武士はどこに行ったのか(4)国民教育の定着と学歴エリート

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武士はどこに行ったのか~明治期の社会と政治
4,国民教育の定着と学歴エリート

Ⅵ、教育の国家主義化と教育勅語

(1)「開発独裁」の一環としての「学制」

ここでは、学制以後の教育政策を見ていきます。
明治0年代、大久保利通が「創成の時代」とよんだ時代は、「文明開化」の時代でもありました。
この時代、「文明」の側にいると自認している側とくに政府は、多くの人々は「無知蒙昧」「頑迷固陋」の世界で過ごしているみなし、「西洋文明」と「天皇」制という二つの「文明」の力でかれらを「啓蒙」「開化」して「近代化」を実現し、他の列強と肩を並べうる「文明」となることをめざしました。そのためには国家権力などによる「指導」「強要」が必要と考えました。
こうした手法は後発国が、先進国においつくために強引な近代化をはかるため、一部のリーダーが独裁権を行使する「開発独裁」政権で用いられる手法です。第二次世界大戦後、急速な「近代化」「文明化」をもとめられた旧植民地諸国などでが用いたやり方であり、明治日本がその元祖ともいうべきものでした。
 1872年に導入された学制(リンク)もこうした流れで導入されます。
学制は「教育によって個人の立身出世が実現する」という名目で、教育を全国に普及するとの目標がかかげられ、中央から派遣された地方官が中心となって小学校建設などをすすめ、生徒たちも強引に集めました。
「国民の利益になる」という理想は、学校建設や維持費用など財政負担を地域住民に押しつける、子供を集める口実でもありました。「正しいこと」「自分たちのため」「国家のため」として、強引に強制力をも用いながら改革を進めるところに「開発独裁」の典型例をみることができます。
その結果がどうであったかは、前回で見たとおりです。

(2)「教育令」~自由主義化とその破綻

秩禄処分強行と西南戦争(=士族反乱の敗北)で、激動と混乱の時代、大久保利通のいう「創成の時代」は終わります。かわってそれまでの行き過ぎを正す時期、大久保のいう「内治を整え、民産を殖する」時代となります。

教育政策でも修正すべき点は多くありました。前回の西村茂樹の指摘(リンク)の通りです。そうした反省の上に1879(明治12)年「(第一次)教育令」が導入されます。
地方官が前面に立って学校を建設し、子供たちを集めるという「開発独裁」的手法は「督励・強制は就学率を上げるのに何らの効果を示すものではない」として批判され、実業主義を施し、生産性を高めて民衆を富ませ、知識を普及する教育をめざそうとしたのです。
具体的には
①学区制の廃止。町村を小学校の設置単位とする。
②学齢児童の就学は父母の責任で行う
③各町村に人民公選の学務委員をおく
④カリキュラム編成は地域民衆と学務委員で考える。
⑤最低就学期間を4年間で16ヶ月とする。
というもので現実や地方の事情に配慮した無理のない公教育の実現をめざし、あわせて経費削減を図ろうとしたもので、中央集権的な地方行政を改め、町村を復活させた地方三新法にも対応したものであり、アメリカ留学経験がある田中不二麿文部卿の体験を生かした自由主義的なものでした。
中央集権化され画一化された「開発独裁」路線から、地域社会の関与を認め、地域や親たちの負担を軽減する画期的な内容でした。
しかし、こうした自由主義的な教育が効果を発揮するには、地域の理解と成熟が必要でした。
ところがこの時期、地域も人々も、改革に次ぐ改革と、重い財政負担で疲弊しきっており、実際の学校の実態と、強権的な開発独裁的手法が、地域における学校不信を引き起こしていました。
農村の好景気を背景に高まりを見せてきた民権運動も学校の充実よりも負担軽減をもとめがちでした。
こうした状況下に教育令がだされたのです。権限を与えられた地域・父母たちは学校の充実・改善よりも負担の軽減を選びました。
学校の新築は中止され、教員の削減・給料減額が行われます。
学校の寺子屋化を招き、就学期間が短く内容も単純化された簡易科に人気が集中します。こうして学制発布以来の教育制度は解体の危機をむかえす。
学制が示した学校教育のあり方を地域が否定したのです。

「教育令」が期待したありかた、住民たちの手で教育制度を確立させ政府が望むようなレベルに教育をもっていくためには住民の力はまだ十分ではありませんでした。「教育令」が期待する自由主義的な教育を実現し、開発独裁から自立するには、残念ながら時期尚早でした。

地方官など学制の定着をはかってきた側は、こうした事態を「自由教育を我儘勝手教育とはき違える」と批判しました。地域は学校を担うだけ育っておらず、まだ開発独裁的手法が必要だというところだったのでしょう。
こうして、教育令はわずか1年で中止されました。

「ゆとり教育」を報じた新聞記事

第一次教育令は、理想的で自由な教育をめざしながらも、現場や地域の実態を見ないため、無残な失敗に終わりました。
それは現場の事情をみず、教育学の成果も軽視したため教育現場からも、強圧的・詰め込みによる学力向上を求める人たちからの、総スカンを食い、わずかな期間で撤退を余儀なくされた「ゆとり教育」を彷彿とさせます。

(3)第二次教育令~教育の国家主義化へ

「(第一次)教育令」の失敗をうけて導入されたのが1880(明治13)年の第二次教育令です。
これにより上からの官僚統制のもとで国家主義的な教育がすすめられるという現在につづく文教政策の方向性が定まります。

第二次教育令
①学校は地方官の指示によって設置する、
②学務委員と教員は地方官が任命する、
③カリキュラムは文部省の指導のもと地方官が編成する(「文部卿頒布スル所ノ綱領二基キ,府知事県令、土地ノ情況ヲ量リテ之ヲ編制」)、
④就学期間を3年、毎年16週日以上通学すること、
⑤修身を小学校の首位科目とする、
⑥小学校教員に師範学校の卒業証書を要求する
こういった内容です。
「地域、町村、父母」にかわって、中央との密接な関係にある地方行政(知事県令などは内務省から任命される官僚です)の権限がさらに強化されます。これにより文教政策は、政府⇒文部省⇒地方官(内務官僚)という中央集権的な手法ですすめられ、国家による教育支配がすすみました。
教育内容でも国家=文部省の関与がすすみます。1883年教科書が認可制となり、1886年には検定制に、そして1904年には南北朝正閏論争をきっかけに「国定教科書」が導入されます。また「修身」の導入に続き、教育勅語など教育は国家が要求する人間を育成する機関という側面を急速に進めます。
他方、国家が本格的に介入することで、学校が整備され教育内容の質的保障もすすみ、混乱を続けた学校教育が軌道に乗りはじめたことも否定できない事実でした。
無政府主義的になりがちな自由な教育の実施と、国家の介入による教育の質の保障と他方での「不当な支配」の進行という問題は、後者の勝利に終わり、国家の重圧が教育界を覆っていきます。

(4)「修身」の登場

第二次教育令のもう一つの柱は、修身という教科が登場し、首位科目と位置づけられたことです。
 「修身」という教科名は、儒教の『大学』に由来するもので、「天下を平らげ国を治めるためには、個人がそれぞれ悪を改め身を慎む」ということばからとられました。
「修身」は、江戸時代の武士たちの倫理であった儒教と、天皇崇拝を、日本人が身につけるべき「道徳」として位置づけ、こどもたちに植え付けようとしたものでした。
 「修身・斉家・治国・平天下」という儒教的・家族主義的な価値観を、天皇=皇室への崇敬を結びつけ、「国民」としての一体性を氏立てようとするもので、基本的人権の尊重や民主主義・自由主義といった西洋近代が育んできた道徳とは大きく異なる内容でした。題材も日本ないし中国からとられ、西洋のエピソードは避けられました。
この教科設置の中心となったのは、侍講(天皇に学問を進講する役割)の漢学者、元田永孚もとだながざねであり、明治天皇でした。元田は儒教思想の立場から文明開化の啓蒙主義を批判し、幼い頃から「仁義忠孝」をたたき込むべきであると主張しており、「教育令」に対抗し、明治天皇の許しを得て『教学聖旨』を起草し、学校に配ろうとしました。それは仁義忠孝を中核とした徳育を教育の根本にすえることの重要性を説く内容でした。
天皇=元田の背後には薩長閥の影響の強い明治政府にかわって天皇親政を実現しようとする天皇側近グループの動きがあり、道徳教育の尊重を大きな柱としており、これに反対する伊藤たちはその対応に追われていました。第一次教育令はこの運動に対する回答でもありました。

元田永孚(1818〜91) 明治時代の儒学者。熊本藩出身。1871年宮内省に出仕,侍講として明治天皇の教育にあたった。儒教による天皇制国家思想の形成に寄与した。

ところが、その第一次教育令は失敗に終わり、自由民権運動はいっそうの高まりをみせます。政府内では、民衆教化策としての儒教的徳育を進めるべきとの声も高まりをみせました。
こうしたなか、批判的であった伊藤らも、民権運動と対抗し「国家の良民」を育てるイデオロギーとして、儒教主義=修身の導入を認めるようになっていきます。
 こうして、第二次教育令の中心に、民衆教化策が据えられ、その目玉として首位教科「修身」がおかれたのです。

小股憲明は「旧治者階級の学問・道徳であった儒教を平易な形で四民に拡大し、忠孝・忠君愛国を四民一般の道徳とすることによって、国民形成の観念的回路を得ようとすること、これが修身科における儒教主義採用の意図するところであった」と指摘しています。(小股憲明「国民像の形成と教育」)

(5)教育勅語の制定

戦争中に作られた「教育勅語図解読本」のさし絵東京書籍「日本史A」p140

1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布されます。
これにともない、憲法に即した教育・徳育の基本方針を設けるべきの声が上がりました。
この声は、まず知事や県令など地方官=内務官僚たちからおこりました。
かれらは地方に民権派の影響や西洋思想が浸透することへの危機感をもち、国民道徳の基礎となる文章をもとめ、政府に要望書を提出しました。
今一つは明治天皇です。天皇自らが徳育の基礎となるべき箴言をつくることを要望していました。そうしたなかこうした考えには消極的な榎本文相が更迭され、内務官僚出身の芳川文相が誕生する中、教育勅語編纂への動きが本格化しました。
かつて軍人勅諭を制定した経験を持つ山県首相は、同様の勅語を発することをめざし、啓蒙思想家である中村正直に草案作成を依頼、中村は西洋哲学などにも学んだ「哲学論的・宗教論的色彩」のつよい草案をつくりあげました。
こうした動きに危機感を感じていたのが憲法草案作成の中心で、当時法制局長官をつとめていた井上毅いのうえこわしでした。井上は、天皇が発した勅語が宗教的・哲学的な議論の対象となったり、政治的に利用されたり、憲法の理念と抵触したりすれば、天皇の権威が損なわれると考えており、中村の草案にもそうした危険性を感じていました。

井上毅(1844-1895)明治の政治家。熊本藩出身。岩倉具視,伊藤博文らに用いられ,法制官僚として大日本帝国憲法,皇室典範,教育勅語等の起草に参画した。

そこで山県は、井上に「教育勅語」の草案作成を命じることにします。自らが草案を作ることに消極的であった井上ですが、いったん担当者となる精力的な作業をすすめます。
井上がとくに意見交換をおこなったのが元田永孚です。元田の意見を取り入れることは明治天皇の意見を間接的に組み込むことでもありました。さらに山県や芳川らとも意見交流を重ねつつ、憲法との齟齬がないように、とくに「思想信条の自由」「宗教の自由」と抵触しないように細心の注意を払いながら、「教育勅語」の文案を完成させたのです。

井上は公布方法にも配慮します。井上が選んだのは天皇が自分の考えを国民に示すというやり方です。天皇が文部大臣に自分の考えを示し、文部省が全国の学校に伝えるという形で普及することをめざしたのです。教育勅語は天皇の社会的著作ということで憲法上の問題を回避したのです。
1890年10月30日、天皇は宮中で、首相・文相に教育勅語を下賜します。
文部省は、その謄本を全国学校に配布し、祝祭日の儀式などでの奉読を命じました

(6)教育勅語体制の成立

教育学者の山住正巳は教育勅語(勅語本文はここ)について以下のように説明しています。

日本における教育は天照大神ら神々や歴代天皇によってつくられた日本独自の〈国体〉に基礎づけられている。
②その教えにもとづき、臣民は親孝行から国法を守ることまで国民が実践すべきと14の徳目を並べる。
そしていったん国が危険な事態に直面したならば一身を捧げて天皇の治世を助けなければならない。

③教育勅語が示す教育方針は歴代天皇の遺訓であり,それは古今中外に通用する普遍妥当性をもつと天皇は考えている。(だから、臣民としての国民はこれを守らなければならない)
④教育勅語の徳目は抽象的であり、個々についてはさまざまな解釈も可能ではあるが、普遍的人類的な遺産としてではなく,皇運扶翼のために実践すべき皇祖皇宗の遺訓として位置づけている。
(世界大百科事典の記述を元に記載)

いったん制定・下賜された教育勅語は驚くべき影響力をみせます。
1891年1月の第一高等中学校での出来事です。嘱託教員でキリスト教徒との内村鑑三が教育勅語謄本への最敬礼をおこなわなかったとして問題視され辞職を余技縛されます。これによって教育勅語を尊重しないことは社会的制裁を受ける対象であることが強く印象づけられます。
文部省は儀式における天皇・皇后の肖像写真(御真影)への拝礼, 教育勅語奉読,《君が代》斉唱など強要、教育勅語の謄本は新たに交付された天皇皇后の写真(「ご真影」)とともに天皇制国家の「ご神体」として扱われ、各学校はそれを安全に保管するための奉安殿・奉安庫も設置します。
教育勅語の神格化はさらにエスカレートし、朗読を間違えた校長が辞任をしたり、火事の焼失から守ろうとして殉職した校長の物語が美談となりました。
教育勅語は、批判したり、論評することは「不敬」として許されない「絶対の真理」とされ、そのことが天皇の神聖性をより高めることになりました

学校現場において、教育勅語は儀式での奉読にとどまらず、暗記が強要され、修身・国語・歴史・唱歌などさまざまな教科・目でその精神が徹底されました。
なお、天皇があるべき生活規範を国民に強要するという手法は、その後、「戊申詔書」(1908)、「国民精神作興詔書」(1923)、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(1939)などでも用いられ、その対象は学校教育にとどまらず、社会教育全般に拡大されました。

Ⅴ、学校教育の定着と国民国家

(1)1890年代~学校教育の定着

戦前の徴兵検査では、身体検査とともに学歴・学力調べ(壮丁教育調査)が実施されました。これにより、20歳段階における国民の学力や、約10年前の小学校での教育実態を知ることが出来ます。
下図はこの調査に他のデータをくみこんだもので、これをもとに当時の青年の学歴・学力実態をみていきます。

清川育子「『壮丁教育調査』にみる義務制就学の普及」(教育社会学研究51、1992)

文部省が発表した公的な就学率(マーカーなしの実線)は第二次教育令の前後で急上昇、明治16年には70%にせまります。第二次教育令をきっかけに行政の圧力が強まったこと、教育内容などの整備などが考えられますが、地方官が就学率を水増しした可能性も排除できません。
すでに指摘したように、公式統計は入学したものの数字であり、不登校となったり退学したものを含む水増しされた数字であり、
これを補正したものが教育史研究家・安川寿之輔の推計(黄緑の線)です。安川の推計によると明治22年の実質就学率は約35%で公式就学率65%の半分強に過ぎないことになります。
なお徴兵検査時に「小学校を卒業した」と回答したものが40%強であることと比較すると、安川の推計はやや厳しすぎるようにもみえます。
ともあれ、1883(明治16)年、公称70%に達した就学率は松方デフレのもとで下落、1887(明治20)年には1881年の水準にもどります。ところがこの時期を底に就学率は急上昇を開始します。
 壮丁教育調査からわかるのはこの1887年以降の状況です。小学校卒を示す水色の線、自己の姓名を書ける程度の学力を示す黄色の線、小学校卒業程度の学力を示す赤色の線、いずれも急速に上昇、明治20年代にはいって一挙に初等教育が定着にむかい、効果も発揮し始めたことが示されています。
日清戦争後の1899(明治32)年ごろにはほぼ全員が自己の姓名を書ける程度の学力を身につけ、日露戦争の終わった1905(明治38)年ごろには約90%が小学校卒業程度の学力を身につけるようになりました。
日露戦争の勝利の背景には日本兵の知的水準が貢献したといわれる背景がこのグラフに隠れています

こうして1890年代には平民層の間にも学校教育が浸透、20世紀初頭には国民全体の識字率が100%へと近づき、国民教育の第一段階が完了します。課題は、第二段階の中等・高等教育の整備へと移っていきます。

(2)国民国家の形成と学校教育

初等教育の定着は、第二次教育令による国家の強い統制下で進みました。それは「一旦緩急あれば義勇、公に報じ」といった教育勅語体制が定着させられる過程と重なっています。教育の国民化は、教育勅語体制の定着でもありました。
学校教育の定着のなかで国民国家としての日本の姿が急速に見えはじめます。この時期の国民国家形成の大きな要素となったのが、学校教育、とくに小学校教育でした。

「モースが見た日本の子ども」(佐々木克『日本近代の出発』)

学校発信の文化は、子どもたちを通じて大人世代へも影響を与えていきます。
運動会を典型とする行事は、新たな地域の祭りとして大人たちを学校文化の中に組み込みました。
子どもたちが唄う唱歌を大人たちも口ずさみ始めます。
こどもたちが話す言葉(「標準語」)は、大人たちの話す言葉(「方言」)を「周辺」化し、遅れた恥ずべきものと感じさせました。
検定・国定教科書の修身・国史(とくに神話)・唱歌などででとりあげられる「物語」は全国規模で共有化され、国民共有の「物語」となります。その「物語」は「教育勅語」によって示された世界観のなかで体系化され、意味づけがなされます。教育勅語の精神はこうした「物語」を通じても植え付けられました。
「万世一系の天皇神話」と東アジアの文化で育まれた身分制的な儒教道徳を、近代天皇制国家による統治に適合させ、人々に注入しようとするものでもありました。

「立身出世」という価値観も学校を通して広がっていきます。「家」の維持という封建的な考え方は、「分をまもる生き方」から自ら「立身出世」をとげ「家」を発展させ、ひいては天下国家に奉仕するという形に読み替えられるようになっていきました。
体操や武道・行事などでの行進練習などは、こどもたちに軍隊でに見合った「身体」づくりを促し、こどもの遊びにも大きな影響を与えました。
他方、学校が与える知識のなかには、自然科学を中心に合理主義にもとづく科学的な裏付けや世界に目を開く内容も多く、狭い世界で生きていた人々に見知らぬ世界を伝え、科学的な考え方も身につけるきっかけになりました。
学校が提供する「文明」はこうした奇妙な融合体でした。

社会が安定化、明治憲法体制が定着し、国家を「正当」なものとみなす意識が定着していくなかでこのような「学校知」が「正統」なものとされ、「地方」や「世間知」は「周辺」的「卑俗」なものとされ、ともすれば軽侮の対象とされていきました。

 こうした性格を持つ日本の「近代文明」は、日本に学び近代化を進めようとした東アジアの知識人をも悩ませました。学ぶべき文明と、拒絶すべき文明の腑分けは簡単なのではありません。とくに、日本帝国によって植民地化された朝鮮・台湾では「親日」「反日」という区分とも相まって、いっそうかれらを苦しめることになります。この課題は現在にも尾を引いているように感じます。

学校教育が定着化し「再生産」が軌道に乗るにつれてすすみ、学校の権威は高まり、学校発の「国民文化」が庶民生活の中にも蔓延、さらに新聞(とくに「小新聞こしんぶん」とよばれる通俗的なもの)や日本雄弁会講談社などの雑誌・読み物などが学校文化を補完する成人向けの「教材」として、社会全体に受け入れられようになっていきました。
(この点については「講談社」からみる大衆の国民化~マスメディアの発展(4)をご覧ください。)

『朝日百P10-115P10-115

しかしこの時期の国民国家は、あくまでも国家主義的教育や戦争という「上からの『国民』化」のなかでつくりだされたものであり、脆弱なものでした。
「日本を自分の国」と認識するには、国民が、自らを。政治の、国家の主体として認識するという民主化が必要でした。この課題は1905年の日露講和反対運動のなか、ゆがんだ形で提出され、以後「大正デモクラシー」とよばれる運動の過程の中で本格化します。

おわりに~「武士はどこにいったのか」

(1)「武士」の転身~緩慢で漸進的な変化

こうした学校教育の国民教育化という流れの中で、「士族」はどうなっていったのかを再確認しておきましょう。
政治の急激な変化にもかかわらず、「士族」の核心部分ともいうべき上・中級士族の意識や慣習・行動といったレベルでの変化は緩慢でした。
かれらは、「家」「郷党」といった伝統的な価値観、社会国家のために奉仕するという「士」的倫理観などを維持しました。他方、かれらは、新たに生まれてきた教育制度にこうした伝統的な価値観などを同期させることで新しい時代に対応し始めます。そのさいの武器となったのが、江戸時代以来の知的・文化的な生活環境でした。
廣田照幸は記します。
「旧身分の高い層が学校教育を経て明治社会の上層に移動していったのは、ある時期までは、彼らの開明的な意識によるのではなく、逆に彼らの伝統的な身分意識によるものだったことになる。彼らの身分意識が、『生業』ではない『職』へ、彼らの選択肢を限定し、学校教育という一種のモラトリアムの期間を余儀なくされた結果が、かえって近代的職業への『横滑り』をうんだのである。」 (『研究』p342)
「上級武士~下級武士の間での大規模な逆転現象もなかったし、士族~平民の間での大規模な逆転劇も存在しなかった。変化はもっと緩慢で漸進的なものであった」(『研究』p334~5)

(2)「士族」から「学歴エリート」へ

江戸時代において、武士「身分」とくに上・中級武士と、平民の間では、知的文化的環境で大きな差がありました。
これにより、まだ未熟な学校教育のなか、士族たちは優位を獲得、政官界といった世界に先行して進出しました。成功者たちはそこでえた新たな「資産」にも支えられつつ新たな階層を形成、その再生産を開始します。

しかし「四民平等」の原則と教育制度の定着は士族から優位性を奪っていきます。
明治中期以降、開かれた条件で実施される入学試験や高文試験などでは、経済的資産と整備されつつある学校制度下に育った平民が進出しはじめ、伝統的な資産でたたかう士族と競合し、数で劣る士族は後景に退いていきます。
とはいえ、「社会秩序が安定した後は、教育機会も職業機会も拡大していったため、地位達成の機会はたえず増え続け」(『研究』p334)たため、士族も排除されることなく、急増する平民出身者と肩を並べて増加しつづけますが、母数の大きな平民から、はるかに多くの人々を受容したため、相対的な割合は減少していきました。
こういう事態では、あえて族籍を問題にする意味は失われていきます。
士族出身者は平民出身のエリートと融合し、かれらを受け入れ、新たな階層としての学歴エリートを形成し、社会の中枢部を占めていきます

学業に目覚め、家を捨て、都会で代言人=弁護士を開業した平民出身の曾祖父は、弁護士仲間の姪で、父親の再婚で行き場を失っていた上級士族の血を引く娘をひきとり、息子とめあわせようとします。その後、さまざまな経過を経て、祖父母は結婚しました。祖母は士族の娘として、平民出身の祖父にややネガティブな感情を持ち続けていたようにも思います。なお平民出身の曾祖父は、人生の最終局面において、弁護士をすて下級裁判官となり、官位官職を墓石に刻ませました。かれの屈折した思いをそこから読み取ることができるようです。

しかし広田のいうように、学歴エリートの横滑りしていった士族は上級・中級士族が中心であり、士族全体の30%を占める下級武士、60%を占める足軽・中間といった陪臣の大部分は該当しなかったことです。かれらは、時代の激動の中、平民の大海の中に飲み込まれていきました。
ただ、そうであっても、学校へ行き学力を身につけ、チャンスに恵まれれば、エリートの仲間入りできるという意識をもつことはあったと思われます。こうした意識はしだいに平民の間にも共有され、「立身出世」という価値観が明治という時代の開放感を支えました。

(3)武士はどこに行ったのか

江戸末期、支配領主階級としての「武士」は、「民」に「仁政」面をほどこすという理念においても、軍事力で「民」を守るという意味でも「士」としての役割を果たすことが困難となり、暴力でも経済力でも民衆をおさえることは困難となっていました。
ペリーの来航は、このままでは「夷狄」から「皇国」を守ることすらできないことをさらけ出しました。
こうしたなか、武士の中からあるべき武士の姿を見失い地位や俸禄などに固執しているとの自己批判の声が生まれます。
「士」とは何か、いかにあるべきか
こうして生まれたのが「国家・社会に奉仕する『士』」という「機能主義的な武士観(園田英弘)です。
明治維新は「機能主義的武士観」に適合しない「士族」に族籍と一定の資金を与え、整理した側面をもっています。
整理された士族たちの中核部分は武士的な知的・文化的生活習慣を維持しようとしつづけ、意に染まない仕事につくことを嫌うことが多くが無職を選ぶものも多くいました。
しかし特徴的なのはかれらの教育への向き合い方でした。
かれらはあらたに導入された学校教育に、江戸期同様の態度で向きあい、新しい時代に即した能力を身につけるものも多かったのです。
こうして新しい時代であっても、あたらしい時代であるからこそ、さらなる「立身出世」が可能であり、「家」の維持を超えてさらなる発展を可能にすると気づき始めました。
近代化の進行の中で、士族たちは学校教育を経由することで、社会の中枢部に進出していきます。こうして得た仕事は「士族」にふさわしい仕事も多くありました。

しかし教育は基本的には能力をもつものに開かれた世界であったため、一定の時間を経たのち平民の進出が本格化します。
この結果「士族」の核心部として新たな社会に参加したものたちは平民でのエリートたちと融合し学歴エリートという新たな階層を形成、学閥・官閥・さらには閨閥などで結びつき、「士族」という族籍すら時代遅れと思わせる世界を形成します。(一部は「華族」というあらたな族籍をも獲得します。)

注意しておきたいのは、当初社会の中枢部を占めていた世界の構成メンバーの多くが士族だったことです。

時間的にいえば「士」の文化・風習や考え方が根付きつつある世界に、あとから平民出身者が参加するという経過をたどったことです。
この結果、士族のなかにあったいろいろな傾向、たとえば農工や実業よりも俸給生活者をありがたがる風潮なども社会全体に浸透していきました。
そのほかにも、士族の文化や生活習慣、価値観などが拡散され、「美風」として押しつけられていきます。こうした価値観が天皇中心の国家作りをめざす道具としての教育勅語と結びつき、日本の「醇風美俗」とされていきました。

さらには武士の道徳・倫理観は民法などの近代法体系の中にも組み込まれ、「男尊女卑」や「家」制度の重視といった近代日本社会の前近代性を形作ります。
この結果、江戸時代、少なくとも庶民の間でははかなりの力をもっていたとされる女性の権利は逆に法によって押さえ込まれます。明治時代は、女性の権利がもっとも弱かった時代とさえいわれます。
実際民法制定は離婚率の激減という数字として表れます。婚姻という形式だけが重視され、個人の意思がさらに軽視される時代となったのです。

園田英弘・濱名篤・廣田照幸『士族の歴史社会学的研究』(名古屋大学出版会1995)

武士はどこにいったのか、広田照幸による結論を掲げておきます。
明治維新の諸事件によって身分的障壁が取り除かれたにもかかわらず、かつての上級武士層の多くは、旧来の生活を維持し、さらに教育機会を利用して再編成された階級構造の上位の部分に席を占め続けたわけである。
一方、窮乏化し労働者階級の一部に吸収されていったのは下級武士層に多かったということになるだろう。卒や足軽の多くは、明治維新で生活の基盤を失い、肉体労働者になっていったわけで、下級武士は明治維新による利得者であるとはけっしていえず、むしろ歴史の変動に翻弄された、気の毒な存在であったといえる。
結局のところ、明治維新によって生じたのは、社会構造のランダムな再編成ではなく、むしろそれは家庭と学校を媒介とした、身分の階級への横滑り(スライド)」だったのである」(『研究』p333)

               おわり

追記:「教育勅語」や「修身」の記述など大幅に加筆修正をおこないました。(2022/07/06記)

目次とリンク:
「武士」はどこに行ったのか(明治期の教育と社会)

1:江戸期の教育と武士
2:明治維新のなかで~武士から士族へ
3:学校教育と、士族の生き残り戦略
4:国民教育の定着と学歴エリート

<参考文献>

園田 英弘・濱名 篤・廣田 照幸『士族の歴史社会学的研究』
(名古屋大学出版会1995)
梅溪 昇『明治前期政治史の研究』(未来社1963)
山住正己『教育勅語』(朝日新聞社1980)
天野郁夫『学歴の社会史』(新潮選書1992)
同『教育と近代化』(玉川大学出版部1997)
佐藤秀夫『教育の歴史』(放送大学2000)
朝日新聞社『朝日百科・日本の歴史10』
竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』(中央公論新社1999)
牧原憲夫『民権と憲法』(岩波書店2006)
中村 哲『明治維新』   (集英社1992)
佐々木克『日本近代の出発』(集英社1992)
清川育子「『壮丁教育調査』にみる義務制就学の普及」(教育社会学研究51集1992)

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