<前の授業 幕末の政局(1)オールジャパンか幕府独裁か>
Contents
幕末の政局(2)尊王攘夷派の台頭と崩壊
<生徒のノート(板書事項)>
前回と同じ生徒のノート。とてもうまくまとめられていますが、微妙な点で、ちょっとうまく伝わっていないところもあるようですね。
公武合体論の台頭
それでは、授業を始めます。前回は強引にペリー提督以前の政治体制、幕府がすべてを仕切るべきだと考えて、安政の大獄にみられる強硬な政治を行った大老井伊直弼が桜田門外の変で命を奪われたところまで行きました。
井伊の死は、ペリーの来航以前の幕府独裁体制へ日本が戻ることはできない、幕府だけで事態をコントロールすることは不可能であることを示す出来事でした。
井伊の失敗を受け、新たなリーダー安藤信正は、朝廷との結びつきを深め、幕府と朝廷の一体化を進めること、朝廷から幕府が信頼されているという権威をとりもどし、それによって幕府にオールジャパンのリーダーであることを認めさせようと考えました。
どうすれば幕府と朝廷の一体化がすすむのか?当時の人が考えそうなことは…?昔から、とくに戦国時代なんかに使われた手段…、結局は、女性が犠牲にされるんだけど…。
そう、結婚です。将軍家と天皇家が結婚によって結び付き、一体化を図る…この政策を公武合体策といいます。
この計画は、もともと井伊が計画していたものでしたが、井伊の死後、安藤が中心的な政策として用いました。
どうすれば幕府と朝廷の一体化がすすむのか?当時の人が考えそうなことは…?昔から、とくに戦国時代なんかに使われた手段…、結局は、女性が犠牲にされるんだけど…。
そう、結婚です。将軍家と天皇家が結婚によって結び付き、一体化を図る…この政策を公武合体策といいます。
この計画は、もともと井伊が計画していたものでしたが、井伊の死後、安藤が中心的な政策として用いました。
皇女和宮
では、だれとだれが結婚すればいいのか?
幕府の側は…そう将軍家茂、当時の満15歳。朝廷側で、ちょうどよい女性が…いました!天皇の妹、和宮(かずのみや)、やはり15 歳、生まれた月も同じ。
しかし、問題はあった。わかる?みんな、とくに女子、「一方的この人と結婚しろ!」といわれて、「はいそうですか」という?
本人の気持ちがあるよな。
しかも、和宮には許嫁(いいなずけ)がいた。その名を有栖川宮熾仁(ありすがわがわのみやたるひと)親王という。小さいときから「あのお兄さんと結婚するの!」と決めていたのに、急に変な話が入ってきた。
しかも、相手は武士!御所から外に出たことのない和宮にとって、関東の江戸は田舎、というより鬼が住んでいる所というイメージ?!。和宮は強く拒否します。兄の孝明天皇も「かわいい妹を江戸に送りたくない」と許可しません。
岩倉具視の「たくらみ」
ここに一人のキーマンが現れます。幕末から明治前期の政治における最重要人物。お公家さんというひ弱なイメージをひっくり返す人物。強烈な個性と使命感で幕末の政局を、そして明治政府をぐいぐいと引っ張っていく人物です。
かれが、孝明天皇に耳打ちする。(実際には直接会えるような地位ではありません。しかし妹が天皇の夫人の一人であったので、そのラインで伝えたと思いますが)「お上、チャンスですぞ。幕府側はこの結婚実現のため、頭に血が上っている。朝廷に都合の良い条件を飲ませるチャンスです。我々の悲願である通商条約の破棄と攘夷の実現を約束させ、幕府が朝廷に伺いをたてるという形をつくりだすチャンスです…」。
こわいよな。和宮を人身御供にして、朝廷の権威の方が幕府より上であるという状態をつくろうとした。単純な考え方しかできない幕府の甘ちゃんとは格が違うリアリスト。
さて、だれかわかる、ぼくらが小さいときは500円札の肖像だったんだけど…。岩倉具視。
貧しかったので、家をばくち場に解放して寺銭をとっていたというんだから迫力がある。
こんな人物が朝廷内にいたのが幕府には不幸だったよね。
こんな人物が朝廷内にいたのが幕府には不幸だったよね。
最初は妹の幸せを考えていた孝明天皇の心にも、岩倉のささやきが忍び込む。そしてみずから和宮を説得するに至ります。
和宮も「兄、天皇の、そして日本のためなら」と泣く泣く応じます。
幕府から「鎖国に戻します」。さらには「朝廷と相談して政治を進めます」との答えを引き出します。信じられないくらいの量の引き出物とともに。
婚礼の行列は参加人数3万人、行列は50キロに及んだといいます。東海道を避けて中山道を通ったのですが、中山道周辺の人は荷物運びなどに動員され、とんでもなく迷惑だったみたいです。この時の様子が、島崎藤村の「夜明け前」にも書かれています。準備に時間がかかったので、実際に婚礼は2年後です。
坂下門外の変と安藤信正の失脚
幕府では安藤信正が、朝廷では岩倉具視が、まったく別の思惑をもって公武合体をすすめていました。
ところが1862年、安藤が水戸浪士らによって襲撃されるという坂下門外の変が発生します。襲撃者は全員その場で斬り殺されます。しかし安藤も背中に傷を受けてしまいます。
幕府内の反安藤派は、このときとばかり「背中を切られるのは卑怯者の証拠だ」「幕府の権威を失墜させた」と責め立て、安藤は老中を辞任してしまいます。
曲がりなりにも、政治をリードしてきた安藤が去って、幕府、そして日本は方針も定まらない漂流状態になってしまいました。
曲がりなりにも、政治をリードしてきた安藤が去って、幕府、そして日本は方針も定まらない漂流状態になってしまいました。
尊王攘夷論の高まり
島津久光と「朝廷」による「幕政改革」強要
こうした状態を、乱暴な手段で打開させたのが、何の官職ももたない一人の人物、薩摩藩の島津久光でした。
久光は一橋派の中心であった異母兄斉彬の死後、藩主となった忠義の父親(「国父」)として薩摩藩の最高指導者となります。
かなりの野心家だったといわれています。
かれは、桜田門外の変以降の混乱を見て、兄がやろうとしたことをやります。薩摩の軍隊を率いて京都にいき朝廷を守護するとともに、朝廷の力を借り幕政改革を進めようとしたのです。
あまりの大胆さに日本中が驚愕します。過激な尊王攘夷派は薩摩が幕府を倒すために立ち上がったのだと歓迎しました。しかし京都に入った久光が最初にやったことは、こうした過激な薩摩藩士らが集まっていた伏見寺田屋を襲撃、数名を斬殺したことです。これを寺田屋事件といいます。テレビなどは坂本龍馬が寺田屋で襲撃された事件をこうよびますが、一般にはこちらが寺田屋事件です。
こうしたやり方で朝廷を安心させた久光は、朝廷に働きかけ、幕政改革を求める勅使(天皇の使い)をだしてもらい、自分は勅使を守るのだといって薩摩の軍隊を引き連れ江戸へ向かい、幕政改革を求めます。
こうしたやり方で朝廷を安心させた久光は、朝廷に働きかけ、幕政改革を求める勅使(天皇の使い)をだしてもらい、自分は勅使を守るのだといって薩摩の軍隊を引き連れ江戸へ向かい、幕政改革を求めます。
幕府からすれば、幕府への反乱としかみえない行為であり、軍隊をだして迎え撃つべき出来事ですが、相手には朝廷がついている。さらに、薩摩は、勅使のお公家さん(大原さんといいますが、これもなかなかガラが悪い)とくんで高飛車にいってくる。「天皇の命令が聞けないのか」と。
激しいやりとりの後、幕府側はついに薩摩=朝廷側の幕政改革案を飲まされます。腹が立ったか、泣きそうやったか、幕府さん、ご同情いたします。
こうして将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平慶永といった一橋派の中心人物が復帰、幕府の要職 につきます。(文久の改革)。こうして改革派政権ができました。しかし、すでに時がたっていました。幕府内でも薩摩の力で今の地位に就いたということで、やはりしっくりきません。
なお、外国勢力から京都を守るということで京都守護職という官職がおかれ、誠実な藩の誠実な人物として名がとどろいていた会津藩の松平容保がその地位に就きます。典型的な貧乏くじ、会津藩の悲劇の始まりです。まじめ人間が痛い目に遭うという日本のパターン。
舞台は幕府(江戸)から朝廷(京都)へ
幕府の潜在敵の代表ともいえる薩摩藩の島津久光が、無法としかいいようのないやり方でやってきて、天皇の権威を用いて幕府の人事に介入したという事実は、幕府がもはや日本を動かすことができないまで弱体化したこと。さらに「幕府よりも朝廷が上だということ。朝廷さえ押さえれば幕府はいうことをきかざるを得ない」ということを人々に印象づけました。
こうして政治の中心は江戸から京都に移っていきます。
なお、久光の帰路、その行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺害する生麦事件が発生しました。
なお、久光の帰路、その行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺害する生麦事件が発生しました。
長州藩=尊王攘夷派の活発化
事態を打開したと考えて京都に戻った久光でしたが、京都の様子は大きく変わっていました。
それまで幕府の開国政策を支持する政策をとっていた長州藩が、「尊王攘夷」に政策を転換、天皇の権威の前に幕府を屈服させようという方向に急旋回しはじめていました。これを受けてうごいたのが三条実美ら「尊王攘夷」派の公家たちでした。
天皇の命令が次々とだされ、将軍や諸大名が京都に呼びつけられ、将軍が天皇の神社参拝のガードマンをさせられます。これをみた長州の高杉晋作が「よっ、征夷大将軍」とやじったという話があります。高杉らしくて小説やドラマなんかではよくとりあげられます。ほんとかどうか怪しいね。
天皇の命令が次々とだされ、将軍や諸大名が京都に呼びつけられ、将軍が天皇の神社参拝のガードマンをさせられます。これをみた長州の高杉晋作が「よっ、征夷大将軍」とやじったという話があります。高杉らしくて小説やドラマなんかではよくとりあげられます。ほんとかどうか怪しいね。
こうして、政治の中心は京都に移り、朝廷こそが日本の中心であるという姿がはっきりしてきました。他方、江戸では状況がつかめない「置いてけぼり状態」となっていきます。
過激化する尊王攘夷派
京都では、尊王攘夷派によるテロが次々と発生、安政の大獄の関係者をはじめとする幕府関係者が天誅という名目で次々と殺害されたり、脅迫されて辞職に追い込まれたりするようになります。
等持院というお寺にあった足利尊氏ら三人の将軍の木造の首が鴨川の河原にさらされました。彼らは天皇に背いたからとされるが…京都は殺伐とした雰囲気に包まれていきます。
そして、朝廷側の強い要求に耐えきれず、幕府は文久三年五月十日をもって外国との条約を破棄し「攘夷」を実行するとの命令を出す約束をさせられます。幕府としては、なにもしないだろうと思っていたでしょうが。さっきも見たように「攘夷」ということばにはいろんなニュアンスがありました。幕府としては、いったんこれまでの条約をキャンセルして新たな条約を結び直すための条約改正交渉を始めるという意味で考えていたみたいでした。
そして、朝廷側の強い要求に耐えきれず、幕府は文久三年五月十日をもって外国との条約を破棄し「攘夷」を実行するとの命令を出す約束をさせられます。幕府としては、なにもしないだろうと思っていたでしょうが。さっきも見たように「攘夷」ということばにはいろんなニュアンスがありました。幕府としては、いったんこれまでの条約をキャンセルして新たな条約を結び直すための条約改正交渉を始めるという意味で考えていたみたいでした。
長州藩の「攘夷実行」と奇兵隊結成
ところが、幕府を困らせることをねらっている長州藩は、五月十日、関門海峡を航行中の外国船を砲撃、攘夷実行をアピールします。すぐに外国側の逆襲を受け、痛い目に遭わされてしまいますが…。
外国船との戦いを始めた長州藩では新しい動きが生まれました。高杉晋作は武士だけでは戦いきれないとして、身分にこだわらず戦おうという人々をあつめた軍隊をつくることを提案、奇兵隊をはじめとする諸隊が結成されます。一般の人々から兵をあつめ、近代的な装備をほどこし戦うというやりかたは近代的な軍隊の出発点ともいわれます。
参加した人は、諸隊に参加することで武士身分になれると考えた人もいました。浪士隊に入ることで武士になれると考えた近藤勇ら新撰組のメンバーと共通するところがあります。この奇兵隊などの新しい軍隊が、幕末から明治初期の長州藩の軍事力を支えます。
外国船との戦いを始めた長州藩では新しい動きが生まれました。高杉晋作は武士だけでは戦いきれないとして、身分にこだわらず戦おうという人々をあつめた軍隊をつくることを提案、奇兵隊をはじめとする諸隊が結成されます。一般の人々から兵をあつめ、近代的な装備をほどこし戦うというやりかたは近代的な軍隊の出発点ともいわれます。
参加した人は、諸隊に参加することで武士身分になれると考えた人もいました。浪士隊に入ることで武士になれると考えた近藤勇ら新撰組のメンバーと共通するところがあります。この奇兵隊などの新しい軍隊が、幕末から明治初期の長州藩の軍事力を支えます。
八月十八日の政変
過激化する朝廷、天誅の横行、このような京都の様子は、幕府(とくに京都の治安維持を担当する会津藩)にとって非常に困ったものでした。
他方、薩摩藩もせっかくの成果が台無しにされて怒っています。そして、もう一人、頭を悩ませていた人物がいます。実は、孝明天皇その人です。天皇は三条らが知らないうちに「天皇の命令」を乱発、自分のコントロールがきかなくなったことに悩んでいました。この三者が次第に接近します。こうして発生したのが文久三年八月十八日の政変です。略して「八月十八日の政変」でいいです。現代風に「8・18クーデタ」なんて呼ぶ人もいます。
この日、会津藩・薩摩藩を主力とする各藩兵は御所の門を固めて長州藩がうけもっていた御所警備の仕事を奪い、三条実美ら七人の過激な公家と長州藩主父子の処罰を決定しました。不意を突かれた長州藩は、七名の公家を連れて長州へ戻っていきます。
この日、会津藩・薩摩藩を主力とする各藩兵は御所の門を固めて長州藩がうけもっていた御所警備の仕事を奪い、三条実美ら七人の過激な公家と長州藩主父子の処罰を決定しました。不意を突かれた長州藩は、七名の公家を連れて長州へ戻っていきます。
尊王攘夷派の敗北
幕府側の京都支配と禁門の変
こうして、急進的な尊王攘夷運動は弱体化し、かわって京都をおさえたのは、幕府の代表として京都にいた一橋慶喜と親幕の傾向を強めた孝明天皇のとりまき勢力でした。孝明天皇は「これまでの天皇の命令の多くは三条らが勝手に出したものだ」とさえいいます。こんなことは、天皇の命令の権威を下げることになるのですが…。
京都の町でも、京都守護職である会津藩の監督下に置かれた浪士隊である新撰組が活動を活発化、尊王攘夷派の志士を襲撃するなど治安維持の中心となります。幕府側によるテロといっても良いかもしれません。1864年6月、新撰組は旅館に集まっていた長州藩士ら尊王攘夷派の志士たちを襲撃するという池田屋事件を起こしました。
この事件は長州藩を強く刺激しました。長州藩では自分たちの「正義」を直接朝廷に伝えたいという声が高まります。軍隊を率いて京都の郊外に進出、朝廷に嘆願書をおくりました。これが入れられないと知ると御所を目指して攻撃を開始しますが、激戦の末、薩摩藩・会津藩を主力とする幕府軍の前に敗北しました。これを禁門の変といいます。
この戦いに際して公家屋敷などからでた火災は、京都の町を焼きました。大砲がどんどん鳴って、火事になったので「どんどん焼き」といっています。
兵庫県尼崎市に残る残念さんの墓
この後、敗れた長州藩は、朝廷に逆らって御所を攻撃したとして天皇の敵(「朝敵」)と位置づけらてしまいます。
「自分たちは天皇のためにがんばっている」と考えていた長州藩=尊王攘夷派にとっては大きなショックでした。
しかし、民衆は長州には好意的でした。大坂などでは、長州藩の戦死者を「残念さん」として、ひそかに祀ったりもしましたし、火事に遭わされた京都でも長州の悪口を言う人は少なかったみたいです。
下関砲撃事件と高杉晋作
禁門の変で大敗を喫した長州藩はもう一つの大敗を経験します。
前年に長州藩から砲撃を受けた外国勢力が、再び下関を攻撃してきたのです。イギリスは日本に攘夷の不可能さを分からせようと攘夷派の中心であった長州を攻撃することと考え、フランス・アメリカ・オランダの三国も誘って、七月末下関を攻撃しました。この戦いで長州側はぼろぼろに敗れてしまい、下関の砲台は完全に破壊されます。(四国艦隊の下関砲撃事件・馬関戦争)
この戦いの後始末を任されたのが 高杉晋作です。負けたはずなのに、高杉は派手な服装、傲慢な態度で交渉にのぞみます。イギリス側は「魔王のようであった」と記しています。
とはいえ、高杉は外国側の要求をすべて飲みますが、前年長州が砲撃したのは幕府の命令に従ったに過ぎないと主張、外国側もこの方が都合が良いと考えました。イギリスは、幕府に、賠償金を払うか、兵庫の港を開港するか、などと迫るネタになるからです。
前にも見たように、幕府はこの時期、朝廷に対して攘夷交渉を進めますといって、横浜港の閉鎖をはかっていました。列強の本音は、これを利用して幕府のこうした姿勢を改めさせる方にありました。だから、長州を締め上げるより、幕府との交渉材料を手にいれる方がよいし、あっさりと高額の賠償金を払うと読んだのかもしれません。
なお、通訳として交渉に臨んだ伊藤博文は、のちに「下関に隣接する彦島をよこせ!」といわれたと話しています。伊藤は与太話をするのが好きだったのでしょうね。小説なんかでは、それに対し、高杉が古事記の冒頭を談じて煙に巻くという話になっていきます。
イギリス側は率直な物言いをする高杉に好印象を持ったのか、二回目の交渉に高杉が来ないことを残念がっていたようです。
長州藩の屈服~尊攘派の崩壊
禁門の変、四国艦隊の下関砲撃事件で二連敗した長州藩に、さらなる危機が迫っていました。幕府は朝廷に「長州藩は御所に鉄砲を撃ち込んだ天皇の敵(「朝敵」)だ。これを懲らしめたい。」と申し入れ、許可を得ます。こうして長州征討(第一次)が呼びかけられ、十五万もの軍が藩境を取り囲みます。
こうしたなか、長州藩では政変が起こり、幕府に屈服すべきだという勢力(恭順派)が藩の政治を掌握しました。
強く反対した井上馨は恭順派に襲われ、十数カ所も 斬られました。ちょうどいあわせた医師が「どうせ死ぬのならやってみるか」ということで傷口を縫いあわせ、一命を取り留めました。
こうして、長州藩は「私が悪うございました。ごめんなさい」とばかりにわびを入れました。それに対し征討軍は藩主親子の謝罪、禁門の変の責任者の切腹・処刑、三条ら尊攘派公家の藩外への移転という軽い条件で話をつけ、あっさりと軍隊を解散してしまいます。そのころには、幕府に反対する勢力が復活しつつあったのもかかわらず。
こうした征討軍の行動は長州藩を追い詰めることは幕府の力を強めるだけで好ましくないと考えた征討軍の主力・薩摩藩の西郷隆盛が、費用の膨張を嫌う征討総督の旧一橋派の尾張藩・徳川慶勝をだきこんで独走させたといわれます。西郷にこうした考えを吹きこんだのは、幕臣の勝海舟と言われています。このような軽い処分に対し、長州を徹底的にたたけと思っていた慶喜ら幕府中枢はかなり怒ったみたいですが。
ともあれ、こうして強硬な尊王攘夷派の拠点長州藩が屈服しました。幕府はふたたび、力を取り戻しつつあったかに見えます。
こうした征討軍の行動は長州藩を追い詰めることは幕府の力を強めるだけで好ましくないと考えた征討軍の主力・薩摩藩の西郷隆盛が、費用の膨張を嫌う征討総督の旧一橋派の尾張藩・徳川慶勝をだきこんで独走させたといわれます。西郷にこうした考えを吹きこんだのは、幕臣の勝海舟と言われています。このような軽い処分に対し、長州を徹底的にたたけと思っていた慶喜ら幕府中枢はかなり怒ったみたいですが。
ともあれ、こうして強硬な尊王攘夷派の拠点長州藩が屈服しました。幕府はふたたび、力を取り戻しつつあったかに見えます。
薩英戦争
外国に敗れたのは長州だけではありませんでした。1862年、生麦事件で自国民を殺されたイギリスは、薩摩側に犯人引き渡しと賠償を要求しますがうまくいかず、艦隊を鹿児島に派遣して、脅しをかけてきました。脅して聞かせるというイギリス人得意のやり方です。
ところが相手が悪かった。薩摩はこれに反撃、不意を突かれたイギリスに船長戦死などの被害が出ました。イギリス側も反撃、鹿児島の町が大火に包まれ、砲台も破壊されました。(薩英戦争)
その後、両者で和解が成立、「幕府に賠償金を立て替えさせる?!」ということで話がつきました。
この過程で、イギリス側は「薩摩の方が、のらりくらりした幕府よりも、率直で交渉しやすい」と考ええるようになり、薩摩も「日本では最強・最新鋭の薩摩軍でもイギリスには歯が立たない」とわかり、両者はしだいに接近していきます。
<次の授業 幕末の政局(3)薩長同盟にすすむ>