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幕末の人物へのアンケート調査

幕末の人々にアンケート調査をとると…

はじめに

幕末の人々の行動は、非常にわかりにくい。
昔ながらの
尊王vs佐幕攘夷vs開国
となどという基準で分類したら、?マークがそこら中にでてくる。
研究レベルで、こんな基準で分類する人はいないと思うが、時代劇などではいまでもよく使われる。そしてさっきの「?」のために訳がわからなくなる。
この基準でいけば、明治維新の指導者たちは、攘夷の理念を裏切ったものばかりである。
最初から最後まで幕府の中心として活動した一橋慶喜や松平春嶽は開国と攘夷の双方を行き来しているし、長州の周布政之助は条約締結のために攘夷を行うといった一見理解不能な議論を展開する。

旧来のやり方では分類不可能な人たち

人間はそんな単純なものでない。さまざまな思いを持ちつつ、それぞれの価値観・倫理観にもとづいて行動する。

井伊直弼 幕府権威の立て直しを図り、安政の大獄などを進めたが、桜田門外の変で殺害された。

具体的に、この時期に即して考えて見よう。
 尊王家井伊直弼
まず佐幕、開国派の代表とされる井伊直弼はどうか。
井伊は国学の素養があり、熱心な尊王家とされる。その井伊が朝廷関係者を次々と捕らえ、苦しめ、ときには命を奪う。
「攘夷」藩・長州
攘夷の拠点・長州藩では、外国公使館を焼き討ちの実行犯・井上馨(志道聞多)や伊藤博文(俊輔)が、その直後にイギリス船で留学にでる。列強の脅威を身をもって学んだ高杉は、日本を対外戦争に巻き込む行動をとる。
 一橋派と島津久光
尊王攘夷の総本山ともいえる徳川斉昭は外国の技術導入に熱心であった。尊攘派の代表選手である徳川斉昭・藤田東湖と蘭癖大名の島津斉彬や開国論者松平慶永・橋本左内が一橋派として同盟関係をくむ。
上記の図式では理解しがたいことだらけである。

尊王攘夷とは違う思惑で政局にかかわった人物も多い。島津久光は、尊王家であるより薩摩幕府を開きたいという野心があると、当時から思われていた。
 「二心殿」徳川慶喜
とくに理解困難なのがさきにみた「二心殿」として当時から呼ばれ、いまも非難され続ける徳川慶喜である。かれは尊王と佐幕の間で、開国と攘夷の間で、次々と態度をかえる。
もはや攘夷が不可能との意識が共有されかけた時期、慶喜は孝明天皇ののぞむ攘夷実現のため横浜の閉港を強硬に主張し、議論をぶちこわす。逆に、慶応3年には列強の代表を集め、洗練されたマナーで紅茶を振る舞う。
 実は一貫していた松平慶永
開国論者松平慶永は、政事総裁職についた文久2年、攘夷の方針をうちだし、文久3年春、京にやってくる。しかし攘夷が現実問題として日程に上ると難色をしめし引き籠もり、ついには幕命・朝命をふりきって帰国する。
しかし、攘夷・開国、尊王・佐幕といった議論をいったん下位の判断基準とみなし、公議政体論=オールジャパンの実現という基準を第一に考え、さらに「議論をすればみんなわかってくれるはず」という彼独自の楽観主義を組み合わせると、慶永の行動は一貫していたように見え始める。

人々は何を根拠に行動するのか?

人々は、自らの世界観・倫理観、本音とたてまえ、さらに深層心理などにさえ動かされて、一見すると極めて多様で矛盾とも見える行動をとる。
では幕末期、それぞれの人物の行動を律していた原理は何なのだろうか。
身分社会の中でのさまざまな立場、武士・豪農豪商としての身分的な使命感・信念であるかもしれないし、家名を上げたい立身出世という上昇志向もあるだろうし、怨恨かもしれない。憂国家・思想家としての矜持かもしれないし、組織を守るためという現在につながる悲しい習性かもしれない。家庭人としての生き方かもしれないし、ただただ面白さをもとめた愉快犯もいただろうし、サイコパスともいえる人物もいたであろう。
それぞれ各自、多様な価値観や倫理観の中、ときには矛盾した想念を持ちつつ、それぞれが重視する「理屈」、意識的・無意識的な感情にもとづいて、順位づけをし、ときには変化させつつ行動する
こうした人間個々の、判断の重層化の中で歴史は動いていった。ではこうした多様な判断の基準をどのようにして拾い出す事ができるのであろうか。

分析手法としてのアンケート調査

そこで考えて見たのがアンケート調査を行ったとすればどうなるのかというアイデアである。
当時生きていた人間にアンケート調査をしたと仮定し、さまざまな史料や行動経過からそれぞれの人物を多面的にとらえ、そのことを通じて、それぞれ大切と思った原理をさぐりつつ、その優先順位を考える事でその行動の合理性を考える事ができないかということである。

おもいつくままに作ったのが以下のアンケート項目である。
そしてさまざまな人物が、このアンケートに応えたとしたらどのような結果になるであろうかと「妄想」した。

専門的な研究が不足している筆者がこのような事をするのは力不足なのは明らかであり、丁寧に史料にあたって考えられておられる方からすれば、納得できない事も多いだろう。逆にそういった方が別の知見を打ち出す事も可能になるだろうし、さらにはアンケート項目で不十分な内容を付け加えてもらえればもっとおもしろくなるであろう。

こうして一見矛盾に満ちた人物の行動がそれなりの筋道をとって理解できるのではないかと考える。

昨夜、テレビを見ていて「他国に利権を供与してでも資金を獲得し、日本の近代化を図るべきである。」という選択肢を考えた。
今回挙げる人物でいえば、慶喜は賛成したし、提案した小栗忠順の先輩・水野忠徳もそうだろう。
逆に、孝明天皇をのぞき、明確に反対した人物は誰であろうと考える方が正しいアプローチかもしれない。自分たちのヘゲモニーを獲得するためには、このような事は下位レベルの判断基準とみなされたであろうから。
慶永は、あるいは高杉も、もっとうまい儲け方があるとの視点から批判をするかもしれないなどと妄想した。

歴史教育の教材として

また、私の昔の仕事でいえば、それぞれの生徒に一人ずつの人物を割り当てて「憑依」(=研究)させ、このアンケートを応えさせ、それをまとめ、発表させれば、歴史の多面性を考えさせる事ができるかもしれない。その際は、最後の記述欄は必須であるし、できればⅠ~Ⅵの大項目についても、その判断の基準についてのコメントをつけさせれば取り学習が深まるように考える。

※冒頭の写真は、一藩に高須四兄弟とよばれる尾張の支藩高須藩出身の四兄弟を撮影した写真です。明治14年のものです。
向かって右から 尾張徳川家14代当主慶勝、 尾張徳川家15代当主でのちに一橋徳川家10代当主となった茂栄(尾張藩主引退後、将軍家茂の補佐役もつとめた)、 会津松平家9代当主容保(京都守護職)、 桑名松平久松家4代当主定敬(京都所司代)です。いずれも幕末の日本の最重要人物で、戊辰戦争では敵味方に分かれたたかう事となりました。

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アンケートと「回答」例

以下、「アンケート用紙」と、私が「妄想」した数人方の「回答」を示しておく。(ただし、記述「回答」は松平春嶽のみ)

アンケート~幕末期、活躍されたみなさまへ

<アンケートのお願い>

幽冥界にて、静かにお休みの処申し訳ありません。 
 みなさまがそちらに赴かれ、長い方では170年、短い方でも100年もの日々が経ちました。 
 当時、みなさまが考え、行動された結果は、2020年代の日の本にもさまざまな影響を与えていると感じます。
 ところが、長い時間がたち、研究が進んだにもかかわらず、みなさまの思いを曲解したり、お聞かせするのもはばかられるような物言いをするものや、ひいきの引き倒しをするものなどがひきもきらず、まことにお恥ずかしい次第でございます。
 つきましては、みなさまの真意を少しでも後生のものにつたえるべく、アンケート調査を企画してみました
 みなさま方の真意を理解していると思う人間に「憑依」し、お答えいただければ幸いと存じます。
 ご協力お願いします。

                 お名前(              )
Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)(  )賛成
2)(  )立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)(  )立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)(  )反対

Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつつけてもかまいません。とくに重視したものがあれば、一つに限り◎をつけてください。絶対許せないというものに×をつけてください。
(A)攘夷実現のためには
1)(  )こちらから戦争に訴えるべきである
2)(  )強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)(  )できるかぎり戦争は避けるべきである
4)(  )なにがあっても戦争は避けるべきである。
(B)攘夷実現の方法
5)(  )条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)(  )いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)(  )いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)(  )現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
(C)攘夷実現の交渉の理念について
9)(  )攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)(  )攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。

Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつでもかまいません。できればもっとも重視するもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇の意志を尊重することが第一
2)(  )挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)(  )幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)(  )朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)(  )自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)(  )身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)(  )天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。

Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。でいればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。 

1)(  )すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)(  )朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)(  )幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など
 重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。

4)(  )国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が
政治や外交を
になうべき。

5)(  )これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)(  )幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。

Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。できればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)(  )幕府がすべてを決めれば問題はない
3)(  )幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)(  )天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)(  )中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)(  )天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)(  )幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。

Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。

 (   )開国・攘夷
 (   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
 (   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
 (   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
 (   )幕府の威信
 (   )諸列強に対しての日本としての威信
 (   )軍事・産業・技術の近代化
 (   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
 (   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
 (   )下級武士や草莽の志士の登用

Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

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回答を妄想する

数人の方の回答を妄想した。
あくまでも筆者の狭い範囲の知識での判断なので、ご了承いただきたい。

<回答例 1>松平春嶽(慶永)
松平慶永(春嶽) 幕末から明治初年にかけて、改革派としてつねに政局の中心にいた。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)   立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)△立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2)△強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4)△なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5)×条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)△いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)○いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)△現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) ×攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)○攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)○自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)◎幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)△中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍を招くべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用
Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

自分は、清国がアヘン戦争で敗れた事情から、欧米列強がいずれ我が国に開国を求めにくるだろうと思い、優秀な家臣橋本左内の助けも借り、清の轍を踏まないためには、挙国一致が第一だと考えた。
 私は、現実を虚心坦懐に学び、丁寧に説明し、心の底から真摯な話し合いを行えばわかり合えると愚かにも信じ続けている。したがって、条約勅許・開国こそが正しいということを、斉昭様のような攘夷論者にも、朝廷の方々も、かれらが心底から我が国の将来を考えておられる以上、今後日本が進むべき道を理解していただけると思っていた。
だから大切な事は話し合いの場というプラットホーム作りであると考えた。慶喜殿を将軍となっていただこうとかんがえたのもその一環である。
しかし、これまでの幕府のあり方を守ろうというある意味忠義第一の井伊直弼殿が大老になることで、左内は私の代わりに殺され、私も隠居と蟄居を余儀なくされた。

 文久年間になると、私は蟄居をとかれ、政事総裁職という重職についた。朝廷は和宮様降嫁の条件、攘夷決行を強く要求してきた。もとより私が攘夷に否定的なのはいうまでもない。しかし、本来楽天的な私は真摯な話し合いをすれば、朝廷の方々はわかっていただけると考えた。いったん攘夷決行を承認し、話し合いの場で開国にもっていけると考えた。その主張が通り、慶喜殿、私や山内容堂殿、有力諸大名、そして将軍家茂様までも京都に集結、話し合いを持つ事になった。
 しかし、京都にいった私はその誤りを知った。この地では、長州や土佐の支援を受けた狂犬のような尊攘派がテロを繰り返し、彼らと結ぶ公家たちが天皇の名をかたって勝手なことを繰り返した。彼らは、「勅命」といわれれば反論できない弱みを利用し、私たちに攘夷決行を強要した。私はなんとかそれを拒もうとしたが、尊王の思いの強い慶喜殿たちはそれを受け入れてしまった。さらに急進派の公家たちは本来幕府が委託されてきた軍事や諸藩への命令権まで奪おうとしてきた。いたたまれなくなった私はいったん京を離れ、福井に帰る事とした。
 それでも、私は諸侯同士、さらには天下の有志を加えた話し合いによって、日本のあるべき道を決めることができると工作を務めた。
しかし、薩摩など雄藩を疑い幕府中心の政治への回帰をめざす慶喜殿の態度などでうまくいかず、幕府中心の挙国一致にも協力的であった薩摩は次第に幕府打倒を考え始めるようになった。

 慶応3年の王政復古では、薩摩にしてやられたが、それでも尾張の慶勝殿や容堂殿と連携し、岩倉様も折れて、慶喜殿を議長とする形でおさまる寸前までいったのだが・・。慶喜殿は・・・。
 こうして心ならずも徳川宗家とそれを守ろうとする諸藩を賊軍としてたたかうこととなってしまった。そこでも私は話し合いによる政治運営を実現しようとした。その成果が我が藩士三岡八郎が草案をつくった「五か条の誓文」のなかの「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という一文であったのかもしれない。
 時代は話し合いによる決定などという悠長な事を認めてくれなかった。大久保や木戸といった連中は、岩倉様や三条様の力を借りて、天皇様の名のもとに、相談もなしに新しい政策を決定、実施していった。あるいは、その内容は私や左内がぼんやりと思い浮かべていたものであったのかもしれない。小楠はこうした政治に参加しようとしたが、命を奪われた。
すでに私のいる場所はなかった。
コメント:幕末政治の最初から明治政権の成立期まで、つねに政権の中枢付近にいた春嶽です。
その考えも「妄想」してみました。つねに、話し合い(「公議世論」)によって合意が得られるという非常に楽天家でしたが、その理想主義はさまざまな欲望と思惑、価値観の対立によって跳ね返されていったといえそうです。
民主主義を実現するための困難という現在的な問題が、春嶽の理想主義をはね飛ばしたというところかもしれません。
<回答例 2>孝明天皇
孝明天皇 ある意味、天皇としての責任感が強い人物であったともいえる。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1) 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対
3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)  ◎ 反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)◎天皇の意志を尊重することが第一
2○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)△朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要
5) 自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1) すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)◎幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)△これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)△天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(   )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:幕末の混乱の引き金を引く形になった孝明天皇。
 かれにとっては、「祖法=皇祖皇宗の道」に反しないか、さらに朝廷の権威を高めることが最大の関心事であったと考えました。こうした事情から摂関家や武家伝奏などによる朝廷統治への反発もあったでしょう。他方、そうして点が維持できれば、幕府への大政委任については、とくにこだわりがなかったという形で、回答を考えました。基本的に○は少なかったと考えて見ました。
<回答例 3>徳川(一橋)慶喜
徳川慶喜

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)○立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)○できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)△いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)△攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)○幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)◎朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8×)天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○ )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎1 )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(△  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(◎1 )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(×  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:当時から「二心殿」と賞されていた慶喜、春嶽と同様、ほぼすべての項目になんらかの記号が付きそうなのが、特徴的かもしれません。(ただ春嶽の場合は○が多かったのに、慶喜は×も多い)
たしかに、かれは悩めるリーダーだったのでしょう。少し考えただけも、彼の判断の根拠となったものは、「日本全体の責任者としての自負」「徳川宗家を守る事」「天皇崇拝」「尊王攘夷のカリスマであった父斉昭への孝心」「出身藩としての水戸藩への配慮」あるいは「安政の大獄という愚かな判断を下した井伊直弼への反発」「薩摩=島津久光主従をはじめとする混乱に乗じて影響力拡大をはかる雄藩への反発」などなど、こうした意識・無意識の判断基準がかれを「二心殿」にしたと考えました。そのなかで、かれがもっとも重視したのは「徳川」「天皇」「日本」「自己都合」のいずれだったのでしょうか。ここでは「天皇」を選択してみましたが。
<回答例 4>島津久光
島津久光

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)○ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)△できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6) いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)◎自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7) 天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5) これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)○幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(   )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(◎  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:雄藩・薩摩の最高実力者代表です。○も◎も少なく、「自藩ファースト」との人物として回答してみました。こうした久光の思惑や行動力、兄斉彬への対抗心や虚栄心、それを大久保や西郷らが利用した面が大きかったように思います。
<回答例 5>高杉晋作
高杉晋作

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)◎立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)◎こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)◎いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)△自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)○身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)○すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)○朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)△幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4) 国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)×これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)○中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(×  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(○  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:長州の尊王攘夷派の中心、高杉晋作です。挙国一致とそれによる列強に対する危機感と独立の確保をめざす急進的改革派という位置づけで回答してみました。そうした大きな戦略の下に、尊王攘夷・長州藩の軍国主義化といった戦術を位置づけてみました。しかし、同時に上士出身という面から、「藩」意識もときどき姿をみせた面も意識しています。
<回答例 5>水野忠徳
水野忠徳

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4)◎なにがあっても戦争は避けるべきである
<B>攘夷実現の方法
5)条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)◎現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)◎攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)△挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)△幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)◎天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)×朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)◎幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)×天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)◎幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)×天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(◎  )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(×  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:多くの人には知られていない水野忠徳。対外実務を担ってきた官僚たちの黒幕ともいえる人物であす。こうした官僚の代表として取り上げた。俗吏とみなされがちな幕府官僚であるが、近年、反攘夷派ナショナリストの側面が強調されてきた。国際的な信義こそ国益とする立場に立ち、朝廷や雄藩との協調によって対外危機をよびこむことに強く危機感を持つ、朝廷や一橋慶喜ら在京幕僚・公議政体派への批判勢力としての回答とした。
挙国一致のためには薩長を軍事的に屈服させるという別の選択肢もあった

 

江戸時代の名前と戸籍法 ~「名前」をめぐる明治維新史(1)

江戸時代の名前の規則と戸籍法
~「名前」をめぐる明治維新史(1)

大学での授業は気になっていたことを一挙に解決してくれることがある。
歴史研究者からすれば、当然のだが、一般人にはあまり知られていないことがある。
今回、教えていただいた内容は江戸時代において名を名乗るの原則であり、それが明治維新によってどう変わったかである。
祖先調べで資料(史料でない!)にでてくる名前で苦しんだ経験があったので、この内容は非常に興味深かった。幕末維新史の大家の先生の話からは多くの発見ができる。

今回は先生の話を紹介しつつ、追加的に調べたことを交えて、幕末維新史をめぐる「名前」について記し、次回は応用編として私が祖先調べの中でわかったことを述べていきたい。
なお、先生は幕末維新史の政治史にかかわってでてきた内容なので、武家の「名前」にかかわる話となり、庶民の名前には触れておられない。個人的に、庶民の名前についても調べたいという興味もわいてきた。

前近代の名前の原則~坂本龍馬の名前から

坂本龍馬が例として扱われた。龍馬の正式の名乗りを記すと

坂本・龍馬・紀・直柔
(さかもと・りょうま・き(の)・なおなり)

坂本」が「」の名前、今でいう名字、坂本家の出身であることを示す。
龍馬」が「通称」であり、家族や仲間が一般に用いる名前。だから、一般にはこれが用いられる。 愛称になると、省略されたりするのは現在と同じである。

実際に多く用いられるのが通称である。有名な者としては、西郷「吉之助」、大久保「一蔵」などがこれにあたる。一般に用いられるのはここまでである。

残りの「紀・直柔」は一般には用いられない名前である。子孫が系図に記したり、墓石に刻むための名前である。
ちなみに「」は、「姓(かばね)」であり、先祖の家系を示すものであり、多くは「源平藤橘」の4姓が用いられることがおおい。とくに藤原がおおい。「大部分はフィクションであろう」というのが先生の見立てだ。
そして「直柔」が「」であり「諱(いみな」ともよばれる。

なお国語大辞典では諱とは「「忌み名」の意味であり、① 本名。生前の名で、その死後人々がいう。② 死後に尊んで付けた称号。おくりな。のちのいみな。③ (①の意を誤って) 実名の敬称。貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。」とあるように、本名ではあるが死後にもちいられることを原則とした名前といえるようである。
ただし、江戸時代の大名家などでは、③のように諱を貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。

目上の人を呼ぶためには~吉田松陰の例

通称で呼ぶあうのは、基本的に、「上から」ないし「横から」の呼び方であり、目下から目上を呼ぶことには用いにくい。
そこで、吉田松陰の例があげられる。松陰の正式な名乗りを記す。

 吉田・寅次郎・藤原・矩方
(よしだ・とらじろう・ふじわら・のりかた)

 さきほどの理屈で、目上の者や家族、友人は、「とらじろう」やそれを略した愛称「とら」で松陰を呼ぶことになる。小説などで、主君の毛利敬親が松陰の命日に「今日はトラの日であったな」と話すのはこうした仕組みからである。
しかし、目下の者、とりわけ弟子などが「とらじろう先生」と呼ぶのは、恐れ多いことと考えられた。そこで用いられたのが「号(ごう)」である。こうして弟子たちは「松陰」先生と呼ぶことになる。門人が先生を呼ぶときは「号」が用いられる。
さらにちょっと気取った文人・学者世界では「字(あざな)」を用い、「子義」という「字」が多く用いられた。

ちなみに松陰は多くの名をもっている。
「国史大辞典」によると「幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す」となる。

「号」と「字」の違いが今ひとつわからないが、「国語大辞典」によれば、「号」は「特に、学者、文人、画家などが、本名、字(あざな)のほかに付ける名。雅号。」とあり、「字」は、「㋑中国で、男子が元服の時につけて、それ以後通用させた別名。通常、実名と何らかの関係のある文字が選ばれる。実名を知られるのを忌んだ原始信仰に基づき、実名を呼ぶのを不敬と考えるようになったところからの風習。㋺ 日本で、中国の風習にならって文人、学者などがつけた、実名以外の名。」である。さらに「江戸時代には、儒者・文人の間に広まったが、総じて尊称的なものと考えられていたようである。」との説明が付されている。尊称とあるように「字」の方がより気取った感じなのだろうか。

「偉い人」は「官位」が名前~「遠山金さん」と「一橋中納言」

これが大名や有力旗本になるともっと面倒になる。先生が例を挙げたのが「遠山の金さん」だ。まず正式名を記す。

 遠山・金四郎・藤原・景元
(とおやま・きんしろう・ふじわら・かげもと)

となり、原則はこれまで通りであり、通称を用いて「遠山金四郎」という呼び方が用いられる。ところが、官職につくと、「官名」がつく。「国史大辞典」によると、天保7年に「左衛門尉」という官位があたえられる。これ以降、一般的な呼び方は官名でよばれるようになる。周囲の人々も、自らも「金四郎」でなく「左衛門尉」「左衛門尉様」と呼ぶことになるのだ。おなじみの「遠山左衛門尉様、ご出座」という呼び方になる。
ちなみに、彼は天保3年に「大隅守」の官位をもらっており、それ以後の5年間は「遠山大隅守様」であったことになる。
こうして、官位を持った者は官位で呼ばれることが大きな意味をもつ。
徳川慶喜などは「一橋中納言」と呼ばれていた。

私もたまに、幕末期の史料を見ることもあるが、大名や旗本の名前が出てくればとても困る。たとえば、幕末の村上「藩」の家臣などは、「紀伊守家中」としてしか史料にでてこないこともあり、特定することが非常に困難である。

「名前が一つにされる」~戸籍法と壬申戸籍

こうした状況が大きく変わるのが明治4年の戸籍法である。これに基づき翌明治5年から編成されたのが壬申戸籍である。近代国家形成に伴い、政府は人間を名前で掌握する必要が生まれた。これまでのように一人の人間がいくつもの名前を持ち、立場や状況によっていくつもの名前を用いるのでは個人が特定できなくなる。そうすれば、徴税や徴兵といった事業を行うことが困難になるのだ。こうして「個人の名前は一つでなければならないし、一生変えることが出来ない」という原則が打ち立てられる。
こうした中で、超有名人をめぐる一種の「喜劇」が発生する。先生が紹介したのが西郷隆盛の例だ。例によって、隆盛の幕末における正式な名を記す。

 西郷・吉之助・平・隆永
(さいごう・きちのすけ・たいら(の)・たかなが)

 おかしなことに気がつかないであろうか。西郷隆盛の「隆盛」はどこにいったのか?
戸籍法・壬申戸籍の編成にあたって、西郷は代理人に戸籍名の届けをだした。先に見たように、「名 」「諱」は一般には使われることはなく、西郷もつねに「吉之助」で通用させていた。したがって、代理人は、彼の名(諱)である「隆永」でなく父親の名(諱)である「隆盛」として届けたというのである。嘘のような話であるが、史料批判の厳しさには定評のある師のことであるので、事実だと思う。実際の所、西郷は自らの署名は常に「吉之助」で通している。しかし、先生はいう。「西郷は一度だけ『隆盛』という署名をしている。それは西南戦争に際して『伺いたきことがあり兵をつれて東京へ向かう』という文書を鹿児島県知事大山綱良に提出したとき、そのときだけはさすがに『隆盛』という署名をした」とのことである。

先生は、「明治になって『名前が変わった』。以前は名前は何種類もあったのが、戸籍法によって一つに固定された。しかし、正式にいうと近代になって『名前を支える論理が変わった』というべきである」と話された。
先生のいいたかったことは、こうした具体的な事例を通じて、明治の変革の意味が見えてくるのだといいたかったのだとおもった。

非常に興味深い話であった。この話を聞いて、さっそく私が把握しているだけでも5つの名をもつ私の高祖父、その一家がそれぞれの名前をどのように届けたかを整理したいと考えた。それによって、現在の名前のいくつかのパターンもみえてくると思う。

高校で教える歴史の教師か、歴史を教える高校教師か?

高校で教える歴史の教師か、歴史を教える高校教師か

 

「高校で教える歴史は××だ!」

大学の先生方は、よく「こんなことも教えていない高校がある」とか、「高校までの歴史は教科書を教えているだけだ」とか、「覚えさせることが高校までの歴史だった」とか、高校の歴史教育を批判されます。こうしたいい方についての思いは、やや感情的だったかもしれない批判を何度か書いてみました。(*「歴史家としての歴史教師」参照元高校教師の私としては「そんな授業にさせているのは些末な暗記ばっかりを求める大学入試のせいじゃないか」とか、「わずか一年でそんないろいろなことができるか」(*日本史Aについては「大切なことは何を教えないかだ」、日本史Bについては「現代史」までいくのは、どう考えても無理。」参照) とか、「普通に授業ができる学校だけじゃないんだぞ」(*高校の状況について「授業は仕事の合間にやる『仕事』」参照など毒づきたくなりますし、すでに十分毒づいていますので、今回は「(高校の)歴史教育ってなんだろうか」について考え、歴史の授業で何を教えるのかについて自分の考えを記したいと思います。あわせて、このHP「日本近現代史の授業中継」を書く思いの一端を記したいと思います。

「高校で教える歴史」は歴史学の簡易バージョン?

考える出発点を表題のように考えてみました。「高校で教えている歴史の教師か、歴史を教えている高校教師か?」、同じことじゃないかと思いがちですが、実は大きな違いがあります。
大学の歴史学科の先生の多くは「高校で教える歴史の教師」として考えているように感じます。「自分たちが研究している歴史学の初歩、あるいは通史を教えるのが歴史教育」とか「歴史学の下請け」や「歴史学の簡易バージョン」と考えられている気がします。「国家が与えた指導要領の通り暗記させるのが仕事だとか。だから「荘園制を1時間しか教えない先生に習った生徒は不幸です」とか、「本居宣長については高校で習ったはずです」とかいうことばがでてくるのだと思います。

「高校で教える/歴史の教師」と「高校で教える歴史/の教師」

高校で教える歴史の教師」という言い方も、区切り方によって意味合いが変わります。
高校で教える / 歴史の教師」と考える生徒たちは歴史の授業でも、テレビや映画で出てくるような楽しい歴史の話をしてくれることを期待しているみたいです。しかし、実際の授業で歴史の教師は「高校で教える歴史 / の教師」として向き合います。自分たちが期待していたものでないと知ると、往々にして「面白くない」「退屈だ」というブーイングを出してきます。ですから実際の授業では、居眠りを減らし、授業への協力者を増やすためにも、一定の妥協をします。ビデオを見せたり、エピソードをちりばめたり。「授業中継」のなかでも戦国時代(*たとえば、本能寺の乱の「陰謀」説や幕末(*高杉の例あたりにはこうしたエピソードをちりばめています。ぼくが歴史を好きになったのも、こうした部分からなので、粗末にはできません。ただ、調子に乗ってやりすぎると時間が取られすぎてしまいますが・・。

では「高校で教える歴史」とは

高校で教える歴史」とはどのようなものでしょうか。高校ではどのような歴史を教えねばならないのでしょうか。公式的には学習指導要領で規定された内容なのでしょう。しかし、実際のねらいはここにはないでしょう。ただ、めったに、教科書を開かない、開かせない私ですが、授業の組み立てという意味では指導要領に従ってはいますし、規定されていました。しかし気分の上では人間としての、教育者としての「良心」にしたがって授業をすすめていたつもりです。ちょっとおこがましいですが・・。

最後のころになって、やっと「高校で教える歴史」のなかで教えたかったのは、こんなことかなと思うようになりました。(遅すぎますね。)
「どのような経過をたどって今の私たちがいるのか」「その中で解決してきたものは何であり、まだ未解決のものは何か」。このことを通じて、「時々の課題に対して先人たちはどのように立ち向かっていったのか。その過程で犯してしまった愚行やきらりと光る人間としての素晴らしさもみつめながら、現在、直面している課題がどのようにして生まれてきて、どこまで解決し、今の私たちに託されたものは何かを知ること」。
まだいい足りないようですが、まあこんな感じです。そして
「こうした視点から「人類の歴史」を整理して教えたい」
こんなことを考えながら授業をすすめていました。

歴史を学ぶことによって新しい世代に「自分たちの世代が現在直面している歴史的課題は何か、新しい時代を創るための何が必要なのか」を考える材料を与えたいと考えたのです。
「歴史学科」を中心とする大学の先生方の高校歴史への要望とは距離がありそうですね。

「何を教えないか」という選択

「人類の歴史を整理して」といいましたが、実際には、そんなたいそうなものではありません。歴史学をはじめとする諸科学の研究成果と方法論をもとに歴史学の研究者たちが、「学習指導要領」をふまえつつ記述された教科書の力を借ります。(私はあまり教科書は使わないタイプの教師でしたが)。教科書の問題については、ここでは触れないでおきましょう。ただ国家権力による余計なノイズが入っていることは頭の片隅に置いておいた方がよいでしょう。
とはいえ、教科書に叙述された内容は膨大であり、付け加えたいこともあり、教師の課題意識によって取捨選択が迫られます。(教科書だけを教えるという先生もおられると思いますが、実際にはいろいろな工夫をされていることもわかります。)
こうした取捨選択に際しては、実際の二単位・四単位・六単位などといった時間的な制約(実授業時数、考査までの時間数など)を考え、大学入試なども頭の端においておきながら、生徒の様子や時代の課題などを考えて「教えたいこと」「教えなければならないこと」そして「何を教えないか」を選択します。(*この点については「大切なことは何を教えないかだ」として一度書きました。そのための工夫も「いかに教材を精選し、スピードアップするか」で書いてみました。)涙を飲んで荘園制を一時間でまとめたり、本居宣長をパスしたりもします。通史(日本史B)ではかなり腹をくくらないと、結局近現代史をパスすることになります。
(※実際に時間切れが多いのですが、残念ながら時間不足を口実に近現代史を教えない人がいることも事実です。*この項については「現代までいくことはどうしても無理」で少し触れました。
※なお、「入試にでないから学校では近現代史は教えない」というネット上の書き込みを目にしますが、それは「全くの嘘、事実に反するでたらめ」です。入試で一番高い確率で出題されるのは日本史・世界史をとわず近現代史です。入試で歴史を取る人は、近現代史からはじめるのが鉄則です!しかし、その近現代史は、書き込んだ人の読みたい「近現代史」(のようなもの?!)ではないと思いますが。)

そもそも「教育」とは?

これまで「高校で教える歴史の教師」の側面を見てきました。しかし、私はこれでは不十分であると考えています。高校の歴史の教師は「歴史を教える高校教師」でなければならないと思っています。少したいそうな話から始めます。
教育というものは、原始の社会、新しい世代が、親や集団といった古い世代から、狩猟・採集などといった生きるためのさまざまな知識や技術・技能を学ぶことからはじまったものです狩りや農耕の場での体験や訓練、歌や踊り・長老による昔語りなどによる知識の伝授(まさに「歴史教育」です!)、通過儀礼(たとえばバンジージャンプ)、さまざまな場面、さまざまな機会に、古い世代は次の世代に彼らが学ぶべきと考えた知識を伝授し、生きる力、集団に貢献できるような力を身につけさせようとしました。年老い・死んでいく古い世代に代わって新しい世代が成長させることで、集団を維持させ、文化的な「種の保存」=再生産を図ったのです。これ教育の原初的な形態です。
一人では生きていけない「未熟児」として生まれてきたヒトは、周囲の環境、「おせっかいな人間たち」にかまわれ、迷惑をかけながら「人間」になっていきます。「ヒト」は、教育によって「人間」に成長する高度な可塑性・可能性をもつ「未熟児」として生まれるのです。教育は、ヒトという個体が生きる絶対条件であり、各レベルの集団維持のための必要条件でした。

近代国家が付け加えた新たな「教育」の役割

近代になり、主権国家が形成されると人間は「国民」として把握されるようになり、教育のなかに「国民の形成」という機能が組み込まれ、国家の求める「規格」に合致した「製品」としての「国民」をつくる役割が与えられます。こうした役割を担うため公教育が整備されます。後進国ドイツに始まった義務教育は強い兵士を作ることが第一の目的でしたし、日本においても教育制度は富国強兵と強く結びついていました。(この項、「明治維新(2)近代的軍隊の創設と地租改正」参照)

個々の人間も「主権国家」という枠に囲い込まれた以上、さまざまなそのルールに順応せざるを得ませんでした。本来的な「人間・社会の再生産」という機能に、近代主権国家が求める「国民の形成」という新たな機能が持ち込まれるなか、こうした「教育」を効率的に身につけさせるための「装置」が「学校」であり、公教育でした。
言語や数的処理能力、法令や慣習の存在、規格化された肉体、道徳、そして共有すべき伝統、歴史あるいは神話などが、「国民の形成」という国家的目標に即し、「人間・社会の再生産」という本源的な教育の目的と渾然一体となって公教育で扱われます。

さらに教育は、その成果を「財産」化することで、立身出世を可能にし「家」も発展させうるというインセンティブが加えられました。
公教育はナショナリズムの温床であったといわれます。現在でも、国家が学校教育に介入してくるのは、こうした性格をもっているからでしょう。

教師が課せられた役割とは

このような役割を担わされたにせよ、古い世代が次の世代に彼らが学ぶべきと考えた知識を伝授し、生きる力、集団に貢献できるような力を身につけさせようとするという教育の原初以来の機能はかわりません。
個性や発達段階、理解度に配慮しながら、整理して分かりやすくかみ砕いたり、逆に厳密さ正確さを重視したり、相手を見ながら伝え、考えさせたり、習熟させるのが、原初以来の教育の姿でした。そして、学校教育という形のなかで、専門職としての教師が教育学の成果などにも学びながら合理的な教授法を確立し、教育の「一部」を担うようになったのです。
近代社会においては国家の要請に沿うことも多くなりますが、人類が未来を託すことが教育の目的である以上、それにとどまらない役割も持っているのです。
このように考えてくれば、教師の使命も見えてきます。それは、自分たちが先人から引き継いできた社会や文化をよい形で次の世代に受け継ぎ、よりよいものとして発達させ、再生産してもらうための手助けなのです。古い世代が受け継いできたバトンを、しっかりとバトンタッチすること、その営みが教育の役割だと思います。
こうした機能を専門的に特化した「学校」という機関において、教師たちが機能を分担しながら伝えていくのです。
近代資本主義社会は、個々の人間を原子化するとともに、人間関係を経済的関係へと置き替えていきます。子育ての負担は、これまで以上に家族とくに母親へ集中しますが、これまで母親を支え育ててきた家族や地域社会は衰退しています。「よってたかって子どもを育てた『おせっかいな人間』たち」が子ども(と母親)のまわりから消えていき、地域や家庭で分有されてきた「教育」機能が弱体化します。おいつめられた母親たちはその悲鳴を「教育」を公的に担う学校に向けてきます。地域すらが似た行動を取るようになります。
家庭・地域・学校といった三者で担うべき「教育」機能ですが、前の二者の機能も学校教育へ吹き寄せられてきます。このなかに「生きる力、集団に貢献できるような力」という「教育の原初以来の機能」にかかわるものがあり、「この力を身に付けずに大人になることは困る」という役割すらも押しつけられます。
こうした役割は、「国家の求める「規格」に合致した「製品」としての「国民」をつくる」というあり方や「国民道徳を涵養する」という戦前以来の公教育が担わされてきた役割と響き合う形で、現在の学校に持ち込まれているのです。
こうした役割は「次の世代が学ぶべき知識を伝授」を主要な課題とする学校教育になじまないとして拒否することも可能でしょう。それは地域や家庭の問題だといって。しかし、疲弊した地域や崩壊しつつある家庭のなかで、「生きる力、集団に貢献できるような力」を育てる課題を放棄できるのか、という苦しい選択が強いられているのです。この役割も、文句も言わず引き受けてきたのが「学校」でした。「人間サンドバック」になりながら。
部活動もそうです。「本務ではない」。しかし、そこには、学校教育を超えた教育の本質にかかわるものがあり、個人や社会の形成にかかわる「教育」で効果を上げることも多い・・。
こうして、学校は、教師は、家庭や地域が担いきれなくなった教育に対する役割すらをも背負い込み、身動きがとれなくなってしまっている。
たしかに労働条件から見ると、教育現場は「ブラック企業」のひとつです。ところが、自分たちの仕事が、児童生徒の人間としての発達・成長を保障し、それによって社会を支えているという意識(思い込みの分もあるとおもいますが)が、こうした過酷な環境を容認させているのかもしれません。
ともあれ、こうした内容さえ付与されてしまった「教育」の専門機関が学校です。

(*部活動と教師の多忙化については、「授業は仕事の合間にする仕事?」参照)
 

「歴史を教える高校教師」の仕事

こうして、「歴史を教える高校教師」という姿が見えてきます。教師はこれまで見てきたような仕事を行なう専門職であり、ホームルームや校務分掌、部活動など、教育にかかわるさまざまな場面でも、こうした仕事を担っているのです
当然、授業という場面でも、狭い意味での「高校で教える歴史の教師」をこえた役割が期待されます。
出発点となる「読み書き算」、自分で考えたり体験を元に想像する力、共感する力、自分の考えを発表したり、他の人の意見を聞く力、文章や史・資料などを読み取る力、あるいは他の人の学習権をはじめとする人権を尊重する力などなど、こうした世界を読み取り、変革していく広い意味の学力を身につけることが求められています。
こうした役割を「高校で教える歴史」とともに求めらるのが「歴史を教えている教師」です。

「歴史を教える高校教師」として私が気をつけたこと

実は、私は指導力不足気味で、面倒くさがりの「落ちこぼれ教師」でした。優れた実践をしている「歴史教育者協議会(歴教協)」や生徒を動かすことでその力を引き出そうとする「全国高校生活指導研究会(高生研)」といった人々のすぐれた実践をとりいれようとしたこともありましたが、最終的にはある文部官僚に「石器時代」と揶揄されたような伝統的な授業スタイルにもどっていきました。私が書き続けている「授業中継」の方法はこのようなカビの生えた代物です。こうした批判を持たれる先生方も多いと思います。その通りとしかいいようがありません。力量不足だったことはいなめません。
しかし、そんな私であってもいくつか気をつけたことがあります。
一つ目が国語など他教科にかかわる説明も丁寧にしようとしました生徒が、歴史(あるいは理科なども)で引っかかっている原因は、じつは国語力・語彙力にかかわっているように思います。ですから、ちょっと難しい、あるいはこれぐらいは知っているだろうという所でも、丁寧に説明しようと試みました。語彙などは、国語よりも実際に必要に応じてさまざまな言葉を使っている「社会」や「理科」といった科目の方がその定着を促進しているのかもしれません。最初に書いた「日露戦争」あたりには、そうした痕跡がのこっています。(*この点については「平安時代と室町時代、どっちが古い」参照。学習障害などにかかわる課題については「勉強ができないのは、努力が足りないせいか」もご覧ください)
二つ目は、現在を読み解く上で重要な概念やエピソードなどは脱線しても、より丁寧に教えようと考えました。「授業中継」のなかには、明治憲法の特質、選挙制度、インフレとデフレの人々への影響、実質賃金、変動相場制など主に「政経」分野への「領空侵犯」をおこなっています。(*例として自由民権運動の展開と松方デフレ」参照生きていく上で必須の知識だとおもうからです。言葉の通じない外国人とのコミュニケーションのとりかた等も書いてみました。「開国前夜~近代の台頭と対外情勢の緊迫化」参照)今回は書いていませんが、原爆の原理を教えたこともあります。
三つ目としては、歴史上の「人間」への思いや共感を大事にしました。これは歴史学としては好ましくないかもしれません。しかし、生徒たちに自分の生き方を考え、進路選択をさせるのが学校教育の大きな課題である以上、いろいろな人間の生き方を提示することは重要な教材です。しかし事実に反する説明や誇張によって戦前の「国史」のような偉人伝にならないように事実に基づいたものであり、問題点や限界などもきっちりと指摘をする必要があります。さらに、時代の中で、取り巻く条件を丁寧に描こうと考えました。(例:伊藤博文にかかわって「明治憲法体制の成立」参照)
個別の人物ではないのですが、こうした点でとくに力を入れたのが南京事件でした。(*「兵士たちの日中戦争」参照かれらは暴虐で非道な行為に携わることになったのですが、それが何故行われたのか、そうして理由を丁寧に書き込むことによって、戦争の真の姿に近づけたいと考えました。そうしないと被害者も、加害者となってしまった兵士たちも浮かばれないと考えたからです。今回の「授業中継」では時間の制約がなかったので、より丁寧に描き出したつもりです
四つめとしては、私自身や関わりのある人を出演させました。ぼくはできませんでしたが、生徒たちも出演させることができたかもしれないと思います。
現在に生きている私たちすべてが歴史の出演者であり、自分たちが見ており、体験しているすべてが歴史そのものだという当事者意識を感じてほしいからですさらに、私のささやかな経験が生き方を考える材料となったり、時代を感じさせるものとなればと思ったからです。(*日本近現代史を大雑把につかもう」。さらに「高度経済成長と日韓基本条約」「ベトナム戦争と沖縄返還」なども参照)
五つ目としては、やや強引だったかもしれませんが、いろいろな手法をつかってみました。生徒たちが、社会を、歴史を見るときの方法論を学んでほしいと思ったからです。今回は出していませんが、マインドマップなどもつかいました。階級分析と階級闘争によって歴史が動くという視点とか、底辺の民衆の目から歴史を見る視点、女性にとっての歴史など。さらに、植民地民衆、侵略を受けた側、攻撃された側など複眼の視点も重視しようと考えました。世の中を、多様な方法で、さまざまな視点から分析するツールを知ってほしいと思いました。(*「いろいろな方法を試してみたい」、あわせて「士族反乱・農民反乱・民権運動」参照

 

この「日本近現代史の授業中継」は、こうした視点から「石器時代」の手法で行ってきたポンコツの「歴史を教えている教師」による授業の実践です。(実際には、実施できなかった授業の分もありますが・・)
最も望ましいのは、多様な授業の手法で、生徒の意欲と潜在力を引き出す際、この「授業中継」が先生方や生徒の皆さん材料となることです。

 

 

徳川時代の物価はどのくらいだったのか?

徳川時代のいろいろな値段は?

江戸時代の物価って一体どのくらいなのでしょうか。
私がでている授業でおもしろいデータがありましたので、そのレジュメ(パワーポイント)のデータをもとに紹介します。

三種類の貨幣(金・銀・銭)が併存

江戸時代には金貨、銀貨、銭(銅貨)の三種類があったことはご存じの通りだと思います。
帝国書院「図説日本史通覧」P167
帝国書院「図説日本史通覧」P167
日本国内で、地域的な偏りをもって、三種類の貨幣が流通し、取引されていました。なにか、現在の世界のようですね。

金貨・銀貨・銭の交換レートを確認しよう。

まず交換レートです。1625年現在のものです。
金1両=金・銀4分=金・銀16朱=銀16匁=銭4000文
これが  1764~71年の 明和年間には
金1両=5000文
と交換されるようになります。
先生の感覚で、1文は10円と換算されました。
あくまでも根拠は・・感覚とのことです。
だから、ここでは
1両=4000文=40000円
という換算式ですすめていきます。

注記:他のHPでの換算率について

 
※京都故実研究会「江戸時代の貨幣価値と物価表」というHP
(http://www.teiocollection.com/kakaku.htm)では次のような換算式を用いています。
江戸前期 25.0円/文
    江戸中期 20.0円/文
    江戸後期  5  円/文
江戸期の平均 16.5円/文
このHPには、詳細な物価表がきっちりと紹介されており、引用したりするときはこちらの方を使った方がよいと思います。
※江戸時代のちょっとびっくりな文化と生活「江戸時代の文化と生活」というHP
http://www.edojidai.info/bukka.html)では、いろいろなベースを元に換算しています。
 
     1両=  4 万円 (米ベースの換算・日銀による)
    1両=12~13万円 (そば代で換算)
            1両=30~40万円 (大工の手間賃で換算)
 
 こうしたなかから、このHPでは
    1両= 8万円 1文=20円 が妥当としています。

日銭稼ぎの都市住民収入は月収10万円以下

 まずは収入から、ここでは日銭稼ぎの都市住民の例です。
大工・左官・土方など 1日324~540文(3240~5400円)
1か月 6万~10万円    年収 72万~120万円
野菜棒手振(野菜の行商)1日100~200文(1000~2000円)
1か月 2万~4万円  年収69万~48万円
1日の数字と月収の間のずれがあるようです。
計算したものでなく、それぞれ別々の史料から出されたのか、月20日働いたぐらいの金額となっています。
古典落語の主人公や時代劇の名脇役の収入です。
かなり厳しい生活だったことが分かります。
1文=20円で計算しても、月収4万円~20万円
     やはり厳しい数字となっています。

中級武士でも年収160万円

では、武士はどうでしょうか。
先生が示したのは100石取りの中級武士の例です。
しかし、中小の藩では上級武士に準じる場合もあります。
100石取りというのは、100石の収穫が見込める土地分の年貢がもらえるということで、実際に手に入るのはその40%程度の40石ということになります。
武士100石取り 実質40石=40両
        年収160万円位(月給13.3万円
  という悲惨な数字となってしまいます。
中級でこの数字ですので、下級武士の場合はいっそう厳しかったことがわかります。
武士たちが、各種のバイトに励んだり、次男や三男を養子に出したことの意味が少しは見えてきそうです。

住まいは狭いが、家賃は安い

生活費の内の住居費です。町屋の家賃が示されています。
イメージ 1
江戸の長屋(写真・深川江戸資料館) http://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/46836013.html
ちなみに「一般的な裏長屋の広さは、間口が9尺(2.7m)で奥行きが2間(1.8メートル)というのが一般的な大きさで、部屋全体の大きさとしては6畳相当になりますが、土間や台所なども含めてその大きさですから、居間兼寝室となる部分は4畳半ほどしかありませんでした。」(「江戸時代の文化と生活HP」http://www.edojidai.info/kurashi/uranagaya.html)
ということで4畳半、1Kの住まいの家賃です
     文政年間(1818~29)の例です
    長 屋・・・ 1か月 800~1000文(8000~10000円

        棟割長屋・・ 1か月      500文       (5000円

この両者の違いはわかりません。先生が調べた史料の関係かもしれません。

一人一日5合の米を食べているが・・

    つぎは食料費です。
江戸時代の庶民の食事(再現)の拡大画像
江戸時代の庶民の食事(再現)http://edo-g.com/blog/2016/02/meal.html/edo_meal_l
江戸時代の人(とくに都市の住民)はわれわれの想像を超える量の米を食べており、一人一年間1石以上消費しています。
1日一人あたり5合前後の米を食べていたのです
ちなみに、昭和の初め、宮沢賢治が
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」(雨ニモマケズ)
と書いています。1合の米を炊いても数日間残るという現在とは大きな違いですね。
夫婦と子ども1人の3人家族で1年3石5斗4升と計算されています。
米以外の食品の価格について、現在とは雰囲気が違いますね。
牛乳2合2万円とか、ゆで卵1個200円とか、
びっくりしますね。食べ物というより薬だったのでしょうね。
魚も結構高価なものが多かったこともわかります。
      米代 1年3人分 3石5斗4升で約6両(24万円)
                  1か月2万円
 塩・味噌・油・薪炭代 1年約11両(44万円)
                  1か月3万円
その他の食料品と外食費
 豆腐1丁(現在の4倍の大きさ)56~60文(500~600円)
 納豆4文(40円)                    しじみ1升6文(60円)
 まぐろ1尾200文(2000円)

 初鰹1本(棒手振り売り)1000文(10000円)

 酒 1升 40文 (400円)慶安年間(17世紀中期)
      文化年間(19世紀初期)には 200文 (2000円)
 砂糖水 8~12文(80~120円) 水一荷4文(40円)
 牛乳2合2分(2万円)  ゆで卵20文(200円)

外食はどうかというと、これもそんなに安くはない。
いきおい、屋台で腹を満たす。鮨も天麩羅も屋台で食べられていました。
 鰻丼100文(1000円)のち400文(4000円)
 屋台で食べると
そば16文(160円)  握り鮨1個8文(80円)
  天麩羅1個4~6文(40~60円)
縄のれんで一杯
  酒1合30文(300円)
茶店では 4~10文(40~100円)
串団子1串5文(50円)  大福餅や桜餅一個4文(40円)
羊羹一棹66文(660円)

 さまざまな生活費

さまざまな生活費ともいうべきものの値段を示します。
   刻み煙草 10匁(38g) 8文(80円)
   灯油          1升(1か月分)    410文(4100円)
                      →幕末には    2000文(20000円)に急騰
           下駄         50~100文(500~1000円)  
           草鞋        12~16文(2000~3000円)
           蛇の目傘   1000文(1万円) 
           番傘   200~300文(2000~3000円)
           銭湯                  6文(     60円)   瓦版     4~30文(40~300円)
           宿場駕籠    250文(2500円)
           髪結                 28文(    280円)
             →19世紀以降32文(320円)→幕末は48~56文(480~560円)
           出会い茶屋利用料 1/4両=1000文(10000円)

人々の「楽しみ」の値段

人々の楽しみにかかる費用です。
歌舞伎の値段の上下の差、びっくりしますね。
また浮世草子などの本を買うのは非常に高かったことが江戸の貸本文化を支えたことも見えてきます。
歌舞伎小屋(HP「歌舞伎への誘い」より)http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/1/index.html
           歌舞伎 桟敷席 銀35~40匁(2~3万円) 
                 一般席    100文       (1000円)
                立ち見席              10文          (100円)
           相撲  桟敷席   銀43匁    (27000円) 
                                木戸銭   銀  3匁      (2000円)
          浮世草子                    銀25匁  (17000円)
今も昔も、一攫千金を夢見た人たち、当時の宝くじがこれ。

  富籤 12文 (120円)

1730年では賞金25両(100万円)が5人に当たるということでしたが、賞金はどんどんエスカレート。100両(400万円)から、ついには1000両(4000万円)にまで達します。

男性の「天国」?!吉原にいくと

   吉原の太夫の揚げ代 1回  1両2分(60000円)
 しかし、その裏返しで、こういった悲劇もあります。
  吉原への娘を身売り得るのが 50両(200万円)
      妻を身売りしたら  80両(320万円)
  娘は親の薬代のために、妻は夫の窮地を助けるためだった
  とのことです。

  病気や健康維持のためにかかる費用

     医者の診察代 1~2分  (1万から2万円)
     薬代 3日分               1分           (1万円)安政年間
                         按摩上下 1回        50文           (500円)
                同じ薬でも
                        避妊薬       1回       124文        (1240円)
               こんなものも、でも効果あったのかな?

  結婚持参金や教育費

       一般町人 5~10両 (20万から40万円)
豪商           500両      (2000万円)

上下の差が大きいですね。こんなのもあります。
不倫の示談金 1回 7両2分 (30万円)

  江戸後期に急速に増えた寺子屋にかかる教育費
       机・硯箱 250~270文 (2500~2700円)
   筆      一本    4文(40円)  墨    1つ12文(120円)
     半紙  20枚8~12文(80~120円)
入門料200~300文(2000~3000円)
他に炭代(暖房費?)や五節句のお礼なども必要です。

旅行にかかる費用は

  一度はいきたいお伊勢さん。もさかんになります。
 庶民の宿は安かったみたいで
    旅籠代200文(2000円)、木賃宿16~32文(160~320円)
    渡し船が、12~15文(120~150円)
東海道 大井川の図(広重)島田市博物館所蔵 HP「東海道川を渡る道」よりhttp://tokaido.canariya.net/1-rene-tokdo/5book/2bu/12_fr.html
     面白いところでは、東海道・大井川の渡し
 人々は人足に担がれて川を渡ります。
      人足料
         腰まで48文(480円)
         乳下70文(700円)、
         脇下90~100文(900~1000円)
水の深さで値段が違ったのですね。
 普通は人足の肩車で渡ります。
 でもお金持ちは四人で担ぐ輿にのって渡りました。
 当然、費用は4人分、水の深さで費用が違うのは肩車同様です。

参勤交代の費用は

庶民の旅でなく、大名方の旅行(参勤交代)にかかる費用です。
帝国書院「図説日本史通覧」P150
帝国書院「図説日本史通覧」P150

 

関東地方・群馬県にあった高崎藩 82000石でかかった費用
   片道 900両(3600万円)

九州の大藩佐賀藩357000石で参勤交代にかかる費用
    片道 2600両(1億400万円)
参勤交代の負担は大名に重くのしかかっていました。

借金の利息は

最後は借金の利息。享保年間(1716~35)の例です。
       1両(4万円)を借りた場合の利息が
   1か月1匁6分=74文(740円)、
      月利1.85%、単純に12倍した年利が22.2%
 複利ならもっと多くなります。現在なら許されない利息率ですね
少額金融はもっと厳しく、
 銭100文(1000円)について
   1か月4文(40円) 月利4%、年利48%
 というとんでもない利率になります。複利ならもっと増えることは先に見たとおりです。

江戸時代の値段から見えるもの

提示された例を挙げただけでも、いろいろなテーマが見えてきそうなですね。
本来なら、自分で調べたものならよかったのですが、全くのパクリです。
個々で出された数字は、担当の先生が、いろいろな史料をみて出てきた値段を記されたものだと思います。
江戸期は物価の変動が小さかったとはいえ、約270年の長い時間であり変化があったことは確かです。
先に見たように、「1文10円は自分の感覚でしかない」と何度も話しておられましたのでとくにご注意ください。
最後に、このデータは先生が授業のなかで時代のイメージをつくるために出されたものであることにご留意ください。

なんとか「終戦」までは! ~「お助けプリント」を準備しました。

なんとか「終戦」までは!
~「お助けプリント」を準備しました。

とうとう12月、2学期の期末考査の時期です。
毎年、ぞっとする時期です。
というのは、残っている授業時間があまりに少ないから
残る授業は、3年生で実質2~3週間2年生は約2か月
そこで、指導手帳に講座ごとの授業時間をまとめ、その枠内で教える内容を考える。
是非教えたい内容も涙を呑んで削る。
それでも、どうしても時間が足りない。
何としても日本国憲法の制定、少なくとも終戦まで」という目標をあきらめなければと思う時期です。
「まあいいか、できたところまで」と考えてしまいますが、桑田佳祐の「知りたいことは時間切れ」というフレーズが頭をよぎり「本当にそれでいいの?」という心の声が聞こえます。
昨年もそうでした。
2学期の期末考査時点で、やっと日露戦争が終わったところ。(「日本の産業革命」や「条約改正」を犠牲にしてもこのありさまです。)
普通のやりかたなら大正で終わり、終戦までは絶対無理という場面です。
しかし、毎年、こんな状態でも予定まではやりきります(^_^)v
その手段が超短縮プリントと、ビデオの併存です。
ということで、昨年度(それ以前から(^_^;)も)使用していたプリントをアップすることにしました。
実際には、さらなる短縮版も作っていますが。
今回は、ちょっとええかっこして量を増やしすぎました。
日本史Aの資料室」に「時間短縮用プリント(大正期~占領期)」としてアップしておきます。「なんや、いつも書いてる内容とえらい違うやないか!」とのご批判もあるかとは思いますが、実際はこんなものです。プリントのネタの多くは、例によって旺文社「教科書よりもやさしい日本史ノート」(監修:石川晶康)です。
(注記:当方のミスで同じプリントばかりが表示されていることに気がつきました。今回、正しいプリントに訂正しましたので、ご利用ください。17.4.26記)
またビデオはユーキャンの「昭和と戦争~語り継ぐ7000日」シリーズを使っています。2巻・赤紙が届く日(昭和11~12年)、4巻・立ち上がれ少国民(昭和16~18年)、6巻・本土決戦の覚悟(昭和20年)を飛ばし飛ばし見せていました。どう見ても不要な所や「ン?」という所もありますが、おおむね良心的に作られているように感じます。
さらに時間に余裕があるときは、7巻8巻という戦後編も見せていました。
6巻についての授業用プリントもアップしておきますので、ご覧いただければ光栄です。

五色塚古墳で考えたこと~「本物」と実際

「本物」を見せただけでは実際の姿には近づけない
 ~五色塚古墳で考えたこと~

 

ふと、気がむいて、神戸の五色塚古墳へ行ってきた。

五色塚古墳①
五色塚古墳①

神戸市西方にあり、淡路島と淡路海峡大橋を眼前においた兵庫県屈指の規模を誇る古墳である。

ここの古墳の特徴は工事用のじゃり置き場のように丸い小石、葺石がゴロゴロしているところにある。この古墳が作られたころの姿に復元すると、このような姿となるのた。

五色塚古墳②葺き石
五色塚古墳②葺き石

僕たちは、古墳といえば、大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)のような鬱蒼とした木々に覆われた緑の森を想像してしまう。古墳といえばこういう姿だとして、こうした写真ばかり見せられるてきたからだ。歴史の教師の側からいえば、見せてしまうというべきか。

正面から・・・一般には、ここからの拝観・・・仁徳天皇陵古墳拝所・・これよ... [大仙陵古墳(伝
大仙陵古墳http://pds.exblog.jp/pds/1/201308/21/45/a0249645_1943557.jpg
たしかにこうした古墳は「本物」ではある。しかし、これを見せて、古代の人はこのような古墳を作りましたというのは正しいだろうか?ここに、五色山古墳再生の面白さがある。1000年以上経った古墳ではなく、古代の人々がつくったような、彼らが実際に目にしていた古墳を再生して現在の我々に提示しているからだ。

大仙陵古墳や周囲の陪塚全てにおいて、葺石や円筒埴輪が忠実に復元されてい... 歴史文化学科の学生
大仙陵古墳の復元図(近つ飛鳥博物館の展示) http://www.osaka-ohtani.ac.jp/blog_campus/literature/003124.html

現代人にとっては神々しいとは思えない土砂置き場のような盛り土の山、これが実際の古墳なのだ。しかし、これも実際の姿とはいえないかもしれない。周りが、まったく違うからだ。現在の我々は嫌になる程、毎日、人工物を目にしている。そうした我々にとって、自然の緑は美しく生き生きしたものと感じる。しかし、古墳が作られた時代はまったく逆なのだ。

古墳が作られた時代、人間は荒々しいまでの森林と戦いつつ自らの支配地域を広げて行く時代であった。そこに実に人工的な建造物が作られる。鬱蒼とした緑の中に、明石海峡を通る船からもくっきりとみえつ人工物、周りの葺石は太陽の光を浴びて輝き、頂上部分には埴輪が隙間なく並べられている、それは自然と対峙している人間の力の象徴のようにもみえる。古墳は自然に戦いを挑んでいる人間の力を示しているのだ。

五色塚古墳②明石海峡と明石海峡大橋を望む
五色塚古墳③ 明石海峡と明石海峡大橋を望む

だからこそ、現代人にとっての古墳が緑に覆われた神聖な空間と感じるように、緑の自然の中の人工的な輝きこそが多くの人間たちを組織してこのようなものを作らせた古代人のリーダーの権力を示すものであったのだ。 

我々は、現在に残された「本物」、本物の現況を見て、過去のことを想像する。しかし大仙陵古墳のように「本物」ではあるが、当時の現実とは異なる姿に慣らされている。

復元鋳造された銅鐸 京都の青銅器工房 「和銅寛」のHPより https://wadokan.ocnk.net/contact

私たちは、銅鐸や銅鏡が青緑色をしていると教えてこなかっただろうか。あのような輝きのない色をしたものを古代人がありがたく思ったように思わせていないだろうか。これは古代人たちの信仰をミスリードする。当時の人々が見た、銅鐸や銅鏡は金色にぴかぴかと輝いて、叩けば当時の人たちが聞いたことのないような高い金属音を発した。だからこそ、信仰の対象となったのだ。こうした古代人たちが見ていた姿を伝えていただろうか。

仏像でもそうだ。

新薬師寺十二神将婆娑羅大将 JR東海「うましうるわし奈良」より http://nara.jr-central.co.jp/campaign/shinyakushiji/special/index.html

木目が見えていたり、銅の地金が見えている仏像、これを当時の人々が信仰したと思わせていないだろうか。実際の仏像は金色に輝き、濃い群青色で隈取れるものであったり、様々な色で塗り分けられたものであった。

奈良、新薬師寺の十二神将像にいたってはヘビメタ真っ青の色彩で表現されていた。そのケバさを超自然的な力をもつ仏や神として尊んだ感覚を伝えられているだろうか。我々が感じる長い時間を生き延びるなかで得られた虚飾を脱ぎ捨てた仏像の物語とともに、もともとの姿をも思い浮かべる想像力も必要なのだろう。

浄土寺(兵庫県小野市)の阿弥陀三尊像 採光を最も劇的に用いた建物と仏像とされる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B8%82)#/media/File:%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA%E4%B8%89%E5%B0%8A.jpg

仏像の場合は、光の状態やそれを見る目線も重要である。蝋燭の光、差し込むわずかな光、護摩の炎、こうしたなかでの仏像、さらには時々で移ろっていく光に照らされた仏像こそが、人々にとっての仏像である。電気の光に照らされたり、さらには写真用の照明で完璧に照らし出された仏像とは異なるものであった。

 我々は、現在の姿で歴史的なものを見て、分かったような気になっている。しかし、それが作られた時の姿にも注意を向ける努力をしなければ、当時の人々に近づくことはできないように思う。

 鬱蒼とした緑のなかに、ひときわ輝く砂利置き場のような人工物のなかにこそ我々は古代人の思いを知ることができる。「本物」であることで満足するのではなく、作られた時代の姿や人々の前に現した状況などにも、時には配慮しなければ、実際の歴史には近づけないのだろう。

いろんな手法を試してみたい~自由民権編UPしました

いろんな手法を試してみたい。

~自由民権編をUPしました。~

自由民権運動を中心とする明治一ケタから二十年前後までの授業案をUPしてみました。
わたしは、歴史の授業において、いろいろな歴史学や社会科学など諸科学の分析・叙述の方法を用いたいと、非力を顧みず考え、やってきたつもりです。
それは、生徒たちの将来にとって有効だと考えています。
生徒が、特定の立場や方法に固執するなく、複眼的な視点を持ち、いろいろな角度から、自分を取り巻く社会や世界を分析し、行動する指針として欲しいからです。
日本史でありながらも、東アジアや世界に開かれた汎用性のある学びを得て欲しいからです。
一つ一つの歴史事象について、いろいろな角度から見る力をつけて欲しいからです
こうした考えから、全体の流れからずれない程度で、時間を見ながら、いろんな歴史理論や社会科学などの方法を意識し、授業を進めきました。
「開国」のあたりではシステム論とはいえないまでも資本主義の成立がアジアにどのような影響を与えたのかを、明治維新では国民国家論を、外交の所では主権国家や華夷体制という国際関係論をそれぞれ意識し、文明開化のあたりでは民衆思想論にも触れられたかなと思っています。
今回の自由民権を中心とする明治一ケタから十年代の歴史については階級という視点を少し使って導入してみました。
明治維新、文明開化という大きな流れの中で、
士族・農民・豪農豪商というそれぞれの階級がどのような立場に置かれ、どのように考え、行動をしたのか。といった分析を基礎におきながら、政府の動きとのかかわり、西南戦争後のインフレと松方デフレという経済の激動がそれぞれのグループにどのような影響を与え、運動をどのように変革させたのかにも触れました。
最終的には、豪農が寄生地主化することで、自由民権運動、そして明治国家、戦前の経済がどのような事になっていくかも展望したつもりです。
階級を意識した分析は、世界史では、フランス革命のところでとくに有効でした。というか、これを使わないと、うまく説明できませんでした。
階級(闘争)論というマルクス主義的な手法は時代遅れという人も多いかもしれません。
しかし、階級ごとに分析し、それぞれの置かれた状況、願いや考え、そして具体的な行動をみていく、というやり方は、現在を分析する上でも有効な手段と思いますし、こうした分析方法を知ることは高校生にとっても意義があるものだとと思っています。

家茂と和宮のそれから

 家茂と和宮

日本で最も有名な政略結婚をさせられた徳川家茂と和宮の二人、それからどうなったのかという話をしたいと思います。
授業では、よくする話なんだけど、本論から離れそうなので、こっちで補足しておきます。
Kazunomiya.jpg
和宮(1846~1877)、家茂の死後「静寛院宮」と名乗った。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#/media/File:Kazunomiya.jpg
和宮が野蛮人と思っていた家茂君はとってもやさしいいい人だったみたいで、この二人は将軍家でもめずらしいとってもすてきなカップルだった、という話は授業中継でもしたとおり。

でも、なぜこんな風な仲良し夫婦でいられたのかなあ。

徳川家茂(1846~66)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:Tokugawa_Iemochi.jpg
よく考えると、これまでは、たとえ夫である将軍がいい人で、子どもの誕生こそがとか、大奥のしきたりがとか、なんとかかんとかまわりが口を出して、本来の夫婦らしい関係は作りにくかったんじゃないかな。
ところが、和宮の場合は相手が悪い。天皇の妹で、鳴り物入りで嫁いで来たんだから。
これまでの大奥のしきたりでは通用しない。
将軍としても大切にしなければならない存在だったし、相手の立場が高いだけに、まわりにとやかく言われることなく、奥さんを大切にできた。
だから、普通に家茂君の優しさが発揮できたのだろう。
ある意味、奥さんの立場が高かったからこそのいい夫婦になったのかもしれないね。
でも残酷なもので、家茂君は朝廷から「京都まで来い」と何度も呼び出され、天皇のガードマン?!をやらされたり、高杉からやじられたり?!、心労がたまって、長州との戦いのため大坂城にいたときに病気で死んでしまう。21歳。いまの数え方で20歳。
ストレスからか、スイーツが大好きで、虫歯で歯がボロボロだった。 それも病気の原因につながっているらしい。
死因は脚気(かっけ)。
脚気って知ってる。お医者さんが膝のちょっと下をトンカチみ
たいなものでトントンとたたくと、自然に足がぴょこんとはねる。あれが脚気の検査。今でもやってるのかな?
明治までは、これでたくさん死んだんだ。
明治時代の日清戦争や日露戦争の兵隊さんで、病死した人のかなりが脚気だったみたい。
どうしたら直るか。
僕だって、家茂君を直してあげられる。玄米を食べればいい。
脚気はビタミンB1の不足が原因なんだから。
庶民はみんな玄米だったのに、やんごとなき将軍さんは白米ばかり食べさせられていたのが原因の一つだった。
明治の戦争の時は、かの森林太郎(鴎外)先生が、兵隊には良いものを食べさせてやりたいといって、兵士に玄米ではなく白米を食べさせつづけたのが、原因だといわれている。彼は脚気は伝染病だと信じていたからだけど、善意が裏目に出たんだね。
徳川家茂の石塔(増上寺)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:TokugawaIemochi_grave.JPG
余計な話はおいておいて、昭和33年徳川家の墓地改修のために将軍たちの墓が開けられた。そのときに和宮の墓も開けられた。
すると、人々はそのお墓の中で一枚の肖像写真を発見した。
豊かな頬をした童顔を残した若い男性のものだった。
それは家茂の写真だろうと考えられている。
しっかり見る前に風化してしまったらしいけど。
ちょっといい話だね。
注記:
和宮の墓地改葬に立ち会った鈴木尚氏は著書で次のように書いている。
「棺内には朽ちた布片のほかは服飾品としては何もなく、紙袋入りの石灰が順序よく並んでいるだけであった。唯一の副葬品として遺体の両前腕部の間に、土にまみれた1枚のガラス板が発見されたが、当初、これを重要視するもののいないまま、研究分担者が研究室に持ち帰り、整理のため電灯の光にすかして見たところ、これが湿板写真で、それには長袴の直垂に立烏帽子をつけた若い男子の姿が見えた。ところが翌日、研究室で覗いてみたところ、写真の膜面が消え、ただのガラス板になってしまっていた。思えば誠に残念なことであった。」
(『骨は語る徳川将軍・大名家の人々』鈴木尚(東京大学出版会)p117)
また同書におもしろい記述を見つけた。和宮の顔の骨の形は夫家茂とそっくりだったのだ。以下、引用する。
「以上のように和宮の頭骨形質は、後期将軍である家慶、家茂と性差を除けばまったく同一の典型的な貴族形質を示していることになるが、和宮は両人と血縁関係が全くないだけに、この一致は甚だ興味がある」(同書P121)
さらに「現在日本人(女性)よりも江戸時代人(女性)よりも全体として将軍家慶に近似していることは明らかである」(同P121)
家慶は家茂の伯父さんでもある。ひょっとしたら、和宮は家茂と会ったとき、その顔を見て、兄弟のような、親近感を持ったのかもしれないね。16,8,8追記
注記2:
新たな話を聞いたので付け加えておく。脚気は当時「江戸病」と呼ばれていた。その背景には、白米を好む江戸っ子気質があり、転地療法が進められたそうだ。実際には、玄米やビタミンB1を含む食事をとることによって、病気の好転につながったのであろう。
ちなみに、徳川家の家慶、家定、家茂ともに死因は脚気であり、いずれも6月から7月(現太陽暦では7~8月)に死亡している。脚気は暑い時期に悪化する、むくみが出て心臓ショックがでて死亡することが多いようだ。
ちなみに、遺体は大坂から軍艦に乗せて運んだようだけど、夏の暑い時期だったので・・・・・。考えただけで気分が悪くなってきた。
遺体は芝の増上寺に土葬された。16.12.1追記

いかに教材を精選し、スピードアップするか。

日本史の授業をいかに精選、スピードアップするか。

日本史Bで4単位、日本史Aでは2単位しかないという現実の中で、大切なことは、いかに教材を精選してスピードアップを図るかということです。
ここでは、私の乏しい体験からそのやり方を紹介したいと思います。
スピードアップには、いろいろな方法があります。
一つは、いくつかの分野をカットすることです。
よく犠牲にされるのが、江戸期の文化や経済」。というか江戸時代そのもの。「明治以降の近代文化」。
江戸時代が犠牲になるのは、「江戸時代を細かくやるか、江戸を犠牲にして幕末や明治以降を少しでもやるのか」という究極の選択の結果。
昨年度の日本史Bでの私の選択もそうでしたから。
多くの先生がこういうやり方をするので、逆に、大学入試でこういった分野が狙って出題されるという逆説が生まれます。やっていないから点数がとれない。だから平均点が下がる。
でも、こういったカットは、教師の価値観に基づいて意図的にやるのだから仕方がないともいえるかもしれません。「積極的カット」です。
他方、カットする気でなくとも、時間不足でカットされる「消極的カット」が実際。その犠牲者が近現代史。とくに戦後史、これが現実。
 よくいわれる「日本人は、戦前、自分たちがやってきたことを知らない」と批判される背景です。これは別のところで触れましたので省略します。
授業で、思いのほか時間をとられるのが、板書です。
まず黒板に書くために時間がかかり、生徒が写すのを待つ。
写すのが遅い生徒がいるのですよ…。
ある程度、細かいことを触れなければと思うと、どれだけのことを板書しなければならないか、頭が痛くなります。
項目だけを書くと、名前だけしか覚えない。
説明も板書すると、膨大な量となり、時間がかかる。
終わってみると、これだけしか進まなかったという自己嫌悪に陥る。
教える側でも、簡単な板書にしすぎると、「この内容、試験に出して大丈夫かな、生徒は書いていないことはやらないから」と
不安となる。
そこで多くの先生が使うのがプリントです。
プリントは、資料的に使う場合と、穴埋めとして使うやり方がありますが、
資料に使う形では、もっと時間がかかってしまうのでおいておいて。
私が数年前まで多用していたのは、穴埋めプリントでした。
板書する内容を、プリントし、必要語句のみを板書する。必要事項はプリントに書いてあるので、ポイントを言い忘れることはないので、出題するとき安心。
板書を少なくできるので、スピードアップできる。
確かにこれは、スピードアップになりました。
しかし、ノート(プリント)提出させると、多くの生徒がプリントの空欄に赤字で答えを書いているだけでした。
生徒はあまり考えようとしなかったし、エピソードを話したりしても、あまりメモもとらなかったようでした。
教えたい内容は、きっちりとまとめたつもりでも、生徒には穴埋めの単語のみが必要で、説明をした部分などは、大切でないと思うようでした。
行き詰まり感も出てきました。
そうしたなか、であったのが旺文社の問題集「教科書よりやさしい日本史ノートでした。
このノートは、名前の通り、日本史の知識が未定着の生徒向けで、小中学校でも習ったような内容もふれてあり、簡単な文章での説明があり、そこに穴埋めがある。
「これがなんで空欄になっていないの?」というものが多いくらいがちょうど良かったのかもしれません。
そして、各項目がちょうど一時間ぐらいずつでまとめられていました。
なんといっても教科書よりもやさしい内容で、生徒にも理解できる記述であるのがありがたかったです。入試に対応する工夫も若干は隠してありましたが…。
これを使ってやれということで、この問題集を参考に、プリントを作り、毎回配布しました
B5の用紙に印刷するのですが、、まわりを少し広めにカットするという一手間をしました。
そして、ノートの左側に貼らせ、ノートの右側に板書事項や説明事項を記入するように指示しました。実際には  右側の事項が多すぎて、よくブーイングをうけましたが。
こうすることで、板書は項目程度の最低限度で済みますし、多少説明が雑でも、言い忘れても、プリントにのっているので安心です。時間がなければ「プリントにアンダーラインを引け」で通用します。
しかし、最もありがたかったのは、この問題集程度で授業すれば良い、というペースメーカーとしての役割でした。
教えた方がいいか、やめようかと迷っているときは、「この問題集にでてないからまあいいか」という具合で。でも、もちろんのっていなくとも、自分で大切だと思うところは時間を掛けて。この問題集程度の内容では不十分と思うところは、より詳細な内容にして。逆に時間がないときや重視していない内容は数回分をまとめてしまうなど。
「こんな問題集に頼るなんて怠慢だ」という声は当然だと思います。
でも、「あれも教えたい、これも教えたい」という私の欲望を止めるには、ちょうど良いツールであったことは間違いなかったと思います。
ここ数年は、このやり方で授業をすすめるようにしました。
本来なら、授業計画をしっかり立て、こんなものに頼らないほうが良いとは思いますが、

平安時代と室町時代、どっちが古い? ~高校生の歴史的教養

平安時代と室町時代、どっちが古い ~高校生の歴史的教養

この出来事は何時代のこと?
授業で、「これ、何時代のこと?」と聞きます。
古代とか近世とかといった立派な?時代区分でもなく、
もちろん「天保」とか「享保」といった年号のことでもなく、
ごく普通の「平成」とか「江戸」とか「鎌倉」といった、あの小学校で習ったあの時代区分が。
しかし、ある時期、ふと気がついたのです。
この小学生的な時代区分すら定着していないのではないかと。
授業開きのとき、黒板に番号を書いて
「はい、古い順に時代の名前を言ってみて?」と質問したところ、全然できない。
「明治時代の前は?」「…」。
「鎌倉時代と奈良時代、どっちが古い?」「…」
といった具合でした。
どうですか、まわりの高校生たちに聞いてみては。
「アホにしてんのか」という高校生がいる一方、
まったくできないという生徒もかなりいると思います。
時代と特徴・人物と結びつけるのはもっときつい
最後にいた学校は、公立高校は、偏差値的には真ん中くらいというところでした。それでも、縄文から平成まで、しっかりいえる生徒はクラスの半数はいなかったと思います。
さらに、それぞれの時代の特徴を結びつけるとなると、もっと厳しくなります。
「藤原氏などの貴族が全盛だった時代は?」なんてすぐできると思いますよね。それができないんです。
「関東に武士の政権ができた時代は」なんかはかなり難問です。
小学校で出てくる人名を時代の中にはめ込むとなると悲惨です。
「聖武天皇は何時代?」「じゃ、紫式部は?」という質問の答えを出すのに時間がかかるのですから。
「小学校や中学校でやったやろう」と毒づきたくなりましたが。多くの生徒については悲しいほど定着していませんでした。
生徒をめぐる環境
昔は、テレビでよく時代劇をやっており、それを見ている生徒も多く、ある程度の歴史的教養や感覚もあったのです。
しかしテレビの歴史番組も減っていき、現在では大河と正月くらい。そもそも、一人一人がテレビを持っていて、年寄りが見る番組なんか見ない。そもそもゲームや携帯が忙しくてテレビもみない。
だから「水戸黄門さん」も「暴れん坊将軍」もポカーン。
信長や秀吉、坂本龍馬なんかも名前は知っていても、「じゃ、何をした人」と聞くと、かなり怪しい。
平清盛とか源義経なんかは「聞いたことがない」という声が帰ってきそう。
そのくせして、「尊敬する人は坂本龍馬」とくるからなかなか立派なものです。
他方、「歴女」や「歴史オタク」もいます。
授業中継の中でも例をあげましたが、「長宗我部元親」とか「島左近」といったマイナーな人物を知っている生徒がいます。
前田慶次なんて私の知らない(申し訳ない)人物も知っている。ゲームやマンガ、アニメで知っている事が多いみたい。
でもゲームでは、何をしたか、なんてでませんよね。
「歴史的教養」の低下は文化の基盤を揺るがす?!
こんな風に歴史に対する知識の格差は大きくなっています。
多くの生徒の歴史的教養へのレベルは、思っている以上に厳しいと思います。
歴史の知識は文化のベースという面があると思います。
「歴史の流れ」とか因果関係とか言う以前の問題として、基礎的な事実すらが入っていないのです。
歴史への無知が「日本人がそんなことをするはずがない」という思い込みにつながり、「反知性主義」の基盤になっている、と考えるのはうがちすぎでしょうか。
ともあれ、日本文化の継承という点でも黄色信号が点滅している気がします。
たいそうな話をしてしまいました。日本史の授業では、こうした事態にも目を配っていく必要があります。授業中継で、信長・秀吉・家康なんかのプロフィールを話していますが、こうした日本の常識みたいな事も、少しは知っていてほしいなという気持ちからです。
ささやかな取り組み
さて、「時代の順番、特徴、主な人物など常識問題ができていない」という問題はどうするのか。
「しかたない。授業でやろう」などというと、落とし穴に落ちます。でも放置したくない。さっきのたいそうな理由だけでなく、就職試験や公務員試験の常識問題として使われることもあるからです。
高卒だけでなく大卒ですらも。
だからまったく無視とはいきません。そこで自己満足で、お茶を濁す程度ですが、こんなことをやっています。
授業開きの日、オリエンテーションのあとに、ごく簡単な暗記プリントを渡し、次の時間に簡単なテストをするようにしました。
この程度のものだから、楽勝でできるとおもうでしょう。多くの生徒はそうです。でも、できない生徒はできません。
小学校レベルの歴史知識は絶対に必要
さらに、日本史Bでは、授業を進めるとき、中学校どころか小学校の内容すらが定着していないため、力の差がでやすく、ちんぷんかんぷんになりそうなので、最初の時間に小学生用のプリントに少し中学生の内容を加えた暗記プリントを渡しておき、単元ごとに小テストを行うことにしました。
前任校では高校生用の問題集を使ったのですが、それ以前の問題だとおもったので、こうしたやり方をしました。実際の考査でも、結果的に、このテキスト+小テストの内容が一定数出題されました。
追認考査でも
なお、毎年数名不認定になる生徒がいます。そのときはこのテキストから出題するようにしています。このテキスト程度が、日本国民の歴史的教養のミニマムくらいだと思ったからです。
これでもつらい思いをすることが多いのですが。
※暗記プリントを「資料室」のなかにいれてあります。楽勝で満点と思う人も多いと思いますが、実際は(涙)ですよ。