昭和恐慌からの脱却と高橋財政の功罪

満州国の産業開発
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昭和恐慌からの脱却と高橋財政の功罪

高橋是清蔵相と管理通貨制度への移行

高橋是清(1854~1936)

1931年12月、浜口雄幸内閣に はじまった金解禁政策は、第二次若槻内閣の崩壊で井上準之助蔵相が退陣、終了します。かわった犬養毅内閣のもとで大蔵大臣となったのは総理大臣もつとめた高橋是清です。総理大臣としては力を発揮できなかった高橋でしたが、エコノミスト・財政家としての手腕は当時の世界でも屈指でした。金融恐慌の混乱を解決した時以上の冴えをみせ、昭和恐慌の日本を出口に向かわせました。ただし、その出口がどこに向いていたかが問題ですが・・。
就任に先立ち、高橋は日本銀行・大蔵省など関係機関と調整をすましており、就任と同時に金輸出再禁止を発表、あわせて次々と新政策を打ち出します。
中心となったのは金輸出再禁止であり、金本位制から離脱し管理通貨制への移行でした。つまり紙幣と正貨としての金の交換を停止、政府は手持ちの金正貨の量に左右されることなく、紙幣の発行量を増やすことが可能となりました。
この政策は、扱い方を間違えると重大な副作用を生じます。紙幣の過剰発行により通貨への信用が下落、最悪の場合にはハーパーインフレを引き起こすからです。同時に肥大化させた財政を正常な状態に戻すのは非常な痛みをともなうからです。
とはいえ、恐慌が深刻化し景気刺激策が必要なのにもかかわらず、金正貨が減少したからといってさらなる不況につながる通貨縮小策でデフレスパイラルに落ち込ませた井上財政と好対照であり、恐慌の脱出にはきわめて効果的な政策でした。

円の大暴落と輸出拡大

高橋は市場への貨幣供給を、赤字国債の発行と全額を日銀に買い取らせるという手段で実施しました。

浜島書店『新詳日本史』

つまり国債を発行しても、不景気のなか金融市場にはそれを購入するだけの資金がありません。したがって、低利で発行した国債をすべて日銀に買い取らせる(非募債発行)
ことで資金を獲得、その分の貨幣を市場に供給したのです。こうして供給された貨幣は、それまでの貨幣供給量の8倍強という膨大な量にのぼりました。
突然の、膨大な貨幣の供給はインフレを発生させます。円の信用は暴落、金解禁政策によって100円=49.845ドルに固定されていた円の価値は一挙に下落、ついには100円=20ドル前後まで暴落します。(最終的には100円=28~29ドルの交換レートでほぼ落ち着きます。)
100ドルで2個しか買えなかった日本製品が急に5個買えるようという大安売りを開始したことを意味します。
円の大暴落によって、国外における日本製品の価格は暴落、日本製品は恐慌で苦しんでいる各国・地域の消費者に大歓迎され、その輸出額は一挙に拡大しました。

輸入品の価格上昇~産業保護と原価高騰

円の暴落には別の側面があります。
100円で買えた輸入品がこれまでの4割しか買えないということです。綿花や石油といった原料価格が暴騰し、当時の日本では作れなかったような高品質の機械や鉄鋼なども同様でした。
これは二面性を持っています。日本製品の品質向上によって対処しうる製品は、代替品生産と技術革新がすすむきっかけとなります。製鉄業や化学工業のように海外製品のシェアが高かった産業では有利に働き、その発展につながりました。政府は、さらに関税の引き上げをも行うことでその発展につなげました。

主要資源の外国依存度
帝国書院『日本史図録通覧』

他方、国内での代替が困難な綿花や石油・鉱物資源といった原材料や、高度な技術水準が要求される工業機械などでの価格上昇が起こります。原価の上昇の原因になります。
重化学工業の発展は、日本経済の欧米とくにアメリカへの依存度を高めました。こうしてアメリカが日本経済の死命を制するという状態へと進んでいきます。

輸入増加の背景~構造改革の効果

輸出拡大は、円安効果だけが原因ではありませんでした。浜口=井上らが期待していた日本産業の構造改革という政策が金解禁政策=昭和恐慌という劇薬を経ることによって大きな効果を発揮したのです。
人員削減・賃金の引き下げ、作業工程などの合理化などが、日本製品、とくに大企業の製品を、より安くより高品質なものとしていました。こうした日本製品が、東南アジア、さらには世界へと洪水のように、それまでの国際貿易の秩序を破壊しながら広がっていったのです。
このことについては、のちほどに見ていきましょう。

時局匡救事業と農山漁村更生運動

山口川洪水調整池~時局匡救事業として建設された。(Wikipedia『時局匡救事業』)

 

赤字国債の発行によって獲得した膨大な資金の多くは、公共事業などによって有効需要を増やすという景気刺激策に用いられました。
アメリカで行われたニューディールと似た政策が、アメリカに先立ってすすめられます。
その中心はとくに恐慌の被害が大きかった農村の立て直しでした。時局匡救事業がはじめられ、農産物の価格上昇の一方で、道路・河川改修・治山治水などの土木事業によって現金収入の途が絶たれた農民に労賃収入を与えようとしました
しかしそれは農民に一時的な余裕を与えたにすぎないものでした。地主=小作関係という農村の構造問題を避けた一時的な弥縫策にすぎず、根本的な解決とはほど遠いものでした。
とはいえ、少なくとも一時的な資金が農村に供給され、建設やセメントや鉄鋼といった業界へのカンフル剤ともなりました。しかし時局匡救事業は、国債消化の減速と軍事費需要の拡大の中、当初の計画通りわずか3年で打ち切られました。

 これにかわるのが農村の「自助」と、満州などへの移住です。
1932年に始まった農山漁村更生運動は、町村有力者による経済更生委員会のもと、土地分配の整備、土地利用の合理化、農村金融の改善、労力利用の合理化、農業経営組織の改善、生産費・経費の節減、生産物の販売統制、農業経営用品の配給統制、各種災害防止、共済、生活改善などをすすめようとしました。こうして「農業の生産過程から流通過程に至る『合理化』の強制と、農民の精神主義的教化とに恐慌克服の方途を求める」ものでした。(この項、日本大百科全書「農山漁村更生運動(森武麿執筆)」参照)
 それは一方で農村の伝統的な力に依存しつつ、他方で自作農や上層の自小作農といった農村中堅層を担い手として農村の自立更生を図ろうとしました。政府は指定された地域にある程度の補助を出すかわりに、こうした農村に末端の行政機能を移行していきました。

軍事費の増大と重化学工業の発展

浜島書店『新詳日本史』

資金が向かったもう一つの行き先は軍事費でした。
金輸出再禁止と赤字国債発行は、厳格な財政規律を守ることで軍事費の肥大化を防ごうという浜口内閣以来の歯止めを取り去ることでした。満州事変発生にもかかわらず、民政党内閣が押さえ込もうとした軍事費は一挙に拡大、一般会計に占める軍事費の割合が30.8%(1931年)から46.9%(1935年)と膨張、その多くが軍需産業としての重化学工業へと流れ込んでいきました。

産業構成の変化:主要製品別生産額 (単位:100万円)武田晴人『日本経済史』より作成

以前示した生産額ランキング表から、恐慌直前の1929年と昭和恐慌・満州事変を経て日中戦争が始まった1937年の部分を切り出して示しました。
両者の違いは明らかです。
まず、赤色で示した重化学工業の数が軍工廠を含め半数を占めるようになりました。一位におどりでた鉄鋼の生産額が4.3倍に急増したことをはじめいずれも倍増しています。電気機械が初登場し、船舶も1919年以来久しぶりにランキング入りしました。工業薬品・人絹など化学工業も目立ちます。
他方、幕末以来、日本経済を支えてきた生糸が6位と減少、ここでは唯一生産額を減少させています。また輸出関連以外の消費財生産部門の姿が減っています。
このように1937年には重化学工業と綿工業が日本経済を牽引するようになりました。綿工業もこの年に始まった日中戦争のため最後に減少に転じていきます。

急増する軍需と低迷する民需

総需要の伸び 

 重化学工業は、昭和恐慌から早い時期に脱出、日本の工業生産高に占めるシェアは1938年54.8%、従業員数でも53.6%と多数を占めるようになりました。
 なお、戦後日本の経済を伸張させたのも重化学工業でした。しかし、戦後の重化学工業が主に民需によって支えられていたのとは異なり、満州事変から日中戦争、さらには日米開戦をにらんでの軍需中心、政府・軍部主導の「準戦時体制」⇒「戦時体制」という名の総力戦体制の進行にともなう重化学工業化でした。
他方、急速な経済発展のなかで民需は追いやられました
総需要の変化を示した右のグラフは1920年代までの経済成長が民需の上昇に支えられていたのに、1930年代以降は民需に変わって政府投資・政府支出が総需要の伸びの支えてきたことがわかります。こうした需要の多くが軍需関連でした。
軍需工業発展の資金を大量に供給するきっかけをつくったのも高橋「積極」財政でした。

軍縮条約からの脱退~際限なき軍拡競争へ

もう少し軍需についてみておきましょう。
海軍をはじめとする軍部は、この時期、これまでの軍縮条約が日本に不平等であったとして、軍艦保有率を米英と同数にすることを強硬に主張、日本は1934年にはワシントン軍縮条約破棄を通告、なんとか軍縮の枠組みにとどめようとするイギリスを振り切って軍縮会議を脱退、1936年12月には軍備拡張を制限していた条約はすべて消滅、世界は無制限建艦競争に突入しました。そして、日本(さらにドイツ)の軍備拡張は、危機感を感じる他の国々の軍備拡張を招き、際限なき軍拡競争が引き起こされるようになりました。
軍部はさらなる軍事予算の拡張を求め、高橋らはその抑制に腐心します。しかし、かつて日露戦争の戦費をまかない、その勝利に貢献した高橋には、自らの力で軍部を抑えることへの自信があったのかもしれません。

高橋財政の行き詰まり~国債が消化できない

各国の工業生産力の推移(山川出版社『詳説日本史図説』)

日本が恐慌の危機を脱し、景気上昇に転じたことは想定外の問題を生みました。
通貨の供給は、政府が低利の国債を発行する形で実施されました。その国債は、日銀が景気をチェックしながら適切な時期に売り出され、市場の過剰な資金を吸収することでインフレ抑制と景気の過熱感を冷ます役割を担いました。しかし、このやり方がいきづまり始めました。
景気が回復し、株価が上昇、投資意欲が高まり、より高利の出資先が生まれると、低利の国債の買い手が減ったのです。発行され国債が消化されず、新たな発行も困難となりはじめました。これによりインフレと景気過熱を警戒する政府の手が縛られはじめます。

東京書籍日本史A P127

こうして時局匡救運動は停止され、軍事費の抑制も余儀ないと考えられはじめます。しかし、いったん動きだした軍事費の肥大化を止めることは極めて困難でした。とくに「無条約時代」を前にして、軍拡要求をとどめることは高橋の力でも難しかったのです。
1936年、高橋は二二六事件で殺されました
蜂起した青年将校たちにとって高橋は、日露戦争を勝利に導いた「恩人」ではなく、国家にとって最も必要な軍事費拡大を妨害し、国家を危機に陥れる「国賊」でしかありませんでした。

大量輸出がもたらす貿易戦争

高橋財政により、日本は世界で最も早く世界恐慌の出口を見つけました。しかし、その出口が他国の恐慌脱出を妨げ、国際協調という流れを破壊することをどれだけ考えられていたでしょうか。

綿業の発展

日本が恐慌から抜け出せたのは、おもに綿製品をアジアをはじめとする世界に大量輸出したためでした。
オランダ領インド(現:インドネシア)では、日本製綿布のシェアは恐慌前の41%から84%へと倍増、日本の経済成長につながりました。こうして日本綿製品などの市場は東南アジア全域からインド・オーストラリア・南米・アフリカへと拡大していきます。
円安に加え恐慌中の生産性向上の成果によって、日本は一定の品質を保ちながらも圧倒的に安価な製品を提供しました。
世界恐慌は、先進国それ以上に植民地などの諸地域にダメージを与えていました。そうした地域では少しでも安価な製品への需要が高まっていました。そこに日本製品が世界に販路を広げた理由があったのです。

浜島書店『新詳日本史』

日本製品の輸出急増は、恐慌で苦しんでいる他の国々のシェアを奪うことでした。
 先にみたオランダ領インドをみると、宗主国オランダ製の綿布のシェアは28%から5%に、イギリス製も20%から3%と激減、事実上撤退を余儀なくされました。インドではインド民族資本のシェアも奪いました。
当然のことながら各国は対抗措置をとります。とくに綿工業で競合関係にあるイギリスはさまざまな手段で対抗しました。
一つは日本製品の安価な理由は低賃金・長時間労働・労働強化の結果というソーシャルダンピング批判であり、正常な為替相場以下に為替を引き下げて低価格輸出を行う為替ダンピング批判でした。しかし、こうした事実の立証を行うことは極めて困難で、国際労働局は実地調査の結果、日本製品にソーシアル=ダンピングの事実はないとの判定が下さざるをえませんでした。

ブロック経済の採用

さらにイギリスは、大英帝国内部への日本商品の輸入に制限をかけようとし各地で日英貿易戦争ともいう事態が発生しました。
英領インドでは日本製品への関税引き上げを図りますが、日本側もインド産綿花の不買という対抗措置をとりました。セイロン(スリランカ)やマラヤなどでは日本製品に割当制を導入、保護領カナダではダンピング税を課しました。これにたいし日本側は通商擁護法を制定、木材・パルプなどに輸入制限を課すなど対立が激化します。
イギリスはしだいに「持てる国」としての優位性を表に出す政策を本格化します。植民地・保護領など大英帝国の勢力圏を高関税障壁で囲み、日本をはじめとする他の国の商品の侵入を防ぐといったブロック経済(スターリングブロック)の導入です。フランスもこれにつづきフラン=ブロックを構築、アメリカは日本製品への輸入制限措置に踏み切ります。

洪水のよう世界に販路を拡大した日本製品は、世界の保護主義への流れを生み出し、急速に市場を狭めらます
とはいえ、綿花や石油といった原材料、高度な技術を要する工作機械などは欧米諸国に頼らざるを得なかったため、欧米諸国とりわけアメリカとの経済的つながりはいっそう強まっていました。
一方で、欧米諸国と貿易戦争を繰り広げながら、他方では欧米諸国に従属的な立場にならざるを得ないのが、日本経済でした。

植民地経済への依存

 

満州国での産業開発 帝国書院『図説日本史通覧』

列強と経済摩擦を引き起こし、市場から閉め出されたことは、朝鮮や台湾という従来の植民地、さらに満州事変で事実上の植民地とした「満州」への依存を高めることにつながりました。
すでに商品市場にとどまらず、工場の進出なども相次ぎました。満州や朝鮮北部・台湾には巨大な水力発電所が建設され、その電力、豊富な天然資源、低廉で無権利な労働力を利用して工場進出が相次ぎました。並行して重工業製品の輸出も増加しました。

中国侵略と対立の激化

 日本は市場の拡大と、総力戦体制構築のための軍需物資・資源確保のため、中国とくに華北への進出をさらにすすめました。
中国は、ながく日本の最大の輸出相手国ですが、二十一か条要求にはじまる強引な侵略政策は強い反発を引き起こしており、とくに1931年に始まる満州事変は日本製品ボイコットを組織的に展開されるまでにいたり、輸出は激減していきました。
他方、国民革命(北伐)を成功させ、一応の国家統一を実現した国民政府は経済発展に力を入れていました。懸案であった関税自主権は1929年末までにほぼ実現、消極的な対応をとり続けた日本も1930年に承認しました。米英両国の積極的支援の下に1935年には幣制改革を実現、国内に流通する銀を国有化、かわって政府系機関が発行する紙幣(「法幣」)を全国的に通用させるようになりました。こうした政策で中国経済はこれまでにない成長を遂げるようになっていました。
こうした中国に対して、日本は、関係改善と友好関係構築とは逆に、侵略のさらなる拡大と、軍事的に圧力をかけることで妥協をせまるやり方でした。
1931年9月柳条湖事件にはじまる満州事変で日本は中国東北部を占領、植民地化(「満州国」建国)し、さらに「満支」国境地帯=華北および東部内蒙古方面への侵略を拡大、あわせて国民政府に圧力をかけ反日運動の取締などの譲歩をせまりました。国民政府も、国内統一を第一として日本に妥協的態度をとったため、国内の反発を買いました。

華北分離工作(帝国書院『図説日本史通覧』)

1933年の日中両軍の間の停戦協定(塘沽停戦協定)の結果、華北に広大な非武装地帯が設定されました。
日本軍はこれを利用して、その地域にしだいに影響力を浸透、1935年になると第二・第三の「満州国」ともいえるような傀儡政権を打ち立て、更に影響力を拡大しようとしました。
こうした地域が公然と国民政府の関税をすりぬける密輸の舞台となりました。あわせて大量のアヘンなども売買されました。
国民政府の統治を無視したかのような日本製品の流入は、日本への反発を招くと同時に国民政府への不信にもつながりました。また中国市場のシェアを奪われることになるイギリス・アメリカの更なる反発も買いました。

高橋財政の終焉と戦時財政

高橋是清は犬養内閣以来、つぎつぎと変わる内閣においても大蔵大臣として昭和恐慌で傷ついた日本経済を立て直そうとしつづけました。しかし1936年二二六事件での殺されました。その死は、軍備拡張に対する最後の歯止めを日本が失ったことを意味していました。高橋の死は、就任の時と同様に日本経済を大きく変えました。

歳出に占める軍事費の割合と国債発行額  帝国書院『図説日本史通覧』

二二六事件で崩壊した岡田啓介内閣にかわったのは広田弘毅内閣です。
広田内閣の発足に対して陸軍は人事などに次々とクレームをつけ、結局は陸軍のお眼鏡にかなった人物のみで内閣が組織されました。大蔵大臣となったのは馬場鍈一でした。
馬場に高橋のような確固とした姿勢を望むことは不可能でした。馬場は高橋が掲げていた国債発行によって財政規律を保つやり方を放棄、増税と公債増発によって軍部が要求する膨張する軍事費をそのまま受け入れる膨大な予算を立てました
この結果、国債は急速に増大、軍備拡張には大量の資金がつぎ込まれます。膨張する軍事予算に引きずられる形での国家予算は膨張、経済は次第に戦時色を濃厚にしていきます。こうした状態は、際限なくエスカレート、1945年の敗戦まで続きます。
二二六事件で高橋が殺された翌年、1937年7月7日北京郊外の盧溝橋での日中両軍の偶発的な衝突をきっかけに日中両国は全面的な戦争へと突入します。日中戦争です。ある意味では広義の「第二次世界大戦」が開始されたともいえます。この戦争は第一義的には中国との戦争でしたが、同時に高橋財政の下で進んだ英米との経済対立の結果であり、代理戦争の面ももっていました。にもかかわらず、日本の軍事力は資源では全面的に、さらに技術の一部も、アメリカそしてイギリスに依存していました。
そして日中戦争が深刻化し、経済の軍国主義化、総力戦体制下、日本を昭和恐慌から救い出す決め手であった綿工業も、生糸に続いて犠牲とされます。
日本は本格的に戦時体制にはいっていきます。

※日中戦争以後の日本経済については、戦時下の社会というテーマの中の第二回「総動員体制の成立」でまとめました。
併せてご覧いただければ光栄です。
なお、この記事との整合性を図るため、また明らかな誤記を訂正するため、この記事も一部改変しました。(2021年12月19日追記)

<日本経済からみる日本近代史>

1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪
9:総動員体制の成立(戦時下の社会(2))

 

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