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満州事変の発生
柳条湖事件
この「事件」に対する「関東軍」の反応は素早いものでした。この事件を中国国民党・張学良(日本軍に殺された張作霖の子ども)軍の攻撃だと断定した関東軍は各地で中国側に戦闘を仕掛けました。
実際の爆発は列車の運行に支障のない程度のもので、ある証言者は手榴弾二個程度を放り込んだ程度と話し、爆破の直後に列車が何事もなかったように現場を通り過ぎています。
中国から東北部を切り離し日本の支配下に置くために関東軍が起こしたということは当時から「世界の常識」でした。普通の日本人を除いて!
悲しいことに大部分の日本人が「世界の常識」を知るのは15年後、つまりすべてが終わってしまったあとだったのです。軍や政府の説明を信じた日本人は、この事件は中国・張学良軍の暴挙だと信じ続けていたのです。
この爆破事件が「柳条湖事件」で、これをきっかけにはじまった戦争が満州事変です。
関東軍参謀 石原莞爾という人物
この考えに基づき、関東軍や陸軍中央の若手将校らをまきこんで計画、実行したのです。陸軍中央は、こうした動きを察知して幹部を派遣しましたが、その幹部は石原らの行動を黙認しました。
柳条湖事件を知った現地外交官(領事)は「平和的交渉」をはかろうとしますが、関東軍に「すでに統帥権の発動を見ている。それに口出しするのか」と阻まれました。かれらにとって「統帥権」とは軍隊の勝手な行動の別名になってしまっていました。
関東軍の行動こそが天皇の指揮命令権に反する「統帥権の干犯」そのものでした。明治憲法にすらに反する形で始まった「満州事変」は東北部全土へと広がっていきました。
「不拡大政策」と陸軍
ところが、その前にさまざまな勢力が立ちふさがります。
現地・関東軍は、最初から内閣なんかは無視している確信犯です。途中でやめる気などはありません。
事件の発生と同時に真相を察知したであろう陸軍大臣や参謀本部長なども、一度は不拡大に動きますがまわりは関東軍の行動を支持する勢力ばかりです。へたをすればクーデターをおこしかねない状況であり、かつ自分たちがやりたくともやれないことをやってくれたという思いもあったのでしょう。しだいに関東軍の行動を容認するだけでなく、内閣の不拡大方針を攻撃する立場へと移っていきました。
マスコミの過熱報道と戦争熱の高まり
「満州」進出によって不景気からの脱出ができるという軍部の宣伝を信じた人も多く、昭和恐慌の閉塞感のなかにいた人々にとって連戦連勝の活躍は日頃のうっぷんを晴らしてくれる「カッコよく」心躍るものでした。しかし、日本軍が優勢だったのは当然でした。中国の正規軍は抵抗を禁じられており、抵抗したのは地方軍閥だけだったからです。
軍部を批判する記事や報道は見られなくなりつつありました。
「起こってしまったものは仕方がない」のか?
「日清・日露の戦争の血であがなった『満蒙』の地をみすみす手放そうとするのか」といった攻撃や「軟弱外交をとっているため、中国側になめられて日本の国益を損っている」という批判が浴びせかけられたからです。
軍中央が現状を追認し戦闘の拡大を容認すると、内閣は不拡大方針はとるものの、この事態を”事変”と位置づけ「宣戦布告をしないが戦争に準じる状態」としました。
残念ながら『男子の本懐』とばかりに関東軍の横暴を止めるために命をはる軍人も、政治家もいませんでした。軍の最高司令官=「大元帥」である天皇も不快感をもちつつ、「統帥権」を発動しませんでした。
日本近代史の「負の遺産」と満州事変
政府の意向を無視して対外出兵を強行した台湾出兵にはじまり、日清戦争での旅順虐殺事件、閔妃殺害事件、関東大震災時の大杉栄殺害などなど、日本には、軍部が起こした不祥事を「くさいものにふた」として見逃したり、「起こったものは仕方がない」とかれらの「コンプライアンス」に反する行動を許してきた近代日本の歴史的「コーポレートガバナンス」のなさが深く根を下ろしていました。
ルール違反を黙認したり追認したりして、厳しく責任を問うことのない政治のありかた、それを容認する風土、それは明治維新以来の日本の政治のありかた、とくに明治憲法体制のなかで育まれました。それが、関東軍の行動に見られる独断専行を許し、不拡大方針を強く打ち出そうとする事を躊躇させたのです。
満州事変を起こすきっかけを作った石原莞爾自身も、のちに中国戦線で独断で軍を動かした軍人から「あなたが『満州』でやったことをやっただけだ」と反論され、返す言葉がなかったというエピソードも残っています。
命令を無視して行動を起こしても、罰せられるどころか、賞賛されるという常識では考えられないことが、軍隊では当たり前となっていきました。
その結果、「勇敢だ」「カッコいい」と思わせたいためにさらなる命令無視をつづけ、失敗を正すことのできないどころか、勇気をふりしぼろうとする勇敢な人間の足を引っ張る愚劣な軍人たちが次々と出現します。
もちろん、テロやクーデタ計画などことあるごとに見せつける軍部や右翼の暴力への恐怖、関東軍の行動を認め軍部の満州侵略を支持する国民の動き、こういったものが、強く「不拡大方針」を打ち出すことを躊躇させました。
さらにいえば、軍部も若槻や幣原も、程度の違いはあるとはいえ、満州などの日本の権益を中国の民族主義の高まりから守ろうという点では変わりがなかったといえます。「手段は違うが考えは分かる」という思いも心の奥にあったのかもしれません。
日清・日露戦争にはじまった他国を植民地とすることや他民族の土地財産に「特殊権益」を設定するという日本の帝国主義的なありかたが、日本の政治を社会を病んだものにしていました。
日本は皮膚病、内戦は内臓の病
当時の国民政府にとって頭の痛い問題が二つありました。
同時に国民政府内部での深刻な対立もありました。北伐の過程で軍閥を組み込んできたこともあって列強との対応などをめぐって意見の一致が見られず不安定な情勢が続いていました。
日本の侵略行為を国際連盟に提訴し、世界の力で日本を止めようとしたのです。
「満州」で日本軍と戦っていた中心は、日本が「匪賊」「馬賊」といって山賊扱いしていた地方の軍事勢力が中心でした。
第二次若槻民政党内閣の崩壊
この間、世界恐慌=昭和恐慌はいっそう深刻化していました。
柳条湖事件が発生した1931年9月には恐慌に耐えかねたイギリスが金本位制を離脱、金本位制がグローバルスタンダードであるという金解禁の根拠が崩れました。これをみた財閥系の銀行は大幅な円売りドル買いをすすめます。井上は対抗して大量のドル売りを進め、いっそうの金の流出が進みました。
政府・金解禁政策の支持派であったはずの財閥が金解禁に踏み切った若槻=井上民政党内閣を見捨てたのです。
国民が恐慌で苦しんでいるにもかかわらず「国益」を無視して巨額の利益を得た財閥への不満も高まります。
これは政党政治を嫌い、軍隊中心の政治を実現しようと考える勢力にとって格好の攻撃材料でした。
「財閥が巨万の利益を得る一方で、人々の生活は恐慌によって破壊され、唯一の希望である日本の生命線である満州進出は政党政治によって妨害されている」と。
ついに民政党内部にも亀裂が生じました。
1931(昭和6)年12月内閣の中で政友会との連立を求める動きが生まれると若槻は内閣総辞職、元老・西園寺は悩んだ挙句、政友会総裁犬養毅を総理大臣に指名します。
犬養毅政友会内閣の成立
「統帥権干犯問題」では憲政破壊以外の何物でもないような民政党攻撃を行ったものの、満州事変に対しては軍部とは距離をとっていました。西園寺は若槻の再任を望みながらも、自分や天皇に火の粉がかかることを嫌い、「憲政の常道」にしたがい、こうした犬養に期待をいだき総理に指名しました。
高橋是清蔵相による「金輸出再禁止」
そうした姿勢から、中国側が提案した国際連盟の調査団の受け入れを決め、関東軍などがめざす満州の分離独立にも消極的な姿勢を貫きました。
二つ目は「金解禁」政策への対処です。犬養はこれを元首相・高橋是清に託しました。
高橋は、内閣成立前に、関係諸機関・関係者を密かに訪問して根回しのうえ、内閣成立と同時に、金輸出の再禁止、管理通貨制への移行を果敢に実施しました。
高橋は、大量の赤字国債を発行、それを全額日銀に買い取らせることで通貨量を大幅に増やし、その資金で公共事業などの景気刺激策を実施するという「積極財政」を始めます。
この方法は、ニューディール政策としてアメリカが導入した政策と似た手法であり、イギリスのケインズが体系化した経済理論につながるものでした。
高橋は長年財政にかかわってきた体験をもとに当時の経済学の常識にとらわれずケインズと同様な結論に達していたのでした。
輸出の急増とソシアルダンピング
管理通貨制への移行と通貨・円の大量発行は円の交換レートを円安へと大暴落させました。
それは50ドルだった商品が20ドル、つまり半額以下で売りだすことでした。
さらに金解禁が品質や価格競争力も向上させていました。浜口・井上の金解禁政策が金解禁中止によって成果をあらわしたのでした。
こうして安価の日本製品とくに綿製品がアジアをはじめ恐慌でくるしむ世界に輸出され、欧米製品を圧倒し始めます。あまりの低価格に世界はソシアルダンピング(「不当な安売り」)として日本を批判、世界をブロック経済の方向に押しやることになります。
景気刺激策と軍事費の肥大化
ひとつは壊滅的な被害をうけていた農村の立て直しでした。
もうひとつあります。浜口内閣が、命に代えても押しとどめようとしていた支出・・・軍事費支出、その増加にもハンドルを切ります。
犬養内閣は、満州事変には批判的でしたが、資金面では満州事変を援助することになりました。
軍事費の増大は停滞気味であった重化学工業を一挙に活性化させました。鉄鋼や石炭、機械、化学といった分野が急速に発展、設備投資がはかられます。
そのことがさらなる需要を生み出す相乗効果となります。
新興財閥といわれる企業も成長しはじめます。こうして、日本は昭和恐慌から、あるいは世界恐慌から、世界で最も早く抜け出すことに成功しました。
都市部では一転、好景気に沸き、エログロナンセンスという風潮が世間を覆いました。
ブロック経済とファシズム
恐慌下のデフレで苦しむ国にとって、信じがたい安価で投入される日本製品は恐るべき脅威でした。日本製品にシェアをうばわれ、会社の存続の危機を深刻化させます。その結果、人員削減、工場閉鎖、倒産といった危機が深刻化します。
そこで各国は自衛策をとりはじめます。
日本が利己的な政策をとるなら、自分たちも国益重視の利己主義でいくとばかりに。
たとえば、イギリスが極端に安い日本商品と戦うためにはどういう作戦が考えられますか?
自分の国や植民地、勢力圏に日本の製品が入ってこないようにすればよい・・ですね。
外国の商品から国際産業を守るために最もよい手段といえば・・関税を高くすることです。
このようなイギリスやフランスのやり方にたいし、日本は「持てる国」イギリスやフランスが、「持たざる国」日本(やドイツ・イタリア)をいじめていると主張します。
そして日本なども同様のブロック、他の国の商品が入らない勢力圏を求めるようになっていきます。
上の表で対日本勢力圏への貿易額が急増していますね。このような状態となるのです。
だから「英仏など「もてる国」中心の不公平な世界をただすのだ」「軍事力に訴えても新たな世界秩序を作る」というファシズム的な主張が説得力を強めました。
日本は、こうしたブロックをまずは中国東北部(「満州」)で、さらには中国全土、さらには東南アジアから英仏米の勢力を追い払って…というふうに考えはじめます。
よく保護貿易は戦争につながるといういいかたをする人がありますが、それはこうした経験からきているのです。
軍事費の肥大化がもたらしたもの
もう一つ、財政支出の増加は大歓迎されますが、肥大化した支出を縮小することは痛みを伴い、つねに大きな反対を受けます。
高橋財政が一挙に増やしたのは軍事費でした。
いったん増やした軍事費を減らすことは命がけです。
高橋の死後、だれも軍事費の肥大化に歯止めを掛けられなくなりました。
農村の窮乏とファシズム運動
貧しい農村の生活を支えていた養蚕業が破壊されたのです。
ここに好景気に沸く都会=重化学工業と、破滅的な状況が続く農村=農業という鋭いコントラストが生じました。
ただ彼らは、農村の窮乏の原因の大きな原因が軍事費の膨張にあることには決して目を向けようとはしませんでした。
追記:一部加筆訂正を行いました。(2022.7、19)
なお、同じ時期について記した以下の文章も参照していただければさいわいです。