「講談社」からみる大衆の国民化~マスメディアの発展(4)

『キング』創刊号(講談社) 山川出版社「詳説日本史」P336
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Contents

Ⅱ、マスメディアによる「大衆」の「国民」化~「講談社」を中心に

(1)「大衆」の登場

東京朝日新聞・復興記念号 1924年

「朝日」「毎日」両新聞に代表される企業新聞の急速な成長は、大戦景気以後の「大衆」の登場を背景にしていました。
「大衆」をどのように定義づければいいのでしょうか。社会学者・川本勝氏の説明をもとにまとめてみました。

「階級、社会的地位、職業、学歴などの社会的属性を超えた異質な不特定多数の人々から構成された集合体である。お互いは未知な関係で、間接的・非人格的関係からなる匿名的集団」であり、
①異質性 ②匿名性 ③非交流性 ④非組織性、
という点から定義できる。
それは
19世紀末から20世紀にかけて進行した産業化、都市化が多数の労働者階層を生み出し、その過程で中間集団の解体、官僚制組織の進展、選挙権の拡大と民主化の進展、教育の普及、マス・メディアの発達などの事態から説明される。
(「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」川本勝)をもとに記述

日本で「大衆」ということばが多く用いられるようになったのは、震災直後の1925年ごろであり、第一次世界大戦下の大戦景気を契機とする資本主義化・工業化・都市化にともない、都市中心に形成されました

佐藤卓己『キングの時代~国民大衆雑誌の公共性』岩波書店2002

地域や村、血縁・親族といった結びつきが薄らぎ、一人住まいや核家族世帯が増加するなかで誕生します。孤立しがちの「大衆」を、だれが、どのように結び直すかが課題となります。
 そしてその役割を担ったのがマスメディアでした。
今回は佐藤卓己氏の労作「『キング』の時代」に学びながら見ていきます。

(2)マスメディアの発展

マスメディアの時代の到来とされるいくつかの指標をまとめてみました。

ジャンル別の雑誌の販売数を示すグラフ

文字・出版メディアの普及
メディアの特性により、受け手もかわってきます。
新聞や雑誌といった文字メディアは、文字が読めることが前提です。日本では、明治以来の義務教育の普及が人々の識字率を画期的に向上させ発展の条件をつくりました。さらに大戦景気以降、多少なりとも生活に余裕を持つ人々も増加、他方で技術革新と大量生産の技術が出版物の価格低下と普及をたすけました。
こうして、文字メディアが浸透しにくかった人々、労働者や職工、自作・小作農民、学業途上のこどものなかにもメディアが進出していきました。とくに女性への浸透は顕著なものがあり、女性向け雑誌の売り上げは他の雑誌を上回りました。
新聞の売り上げ上昇も急速で、朝日・毎日両新聞グループは1924年発行紙数が100万部を突破したと高らかに宣言します。

「円本」「岩波文庫」そして「岩波新書」

「大衆」の特徴のひとつは「多様性」です。学校教育から排除された人々、小学校程度の初等教育しか受けなかった人と中等教育さらには高等教育を受けた人の間では、文字メディアの中でも、選択されるメディアに差異が生じました。

改造社「現代日本文学全集」は1冊1円で販売され『円本』とよばれた。

中等・高等教育の普及は高度の知識を必要とする書籍や総合雑誌・学術雑誌への需要を高めます。
知識が進路に直結するとして立身出世をめざす若者もその層を拡大しました。
安価な出版物を毎月届ける雑誌の手法は書籍販売にも影響を与えました。改造社は1926(大正15)年発売した『現代日本文学全集』を一冊一円で予約販売するというやり方を開始、予想以上の大反響をよびました。各社もこれにつづきます。こうした書物は「円本」とよばれました。
これにたいし、本当に良い古典を安価で読者に届けたいと考えた岩波書店は知識人向けに安価で国内外の古典を出版する「岩波文庫」を開始、「文庫」というジャンルが生まれ、同じく岩波書店が1938年に始めた「新書」とともに、書籍メディアの中心となっていきました。

「活動写真」の時代

阪東妻三郎「雄呂血」のポスター

文字を読めない・文字を見るのが苦痛であるという人、本や雑誌を読む金や時間がない人もいました
こういった人たちが手軽に楽しめるメディアとして受け入れたのが活動写真です。
活動写真は講談や浪曲の世界を眼前で見せてくれます。「阪妻」(阪東妻三郎)や「目玉の松ちゃん」(尾上松之助)といった人気者が現われ、眼前で派手な剣戟、さらには奇想天外の術も用います。
外国人の人気者も現れました。イギリスの喜劇王チャップリンの滑稽な演技は、活動弁士の「語り」という日本独特のやり方もあって人気を博しました。

トーキー映画の出現

チャップリン「活動狂時代」のポスター

1930年代になると活動写真はトーキー映画へと移行し、さらなる隆盛を見せます。チャップリンは英語でしゃべるようになり、日本映画と外国映画の境界がはっきりしていきます。
外国映画は、自分たちが見ている世界とは別の世界・生き方・考え方の存在を、美しい音楽とともに人々に伝えました。とくにハリウッド映画は物にあふれた豊かなアメリカの姿は人々に強烈な印象をあたえました。

多様なメディアの登場
映画などをきっかけに、ジャズなど西洋音楽も広がりを見せ、それはレコードによって伝えられます。
また日本映画の主題歌などのレコード化などをきっかけに、歌謡曲・流行歌というジャンルも生まれました。音楽はさらにラジオの普及によってさらに広がりをみせます。
文字がなくとも楽しめる世界は広がり、メディアの影響力は社会の奥深くまで浸透していきました。こうして人々は、多様なメディアを通じて情報や知識を得、興味関心を広げることができる時代になり、生活や生き方にも大きな影響を与えました。
ひとびとの憧れも「文明国」イギリス・フランスよりも、物資があふれる豊かなアメリカへと移っていきます。
なお、1925年に始まったラジオ放送はより大きな可能性を秘めていました。しかし導入の費用の大きさが普及を遅らせました。

(3)「キングの登場」

キングに階級なし

大衆社会の「多様性」「年齢、性別、職業、地位などを超越」を克服するとして1925年12月に創刊された雑誌が『キング』でした。
『キング』は「日本一面白い!日本一為になる!日本一の大部数!」を旗印に創刊号75万部をほぼ売り切り、二年後には150万部を販売、以後、戦時体制下でもつねに100万部をこえる売れ行きをつづけました。
確かにこの雑誌は、都会・農村、「年齢、性別、職業、地位などを超越」した売れ行きを示しました『キング』を通俗的と批判しがちな学生らにも多くの購読者を持ち、朝鮮・台湾の人々にも、さらにはアメリカなどの海外移民にも、購買層をひろげていきます。
さらに『キング』は、「地方」(軍隊では「一般社会」をこのようにいいます)文化をきらう軍隊にも持ち込まれます。各部隊の兵士から手紙が毎号の投書欄をにぎわし、のちには戦地からの投書も多数にのぼりました。慰問袋に『キング』や派生商品をいれられることも多く、兵士たちも喜びました。『キング』は軍からも歓迎されました。

(4)野間清治と、大日本雄弁会・講談社

『キング』を出版したのは、大日本雄弁会講談社(現「講談社」)、創設者は野間清治です。

群馬県・士族の家で生まれた野間は高等小学校卒業後、代用教員を手始めに、師範学校、東京帝国大学内の臨時教員養成所と立身出世を実現、沖縄での教員兼視学官(この時期、野間はかなり退廃した生活を送っていたようです)を経て、東京帝国大学の筆頭書記となります。
二人の祖父が戊辰戦争で非業の死をとげた家庭に育ったことから武士道や士族的教養への関心を、子どもと接した体験から「大衆性」や「庶民性」を、さらに師範学校で天皇制教育のありようを、そして「立身出世」を達成した成功体験、こうしたものが野間の生き方や考え方のベースを形成し、講談社文化の基礎を築いたと考えられます。

「中間層の第一範疇」
野間は、丸山真男が日本ファシズムの思想と運動(『近代政治の思想と行動』所載)の中で描いた中間層の第一範疇の典型といっていい階層のなかの育ちでした。丸山は、「床屋とか湯屋とか或は列車の車中で(中略)一席高説を聞かせている人」としてかれらを描きます。亜インテリ」「疑似インテリゲンチャ」「社会の『下士官』」として。そして、こうしたタイプの人々に、野間が提供した文化は大歓迎されました。まさしく「一席高説を聞かせる」ネタに最適だったからです。

『雄弁』と『講談倶楽部』
沖縄から戻り、東京帝国大学で法学部書記の仕事を得た野間は、学内で実施している弁論大会に目を付け、弁論の内容を文章化して出版することを思いつきました。野間は1909(明治42)年大日本雄弁会を設立、弁論を文字化した雑誌『雄弁を創刊し、立身出世をめざす若者中心に読者を得ることに成功します。

『雄弁』第一号表紙

「声のメディア」を文字化する価値に気づいた彼が次に始めたのは「講談」の文字化でした。1911(明治44)年野間は新たに「講談社」を設立、『講談倶楽部』を創刊しました。

講談の文字化はすでに1890年頃からはじまっており、『講談倶楽部』創刊と同じ1911年には、大阪で創作講談を発行する「立川文庫(たつかわぶんこ)が刊行されはじめます。立川文庫が「猿飛佐助」のような忍者ものなど子ども向け、荒唐無稽な内容が多かったのに対し、『講談倶楽部』は大人向けで大衆啓蒙的色彩の強い作品が多かったと言われます。

しかし浪曲や落語に対象を広げたことに講談師側が反発すると、野間は文士に「新講談」を書かせることを思いつきます。こうして大衆小説というジャンルが発展します。

読書というものを民衆化し…教養なき大衆にまで普及せしめた…わが国には、大衆向けに書かれた書籍を読み得ない者は一人もゐない」と自画自賛したように、田舎教師出身の野間の「大衆の欲求」を察知する能力は確かでした。
その後、野間は、大衆の「多様性」に注目し、対象を限定した雑誌を次々と創刊しはじめます。

『少年倶楽部』

『少年倶楽部』1924年4月特別号表紙

野間が次に手がけたのは、子ども向けの雑誌『少年倶楽部(1914創刊・雄弁会)でした。元教師・野間はこの「愛すべき移動教壇」をつうじて子どもたちに「いかに生きるか」を問いかけました。
その教材は国定教科書よりもはるかに多様でした。歴史上の人物のエピソードや心躍る物語、各界名士の文章や英雄・偉人たちの伝記など、「のらくろ二等兵」などの漫画や冒険小説、こどもたちはこうした「教材」を通して「正義、人間、国家、死」といったことを考えました。
しかし、この「移動教壇」を通じて学んだ「正しい生き方」は「忠君愛国」という教育勅語にもとづく天皇制イデオロギーと通俗道徳、そして「立身出世」のすすめでした。野間は「少年倶楽部」を通してこうしたイデオロギーを自然に植え付けようとしました。こうして子どもたちは自分たちが「国家の一員」であると感じ「国民意識」を身につけました。

なお、三島由紀夫や安部公房、北杜夫など多くの知識人が「少年倶楽部」の愛読者であったことがよく知られています。かれらもこの雑誌から大きな影響を受けたことを否定しません。このことは、この雑誌の「教育的効果」の大きさを示しています。とはいえ、「熱心な読者」の多くは長じると、『キング』ではなく岩波文庫や改造・中央公論などを選択するようになるのですが。

次々と発刊される雑誌

雄弁会・講談社の雑誌

その後、野間は、短編読み物と小記事中心の『面白倶楽部』(1916創刊・講談社)、女性対象の『婦人くらぶ(倶楽部)』(1920創刊・雄弁会)、総合雑誌『現代』(1920創刊・雄弁会)、少女向けの『少女倶楽部』(1923創刊・雄弁会)など、購読者層をしぼった雑誌を次々と創刊します。大衆の多様さを考え、ニーズに合った雑誌が必要だと考えたのです

ところが1925年、野間はまったく逆のコンセプト「日本一面白い!日本一為になる!日本一の大部数!」を旗印とする巨大大衆雑誌『キング』創刊にふみきりました。

その後、1930年、野間は五大新聞の一つである伝統紙『報知新聞』を買収、「日刊キング」的な紙面作りに着手します。
さらに1931年にはレコード界にも進出、「キングレコード」レーベルをはじめます。
こうして、野間は日本のメディア王というべき地位を得ることになりました。

(5)空前絶後の大『宣伝戦』

『キング』の発行は日本の宣伝業界においても画期的なイベントでした。
全国の新聞・二百数十紙に『キング』の全面広告が連続して掲載されます。それは創刊20日前にはじまり、4日ごとに掲載され、創刊後も継続されます。結局、巨大広告は一ヶ月以上続きました。他の講談社の雑誌の広告もあったのですから、日本中の新聞紙面が講談社に乗っ取られた状態になりました。創刊当日には「雑誌読むべし」という依頼人不明のなぞの広告も出しました。

キング創刊時の大ポスター

しかし、巨大新聞側もしたたかなもので、大阪と東京の朝日新聞、大阪毎日新聞の三紙は、広告料の大幅値上げを迫り、講談社はこの三紙への広告掲載を断念しました。ただし、大阪毎日系の東京日日新聞はこれに応じキャンペーンの中心となり、東京朝日新聞にも一回だけ掲載されました。
こうした事態への対策としてとられたのがダイレクトメール作戦です。地域の有力者や会社、銀行に約35万5千通の封書と184万6千通のハガキを送りつけました。野間が養っている少年を二人一組で書店訪問をさせます。雑誌名入りののぼり旗を配ります。発行日には各書店に電報を送りました。「国民的大雑誌」などキャッチフレーズを記したビラや高橋是清の推薦文を記したポスターなどの30余種類計7000万部の宣伝文書をばらまきます。コマーシャルソング「『キング』の歌」をつくりレコードとして発売、「『キング』踊り」の振り付けとともに普及しようとします。風呂屋のポスターにチンドン屋。「『キング』だらけ」の状態を演出しました。
宣伝総額は38万円、現在の150億円超(大卒の初任給換算)という膨大な金額に上りました。

そして、この作戦は大成功、創刊号は第二刷まであわせて75万部を売り切り、二年後の1927年には150万部の売上を記録します。こうして獲得した売り上げ実績は高い広告料を可能にする条件となりました。その巨大な発行部数が『キング』を優れた広告媒体とたのです。

製紙・印刷業界も大きな飛躍を遂げます。用紙を請け負った王子製紙は最新の機械を2台購入することとなりました。のちの大日本印刷も『キング』を同社が継続的に印刷するという条件を取り付け、輪転機などの設備を一新しました。
こうした業界は活況を呈します。前年の正月に二大新聞社がそろって100万部突破を宣言していましたし、出版業社も「円本」販売に成功していました。活字メディアが一挙に活性化することで、製紙・印刷業界も急成長しました。
ちなみに「円本」の宣伝方法も講談社をまねたもので、平凡社『世界美術全集』の宣伝文句は「普選の実施は政治を大衆化した。世界美術全集は美術を大衆化する」というふうに。
『キング』の創刊は大事件でした。

(6)「国民統合のメディア」~キングの誌面

キング十徳
野間は『キング』をどのような雑誌にしようと考えていたのでしょうか。『キング』誌上にかかげられた「キング十徳」というものがあります。

一、『キング』を読む人は楽しみながら修養ができる
二、『キング』を読む人は常識が発達し人中に出て恥をかかぬ。
三、『キング』を読む人は頭が磨け知らぬ間に人柄が立派になる。
四、『キング』を読む人は居ながら面白い娯楽慰安が得られる
五、『キング』を読む人は感奮興起し立身出世が得られる。
六、『キング』を読む家庭一家円満幸福になる。
七、『キング』を読む町村風紀が良くなり繁栄する。
八、『キング』は国民趣味を高尚にし文化を盛にする。
九、『キング』は到る処道徳起り平和を齎す。
十、『キング』は世界から凡ゆ悪思想を掃蕩する。

修養・常識・立派な人柄・立身出世・一家円満・地域の風紀向上・国民文化の向上・道徳向上・悪思想の掃蕩、こうした徳が、娯楽慰安とともに得られるというのです
野間は『少年倶楽部』で試みたやり方を、全国民規模ですすめようとしていました。国民の間の「国民意識」高揚という「社会教育」的側面を強く意図していたことが分かります。

『キング』の目次から
「日本一面白い、日本一為になる、日本一の大部数」という目標をどのような誌面で実現しようとしたのでしょうか。その内容を見ていきたいと思います。
まず佐藤の著書に載っていた創刊号の目次の写真を掲げます。

キング創刊号の目次(佐藤前掲書)

実は『キング』の現物を見ることは、そんなに簡単ではありません。大衆雑誌で読み散らすことを目的とした雑誌であったため、保存されることが非常に少なく、あまり図書館などに収蔵されていません。逆に古い家の押し入れの奥などに隠れていることの方が多いかもしれませんね。

『キング』大正15年5月号の内容

キング1925年5月号目次

そうしたなか、私が勉強にかよっている大学に創刊翌年の1925(大正15)年『キング』が収蔵されていました。
これをもとに分析してみます。
この号の目次をもとに記事を整理してみました。
『キング』は付録付きの号が多いのですが、この号は付録はありません。そこで典型的な目次にするために付録は創刊号の「四大付録」を付け加えています。
こんなふうになります。

『キング』大正十五年5月号 目次
 ○(二段組み)口絵・グラフ:世界写真画報・アメリカ移民の記事(19本) 
◎ 教訓・訓話など:政治家(清浦奎吾)・高級官僚(児玉秀雄)など(7本)
◎ 特集:尊師宣伝(先生の思い出)野間・大学教授・前文部次官(4本)
   ○(二段組)特集関連・口絵のエッセー・詩(三木露風)・偉人のエピソード(10本)
◎立志伝・偉人伝:「品川弥二郎」「児玉源太郎」「東西逸話美談」 (7本)

  ○(二段組)「兄弟出世競べ」「早熟の天才」「名優逸話」「文壇ゴシップ」(10本) 
◎小説・読み物:吉川英治・菊池寛・佐藤紅緑ら (17本)
<内訳>
 小説(長編3・諧謔・家庭・武侠・滑稽・歴史2・熱血・冒険探偵) 

        お伽噺・講談2・落語1 
  ○(二段組)一筆書・結婚川柳・西洋ポンチ・笑い話・懸賞原稿募集(10本) 
 ◎ 各種:物語詩・短歌・漫画漫文・スポーツ・民謡・科学・絵画・旅行
    ・ 家庭セクション(10本)

  ○(二段組)ユーモア・相撲漫談・川柳漫画・科学記事・娯楽室 ・読者文芸(10本)
◎ 特集:修養一口話: 臨済宗管長らのエッセー
◎エッセー:室生犀星ら (3本)
◎ 特別読物:歴史小説(4)友愛小説・探偵小説(6本)
★ 付録:①趣味実益新案番付 ②二十六名家の名言 ③愛誦の金言名句修養訓 
    ④新東京名所巡り双六 (※この号にはないので創刊号のもの)

大衆小説など各種の「読み物」が17本、「特別読み物」が10本、これがメインです。「口絵とグラフ」として写真版が二段組で紹介され、以後、「一段組」と「二段組」の項目が交互にでてきます。記事の総計は長短合わせて112本です。

『キング』1926年5月号

巻頭言には有力政治家清浦奎吾のコラムが掲げられ、当時の政治家や軍人、文化人など名士のエッセーや書・歌などが並びます。皇族などの写真も掲載されます。また国内外の偉人・賢哲の伝記やエピソード、漫画やユーモア記事、教養記事などもあります。
こうしたものが400ページ弱の誌面にばらまかれます。
「読み物」は勧善懲悪が基本で、他の記事も修養・教養・努力・節制など通俗道徳のすすめとそれによって立身出世ができるとの人生訓がうたわれます。
その反面、岩波系の書物や雑誌、「中央公論」「改造」など総合雑誌にみられるような「評論」や「解説」は見られず、社会批判や政治、国際情勢などへの言及は見られません。(のちには大きく変わりますが)。清浦奎吾の巻頭言は「危険思想と信念」という内容ですが、具体性のない内容です。
学問や思想、政治や国際情勢を学びたい、論じたい人は別の雑誌を読めばいということでしょう。『少年倶楽部』の熱心なOBは息抜き程度で読めばいいとでもいうような割り切りを感じます。

婦人雑誌のやり方に学んだ「ラジオ的雑誌」

清浦奎吾の巻頭言『キング』1926年5月号

対立的ではなく論議にもなりにくい、雑多で断片的、「疲れない」記事の羅列します。多様な読者があまり考えることもなく、腹を立てることもなく、時間つぶしできる雑誌、それが『キング』でした。
記事の多様性は多様な読者に対応します。幼児には「お伽噺」や漫画双六などの付録を、少年には立身出世物語や勇ましい軍記・戦記あるいは科学記事を、女性には家庭小説や滑稽小説、調理や家事さらには通信販売を、経営者や教育者には講話のネタを、難解な文章につかれた学生には息抜き程度の読み物を、兵士にはふるさとを思わせる懐かしい話や勇気を振り起こす文章を、文字が苦手な老人には漫画や写真グラフを。
一冊の雑誌でいろいろなタイプの人が、それぞれの条件に応じて読めばいいのです。1冊50銭(米が43銭、ビール大瓶一本が50銭)という値段ですから。
話し言葉を意識した平易な文体と一見「毒のない」内容は、少年少女が家族に読み聞かせ、家族で話し合える内容でした。この雑誌は家族団らんの中にも入っていきました。
『キング』の誌面は多様で雑多な記事を並べる婦人雑誌のやり方を用いたといわれます。面白そうに感じた部分だけを流し読みし、時間があれば他の部分も目を通す。これが『キング』でした。
こうしたありかたはラジオ放送と共通でした。この時期の『キング』を佐藤は「ラジオ的雑誌」と位置づけました。

「批判的精神を欠いた総与党的な娯楽雑誌」
『キング』の特徴は強い権威主義、「名士」とのつながりのアピールです。政府・軍・官僚・学者文化人など各界「名士」の名前を政党の違いなどはあまり気にせず掲げ、名士のお墨付きをアピールします。第二号の目次の上には「名士の賞讃!天下の熱狂!さらに大飛躍!大壮観!!」という文字が躍ります。毎号皇族などの写真がのせられ、毎号、賛助員として70名以上の各界の名士の名が麗々しく掲げられます。
記事においても、偉人伝には品川弥二郎や児玉源太郎といった、当時の政府や軍につながる人物が扱いわれます。まさしく政府や軍、官僚や政党関係者などの提灯持ちといえる様相です。
菊池寛は、野間を「人の悪口を書かずに、誉めすぎるぐらい人を誉める」人物であると指摘し、『キング』を「批判的精神を欠いた総与党的な娯楽雑誌」と評しました。
『キング』が権力との対決するということはあり得ない選択としかいえないでしょう。権力側に対して敵を作らず、迎合し、体制を肯定する姿勢こそ、軍隊や学校、官庁などに『キング』を浸透させることを可能にしたものでした。

大衆社会の「小新聞」「教導職」

全面広告で、野間は『キング』を次のように描きました。

老若男女、一家団欒の席上、見て面白く、読んで面白く聞いてまた面白く、其知らず識らず、美風を養い、良俗を教へ、疲れ切った魂に一道の活気を注入し、倦み切った心に一服の霊薬を投与し、この国に生まれ、この国に育ち、限りなく生の喜びを享受せしめようとする道義的観念を含ませてゐる。
明るく、温かく、柔かく、和やかに、だれでも一度手にしたら最後もう何うしても読まずにおれぬ…という心持ちを起こさせる(以下略)

野間は「大衆」を「国民」化するという『キング』の役割を隠しません。
国家至上主義や大陸進出を声高に叫ぶわけではありません。とくに初期の『キング』は娯楽・国民教養雑誌の体裁をとり、政治・社会などの時局を論じない「穏健」な雑誌でした。他方、国家のために命を投げ出した人を礼賛し、義理人情を説き、現実の政治や軍を全肯定し迎合する読み物や記事をこれでもかというほどに提供しました。
読者はこうした読み物や記事は批判的精神を鈍らせました。国家への忠誠を誓い、立身出世も実現する。現実の国家の政策や社会のありかたを肯定し、それに反するものを許さない「空気」を社会全体で醸成しする、初期の『キング』はこのようなイデオロギー性をもっていたのです。

こうした『キング』の姿は、明治初年の「新聞紙印行条例」が「掲載すべきこと」という形で示した「期待される言論像」を思い出させます。
さらにそれに準拠したような「勧善懲悪の趣旨を以て、もっぱら俗人婦女子を教化に導く」ことを目的する「小新聞」(それは明治政府の国家神道=文明開化イデオロギーの定着のため「教導職」として動員された神官・僧侶や戯作者・落語家といった「市井の知識人」と人間的・内容的にオーバーラップする存在だったのですが)とも似た役割をはたします。
一見「無害」で、立身出世などをもとめる人々の「欲望」や「通俗性」に寄り添いつつ、「権力」に迎合した記事や読み物を提供し現状の政治や社会を肯定・支持するという「小新聞」以来の伝統、その中で「教育勅語」に代表される天皇制的な人間観を受容し現状の秩序を第一と考えるイデオロギー性、『キング』をはじめとする講談社文化はこうした系譜の中にありました。

社会の「下士官」層文化としての講談社文化
さきに野間を中間層の第一範疇の典型であると指摘しました。丸山真男はこの階層にファシズムの社会的担い手を見いだしました。そしてこの層こそが「大衆を直接的に掌握し(中略)一切の国家的統制乃至支配からのイデオロギー的教化は一度この層を通過し、彼らによっていわば翻訳された形態において最下部の大衆に伝達」したのだと指摘します。
マスメディアの立場からこの階層の「役割」を果たしたのが、野間=講談社文化でした。野間=講談社は、一方でこの階層に「断片的」な「耳学問」の題材を供給するとともに、他方で直接「大衆をキャッチ」し「国家的統制乃至支配からのイデオロギー的教化」をすすめました。こうして社会全体の「空気」を動かしました。
「大衆の国民化」という国家的課題を野間=講談社が「翻訳した形態において」伝達したのです。そして膨大な収益を得ました。
そして、満州事変勃発以後の準戦時体制・戦時体制下で、講談社文化は床屋とか湯屋とか或は列車の車中で(中略)一席高説を聞かせている人」に高説の材料を大量に注ぎ混みます。それに疑問を持つ人に沈黙を強いることになります。

なお、丸山は「『岩波文化』」があっても、社会における『下士官層』(「中間層の第一範疇」をさす)はやはり講談社文化に属しているということ、そこに問題があります」と、「講談社」の名をあげて野間=講談社の問題性を指摘しています。(丸山のエリート意識も鼻につきますが)

(7)『キング』とラジオとレコード

邨二郎筆「初放送」(『キング』1931年新年号付録)

『キング』とほぼ同時に始まったラジオ放送は注目の的でした。
都内三カ所に置かれた受信機の前には2万人の群衆が集まり、雑誌は特集でそのようすを報道しました。
しかしラジオ受信機は非常に高価であり、さらにはじめは鉱石ラジオを自作し(キットで販売されていた)イヤホンで聞くやり方が主でした。契約料も高く、受信可能エリアも狭かったため、普及には時間がかかり、大衆化という面では遅れが目立ちました。
しかし人々の関心は高く、『キング』には「ラジオ講演」や「ラジオ画報」という記事がのせられ、「代用ラジオ」の役割を果たしました。放送劇や講演、浪曲などラジオ番組と同様または類似の内容がレコードで発売されました。

ラジオの大衆化

ラジオ視聴者の増加

その後、大量生産にとる受信機の価格低下、満州事変にはじまる戦争での圧倒的な速報性などからラジオは急速に普及していきます。受信機もイヤホンからスピーカーへと移行、家庭の真ん中にラジオが据えられるようになります
こうしたラジオの大衆化がラジオ番組の大衆化もすすめました。これによって脚光を浴びたのが、寄席などで提供されてきた大衆芸能でした。ラジオから聞こえる演芸に人々は引きよせられました。とくに人気だったのが浪曲・浪花節です。義理や名誉、勇敢さなどを強調する浪曲は戦時体制づくりと親和的であり、のちには戦争に便乗した時局浪曲なども生まれるようになります。

「読売新聞」とラジオ
ラジオを利用して売り上げを伸ばしたのが「読売新聞」です。当時多くの新聞はラジオ欄を目立たぬ場所に置いたのにたいし、読売新聞は目立つ場所に大きなスペースをあて、評判となりました。かつての「小新聞の雄」読売新聞はマスメディアの時代にうまくのりました。さらに職業野球などのイベントも利用、独走する「朝日」「毎日」を追撃し始めます。

「東京行進曲」

菊池寛「東京行進曲」(朝日百科・日本歴史11-204)

新しいメディアの誕生は、他のメディアへの連鎖反応を引き起こします。
映画界は雑誌などの人気小説などを「映画」化、それがあらたな雑誌の購読者拡大につながりました。映画で評判となった映画主題歌などは「レコード」化されます。また評判の映画のあらすじや見所は『キング』などで写真入りの特集となります。
1929年『キング』連載中の菊池寛の小説が、溝口健二監督によって日活で映画化されました。「東京行進曲」です。西条八十・中山晋平コンビの主題歌はレコード化され、ラジオでも放送され24万枚という空前の大ヒットとなり、歌った佐藤千夜子は流行歌手第一号の称号を与えられました。

キングレコードの発売

キングレコード・初回ポスター

『キング』があらたに進出したのがレコードです。『キング』は第四号で名士の演説をレコード化して付録とします。
そして1931年、「キングレコード」を発売します。「西洋もの」のほかに、浪花節や映画主題歌、野口雨情・中山晋平らによる「新民謡」、童謡・唱歌、踊り、講談、児童劇や名士の演説など多種多様のレコードが発売され「私設ラジオ放送」の様相を呈しました。少年倶楽部で人気の「のらくろ二等兵」も放送劇としてレコード化されました。
野間は「船頭小唄」や「酒は涙かため息か」といったような曲を亡国的哀調・世紀末的として嫌い、ジャズなどの影響を受けた歌も軽薄浮薄のモダニズムと批判していました。キングレコードのポスターにも「流行歌を浄化し、日本を明るくする」と記しています。
しかし、こうしたレコードの『キング』化ともいうべき、「健全なる国民歌謡」の人気はさっぱりでした。第一回のリストを見れば、「君が代」をはじめ「日本」の云々という曲やコンテンツばかりです。これでは誰も買おうとは思わなかったでしょう。
キングレコードが売り上げを伸ばすのは、準戦時体制下で国民の精神を鼓舞する「愛国歌謡」などに注力してからでした。

(8)ラジオが作った「国民統合」

ラジオ放送のポスター

大正天皇の大喪と昭和天皇の即位式

ラジオの持つ特性は「大衆」化した人々を「国民」として統合する大きな力を持っていました。それは「同時性」でした。
1927(昭和2)年2月7日、前年末になくなった大正天皇の葬儀が行われました。その日は、歌舞音曲が中止される中、ラジオが葬儀の様子を放送しました。厳かな音楽が流れる中、哀調を帯びたアナウンサーの声が響きます。そして霊柩車が出発する時刻、ラジオは一斉に鐘の鳴らし、それを合図にラジオを聞いていた人々が一斉に黙祷しました。聴取者は自分も葬儀に参列しているかのように感じ「国民」としての一体感を感じました。とはいえ、実際にはあらかじめ録音されており、準備された手順により放送されただけのことでしたが。
さらに昭和天皇の即位式では、東京出発から帰京まで「御大礼奉祝番組」という一連の特別番組として流しました。この行事のため政府・逓信省は七つの放送局を結ぶ全国的な放送網を準備しました。こうして式の模様は全国放送で伝えられました。

ラジオ番組の録音風景(放送劇)

こうして、聴取者は、「一生に一度か二度あるかないかの天皇の即位を同時性をもって体験」し、全国民とともに行事に参加した疑似体験は「国民としての一体感」をいっそう強めました。


「前畑、がんばれ!」~スポーツの熱狂

その後、ラジオの全国放送はつぎつぎと国民共通の体験をつみかさねます。
1929年に始まるラジオ体操もこうした一環でした。全国の人々がラジオのかけ声に導かれて一斉に体操を行うという共通体験は国民的連帯感を育てる上で大きな意味を持っていたといわれます。
スポーツがナショナリズムによる国民統合の大きな契機となることはよくしられています。
とくにそれが大々的に、かつ高度に発揮されたのが1936年のベルリンオリンピックでした。
日本は国威発揚のチャンスとしてこの大会に臨み、新聞社や通信社は多くの記者を派遣、無線で写真を送る技術なども試みられました。NHKはドイツが準備したシステムを利用し、早朝と深夜にラジオによる実況中継を実施しました。競技の結果は国内で熱狂的に報じられました。深夜、中継されたのが前畑秀子が出場した水泳女子200メートル平泳ぎ決勝でした。

前畑がんばれ

午前0時を過ぎて開始された中継は河西三省アナウンサーの「みなさま、ラジオを切らないでください」のことばで始まりました。試合が始まり、デットヒートとなると、興奮した河西はひたすら「前畑がんばれ!」を絶叫し、その回数23回に及びました。
翌日の読売新聞は「この一瞬の放送こそまさにあらゆる日本人の息を止めるかと思うほどの殺人的放送だった」と記しました。佐藤は当時のラジオ普及率、放送時間などからして、リアルタイムで放送を聞いた人はそれほど多くはなかったと推定しています。にもかかわらず、多くの人はそれをリアルタイムで聞いた気持ちになりました。『キング』のオリンピック大特集は、河西アナウンサーの放送筆記「大和撫子前畑嬢優勝」が掲載、ポリドールはこの実況をレコードで販売、記録映画もこの放送の録音を流します。こうして多くの人は放送をリアルタイムで聞いたつもりになり、国民体験の神話を形成しました。

(つづく)

<マスメディアの発展>
1:大新聞と小新聞、期待されるメディア像
2:朝日新聞の創刊、新聞という「商品」
3:白虹事件と「朝日新聞」の敗北
4:「講談社」からみる大衆の国民化~マスメディアの発展(本稿)
5:「満州事変」とマスメディア
補:吉野作造の朝日新聞退社

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