武士はどこに行ったのか(3)学校教育と士族の生き残り戦略

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武士はどこに行ったのか~明治期の教育と社会
3,学校教育と士族の生き残り戦略

Ⅳ、学校教育の開始と民衆

士族の生き残り戦略は、学校教育の存在と不可欠の関係にあります。そこで今度は明治政府の教育政策を見ていきたいと思います。

(1)学制発布と小学校の設立

被仰出書(1872 国立教育政策研究所所蔵

明治維新政府の教育政策は1872年の「被仰出書」の布告で本格化します。
そのポイントは

封建的な教学を否定し、
教育の目的を個人の立身治産昌業にもとめ、
③女性をも対象とした四民平等を基礎とした近代的教育の理念を示し、
④最後に「邑むらに不学の戸なからしめんことを期す」と全国民への教育の普及を目指すことを宣言する

といった、きわめて進歩的な内容が示されました。
そして、この翌日から文部省は数度にわたって、全国規模での学校教育の実施を図る教育制度法令である学制を公布します

「学制」によって構想された学校制度

学制では
①全国を大,中,小の学区にわけ、各学区に学校を設立する。
・8大学区⇒大学校
 (32中学校に1校)
・256中学区⇒中学校
 (人口1/13万人、210小学校)
・ 53,760小学区⇒小学校
 (人口1/600人)
②小学校=満6歳入学、上下2等各4年、中学校は14歳入学で上下2等各3年、大学・師範学校・専門学校の設置
③ただし教育費は受益者および各学区内人民の共同負担

という野心的なものでした。
しかし、実際に実現したのは全国的規模での小学校設置、および師範学校(教員養成施設)を約90校設立にとどまり、中学校や大学校はなかなか手がつけられませんでした。
とくに問題だったのは、教育費を受益者(保護者ないし本人)地域に押しつけたことでした。
こうした新たな負担は、それまでの政府の諸政策への反発と相まって、いくつかの地域で学制反対一揆が発生しました。

(2)小学校の設立

中村哲『明治維新』P135

学制発布を機に、小学校が全国で設立されはじめ、3年後の1875年には全国で25000もの小学校が建てられました。
明治初年の寺子屋が約15600、児童数74万という数字から見ても、素早い動きでした。

とはいえ、その実態はさまざまです。かつての藩校が小学校となったものや新設の西洋建築がある一方、寺院や民家の一室さらには農家の牛小屋の二階など、寺子屋の延長、さらに劣悪なものもありました。

急速に小学校が建てられた背景に人々の間に教育への期待があったことも事実です。

京都市中央部では学制発布に先立つ1869年、早くも64もの小学校が創建されます。
京都市内中央部ではいくつかの「町」(最小の自治組織)で町組(「番組」)が組織されていました。こうした「番組」がきそって小学校を建て始めたのです。「町衆」の思いを見ることができるエピソードです。

2万5000もの小学校が設立され、就学率は30%弱~40%に達しました。
しかしこうした高い就学率とすばやい学校設立の背景には
①地方官による強権的な方策
②地域主義的な競争意識
③低い出席率と高い中退率
といった実態もあり、その成果はかなり差し引いた方がよいと考えられます。

(3)実際の教育内容は

当時の小学校の教育は現在の教育とも寺子屋とも異なります。

江戸時代の教育については、本シリーズの第一回「「武士」はどこに行ったのか(1)江戸期の教育と武士をご覧ください。

寺子屋の個別課題に基づく個別学習に変えて、読み物・算術・習字・書き取り・作文・問答・復読・体操の8教科を、学年別、学級別、一斉学習で実施しました。

小学校2年生の考査問題(左)と3年生の追試問題(右)(長野県開智小学校蔵『朝日百科日本歴史10』p10-124)

一斉授業といっても、ほぼ同年齢のこどもが授業を受ける現在とは異なり、5歳から18歳という広い範囲の年齢の生徒が学年別の一斉授業をうけていたのです。
もっとも大きな違いは、学年(あるいは半期)ごとに進級試験があったことです。
試験はきびしく、多くの生徒がクリアできないまま原級に残り、多くはそのまま去っていきました。
もともとの学力差がおおきかったため、飛び級制度もありました。
教員の質にも課題がありました
1873年の埼玉県の例でみれば、正教員53人(士族37平民16)に対し短期の研修を受けただけの仮教員335(士族126平民209)が大多数を占めました。こうした人たちが、見たことも聞いたこともない内容を教えていたのです。
そこには地域の人々が望むような教育の姿はありませんでした。

1877年、文部省に勤務していた啓蒙思想家西村茂樹は全国の教育状況の調査をし、その問題点を指摘しました。これを敷衍する形で当時の教育の問題も見ていきましょう。

当時用いられた小学読本と、元となった英語リーダー
此猫を見よ寝床の上に居れり。これはよき猫にはあらず。汝は猫を追い退くるや。私の手を載するときは猫が私を噛むべし…」。ベットの上の猫を追い出そうとしたらかみつかれたというだけの内容

教育に金がかかりすぎる
学校設備の整備がもとめられ、費用は地元や保護者に負担させられました。
教育内容が現実生活から離れ、実用的でない
例えば「読み物」の教科書は、右の図のようなものです。この教科書はアメリカの教科書を直訳したものあり、挿絵も奇妙なものでした。
また算数は西洋算術で教えられるために実用性に欠け、結局こどもたちはそろばんを習い直す必要がありました。

中村哲『明治維新』P136

一定のカリキュラム(教則)を全国一律に実施しようとするため、融通性が欠如している。
指図などを用いるなどの工夫はなされたものの、多くは教員すらも知らない、理解できない上記「小学読本」のようなものをひたすら読むことが多かったと思われます。

(4)極端に低い進級率・卒業率

このような実態ですから、いったん厳しい命をうけ入学はさせたものの、通学しようとしない子供たち、させようとしない、させられない親が続出しました。進級できずに中途退学する生徒もおり、実質的な就学率は20%程度であったとの推計もあります。
こうして下級小学終了(=卒業)までたどり着けたものは入学者の15%程度でした。

天野郁夫『教育と近代化』P28の表より作成

明治13(1880)年の京都府の数字があったので、少し加工し直してみました。
上のローマ数字が学年で、縦軸が在学していた「児童」の年齢です。全生徒の7割が1年生であり、そこには5歳児から15歳を超える青年まで在学していました。
この表からは、学年進行とともに生徒が激減し、下級小学修了時の4年は全生徒の2.7%しかいませんでした。
上の学年に進級できなかった生徒は膨大な数となったことがわかります。

強引に開設された小学校は、人々のニーズと大きく乖離したものでしかなかったのです。

(5)明治30年の壮丁検査~教育の実情と学力

右の表は、1897(明治30)年の徴兵検査で実施された学歴・学力調査の結果を%で表示したものです。
徴兵検査は満20歳で受験するのですから、かれらが小学校を卒業するはずになるのは1887(明治20)年、入学が1883(明治16)年となります。

当初の混乱もおさまり、学校制度も機能し始めてきた時期のように見えますが、それでもまったく学校に行かなかった不就学者が23%、2年以内が26%であり、約半数が2年以下の学校教育しか受けていなかったことがわかります。

また学力定着度は、学校に4年通っても文字が完全に書けるものは42%、30%以上がなんとか姓名・住所を書ける程度にとどまっています。

文字を使ってやりとりができるものは26%、1/4にとどまり、24%は姓名すら書けない状態でした。残る約1/2が姓名ないし姓名・住所・職業が書けるという程度でした。
よく日本の人々は昔から識字率が高く、教育水準もあったといわれますが、明治30年代まではこうした実態でした。

(6)「文明開化の先兵」としての学校

若槻礼次郎の小学校教員時代の回想 1882年ごろ(佐々木克『日本近代の出発』p85)

このように民衆に「学校」とは多額の費用負担を強い、労働力を奪い、自分たちのニーズとは全く異なった意味不明の知識を持ち込むものでした。

しかし、江戸時代までの人々がもっていなかった価値観や行動様式を身につける場でもありました。
授業時間を区切るという時間管理、行進訓練などによる共同行動(これにより人々の歩行法はナンバ歩きから現在の形に矯正されることになります)、競争や選抜という習慣。立身出世という価値観。日本や世界の存在。
大人たちには理解不能な「文明開化」が学校教育をとおして、こどもたちに伝えられ、子どもたちが「文明開化」の先兵として、家庭へ、地域社会へと送り込まれました。
さらに教員の多くが「士族」出身であったことは「平民」の子供たちに士族的な価値観や行動様式も伝えました。

学校は「文明開化」「富国強兵」イデオロギーの最前線という意味合いを持っていました。

さきに、『和俗童子訓』の「庶民が勉強にのめり込めば家業をおろそかにし、ついには財産を失ってしまう。だから学問はほどほどにせよ」との趣旨の一節を紹介しました。
学校とは、こういった側面をもっていました。
江戸時代までの倫理観は、「家」「家業」の維持、永続化というところに最大の中心がありました。ところが学校は子供たちに、こうしたものとは別の世界・価値観があることを伝えてしまったのです。
跡継ぎが学問にのめり込んだあげく、家業をすてて東京へ出て行ってしまうという事例が各地で生まれました。
私の曾祖父もそうしたひとりでした。家業も、維新後にあらたに始めた事業も親族に譲り渡し、家を捨て都会へと出てしまいました。
こういった意味でも、学校は危険な存在であり、異界への扉を開く存在でした
しかし、士族からみると「学校」は少し違った姿を見せます。

Ⅴ、学校教育と士族の生き残り戦略

(1)小学校で学ぶ士族の子弟たち

岐阜県岩村町に知新学校(すぐ厳邑小学校と改名)という小学校がありました。佐藤一斎などを輩出した美濃最古の藩校「知新館」を小学校とした学校です。明治8(1875)年には生徒388人(男246女142)、教師9人と当時としては屈指の規模を誇りました。
今回のシリーズで全面的に依存している『士族の歴史社会学的研究』(『研究』)のなかで、廣田照幸・濱名篤はこの学校の史料を基に興味深い研究を展開しています。

『研究』P275 (表中の分類:士A=石高50以上,士B=10石~ 50石未満,士C=10石未満,卒A=3.2石以上,卒B=3.2石未滴を示します。また輩出率は下級5級進学者/その階層の戸数で算出しています)

右に掲げた表は明治7年から15年までの間に、士族出身者がどの級まで進んだかをカウントした表です。
この時期、学校は卒業まで在学するということは前提とされておらず、各級ごとの進級試験が一種の資格付与の要素も持っていたようにおもえます。
ちなみに下級5級は小学2年後期にあたります。明治8年の段階で下級5級以上の在学者は男子の27%(67人)、女子の11%(16人)で、明治13年でも男女計で25%(71人)でした。そのうえの上等小学校は地域の最高学府でした。
士族と士族の割合は下級5級~1級以上では46:48、上級小学では78:22となります。

岩村で43戸の上士の家から、男子25人女子5人が下等5級以上と高い比率で、113戸の上卒でも男子27人女子6人というふうに、下卒をのぞくすべての士族グループの子弟が高い比率で進級していっていることがわかります
岩村の士族にとっては小学校に進学し、学ぶことが一般化しており、多くの平民とは異なった動きをしているように思われます。教育熱心な岩村という土地、もとの藩校という事情が通学への抵抗を低くしたとはいえ、やはり一定の方向性を見いだすことができそうです。

(2)キャリアパスとしての小学校卒業

「知新学校 明治7年下級一級合格者のその後の進路」(『研究』P308より作成)

小学校開校年度・明治7(1874)年の下級1級合格者の明治16年現在の追跡調査の結果が右の表です。

まず気づくのは生徒の年齢の高さです。
最も高齢の生徒は合格当時28歳、最年少でも12歳、上士・戸主も多く含まれます。
小学校といっても、現在の印象とは全く異なっていたことがわかります
開設初年度に、他の7等級をパスして合格したのですから、すでに十分な学力は有していた人々(多くは成人)が半年程度、文明開化に即した内容を学び、それまでの知識とのすりあわせをし、あわせて下級小学1級合格のための受験勉強をしたのではと推測しました。
少なくともこの表の人々にかんしては小学生と机を並べて、という風には考えられないでしょう。
興味深いのは合格後です。合格した15名のうち9名が小学校の訓導となっています。さらに別ルートの1名も加え8名が9年後には校長となっていました。
こうして考えると、少なくともこのときの合格は、訓導採用の資格試験の側面をもっていたように見えます。
訓導として採用された合格者の中には、さらなる立身出世を果たしている人物(1の人物)もみられます。このなかから、こののちも師範学校など上級学校への進学や他の職業への転身していく事例も見られると考えられます。
学校に通い続けたものにしめる士族の数が多かったという先の表と併せて考えると、士族たちは学校に入学し合格することで、新たな進路へのキャリアを手に入れたと考えられます。

(3)士族と学校教育の親和性

武士としての役割を失った士族ですが、学校教育には強い親和性をもっていました。
それについて、整理してみました。

①江戸時代以来、学問を学ぶことは武士の素養であり「義務」でした。
本人はもちろんですが、親にとっても、貧窮しても子弟を学ばせること、可能な限り上位の学校にも通わせることは義務でした。

②また江戸時代以来、教育が将来への進路に役立つということを「すり込まれ」ていました。
あらたな学校制度が始まると、生徒たちはまず小学校卒業資格を得ることで、学校訓導として就職、生活の糧を得る一方、校長など学校現場での出世、上級学校などをへて各界への進出など、職業確保と立身出世の資格を得ることができました
教育は「名をあげ、身を立て」させるための、立身出世のための「投資」でした。
ついでにいえば藩がなくなったことで立身出世のゴールは、天下国家の中枢へとつながることになり、「士」のプライドをさらにくすぐるものでした。

③武士の子弟は幼い頃より厳しい家庭教育を受けてきており、学問・学習への基礎的素養を身につけていました。当然、教育内容への理解度も高かったと考えられます。

④武士の生活スタイル、上位(とくに「師」)への絶対服従、授業規律、理解できなくとも「素読」をしつづけるという一斉授業など非能率的な教授法への耐性などが、新たな学校での学習スタイルに適応させました。
問題の多い小学校の授業・あり方であっても我慢し、順応するという耐性がありました。

⑤上級士族を中心に、高いプライドなど様々な事情から、無職をつづけた人々がいます。かれらは武士のたしなみとしてさまざまな「学び」にとりくみました。そうした選択肢として学校があったともかんがえられないでしょうか。

ともあれ、これまでの武家の生活スタイルや倫理観、文化・教養・知識・理解力などから、士族は新しい時代の教育に高い親和力をもっていました
 士族という身分より、「学び」を通して獲得した能力をもつ人材が重視されました。こうした人材となる高い適性を士族はもっていました。

(3)士族の働き口としての学校職員

『研究』P90

官吏・警察官と並び、学校の教職員は、士族の重要な働き口でした。
明治15(1882)年の公立学校の族籍別構成を示したものが右の表です。
人口比でいえば士族に比べて平民が圧倒的なのにかかわらず、教職員における比率は15%程度の差にとどまっており、中学校など上級学校においては士族が8割弱を占めます。
平民が多い小学校でも校長の場合は士族が20%も多いことがわかります。
こうして学校は、士族の主要な働き口であったことがわかります。立身出世をめざす士族の多くが、まず教育現場に地歩を得たことがわかります。
また学校現場における士族の割合の多さは、学校文化への士族文化の流入を考えさえます。

(4)高等教育・高文試験と士族

学校制度が整備されるなか、高等教育機関はしだいに東京大学⇒帝国大学のもとに統合される、主要な高級官僚供給源は帝国大学に集約されていき、その権威は圧倒的となります(なお、軍人は陸海軍とも独自の養成機関を維持し続けます)

 この背景については「明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)~憲法と帝国議会(2)」で触れています。よろしければご覧ください。

他方、慶應義塾や東京専門学校(のちの早稲田大学)を筆頭に多くの私立専門学校も生まれ、発展しました。
しかし、帝国大学卒業生は、高級公務員採用試験である文官高等試験(高文試験)なしで高級官僚に採用されるなど特別扱いがなされます。その後、他の学校の反対で帝国大学卒業生にも高文試験が課されますが、結局合格者の多くは帝国大学出身者でした。

天野郁夫『学歴の社会史』P125

こうして立身出世をめざす人々は、東京大学⇒帝国大学⇒東京帝国大学をめざします
右の表は高等教育機関卒業生にしめる士族出身者の割合です。
帝国大学における士族の占有率の占有率の高さがおわかりいただけると思います。
このように士族は自らの知的資源などを背景に、おもに帝国大学を中心に進出することで、エスタブリッシュメント層へ進出していったことがわかります
そして、時期がたつにつれて、その比率が低下していったことも。
あわせて、士族と平民の比率が学部ごとに偏りがあることも見ておきたいと思います。当初は、医学部や農学部といった実用的な学部への人気がなかったことは、実業をよしとしなかった士族の意識を反映しているようにも考えられます。官立専門学校における商学部の人気の低さもこれを裏付けているように思えます。
なお私立専門学校はほぼすべてが平民優位となっています。

右は、文官高等試験(高文試験)合格者におかる族籍別構成を示したものです。
1890年代、合格者に対する士族占有率は40~55%程度のあいだにあますが、20世紀に入ると士族占有率は低下していきます。
しかし、合格者を実数で示したグラフからは士族の合格者は減るどころか、増加していることがわかります。
士族の増加数よりも、平民の増加数がはるかに大きかったため、士族の占有率が低下したようにみえたのです。

こうして士族たちがとった生き残り戦略が見えてきます。
自らの知的・文化的(上級士族は資産も)資源を有効に活用することで学校教育のメリットを享受、さらに上級学校(とくに東京大学のち帝国大学・東京帝国大学)にすすむことでさらにメリットは拡大します。その後、高文試験をへて高級官僚・政治家などへの道を歩んだり、学界・教育界さらには財界などへ進出することで各界に影響力を行使するという戦略です。
士族たちは教育によって新しい時代に対応できる能力を獲得、新しい時代の担い手へと変身していったのです。

このように、明治国家が安定するなか、士族の一部は学校・試験を経て各界に進出しました。
しかし、選抜試験が存在するため、身分・家柄という属性は後景へとおいやられ、学歴と能力が重視されます。属性のみでは「理念としての『士』」として通用しないと切り捨てられたかつての士族のように。
その後、士族と同様のルートをたどり平民が次々と進出してきます。もともとの人口比で圧倒的なかれらの前に、各界エリートに占める士族の割合も低下します。
こうして人材の評価は、士族であることよりもエリート一般、とくに学歴としての評価が中心となります。さらに上位身分である華族の称号を得るエリートたちも増加、明治が終わる頃には出身としての「士族」の族籍は社会的にはそれほど重視されなくなっていきました。

(5)士族の生き残り戦略~「鮭の子」プロジェクト

明治維新によって、名誉と生活の糧を奪われた士族たちは、それを取り戻すべく、それぞれ生き残り戦略を展開しました。
そしてそのエネルギー源となったのは、一方では生きていくということですが、もう一方では「士」としてのプライドを維持し、「家」の復興をはかるという江戸時代以来の倫理観にあったように思われます。

武士=士族の生き残り戦略は、教育制度が有益であると気づくこと、さらに教育と立身出世のルートが整備されることによって、より体系的になっていきました。
当初は、それまで持っていた知識・教養ないし武芸の能力などをもとに、ツテを頼って官吏や警察官の働き口を探すというあり方が基本でした。その場合、コネがききやすい薩長などの藩閥出身者とその近くにいる人が圧倒的に有利でした。
しかし軍や官吏養成機関などに無償で入学できることが周知されることで、そこに入学し高級官僚や将校の道をめざすものが出てきます。原敬のように、非藩閥あるいは賊軍側の出身者などの生活に困窮した秀才たちも潜り込んできました。しかし、それも、こうした情報を手に入れた者による、かなり偶然性の高いケースでした。
ところが、教育制度が整備され始めると、学校で学び、学ばせることでキャリアアップするという整備されたルートが出来てきます。小学校を出て訓導などとして採用されて自立の手段を獲得、さらに中学校や師範学校などさらなる上級の学校へ進みキャリアアップをすすめるという「名誉ある職業」への入り口が広がってきました。
こうして、失われたかに見えた「士」のプライドを守り、「家」の名誉を回復・発展させる道が開かれたのでした

教育が名誉につながると考えたのは「家」にとどまりませんでした。
かつての「藩」などの地域団体も、優秀な学生を送り出すことで郷土の名誉などを獲得できると考えました。

「鮭の子」

新潟県北部に村上という町があります。
最近、旅番組によくでてきます。
鮭の名産地であり、養殖が最初に始まったです。
ここには村上藩という藩がありました。戊辰戦争に際し、藩論が分裂し、新政府軍に占領され、沈滞した状態となりました。
こうした状態にあった村上の士族たちがはじめたのが、いわば「鮭の子」プロジェクトです。
秩禄処分後、衰退していく士族たちの救済のため、士族たちは旧領主身分であるという権限を用い、強引に町人たちにいったん引き渡された三面みおもて川の水面権など、鮭にかかわる権利を奪い取り、士族全体の共有財産としました。
そして株を持つ士族たちに毎年鮭を数匹ずつ配りました。
村上の町では現在でも軒先に数匹の鮭がぶら下げられているのを見ることができます。
より重要なのは、この収益で育英会をつくり、学校(公立小学校と私立中学校)を運営するとともに、東京などの学校に進学する子弟に奨学金に支払うことにしたのです。彼らが各地で立身出世・活躍すれば、故郷村上にも恩恵をもたらしてくれと考えたのです。
ちょうど、村上の三面川で生まれた鮭が大海で育って、いつか村上に帰ってきてほしいというように。
この結果、村上出身の人は各界で活躍しました。現在の皇后のルーツも村上にあります。

教育は、「家」や「郷党」の名誉を回復するツールでもありました。

「鮭の子」プロジェクトについてはある新潟県士族の明治~鳥居和邦と明治期の村上」をご覧ください

つづく

目次とリンク:
「武士」はどこに行ったのか(明治期の教育と社会)

1:江戸期の教育と武士
2:明治維新のなかで~武士から士族へ
3:学校教育と、士族の生き残り戦略
4:国民教育の普及と学歴エリート

<参考文献>

園田 英弘・濱名 篤・廣田 照幸『士族の歴史社会学的研究』
(名古屋大学出版会1995)
天野郁夫『学歴の社会史』(新潮選書1992)
同『教育と近代化』(玉川大学出版部1997)
佐藤秀夫『教育の歴史』(放送大学2000)
朝日新聞社『朝日百科・日本の歴史10』
竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』(中央公論新社1999)
牧原憲夫『民権と憲法』(岩波書店2006)
中村 哲『明治維新』   (集英社1992)
佐々木克『日本近代の出発』(集英社1992)

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