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Contents
焼け跡と闇市、そして戦後民主主義
「東京キッド」の時代
明るい歌詞で当時の言い方をすればハイカラな曲ですね。歌詞を配ります。気になる言葉をチェックしてみてください。
いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チューイン・ガム
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マン・ホール
泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても
フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マン・ホール
腕も自慢で のど自慢
いつもスイング ジャズの歌
おどるおどりは ジタバーク
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マン・ホール
「カタカナ」が多い。そうですね。進駐軍文化の影響、「チューインガム」とか「チョコレート」は当時の人たち、とくに子供たちの憧れのまと。「フランス香水」「スイングジャズ」といった大人びた言葉も出ますね。占領下でアメリカ文化が広がりつつありました。「ジタバーグ」は「ジルバ」ともいい、はやりのダンスのステップ。子どもの世界と大人の世界が渾然一体となった占領下のハイカラな時代を歌いあげています。
進駐軍のもたらした文化というかその空気は、自由と豊かさの象徴でした。英会話ブームも起こりました。こうしたアメリカ的なものへの憧れが、戦後日本の文化に大きな影響を与えました。
実はアメリカが大好きだった日本人
口には出さなかったけど、戦前から、日本人のアメリカへのあこがれは強かったという指摘があります。自由といった価値が抑圧されていた日本人にとってアメリカは輝ける自由と繁栄、欲望の象徴でした。ジャズやハリウッド映画が流行、野球がはやりベーブルースら大リーグの来日に熱狂、そこにはアメリカへのあこがれがありました。しかし、あこがれは戦時体制、さらに対米戦争の開始により抑圧されました。「贅沢は敵である」というスローガンはこうしたあこがれを否定するものでした。あのアメリカを拒否することが「非常時」の意味でした。「鬼畜米英」というスローガンはあこがれの反作用なのです。
敗戦は、こうした状況を一気にひっくり返しました。国家や軍、うるさい近所の人の目なんか気にせずに、心置きなくアメリカへのあこがれを表現できるようになりました。それが新しい生き方でした。
日本中に、英語が、カタカナがあふれます。
「右のポッケに『夢』がある、左のポッケにチューインガム」
歌詞の「もぐりたくなりゃ マン・ホール」というところ、この意味、わかります?なぜマンホールに潜るのですか?普通、めったにそんなところには潜りませんね。
しかし、この曲は、こうした境遇を逆手にとって、「いきでおしゃれで ほがらかで」と、そんな暮らしも遊びのように楽しんでいる、こんな子どもとして描きだします。街はジャズが流れるダンスホールだし、高価なフランス香水やチョコレートもいっぱいある。なんといっても、ポッケの中にはいっぱい「夢がある」んだから。
戦争によって何もかも失ってしまった。だけど失ったからこその自由、未来への「夢」や希望。具体的な「夢」なんかなくったってよい。チューインガムやスイングジャズ、おいしいものや楽しいことを楽しめるようになった。家をなくしたことだって自由な場所で眠れるようになったと考えりゃいいじゃないか。「金はひとつも なくっても」あふれるほどの自由と希望があるじゃないか。
こうした「解放感」を、抜群の歌唱力で、学校では叱られる歌い方で「のど自慢」の魚屋の娘美空ひばりが力一杯に歌う。
ひばりは「見てはいけない、聞いてはいけない何か」を象徴している存在のようだったという人もいました。
人々は戦争の終わったことの意味、戦後という時代をこの少女の姿を通して感じていました。元気づけられました。
ちなみに、動画の中に、広場の定番がありましたね。
ドラえもんやサザエさんで定番の「土管」。こうしたアニメはこうした時代を一つの背景にしているのです。苦しいけど、これまでの息苦しさとは全く違う時代、苦しいけどなぜかみんなが生き生きとしていて希望を感じさせる時代、それが「東京キッド」の描く時代でした。
戦争が終わって五年たって、ある程度生活が安定し、次第に餓死の脅威が過去のものになってきたからこそ作ることのできた曲や映画だったのかもしれませんが。
「金がひとつもなくって」、寒さにふるえ、飢え死の危機を感じながらも、その「右のポッケ」には「夢」がはいっている。貧困や苦悩と未来への希望、それが交錯した時代が戦後の数年間でした。
「焼け跡」のなかでの生活~バラックと戦災孤児
東京などには、空襲などで親をなくした戦災孤児がいました。リアル「東京キッド」たちは、靴磨きをしたり、乞食をしたり、ときには「かっぱらい」もしながら、飢死の危機やのみ・しらみとたたかいながら、生きていました。駅の通路が寝床という子どもたちもたくさんいました。劣悪な施設に「保護」され、そこで命を失う「キッド」たちもいました。
1947(昭和22)年から三年間、大人気を博したラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、戦災孤児と彼らの家を作ろうとした帰還兵の希望にあふれる話でした。1955年生まれの僕でさえ主題歌を口ずさめるほどのヒット作でした。
食糧難と闇市の賑わい
物資が全くなかったのではありません。一般の日本人の立ち入れないPXとよばれた占領軍の売店(「酒保」)には、チョコレートやフランス香水など豊富で見たこともないような贅沢な物資があふれており、人々の羨望の的でした。「人々の悩み」という特集の当時のニュースがありますので見てみましょう。
都会のあちらこちらには闇市が出現、露天商が店を出しました。旧軍隊が隠していた物資や、配給に回さず横流しされた食料品などが並べられ、闇物資を買い求める人で賑わいました。抑え込まれていた価格も、戦争が終わったことで一挙に跳ね上がり、闇価格は公定価格の数十倍から100倍を超えました。それでもなんとかやりくりをして手に入れようとしました。東京・上野のアメ横などはかつての闇市の名残です。
買い出し列車、タケノコ生活
しかし、大切な「宝物」はなかなか交換してもらえず、ほんのわずかな食料で我慢することも多かったのです。
政府からすれば、このようなやり方は配給システムを壊す犯罪でした。そのため、思いついたように取り締まりが行われ、せっかく手に入れた食料が没収されてしまうこともよくありました。大切な思い出と引き換えの食べ物が取り上げられる、こうした風景が繰り返されていました。
ひとりの「英雄」の死
そのときの言い方を思い出すと、母たちにはなんらかの心の痛みもあったように感じます。その痛みはこの時代を生きた人たちに共通の痛みだったのでしょう。法やルールを守ることも、まじめなだけでも、生きられない時代でした。普通の人たちも「仕方ないじゃないか」と思った、思おうとした時代でした。
復員とシベリア抑留
「バンザイ」の歓声で送られた人たちでした。生死の境を何度も経験しながら、苦難の末に帰ってきた元兵士たちです。しかしやっとたどり着いた日本で冷たい視線を浴びせられることも多かったといいます。
ソ連の側からすれば、ナチスドイツに受けた被害からの復興のための、ちょうどよい労働力だったのでしょう。囚人労働によるシベリア開発は帝政ロシア以来の伝統でもありました。さらに兵士たちを共産主義思想を伝え日本での革命の担い手にしようと考えたともいわれます。その点でいうなら、この行為は全くの逆効果でした。シベリア抑留は、ソ連の対日参戦の経緯とともに反ソ連感情を高めたのですから。
引き揚げ
とくに「満州」に開拓団として移住した人たちは、生きて帰れただけで幸いといえるほどの、言語に絶する体験のすえの引き揚げでした。多くの人びとが亡くなり、置き去りにされた子どもや女性も多数に上りました。
しかし、貧しさから大陸に渡った人が中心であったため、帰ってはきたものの、彼らを受け入れてくれる家も土地もないという人が多く、帰還したその日から食事に困るような有様でした。荒れ地などに入植するという苦しい選択をした人々もいました。
帰国した人と残った人~在日朝鮮人問題の発生
戦争前から来ていた人たちの多くも帰国を望みました。しかし財産整理の都合や、財産持ち出しの制限、もはや何も残っていない祖国での生活不安などから約60万人が日本に残り、その後の半島での混乱により帰国の機会を失います。逆に日本に戻ってきた人もいました。
朝鮮出身者は、韓国併合によって一方的に日本国民とされ、敗戦とともに一方的に「外国人」とされました。
なお、アメリカ軍は、沖縄に関して、本土の沖縄県民を沖縄に、沖縄県内の本土出身者を本土に移すという政策を進めています。この段階、アメリカは沖縄を旧植民地と同様に考え、日本から分離する狙いを持っていたとも言われています。
日本経済の崩壊と「飢えていた」人々
物資とくに食料不足は、戦地や旧植民地などからの人々の帰還によっていっそう厳しくなりました。1946年の冬には大量の餓死者が出るという予測が出されました。
空襲などによって鉱工業生産力は戦前の1/3に落ち込んでいました。アメリカの空襲は軍需工場や鉄道などのインフラではなく、都市を狙ったため、都市の中に散在していた生活に密着した工場が被害を受け、軍需工場や鉄道などの被害は比較的少なかったと言われます。非武装化は軍需工業の操業停止をも意味しました。比較的被害が少なかった工場は使えず、人々が切実に求めていた工場が大きな被害を受けていたのです。
大量の兵士など軍事関係者、空襲で仕事場を失ったり非武装化によって仕事を失った労働者などが失業者の群れにはいっていきます。戦地や旧植民地からもぞくぞくと人びとが帰還してきます。かれらの復帰はそれまで働いていた人をおしのけました。大量の失業者が街にあふれました。
このような状況で賃金が上昇するとは考えられません。労働者の実質賃金は戦争前1934年の20%前後まで下がっていました。東京の先生たちには週一回、買い出しのための休みがありました。
失業している人はもちろん、仕事についている人も生きていくこと食べることに精一杯の時代でした。「憲法よりも飯だ」というスローガンが強い説得力を持っていました。
他方、食糧不足にもかかわらず本が飛ぶように売れたといいます。新しい本や眠っていた本が店頭に並べられると、人びとは先を争って買いました。食糧のためのなけなしのお金を本に替えた人もいました。
これまでの価値感がくずれ、国家への信頼が暴落した中、人びとは知ること学ぶことにも「飢え」ていました。自分が、日本が、今後どうあるべきかを知りたい、こういった思いもあふれていました。
「東京キッド」の不思議な明るさはこうした時代の風潮をとらえていたのです。
悪性インフレの発生
この多額の支払い、どうします?・・お札を刷って支払いました。ものがないのに、大量の紙幣を発行すると・・インフレが発生します。
これから数年間、人々は強烈な悪性インフレに悩みつづけます。
政府の側、財政面で見るとインフレは悪いことだけではありません。戦争中、政府は戦時国債や愛国貯金などさまざまな形で国民のお金を集めました。
この大量の借金はインフレになるとどうなりますか?お金の価値が一挙に下がっても金額は額面のままです。そのため、その金額で買えるものは10分の1、100分の1となり、ついにはタダ同然となります。国債や貯めた貯金がただ同然になったため、政府は借金を事実上支払わなくてもよくなったのです。こうしたねらいもあり、財政当局はインフレを放置したともいわれます。
現在、日本は1000兆円を越す借金をもっています。悲観的な経済学者はこれを返却することは不可能じゃないかとよくいっています。深刻さは増しているはずなのに、最近は話題になることが少なく気がします。気のせいでしょうか。
さてこの膨大な国債をどう処理するのか。戦後のようなインフレにならなければ無理じゃないかという意見を聞いたことがありました。しかしそれは国家が信頼を失い、破たんすることです。
1945(昭和20)年、日本は、経済や財政という面からも破たんしていました。そのつけは国民に回されました。いつも最終的に痛い目にあわされるのは庶民のようです。
政府のインフレ対策~金融緊急措置令・物価統制令
そうはいっても、政府としてインフレをいつまでも放置しておくわけにはいきません。1946年2月金融緊急措置令がだされます。今までのお金(旧円)の使用を禁止、新しいお金(新円)との円切り換えを命じます。しかし、交換できる額が制限され、残りの旧円は紙切れとなります。だから引き上げ期日までに旧円を使おうとする人も多く、闇市での価格は急騰します。さらに預金の引き出しが閉鎖され、引きだし額も上限をつけられます。こうした強引なやり方で貨幣の流通量を強引に減らし、インフレを抑制しようとしました。しかし効果は一時的でした。
労働運動の活発化
他方、財閥資本の横暴に対抗すべき民主的勢力としての労働運動の育成をめざすGHQと、戦前・中から官僚らによって準備された計画が合わさる形で45年12月に団結権・団体交渉権・争議権の労働三権を保障した労働組合法が制定されます。
こうして労働者は続々と労働組合を結成、生活難を背景に組合員数・争議権数ともに急増していきます。再開された日本共産党の活動ともあいまって労働運動は激化しました。ストライキによって工場や鉄道を止めることをさけるため、労働組合の責任で工場生産や鉄道運行を保障し、その分の賃金を確保するいった生産管理闘争などの戦術も広がっていきました。
農民運動の活発化と農地改革
農村においても、小作農民を中心とする農民運動が活発化しました。こうした運動の活発化は、食料配給制をささえる供出制度を背景に地主が弱体化してきたことともあいまって、戦前のような農村の秩序を回復することを困難としていました。
こうした状況は、政府やGHQにいかに農村を安定させるかという課題をつきつけました。GHQや政府からすれば、このような農村の不安定さを解消する上でも、また食糧を供出させる上でも農地改革は重要な政策でした。
農地改革によって農村は安定化し、農民運動も退潮傾向を強め、保守の地盤という性格を強めます。
復活メーデーと食糧メーデー
こうした運動の盛り上がりに対し、マッカーサーが「暴民デモ許さず」の声明を出すなど、GHQはしだいに労働運動などを抑制する傾向を見せ始めました。他方、食糧不足を背景に、労働運動や社会運動はいっそう急進化し、社会は騒然とした状態となっていきました。
帝国議会と政党の結成
それまで議会には、戦争中の1942(昭和17)年4月の選挙で選ばれた議員たちが居座っていました。この選挙は翼賛選挙とよばれ、政府が人数分の候補を推薦していました。しかし、こうした選挙に批判的な人は推薦なしで立候補、干渉に打ち勝って466人中85人が当選していました。しかし、全員、翼賛政治会に参加させられました。
戦争が終わると、非推薦議員が中心となって自由党を結成、戦前の無産政党の流れをくむ人たちも社会党を結成、政府の推薦で当選した人たちは進歩党を結成しました。
こうした議会のもとで、選挙法改正が行われ、労働組合法が成立し、骨抜きにしつつも第一次農地改革の実施を決定しました。戦争を遂行してきた人がそのまま議員として居すわり、「戦後改革」をすすめていたのです。ともあれ、このゾンビのような議会は’45年12月解散、翌年1月新選挙法のもとで選挙が行われることになりました。この選挙でもそれまでの議員が多く当選すると予想されました。
公職追放による政界の混乱
閣僚6名、翼賛選挙で政府の推薦を受け当選したものほぼ全員が対象となり、進歩党は壊滅状態となり、自由党や社会党からも多くの「公職追放」者が出ます。
公職追放は経済界などにも広がり、最終的には約21万人が「追放」されます。会社などでは、これまでの役職者の大部分が追放されたため、一気に経営陣が若返り、経済発展につながった、活性化されたという人がいます。若くして役職に就いたため、必要以上に長くその地位にいすわり、成功体験にしがみついたため、ゾンビ化したという笑えない副作用もありました。ちょっと脱線してしまいました・・。
GHQからすれば、戦前・戦中の空気を身体中から発散するような勢力が国会や内閣の多数を占めることに危機感を感じたのでしょう。選挙を延期させることで「政府の憲法草案」(実はGHQ草案をもとにした案)の信任投票の性格も持たせることが可能になりました。
戦後初の総選挙の実施
新選挙法による衆議院議員選挙は4月実施されました。新しい日本を作ろうということで、それまで選挙とは関係のなかった人たちも多数立候補しました。
アメリカ帰りの私の祖父も立候補したそうです。惨敗だったらしいですけど・・・。
参政権を得たということで晴れ着を着て投票に臨んだ女性もいました。だれに投票すればいいかわからず、夫に命じられるまま投票する人も多かったといいます。選挙の事務にかかわった女性の証言があります。聴いてみましょう。
選挙の結果、自由党が第一党となり、社会党も勢力を伸ばし、戦前は非合法化にあった共産党も議席を得ました。この議会の下、憲法制定をはじめとする戦後改革が進められます。
食糧不足で、もののない時代でしたが、投票率は70%をこえました。
「リンゴの唄」~「ポッケのなかに夢」があった時代
何か新しいものがはじまる、はじめるのだという気持ちが人々をとらえていました。
食べ物がなく、みんな飢えていた時代。戦災孤児や失業者が町にあふれていた時代、「金はひとつもない時代」でした。しかし「右のポッケには夢がある時代」でもあったのです。