「武士」はどこに行ったのか(1)江戸期の教育と武士

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「武士」はどこに行ったのか(明治期の教育と社会)
1,江戸期の教育と武士

はじめに

園田英弘・濱名篤・廣田照幸『士族の歴史社会学的研究』(名古屋大学出版会1995)

おはようございます。
本日は「教育と社会」というテーマで話させていただきます。
正直、今回のテーマは苦労しました。一体何を話してよいのか、一般的には教育勅語がいかに生まれたかとか、識字率がどのように高まったかとか、戦争の教育とか、といった内容になるかとは思いますが、それだけではあまり面白くない、そこで今回は私自身以前から気になっていた、武士はどこに行ったのかという副題をつけて考えてみることにしました

江戸時代のエリートであった武士たちは、明治以降、「士族の商法」と揶揄されるように没落していくイメージで語られます。他方では戦前社会における武士文化の影響が語られます。
いったい武士はどこに行ったのでしょうか。
こうした中で出会った興味深い一冊が『士族の社会歴史学的研究』(以下『研究』)です。教育社会学の研究者による共同研究の成果であるこの研究を軸に、「教育と社会」というテーマを深めたいと思います。

1、江戸時代の教育と「武士」のあり方

(1)身分社会の中の教育

江戸時代は身分社会であり、教育内容も、目的も、身分によって大きく異なったいました。
おおきくは右のスライドのようにまとめることができます。
武士は、幼い頃から「家」と「名誉」のために生きるという倫理観を幼い頃から植え付けられ、学問を学ぶことも一種の義務として捉えられていました。
他方、庶民は、家業維持や奉公先での職業に役立つ力をつける目的などから実用的な力を身につけるために学びました。江戸後期以降、寺子屋が爆発的に普及・拡大するとともに、高度な学びも求められるようになります。私塾や道場など、武士と肩を並べて学び研鑽するという場合もうまれました。庶民のために一部を開放する藩校もありました。
学問や俳句などを通し、藩や身分をこえた全国規模での文化・学問交流がさかんとなりました。

(2)江戸時代の庶民教育

中村哲『明治維新』P131

江戸時代の庶民教育といってまっさきに思い浮かぶのが寺子屋です。
寺子屋は室町時代に寺院ではきまったとされていますが、江戸中期ごろから増加、19世紀になると爆発的な増加をみせ、貧しい農民の間にまで浸透していきました。
最初は神官や医者、僧侶などが教えていましたが、しだいに平民や武士が中心となりました。
開設のきっかけは、藩の奨励、地域からの依頼、浪人の生活維持のため、などさまざまです。
基本的にはボランティアとして運営され、月謝という形よりも「お年賀」「お中元」「お歳暮」といった不定期的な「お礼」を基本としていました。

唐沢富太郎『図説明治百年の児童史(上)』P134

授業科目は、一般に「読み書きそろばん」といわれる読書・習字、算術が中心ですが、一方では和学・漢学といった学問、他方で裁縫のような「お稽古事」、さらには絵・華道・茶道・俳諧といった習い事なども教えられるようになっていきました。
職業教育を身につけるという性格から、帳簿記入・計算・手紙の書き方といった技能習得の面が重視され、「往来物」とよばれるそれぞれの職業に合わせた教科書などをもちいた学習がなされました。
授業方法としては、それぞれの発展段階や独自の課題にあわせた個人授業で、数人に同時に教え、他のものは自学自習にはげむ形式でした。

庶民教育にたいする思いを知ることができる二つの書物があります。
ひとつは教訓書『和俗童子訓』の一節です。

農工商の子には、いとけなき時より只物かき、算をのみ教えて其家業を専にしらしむべし。必ず、楽府淫楽、其外いたづらなる無用の雑芸をしらしむべからず。これにふけり、おぼれて家業をつとめずして財を失なひ、家を亡ぼせしもの、世に其ためし多し。

庶民が勉強にのめり込んでしまえば家業をおろそかにし、ついには財産を失ってしまう。だから学問はほどほどにせよ、という教えです。こうした親の悩みは明治以降いっそう深刻になります。家業を投げ出して、学問にのめり込むという事例は明治以降の方が深刻でした。学ぶということは新しい世界に目を開くことであり、それに熱中することは「分を守る」「家を守る」という封建的な道徳と矛盾してしまうものでした。
ちなみに筆者の曾祖父もそうした人物だったようで、家業を親戚に押しつけてさっさと家を出たと聞いています。

今ひとつは、幕末に書かれた『養育往来』です。この「教科書」は福沢諭吉『学問のすゝめ』につながる思いを伝えます。

世のたとへにも氏より生立(そだち)といへる如く、撫育(教育) よきときは賤しき人の子も貴き身となり、育て悪しきときは、貴き人の子といへども他に卑しめられるべし。

人間は生まれ育ちにかかわりなく、よい教育を身につければよい人間となることができ、悪いときはいくらよい生まれで卑しめられる人間になるというのです。よい学びによって、貴い身となれるという思いは、身分社会からの出口をさがしていたひとびとの思いを感じることができ、学校建設にかけた明治の人々の思いなどにも通じています。

「寺子屋の図」(中村哲『明治維新』p130)

とはいえ、寺子屋に通えたこどもは幸運だったのでしょう。
現在の愛媛県では、寺子屋に通っていた子供は全体の約2割にすぎず、女子に至ってはさらにその2割にすぎませんでした。
現在の富山県においてに寺子屋に通わなかった理由を調べたところ、 ①寺子屋まで遠い ②定員オーバー ③必要を認めない親たち(農工商・労働者) ④家業・家事への従事 ⑤他家への奉公 といった理由があげられました。江戸においても、「蛙の子は蛙」で家業を継ぐには教育は不必要と考える親も多く、通ったとしても十一歳前後で奉公に出るためやめる子どもが多く、女子については、寺子屋よりも遊芸の師匠につくことを優先した場合も多かったといいます。

(3)厳格な武士の教育

武士の教育体系は、庶民とはまったく異なるものでした。
幼い頃から、家庭において、礼儀・言葉遣い・挨拶・食事の作法・苦しみに耐える訓練など、武士としての体面や「家」名を傷つけないよう、ときには虐待といってもいいような、厳格な家庭教育しつけが課されました。
有名なものが会津藩の「什の掟」です。
幼いころからのこうした厳しい教えと過酷な訓練が武士としての生き方を身につけさせました。
また子供同士の集団教育を重視する地域もありました。年長の子供が年少の子供を鍛える薩摩藩の郷中教育などが有名です。
そして8~15歳になると藩校に通います。
多くの藩が江戸中期の藩政改革期に開校し、一定の身分以上の武士が義務的に通学させる藩もありました。
その規則も非常に厳密でした。

教育内容は、四書五経といった儒学経典などの素読が中心です。「読書百遍、意自ずから通ず」といわれ、内容が理解できなくとも記憶するまで徹底的に朗読させられました
さらに国学、歴史なども加えられ、習字や作文なども取り入れられました。
算術は財政などにかかわる専門職にかかわる学問の性格をもっていました。
なお、幕末になると、西洋文明への知識が求められるようになり蘭学・航海術・洋式兵学などを取り入れたところも増えてきます。
各藩とも人材育成は急務と考えました。佐賀藩の講道館は厳しい進級試験を導入したことで有名です。藩校に通う子弟の成績が良好の場合は加俸、不良の時は減俸されたといいます。
こどもも大変でした。

(4)武士のあり方への問いかけ

https://nisshinkan.jp/about

武士は、幼い頃から「武士としてのあるべき姿・武士らしい生き方・死に方」をたたきこまれました。
この結果、武士であるための「理念」が問われるようになります。
一般的に、武士が社会から求められる役割は、紛争を解決し「仁政」を実現すること、「社会の安寧」を守り秩序を維持することでした。
秩序を乱す外敵(他の大名・秩序を乱す「無法者」「夷狄」)の撃退するという軍事的側面と、調停や訴訟による秩序回復、河川改修や道路整備といったインフラの整備、飢饉などの災害に際する対策・救援や復旧(撫恤)といった「仁政」の実現などがその内容となるでしょう。
武士がこうした役割を果たしているからこそ、天下・国家は安泰で、民・百姓も平和な暮らしを守ることができる、だからこそ「百姓」から「年貢」を受け取る権利があり、敬われるべき権利があると考えていました。
こうした考えは儒教道徳に立脚しており、「士」(士大夫・両班・サムレー・武士)とよばれる支配身分に共通した、東アジアの理念かもしれません。
以上のように考えれば、逆の問いかけが生まてくることに気づきませんか。
この理念を実現できない「武士」は「士」の資格がないのではないかと。

(5)幕末、問いかえされる「士」の倫理

こうして、武士であることの意味はよりいっそう存在は厳しく問われます。
すでに軍隊としての実力は衰え、飢饉や災害でも「お救い米」や「年貢減免」といった措置をとれず、「仁政」実現は困難となっていました。彼らができたのは豊作時に年貢に上乗してとっておいた「囲い米」を蓄積すること、インフラの整備も村に任せ、村入用などで対応することでした。訴訟なども多くは地域で解決しました。
すでに、果たすべき役割を武士は果たすことができずに形式化し、多くを「村・民間社会」に任せました。武士は「士」たる意味を失いつつありました。
本来は職務や能力によって与えられるべき給付であるはずの俸禄も、そのもととなる役職も、先祖から受け継いだ家の財産(「家産」)という側面を強めていました。

1853年のペリー来航に始まる幕末の混乱は、武士および軍事・行政組織としての幕藩体制がその機能を果たしきれないことを完全に暴露しました。
槍と剣・火縄銃、大量の従者をともなう騎馬武者、こうした組織はとっくに時代遅れとなっていました。欧米列強と戦うには全員が新式の銃をもつ機動的に動く戦闘集団でなければなりませんでした。
また幕府や諸藩の官僚機構においても、前例踏襲、家格(上級武士)重視という行政組織、譜代中心の幕府組織などでは国難に対処できないことがあきらかになります。
挙「国」一致実現のため、藩の枠、身分の枠を超えた人材登用が一挙にすすみました
1868年に始まる戊辰戦争で、新政府は諸藩が旧来型の武士の派遣を拒否、洋式銃をもった兵士の派遣を命じました。旧幕府軍の主力は都市雑業層に軍事訓練を課した部隊であり、もっとも新政府軍に抵抗した庄内藩は農兵を大量に農兵を動員しました。こうした事態は、軍人としての武士を否定することに他ならないものでした。

(6)「士」の使命の拡張

こういった事態のなかで、武士たちのなかには、それまでの「士」としての倫理を変化させ始めるものもあらわれました。
武士の仕事は武のみでないという「士」の役割の拡張です。
園田は「機能主義的武士観」と位置づけます。
剣術を学ぶために江戸に出てきた人物が、これでは外敵に対応できないと考えて砲術や航海術を学びはじめ、西洋に軍事技術を学ぶために留学すると、欧米社会の基礎になっている行政や法学といった社会的なインフラ、鉄道や工業といった技術を学び、日本に導入することの方が「士」としてのなすべき使命であると考えはじめます。
「国家社会」にとって有用な行動と能力は、江戸時代の武士のものとは自ずから異なると考えたのです。
国家や社会に奉仕するから「士」だという倫理観が、とくに「志士」とよばれた武士たちを突き動かしました。「身分」や「家格」「俸禄」などに固執するのは「士」道に反するという意識も生まれます。国家や社会のためにたたかうからこそ「士」であるとの論理も生まれます
百姓身分や浪人などを多く抱えた新選組がことのほか「士道」を強調したのは、こうした考え方からでした。
このように「士」としての「正義」や「名誉」を重視し、それに反すると考える政策を拒否するという行動をとるようになっていきました。

<つづく>

目次とリンク:
「武士」はどこに行ったのか(明治期の教育と社会)

1:江戸期の教育と武士
2:明治維新のなかで~武士から士族へ
3:学校教育と、士族の生き残り戦略
4:国民教育の普及と学歴エリート

参考文献:

園田 英弘・濱名 篤・廣田 照幸『士族の歴史社会学的研究』
(名古屋大学出版会1995)
唐沢富太郎『図説明治百年の児童史(上)』 (講談社1967)
佐藤秀夫『教育の歴史』(放送大学2000)

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