどうあるべきか」を考えざるを得ませんでした。とくに土佐の大商人才谷屋の一族である坂本は、一般の武士と異なる柔軟な発想ができ、勝海舟らの影響も受け開明的な考えを身につけていました。さらに、理想を理想に終わらせず、どのように現実化するかという道筋を考える力も持っていました。
浪人という身分の不安定さ、歩いているだけで新撰組らのテロの標的にされる立場から逃げ込むことのできる薩摩藩など既存の組織のありがたさを感じました。仲間の無惨な死からテロや弁舌だけでは世の中を変えることができないとも感じました。
世の中を変えるためには、経済的裏付け、巨大な組織と軍事力の裏づけを背景とした交渉力に頼らねばならないことも理解していました。
理想を現実にするためには、どうしても幕府と対抗しうる組織と軍事力をもつ薩摩藩や長州藩が手を結ばねばならず、両者が対立したまま滅びるのを待つことは認めがたいことでした
こうして坂本は、他の仲間らとともに薩摩と長州の連携のために活動を開始します

薩摩藩のあらたな動き

幕府の復権は、八月一八日の政変の立役者であった薩摩藩にとっても脅威でした。幕府軍の事実上の指揮官となった西郷隆盛が第一次長州征討を強引に終わらせたのもこうした幕府の動きに危機感を感じていたからでしょう。長州がつぶされれば、つぎは薩摩の番ですから。
薩英戦争によって攘夷論という建前を脱ぎ捨てた薩摩藩は、幕府との対抗軸をつくる方向、長州と結ぶ方向を模索するようになっていきます。こうした薩摩にとって、坂本らの動きはありがたいものでした。研究者の中には、坂本は歴史上それほどたいした人物ではなく、薩摩藩のエージェントに過ぎなかったという人もいます。

薩摩と長州の反目

薩摩と長州を結びつけることは思った以上に難問でした。薩摩はまだしも、長州藩は、八月一八日の政変や禁門の変で薩摩藩にしてやられたという思いを持っていますし、第一次長州征討軍の主力は薩摩でした。長州藩士の中には、下駄に「薩摩」と書いて踏みつけていたものがいるほど、反薩摩意識が強いでした。薩摩でも、外様のもう一方の雄で、久光の苦労をつぶした長州に悪感情をもっているものも多いのです。人間は理性では良いと分かっていても、感情はどうしようもないという場合があります。

感情よりも実利で結びつくこと

ともあれ、坂本らは下関で西郷・木戸会談をセッティングしました。ところが西郷がそれをドタキャン、両者の関係は悪化します。しかし、ここからが坂本の本領発揮です。坂本は考えます。「憎い」という感情は抑えにくくても、利害関係で両者を接近させることができると。すでにみたように、幕府は再び長州を攻撃を計画しており、再び幕府の大軍が攻め寄せてくることが予測される事態です。
長州藩にとって最も必要なもの、それは兵器です。数倍にも及ぶ大軍と戦うため、最新鋭の兵器で武装したいと考えています。とくに、殺傷能力の高い最新の鉄砲と、圧倒的な幕府海軍に立ち向かえる艦船が。しかし、経済封鎖されている長州が武器を手に入れることは困難です。

坂本竜馬(生徒のノートより)

坂本はここに目を付けます。当時、坂本は、日本初の株式会社と呼ばれる亀山社中という海運会社をつくっていました。薩摩にいいます。「長州に送る兵器を買うので薩摩藩の名義を貸してくれないか。自分たちが長州に運ぶ(密貿易する)から」と。こうしたしくみで長州は最新の鉄砲や軍艦などの兵器を手に入れました薩摩は、ある意味「自分たちの盾」でもある長州を助け、さらに恩も売りました。
なお、この時点で長州が武器を買ったことは、大きな意味がありました。この時期、最新鋭の兵器が「お手頃価格」で出ていたのです。

なぜ最新鋭の武器が手に入ったのか

この理由を知るには、世界史の知識が必要になります。実は、この時期、アメリカが戦争をしていたのです。そう、南北戦争。アメリカにとっては第一次大戦よりも大規模で、苦しい、さらに残虐な戦争でした。産業革命によって近代戦争の性格が強まってもいました。アメリカ国内でも、イギリスでも、大量の新兵器が生産され、改良も進みました。
この戦争は1865年に終わります。その結果、引き取り手がなくなった新兵器を戦争の臭いがする日本に「死の商人」(武器商人)がリーズナブルな価格で持ち込んできたのです。それを長州藩が買い付けました。もちろん薩摩も。
これまでは欧米の中古品を買い付けていた日本が、これによって最新の兵器を買えるようになったのです。
とくに長州藩では最新鋭の武器を手にいれたことで、最新の西洋軍事技術を学んだ大村益次郎の力が最大限発揮できるようになります。危機感が古い封建的な軍隊を近代的な軍隊に変えます。家柄などよりも軍隊としての合理性が優先されました。大村の脳にはこの手の配慮という回路はありませんでした。こうして西洋的な組織に編成された奇兵隊をはじめとする近代的な軍隊が、幕府との戦いという危機感をバネに生まれました。

薩長同盟の成立

苦しいところを助けられた経験は、憎しみをとかします。西郷にドタキャンされて怒っていた木戸も再び薩摩との話し合いに臨むことを決意、藩主の許可をえて、密かに京都に潜入します。意地を張ってなかなか話がつかない両者を一喝して手を結ばせたのは坂本でした。こうして両藩は、薩長同盟とよぶ軍事同盟を結びます。ここに幕府に対する対抗軸が密かに生まれました

第二次長州征討と一揆・打ちこわし

「不義の勅命は勅命にあらず」

このころ、幕府側の一橋慶喜は「長州をふたたび攻撃せよ」という勅許を得ようと朝廷への工作をつづけています。これにたいし、薩摩藩の大久保利通は公家たちを訪ねて妨害し続け、長州征討の勅許がおりると「不義の勅命は勅命にあらず」(正義のない天皇の命令は天皇の命令ではない。聞く気はない)とまで言い切ります。そして薩摩に出兵を迫る幕府の老中を「なに!幕府が薩摩を攻撃するのだと、それならいつでも受けて立つぞ!」と怒鳴りつけ、出兵を断固拒否します。もはや幕府は薩摩をコントロールできなくなっていました。こうした薩摩の姿を見て「ちょっと都合が…」といった藩も現れます。

第二次長州征討

こうして、幕府は、最強の薩摩藩を欠いたまま第二次長州征討に向かいます。長州藩は百姓・町人などにもパンフレットを配り、「この戦いは国土防衛の戦いである」と宣伝しています。藩全体が郷土を守るということで団結し、最新鋭の兵器で武装し、西洋式の軍事技術で訓練された近代的な軍隊を長州は整備していました。これにたいし、昔ながらのよろい・かぶと・火縄銃の武士たちが攻めかかるのです。話でしか聞いたことがない戦争に、軍事的な訓練もあまりしたこともなく、いやいや連れてこられてやる気もなく、人数だけが山ほどいる武士たちがいくのです。
 ゲベール銃とミニエー銃
ちょっとだけオタク話をします。
銃の話です。有効射程は100メートルのゲべール銃が幕府側の最新式の銃それと火縄銃。
ミニエー銃

ミニエー銃 椎の実型の銃弾を使い、桁外れの殺傷能力を持っていた。先込式だが、改良型のスナイドル銃になると元込式となり、手元で弾丸を装着できるようになる。

これに対して、長州側は銃身に溝が掘ってあって回転しながらまっすぐ飛んでいくライフル系のミニエー銃が主力です。有効射程距離が300~500メートル、これは前から弾丸を入れますが、手元で銃弾が装着できるスナイドル銃まで持っています。
幕府軍の銃弾が届く距離にくる前に射撃できるのだから強いに決まっている。前に読んだ本では「虐殺に等しい戦闘をすることになる」と書いていました
「大軍に囲まれた長州藩がかわいそう」と思われがちですが、かわいそうだったのは幕府軍に動員された側だったかもしれません。
結果は、もう分かりますね。幕府側の大敗です。とくに北九州から攻め込む予定の幕府軍は、逆に海峡を渡って攻めてきた長州軍の前に敗れ、参加していた藩は次々と撤退、指揮官も理屈を付けて逃亡、小倉藩(北九州市)は城を焼いて逃げ出す羽目に陥りました。

経済事情の深刻化

戦争には大量の費用がかかります。出陣を命じられた武士たちは、質屋に走って、あるいは古道具屋で、よろい・かぶとや刀などを手に入れなければなりません。その金はどうしましょう?必要な食料や物資は出兵する藩が調達します。幕府は何も支払ってくれません。戦争への準備をすることが家康以来の大名家の仕事です…。でも…、出兵を命じられた藩はやむなく臨時の税金をかけます。とくに町人への課税が目立ちました。米など食料品の買い占め起こります。

世直し一揆の発生

貿易開始と貨幣改鋳によるインフレで困っていた民衆に、この戦争は大きなダメージを与えます。こうして民衆も立ち上がり始めます
農村では「自分たち百姓が世直し神だ。だれも逆らうことなどできない」「今から、世直しの祭りをする」といった、これまでの一揆とはかなり異なった巨大な「世直し一揆」が各地で発生します。

打ちこわしの首謀者は大坂城に

都会では、都市の貧民たちが米を始めとする物価を下げるように騒ぐうちこわし」が発生します。とくに長州征討の司令部がおかれた大坂では激烈でした。騒いでる者を捕まえて「おまえらのリーダーの名前を吐け!」と聞いたところ、彼は「あそこにおられます!」と大坂城を指さしました。大坂城には将軍家茂がいたのです。幕府は、民衆からも見放されつつありました。

対立の激化

将軍家茂の死

徳川家茂

徳川家茂   紀州藩主から13歳で将軍となった。もとは慶福といった。勝海舟ら家臣の信望も篤く、政略結婚をさせられた和宮ともよい夫婦であったといわれる。

幕府側が手詰まりになっている中、14代将軍家茂が満20歳の若さでなくなります。脚気(かっけ)だったそうです。スイーツが大好物だったことも原因の一つだともいわれます。幕府側はこれを名目に停戦とします。
 

十五代将軍 徳川慶喜

次の将軍をどうするのか、家茂は田安亀之助(のちの徳川家達)を指名しましたが、3~4歳の幼児ではどうしようもありません。一橋慶喜しかいません。しかし慶喜はごねます。「徳川家は継ぐが、将軍は…」と。松平慶永は「この機会に、将軍なんか辞めて、一人の大名として、他の大名と相談しながらやっていけばどうですか」といってきます。
慶喜は、天皇の要請と大名たちが「慶喜さん、是非お願いします」といわれ「それなら仕方ないなあ」という形をとりたかったのです。しかし、多くの大名はしらけムード、かなり嫌われつつあったんですかね。数人の大名と孝明天皇の推薦で将軍になります。かつてのエースも人気がた落ちです。

孝明天皇の死と明治天皇

直後、慶喜に不幸がおとずれます。もっとも頼りになった?!孝明天皇が急死したのです。
孝明天皇

孝明天皇  その強い攘夷思想が、幕末の動乱の引き金を引く形となった。1863年以降は、幕府側との協調を強めていたため、当時から暗殺説があった。

天然痘でした。熱が下がってほっとしたところ、急に出血して死んだのです。あまりのタイミングなので、当時から毒殺説がささやかれました。「伊藤博文がかかわっている」「こんなえげつないことできるのは岩倉しかいない。彼が裏で糸を引いている」「天皇は筆をなめる癖があったから墨に毒を仕込んだのだ」最後には「トイレで座っているところを下から刺された」なんて話もあります。
しかし天然痘にはよくある症状だそうです。ただ天然痘の流行期ではありませんでしたが。
後をついで天皇となったのが後の明治天皇、当時16歳。祖父は反幕府派の中山忠能。こうして慶喜はもっとも有力な後援者をなくしました。
<次の授業 幕府の滅亡と戊辰戦争> 
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