戦時下の社会(2)~総動員体制の成立

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戦時下の社会(2)~総動員体制の成立

2,総動員体制の成立

(1)総力戦体制

日中全面戦争の開始は日本社会を大きく変えました。総力戦体制への移行が一挙に進んだのです。
総力戦とは、戦争に勝つために自国が持っているすべての国力を総動員して戦おうという戦争のあり方です。
ある事典の言い方を借りれば以下のようになります。

「旧来の武力戦のみの戦争と異なり,武力戦を中心としつつ軍事,政治,経済,思想,文化など国家の総力をあげての激烈かつ長期にわたる過酷な戦争であり,とりわけその国の経済力と国民の政治的,思想的団結力が決定的に重要な意味をもつ戦争である。そして総力戦を戦いぬくためには,国家総力戦体制,すなわち一国のすべての国民と物的資源を有機的かつ有効に組織,統制,動員し,現代戦争を遂行するために必要な一元的戦争指導体制を樹立することが緊急の課題となる。」(世界大百科事典)

総力戦においては、経済力、政治的思想的団結力が決定的に重要となり、「一国のすべての国民と物的資源を有機的かつ有効に組織,統制,動員」すること、そのための指導体制の樹立がもとめられるということになります。
こうした内容が日中戦争の過程の中で急速に進んでいきます。

一つめは大量の兵力の投入と、死傷した兵士の補充として。
二つめは武器・弾薬といった軍需物資不足への対策として。
三つめは熱狂を演出するなかで国民の「団結」として。
そのなかで「一元的戦争指導体制を樹立」がめざされます。

総力戦体制がもたらした「変革」と戦後日本

日中戦争のなかで、次々と課題が生じ、解決策が練られ、さらに新たな問題を生みました。計画的な面もありますが、「盗人を捕らえて縄をなう」といった行き当たりばったりの対応も多かったといえます。

とはいえ、戦争遂行という目的を効率的にすすめることは、いつのまにか政策立案者の意図も超えたような結果を生み出したように思います。
戦争遂行にむけての合理的選択は、日本社会の非合理さや矛盾をあぶりだし、障害として排除しはじめます。地主制、財閥制度、家長中心の家族制度といった戦前社会を支えたシステムと対立せざるを得なかったのです。生まれつつあった体制は、ナチスドイツのファシズムあるいはソ連型「社会主義」に似た社会でした。
こうしたなかで生まれた諸政策は、占領と戦後改革のなか、「民主国家建設」「経済再建」さらには「対米従属」という枠組によって「再定義」され、戦後日本に受け継がれます。

(2)統制経済の開始

日中全面戦争の開始直後の37年9月、三つの重要な法律が制定されました。
①「臨時資金調整法」
②「輸出入品等臨時措置法」
③「軍需工業動員法の適用に関する法律」
です。

①「臨時資金調整法」 企業の長期資金調達に際しては、政府の審査が必要という法律です。繊維・紙・商業など平和産業への投資を後回しにして軍需産業などに資金が回りやすくするねらいがありました。

②「輸出入品等臨時措置法」 1936年以来の軍拡で減少した外貨を軍需物資の輸入に優先的に割り当てるため、輸出入に関係ある物資の需給を統制する法律です。
これにより「木綿よさようなら」という事態が発生します。

③の「軍需工業動員法の適用に関する法律」 軍需に関する主要工場を軍の管理下に置くという内容です。
軍需にかかわる工場は、私企業であっても軍の命令に従って、軍需関連物資の生産を命じられることになりました。

いずれも、私有財産の保護や契約の自由といった近代資本主義の原則に抵触するものであり、経済への国家統制を進める内容でした。

1)兵器の準備

近代戦争は膨大な武器・弾薬を消費します。戦争を維持するには、大量の武器弾薬を作り続ける必要があります。

動員用部隊の砲弾まで使いつくしからっぽになった」という事態に遭遇した陸軍・動員担当の佐藤賢了中佐は、民間工場へ砲弾製造設備の新設と拡張を依頼しました。
これにたいし、軍の要望を受け入れて大損害を蒙った経験を持つ民間軍需産業は難色を示しました。そこで陸軍は、政府が必要な設備の新設・拡張を企業に命令でき、損失が生じた場合は、保障するという軍需産業を保護する制度をつくりました。(藤原彰「日中全面戦争」)
兵器を生産するのは軍需産業です。しかしそれだけでは不足です。その素材や工作機械などを生産する重化学工業なども発展させる必要がありました。
しかし一朝一夕にできるはずもなく、とりあえずは現状の施設をフル稼働させることで対応しました。そのため、現場に無理をおしつけました。各工場では長時間労働などが蔓延します。
十分な技能を持った労働者が不足し、そうした労働者する応召されるという事態のなかで労働力確保が重要になりました。

2)資源確保

輸入依存度(武田晴人『日本経済史』より作成)

輸入依存度の表から
右の表は、1937年段階の輸入依存度、つまり国内で必要な物資のうち、何%を輸入に頼っているのかを示す表です。
例えば「100%」の生ゴムは国内生産できず、すべてを輸入に頼ったことがわかり、逆に米や鋼鉄、石炭などは10%以下であり、ほぼ国内産で賄えたことを示します。
これを見ると銅を除く鉱物は、半分以上を輸入に頼っており、重油も80%を輸入に頼っていました。
兵器を作るため主要な材料の鉱物の多くを海外からの輸入に頼っており、とくに石油はアメリカと蘭印(現:インドネシア)両地域で大部分を占めていました。

経済の軍国主義化と外貨不足の深刻化
盧溝橋事件の前年、二二六事件をきっかけに成立した広田内閣の馬場財政は軍拡に向けて急ハンドルをきりました。その結果、軍需生産が急増、鉱物などの輸入が急増しました。その結果が、外貨不足です。
高橋財政のもと、綿製品などの大量輸出で外貨を稼いできた日本も、こうした政策でせっかくの外貨が激減しました。イギリスなどが実施したブロック経済も外貨不足につながりました。
また輸送船不足は、実態として貿易量を制限していました。

日中戦争の開始にともなう外貨不足
こうした状況下で日中戦争が始まったのです。

戦争は石油や鉄鉱石などの物資をさらに必要としました。
そのために、外貨をそちらに回す必要があります。輸送船の使用についても同様です。そのため貿易に際して優先順位をつける必要が出てきました。そのため制定されたのが「輸出入品等臨時措置法」でした。

輸出入品臨時措置法

政府は貿易関係品にたいする全面的な統制権限を持ちます
輸入すべき対象を、鉄鋼・非鉄金属・繊維・燃料・化学薬品・機械・食糧・雑品の「8分科96品目」とし、外貨や船舶を考慮して、年間輸入量を30億円とします。そして、この枠を陸軍・海軍・民需の三つが取り合うことになりました。
結果は明らかでした。軍需優先、民需は犠牲となりました

綿工業の没落
民需にかかわる最大の輸入品は綿花であり、とくに国内向け綿製品生産は外貨減少を引き起こす原因と考えられました。こうして国民生活から綿製品が消えていきました。
しかし、綿工業は外貨獲得の花形でもありました。綿花不足は綿製品の輸出不振にもつながり、さらなる外貨不足を招きました。
最大の輸出先であった中国華北地方が日本占領下、円ブロックに組み込まれ外貨獲得と結びつかなくなったことも、外貨減少につながる皮肉な結果でした。
日本の経済を支えた二本柱は、昭和恐慌時の生糸につづき、綿工業も消えていきました。このことは戦前日本を産業構造が終焉をむかえたことを示していました。

日米通商航海条約の消滅
日本の中国侵略はアメリカ・イギリスを刺激、1939年アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告、翌40年に破棄されました。アメリカからしても、自分が支援している中国を苦しめるための物資を日本に輸出することには問題を感じていたのでしょう。

帝国書院「図説日本史通覧」P271

にもかかわらず、日本はアメリカとの貿易をつづけ、その額は拡大していきます。
アメリカが支援する中国と、アメリカから輸入した原材料でつくった兵器や燃料でたたかっていました
この奇妙な関係は、1941年12月の対米英戦争の開始によってやっと解消されます。

(補)なぜ支那事変なのか?

これまでこの戦争を日中戦争と呼んできましたが、日本も中国もこの戦争を正式な戦争と位置づけていませんでした。近衛内閣は正式な宣戦布告を検討したのですが、ある事情から断念しました。その事情とはアメリカの資源に依存しなければ中国と戦えなかったという事情です。
 当時アメリカには「中立法」という法律があり、交戦中の国に対しては中立を守るため、軍需物資の輸出を禁止することが定められていました。もし宣戦布告すれば、この項目が該当し、日本はアメリカからの石油をはじめとする資源が調達できなくなります。このため、これは戦争ではなく、国際ルールを守らない中国に対するお仕置き(「防支膺懲」)であると強弁することによって、輸出停止という事態を避けたのです。
同じ事が中国もいえました。アメリカなどの援助が必須であった中国としても「中立法」の適用は非常に不利です。そして、同じ事情はアメリカも同様でした。中国を援助しつつ、大の「お得意様」である日本への輸出停止は不況で悩むアメリカにとっても困ったのです。
こうして日中米の奇妙な利害一致によって、日中戦争は名目だけは「支那事変」であり続けたのです。

3)戦費の確保

膨大な戦費
日中戦争は膨大な資金を必要としました。その金額を戦前の日本がおこなった他の戦争と比較したのが右の表です。一ヶ月の戦費が一般財政の一ヶ月の経費の9倍というのですから、その規模の大きさ、異常さが分かると思います。

臨時軍事費特別会計と国債購入と貯蓄奨励

戦争が始まると、政府が戦争終結までを1会計年度とする巨大な臨時軍事費特別会計が準備されます。資金は大量の国債発行によってまかなわれました。国債購入は国民精神総動員運動の一環として位置づけられ、町内会・部落会、隣組というルートでおろされ、各家庭は購入することを半ば強制されました。貯蓄奨励運動も同様の意味合いを持っていました。

臨時資金調整法
限られた資金が軍需産業以外にいかないようにするのが臨時資金調整法でした。このことは、民需関係の企業の設備資金や株式・社債発行、会社新設・増資を制限することで、企業活動を停滞させる結果ともなりました。
「輸出入品等臨時措置法」も物資への統制を利用し、民需を抑制し軍需への資金の流れをつくる役割を果たしました。こうして民需を抑制しつつ、大量の資金が軍事予算につぎ込まれました。

対米英・対ソ戦争を想定した会計
なお、臨時軍事費特別会計などの軍事予算は中国との間の戦争だけで使われたわけではありません。陸軍はソ連を仮想敵とみなし準備をすすめ、海軍はアメリカと戦えるだけの装備を要求していました。
こうした目的にもこの資金がもちいられました。こうして戦艦大和や武蔵といった巨大艦船の建造されました。

なお、アメリカと戦うだけの予算を要求したことが、海軍にアメリカとの戦争を拒めなくしたと言われます。
膨大な予算を使いながらアメリカには勝てないといえなかったのです。
実に日本的な、腹立たしい理由です。

4)物価・賃金統制

インフレーションの発生
国民がほんとうに欲しいものは作れず、民間資金を吸い上げ、軍需工場につぎ込みました。この結果、民需にかかわる物資が不足しているにかかわらず、膨大な資金が市場に投入されました。インフレーションが発生しました。
戦争は人々の犠牲の上にすすめられました。不平等感も広がっていきました。

物価・賃金統制の開始とヤミ市場
1939年10月以降、政府は物資の価格統制・流通統制に踏み切り、大都市での配給制度、衣料品の点数切符制などを導入しました。
価格統制は物資を裏のルートに流すヤミ市場の形成も促します。労働力の不均衡や賃金格差の拡大などは労働力の統制や賃金抑制も始まります。

俸給生活者に対する源泉徴収制の開始
給与生活者におなじみの制度もこの時期に始まりました。高額の税金を負担させても、あまり気がつかれない制度です。源泉徴収」です。1940年4月の所得税法改正をきっかけに開始されました。サラリーマンなどの俸給生活者は毎月の給料から有無を言わさず所得税を「天引き」されるようになり、現在にいたります。
政府からすれば所得税を取りはぐれることがないし、サラリーマンは気がつかないまま支払い、それが普通だと思い込む。
自営業の人とサラリーマンの税金への意識の感覚の違いも生まれました。
実質賃金の低下
労働組合などが消滅しつつあったため賃金の抑制は容易でした。しかし品不足からくる物価上昇は一片の命令では抑制できません。
ヤミ市場はさらに拡大し、価格上昇がすすみました。賃金が上がらないまま物価が上昇したため、実質賃金は低下の一途をたどりました。

(2)国家総動員法の制定

私有財産の保護や職業選択の自由、居住の自由といった自由権は近代的な法体系、さらには資本主義経済の基礎となる原則です。
ところが、総力戦体制の原理はこの原則と衝突しました。
国家の命令での会社を整理統合したり、人員を別の仕事に移したり、労働を強要したり、仕事を辞めさせなかったり、土地・財産を接収したりすることも、必要だというのです。戦争の遂行のためには、立憲主義や民主的な手続きも、機動的な措置を進めるうえで障害に過ぎないと考えます。議会という制度は時間がかかりすぎつ、議会を通さず、機動的に物事をすすめるルールが要求されました。

そこで議会における審議を省略し、行政側だけで、多くの事を実施できる法律と機関が提起されました。それが国家総動員法であり、資源局と企画局を合併させた企画院でした。

国家総動員法は「戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む)に際し国防目的達成の為、国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」(第一条)ことを目的とし、政府は勅令によって国民の徴用、団体などの協力、雇用の制限、労働争議の防止、物資の使用・収容、資金の需給調整、工場施設などの収容、鉱業権の制限、物価統制、出版の制限・禁止などを命令する権限を持ちます。

この法律は、帝国憲法の生命ともいえる議会の予算・法令審議権を、有名無実とし、執行権力の独裁を確立させるものです。各政党はもとより貴族院などからも強い反対の声が上がりました。
当時の近衛内閣は、いくつかの条項を削除し、首相自らが「日中戦争下では発動しない」と言明します。政党などにたいし、軍や右翼による脅しもありました。
こうして、議会の自殺ともいうべき「国家総動員法」は可決され、1938年4月1日、公布されました

さきの言明にもかかわらず、政府は一ヶ月もたたないうちにこの法を根拠とした命令を発します。翌年3月には国民徴用令や価格等調整令など主要な勅令を一挙に発しました議会には口を出す権限は残っていませんでした。
国家総動員法に基づいて出された勅令は次の一覧表が示すように膨大な数に上りました。
こうしてさまざまな戦時統制の法令の大部分は、議会の制約なしに制定され、国民生活は細部に到るまで規制下に置かれるようになりました。

国家総動員法関係勅令
A 人的資源の統制および利用に関するもの
国民職業能力申告法(39.1)従業員雇入制限令(39.3)工場就業時間制限令(39.3)賃金統制令(39.3)工場事業場技能者養成令(39.3)国民徴用令(39.7)賃金臨時措置令(39.10)会社職員給与臨時措置令(39.10)船員徴用令(40.10)従業員移動防止令(40.11)労務調整令(41.12)重要事業場労務管理令(42.2)
B 物的資源の統制および利用に関するもの
価格等統制令(39.10)地代家賃統制令(39.10)電力調整令(39.10)臨時農地価格統制令(41.1)臨時農地等管理令(41.2)生活必需品物資統制令(41.4)配電統制令(41.8)金属等回収令(41.8)物資統制令(41.12)農業生産統制令(41.12)
C 資金統制および運用に関するもの
会社利益配当及資金融通令(39.4)会社経理統制令(40.10)銀行等資金運用令(40.10)株式価格統制令(41.8)
D 事業の統制および運用に関するもの
工場事業管理令(38.5)軍需品工場事業場検査令(39.10)工場事業場使用収容令(39.12)陸運統制令(40.2)海運統制令(40.2)貿易統制令(41.5)重要産業統制令(41.8)企業許可令(41.12)戦時海運管理令(42.3)金融統制団体令(42.4)企業整備令(42.5)
E 文化統制および運用に関するもの
聞紙等掲載統制令(41.1)新聞事業令(41.12)
三和良一『概説日本経済史近現代[第二版]』(東京大学出版会2002)

(3)軍需産業の隆盛と「不振産業」

殷盛産業の登場と地獄部屋

これまでの話では、人々の生活はどんどん苦しくなったと聞こえたとおもいます。基本線はその通りです。
しかし、昭和恐慌のようにものが売れなくなって、仕事がなくなり会社の倒産が続くというものとは大きく異なっていました。

伸び続ける鉱工業生産
上の図によると、35~37年の平均生産高を基準とすると、対米英戦争が始まる41年までの軍需生産は12倍、44年には23倍というとてつもない増加率を示しました。それに引っ張られてこの時期の鉱工業生産が1.7倍に増加しました。決して不況ではないのです。
軍需産業と関連産業には注文が殺到していました。施設規模は拡大し、フル操業状態になりました。さまざまな手段で労働力がかき集められ、綿工業など立ちゆかなくなった産業の工場なども軍需工場に転用しました。

成金の出現
こうした産業は「殷盛(いんせい)産業」「殷賑(いんしん)産業」などとよばれ、好景気を満喫していました。庶民の生活苦をよそ目に、成金が続出、その景気は百貨店業界や花柳界などにも及びました。
ある経営者は花柳界に5~6日間いつづけ、5~600円を散財し「一度くらいお大尽を体験したかった」と語りました。福井の温泉場には人目をはばかった10名の経営者が集まり、一夜に1200円もの豪遊したとの記事が新聞をにぎわしました。(ちなみに大卒の会社員の年収が約750円という時代です)

ある新聞記事
好景気は一部の労働者の懐も潤したとされます。
39年の「新聞」には大阪で約100人の職工が大量に電車にのりこみ、遊郭の町に出かけていった様子が報じられました。
「殷盛産業」の労働者の収入が増えたのはたしかでした。しかしその実態は長時間労働にともなう時間給の増加や大量の発注に対する請負給によるものであり、定額部分の増加はわずかでした。かれらの「放蕩」は、長時間で緊張を要する労働の対価だったのです。こうした記事は、かれらにいっそうの貯蓄や国債消化などのノルマを貸す結果となりました。

結核と労働災害の蔓延
長時間労働からくる過労による結核や工場災害も多発しています

労働力不足から、こうした産業の労働者は転職が法令で禁止されました。
ある炭鉱の例をみると、賞与が中止され、月給40円のうちから「愛国貯金・退職手当・家賃・電灯費・燃料費」などが割り引かれ、それを埋め合わせるため一日10~15時間労働を行ったり、35~38時間の連続勤務を15日のうち平均6回も余儀なくされました。「殷盛産業」は「地獄部屋」によって支えられていました。(江口圭一『二つの大戦』小学館)

性病の蔓延と慰安所
職工たちが大挙として遊郭にくりだしたエピソードは過酷な労働に追われる産業戦士が慰安所に列をなすというおぞましい話でもあったのです。
実際、1939年という時点で、北海道や九州の炭鉱地などでは朝鮮人労働者のための「産業慰安所」が計画・開設され、朝鮮人女性が連れてこられました。戦争末期には軍需工業密集地帯にも工員のための新たな「性的慰安施設」も設けられます。
当時の工場労働者の間に、結核とともに性病が蔓延していたことを当時の医師が証言しています。
慰安所は前線兵士だけでなく、「産業戦士」向けにも開設されていたのです。(林博史「遊郭・慰安所」林他編『地域の中の軍隊9』2015)

「不振産業」と「代用品」・転廃業

不振産業
その一方で、国民の生活にかかわりある産業~たとえば織物・漆器・陶磁器・自転車・皮革・木材・貴金属・貝ボタンなど~は、原材料や資材がまわしてもらえず、資金もまわってこなくなり、さらに経済統制による生産制限などもあり、「不振産業」とよばれました。そうした産業は、なんとか生き残ろうとして手に入る資源をもちいた「代用品」生産に活路を見いだそうとしました。

代用品の広がり

山川出版社「詳説日本史図録」P280

代用品」の代表がスフ(人絹)でした。ちなみに木綿に比べスフは派手な色彩がでやすかったため、逆に町が派手になったという不思議な「副作用」もありました。
「国語大辞典」の「代用品」の記述の中に以下のような内容を見つけました。引用します。

昭和一三年(一九三八)頃から、軍需優先の厳しい物資統制のため、民間では鉄、石油、羊毛、木綿、皮革、木材などが不足するようになった。それを補うために政府の主導で、例えば、合成繊維スフ、鉄製に代わる陶器製鍋や竹製スプーン、木製ハンドバッグ、豚皮の靴、木炭車や薪自動車など、様々な代用品が生産、販売された。

不振産業の整理統合
「不振産業」のなかのあるものは軍需産業への転換をはかり、他のものは転廃業を余儀なくされます。そしてこの部門で働いていた人たちは、軍需工場の新入りの職工や炭鉱や鉱山の鉱夫として働くことが求められました。
庶民にとって必要なものがつくられなくなり、働いていた人も去って行きました。物資はさらに品薄になり、価格は急騰します。
そして木綿がスフにかわったように、多くのものが「代用品」におきかえられていきました。

(4)労働力の偏在と「国民徴用令」

1)労働力不足の深刻化~軍需・炭鉱・農村

日中全面戦争が開始されると、多くの男たちが召集され、兵士として中国大陸に送られました。
召集に最適な成人男子は、工場や農業の中心的な担い手でもありました。かれらが生産現場などから連れ去られたことで、その補充としての労働力の争奪戦がおこっていました。

軍需工場での労働力不足

爆発的ともいえる軍需産業の拡大という事態の中、こうした産業に従事する熟練工や技術者のためには「召集猶予制」や「召集延期制」などが導入されました。労働力不足は転職禁止命令とあいまって「地獄部屋」を生んでいました。

炭鉱や鉱山
炭鉱や鉱山でも人員不足が顕著になってきました。この職場では熟練度は低いものの頑健な体力を必要とするため、応召も活発に行われ、労働力不足はさらに深刻となりました。
これに対応すべくすすめられたのが、朝鮮半島からの労働者の受け入れでした。さらには時代が進むと日本軍征服下の中国人も連れてこられるようになりました。

農村での労働力不足
労働力不足は農村でも深刻でしたた。
精兵は農村出身者であるといった伝統的な考えで、軍は当初、農村から兵士を集中的に召集したため、農業の担い手や村のリーダーなどもが次々と召集されました。
軍需産業も農村から余剰の労働力を引き抜きました。こうして不況下に「過剰人口の調整池」となっていた農村は一転して労働力不足に陥りました。労働力不足は、駄馬の徴集や化学肥料不足とあいまって、食糧危機をひきおこし兼ねない状態でした。苦境にあった農業は、女性や老人らの過酷な労働によって支えられました。
政府は、一転、農村からの人口流出をさけようという政策を見せ始めます。

2)「国民徴用令」

労働力の偏在化
人手不足が深刻となった産業がある一方、国内販売の禁止と輸出が停滞した綿工業や、配給制の進行などで開店休業状態となりつつある小売業やサービス業、商業などの分野では仕事が激減しました。
こうした中、物的・人的資源の有効活用を進めるべきという議論がいっそう加速していきます。
同じ職種の会社が併存しているのは無駄であり整理統合することで資源の有効活用を図り、「余剰人員」を人手不足の職場に回わそうというのです。

国民徴用令~「白紙徴用」
こうして出されたのが「国民徴用令」です。「召集令状」(「赤紙」)で国民を召集するのと同様に、一片の通知(「白紙徴用」)で人々を人手不足の軍需産業や炭鉱・鉱山などに徴用・動員するようになります。こうした人々を「徴用工」といいます。

「徴用令」の女性への適用~「女子挺身隊」
国民徴用令はのちに未婚女性(「女子挺身隊」)などにも適用されます。対米英戦争が始まり、戦局が悪化するなか、事務などの仕事はいくつかは女性の仕事と位置づけられ、働いていた男性は他の職場への移動を余儀なくされました。女性が様々な職場に進出していったことも事実です。

「徴用令」の植民地への適用~「強制連行」
「国民徴用令」は朝鮮半島など「外地」でも適用され、朝鮮の人々は半島各地や日本列島(「内地」)各地に送られました
「国民徴用令」そのものが適用されたのは1944年のことで、それ以前は「募集」「官斡旋」という名目で同様のことが行われていました。

とくに多く送られたのが、著しい労働力不足が叫ばれていた炭鉱や鉱山、土木建築現場など重労働の現場でした。
「当時は日本の一部で政府の国民徴用令に従う義務があった」という人がいますが、その集め方や扱いは明らか内地の人間とは異なるものでした。さらに明治憲法をはじめ多くの法律が朝鮮半島では施行されなかった事から見て、「当時彼らは『日本人』であり、『日本人』である以上法律に従う義務があった」というのも無理がある論理だと思われます。
連れてこられた朝鮮人たちの多くは炭鉱などに送り込まれました。しかしその現場は落盤の恐れやガスや水の出やすい最も過酷な場所でした。同じ朝鮮人労働者であっても、自主的に公募に応じて雇われた労働者とは待遇が大きく異なりました。こうした側面を重視して「強制連行」という言い方が多用されてきました。

このような乱暴な手段でかり集められ、日本内地や朝鮮・「満洲」などの鉱山や工場に送られた朝鮮半島の人々が、支払われるべき賃金や補償金をもとめて日本企業(日本政府)に対し訴訟を起こしたのが現在問題となっている「徴用工訴訟」です。
さらに朝鮮では若い女性を「女子挺身隊」として集めるということも行われました。しかし、かなり多くの人が本来の挺身隊ではなく「慰安婦」として戦場に送られ、性奴隷として扱われました。この結果、韓国では「従軍慰安婦」と「女子挺身隊」が混同されて用いられるようになりました。

国民徴用令とは
このように国民徴用令は、他の産業分野に従事していた人々、未婚女性、学生生徒、そして朝鮮半島住民などが、必要と見なされた産業分野に強制的に移動させることを可能にした命令でした。そうした命令は「国家総動員法」によって合法化されました。

職能給から家族給・生活給へ

「徴用令」などによる労働者の強制的な配転は新たな問題を生みました。
それまでは一家の主として、ときには経営者であった人間さえも、見たこともないような現場で、やったことのない仕事を「新入り」として働かされるのです。本来なら、技能もない「新入り」に高い賃金が払われるわけありません。
しかし、その「新入り」が、父や母、妻や子どもを養わなければならない人間であったらどうでしょうか。「新入り」の賃金では家族の生活が維持できないことは明らかです。さらに「召集」と同様に国家の命令で「徴用」されたのだから、召集と同様の扱いがなされるべきだという議論も成り立ちます。
こうして、徴用工にたいし、政府は技能や成果に応じて賃金を払うというやり方(「職能給」)ではなく、扶養家族を想定した年齢によって賃金を支払うやり方、労働者家族の生活を保障する「生活給」を導入する方向にすすみます。
この賃金体系は戦後日本企業の基本的な賃金体系となり、労働者の生活維持から賃金を考えるやりかたは戦後の賃金体系、年功序列にもとずく昇級制という「日本型労務慣習」へと受け継がれました。

不動産取引のルール変化
ついでにいえば、現在の不動産取引のルールもこの時期に始まります。戦時下で高騰する家賃や地代を制限するために「地代家賃統制令」が出され、地代家賃の値上げが制限されました。これを嫌った家主・地主が借家や土地をいったん回収し、新たな契約を求めようという動きが強まると、政府は「借地法」「借家法」を改正し、正当な理由なく借地人や借家人の契約解除を認めないようにしました。こうしたルールが戦後の不動産取引の原則となりました。

(5)経済新体制運動~財閥の弱体化と官僚主導に

1)企画院事件

こうした動きと呼応して、企画院などで主張されたのが「経済新体制運動」です。企業は利潤追求よりも、生産増強を第一義とすべきである、所有者(資本家とくに財閥一族)と経営者を分離し、経営は有能な経営者にゆだねるべきと説きました。財閥などから経営権をひきはがそうというアイデアは、財界から共産主義的であるという強い反対をうけ、さらに警察によって企画院関係者が検挙されるという事件(「企画院事件」)も発生しました。
実際にかれらの多くは社会主義の影響を強く受けており、戦後には社会党左派などで活躍した人物も多いのです。
しかし、ここで主張された内容は総力戦体制のなかでは、逃れられない必然でした。戦前の経済のあり方は崩壊せざるえませんでした。

2)企業統合と「統制会」

財閥とそれと結びついた特高警察などの反発があったものの、「総力戦」の論理はしだいに企業を財閥を飲み込んでいきます。

企業の整理・廃合
まずすすんだのは、経営困難にさせられ、開店休業状態となった中小企業などの統廃合です。つづいて「不要不急」とみなされた産業でも同様の事態がすすみます。機械なども金物回収のなかで持ち去られ、はたらいていた人々は軍需産業などへ移ります。こうして繊維産業など、日本を支えてきた産業は物理的にも破壊されました。

電力国家管理法
重要な産業では、企業間の競争をさけ、効率的な資源の利用がすすめらるために整理が進められます。
最も重要なのは、国家総動員法と同時に成立した電力国家管理法です。発電と送電は新設の日本発送電株式会社のもとに一元化され、電力会社は地域別の9つの電力会社に整理・統合されました。これが現在までつづく電力九社体制です。
こうした企業統合は他の重要分野でもすすみ、財閥の枠組みをこえた統合も進みました。

新聞業界における統廃合と報道の自由
新聞業界は、新聞用紙の割当を口実にしながら統廃合が進められ、最終的には全国紙三紙(+経済紙二紙)と各都道府県一紙の体制まで統合がすすみました。これは言論の統制にもかかわる問題でした。特定の新聞社や通信社などしか記者クラブに出入りできないようになったことなどとともに報道の自由は失われていきます。そしてこうした体制も戦後にも持ち越されました。

産業別統制会の結成重要産業では統制会(カルテル)結成がすすみました。
これによって、業種ごと各業界は、政府の目標と与えられた原材料にしたがって、統制会がそれを配分し、各企業が生産するという「社会主義」的システムとなりました。これは1940年の「重要産業団体令」によって定められ、鉄鋼、石炭、自動車、航空機などで次々と統制会が結成されました。
各企業はこうして官僚の統制下に置かれました

財閥解体への流れと官僚主導型の産業界に
こうした流れが戦後の財閥解体も準備されました。官僚は産業界に於いても大きな力を持ち、その力は戦後になってさらに強まります。そして官僚主導の日本経済、いわゆる「護送船団」のもとで高度経済成長が実現するのです。

(6)配給制度と、統制経済下での農村の変容

1)公定価格と配給制度

九一八停止令
資源の再配分についてみていきましょう。
軍需生産にかかわる資源の再配分はすでに「輸出入品等臨時措置法」などで整備されており、食糧など生活必需品にかかわる統制がすすみました。
38年3月、政府は綿糸や揮発油重油を扱う業者への切符による割当制・配給制を導入したのを皮切りに、7月には「物品販売価格取締規則」で指定の物品への公定価格を定めます。
指定の品は次々と増加、39年9月いっさいの商品価格・賃金・賃貸料は9月18日現在の水準で固定するという命令がだされます。(「918停止令」)

配給制の本格化
物資不足が深刻化すると、食糧や生活必需品にも配給制が導入されます。
40年11月の砂糖と燐寸が切符制になったのをかわきりに、41年4月には六大都市での米穀が配給制となり、一人あたり一日二合三勺が支給されます。(今の感覚からいうと、二合三勺は非常に多く感じますが、当時の食生活は米のほかは具だくさんの味噌汁と漬物だけといった質素なもので、さらに一品が加われば上等で、米だけをたべるという印象が強いものでした)

衣料切符と「衣料点数早わかり」

肉や魚は9月から、12月8日の太平洋戦争の開戦をはさんで、42年1月には「食塩通帳配給制」「ガス使用量割当制」、2月には「味噌醤油切符制」、つづいて「衣料品」で点数切符制が実施されました。

衣料切符
衣料切符では1人の1年の持ち「点数」が、都市で100点、郡部80点でした。人々は「衣料切符早わかり」という絵入りの一覧表をもとに必要なものを手に入れることになりました。
しかし、1944年には持ち点は30歳以上で40点、それ以下は50点となりました。

2)遅配・欠配とヤミ市場の拡大

配給のやり方も問題の多いものでした。
配給は滞ったり、偏りがちで、人々は正規のルート以外の物資に頼らざるを得なくなります。いわゆるヤミ物資です。
正規のルートでの物品が減少するなか、闇市場が拡大、その価格は公定価格の数倍から数十倍という価格(ヤミ価格)で取引されました。配給の遅配・欠配が進なか人々は否応なく「闇」物資に頼らざるえなっていきました。
賃金が固定化されているのもかかわらず、高騰を続けるヤミ物資、生きて行くにはヤミに依存せざるを得ない人々。こうして実質賃金の低下はいちじるしく、生活難が深刻化しました。

3)食糧供出と農村社会の変容

食糧などの物資を配給のルートにのせるためには、配給用の物資を政府が調達する必要があります。
とくに重要なのは米穀や野菜などを農漁村から調達することでした。このことが農村の姿を変えることになります。
政府は米などを生産農家から直接手に入れるやりかたをとります。それがスムースにすすむように小作料の抑制・軽減など地主の権利を抑制し生産者を保護する政策がとられました。地主を通すことで米の価格があがり数量も減少することを嫌ったからです。
こうして農村を支配してきた地主はしだいに力を失っていきます。実際に米などを生産する生産農家に依拠して「農業生産力の維持増進」しようとしました。

他方、1940年からは、政府が米穀など主要食糧の生産・流通・消費を一元的に管理することで需給調整と価格安定を図る食糧管理(食管)制度が開始されます。
農家に対し、自家保有米を除く米などを統制価格での供出を強制するものですが、農民の意欲減退にむすびつくため、意欲を引き出すためには生産者米価の引き上げなどの手段がとられました。しかし、公的ルートで流れる食糧は増加せず、闇ルートでの取引がいっそう広がりを見せました。
食管制度は、戦後の食糧難、さらには高度成長期の農業政策に引き継がれます。これが終るのは1995(平成7)年のことです。
こうして戦時体制下に食糧を確保しようという政策は結果として生産農家の成長と地主の没落をすすめ、戦後の農地改革の背景を形成しました。戦争遂行という総力戦体制は戦前日本社会の基盤であった地主小作関係を解体しました。(森武麿「戦時・戦後農村の変容」『岩波講座日本歴史18巻』2015参照)
(つづく)

<戦時下の社会・目次とリンク>

はじめに
1,国民精神総動員運動<以上(1)
2,総動員体制の成立<以上(2)>本稿
3,大政翼賛会
4,対米英戦争の中で
おわりに
参考文献<以上(3)

※なお、これ以前の日本経済の流れを知るには、
以下のリンクから下記の記事をご覧ください。
<講座「経済史で見る日本近代」メニューとリンク>
1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪
9:総動員体制の成立(「戦時下の社会」より)

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