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大新聞と小新聞、期待されるメディア像~マスメディアの発展(1)~
はじめに:マス=メディアとは
おはようございます。
今回は「マスメディアの発展」という内容で話をさせていただきます。
「メディア」とは「媒体」という意味で、一般的には送り手から受け手に情報を伝えるためのツール(道具)のことをいいます。
ここには、「送り手」、「受け手」、そしてその間を結ぶさまざまなタイプの「媒体」(メディア)という関係性が生まれます。その媒体も身ぶり手ぶりや鳴き声にはじまり、ことば、記号(→絵)や手書きの文字、印刷された文字や絵・図(本や新聞、雑誌)、電信・電話、絵画とそれが連続的に動く映画、電磁波で情報を送り届けるラジオ・テレビ、そして現在ではインターネットという風に変化してきました。現在は、多様なメディアがその物理的特質とあいまって相互に影響をしあいながら、膨大な量の情報をやりとりしています。
では今回のテーマのマスメディアとは何か。マスは「巨大な」とか「大衆」などの意味です。ですからマスメディアは「大衆に向けての膨大な情報を送り届ける媒体」という意味になります。テレビ、新聞、雑誌・書籍、ラジオを宣伝業界では「四大メディア」というそうです。映画・レコード(CD)なども想定できます。
従来型のマス・メディアが基本的に大量の情報を一方向でおくるのに対し、現在のメディア中心となりつつあるインターネットは双方向性であることに特徴があるといわれます。
かつては交流や意思疎通という面を重視して、マス・コミュニケーションといういい方が多かったのですが、現在は媒体の面に注目してマスメディアといういい方が一般的になってきました。
Ⅰ、メディアと権力~「朝日新聞」を題材に
メディアの重要な機能として、ジャーナリズムがあげられます。ジャーナリズムとは、時事的な問題の報道・解説、批評などを伝達する活動の総称であり、そうした機関をいいます。メディアが巨大化すればジャーナリズムが与える影響力も巨大となり、ときには国家権力をも上回りかねない影響力をもつという意味で「第四の権力」といわれるゆえんです。
メディアとしては小さくとも、その内容いかんでは大きな波紋をよぶこともあり、古今東西、国家権力はつねにメディアの動向に神経をとがらせてきました。
前半では、少し時代を遡りながら権力とメディアの関係を戦前の「朝日新聞」を中心に、見ていきたいと思います。(マスメディアの発展(2)、マスメディアの発展(3))
後半では、大正末年から昭和にかけて、マスメディアに大きな影響を与えた「講談社」(正式には「大日本雄弁会講談社」)と講談社が発行した巨大国民雑誌「キング」を中心に、マスメディアが人々にどのような影響を与えていったかを見ていくことにしましょう。(マスメディアの発展(4))
(1)権力による新聞発行と権力の保護下の発刊
近代日本で最も古い新聞は、幕末の1862年の「官板バタビア新聞」といわれます。実は、この新聞、江戸幕府が発刊したものです。
幕府はその全期間を通して情報を統制し、ときには弾圧を行いました。蛮社の獄に見られるように海外情報などにはとくに神経質でした。
ところがこの新聞は世界の事情を伝えようとしています。その理由、わかりますか。ペリーの来航以降、幕府は「開国」せざるを得ない事態となり、その事情を世間に伝える必要に駆られます。そこで幕府は世界の事情を伝えるために蕃書調所に命じてオランダの新聞を翻訳させて発行させました。
いつの時代も新たな政策を行うためには、利害関係者ときには庶民のなんらかの「合意」が必要となります。そのために自らの正当性を宣伝する必要が生じます。
かつて幕府や諸大名は、武士には口頭や書面で、庶民には高札を掲げて、一方的に命令しました。しかし国論を二分し、幕府が劣勢にある開国ではそうはいきません。政策意図を各大名家と政策担当者、知識人などに伝え、支持を得る必要があったのです。この新聞はこうした役割をもっていたのです。
同様のことは、王政復古によって幕府から権力を奪い取った新政府側も同様でした。1868年新政府が発足すると、政府の決定や方針を伝えるための一種の「新聞」を京都でだしました。「太政官日誌」です。すでに高札一枚や一片の書類だけではすまない時代になってきたのです。
他方、新政府軍が江戸=東京に進出すると、新政府は、官板バタビヤ新聞にたずさわっていた柳河春三(やまがわしゅんさん)が発刊していた「中外新聞」や福地桜痴(ふくちおうち)が発刊した「江湖新聞」など、この地で発刊されていた新聞の多くを停止させました。こうした新聞は、発行人の多くが旧幕臣であり、親旧幕府・反政府的な記事が多かったためです。
国家権力と新聞の、相互依存関係とならぶもう一つの対立・統制・弾圧の歴史も始まりました。
(2)「期待されるメディア像」 ~「新聞紙印行条例(1869・明治2)」を題材に
この翌年1869(M2)年、新政府はあらたな命令、新聞紙印行条例を発しました。この命令は統制・弾圧の流れから論じられることが多いのですが、そうとだけはいえないと思います。
その内容を具体的に見ていきましょう。すこし読みやすく加工して記します。
一、各箇の新聞は宜しく各箇の表題あるべし
一、表題を以て開版免許の上は毎号検印を受くるを要せず。只出版即日二部を官に納むべし
一、各号毎に出版の所年月日編集人もしくは出版社の姓名及び各号の号数とを載すべし
一、凡記載する事件に付て吟味すべき事ある時は編集人その弁解を為すべし。もし弁解なき者は罰金を出さしむ
一、一切天変地異物価商法政法(不許妄加批評)軍事(其説錯誤而不改者有責)火災嫁娶生死学芸遊宴衣服飲食諸種官報洋書訳文雑話凡事無害者は皆記載すべき
一、贈答書牘或は各人作る所の文もしくは雑説等其姓名を註す(只だ歌詩の内作者不詳者はこの例にあらず)
一、新聞紙中人罪を誣告する事厳禁なり
一、妄りに教法を説くことを許さず
新聞の名称、発行人の明記など、一度許可すればそれからは官に二部提出するだけでよいなどの命令がならび、5番目以降に「記載すべきこと」と「記載してはならないこと」が例示されます。この部分を整理すると以下のようになります。
記載すべきこと
①「天変地異」 ②「物価」 ③商売のやり方「商法」
④「政法」(法令)※ただしみだりに批評してはいけない
⑤「軍事」(「まちがったこと」を記し改めないときは責任を問う)
⑥「火災」 ⑦「嫁娶」(結婚報道) ⑧「学芸」 ⑨「遊宴」 ⑩「飲食」 ⑪「官報」
⑫外国の書物の翻訳→のちには制約を強める
⑬「雑話」 とくに害のないもの
記載してはならないこと
①新聞に、故意に事実を偽って人を告発する内容(「人罪を誣告する事」)
②「教法」(キリスト教など)
「記載すべきこと」とされた内容は、かつての高札の代わりともいうべき「政法」「官報」といった政府の命令、つづいて「遊宴」「飲食」「嫁娶」なんてのもあります。「アミューズメント」「グルメ」「恋愛」さらに「お役立ち情報」。まるでワイドショーですね。
しかし「飲食」を考えましょう。政府がすすめるグルメは何でしょうか。ご飯と味噌汁、焼き魚に漬物という記事ではなさそうですね。政府が期待する飲食とは、たとえば肉食やパン食など「文明開化」にともなう料理でしょう。ここで「記載すべきこと」は法令にとどまらず、政府が推進する「文明開化」に即した生活や生き方を広げる「社会教育」の役割を期待していたのでしょう。
他方、「中外新聞」や「江湖新聞」のような反政府的な新聞をおさえる配慮もあります。「政法(不許妄加批評)」という部分です。政府の命令を報道するばあいもおかしなコメントを加えてはいけない、軍事では「間違った」情報を書けば責任を問う、と記されます。「江湖新聞」などを意識した命令といっていいでしょう。さらに故意に事実を偽って人を告発する内容は記載してはいけないと記します。しかし疑問が生まれます。真実に基づいて政治家や官僚を告発すればどうなるでしょうか。こうした当然の権利を当時の政府は認めませんでした。6年後にだされた命令・讒謗律ざんぼうりつでは、事実でも政府関係者を告発する記事を書けば厳罰に処するという命令になります。つまり本当のことを書くことは「記載してはいけない」範疇になりました。
政府が出したもっとも古い新聞の規則のなかに政府とメディアの関係が見えます。
言論統制としてとらえられがちのこの規則ですがこのように新聞刊行を促す目的がありました。
「新聞雑誌」という新聞があります。この新聞の裏の発行人は政府の中心人物木戸孝允(きどたかよし)です。日本初の日刊紙・横浜毎日新聞は神奈川県令のすすめで発刊されました。
かつて「江湖新聞」で新政府を批判した福地桜痴が発刊した東京日日新聞には太政官御用と麗々しく印刷され、太政官日誌のように政府の政令などを伝達する役目をもっていました。
この法令以後、新聞の多くは新政府の期待をせおい、その保護・援助のもとに発刊されました。政府は東京日日新聞など四紙をまとめて大量に購入し、各都府県に四部ずつ配布、各府県はそれを読む施設を設置しました。
(3)「大新聞」と「小新聞」
その後、征韓論などをきっかけで政府が分裂、士族反乱や自由民権の動きが活発化すると、各紙には関係者が記者として新聞社に入社したり、創刊します。政府系の新聞にもいろいろな投書が舞い込み議論が活発化します。人気の投書家は新聞社へ入社、新聞は政論をたたかわせる場となっていきます。
こうして新聞は、発行人や記者が自らの政治的主張(「政論」)を掲げる場となります。こうしたタイプの新聞を「大新聞(おおしんぶん)」といいます。漢文調で、絵は少なく、社会欄も不十分でした。判型は大きく、値段も高かったため、一定の教養とお金を持つ人が対象でした。
こうした動きに政府は神経質となり弾圧を加えます。1875年には、讒謗律や新聞紙条例など言論統制のための弾圧法もつくられます。これによって新聞の発行は次々と禁止され関係者も逮捕されます。明治10年代は民権運動によって生まれた政党新聞・政党系新聞と、政府寄りの言論を発信する御用新聞との間で「政論」で火花を散らしました。
これにたいし、日常生活の情報や花街の評判、面白い読み物を提供したものが「小新聞(こしんぶん)」です。判型も小さく、すべてふりがなつき、口話体で、挿画も満載、絵がメインのものもありました。政治内容はあまり扱いません。記者は戯作者・狂言作家・俳人・歌人・狂歌師といった江戸時代の戯作の流れを引きいたものです。政治的な記事は少なかったと言われます。
しかし、よく考えると見ると「小新聞」の内容は先の「記載すべきこと」と重なっていることがわかりますね。書き手には教導職という役職を持つ人もいました。
教導職はもともと神々や天皇・天皇を敬う意識を育て神道国教化をすすめるために設けられた半官半民の役職でしたが、神道は宗教ではないという方向がすすむにつれて、この職には神官以外に僧侶なども任命され、さらにはしゃべりがうまい人、落語家や俳人。歌人など文学趣味や啓蒙へ関心をもつ市井の知識人たちも選ばれます。かれらは家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵なども説くようになります。つまり天皇の新政府の統治する日本、文明開化をすすめる日本に適した人間になるように庶民に近い場所から国民を教化していきます。実は「小新聞」の中にもこうした側面があったと考えられます。
<マスメディアの発展>
1:大新聞と小新聞、期待されるメディア像(本稿)
2:朝日新聞の創刊、新聞という「商品」
3:白虹事件と「朝日新聞」の敗北
4:「講談社」からみる大衆の国民化~マスメディアの発展
5:「満州事変」とマスメディア
補:吉野作造の朝日新聞社退社