金解禁断行と昭和恐慌の発生

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金解禁断行と昭和恐慌の発生

昭和恐慌と金解禁

昭和恐慌とは、1930年浜口雄幸立憲民政党内閣(大蔵大臣は井上準之助)のもとで実施された金解禁と1929年に始まる世界恐慌の相互作用によって発生した不況をさします。

金解禁とは

ではなぜ浜口内閣は、恐慌につながるような危険な「金解禁」政策をとったのでしょうか。

十円札(金貨と交換すると明記されている)

「金(輸出)解禁」(正式には「金(輸出)解禁」)とは紙幣と金(金貨)の交換と国外持ち出しをみとめることです金と交換できる紙幣を兌換(だかん)紙幣といいいつでも金貨と交換できます。(金兌換制度)。写真のように、お札にもそう書いてあります。
このため兌換紙幣は政府や中央銀行の都合でむやみに増発できません。金との交換を求める人が殺到したらシステム自体が崩壊するからです。政府・中央銀行は手持ちの「金の量」という制限のなかでしか紙幣を発行できないのです。財政当局の手を縛る面もありますが、いつでも金と交換できるという安心感から通貨同士の関係は安定します。このように蓄えられた準備「金」をもとに通貨を発行することを金本位制といいます。

金本位制度のよさは為替レートが安定することです。実際、100円紙幣は金75gグラムと交換でき、金75グラムは約50ドルと交換できます。つまり金75g=100円=約50ドル、1ドルは約2円という関係が成立、現在のように1ドルは円レートでいくらか、毎日チェックし、それが数ヶ月後どのように動くかを推測し輸出入そして生産量を決めると共に、どちらに動いても対応できるような「保険」をかけるという為替変動のリスクがないので貿易に関わりの深い会社や国際間で金銭のやりとりをする大銀行などは安心です。「高く売れたはずなのに為替レートのせいで結局損をした」なんて話とは無縁です。ぼくたちの若い頃はそうでしたね。こどものころの「1ドル360円」という呪文を覚えておられるかたもおられるでしょう。

金本位制のしくみ。金の価値を元に各国が通貨のレートを決めることで、通貨同士の固定相場を実現する。

こうしたことから、たとえば大量の預金が集まりすぎて困っていた大銀行は資金を海外で運用しやすくなると金解禁に期待しました。

兌換制度からの離脱=管理通貨

日本は、1897年日清戦争で清から「獲得」した賠償金を元に金本位制を採用しました。(それ以前は銀本位制)。いわば一流国の仲間入りというメンツもありました。しかし、第一次大戦中に世界各国が金本位制から離脱したのをみて、1917年、最後に金本位制を離れました。

金本位制をめぐる年表

金とのつながりが不要になったということは、政府=中央銀行は手持ちの準備「金」にかかわらず、紙幣を自由に発行できることです。こうした通貨が管理通貨です。しかし、通貨量を増やすとインフレを起こしやすく、国際的な信用を失うという問題もあります。
第一次大戦直後の1919年、大量の金を保有していたアメリカが金本位制に復帰しますが後を追う国は現れず、1924年になって強烈なインフレからの脱却をめざしたドイツがマルクの信頼性をたかめるために復帰、金本位制を始めたイギリスが1925年、という風に世界は再び金本位体制に復帰していきました。ただイギリスは国家の威信を考え、みずからの経済力をはるかにうわまわるかつてのレートで解禁したため、不況が長引き、世界恐慌の原因の一つとなったと言われます。同じ過ちをのちに日本も犯しますが・・。
金解禁=金本位制への復帰は、日本でもつねに話題に上る「宿題」でした。しかし不景気がつづいたことや、関東大震災さらには金融恐慌などがあり、政権も短期間でいれかわったことから、実現にいたりませんでした。

クレジット派、それとも現金主義?

ここで、金兌換制度と管理通貨制度、このふたつについてもう少し整理しておきます。

管理通貨はクレジットカードを使いローンを組むやりかた
管理通貨制度は、それぞれの国の判断で通貨を発行できます。
財布にお金がなくても、クレジットでローンをくみ買い物をするというイメージです。当座のお金がなくとも物が買えるし、ローンを組めば車や家といった高価な商品も買える。緊急事態にも柔軟に対応できます。問題は「ご使用は計画的に」というサラ金の宣伝の通りです。無計画に利用すればあとで大変なことになります。
管理通貨制度にはこうした怖さがつきまといます。大量の紙幣を発行し財政規模を拡大し、ばらまけば一瞬みんなハッピーな気分になり、選挙でも有利です。しかし、紙幣を大量に発行するとどうなります。お金ばかりがじゃぶじゃぶあって、物がない、そのため物価が上がる、インフレーションになります。国債という借金も、リスクが高くなるため利息を高くしないと貸してくれなくなります
「まずい」とわかり節約しようしても大変です。生活習慣病でお悩みの方はわかりますね。一度身についた習慣を直すのは大変です。ばらまくときはウェルカムなのに、減らすとなればブーイングの嵐です。暴力沙汰さえ起こります。嫌われものになる覚悟がいります。
この時代でいえば、とくにうるさいのが軍部です。彼らはいいます。「仮想敵国○○と戦うためには、もっと軍事費がいる」。減らそうとすれば「売国奴」とかいって騒ぎ、嫌がらせをし、同調したものがテロにはしる。多くの政治家も人間です。怖くてなかなか踏み出せない。こうして軍事費は聖域化される。

本位制度は「現金主義」

金本位制のメリットとデメリット

ローンは組まず、カードももたず、現金払い一本、「財布にあるお金の枠でしかモノを買わない」金本位制度はこのイメージです。このスタイルにもどすのが金解禁です。
『身の丈』に合った額の通貨しか発行」せず、その枠の中でつつましくやっていく。最初はつらいけど、しだいに健康的な成長が期待できるという考えです。
この『身の丈』が準備「金」の量です。これをもとに客観的に発行できる通貨量の限度を決め、政府もあつまった税金の枠内で財政を運営する。「財布の中にこれだけしかないからダメ!」といういい方で「もっと金をくれ」という人たちを説得しやすくなります。金解禁をすすめた浜口首相や井上蔵相らはこうした手法をとって、財政面から軍部を押さえ込もうとしたともいわれます。
しかしこの考えにも問題があります。たとえば、家族が大病にかかったとか、台風で雨漏りがひどくなった、とかいう場合はどうしますか。多少お金がかかってもしっかりと病気を治療する、家を建て替えるほうが結局安上がりという場合もあります。このやり方は医者に行くお金がないので「卵酒」で我慢し、屋根をブルーシートで覆うというやり方です。それでも費用がかかり、事態も悪化し、いっそう状況は悪くなる・・・。こういうイメージでいいでしょう。
だから、「これでは戦争なんてできない」ということで第一次大戦のときは金輸出禁止=管理通貨に移行、国債を発行し、通貨を大量に印刷するという措置がとられたのです。
非常時には向かない「金解禁」、これを世界恐慌という非常時に行ったことに浜口や井上の悲劇がありました。

金解禁でなにを実現しようとしたのか

なぜ金解禁か。
それは長く続く不況とくに「貿易赤字」を解消することが主要な目的でした。本位制の下では、貿易収支など経常収支の調整に「金」を用いることができます。当時の日本は貿易赤字が続いていたので、金解禁は「金」の流出につながります。手持ちの「金」が減るとで発行できる紙幣も減ります。通貨量が減ると通貨に対しモノの値段が低くなる現象、つまりデフレが発生します。デフレになると、ものが売れにくくなって物価が下がり、不景気となり、耐えられない会社はつぶれます。バブル崩壊以後、よく見た風景です。激安店がふえ、たたき売りが広がります。「リストラ」が流行語となり、雇用も不安定になり、給料も下がりました。「コスト」や「生産効率」「生産性向上」がうるさく語られました。金解禁は、約70年後に私たちが見た風景を作り出そうとしたのです。
「しかし」、ここからが重要です。七〇年前の人たち、とくに経済関係者はある神話を信じていました。
デフレになってモノの値段が下がると、各社はコスト削減のため生産性の向上がはかるはずだ。対応できない会社は潰れても仕方ない。物価が下落すれば安価な輸出製品を供給できる。安くて質がよければ輸出も好調になるはずだというのです。
裏返せば、国産品の値が下がり品質が向上すれば輸入品は割高となり高い輸出品は売れなくなる。輸入が減少し、国産品の売れ行きがのびる。そうすれば輸入が減り、輸出がふえる。貿易黒字となり、流出した「金」も戻ってくる。こうして通貨の供給量も増加し、好景気へとなっていくはずだ。こう考えたのです。

金本位制の自動調整作用の模式図 当時の経済学者の多くはこのような市場のメカニズムによる調整機能をを信じていた。

こうした作用を、金の自動調整作用とよびました。
通貨の安定は鉄鉱石や綿花といった原材料の安定供給につながり重化学工業の発展が促される。「ぜい肉をそぎ落として筋肉質になった日本は面目を一新して世界市場に乗り出せる」1920年代の生活習慣病が改善でき、健康体に戻るというのが、浜口や井上の、そして多くの経済学者の考え方でした。

金解禁は不景気を誘発する!

武田晴人「日本経済史」P239をもとに作成

そんなうまくいくか!とつっこみたくなりますね。さらに
健康になる前に、栄養失調で死んでしまうのではないか」とも。
そもそも「ぜい肉」とは何ですか。それには「過剰とみなされた勤労者」「高止まりした賃金」も含まれます。人為的に不景気にし人々を苦しめ、給料を下げ、大量の失業者も生みだし、社会不安もがまんする。景気刺激策ではなく緊縮財政で公共事業などを削る。こうした「非人道的」な政策、それが金解禁政策です。それがどんなに過酷なことか、バブル崩壊以後の厳しい時期を経験してきたわれわれは経験的に知っています。
でもこの時代の経済学者も、政治家も、民政党も政友会も、多くがこの「神話」を信じていました。ケインズの考えはまだまとまっておらず注目もされていませんでした。ただ、高橋是清のように実際に経済政策にあたってきた人などが体験的に疑問を持っていたという段階でしょう。

浜口らはこうした不況をやむを得ないと考えていました。質の悪い製品、生産性の悪い設備、外からの資金で延命する企業、こうしたものを「整理」し、過剰な人員を減らす、こうした劇薬を投与することで、日本を安定成長にもどせると考えたのです。財閥など大企業に都合がよく、中小企業や勤労者に厳しいとの批判からは逃れられないでしょう。

金解禁は世界のトレンド

なぜこの時期なのか、その理由も見ておきましょう。

一つ目は、すでにみたように他の国がとっくに金解禁に踏み切ったということです。1928年、フランスも金解禁に踏み切り、金解禁をしていない「大国」は日本だけとなります。日本だけ管理通貨制度をつづけるのは国際協調に反するということになります。この時点では金本位制がトレンドでした。民政党内閣の外交方針の基本は国際協調によって平和を維持し、日本と世界の軍国主義化を抑えようという考えでした。日本は経済面でも国際協調を貫きたかったのです

なぜ金解禁ができなかったのか

実は1920年代のほぼすべての内閣が金解禁の機会をうかがい、準備をすすめていました。貿易赤字が続き、1ドル50円というレートを下回る基準が続くなか、延び延びになっていました。その間に、関東大震災の発生や金融恐慌もおこりました。積極財政を党是とし、金解禁で内閣を厳しく非難することになる政友会ですが、田中義一政友会内閣の三土蔵相もひそかに金解禁を準備していました。しかし増税と並ぶ「嫌われものの政策」で、選挙の大敗につながるリスキーな金解禁政策、ばらまきで人気をとる政策が得意の政友会には厳しい政策でした。金解禁は見送られつづけます。
そこに不人気な政策であるにもかかわらず、それが「国益」となると考えて「命をかける」覚悟をした「変わった」政治家とエコノミストが出現したのです。浜口雄幸と井上準之助でした。

なお、金解禁が大きな問題もなく可能だった時期があります。それは1920年以前の好景気、アメリカが金解禁をおこなった直後です。しかし、政友会の高橋是清蔵相は中国状況をみきわめることと人気取りの積極財政の立場から金解禁など金融引き締めにつながる政策を実施しませんでした。その結果、通貨量が増加、インフレが昂進し、株価が急騰、バブル景気となりました。それが1920年3月に破裂します。もし、この段階で「金解禁」に踏み切っていたなら、20年代の「不景気」はそれほど重症にならなかったかもしれませんね。のちに井上準之助は政友会の批判に対し、金解禁の絶好の機会を逃したのは政友会内閣ではないかとの恨みがましい答弁もしています。ちなみにこの時期の日銀総裁は井上でした。当時、日銀の独立性は非常に弱いものでした。

「埋蔵金」消滅と国債の借り換え

在外正貨の枯渇(武田晴人「日本経済史」P238)

二つ目は大戦景気の「埋蔵金」がつきてしまったことです。日本は大戦景気でためこんだ「埋蔵金」ともいうべき在外正貨1920年代の経常赤字を補填、円の安定を図っていました。
ところが、これが関東大震災と金融恐慌で底をつきました。こうして貿易赤字がつづく経済構造の抜本的見直しがせまられたのです。
三つ目は国債の借り換え問題です。日本は日露戦争で莫大な借金をしました。大戦景気の時、かなり返却したのですが、それでも借金はのこり、借り換え、借り換えでしのいできました。次の借り換えの時期が1930年に迫っていました。各国が借り換えに応じてくれなければ、大ごとです。通貨が不安定なままでは借り換えができないのではとの懸念がありました。このためグローバルスタンダードである金本位制による為替の安定を急いだといわれます。

旧平価解禁と新平価解禁論

多くの思惑を秘めながら、浜口・井上のコンビは金解禁へとつきすすみました。かれらがめざしたのは、日本がかつてとっていた1ドル約50円という旧平価での解禁です。しかし、当時の対ドルレートは1ドル46円前後です。旧平価解禁となると、約4円の円高が必要です。たとえば1ドル110円で取引されているドルを無理矢理1ドル100円にするというようなものです。輸出は割高となり、さらに輸入品が割安となり競争力が下がり、不景気になることが明らかです。イギリスは1925年こうしたことを行ったため不景気が長引きました。このようなやり方を浜口・井上のコンビは行おうとしたのです。
これを実現するため、浜口内閣は金解禁に先立って、引き締め政策に入ります。既に決まっていた予算の執行を抑制、さらに高額の給与を得ている公務員の賃金の引き下げをも計画しました。これには当の公務員はもちろん、マスコミも大反対でした。計画では高給の公務員が対象だったはずなのに、全公務員を対象とするかのように喧伝されました。商工省で反対運動の中心、いわば組合委員長のような役割をしたのが、安倍総理大臣の祖父、岸信介でした。反対のあまりの大きさから、賃下げはいったん取り下げられました。
こうして、金解禁以前、緊縮財政によって早くも不景気の傾向を見せ始めていました。

こうしたなかマスコミから「経済における日本の実力からいって1ドル50円というレートには無理がある。実際の実力に即した1ドル46円程度の「新平価」をさだめ、金解禁を行うべきである」との主張が出てきます。中心となったのは、東洋経済新報社の社長で戦後総理大臣となった石橋湛山や気鋭のジャーナリスト高橋亀吉らです。実際、イギリスのように旧平価で解禁した国はそのレートを維持できず早々に金本位制を離脱したのに対し、新平価で解禁したフランスなどはダメージも少なく、もっとも最後まで金本位制度を維持し続けることになり、石橋らの主張の正しさを証明することになりました。
しかし浜口や井上はこれを十分に検討することなく拒否します。金解禁という劇薬によって不採算企業を排除し産業合理化・生産性の向上を実現するためには、新平価解禁は効果がないからです。さらに、旧平価による解禁は国会に諮ることなく大蔵省の省令によって実施できるのに対し、新平価による解禁は法律改正を必要とします。国会審議、それによる遅れを嫌ったという技術的問題もありました。しかし、そうしたやり方は、議会での討議を通して熟議をつくすという重要なプロセスをおろそかにしたことでもありました。そのことが、政友会による金解禁政策にたいする激しい攻撃を生む一因となりました。

金解禁実施

金解禁への期待と不安

井上は全国を巡り、連日講演会などで熱意を込めて金解禁の必要を説きます。井上の熱意と、浜口の誠実な人柄から金解禁への支持も広がります。井上は家計などへの負担も話しています。けっしてごまかしたわけではありません。しかしどこまで理解されたかについては疑問符がつきます。金解禁が行われれば、厳しい暮らしが楽になるという漠然とした希望がありました。「改革」という言葉だけで信じてしまうある種のポピュリズムと同様でしょう。井上も浜口もこの道こそ正しい道だと信じ切っていました。そこに悲劇がありました。
金解禁の準備は着々とすすみます。緊縮財政によって準備金を増やし、アメリカ銀行サイドの保証も取り付けました。

こうして1930(昭和5)年1月11日、金解禁政策が実施されました。

世界恐慌の発生

浜口内閣が金解禁を実施する約3ヶ月前の10月24日、アメリカ・ニューヨーク証券取引所で「暗黒の木曜日」とよばれた株価大暴落が発生しました。暴落は10月29日、11月13日とあいついで発生、「わずか2~3週間に、三〇〇億ドルが空中に吹き飛ばされた。この金額はアメリカが第一次世界大戦で消費した金額に相当し、国債総額の2倍に匹敵」しました。(F.L.アレン「シンスイエスタデイ」)という状態になりました。世界恐慌のはじまりです。
しかし、アメリカの財界人も政治家も、日本の政府・大蔵省も財界人もこの出来事の意味を理解した人は皆無に等しかったと言われます。米財務官は「一時エアポケットに入ったのみで、機体すなわち経済の実態は健全だ」と考え、フーバー大統領も「アメリカ経済は健全な基盤の上に立っており、投機師やいかさま師が消え失せれば再び繁栄が訪れる」と楽観的な展望を語っていました。その直前までのバブルのような熱狂がアメリカをおおっていました。「少し頭を冷やした方がよい」という思いが世間を覆っていたのもバブルの時と同じだったのかもしれません。
しかし、事態は深刻でした。その後の経済指標は悪化の一途をたどります。

日本の金解禁は「地獄の門」が開きつつあるまさにその瞬間になされました。のちに鐘紡の武藤三治が金解禁を「暴風のさなかに雨戸を開け放ったようなものだ」と批判しましたが、まさしくこのたとえの通りでした。
世界恐慌という暴風は、「金解禁」で開け放った窓から日本国内に吹き込み、日本の経済も産業もめちゃくちゃに破壊しました。しかし、浜口や井上はこうした被害が世界初の不況の影響であることを認めず、金解禁による想定内の一過性のものであると思い込もうとし続けたことです。金解禁は、浜口内閣が命運をかけ、満を持して開始した政策であるだけに、途中で中止することはできませんでした。
結果を知っている現在の目で当時を見れば、なんて馬鹿なことをしたのだと思います。悲しいことに、歴史の中に生きている人間がその時起こっていたことの意味を理解することは困難なのです。このときもそうでした。

昭和恐慌がはじまる!

株価、卸売物価の下落は大きいが、工場労働者の賃金減少は漸減。

金解禁の直後、まず発生したのは巨額の金流出でした。最初は、安い価格で円を買い集め、金解禁とともに円を売って金貨を手に入れようという投機家たちによるものと考えられました。
しかし金流出はとまりません。解禁後5ヶ月で2億2000万の金正貨が流出、年末までにさらに8300万円が国外へ流出しました。1932年1月までに国外に流出した正貨は約8億円に上り、当初13億6000万円あった正貨(金)は、4億円を残すのみになります。発行される通貨量は激減激しいデフレが日本経済を襲います。株価や物価は大暴落し、工業・農業生産は大被害を受けました
本来の想定では、この時点の物価低下によって日本製品の国際競争力が向上、輸出拡大・輸入減少につながり、景気が回復するはずでした。ところが、世界恐慌はこうしたメカニズムを破壊していました。

「金の自動調整作用」の不調 実際にはこの機能は働かず「負のスパイラル現象」におちいった。

価格が安くなっても売れないのです。物価暴落が世界中でおおいつつありました。世界中の人の財布のひもがいっきに堅くなりました。世界中がデフレで日本市場にさらなる低価格競争をしかけます。「金の自動調整作用」は世界経済が順調に推移しているときならともかく、恐慌下では全く通用しませんでした。
金解禁は世界恐慌の中に組み込まれ、昭和恐慌という性格をみせはじめました。

<講座「経済史で見る日本近代」メニューとリンク>

1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪(NEW)
9:総動員体制の成立(「戦時下の社会」より)

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