満州事変の発生

東京書籍「日本史A」P124
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満州事変の発生

柳条湖事件

 1931(昭和6)年9月18日、中国東北部(当時「満州」とよばれていた)の奉天(現在の瀋陽)の郊外の中国軍駐屯地のそばの南満州鉄道の土盛りで小さな爆発がありました。

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 爆発音を聞きつけて出てきた中国兵と日本兵の間で銃撃戦があり、現場のそばに中国兵の死体がありました。
この「事件」に対する「関東軍」の反応は素早いものでした。この事件を中国国民党・張学良(日本軍に殺された張作霖の子ども)軍の攻撃だと断定した関東軍は各地で中国側に戦闘を仕掛けました
東京書籍「日本史A」P124

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不意をつかれた中国側は、首領の張学良が不在であり国民政府が戦闘を禁じたこともあって、つぎつぎと拠点を奪われていきます。
実際の爆発は列車の運行に支障のない程度のもので、ある証言者は手榴弾二個程度を放り込んだ程度と話し、爆破の直後に列車が何事もなかったように現場を通り過ぎています。
中国から東北部を切り離し日本の支配下に置くために関東軍が起こしたということは当時から「世界の常識」でした。普通の日本人を除いて!
悲しいことに大部分の日本人が「世界の常識」を知るのは15年後、つまりすべてが終わってしまったあとだったのです。軍や政府の説明を信じた日本人は、この事件は中国・張学良軍の暴挙だと信じ続けていたのです

この爆破事件が「柳条湖事件」で、これをきっかけにはじまった戦争が満州事変です。

こうして日本と中国は、1937年に始まる日中戦争、アジア太平洋戦争へとつづく十五年間にわたる戦争(「日中十五年戦争」)を開始しました。

関東軍参謀 石原莞爾という人物

「満州事変」を計画したのは関東軍参謀石原莞爾いしわらかんじです。

石原莞爾https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/Kanji_Ishiwara2.JPG

石原は「世界最終戦が、アジア代表の日本と欧米代表のアメリカの間で行われる」というSF風の歴史観をもち、最終戦に勝利するには「アメリカ依存の体制を脱却し、経済的に自立するだけの資源や経済力が必要である。資源の豊富な『満州』、さらにはシベリアを獲得し、自給自足体制を作ることが必要だ」と考えていました。
この考えに基づき、関東軍や陸軍中央の若手将校らをまきこんで計画、実行したのです。陸軍中央は、こうした動きを察知して幹部を派遣しましたが、その幹部は石原らの行動を黙認しました。
柳条湖事件を知った現地外交官(領事)は「平和的交渉」をはかろうとしますが、関東軍に「すでに統帥権の発動を見ている。それに口出しするのか」と阻まれました。かれらにとって「統帥権」とは軍隊の勝手な行動の別名になってしまっていました。
関東軍の行動こそが天皇の指揮命令権に反する「統帥権の干犯」そのものでした。明治憲法にすらに反する形で始まった「満州事変」は東北部全土へと広がっていきました

「不拡大政策」と陸軍

柳条湖事件は当時の第二次若槻礼次郎民政党内閣にとって不意打ちでした
東京書籍「日本史A」P124

東京書籍「日本史A」P124

 外相の幣原喜重郎は朝食中に読んでいた新聞ではじめて知ったと語っています。あやしいものではありますが。
浜口内閣の対中国中立・反軍拡・国際協調路線をひきつぐ若槻内閣は不拡大方針をとります。天皇も、側近グループもこの方針を支持しました。
ところが、その前にさまざまな勢力が立ちふさがります。
現地・関東軍は、最初から内閣なんかは無視している確信犯です。途中でやめる気などはありません。
事件の発生と同時に真相を察知したであろう陸軍大臣や参謀本部長なども、一度は不拡大に動きますがまわりは関東軍の行動を支持する勢力ばかりです。へたをすればクーデターをおこしかねない状況であり、かつ自分たちがやりたくともやれないことをやってくれたという思いもあったのでしょう。しだいに関東軍の行動を容認するだけでなく、内閣の不拡大方針を攻撃する立場へと移っていきました。

マスコミの過熱報道と戦争熱の高まり

関東軍や軍部を「元気づけた」のが、新聞とラジオを中心とするマスコミであり、それに煽られた世論です。
東京書籍「日本史A」P124

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ラジオは関東軍・軍部の発表をそのまま垂れ流し、新聞は現地軍への応援と中国側への侮蔑と憎悪を煽る記事を書き立てます。
これまでから新聞は戦争ごとに発行部数を爆発的に伸ばしてきた歴史があります。今回も各紙はあらそって扇情的な記事を書き立て、発行部数を伸ばそうとしました。
あらたに参戦したのはラジオ放送です。事変の開始をきっかけに、ラジオの保有台数は一挙に倍増しました。
マスコミはのちの外相、松岡洋右が扇情的に用いた「『満蒙』は日本の生命線という言葉を繰りかえし用いられました。
「満州」進出によって不景気からの脱出ができるという軍部の宣伝を信じた人も多く、昭和恐慌の閉塞感のなかにいた人々にとって連戦連勝の活躍は日頃のうっぷんを晴らしてくれる「カッコよく」心躍るものでした。しかし、日本軍が優勢だったのは当然でした。中国の正規軍は抵抗を禁じられており、抵抗したのは地方軍閥だけだったからです。
軍部もマスコミに圧力を掛けます。リベラルな記事を書いてきた大阪朝日新聞は陸軍将校の「訪問」をきっかけに記事の内容を一変させ、軍部支持の好戦的な記事を書き、競争して戦争協力のキャンペーンをすすめます。
軍部を批判する記事や報道は見られなくなりつつありました。
※こうした動きについては別に「満州事変とマスメディアという文章を書きました。よければ参照してください

「起こってしまったものは仕方がない」のか?

不拡大方針をとる内閣や天皇側近グループは厳しい立場に置かれます。
帝国書院「図説日本史通覧」P269

帝国書院「図説日本史通覧」P269

日清・日露の戦争の血であがなった『満蒙』の地をみすみす手放そうとするのか」といった攻撃や「軟弱外交をとっているため、中国側になめられて日本の国益を損っている」という批判が浴びせかけられたからです。

柳条湖事件と満州事変の勃発は国内の軍国熱を一挙に高め、浜口時代の軍縮の空気を吹き飛ばしてしまいました。
戦争は一度始まってしまうと一挙に空気を変えてしまいます。それがナショナリズムというものの恐ろしさです。
軍中央が現状を追認し戦闘の拡大を容認すると、内閣は不拡大方針はとるものの、この事態を”事変”と位置づけ「宣戦布告をしないが戦争に準じる状態」としました。
こうしたなか、「満州」に隣接する朝鮮軍が天皇の許可なしで軍隊を「満州」に投入するという事態が起こりました。この行動は天皇の命令を明らかに無視した「統帥権干犯」であり軍法では死刑に値する行動です。
この時、「これはルール違反だ。朝鮮軍を元に戻し、司令官をきっちりと処罰すべきだ」という声がでていれば、これ以降の日本の運命は変わったかもしれません。
残念ながら『男子の本懐』とばかりに関東軍の横暴を止めるために命をはる軍人も、政治家もいませんでした。軍の最高司令官=「大元帥」である天皇も不快感をもちつつ、「統帥権」を発動しませんでした。
軍中央はこれも追認、逆に内閣に圧力を加え「でたものは仕方がない」といわせ、その経費支出を認めさせました。天皇は朝鮮軍の行動を追認する許可を出し、最後には天皇が「感状」なるものを軍隊に与え「軍隊は勇敢に戦った」としてほめたたえます。

日本近代史の「負の遺産」と満州事変

近年、企業経営で重視されるのが、コンプライアンス(法令遵守)やコーポレートガバナンス(企業統治)という視点です。

政府の意向を無視して対外出兵を強行した台湾出兵にはじまり、日清戦争での旅順虐殺事件、閔妃殺害事件、関東大震災時の大杉栄殺害などなど、日本には、軍部が起こした不祥事を「くさいものにふた」として見逃したり、「起こったものは仕方がない」とかれらの「コンプライアンス」に反する行動を許してきた近代日本の歴史的「コーポレートガバナンス」のなさが深く根を下ろしていました。

ルール違反を黙認したり追認したりして、厳しく責任を問うことのない政治のありかた、それを容認する風土、それは明治維新以来の日本の政治のありかた、とくに明治憲法体制のなかで育まれました。それが、関東軍の行動に見られる独断専行を許し、不拡大方針を強く打ち出そうとする事を躊躇させたのです。

満州事変を起こすきっかけを作った石原莞爾自身も、のちに中国戦線で独断で軍を動かした軍人から「あなたが『満州』でやったことをやっただけだ」と反論され、返す言葉がなかったというエピソードも残っています。
命令を無視して行動を起こしても、罰せられるどころか、賞賛されるという常識では考えられないことが、軍隊では当たり前となっていきました。
 その結果、
「勇敢だ」「カッコいい」と思わせたいためにさらなる命令無視をつづけ、失敗を正すことのできないどころか、勇気をふりしぼろうとする勇敢な人間の足を引っ張る愚劣な軍人たちが次々と出現します。
もちろん、テロやクーデタ計画などことあるごとに見せつける軍部や右翼の暴力への恐怖、関東軍の行動を認め軍部の満州侵略を支持する国民の動き、こういったものが、強く「不拡大方針」を打ち出すことを躊躇させました。

さらにいえば、軍部も若槻や幣原も、程度の違いはあるとはいえ、満州などの日本の権益を中国の民族主義の高まりから守ろうという点では変わりがなかったといえます。「手段は違うが考えは分かる」という思いも心の奥にあったのかもしれません。
日清・日露戦争にはじまった他国を植民地とすることや他民族の土地財産に「特殊権益」を設定するという日本の帝国主義的なありかたが、日本の政治を社会を病んだものにしていました。

日本は皮膚病、内戦は内臓の病

では、このような日本側の明らかな侵略に対して、中国の国民政府はどのように対処したのでしょうか。
当時の国民政府にとって頭の痛い問題が二つありました。
日本の侵略の拡大と勢力を増しつつある共産党勢力との戦い国共内戦)の二つでした。
のちに蒋介石は「日本は皮膚病であるが、共産党は内臓の病である」といっています。皮膚病はかゆくて眠れない事もあるがそれがきっかけで命を落とすことはない、しかし内臓の病気は生命に直結する。だから「日本との戦いよりも共産党との戦いの方が先」だと。
同時に国民政府内部での深刻な対立もありました。北伐の過程で軍閥を組み込んできたこともあって列強との対応などをめぐって意見の一致が見られず不安定な情勢が続いていました。
こうした情勢が、日本との直接の戦闘を避けさせたのです
かわりに進めたのが世界の力で日本を押さえ込むことでした。
日本の侵略行為を国際連盟に提訴し、世界の力で日本を止めようとしたのです。
「満州」で日本軍と戦っていた中心は、日本が「匪賊」「馬賊」といって山賊扱いしていた地方の軍事勢力が中心でした。

第二次若槻民政党内閣の崩壊

当時の第二次若槻内閣の大臣はほぼ浜口内閣のままです。幣原喜重郎外務大臣が協調外交をすすめ、井上準之助大蔵大臣が金解禁政策を続けています。
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井上準之助大蔵大臣 井上は民政党総裁となるがテロリストに暗殺される。

この間、世界恐慌=昭和恐慌はいっそう深刻化していました。
柳条湖事件が発生した1931年9月には恐慌に耐えかねたイギリスが金本位制を離脱、金本位制がグローバルスタンダードであるという金解禁の根拠が崩れました。これをみた財閥系の銀行は大幅な円売りドル買いをすすめます。井上は対抗して大量のドル売りを進め、いっそうの金の流出が進みました。
政府・金解禁政策の支持派であったはずの財閥が金解禁に踏み切った若槻=井上民政党内閣を見捨てたのです。
国民が恐慌で苦しんでいるにもかかわらず「国益」を無視して巨額の利益を得た財閥への不満も高まります。
これは政党政治を嫌い、軍隊中心の政治を実現しようと考える勢力にとって格好の攻撃材料でした。
財閥が巨万の利益を得る一方で、人々の生活は恐慌によって破壊され、唯一の希望である日本の生命線である満州進出は政党政治によって妨害されている」と。
ついに民政党内部にも亀裂が生じました。
1931(昭和6)年12月内閣の中で政友会との連立を求める動きが生まれると若槻は内閣総辞職、元老・西園寺は悩んだ挙句、政友会総裁犬養毅を総理大臣に指名します。

犬養毅政友会内閣の成立

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犬養毅

犬養は第一回議会以来の衆議院議員で、かつては護憲運動で活躍し尾崎行雄と並ぶ「憲政の二神」と呼ばれていました。いったん引退していましたが田中義一の死後復活、立憲政友会総裁となりました。
「統帥権干犯問題」では憲政破壊以外の何物でもないような民政党攻撃を行ったものの、満州事変に対しては軍部とは距離をとっていました。西園寺は若槻の再任を望みながらも、自分や天皇に火の粉がかかることを嫌い、「憲政の常道」にしたがい、こうした犬養に期待をいだき総理に指名しました。

高橋是清蔵相による「金輸出再禁止」

犬養にとっての大きな課題は二つでした。

高橋是清

一つ目は「満州事変」です。孫文以来中国側とのパイプをもつ犬養は、「自主交渉」によって事態の改善をすすめようと考えていました

そうした姿勢から、中国側が提案した国際連盟の調査団の受け入れを決め、関東軍などがめざす満州の分離独立にも消極的な姿勢を貫きました。

二つ目は「金解禁」政策への対処です。犬養はこれを元首相・高橋是清に託しました。
高橋は、内閣成立前に、関係諸機関・関係者を密かに訪問して根回しのうえ、内閣成立と同時に、金輸出の再禁止、管理通貨制への移行を果敢に実施しました。

帝国書院「図説日本史通覧」P271

帝国書院「図説日本史通覧」P271

高橋は、大量の赤字国債を発行、それを全額日銀に買い取らせることで通貨量を大幅に増やし、その資金で公共事業などの景気刺激策を実施するという「積極財政」を始めます
この方法は、ニューディール政策としてアメリカが導入した政策と似た手法であり、イギリスのケインズが体系化した経済理論につながるものでした。
高橋は長年財政にかかわってきた体験をもとに当時の経済学の常識にとらわれずケインズと同様な結論に達していたのでした。

輸出の急増とソシアルダンピング

この政策は劇的な成果を上げました。
管理通貨制への移行と通貨・円の大量発行は円の交換レートを円安へと大暴落させました
帝国書院「図説日本史通覧」P271

帝国書院「図説日本史通覧」P271

1円約50ドルで交換されていた円が一時は100円20ドルまで暴落します。
それは50ドルだった商品が20ドル、つまり半額以下で売りだすことでした。
さらに金解禁が品質や価格競争力も向上させていました。浜口・井上の金解禁政策が金解禁中止によって成果をあらわしたのでした。

こうして安価の日本製品とくに綿製品がアジアをはじめ恐慌でくるしむ世界に輸出され、欧米製品を圧倒し始めます。あまりの低価格に世界はソシアルダンピング(「不当な安売り」)として日本を批判、世界をブロック経済の方向に押しやることになります。

景気刺激策と軍事費の肥大化

大規模な景気刺激策も行われました。
政府が巨額の財政出動に踏み切ったのです
ひとつは壊滅的な被害をうけていた農村の立て直しでした。
もうひとつあります。浜口内閣が、命に代えても押しとどめようとしていた支出・・・軍事費支出、その増加にもハンドルを切ります。
犬養内閣は、満州事変には批判的でしたが、資金面では満州事変を援助することになりました
重工業生産高の国際比較 帝国書院「図説日本史通覧」P271

重工業生産高の国際比較 帝国書院「図説日本史通覧」P271

軍事費の増大は停滞気味であった重化学工業を一挙に活性化させました。鉄鋼や石炭、機械、化学といった分野が急速に発展、設備投資がはかられます。
そのことがさらなる需要を生み出す相乗効果となります。
新興財閥といわれる企業も成長しはじめます。こうして、日本は昭和恐慌から、あるいは世界恐慌から、世界で最も早く抜け出すことに成功しました。
都市部では一転、好景気に沸き、エログロナンセンスという風潮が世間を覆いました。

ブロック経済とファシズム

高橋財政の成功の裏には多くの問題点が潜んでいました。
恐慌下のデフレで苦しむ国にとって、信じがたい安価で投入される日本製品は恐るべき脅威でした。日本製品にシェアをうばわれ、会社の存続の危機を深刻化させます。その結果、人員削減、工場閉鎖、倒産といった危機が深刻化します。
日本経済の復活が、他国のさらなる不況につながりました。
そこで各国は自衛策をとりはじめます。
日本が利己的な政策をとるなら、自分たちも国益重視の利己主義でいくとばかりに。
たとえば、イギリスが極端に安い日本商品と戦うためにはどういう作戦が考えられますか?
自分の国や植民地、勢力圏に日本の製品が入ってこないようにすればよい・・ですね。
外国の商品から国際産業を守るために最もよい手段といえば・・関税を高くすることです
イギリスは、本国だけでなくインドやオーストラリア、カナダなど自国の植民地や勢力圏に入って来る外国製品に高い関税を掛けることにします。
帝国書院「図説日本史通覧」P271

イギリス連邦との間の輸出入が減少している一方、アメリカからの輸入は増加しつづけている。帝国書院「図説日本史通覧」P271

たとえば日本がインドで20ドルという安値で綿織物を売ろうとしても、関税が40ドルかかるとインドでの日本製の売値は60ドルとなり、本来は日本製より高いけれども関税のかからないイギリス製の50ドル綿織物の方が売れるというようになる、このようなやり方です。
 この政策によって日本製品はインドやオーストラリアなどイギリスの勢力圏から閉め出されます。同様の政策をフランスもはじめます。
このような保護主義的な政策をブロック経済といいます。自国と自国の植民地・勢力圏を高い関税のカベで保護し、他国の商品を売りにくくするというやり方です。
このようなイギリスやフランスのやり方にたいし、日本は「持てる国」イギリスやフランスが、「持たざる国」日本(やドイツ・イタリア)をいじめていると主張します
そして日本なども同様のブロック、他の国の商品が入らない勢力圏を求めるようになっていきます
上の表で対日本勢力圏への貿易額が急増していますね。このような状態となるのです。
世界の大部分の地域は英仏などに押さえられています。
だから「英仏など「もてる国」中心の不公平な世界をただすのだ」「軍事力に訴えても新たな世界秩序を作る」というファシズム的な主張が説得力を強めました。
日本は、こうしたブロックをまずは中国東北部(「満州」)で、さらには中国全土、さらには東南アジアから英仏米の勢力を追い払って…というふうに考えはじめます。
ヨーロッパではドイツやイタリアも自国のブロックを手に入れようと動き始めます。
よく保護貿易は戦争につながるといういいかたをする人がありますが、それはこうした経験からきているのです。

軍事費の肥大化がもたらしたもの

積極財政による景気刺激策、とくに軍事費の増大にも危険がありました。財政支出の裏付けは、内外からの借金、具体的には赤字公債の増発です。しかしそれは期限が来れば返さねばならないものです。

高橋は「財政の神様」とも呼ばれ、戦後50円札の肖像にもなった。

もう一つ、財政支出の増加は大歓迎されますが、肥大化した支出を縮小することは痛みを伴い、つねに大きな反対を受けます
高橋財政が一挙に増やしたのは軍事費でした。
いったん増やした軍事費を減らすことは命がけです

高橋には自信がありました。自分がいる限り、景気がよくなれば財政縮減をしてみせるとおもっていたのでしょう。
しかし・・・。高橋も226事件で軍に殺されます。
高橋の死後、だれも軍事費の肥大化に歯止めを掛けられなくなりました。
前に示した「国債発行額と軍事費のグラフ」を見れば、高橋の死後の異常な状態が分かると思います。
ともあれ、浜口=井上がおしとどめようとした軍拡の流れは、ついには歯止めがかからなくなりました。

農村の窮乏とファシズム運動

円暴落で輸出の急増を支えたのは綿工業などでした。その様子は次のグラフにはっきりと現れています。しかし、綿業の原料である綿花もイギリスやアメリカに依存していました
帝国書院「図説日本史通覧」P271

綿織物・綿糸の急激な増加とともに、生糸輸出の激減と停滞にも注目して欲しい。 帝国書院「図説日本史通覧」P271

他方でもう一つの貿易の柱であった生糸や絹織物は輸出高は大恐慌により恐慌前の30%に落ち込み、回復の兆しを見せていません。
生糸などの輸出の9割近くがアメリカとくにその富裕層向けでした。世界恐慌の直撃を受けたアメリカに生糸を買う余裕はなく、化学繊維も作られはじめていました。
日本の貿易や農村を支え、原料から一貫して自前で生産できる唯一の産業である絹業が打撃をうけていました。
貧しい農村の生活を支えていた養蚕業が破壊されたのです。
さらに1931・32(昭和6・7)年と連続した大凶作は農村の貧困をいっそう深刻化させました。
高橋財政による好景気も農村には届かず、農村への対策も軍事費の膨張の中で打ち切られます。悲惨な状況はさらに深刻化していきます。
ここに好景気に沸く都会=重化学工業と、破滅的な状況が続く農村=農業という鋭いコントラストが生じました
こうした農村の状況に対して敏感な反応を示したのが直接兵士たちと接触している現場の青年将校たちでした。
明治以来、最も強兵とされたのが北海道・東北といった地域出身の兵士たちです。ところが、こうした地域出身の兵士の質の低下はかれらに農村への目を開かせました。
ただ彼らは、農村の窮乏の原因の大きな原因が軍事費の膨張にあることには決して目を向けようとはしませんでした。
軍隊の青年将校たちは民間右翼とも結びついて、自己利益の追求のみに走る財閥、それとむすびつき農村の貧困を放置する政党、などへの反発を強め、軍隊を中心とした国家改造を求めファシズム運動との結合を進めていきます。

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追記:一部加筆訂正を行いました。(2022.7、19)
なお、同じ時期について記した以下の文章も参照していただければさいわいです。

1:満州事変とマスメディア
2:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪

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